第一章 濁った瓶の底(5)本当になにもない

 こうして、ルーはカディン惑星世界での生活において必須となる星芒具をキングの部屋に置いたまま、夜闇の中を彷徨うことになったのだ。


 実家に帰れないこともすでに判明している。いくらドアを蹴り上げても中へ入れてはくれなかった。母親は間違いなく居留守を使っている。ルーは母親に捨てられたのだと思った。


 本当は、あんな家、あたしが捨てた気になっていたのに。


 スラムの路地裏で、雨をしのげる軒の下で、ルーは座り込んでいた。寒い。両膝を抱きしめる。



 長い夜が明け、雨が止み、朝がやって来た。ルーは立ち上がる。人目につく前に、どこかに行かなければ。そう思った。しかし、どこに行くべきなのかはわからない。


 いまのルーはずぶ濡れで、一文なしで、家の鍵もなく、個人を証明するものさえもない。なにもかも失ったのだ。


 魂が抜けたように、ルーはふらふらと歩く。悪臭を放つ生ゴミを避けながら路地裏を出ると、そこでは見知らぬ男たちふたりが会話をしていた。まだ朝食前の時間だから、夜通し遊んできたような連中だろうか。


 ルーは身の危険を感じながらも、彼らを無視してこの場をやり過ごそうとした。


 男たちふたりのうち、片方がルーの姿を見つけて言及する。


「おい、こんな時間に女がひとりだぜ」


 ルーは一瞬、肩をびくりと震わせた。しかし、気取けどられてはいけない。無視。無視が一番だ。そうすることくらいしか、身の危険を防ぐ手立てはないのだから。


「女ぁ?」


「ほれ、そこを通るじゃねえか」


「ああ? ……なんだ、ただのガキじゃねえか」


「……そうだな。そうみてえだ。おい、嬢ちゃん。お嬢ちゃんよォ! ……聞いてんのか、このジャリガキ!」


 ルーはなおも無視した。野蛮な男たちに関わって碌なことなどなにもない。


 スタスタと歩きながら、ルーは背後に追ってくる気配がないことを悟って、ほっと胸を撫で下ろす思いだった。しかし、と呼ばれたのはどういうことだろう。いつもなら、美女だの色っぽいだのと言われたはずなのに……。



 すぐに、ルーは廃公園に突き当たった。そこには花壇やベンチがあったようだが、壊し尽くされていた。もう長い間、手入れなどされていないように見える。


 ルーは空腹を覚えた。けれど、いまの彼女には星芒具がない。星芒具がないことは信用クレジットがないことと同じだから、いまの彼女には食べるものなど何も買えない。


 水たまりの水を飲み、雑草でも食べれば、少しは腹が膨れるだろうか、などと益体もないことをルーは考えた。本当にそうするつもりはなかった。だが、他にできることもないので、彼女は水たまりを覗き込んだ。


 そこに映った自分の顔を見て初めて、彼女は気づいた。化粧がすべて雨によって流されてしまっている。


 ルーは両手で自分の顔を触る。紛れもない素肌。いついかなるときも、キングのそばで眠るときでさえも、決して落とさなかった化粧が剥がれてしまっている。


 ルーは自分の顔が童顔なのを知っていた。そして、それがコンプレックスだった。


 ルーは、男をとりこにするような最高に色っぽい女でありたかった。そうであることで、キングをはじめとした男たちを籠絡してこられたのだから。だが、実際には年齢よりもずっと幼く見える顔立ちだ。


 溢れる涙を両手で押さえながら、ルーは廃公園のなかでひとり、座り込んだ。


「あたし……、もう、本当になにもないんだ……」


+++++++++++


 何時間経ったのか、ルーにはわからなかった。少なくとも、世間的には朝食の時間はとうに過ぎたはずだ。


 相変わらずの空腹。しかし、どうすることもできない。

 

 ルーはキングの部屋に置いてきてしまった星芒具のことを思った。あれがあれば、何か食べるものを買えたはずなのに……。いや、やっぱりダメだろう。この惑星世界カディンにおいて、星芒具を使用して決済するということは、カディン軍、そしてヴェーラ軍に居場所を知られるということだ。


 ルーは頭を横に振って、「星芒具さえあれば」という思いを消そうとする。


 あたしはヴェーラ軍の軍人であるキングにケガを負わせて逃走したんだ。ヴェーラ軍に身元が割れれば、軍の人間が追いかけてくるだろう。


 あたしはカディンのすべてを敵に回してしまったんだ。……そんなつもりなんてなかったのに。


 ルーはまた、悲しくなった。社会的に少しでも上に登りたいという思いで努力を重ねてきたのに、気がつけばこのありさまだ。犯罪者として軍に捕まれば再挑戦のチャンスはない。そして、実家は助けてもくれない。


 人生おしまいだ。


 廃公園の枯れた花壇の壁にもたれ掛かり、ルーは上を見上げた。といっても、見えるものはほとんど上の階層のプレートばかりで、その隙間からかすかに空が見えるだけだ。


 ルーは思う。


 これで人生が終わりだとすれば、最後にあたしがやったことって何だったんだろう。? いや、かっとなったかどうかさえ記憶にない。でも、いま思えば胸がすく思いだ。気持ち悪い男を、あそこまで強打してやったのだから……。


 いや、ちょっと待って……。


 ルーは昨晩の惨状を思い出す。記憶を掘り返すことは、不快感と恐怖を伴う作業でもあったけれど、なにか重要な見落としがあるような気がしたのだ。


 もしかすると……。


 ルーは気がついた。酒瓶で頭を殴打したあと、キングは目を覚ました。だが、起き上がろうとして苦労していた。もしかすると、あのあと気を失ったかもしれない。そうでなくても、身動きが取れなくて、まだ通報されていないかもしれない。


 そうすると、あたしはまだ自由だ。善良な一般市民だ。


 ルーは考えを進めていく。もし、自分がまだ一般市民であるのなら、暴行を受けた被害者として当局に通報することができる。もし、キングよりも先に通報することができたなら――。


 彼女はいきおい立ち上がった。貧血で足下が一瞬くらりとしたが、なんとか踏みとどまった。しかし、膝は震えている。


 そうだ。これは賭けだ。先手をとるんだ。ヴェーラ軍直轄の公安施設へ先に駆け込んで、キングよりも先に被害を陳情するんだ。そうすれば、もしかするとキングを牢獄に閉じ込めることができるかもしれない――!

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