第一章 濁った瓶の底(3)新参の浮浪者として
実家のアパートに匿われることを諦めたルーは、貧民街の路地裏をふらふらと歩く。
ときどき、床に転がっている浮浪者に出くわしてぎょっとしたが、こんな深夜なので、みんな眠っていた。それでルーは安心したが、中にはもう死んでいる者もあるかもしれないと思い、背筋が凍る気持ちがする。
しばらくして、浮浪者を怖がっている自分自身に気がついて、笑いがこみ上げてきた。いったい何を怖がっているのだろう。ここでは自分もまた浮浪者だ。しかも浮浪者の中では新参者で、このあたりの浮浪者から見てさえ、一番怪しい存在だというのに。
キングの家から逃げ出したころからずっと、この区画には雨が降っている。もう服は池に飛び込んだくらいに濡れきっていて、乾かそうなんて思いつきもしなくなっていた。
ただ、どこかで落ち着きたい。横になって眠りたい。それだけが、今のルーに考えられるすべてだった。
「『軍隊』に見つからないようにしないと……」
ルーはときどきそう呟いた。キングは不良の頭目だが、惑星ヴェーラの
できるだけ、人に見つからないところに隠れないと……。
商店の裏、箱と廃棄予定のゴミが積み上げられた場所に、人間ひとり分の隙間を見つけて、ルーはそこに座り込んだ。ここには奇跡的に
身体と心の疲れのせいで、ルーは激しい眠気に襲われた。うつらうつらとしては、路地裏を通る浮浪者などの物音で目を覚ます。浮浪者や不良の男たちが目の前を通るとき、彼女は見つからないように祈り続けた。
こんな深夜に、若い女が無防備にこんな路地裏で眠っているなんてありえない話だった。惑星世界カディンは経済状態がいいとはいえないし、ましてやこのあたりは貧民街だ。治安は最悪を通り越している。
そういったわけで、せっかく座れる場所を見つけたものの、ルーは不安でよく眠ることができなかった。それでも、長時間の疲労は、彼女に幻覚を見せるには充分だった。
ルーの目の前を、白い服を着た幼い少女が歩いて行った。裸足だというのに、羽のように軽やかな足取りで。肩までの栗色のくせ毛が、歩みに合わせて上下に揺れた。
ルーは少女を見て、びくっと震え、背にしてもたれ掛かっている壁に後頭部をぶつけた。頭を押さえながらもう一度前を見ると、白い服の少女は姿を消していた。
立ち上がって箱の隙間から周りを見回したけれども、それらしい少女は見当たらない。
あれは幻覚だ。ルーには次第にわかってきた。ルーでさえこんな場所にいるのは危険なのだ。年端もいかない少女が無警戒でここにいるはずはない。
リーザ。
座り直しながら、ルーはその名を心の中に思い起こした。そうだ、あの姿はリーザだ。ルーの一歳年下の妹のリーザだ。いまも無事に生きていれば、いまごろは十八歳の乙女になっているはずの――。
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ルーの意識は夢の中に落ちていった。彼女は、十年以上前の、幼い日の夢を見ていた。まだ妹のリーザが家にいて、軍人だった父が生きていたころの夢を。
温かな家庭だった。リーザは姉のルーによく懐いていた。どこへ行くにも、姉の後ろをついて来た。
父も母も、よく笑う人たちだった。思い出せるのは笑顔。それだけだ。毎日毎日、このカディンでそんなに面白いことがあったなど、ルーには思えなかった。それでも、記憶の中の父母は笑顔だった。
その次に夢がルーに見せたのは、軍服を着て棺に入ったまま眠っている父の姿だった。カディン人でありながら、カディンを支配するヴェーラの軍人だった父は、軍務中に殉職したのだ。
母が棺にすがりついて泣いている。リーザは棺に入れるための花を手に持っていたが、まだ背が低い彼女は、棺の中の父の顔を見ることさえ自分ひとりでできなかった。
父が死んでしばらくすると、カディン政府の役人たちが家にやって来た。彼らは母が莫大な遺族年金を受給できることを伝えに来たのだった。だが、話はそれに留まらなかった。
驚くべきことに、彼ら政府の役人たちは、リーザを政府の預かりにしたいと言ってきたのだった。政府で預かり、そのうえで、彼らの支配者たるヴェーラ軍との共有財産としたい、と――。
ルーにはそれだけでも十分驚くに足りたが、もっと信じられないのは、母がそれを黙って受け入れたことだった。母の目は光を失っていた。母は黙って金を受け取った。
お母さん、どうして! と、ルーは叫んだ。しかし、母は彼女と目を合わせようともしなかった。ただただ床を見つめたまま、呟くのみだった。
「仕方ないの。すべては運命だから――」
お姉ちゃん! お姉ちゃん! と、リーザが泣き叫ぶ声。ルーは走って追いかけて、役人たちに飛びついたが、大人の腕力には勝てず、殴られ、痛みで地面を転がっている間に、リーザの姿はなくなった。
栗色の癖毛をした、深い緑色の瞳の、白い服の少女。リーザはカディン政府によって買われていったのだ。彼女の姿を見たのは、そのときが最後だった。
以来母は、儲かりもしない生花店をひとりで切り盛りしている。商売の才覚もないものだから、毎月赤字を垂れ流して。父の遺族年金と、妹のリーザを売った金を切り崩して暮らしている。
「違うだろババア! 運命こそ、乗り越えるものだろ! 抗うものだろ!」
十九歳になったルーは、テーブルを拳で叩きながら、母に向かって怒鳴る。一見、母はこちらを見ているようだったが、その目はルーを通り越してどこか遠くを見ているかのようだ。
ルーが怒鳴っているにも拘わらず、母は身じろぎひとつせずに、自宅の部屋に立っていた。
「だってあたしは、このカディンでうまくやってる。このカディンでできる最大限のことをしてる! いつかここだって出ていく! ヴェーラに行って、貴族みたいな暮らしをするんだから!」
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はっと、ルーは目を覚ました。また、近くで物音がしたのだ。
彼女は、いま自分がいる場所を確認する。雨の降る貧民街の路地裏だ。温かな家庭の中にいたあの頃は、夢まぼろしに過ぎない。
彼女はそのことを少し残念に思った。あの時代はもう取り戻せない。そして、未来は自分で切り開くしかない。だというのに、いまの状況はどん底のさらにどん底だ。
それにしても、とルーはまた思う。妹のリーザのことを思い出すのは本当に久しぶりだ。それも、こんな最低の状況で思い出すなんて。
……いままで、気づきもしなかった。あたしは、そこまで、リーザのことが大事だったんだろうか。
結局、その夜じゅう、ルーはあまり眠れなかった。眠りに落ちようとしては、物音で目を覚ましてしまうし、誰かが近づいてくるたびに、見つからないことを祈っていたからだ。
無理もないことだ。貧民街の路地裏は、想像していたよりもはるかに騒がしかったからだ。ギャングの男たちが騒ぐ声や、浮浪者と思われる男の悲鳴、さらには女の悲鳴も聞こえてきたのだ。
ほんとうに、ここは三流以下だ。いつかここから出たい。早くここから出たい、とルーは思った。
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