天穹の片割れ◆ルー編【奴隷転落、先進惑星女子の再出発】
鷹来しぎ
第一部 異郷にありて
第一章 濁った瓶の底
第一章 濁った瓶の底(1)三流の世界、政府、市民
「恋って、したことある?」
草原の小高い丘の上、世間知らずのお姫様は、輝くばかりの笑顔を向けていた。なんという無垢さだろう。
きらきらとした、星の光を映す瞳が、こちらを捉える。
「ねえ、ルー」
「ねえ、ルー」
何度もそうして、お姫様は彼女の名前を呼ぶのだ。
「わたしにも、名前をくださらない?」
名前――?
「親しみを込めて、ね」
名前、名前、名前――。
あんたの、名前は――。
お姫様が手を伸ばす。ルーは無意識に、それを取ろうと手を伸ばし――。
すべてが炎の中に包まれて、消えた。まるで幻想のように思えたその庭園は、戦火の中に消えていった。
たしかに、幸福はそこにあったのに。
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不規則に、ブーツのかかとが階段を踏み鳴らしていく。
カンカンカン、カンカンカンカン、カンカン――。
ずぶ濡れの服を着たひとりの女が、薄暗い階段を転げ落ちるように駆け下りていく。倒れそうになっては手摺りにしがみつき、しかし留まらず、何かから逃げるようにひた走る。
「どうしてこんなことに――」
焦燥に駆られた彼女の名はルー。ルー・シウェーナ・メセオナ。メセオナ家の長女で、事実上のひとり娘で、いまは付き合っている男の家から自分の親の家へと帰ろうとしている。
ルーの髪は濃い栗色で、肩に掛かる程度の長さで内側に巻いている。そのツヤ髪は自慢だったが、いまでは完全な濡れ鼠だ。
「どうしてこんなことに――」
実家のアパートへと続く階段は地下の階層へと潜っていく。外側の壁は柵が張ってあるだけで外気に剥き出しで、強烈な風雨が吹き込んでいる。
下層に住む貧民の居住区などこんなものだ。国は――政府はそこまで顧みている余裕はない。三流以下の市民など、政府の眼中にはない。
どうせ政府だって、所詮、三流の政府に過ぎないんだから――。
ルーは息を切らしながら、実家のアパートのドアの前に立った。階段は薄明かりを放つ照明に仄かに照らされているだけ。外壁の外から聞こえてくる土砂降りの雨の、ごうごうという音以外、何も聞こえない。
彼女の緑色の目だけが、薄闇の中で光をたたえている。
母親とはもうしばらく会っていない。もう家は出て独りで住んでいたし、なんなら彼氏の家に泊まることのほうが多かったからだ。
意を決して、ルーはドアノブに手をかける。しかし、回らない。鍵が掛かっている。
「クッソ、やっぱりダメか」
ルーは親の家の鍵を持っていない。いや、正確には、逃げるときに男の寝室に置いて来たのだ。鍵も財布も置き去りにした『
あんなことになってしまったのだから仕方ないじゃないか、とルーは思う。
星芒具は、生活上のありとあらゆる機能を支える技術『
ルーのような惑星カディンの人間は、左手に籠手型の星芒具を装着するのが普通だ。星芒具に接着された『
いまのルーは星芒具を失ってしまっている。それは、この惑星カディンでは何もできないことを意味する。
ルーはドアを蹴る。底の厚いブーツで蹴り上げたから、相当に大きな、低い音がした。そして叫ぶ。
「おい、ババア! あたしだよ! 早く開けろ!」
だが、返事はない。待ってみても、響くのは雨の音ばかり。
「開けろっつってんだろ!」
もう一度叫んだが、やはり返事はない。
母親は留守なのだろうか。ルーは訝しんだ。いや、いまは真夜中だ。あの母親が、こんな時間にどこかへ出掛けるなんて考えられない。
十中八九、居留守だろう。何かを察して、いないフリをしているのだ。「あの女はそういうヤツだ」とルーは呟いて、苦笑した。
ここまで逃げてきて、行き止まりだ。まさか自分の実家の前で立ち往生とは。可笑しいやら、情けないやらで、脱力して、ルーは座り込んだ。
服はずぶ濡れだ。すぐにでも乾かしたい。でも、いまはそれよりも、少しでも休憩を取りたいと思った。
耳の奥に、母親が昔、繰り返し言っていた言葉が再生される。
『すべては運命だから。仕方ないのよ』
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