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パラドクシア・ドミナティオへの応援コメント
ドミノが倒れるには、「神がその権能を、地球や自然法則といったものに移譲することを前提とする。」
ルネサンス後期以前の時代、神は完全なる創造主であったために、ドミノたちを跳び上がらせたりドンチャン騒ぎをさせる事ができた。人間が両足を信仰の中に浸けているあいだ、ドミノたちが倒れることはなかったのだ。
人間が片足を近代化学に浸けはじめた頃から、人間(その象徴として王族の存在?)はドミノを倒すという安寧を求めはじめたのかも知れない。
そして完全にドミノが倒れたとき、人間は近代化学にどっぷりと浸かり、「神」は死んだ。
それはある意味、神が世界を文明と人間にとって都合のいい新たなものに創造し換えたとも言えるのではないか。ドミノが死骸と化し王族が安堵した世界のように、ドミノが倒れると言う法則と対称性(正しさ)は今、我々の死骸の上に立ち聳える。
私なりに解釈してみました(笑)
道化師の最後のセリフの解釈など、間違っているかも知れず、失礼がありましたら申し訳ございません(。>ㅅ<。)。
「引力の中心は神ではなく地球にあり、その力は万物に平等に作用しなくてはならない。また、その法則が過去現在未来等しく通用するという対称性を持たねばならない。これは、神がその権能を、地球や自然法則といったものに移譲することを前提とする。ドミノを作るということは、ドミノが我々の知る仕方で倒れるように、正しく世界を作り直すということに他ならない。」この部分、ものすごく納得で面白いと思いました!
作者からの返信
あら! キツネの仕掛けたパラドクスをいとも容易く解いていただきました!
パラドクス文学というのは、真っ直ぐ語れば他愛のないことを敢えて屈折して表現することで、他愛のない当たり前の事実に光を当ててみるような文学です。ルネサンスからマニエリスム、ゴシックと流れていく近代西欧文学の歴史に現れ、20世紀にはチェスタトンという天才作家もおりました。古代の論理的なパラドクス(アキレスと亀や嘘つきのクレタ人など)と違って修辞的な技巧に基づいているので、七瀬さんがやってくださったように修辞を解きほぐせば理解可能な内容に落ち着きます。
最後の「我々は死んでいる」の解釈については、例えば哲学や社会学の分野では、社会における宗教的権威が失われるにつれて近代合理主義が進展し、社会がシステム化するとともに人間の疎外・物象化が始まったとされています。人間が労働価値や消費関係の尺度で測られる〈物〉になってしまったということです。これは、従来の人間観の終焉を意味していました。その昏い予感に基づいて、道化師は我々の死を告げたのかもしれません。
ちなみに、ドミナティオ Dominatio とはラテン語で「支配」のことです。神による支配から自然法則による支配に置き換わることでドミノは「正しく」倒れることになりますが、この近代合理主義的な正しさは七瀬さんが解説してくださった通り、我々の死骸の上に立ち聳えているのですね。
それでも、全ては神様仏様の掌の上かもしれませんし、我々人間が自らの死骸を弔って、新たに生き直すことも可能だと思っています。
丁寧に読んでいただき誠にありがとうございました。キツネ、大歓喜です!
パラドクシア・ドミナティオへの応援コメント
素晴らしい「書評」でした! 日常の縁に在るアルレッキーノ(トリックスター)が日常をひっくり返す役割を担っているところとか、読んでみたくなりますね、『正しいドミノの倒し方』。隠喩と諧謔に富んでいそうな!
作者からの返信
わーい、ありがとうございます! トマス・カーライル『衣裳哲学』やレム『完全な真空』が大好きなので、変な本を空想して書いてみました。楽しんでいただけたなら幸いです。隠喩と諧謔、楽しいですよね〜。もちろん山口昌男『道化の民俗学』や高橋康也『道化の文学』は心の友です。笑
パラドクシア・ドミナティオへの応援コメント
うーん、わかったような、わからないような、オカンにはチイと難しかったです。
だいなしキツネさんはお名前と違って、とても、だいぶ賢い方というのんがわかりました。
スミマセン。
作者からの返信
キツネのお話の中でも一番難解な作品をお読みいただき誠にありがとうございます。笑
支配って何だろう、くらいの話です。