スポーツと将棋
スポーツマンシップと将棋
これまでスポーツ倫理学やeスポーツについて触れてきたが、将棋は果たしてスポーツとどのような関係にあるだろうか。ボードゲームは「頭脳スポーツ」と考えられることもある。もし将棋もスポーツの一種と言えるならば、将棋倫理学もスポーツ倫理学の枠内で語ることができるかもしれない。
ここからは川谷の『スポーツ倫理学講義』の取り上げるテーマを参照しながら、スポーツ倫理学の考え方がどこまで将棋に適用可能かを検討していく。そして将棋がスポーツの枠を超えて新たな倫理学の在り方を必要とするものかどうかについて結論を出すことを目標とする。
スポーツにおいてしばしば問題になるのが、スポーツマンシップである。『スポーツ倫理学講義』第1講義では、まず1992年の甲子園大会における、松井秀喜の五連続敬遠の例が挙げられている。(p.14)これまでもこの出来事は散々議論されてきたが、少なくともこのケースにおいてルールは何一つ破られていない。
もし、敬遠がピンチの場面に限って一回や二回ならば、それほど人々の感情をざわつかせなかっただろう。松井の五連続敬遠は、二つの理由から大きな話題になったと考えられる。一つ目は「あまりにも勝利にこだわった」という点。二つ目は「高校生にふさわしくないやり方に思える」という点。
重要なのは勝負である以上強打者を敬遠するのは普通の作戦であり、あくまでこの作戦は嫌がらせなどではないということだ。そして二つの理由はどちらも「勝利にこだわりすぎるのは良くない」「高校生には高校生らしさという価値がある」という外側の人たちの倫理的判断があるということである。
特に高校野球は勝利を目指すスポーツ競技であり、さらに人々が楽しむ娯楽でありながら、高校生の教育の場であるという「三重の枠の中にある」競技である。勝利を追求することが完全に是となるためには、三つの枠の中で同時にそれが認められる必要がある。
また、例えばプロ野球ならば、勝利を追求することはファンを増やしたり、ファンを喜ばせてグッズを購入させたりといった「自分の利益にもつながる行為」である。 高校生と競技はこの関係にない。そのため「純粋に競技において勝利を追求する」のと、「高校生らしくスポーツから何かを学ぶ」という二つが同時に求められることになる。例えば甲子園大会の優勝賞金が一億円とかならば、(その大会の善悪は別に議論されるにしろ)勝利のために五連続敬遠することはもう少し許容されたかもしれない。しかし実際には勝利のみが目標であるからこそ、強打者を敬遠し続けるという行為は人々が甲子園大会に求める「青春時代のスポーツに打ち込むさわやかさ」とは相いれないのである。
川谷はスポーツマンシップとは第一に勝利の追及としてとらえるべきとしており、通常の人々が考えるスポーツマンシップは外在的であり、本来のスポーツマンシップとは別の道徳的価値であるとしている。競技者が後者の価値を求めるとき、それは「寄生的な参加」であるのだという。(pp.25-33)
もちろんプロプレイヤーの場合、この別の価値が「金銭」になることはあるだろう。徹底的に勝利を追求した結果試合がつまらなくなり、ファンが離れてしまってはプレイヤーが困るのである。しかしプロという観点を離れて、単に競技者として考えた場合はやはり勝利の追及こそが第一の目的と考えることができる。
では、将棋においては求められる「将棋マンシップ」とはどのようなものだろうか。基本的には将棋は勝利を目指す競技であり、本質的なところではスポーツと異ならない。前述したように求められるマナーはあるが、これは「人間関係として」求められるものと言えるだろう。しかし、マナーを破って勝利する確率が上がるならば、できるだけマナー違反をしたいと考える人もいるだろう。
私の経験上マナーについては、一般大会よりも子供大会で言及されていると感じる。もちろん大人に対して「それでは元気にあいさつしましょう」などとは普通言わないと考えられるが、大人だって挨拶はした方がいい。だが、子供大会では大きな声が出せるまであいさつの練習をすることすらある。やはり「子供らしさ」や「教育の場」ということが意識されていると考えられる。
将棋は個人競技であり、「松井を敬遠する」ようなことはそもそも起こり得ない。ただ、団体戦でエースが七将で出て、他の六人が負け続けながら本人が全勝する姿を見たときは「いかがなものか」と思ったことはある。それでチームが勝てるわけではないため、「団体戦で個人の勝利を優先する」のは違うと思ったのだが、勝てない六人と出るのならば最初から「勝ちに行く形がない」のだから非難されるいわれはないのかもしれない。やはり私はそこで、勝利ではなく理想の姿として「外在の価値観で」判断しようとしていたことになる。
将棋ではどのような戦型を選ぶのも本人の自由だし、相手によって作戦を変えるのも普通である。また、相手のケガなどの弱点を突くということはほぼ起こらないだろう。考えられるとすれば、体調の悪い相手にわざと長引く戦いを持ちかける、などだろうか。実はこのようなケースは、漫画『三月のライオン』(六巻)において描かれている。
山崎は対二海堂戦において、千日手の末に相手の体調悪化もあり勝利する。彼は相手が病弱であることを知っており、体力勝負に持ち込むことが勝利につながると思ったのだ。結果、二海堂は入院することになる。二海堂自身は、弱者として扱われたくないと思っている。しかし「外在の価値観」からすれば、病弱だとわかったうえで入院するまで追い込むような勝負をすることは、「悪い」ことになるかもしれない。
また、これは内在的にも確立された価値観だが、将棋には「形を作る」という文化がある。負けを悟った時、最後まで自玉の詰みに抗うのではなく、攻めあったような形にしておくのである。時間切れや相手が意識を失うといったわずかな可能性に賭け、少しでも長く指す方が「勝つかもしれない」ので、勝利にこだわっていると言えるかもしれない。
「相手に合わせて指し手を待つかどうか」という問題もある。終盤になると持ち時間が切れ、秒読みになることがある。とはいえトイレにどうしても行きたい時がある。自分の持ち時間だけなら1分ほどしかないが、配慮して相手がすぐに指さなければ、もう少し時間は増える。逆に言えば、時間切れ勝ちを狙うならば相手はすぐ指すべきである。
中にはすぐに指す人もいるが、プロ棋士の場合できるだけ待つ人が多いように感じる。「勝利第一」の考え方からすれば、これは最善とは言えない。ちなみに私の経験で言うと、学生大会において、相手がトイレに立つと時間を止める人がいた。決してルール化されているわけではないが、「相手の生理現象に乗じて勝つのは潔くない」という価値観は確かに存在する。
マナーの問題とも併せて考えると、将棋においては「勝利至上主義」は徹底されていないように考えられる。しかし指し手において、勝負が決まったような局面でなければ「潔くない戦法がある」などとは考えられないだろう。「五連続敬遠のような指し手」は、なかなか考えにくい。ただし、千日手についてはいくつかの価値観がぶつかる場合がある。元々千日手はあまりいいものとはとらえられておらず、何回かのルール変更を経て現在に至っている。対局時間を延ばすことなどを目的として千日手に誘導するとすれば、「指し方自体が価値観を問われる」ことになる。
将棋には文化や伝統といった概念と切り離せない部分があり、そのめたeスポーツなどとは求められる「在り方」も異なってくるだろう。少なくともプロ棋士は文化や伝統の継承者という側面もあり、勝利とは別のものも外側に見せていく必要がある。他のボードゲームなどとの比較まではここでは立ち入らないが、やはりスポーツ一般、ゲーム一般とは異なる「将棋マンシップ」というものがあるていどは存在するように思われる。
ただし前述したように、何がそこに当てはまると考えるか、それは人によって異なる。とくに外部から求められる理想の在り方は、考える人の元々の価値観に影響されて様々なものになるだろう。どのようなものがふさわしいかを考えるには、まずは「様々なものである」という理解が必要である。
参照文献
羽海野チカ(2008-)『三月のライオン』白泉社
川谷茂樹(2005)『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版
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