3. Burnout

「新田、ここへ」

「新田秀明。本日付で基礎研究チームに配属になりました」

 それだけ言って頭をさげる。チームのメンバーは各人のパーティション付きデスクの前で、作業から少し顔を上げて簡単な会釈を返した。彼を案内してきたリーダーの原賢治は、それぞれを見ながら新田へ紹介する。

「出水倫治はプログラミングと解析担当。瀬戸内夕香はwet workがメインで、相川譲が彼女の下で修行中だ」

 痩躯を丸めてめがねをディスプレイにぶつけそうな姿勢でキーボードに向かう出水、長身のショートカットでTシャツにジーンズ姿の瀬戸内、大きな目と浅黒い肌に白い歯をした快活そうな相川。ここには、この三人しかいない。

「これだけの人数であのプロジェクトを?」

「HICALIの件は社内でも極秘だ。なるべく関わる人数は少ないほうがいい」

 こんなチームがあるのは、CeRMS入所五年目の新田も今回はじめて知った。対外的なパンフレットやWebサイトにはそもそもチーム名の記載がなく、新田が入所の時点で渡された資料の組織図にも「基礎研究チーム」として簡易な説明がされているだけだった。曖昧なチーム名なので、おおかた他部署で不発の基礎分野の土台的な研究の残務処理でもしているのだろう、と憶測をよび、それがかえって本質を隠していたのだ。そしてその設置から関わり、現在の統括と進行、機密保護を一手に引き受けているのがこの原だった。

「なぜ僕を加えることになったんです」

「新田にしかできない仕事がある」

 原が手元のタブレットに論文とデータを呼び出す。ワイシャツにきっちりネクタイを締め、髪を後ろへ撫でつけて固めた原の姿は、プロジェクトを率いる研究者よりは遣り手の営業担当者といった風情だ。

「発生動態チームがリリースしたマウスのゲノム編集の新手法、メインで担当してたのは新田だな? この技術をhumanに応用したい。そのためにリクルートした」

「ヒト胚への応用なんて倫理的に不可能です」

「技術的には問題ない」

 新田は黙って原を見る。原は切長の目で新田を鋭く見下ろしていた。これ以上は訊かないほうがいいのだろう。

「……承知しました」

「プロジェクトの詳細は私から話す。隣のオフィスに入れ」

 原のデスクは簡素に仕切られた別室の窓に背を向けるようにしてあった。PCディスプレイと書類ケースのほかは二、三の紙の資料や論文が出ているだけで、机上は整っている。余計なメモや付箋、紙の類はおろか、カレンダーやコップすらない。ブラインドが下がる窓からは光が入らないが、白熱灯の強い光が人工的な濃い影をつくり、独特な気迫を感じさせた。

「現行の実験プロトコルはチームメンバー専用のクラウドストレージで共有している。ファイルを開いてほしい。HI-40の作出が進行中だが、課題は多い。37~39のトライでは、必ずベース部分となる個体の胚発生が中断した」

「原因の解析は」

「原因の可能性がある遺伝子を出水がシーケンスデータから洗い出した。最終候補のリストがある」

 新田は自分のタブレットに候補遺伝子のリストを呼び出す。50ほどが並ぶ中、2つの名前に見覚えがあった。

「僕のマウス実験の際のターゲットに含まれる遺伝子です。マウス同様、ヒトではこれらが活性化しているとクローン胚の成長過程でアポトーシスが引き起こされ、最終的に自壊すると仮定していました」

 顎の無精髭を左手でこすりながら新田が続ける。

「クローン胚にゲノム編集を加えて当該遺伝子を除去すれば問題ありません。本来ジャンクとされて個体の形質にも生命維持にも関わらない部分ですから」

「Humanの場合、CRISPRでゲノム編集すると胚発生に異常が出るはずだ。偶発的なゲノム編集は完全に阻止する技術がまだない」

「そこを想定してさらに手を加えたのがあの論文のポイントです」

 新田が自身の論文の図をタブレットに映して示す。

「ゲノム編集酵素を修飾して、狙った遺伝子以外の部分ではこれが効かないよう抑制するんです。Cas9に強固に結合する核酸分子を特定して細胞内に打ち込んでいます。意図しない部分を切らないようにしてるんです。ただし、この方法が100%成功するためには条件があります」

「条件」

「編集前の細胞がオスの個体由来のものでないとだめなんです。Y染色体上の遺伝子にはほとんど意味がないとされてきましたが、ここに僕の打ち込んだ核酸のはたらきを強化する部分があるようで、メスの細胞には同じやり方が通用しないんです。現状ではオスの個体のクローンしか作れないことになってしまいます」

 原は腕組みをして目を閉じ、ふむ、と応えて思案げにする。新田は片眉を上げてうなずく。原の様子では、オスのクローンしか作れないことには問題がありそうだった。これでは僕がここのチームに加わる意味は大きくないかもしれないな、と思ったところで、原がこちらを一瞥した。

「その件は私がなにか対策を考える。今日はこの後ラボミーティングだ。現在までの各人の進行状況を聞かせるから、新田は自分の研究計画を立ててくれ」

「……はい」

 口の中で小さく返事をしながら、新田はチームの極秘プロジェクトファイルのタイトルを見やる。Human Interface Cloning Arised from LIBERTY、通称HICALI。「自由」から生まれた、人のためのクローン作成法。そんなことが、はたして僕らに許されるだろうか。新田は小さく嘆息した。


「それでメスの個体をクローン化できない問題をどう解消したんです」

 切林直樹が水筒から温かい麦茶を一口飲んでから言う。一人暮らしだが几帳面で倹約家の切林は弁当持参の昼食だ。研究室の一角の談話スペースには、テーブルと椅子が並ぶ中に簡単な湯沸かし器があるだけだ。あとは研究所の一階にある食堂へ行くか、購買で何か買ってくるしかない。

「立案したのは僕じゃなくて原さんだけどね」

 そう言いながら湯沸かしを傾けてコーヒーの粉を湿らせるのは新田秀明。その隣で出水倫治がもくもくとゼリー飲料を吸っている。ともに一人暮らしと聞いたが、新田は簡単に握り飯とゆで卵を食べ、ドリップパックのコーヒーを淹れて食後を楽しんでいるのに対し、出水のほうは手元にまともな食事らしいものがない。ゼリー状の栄養補助食品と、カロリー補給用のビスケットのようなものを食べるだけだ。あとはペットボトルの水を飲んで、これが昼食ということになるらしい。

「出水さんそれで足りるんですか」

「理論的には大丈夫!」

「出水はもうずっとこうだから」

 新田が困ったように笑いながら切林に言う。出水はまったく気にすることなく、自分の端末で電子書籍を読みはじめた。

「なんの話だっけ、そう……、僕らの手法ではオスのクローンしか作れない状況で、HICALIはメス個体が欲しかったのに、どうやってオスから今のあの子を作ったのか、という部分か」

「はい。あと、新田さんは最初にあの個体はパーツを組み立ててロボットのように作ったとおっしゃってましたし」

「ああ、それはね……、脳と心臓だけは組み立て式では無理だったんだ。この二つは同じ系列の細胞からできていて、でき方がちょっと変わっている。どうしても僕らの実験では完全に発生させることができなかった」

 できあがったコーヒーに新田は砂糖もミルクも加えない。淹れたてをほとんど冷まさずに口にする。その横で、端末から顔をあげずに出水が早口で続けた。

「だからそこを中心に自力で成長するメインの個体はやっぱり必要になってたわけ。そいつがある程度仕上がってきたら、不足パーツを3Dプリンタで出した足場ベースに培養して作って、あとは組み合わせたらできあがり。だいたい、全体をembryoから赤ん坊になるまでみっちり発生させてたら、そいつがあの大きさの女の子になるまでに18年かかっちゃって話になんないし」

「じゃあ、性別の問題は」

「オスを元に性別転換してメス個体を作るんだ。ここまで編集してたらもはやクローンと呼んでいいのかわからないけど、まだ適切な名前がないからね。元のオスのY染色体から、性決定因子SRT-Tを除くとメス化する。これで一応は完成だ。とても実用化できるような肯定じゃないけど」

「それでも、実際あの個体は完成して、あそこで維持されているんですね」

「まあ、本当に実現するのか証明しなくちゃならなかったしね」

 新田はそう言ってマグカップの中の液面を見つめる。こんなほとんど非合法なプロジェクトに加わって実際に人間の細胞を使った実験までしているわりには、新田に人並みの生命倫理が備わっていることが哀れだな、と切林は思う。

「あれ、そういえば、あの個体のそもそものドナー……、元になった細胞ってなにを使ってるんでしたっけ」

「市販されてる実験用に均質化されたやつだからな。樹立した時の大元の提供者の身元なら参照はできるけど」

 出水がラムネ菓子を懐から出して齧りながら応じた。新田はなにも言わない。

 法的整備も間に合わない状態で秘密裏に行われているヒト細胞由来の個体作成実験なんて、それに同意して細胞を提供してくれる人間などいるだろうか。そもそもその人にこの実験の概要を知らせるわけにもいかないわけだし。もう亡くなっている人の細胞だったらいいのかな。そんなことを思って切林が視線をさまよわせていると、十三時を知らせる所内放送が鳴った。


「もうこんな時間かあ。細胞部屋に行ってきます」

 切林はサンダルを鳴らして廊下を小走りに行く。その後ろ姿を見ている新田を見やり、出水が表情を変えないまま頭を掻いて小声で言った。

「切林には内緒なんだろ。ヒカリが新田の細胞由来の個体だってこと」

 新田は目を伏せてしばらく黙っている。手元のマグカップのコーヒーはすっかり冷えて湯気も香りもなくなっていた。

「原さんの厳命だ。原さんと、僕と出水だけしか知らない。知る必要もない」

「俺たちこのプロジェクトに深入りさせられて、このあとどうなんだろ。国家機密じゃん。死ぬまでCeRMS所属かな。そのうち転属禁止とか妻帯禁止とか言われるぞ」

 出水がおもしろくもなさそうに言って伸びをする。冗談になっていない。新田は力なく微笑んで立ち上がると、出水に軽く手をふって実験室に向かった。

 夕方に設定されているミーティングが新田には憂鬱だった。現在は基礎研究チームを離れて研究統括マネージャーについている原が主催の少数会議。HICALIプロジェクトにかかわる人間だけの内密なものだ。なるべくその内容について考えずに済むよう、新田は実験の予定をあえてぎりぎりの時間まで詰めていた。

「新田さん」

 実験室に入る新田へ、白衣を羽織った瀬戸内が声をかけてくる。 

「大きいほうのクリーンベンチの予約時間、代わってもらえません? 私20時からにしてたんですが」

「ああ……、いいよ。交代しよう」

 新田は簡単に承諾すると、居室のデスクに戻る。しばらく時間が空いた。もちろん積み残しのデスクワークは際限がないから手持ち無沙汰なはずはないが、そういう作業に集中できそうな気分ではなかった。論文でも読もうとタブレットを取り出すと、画面上に大量のアラート通知がポップアップ表示されている。

「ヒカリの培養槽」

 そうつぶやいて駆け出した新田を、切林が不思議そうに目で追った。特殊培養室の緊急アラート通知は、新田、出水、原の三人だけに送られる。多忙な管理職の原はともかく、出水が先に着いているといいのだが。

 特殊培養室の内扉を押し破るように飛び込んだ新田の眼前、三次元培養槽の中に満たされた培地の色が変化している。機器のランプが点滅し、新田の社内用スマートフォンが連動して振動する。普段はうすい朱色の培養液が、今は燃えるような真紅に染まっていた。液の酸性度が急変している。培地への添加物は全自動で制御しているはずだ。ヒカリ自身の代謝物に変化があったのだろうか。

「ヒカリ、どうしたんだ」

 思わず水槽に向かって呼びかける。中のものに聞こえるはずなどないのだが、新田はこの個体が自分の細胞からできているという経緯から、また自分自身がそれを完成させた責任を持つことからも、ヒカリをひとりの人間として話しかけずにはいられないのだ。

 ヒカリは体を折り曲げるようにして液面近くに浮かびながら、溶液中で口を開閉させて泡を吐いている。各部位に接続したはずのケーブルやチューブがいくつも断線していた。

「おかしい、本体から僕の端末にデータが来てない」

「……新田もか」

「出水」

 息を切らせて駆け込んできた出水は、タブレットを見ながら培養槽脇のパネルをタッチして素早く操作した。ヒカリのバイタルデータが逐次転送されるはずのタブレットには正常値が淡々と表示されているが、明らかに本体のものとずれている。

「誰かが偽のデータを流してる。アラートも途中まで切られてたっぽい。これ普段の培地じゃない、いったん抜いて入れ替えないとまずい」

「ヒカリはまだ空気に曝露させたことがないんだ。培養液は抜くわけにいかないよ」

「大量に新しいのを流し込んで、有毒なやつを薄くしてやるしかないか……。何リットルいるんだ、あとで怒られそう」

 ぶつぶつと言いながらパネル操作を続ける出水を背に、新田は向かい側の大型冷蔵庫から培養液のプラタンクを運び出した。ひとつ4リットルはある大型のものだ。培養システムの基幹部分のカバーを開け、培養液共有用のチューブとタンクを手早く接続していく。焦る手元が震える。理由はわからないが、時間がないのだと直感していた。

「出水! ポンプと濾過器を最大に!」

「もうやってる、これ以上あげたら電源落ちる」

 ヒカリが咳き込むような動きをみせて溶液中を旋回する。しかし二人にはこれ以上の対策はできそうになかった。あとは様子を見守るだけだ。

「……出水、ヒカリを頼む」

「どこ行くんだ」

 新田は防護用の手袋とスリッパを脱ぎ捨てて走った。所内はまだどのフロアも活発な昼下がりの時間帯だ。すれ違う職員たちが不審そうに目線をよこす。構っている場合ではない。五階、マネージャーのオフィスの並ぶ中に原賢治の現在の居室はあった。

「原さん!」

「新田か。ノックくらいしろ」

「ヒカリになにをしたんです」

 普段は温厚な新田の直截で怒りのこもった物言いに、原の表情が険しくなった。はぐらかしても無意味だと一瞬で判断したのだろう、新田を見据えて話しはじめる。

「ホルモン類を投与した。早急にあれを『成長』させる必要が出たんでな」

「現在の現場の責任者は僕です。なぜ相談もなくそんなことを」

「上からの指示だ。私の本意ではない」

 その「上」とは研究所の上層部をさすのか、それ以上の省庁や政治家、あるいはもっと別の人間をさすのか、新田にはわからない。新田相手に言葉を濁しただけで、実際は原自身の決断の可能性もある。

「じゃあそのヒカリを成長させる理由は」

「……博覧会だ。あれを上海の国際科学博覧会へ出す。日本館の最大の展示としてだ。その日がHICALIプロジェクトの正式公表日になる。国内メディアだけでない、海外にも同時に告知して論文発表と同時に公開する。われわれはあれに国の威信を賭けている」

「見せ物にするんですか? どういうつもりです、彼女も人間だ……、それに、今のままではとても輸送や環境変化に耐えられません」

 原は変わらず冷たい視線で動揺する新田を見ていた。

「だから今回の処置をした。それだけが理由ではないが」

「ほかになにか」

「お偉方の言うには、あの個体はもっと性徴を発達させたほうが展示品として見栄えがいいとのことだ。今は十七歳程度の形態で維持していたが、もう少し『女らしく』しろとの指示でね」

「……そんな」

 新田は絶句していた。あまりにもくだらない理由で、彼の分身の娘は人為的変化を加えられて瀕死になっている。新田、出水をはじめとしたメンバーが人生をつぎ込んで生み出した、現代科学技術の結晶のようなヒカリを、この原やその「上の人々」は単なる政治ゲームの駒として使うのだ。

 しばらく沈黙した彼の前で、原もまた無言だった。いつものように表情が読めない。一糸の乱れもない整った身なりの原は、撫でつけた髪に軽く手をやり、必要最低限を下回るようなミニマルな卓の上へ静かに目線を落としていた。

「……突然すみませんでした。失礼します」

 新田はやっとそれだけ言うと、原のオフィスを辞してゆっくりとした足取りで廊下を戻る。このとき、心の中ではひとつの大きな決意が生まれていた。

 ヒカリをこの研究所から逃がそう。ヒカリと二人で逃げて、彼女を保護してもらえるところへ向かおう、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る