2. Outbrake

 2006年にiPS細胞が日本の山中伸弥によって発表されてから、皮膚や血液といった体細胞から幹細胞を樹立することが技術的に可能になった。幹細胞は生体のさまざまな種類の細胞に分化する性質をもつ。これをヒトの体細胞から作ることができれば、提供者の欠損した組織や臓器を再建し拒絶反応の少ない移植を行なったり、難病研究に応用したりと、幅広い活用が期待できる。2020年ごろまでの研究で、加齢黄斑変性やアルツハイマー病患者への自己体細胞由来iPS細胞の移植、ALSとFOPの解明のための患者体細胞からのiPS細胞作成が行われて成果をあげはじめた。全世界的な幹細胞医療、再生医療の必要性の高まりに押された技術的進歩、それにあわせた各国での法改正が行われ、体細胞由来の幹細胞によって大きな臓器や広範囲の皮膚、神経、血管などが造られるようになりはじめると、いつしかその延長線上にある最終目標は、ヒトの体細胞から作製した幹細胞によって完全なヒト個体を創りあげること、すなわちヒトクローン個体作成へと辿り着く。

「そもそも倫理的な問題がありすぎて夢のまた夢だったんじゃないんですか」

「それはそう。特に日本では法的な整備が難しいとされてたけどね。少子化とコロナウイルスでの人口減が効いたんだろうな。もう僕らの論文の発表に備えて文科省と農水省で倫理委員会が動いてるんだ」

 新田が論文をプリントした用紙から顔をあげずに応えると、出水もワークステーションのディスプレイから目線を動かさないままうなずく。最初に質問した小柄な若い新人研究員、切林直樹は、手元のタブレット端末の資料をスクロールしながら目を丸くした。極秘・取扱注意と朱書きされたその資料には、日本におけるクローン人間作成に関する新指針の骨子と、そのための法案について仔細に示されてあった。

「え、こんなの私が読んでもいいんですか」

「切林も今日からうちの正式なメンバーだから。その代わり口外したらやばいから気をつけといて」

 出水がまったく表情を変えずに早口で言う。

 独立行政法人・生物再生医学研究所。Center of regenerative medical science、略称CeRMS(サームス)。神戸市の西部、のどかな新興住宅地に隣接した研究開発系の特殊用地、サイエンス・リバティの一角を占めるこの施設は、元は国立の生物学研究所として市内中心部に置かれ、阪神淡路大震災を機に移転設置された経緯をもつ。山奥では民間に知られたくない研究が捗る、などと研究者たちの噂に言われたのもあながち嘘ではなく、国内の再生発生医療の最高レベルの研究者を集めながら、移転後はほとんど研究成果や内部の動向が伏せられている特殊な研究所だった。

 基礎研究チームに本配属になった切林は、今日から新人へのOJTだと聞かされてラボへ赴いた。ところが当の直属の上司にあたる新田秀明と出水倫治は、ふたりとも研究業務から手を離さないままの応対だ。もともとこの分野では話すときに相手の顔を見ないタイプが多いのは大学院までに理解していたものの、切林はうまくやっていけるのか早くも不安になった。

「技術的には生体3Dプリンタの急速な発展に助けられたところが大きい。クローン胚を人工的にin vitroで培養して生体になるまで育てあげるよりも、臓器や骨格の大枠を生体適合樹脂で3Dプリントして、それを足場に細胞を培養していって各パーツを作り、組み立ててhumanとするほうが楽だったんだね。作り方としてはほとんどロボットなんだ」

 新田はおだやかにそう説明すると、手元の論文の束を机上にまとめてから立ち上がる。

「出水、切林にラボの案内はした?」

「いや」

「そう。じゃあ、まだあの子に会ってないんだね。ついておいで」

 黒い半袖Tシャツの上に白衣を羽織りながら新田が微笑む。切林にも真新しい白衣が手渡された。

「僕らの技術で最終的にヒトクローン個体を作出というか、構成できるようにはなった。うちのラボが設置されたのは秘密裏にはそれが目的だからね。法整備も内々に進んでる。論文ももうJournalに載る。問題は、その個体たちの維持と管理、それから、今後の『運用』」

 研究所には余分な窓がない。日光や紫外線に弱いものを扱う、気密性を重視した施設特有の設計だ。白い壁の続く長い廊下を進む新田が、前を向いたままそう語る。内容とは裏腹に、細めた目で遠くを見るようなややはにかんだ笑みは、三十代なかばであろう実年齢よりはるかに幼なげで、少年のような雰囲気すらあった。

「『運用』」

「作ったはいいけど、どう使うかが難なんだ。プロジェクトが始まる時にはもちろん具体的な目標が設置されたよ。ただそれがあまり褒められたものじゃなくてね。僕はチームリーダーのくせに賛同できてない」

「少子化とコロナに後押しされたと言ってましたけど」

 切林が斜め上を見て思案しつつ応える。

「人工子宮としての利用ですか? それとも単純に労働力や生産力のための人口増?」

「どちらもさ。若い個体のうちは子宮として、その後は一次産業や兵士としての利用が当初からの目的。だからまずは優先的に女性、それも少女体になるまで急速に培養することが要求されたんだ。ひどい話だろ」

「そんな、彼らにも人権があるはずでしょう。問題になりますよ」

 慌ててずれためがねを押し上げる切林のほうへゆっくり振り返ると、新田は組み替え実験室の扉の前で立ち止まった。

「その時は、彼らを人間ではないと定義するだけさ。われわれの言葉だけがその存在のあり方を決めるのだから」

 新田はそう言って寂しそうに微笑む。切林は、この人自身の中ではまったく割り切れないままこの研究がここまで進んでしまったのだな、と理解した。

「プロジェクトの名前は、Human Interface Cloning Arised from LIBERTY、通称HICALI。第一号の完成体がここ特殊培養室で培養してる個体だ」

 新田が扉の横のパネルにカードキーをかざす。入ってすぐの部屋でラテックス手袋と使い捨てスリッパに履き替え、エアシャワーを通って次の部屋へ向かう。人工的に日照を再現する照明システムと、ちりや埃が入り込まないように外部より高気圧に保つ空調システムで環境が整備されている培養室だ。突き当たりに人の背丈を越える大きな水槽のようなものが三つ並んでいた。新田たちが年月をかけ苦労して構築した、クローン人間用の三次元培養システム。その中央、朱色の培養液が耐熱強化ガラスのタンクに満たされている中に、その個体はあった。

「ヒカリ」

 我が子を慈しむような目つきで新田が培養槽に声を掛ける。水槽内に音を伝えるシステムはないだろうし、あったとしてこの個体が言葉を理解するのか切林にはわからなかった。個体は若い女性、少女から大人になったばかりというような、瑞々しい娘のかたちをしている。瞼を閉じ、やや上体を丸めるようにして膝をゆるく抱えた胎児の姿勢。伸びた髪が培養液の中をやわらかく漂って水中花のように光っていた。

「名前があるんですか」

「プロジェクト名にちなんで僕が勝手に呼んでるだけだ。書類上はHI-44だよ」

「44例目で成功したと?」

「そう。僕もはじめからこのチームにいた訳じゃないんだけどね。加わった時には40例目の作出が進行中だった」

 培養槽はヒーターと酸素供給器に繋がれ、液の中にゆるやかに流れができている。培養されている個体はごくゆっくりと、静かに槽内で旋回していた。くるりとその顔がこちらに向き、かすかに瞬きを繰り返す。唇の端から小さな気泡が水面へと昇って赤く輝く。新田はそれを見あげて言う。

「きれいだろう? すばらしい成果物だ」

 切林は水槽のガラス面からやや身をひいて、顔を向けた個体と視線を合わせないようにしている。科学的な興味よりも本能的な恐怖心が勝っていた。

「この個体が完成したのは新田さんの手によるところが大きいと聞きました」

「そういうことになるんだろうかね。僕があんな案を持ち込まなければ、あるいはこの子はここまで大きくならずず、今後の過酷な行末も経験せずに済んだのかもしれない」

 新田は寂しそうに微笑んでガラスに両手をつく。彼に向き合うかたちになったその個体が心なし微笑したように見えて、切林は慌ててめがねを外して目をこすった。

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