第三十一話:ヒト
二日前から降り始めた雨は今も衰えず、どんよりとした灰色の空には時折雷鳴が轟く。
雨音が響く教室にて、書類の整理を進めている自警団の幹部と避難民の代表達。明後日には復興支援部隊がやって来るので、その受け入れ準備と、避難民の正確な名簿作りが必要になったのだ。
ここの避難所に居るのは殆どが地元民なので、野外の発症者が処理された現在、自宅に一時帰宅出来る世帯もあって身分証明書の確保も容易になり、名簿作りは順調であった。
「後は病院側と調整して、診断書も添えましょう」
「ああ、とりあえずこれで一段落出来るか」
避難民名簿の他に、個人毎に課せられていた労働内容の資料も纏めている。浄化剤が散布された後、初めて無線で交信した政府の役員との打ち合わせでは、やはり慰安係の存在が問題視された。
パンデミック中で無政府状態が続いていた時の違法行為に関しては、ほとんどが特別緊急避難的な処置で流される事が決まっている。だが、行政機関との連絡が付いた時点で、現在進行形の違法行為は直ちに取りやめるよう指導が入る。
この避難所小学校の活動に関しては、民家や店舗を探索しての物資調達行為は控え、慰安係の運営は停止するよう促された。
無免許での車の運転や広域無線機の通信、発電設備などの無許可設置は、条件付きでしばらくはそのまま利用出来る。
「倉田はどうした?」
「調達部の解散式とかに付き合ってますよ」
「ああ……」
自警団の外回り役として、探索や調達を頑張っていた播本や稲生など若手の戦闘員達は、用済みというか、違法になってしまった調達部隊の解散を惜しんで最後の『飲み会』をやっているようだ。
「まあ、無事に日常に戻れるんだ。いい経験にはなっただろうさ」
「だな」
「……それにしても――」
と、柴崎は窓の外に視線を向ける。グラウンドを挟んだ向こう側の、道路を一つ越えた先に見えるマンション。
正確な部屋番号までは聞いていなかったが、あそこには自分達の恩人と言える若者が住んでいる。あの襲撃騒ぎがあった夜から、彼の姿を見ていない。
「……」
柴崎は、少し前に病院側の若い医師から聞いた話を思い出す。彼こと『大木 進』は、自決用の血清を所持していたと言う。
(やはり、そういう事なのか……?)
もう一度、会って話がしてみたかった。
そんな事を思いながら窓の外を眺めていた柴崎は、グラウンド沿いの通学路を、オレンジ色の傘がひょこひょこ横切って行くのを見た。
(子供か……? 病院側から一時帰宅する避難民かもしれないな)
柴崎は、街路樹の陰に消えるその小さな人影を、しばしボンヤリ見送った。
ススムの部屋には、太陽光発電システムと蓄電池が設置されている。
発電した電力は家庭用電源として供給されるので、アダプターでコンセントに繋いである省電力モードのランタン型電灯は、絶えずリビングを照らし出していた。
「ススム君……?」
大木家を訪ねて来た少女、
美比呂は、ススムが彼女の家に落としていった健康保険証を手掛かりに、隣町からここまでやって来たのだ。
リビングで見覚えのあるコートや帽子を確認した美比呂は、そのまま薄暗い寝室に踏み入った。
「え……なに、これ……」
そこには、巨大なカビのような、糸状の細胞が集まった菌糸が、部屋いっぱいに広がっていた。壁や天井、窓も菌糸で覆われている。
部屋の中心付近は、それらの塊ともいえる菌糸体が鎮座しており、それは微かに光を放ちながら脈動していた。
幻想的ともグロテスクともいえる光景に、美比呂はしばし呆然と立ちつくしていたが――
「いや、いくら男の人の部屋だからって、この汚れ方は無いわ!」
我に返った美比呂から「窓開けなくちゃ!」とズレたツッコミが炸裂する。すると、部屋の真ん中付近で脈動していた菌糸体が僅かに揺れ、部屋全体から声が響いた。
ダ……レカ……イル……ノ……カ?
「ひえっ!」
飛び上がって驚く美比呂。部屋中を見渡すも、声の主は見つからない。
「あ、あの……お邪魔してます……」
恐る恐る呼び掛けてみる。すると、部屋中に張り巡らされている菌糸の繋ぎ目に、目玉が開いた。
「っ!」
壁や天井、床など、中央の菌糸体も含め、菌糸の節の部分に現れた無数の目玉が、一斉に美比呂を捉える。
「ひゃああああ! 目玉多過ぎ! 怖過ぎっ! 一つにしてください!」
ア……ゴメ……ン
部屋中に開いていた無数の目玉が閉じていき、中央の菌糸体に開いていた目玉だけが残る。それでも十分に不気味であった。
ア……レ……? モ……シカ……シテ、ミ……ヒロ……チャン?
「え……? まさか、ススム君、なの?」
ナ……ンデ……ココ……ニ
美比呂は戸惑いながらも、今朝方、学校で目覚めた事を説明した。
「皮膚の色とか、ススム君と同じような斑模様に変色してるの」
マ……ジカー……
相変わらず部屋全体から響いて来る、何重にも被っているようなくぐもった声だが、その口調や雰囲気からは、美比呂が知っているススムを感じ取れた。
「ススム君、その姿どうしたの? 真ん中にあるモジャモジャが、ススム君だよね?」
イ……チオウ……
中央の菌糸体に恐る恐る触れる美比呂。辛うじて人の形に見えなくも無い、細胞の塊だ。ススムの話によると、対不死病血清の入ったアンプル弾を受けた影響らしい。
シ……カシ……ホンモノ……ノ……ミヒロ……チャンニ……ア……エルトハ
隣町からここまでの道中、大事なかったかと発症者上がりの身を案じるススムに、美比呂は嬉しい気持ちと同時に切なくなった。
「もう……こんな身体になってまで人の心配して……」
ハハハ
美比呂は、自分がヴヴヴ人になって徘徊している間に何があったのか、ススムに色々と話を聞き出した。
菌糸体なススムの途切れ途切れな言葉も、沢山話している内に少しずつスムーズになっていった。
ソレデ、ジョウカザイヲ、サンプサレタカラ、イナクナッテルンダト、オモウヨ
「そっかぁ、だからここまで一人もヴヴヴ人見なかったんだね」
美比呂が目覚めた時、学校内にはまだ多くの徘徊する発症者の姿があった。屋内までは、十分に浄化剤が届いていないという事なのだろう。
「それにしても……ススム君、元の姿に戻れないの?」
ンー、ナンカ、ヒトノ、スガタニ、ナルリユウガ、ナイラシイ
「理由?」
ススムは、自分が意識を失っている間、夢を見ているような感覚で不死病ウィルスと話していた事を明かした。初めは、自身の記憶や深層心理が投影された代償夢のような現象だと思っていた。気持ちの整理を付ける為に見ている夢だと。
しかし、今の状態になる時に、影の姿をした登場人物が色々と教えてくれた。菌糸体の姿になったのは、取り込んだ毒素――対不死病血清に適応する為の形態をとっていたのだ。自衛隊機が散布して行った浄化剤も、取り込んで適応していたらしい。
不死病ウィルスは繁殖して安定化が進むと、その繁殖先のグループ毎に個別の意思を持つようだ。
イマハモウ、ケッセイモ、キカナイミタイ、ナンダヨネ
「ええー……そんな事が……そしたら、わたしはどうなってるの?」
適応者になる原因はよく分からないが、ウィルス曰く、繁殖先の思考を司る場所への浸透が綺麗に進んだ場合。いわゆる、脳の機能を阻害せず発症状態になれば、適応者と呼ばれる状態になるのではという事らしい。
ミヒロチャン、ノ、バアイハ……タブン、オレノ、セイ
「それって……?」
……チュー、ガ、ゲンイン、カト
「え……あっ」
美比呂は、『これで最後だから』と制服のポケットに仕込んでおいた「チューしてもいいよ」のメモを思い出して、さっと赤くなる。
(や、やっぱり、チューされたんだ)
……
心なしか部屋の温度が上がったような気がする。さておき、美比呂が目覚めた理由については、ススム曰く、恐らくあの接触で自分の中のウィルスが美比呂の中のウィルスに情報を伝え、時間を掛けて美比呂の脳が修復されたか、もしくは思考の阻害をしない状態に変化したのではないかとの事だった。
「そ、そうなんだ……あ、でも、どうしてそれでススム君は人の姿に戻れないの?」
ンー……、タブン、オレニ、オモイノコス、コトガ、ナカッタ、カラカモ
ススムは、自分のやるべき事はもう全て終わったと、ここで自分が終わる事を受け入れて目を閉じた。その時に、件の影の姿が現れ、これからもススムと共に在る事、『一緒に居る』と約束した事を挙げて、影はススムと一つになった。
「一つになった?」
ゼンシンノ、サイボウガ、ゼンブ、ウィルス、シュヨウニ、オキカワッタ、ンダッテサ
A.N.Tとの闘争などで異常な力を発揮していた身体は、その時点で骨も筋肉もウィルス腫瘍の細胞に置き換わっており、本当の意味で既に人間ではなくなっていた。
地元の病院や小学校の復興を手伝っていた時は、まだ一部に人間の肉体部分も残っていたのだが、今は全てがウィルス腫瘍の細胞に置き換わっている。
脳細胞もそのままではないだろう。なので、今現在こうして美比呂と話している自分が、本当に自分なのかも怪しいとススムは言う。
「そんな……ススム君は、ススム君でしょ」
ダト、イインダケド、ネ
自分の事はよく分からないよと、菌糸体を揺らして笑うススム。キュッと唇を咬んだ美比呂は、何とかしてススムを人間の姿に戻したいと願った。
「何か方法があるはず……! ススム君に、思い残すことがあれば」
オモイ ノコスコト ネェ……
こうして美比呂ちゃんと再会出来ただけでも、輪を掛けて思い残す事が無くなった気がする等と言うススムに、美比呂は何か小さい憤りを覚えた。
「うーん! なんかイラっとしたっ なんだろう!」
ソ、ソウ、イワレ、マシテモ
女心は分かり兼ねますと躱すススム。部屋中を埋め尽くす菌糸の森も、皆そっぽを向いているような感じがする。
「む~~~っ」
美比呂は唸りながら菌糸体に手を付き、仄かな温かさを感じてハッとなった。
直観的に思い描いたイメージを、具体的な行動内容に変換していく。その過程で、美比呂はメモの事を思い出した時以上の赤面を浮かべた。
「……で、でも、この方法なら」
ミヒロ、チャン?
ぎゅっと、菌糸体の網状になった部分を握った美比呂は、確かめるようにこんな事を言った。
「す、ススム君、まだわたしと……色んなこと、してみたくない?」
……エ?
人間の男として、人間の女の子と、色々してみたい事は無いかと問われて、動揺するススム。菌糸体の脈動が少し早くなった。心臓の鼓動のようなものかもしれない。
「わたし、ススム君と、手を繋ぎたい」
すると、美比呂が触れていた菌糸体の部分が、人間の手の形に盛り上がった。ススムは、『ホボ、ムイシキニ!?』と驚いている。
セイヨ……ホンノウ、ヲ、シゲキ、スルト、イウ、ホウホウ、カ
「……性欲を、刺激する方法だよ」
チョッキュウ!?
配慮して言い直したのに! と動揺しながらツッコんでいるススム。美比呂は、何かを決心したように真剣な表情で頷くと、「ちょっと待ってて」と言って寝室を飛び出した。
玄関まで走った美比呂は、開けっ放しだった鍵を掛けて、内扉も閉める。誰かが訪ねて来るとも思えないが、気分の問題だ。
(よし……大丈夫)
それからリビングに戻って深呼吸した美比呂は、帽子やマフラー、ダウンジャケットを脱ぐと、それらをきちんと畳んで椅子の上に置かせて貰う。
寝室に残されたススムは、何やら隣の部屋でバタバタしている音を聞きながら、美比呂の事を考える。
彼女が適応者として目覚めた切っ掛けが自分との接触だったのなら、もしかしたらショッピングモールの『藍沢由紀』が適応者化したのも、自分との接触が原因だったのかもしれない。
一度はその可能性を否定したが、美比呂がこうして現れた以上、感染するような触れ方をした相手には、自分の保有する『適応者のウィルス』によって、適応者化させる効果があるのかも。
(もし、そうなら……他にも発症者から目覚める人が――)
ススムがそこまで考えた時、美比呂が部屋に入って来る気配を感じた。
ミヒロ、チャン、モシカシタラ、ホカニモ――
「ススム君……」
フ、フクハ、イズコエ!
「……ぬ、脱いできた」
そこには、一糸纏わぬ姿の美比呂が立っていた。再び動揺のリズムを刻み始める菌糸体なススム。その細胞の塊にそっと近付いた美比呂は、大胆にも菌糸体に跨ると、ススムに人の姿を取り戻すべく呼び掛ける。
「こ、これを見て動揺するということは、まだススム君は人間の男の子なんだよ!」
モノスゴイ、タイアタリ、リョウホウ、デスネ!
嫁入り前の娘が何という破廉恥な事を! 等と何処かの姑のようなツッコミを入れるススムに、美比呂は顔を真っ赤にしながらも、自分の決意を告げる。
「わたし、ススム君のおかげで生きられたんだもん! ススム君の為なら……何だってする」
ミヒロチャン……
薄らとした青紫の斑模様が浮かぶ美比呂の肌。ススムは、あの日シャワー室で洗い流してやった時の事を思い出していた。
艶めかしい鎖骨は、前のめりの姿勢で深みを持ち、柔らかそうな丸みを描いた控えめな乳房が、僅かな身じろぎにふるりと揺れる。
くびれた細い腰回りは、両手で掴んで引き寄せたい衝動に駆られる。健康的な太ももとお尻の感触は、体温と共に菌糸体の奥まで浸透してくる。
腕を伸ばして抱き寄せたい。手を伸ばして、その身体に触れたい。緊張で浅くなった呼吸に揺れる胸元と、細い首筋。吐息が零れる小さな唇。
少し不安そうに見つめる瞳が、微かに揺れる前髪の奥から覗き込む。美比呂に強く惹きつけられた瞬間、ゴウーという風のような耳鳴りがして身体が振動した。
「す、ススム君?」
「え?」
さっきまで全身で感じていた美比呂の声が、目の前から聞こえ、全身で発していた自分の声が、喉から零れる。気が付くと、ススムはヒトの身体に戻っていた。
部屋中に広がっていた菌糸は、全てこの身体の中に集束しているようだ。それはそれで気持ち悪いのではなかろうかという感覚もあるが、体調は至って良好であった。
「ええっと……」
「も、戻ったね?」
「う、うん……」
見つめ合ったまま固まっているススムと美比呂。
ススムは、この寝室で覚悟を決めて横になった時、全裸だった。そのまま菌糸体に変異して、血清や浄化剤に適応していたのだ。
人間の身体に戻れば、当然ながら全裸である。美比呂は、その菌糸体の上に、これまた素っ裸で跨っていた。
従って現在、寝室のベッドの上では、ススムの上に美比呂が跨っている状態にある。全裸で。
(ごくり……)
思わず、目の前でプルリと揺れる魅惑の膨らみを凝視してしまうススムに、美比呂から衝撃的な一言が呟かれる。
「し……しちゃう?」
「またエライ事言いよったぞ、この
「だ、だって! すぐまたあのモジャモジャに戻るかもしれないじゃない!」
折角人間に戻ったのに、人間で居る理由が維持されなければ、また菌糸体に戻るかもしれない。そう心配する美比呂は、以前の出会いからススムをデートに誘ったり、部屋に招いたり、あまつさえ着替えを頼んで手順を教えたりという、緩い見た目にそぐわぬ意外な行動力をここぞとばかりに発揮した。
「わたし、ススム君に人として生きて欲しい!」
「っ!?」
美比呂はそう叫んで、ススムの胸に抱き着いた。
「……」
ススムは、自分の胸の中で震えるこの小さい女の子が、無性に欲しくなった。そっと腕を回すと、一瞬ビクリッと肩を震わせる。
やはり、怖いのではないか? 美比呂の感触と体温に理性を持って行かれそうになりながらも、ススムはギリギリのところで踏み止まって問い掛ける。
「俺、怪物みたいだし、どうなるか分からないけど……後悔しない?」
「……うん」
ススムの腕の中で、胸板に顔を埋めたまま小さく頷く美比呂。ここで逃げ出す方が確実に後悔すると言う。
「分かった」
改めて腰に回した手で抱き寄せると、そっと顔を上げる美比呂。前回は、発症者の徘徊する校舎で交わした、唇が触れるだけの短いキス。
雨音の響く夕暮れ時。薄暗い寝室でしっかり抱き合い、互いの体温を感じ合いながら見つめあった二人は、気持ちを通じ合わせた深い口づけを交わすのだった。
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