第2話 多様性

 弥太郎が仕えることになった直弼という井伊家のご子息は弥太郎の2才歳上の7才だった。城に来てから、弥太郎は直弼のお世話係として懸命に働いた。城の大人たちが話す難しい政治や学問の話にも必死に耳を傾け、自分の見聞を広めようとした。

 貧乏でも懸命に生き抜いてきた弥太郎にとって、直弼は我儘で世間知らずのバカ殿様に見えていたかもしれない。だが、弥太郎は決して直弼を馬鹿にしなかった。この賢い幼子は何故か人を馬鹿にしたりする感情を持ち合わせていなかった。

 父親はもちろん、村の大人たちでさえ誰一人自分より物覚えや勘が鋭い者はいなかった。故に、他人は自分とは違うことを既に見抜いていた5才の天才男児は、別に直弼に対して嫌な感情を抱かなかった。

 弥太郎は決して直弼の上に立とうとはしなかった。そして、直弼の話をいつも真剣な表情で聞いた。いつの間にか、傲慢で友達の少ない直弼にとって2つ年下の弥太郎だけが唯一何でも話せる友達になっていった。


 「西の海に出て行き、交易を広げたい。」

 世間知らずな直弼の突拍子のない発言を弥太郎は馬鹿にすることなく、いつものように真剣な顔で聞いていた。

 直弼は一通り自分の思いを喋り終わり満足していた。

 満足顔になった直弼を確認してから弥太郎は話し始めた。

 「直弼殿、非常に面白い話ですがそれを成し遂げるのには危険が大きすぎるような気がします。100年以上前までは外海に出て新天地を切り開こうとするものが大勢いたそうです。しかし、海に出た者どもが無事に帰ってきた話は聞いたことがありません。それゆえ、新航路や新天地を発見しようと考え行動する人は徐々にいなくなってしまったそうですよ。」

 弥太郎は丁寧に航海の歴史を説明した。

 「うむうむ。そなたの言いたいことは分かるぞ。しかしだ。この100年で航海術や船の性能は格段に上がっておる。技術を駆使して一緒に広い世界を見にいこうぞ。」

 確かに、直弼の言うことには一理ある。この100年、江戸幕府は日本町との貿易をスムーズに進められるよう船を改良した。航海術を学ぶ学校を作り、若者が皆、船や海のことを学べるようにした。海洋国家になる自覚と国力が着実にみのっていっていた。

 しかし、あくまで貿易面の技術が発展しているだけであった。海賊船から積荷を守る程度に船の武器を整えてはいるが、平和になった日本や東南アジアの海洋で本格的な海戦は300年行われていない。江戸幕府は戦争や侵略に特化した航海技術を発展させてはこなかった。

 

 マラッカのすぐ南にあるジャワ島と呼ばれる島にオランダ人の居住地があった。ジャワ島とマラッカでは日蘭貿易が盛んだった。マラッカの日本人町にはたくさんのオランダ商人が行き来していた。弥太郎はそのオランダ商人たちから地球儀と呼ばれる商品を買い、世界への見識を広めていた。弥太郎の認識では、マラッカの西側には東インド会社というイギリス人と呼ばれる人たちが治めている国があるらしい。

 西に航海するということは即ちイギリス人達が治めている植民地にぶつかるだけであることを弥太郎は直弼に話した。

 「弥太郎、もしイギリス人の植民地に船が到着したとしても問題ないと思うぞ!むしろ、オランダが認める文明国の一部、イギリスと友好関係を結べれば、幕府にとって更に利益があると思う。」

 直弼は自信満々に答えた。教育を受けた中途半端に賢い血気盛んな若者はいつの時代もどんな国でも厄介な存在かもしれない。自分の信念は曲げない上にそれを正当化するうんちくだけは達者だった。

 「確かにそうかもしれません。しかし、もし、イギリス人と戦闘になったらどうします?国同士の戦争に発展しますぞ」

 「ふむ。だが、そうなったら武士の力を存分に見せつけ屈服させたら良いだけのことではないか。」

 直弼は得意気に言っている。こうなると何を言っても聞かないことを弥太郎は知っていた。直弼の父が本気で止めようとすれば聞き入れるであろう。しかし、父君は息子に甘い。恐らく、直弼はこの計画を実行することになる。それならば、友達として、部下として精一杯協力しようと弥太郎は考えた。

 「分かりましたよ直弼様。では、香とナーに相談しましょう。何隻の船で出航し何日程度の航海になるか計画してから父君に話しましょう。」

 直弼は弥太郎が協力してくれることが決まったので計画は成功すると確信を持った。ようやく自分も父上やご先祖様と同様、後世に語り継がれる名君の仲間入りが出来るのではと思うと胸が高鳴った。


 直弼と弥太郎は城下町の方へ向かった。

 城下町の一角には大きな呉服屋が数軒あり、その周りには小さな飲食店が所狭しと並んでいる。町の地面には砂利を敷き詰めており、雨の日でも足元が悪くならないように配慮されている。呉服屋はオランダ商人から買ったコンクリートを基礎としたレンガ造だった。周りの飲食店は日本独特の木造造りだ。異国と日本との交易中継地にあたるこの都市は、日本文化と西洋文化が入り交っていた。

 

 直弼と弥太郎は茶屋で団子を食べている香とナーを見つけた。この時間、2人は大概ここで団子を食べているので見つけるのは容易なことだった。

 香とナーに計画のことを話した。2人ともこの話に興味津津といった様子ですぐに賛同した。

 「香」本名はグエン・フオンという。ベトナム人の女性でファーストネームに当たるフオンを香と書くので「かおり」と直弼たちは呼んでいる。

 もう一人の「ナー」はタイ人で本名はチャブカン・チッタラポンという日本本土では聞き馴染まない名だ。タイ人は日本人よりも名前というものを大切にした。子供の名は誰とも被らないように付けたいが故に長くて複雑になる。長い名前は日常使いに支障をきたすため、タイ人は皆ニックネームで呼び合う。チッタラポンというこの女性はナーというニックネームで呼ばれている。

 

 香とナーはマラッカの中心都市から少し離れた村で産まれ育った。ナーは香の3歳年下だ。ナーの祖父は昔、中国の清の皇帝に仕えていた。ナーの祖父は中華独特の政変に巻き込まれたため、このマレー半島の先端にまで逃げ、タイ人として暮らした。ナーの祖父は清にいた頃は重役官僚だった。このため、ナーの家には中国の兵法書や経済書物等が多数あった。中国語訛りが強いせいで友達が少なかったナーは、家にある書物をよく読んでいた。

 香の家は兄弟が7人いた。自分は3番目で上に兄と姉が1人ずついたが、父親は自分が次女なのか三女なのか分かっていなかった。小さい弟や妹の世話で忙しい両親は香にご飯を上げるのを忘れることがよくあった。13才のときそんな家から飛び出し、夜の町で花魁になった。下品な客の相手をして小銭を稼いで暮らしていた。近所にいた3才歳下の利発なナーから読み書き算盤を教わっていたこともあり、金銭感覚はしっかりしていた。友達が少ないナーと気が合い、2人は本当の姉妹のように過ごした。

 ナーは香に憧れて自分も15才で花魁になってみた。だが、大陸譲りの気の強いナーは初日に男性客とトラブルを起こした。

 ベトナム人とタイ人の女性、本来ならば二人は井伊家の嫡男である直弼と口が聞ける身分ではない。5年前、直弼は花魁街で客と言い合っている2人の少女を見かけた。この2人がナーと香だった。ナーが花魁になった初日のことだ。

 18才の直弼には自分と同じ年代の少女が悪漢どもにこき使われていると勘違いし、不憫に思い井伊家に召使いとして雇い入れることにした。この優しく世間知らずなドラ息子は多様性を重んじる父上に育てられたため、外国人だからとか女だからとかは全く気にならなかった。これが直弼唯一の長所だったかもしれない。が、この長所も、この時代においては変わった考えのバカ殿様くらいにしか思われていない。

 ただ不憫に思ったから召し抱えただけのことだが、二人にとって直弼はとても興味深い存在だった。村の人間たちでさえ自分たちが何か困っていても手を差し伸べてはくれなかった。だが、日本人であり貴族である直弼は自分たちを疎んだ目一つせず召し抱えてくれた。

 直弼にとってはただの気まぐれだった。召し抱えるついでに弥太郎にこの2人の少女を教育することも頼んだ。殿様お付きの人間としての一流の教養を2人の貧乏な少女に仕込んだ。

 教育係を頼まれた弥太郎は驚いた。薄汚れた泥を落とし、少し化粧をしてやった貧乏少女が余りにも綺麗だったからだ。しかし、それ以上に驚いたのは2人の物覚えの速さだった。他人に教育することが多かった弥太郎は産まれて初めて教育し甲斐のある人物に出会った気がした。

 そもそもナーに至っては軍事学や医学等の分野は弥太郎よりも詳しかった。ただ、礼儀作法とかいう日本固有のしきたりを習う学問書が家に無かったから知らなかっただけなのだ。だが、自分たちに手を差し伸べてくれた直弼と弥太郎に2人は感謝して、一生懸命仕えることになった。

 この世間知らずで見栄っ張りのボンボンが2人の貧乏少女を召し抱えて7年が経っていた。直弼にとって弥太郎の次に信頼できる者が香とナーだった。



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