鎖国をしていない江戸時代で、イギリスとの貿易を試みた井伊直弼

ckanbac

第1話 冒険が始まる

 「どうしてこんなことになってしまったんだろう。」

 朦朧とし指先すら動かせない直弼(なおすけ)の脳裏に最期に浮かんだ言葉だ。目の前には6尺を超える白い肌をしたイギリス人が恐い顔で自分を見つめている。直弼たちはイギリス人達とは違う。江戸幕府の将軍に命じられてインドに来た訳ではない。マレー半島の先端にあるマラッカと呼ばれる日本人の町から3,000km離れたこの場所に、自分の功名心と好奇心を原動力に来たのだから。


 これは、江戸時代の青年がインドと交易を試みたお話だ。東の小さな島国が、もし鎖国をしていなければ、或いはこんな話があったかもしれない。


 井伊家2代目大名が江戸幕府が行おうとした鎖国政策に反対し、外国人たちとの貿易を成功させた。この功績が認められ、井伊家は代々東南アジアの日本人町を管理する大名になった。この物語の主人公、井伊直弼の先祖達は日本人町を上手に発展させていった。何も無かったジャングルを開発するために、現地の住民にも教育を施し、手伝ってもらった。全国に優秀な人間がいたら高い報酬を払ってでも井伊家の客人として迎え入れた。土着の人たちも積極的に登用し、ジャングルに囲まれた東南アジアの小さな地域を世界有数の都市に変えていった。

 しかし、この直弼という青年は立派な父やご先祖様に比べて矮小な男であった。器が小さく、見栄っ張りで気に入らないことがあるとすぐ感情的になった。一応、良家に相応しいだけの教養を身に付けており、背が高く端正な顔立ちで見てくれだけは立派であった。だが、異国の町を統治できるほど賢くは無かった。優柔不断なくせに変に大胆なところもあった。


 そんな男がまた大胆なことを思い付いたのは25歳になったときだ。

 「マラッカの西の海を渡り、新たな大地を探す旅に出てみたい。新天地を見つけて交易を広げれば、自分は名君として後世まで語り継がれるのではないか。」

 ふと思い付いたこの大胆な考えを彼はすぐさま友達の弥太郎に相談した。弥太郎は怪訝な顔を浮かべた。弥太郎が武士の子供ではないことを心のどこかで見下している直弼は更に細かい話を説教たらしく聞かせてやった。

 「150年前に江戸幕府が沖縄、台湾、香港、ベトナム、フィリピンとマラッカの6つの都市に日本人町を建てた。だが、150年経った今でも日本人町は6つのままだ!」

 弥太郎はうんうんと頷いている。

 直弼は続ける。

 「新たな土地には新たな特産品がある。それらを持ち帰れば、日本や井伊家はさらに発展すると思う!」

 弥太郎は頷くだけだが、直弼は自分の講釈を話せて満足そうであった。


 この弥太郎という青年、本名は岩崎弥太郎という。弥太郎は貧乏商売人の父親の元で育った。貧乏だったが3才になる頃にはお金の計算が出来、文字も書けた。5才になった弥太郎少年の聡明さを知らない者は村中にいなかった。父親は間抜けな上に約束一つ守ることが出来ない男だった。不誠実な貧乏商売人。絵に描いたような哀れな父親だった。

 「トンビが鷹を産んだぞ!」

 父親と弥太郎少年を比べて村人たちは馬鹿にした。

 弥太郎は5才になったときには、自分は父親のようになりたくないと心から思っていた。

 5才の弥太郎は村の子供たちに読み書きを教え、大人たちに帳簿の付け方を教えた。その対価として小銭をもらった。

 貧乏親子は子供が稼いできたお金を頼りに日々ギリギリの生活をしていた。

 そんな親子に転機が訪れた。とても聡明な子供がいることを直弼の父、井伊直中が偶然町で聞いたのだ。直中は歴代の井伊家当主の中でも指折りの名君であった。10年前、町でイナゴが大量に発生し、田畑に甚大な被害をもたらした。このとき、直中は農民たちの年貢を免除した上で、城の蔵を解放し町民たちに武士の備蓄食糧を分け与え、飢饉を乗り越えた。

 突如大量発生したイナゴ災害が終息し飢饉を乗り越えると徐々に年貢を取り立て始めた。豊作のときにら少し多めに年貢を設定し経済を締め、飢饉のときに年貢を軽くし町を少しでも潤わせた。

 直中は政府とはどうするべきかをオランダから雇い入れた経済学者たちから教わっていたのだ。名君直中は優秀な人間であればたとえ外国人であろうが金を払って召し抱える主義を持っていた。

 だから優秀な人間が5才の子供であることや、父親が無能な商売人であることは気にしなかった。

 直中は5才の幼子が小さな教育者として村の知識レベルを上げていることに目を付けた。この幼子を息子でたる直弼の世話係兼教育係になって欲しいと幼子の父に伝えた。

 直中は勿論、父親であるあなたにも報酬をお支払いすると伝えた。要は手切れ金だ。弥太郎を城に召し抱える。もう貴方の元には戻らないことを暗に示した。

 弥太郎の父は拒んだ。貧乏で構わない。村中から馬鹿にされても構わない。息子ともっと一緒に居たいと言った。直中は分かったと言い、一旦諦めるが一晩考えてみてくれ。また明日来る。と言い残し帰っていった。

 井伊家のお殿様が帰った夜、弥太郎は父親に話しかけた。父親は商売道具の欠けた茶碗をボロ切れの布で磨いていたり

 「父ちゃん、僕、お城で働いてみたい。」

 「ダメだ。」

 父は茶碗を磨く手を休めずぶっきらぼうに答えた。

 「どうしてさ!!僕、上手いこと出来るよ!」

 「ダメだ。井伊家のご子息の直弼とか言う息子はボンクラで我儘だと聞いたぞ。きっとお前が辛い目に遭うだけだ。父ちゃんとここで暮らそう」

 「辛い目にあったって良いよ!僕こんな貧乏な暮らしは嫌だ!!」

 「なにぃ!」

 持っていた布を息子に投げつけようと父は息子を見て右手を挙げた。息子と目が合う。息子は大粒の涙を目に浮かべていた。父は冷静になった。振り上げた右手をゆっくりと下ろし、

 「そうか。貧乏は嫌か。」

 父は左手の欠けた茶碗を見つめて静かに言った。

こくりと頷いた弥太郎少年はあぐらをかいた父の膝の上に頭を乗せ、指を咥えて眠った。父は磨く必要の無いボロボロの茶碗を夜通し磨いていた。

 次の日の朝、井伊直中が弥太郎父子のもとを訪ねに来た。今日は昨日提示した額の2倍の手切れ金を父に示した。父は昨日と同じ額で構わないから息子をよろしくお願いします。と伝えて息子を渡した。弥太郎はてこてこと井伊家の名君のところに歩いていき、馬車に乗った。馬車に乗る前に

 「父ちゃん、昨日はごめんなさい!!今までありがとう!僕、頑張るから!」

 弥太郎の父は流れてくる涙を止めることは出来なかった。ぐしゃぐしゃになった顔で精一杯笑って大きな元気な声を息子に掛けた。

 「おう!父ちゃんの方こそ!今までありがとな!!貧乏暮らしさせちゃってすまんかったな!しっかりやるんだぞ!!」

 弥太郎少年は泣きながら、照れ臭そうな笑いを父に見せ馬車に乗った。


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