塗り潰された背表紙

有明 十

塗りつぶされた背表紙

 名は体を表す、と言うように物事の名前は、その体質を表している。本棚が、書物を収める棚であるように、目覚まし時計が、人を起こす時計であるように。本を並べない棚は、本棚ではないし、人を起こせない目覚まし時計は、ただの時計だ。


 ある晴れた七月。私はある書店に足を運んだ。その日は、私が敬愛する作家先生、稲荷狐子いなりきつねこの新刊『狐憑き探偵、狐狗狸(三)』の発売日だった。


 浮足立つ気分で、自転車のペダルを漕ぎ、開店一番に私は書店に乗り込む。何度も見たであろう『監視カメラ作動中』『万引きは犯罪です』という張り紙を横目に通り過ぎ、新刊コーナーへ向かう。積まれた本の上から二番目を手に取って、私はもう少し店内を見て回ることにした。


 漫画、小説、参考書、ビジネス書、絵本、パズル本を見て回り、特に何も手に取らずレジカウンターへ向かう。文庫本コーナーを突っ切るのが最短である。


 私は立ち止まった。本棚に並ぶ文庫本の題名。体を表す名の中に、一冊だけマジックペンで塗り潰された物があったのだ。背表紙が、黒の長方形によって覆われている。私はそれを、丁寧だ、と思った。


 私はその本に手を伸ばした。その時、どこからか視線に晒されたような感じがした。振り返ると、前に並んでいた客の支払いが終わっている。


 店員にお金を払い、新刊を鞄に入れて、我が家へ自転車を漕ぐ。リビングのソファで、妹のなぎが横になって通話していた。点けっぱなしのテレビには、歴史ミステリーという名目で、いろは歌の作者がどうとか、隠されたメッセージがどうとか、そんな映像が流れている。


「おかえり、なみちゃん。どこ行ってたの?」

「ただいま。本屋に行ってた」


 階段を登り、自室のベッドに転がった。早速、買ってきた本を開く。


 何だか、集中出来ないな。


 書店の文庫本コーナーで目撃した、背表紙を塗り潰された本が頭を過ぎる。


 あれは一体何だったのだろうか。


 再び、ページに目を落としたが、狐耳巫女と主人公の愛らしい掛け合いが、頭に入らない。


 これは良くない。

 私は『狐憑き探偵、狐狗狸(三)』を閉じた。

 

 起き上がり、頭を捻る。あの──背表紙を塗り潰された──本のことを考える。


 どうしてあの時、本を取らなかったのか。表紙に記された題名さえ見ておけば、気にならなかったかもしれないのだ。いや、本の正体を知っていたとしても、なぜ背表紙が塗り潰されたのか、という問題は解決しないのだが。


 誰かの悪戯ではないか? しかし、私の直感はそうではないと告げている。レジカウンターの前、つまり店員の目の前で、本に落書きをするというのは、度胸がありすぎる。そういうことは、人の目が無いところで行われるのが自然だろう。それから、落書きにしては、背表紙は丁寧に塗り潰されていた。普通なら、手早く終わらせて逃げたいと思うのではないか。


 それに、店員が落書きされた本をそのままにしているというのもおかしい。


 勿論、度胸ある犯罪者が存在している可能性はゼロではない。その場合、何故、盗むのではなく、落書きをしたのだろうという疑問が残る。いや、自己の利益ではなくスリルだけで満足をするような奴が存在しないとは言い切れないけど……。


 そういえば、とあるレンタルビデオ店で黒いパッケージを陳列されたパッケージの仕切りにしていた。同じように、背表紙を塗りつぶした本を仕切りにしたのだろうか。なぜ、そのようなことを? 書店は出版社からの委託販売なのだ。簡単に言えば、一定期間売れなかった本は出版社に返品できるのである(もちろん落書きが無ければの話だ)。風の噂によると、サイン本は落書き扱いになり返品できないのだという。出版社が作家にサインをさせるのは返品できないようにするためで……要するに、売り上げを損ねてまで一冊の本を仕切りにする意味がないのだ。仕切りが必要ならば、在庫を運ぶ段ボールを加工するほうが、よっぽど理に適っているし、利になっている。


「ああ、分からん!」


 あのとき、店員に一言話しかけておけば……コミュ障の私にそんなことができるはずがないだろう!


 私はパソコンを立ち上げ、ネットの友達にDMを送った。


 *


 To ツクモ


 狐憑き探偵の最新刊を買いました。


 ところで、つい先程、奇妙なことがありました。というと、大げさですが…… けれど、私にとってはとても重大なことなんです。読書に手がつかないほどに。


 気になったことというのは、書店の文庫本コーナーにあった、一冊の本なのですが、その本の背表紙が黒く塗り潰されていたということです。


 状況を説明しますと……

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