短編 -夢のような彼女-

うちやまだあつろう

短編 -夢のような彼女-

 今日も目覚ましの鳴る前に目が覚めた。携帯電話に手を伸ばし、目覚ましのスイッチを切る。習慣のように目覚ましをセットしているが、これが無くなっても困ることは無いだろう。

 ベッドの隣に手を滑らせると、まだ僅かに温かさが残っていた。彼女はやはり先に起きているようだった。僕は酷く喉が渇いていて、起きたてのふらつく足で洗面台へ向かうと、蛇口を咥えるようにして水を飲んだ。それでも、首を絞めたような痛みが少し残っていた。


「あら、おはよう」

「おはよう。今日も早いね」

「私もさっき起きたところよ」


 リビングへ行くと、彼女は既にエプロンを脱いで、テレビのニュース番組を眺めていた。窓から差し込む日の光はフラッシュのように鮮烈で、そこでようやく焼けた魚の匂いに気付いた。いつも僕の少し前に起きている彼女は、栄養バランスの取れた理想的な食事を作って待ってくれているのだ。今日も食卓の上には、焼き魚をメインとした食事が二人分並んでいて、白く曇ったラップが被せられていた。

 僕が食卓に着くと、彼女も俺の向かいに座ってラップを取った。茶碗に盛られたご飯から白い湯気が立っている。僕が置かれた箸を取って手を合わせると、彼女は僕の顔をジッと見つめた。


「ねぇ、今日はどんな夢を見たの?」


 そう尋ねられるのは、彼女と同棲を始めてから毎日続いている事だった。


「もうあまり憶えてないよ」と僕が答えると、彼女は焼き魚を箸でほぐしながら綺麗な顔で笑った。

「それでも、断片的には憶えているでしょ?」

「まぁね」

「それを繋げて、物語にして聞かせてほしいのよ」

「そんな上手く繋げられないよ。僕はそんな才能無いから」

「正しさなんて要らないのよ。所詮、夢の話よ。私はそのカオスな空想話が好きなのよ」


 僕が答えに渋っていると、いつも彼女はこう言って笑った。

「カオスな物を聞いても気分が悪くなるだけじゃないか」と僕は言った。すると、彼女は少し考えて、僕に尋ねた。


「完璧なモノと、歪なモノ。どっちが美しいと思う?」

「そりゃ、完璧なモノじゃないか? 人は完璧を追い求めるものだし、それが理想だろう」

「確かに理想は完璧でなくてはいけないわ。でも、美しさは別よ。例えば、現実の世界を完璧に、正確に写実した絵を見て、あなたは感動するかしら?」

「写真を見て感動するかってことか?」

「写真は写真でも、何の加工も工夫もせず、ただの日常的な状況を無差別に撮影した写真ね。そんなの見たって、誰も感動しないわ。美しくないもの」

「でも、写真家ってのがあるじゃないか。彼らの撮る写真はどうなんだよ」

「彼らは日常の中から、それが崩れ落ちる僅かな瞬間を切り取って映し出しているのよ。被写体にポーズをとらせたり、背景をぼやかしたり、構図を工夫したりしてね。だから私たちは感動するの。私たちは、歪で不自然で、非日常的なものに美しさを見出すの。だから、人の手で描かれた絵画は美しいのよ」


 夢と言うのは、そもそも現実世界での記憶を脳内で切り貼りして生み出されるものだ。彼女は僕の夢の話の中に、彼女の言う歪な美しさを感じるのだろう。


「洞窟に居たんだ」


 しばらくして、僕は思い出しながら呟いた。彼女はそれを聞いて、見惚れるような顔でにっこりと笑った。その笑顔は正面から見るには美しすぎて、僕は考え込むふりをして手元にある白い眼をして死んだ魚を見た。


「洞窟で両手を鎖に繋がれていたんだ。鎖は洞窟のずっと奥まで続いていて、引っ張っても取れなかった。そこで僕は、目の前に出された食べ物を犬みたいな恰好で貪るんだ」

「あら、酷い夢ね」と、彼女は心配そうな口調で感想を言った。ただ、その顔はどこか楽しそうだった。

「今考えると酷いんだけど、その時はそれが普通に思えたんだ。そうやって飯を食べて、繋がれたまま排泄して。それが当たり前みたいに思えて、嫌悪感すら抱かなかったんだ」


 話だけでは悪夢のように思えるが、僕にとってはそうではなかった。このまま夢を見ていたいとさえ思えた。鎖で繋がれていることで、何故か自分の心が満たされいたのを憶えている。今でも残っている妙な心地よさが、自分でも奇妙だった。

「そこへ君が来るんだ」と僕は続けた。


「私が?」

「そう。君は裸で僕の目の前に現れるんだ。それで、飯を貪る僕を柔らかい眼差しで見下ろしてるんだよ」

「あら。私、ヤな奴じゃないの」

「まぁね。そこで、僕が飯を食べ終えると、君は尋ねるんだ。『今日はどんな夢を見たの』ってね」


 そこで彼女は笑った。鈴を転がしたような声で笑った。彼女を笑わせたことが不思議と誇らしく思えて、その小さな自尊心に思わず僕も笑ってしまった。


「それで、あなたはなんて答えたの?」

「さぁ。それこそ憶えてない。ただ、話を聞いた君は、笑いながら『これは夢よ』と言ったんだ。そこで僕は自分の首を鎖で絞めたんだ」

「また、あなたが死んで終わり?」

「そう」と僕は答えた。


 ここ最近、僕は自分を殺して夢から覚めることが多くなっていた。だからと言って現実世界に異常は無い。会社に行って仕事もするし、電車に飛び込もうとも思わない。何もかもが至って普通で、退屈に感じるほどだった。


 朝食を終えて、僕はワイシャツに袖を通した。彼女がアイロンがけしたワイシャツは、いつも新品のように純白でシワが無かった。玄関には磨かれた黒い革靴が並んでいる。それを履くと、僕は就職したてのような青い気持ちになって、背筋がスッと伸びるのだった。


「はい、あなた」


 彼女は埃一つ付いていない鞄を差し出した。僕はそれを当たり前のように受け取る。

 完璧な生活だった。以前の一人暮らしからは、考えられないような生活だった。それは全て彼女によって生み出されていた。


「どうして君は僕なんだ?」


 僕は不意に尋ねた。


「君みたいに完璧な女性が、どうして何の長所もない僕を選んだんだ?」

「私、完璧じゃないわ」と彼女は笑った。

「でも、あなたは完璧な人間に見えるわよ」

「そうかな? 僕は何もかもが平々凡々で、才能にも恵まれなかった不幸な人間だよ。どこが完璧だっていうんだ?」

「長所が無いって言うけど、あなたには短所も無いのよ。まるで、完全な球体のようにあなたには歪みが無いのよ」

「そんなことないさ。短所はたくさんあるよ」

「でも、あなたは巧く隠してる。傍から見たら、あなたは隙一つ見せない完璧な人間よ」

「それじゃ、僕は美しくないのか?」と、冗談めかして僕は言った。

「そうね。美しくないわ」

「それじゃ、なおさら何で僕なんだ」

「それは内緒。誰だって隠し事の一つや二つあるものでしょ。あなただって、私に隠していることがあるはずよ」


 その言葉は何故か僕の心に突き刺さった。


「僕は隠し事なんてない」


 絞り出すように言った。隠し事をした覚えは無いはずなのに、強烈な罪悪感で息ができなくなった。彼女の見惚れるような顔が、途端に溶けるように崩れ落ちた。手から滑り落ちた鞄が床に飲み込まれ、生まれた大きな波紋が僕の身体を揺さぶった。


「君だって、僕に隠してるじゃないか」


 汗が両手に滲んでいる。潤っていたはずの喉が急激に渇きを訴え始めていた。


「僕は君のことを何も知らない!」


 彼女は完璧な人間だった。ただ、彼女がどんな人間か、それを言い表すにはそれだけだった。僕は彼女のことを何も知らなかった。知っていることと言えば、彼女が依然話した、僕と同い年の兄がいたということくらいだった。


「記憶って曖昧な物よ。夢と一緒で」


 彼女は綺麗な顔に戻っていた。しかし、その顔は造り物のように表情が無かった。


「そうであってほしいと思えば、記憶は簡単にすり替わってしまうわ。でも、夢と違って現実は何も変わらない」

「君は僕の何を知っているんだ!」

「何もかも。でも、私はあなたを愛しているわ。愛してしまったの」


 彼女が僕に口づけすると、呼吸が楽になった。大粒の汗が幾つも頬を伝って、倒れた鞄の上に落ちる。


「なんだか変だ。今日はなんだか変なんだ」

「そうね。いつもと違うわ」

「俺は今から普段通り会社へ行って、君の待つ家へ帰るはずなんだ。でも、窓の外が赤いんだ。まるで、夕焼けみたいな色なんだ」


 すると、彼女は震える俺の肩を優しく抱き寄せた。


「でも、大丈夫。これは夢よ」


 僕はそれを聞いて安心すると、ゆっくりと首元のネクタイに手を伸ばした。

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