第23話

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 新日ネット新聞社の社会部フロアは窓のブラインドの羽が広げられて、そこから強い朝日が射し込んでいた。仮眠から戻った当直の記者たちや、「夜回り」の取材を終えた記者たちが机に座り、日勤の記者たちが出社してくるのを待ちわびながら朝刊用の記事作成に取り掛かっている。

 フロアの一番奥の机の「島」で永峰の隣の席に座り、上野秀則が立体パソコンから投影されたホログラフィーの平面動画に目を凝らしていた。それは政治部の社用車の車載カメラが捉えた街の映像だった。平面ホログラフィーの動画を確認しながら、彼はしきりに目頭を摘まんで顔をしかめている。

 永山の席に座って彼のパソコンで同じように車載カメラの平面ホログラフィー動画を見ていた永峰千佳が、視界に入った上野を見て、席を立った。彼女は自分の席まで戻ってくると、椅子の上に置かれた自分の鞄の中に手を入れる。

 首を回して息を吐いた上野の顔の前に、目薬を握った手が隣から差し出された。

「どうぞ、使ってください。よく効く目薬ですから。私もヘッド・マウント・ディスプレイを長時間使ってると、目が疲れるので」

「ああ……悪いな。助かる」

 永峰から受け取った目薬を差す上野を見下ろしながら、永峰千佳は言った。

「残りは私の方で調べておきましょうか。今、スキャニングのブロック密度を上げて設定し直しましたし、シゲさんが帰ってきたら、彼のパソコンも使って全部もう一度スキャンしてみますから」

 上野秀則は薬を差した目をパチパチと瞬きさせながら言った。

「いや、いいよ。シゲさんのパソコンはOSが旧バージョンだから、解析に時間がかかるだろう。それに、別におまえのスキャニング設定が信用できない訳じゃないんだが、やっぱりこういうのは人間の目で確認しないとな」

「でも、一台数時間分の車載カメラ動画を一人で何台分も見るって大変ですよね。目が充血してますよ。大丈夫ですか」

「大丈夫、大丈夫。気になる部分だけを見てるだけだから。それに、あと二台分だし」

 上野秀則は再びホログラフィーの動画に顔を近づけた。

 永峰千佳は他の島の記者たちに視線を向けた。皆、朝刊の記事作成に忙しそうである。窓辺に視線を向けると、複合機の前で勇一松がウェアフォンを耳の下に当てていた。

 上野秀則が動画ホログラフィーに顔を近づけたまま言う。

「朝刊に穴を開ける訳にはいかんだろう。購読者数の少ない薄頁の朝刊とはいえ、ネット新聞はネット新聞だ。ちゃんと時間通りに配信しないとな。勇一松は例の物の製造元の会社に問い合わせているところだ。まだ営業時間前だから、担当者に繋がらないんだろ」

「こんな時間に掛けても、出社なんかしているはずないですよね。こっちを手伝ってくれた方が……」

 その時、上野の部屋のドアが開き、汗に濡れたTシャツを体に貼り付けた山野朝美が、左右のお下げ髪を振り回して飛び出してきた。永峰から借りたヘッド・マウント・ディスプレイを額に上げた彼女は、二人の横に走ってきて言う。

「やりましたあ、指令権ゲットおお! ラスボスも最高得点で撃退しましたぞ」

 山野朝美は嬉しそうである。彼女は飛び跳ねて小躍りした。

 フロアの他の記者たちは、突然現れたお下げ髪の少女に驚き、目を丸くする。永峰千佳が他の記者たちに愛想笑いをしながら頭を下げた。

 上野秀則は動画に目を凝らしながら言った。

「よかったな。パパとママを救えそうか」

「うん、たぶん。ちょっと待ってね」

 山野朝美は急いで神作の席に座ると、その上の立体パソコンを操作した。

「よし。由紀からのVPの譲渡も完了。勲章アイコンもちゃんと表示されてるぞ。あとはコマンドを入力して、指令完了っと」

 彼女は神作の立体パソコンからホログラフィー・キーボードを机上に投影させると、その上で素早く指を動かし始めた。

 その後ろを通って永峰千佳が永山の席に戻りながら尋ねる。

「ふーん。で、どのくらいの数のユーザーに指令を送れそうなのよ」

「一応、四万二千人くらい。でも、由紀の分のVPも加算されたから、その分を分けてあげるってメッセージ欄に書き込めば、宇宙レベルのユーザーも地球に帰還してきて参加すると思う……ので……もっと……ゲッ」

 永山の椅子に腰を下ろしていた永峰千佳は、変な声を上げた朝美を見て尋ねた。

「どうした?」

「二十万人が参加だって……ゲゲッ、三十万人……四十万……どうしよう、どんどん増えてる。この分だと、みんなに配るVPが足りないよ」

 上野秀則が顔を上げて尋ねた。

「だから、なんだよ、その『VP』って」

 永峰千佳が代わりに答えた。

「なんか、獲得ポイントの単位みたいですよ。よくある、レベルアップする度に上がっていくやつでしょうね」

「ああ」

 上野秀則は再び動画のホログラフィー画面に顔を向けた。

 山野朝美は泣きそうな顔で言う。

「ああ、ひゃく、ひゃくまんにん……まだ増えていく。どうしよう、みんな地球に帰ってきちゃう……」

 永峰千佳がアドバイスした。

「みんなに『元の場所に戻れ』って指令したら」

「そしたら、ママとパパを探せない。指令は一回だけなんだよ」

 ホログラフィーのゲーム画面に目を戻した朝美は、頭を抱えた。

「うおおお、に、に、にひゃくまんにん。二百万人ですとお! ああ、あっという間に三百万人まで……」

 椅子から立ち上がったお下げ髪の少女は、机の上の立体パソコンを強く指差す。

「お、おぬしら、何を考えとるんじゃ! 銀河防衛ラインは誰が守るんじゃい! そんなに楽して他人のVPが欲しいのか!」

 山野朝美は頭を抱えて体を海老反らせた。

「ぬおおお、破産じゃ、破産。VP破産じゃ。一人一VPずつ配っても、全っ然足りんではないかあ。どうすりゃいいんじゃあ!」

「馬鹿ねえ。だったら、『応募者多数につき、一番有力な情報を提供してくれた人に全VPを譲ります』ってメッセージに書き足せばいいじゃない」

 後ろからそうアドバイスしたのは勇一松頼斗だった。

 山野朝美はポンと手を叩いて言う。

「ほお、なるほど。クネクネおじさん、頭いいですな」

 椅子に腰を戻した彼女は、早速ホログラフィー・キーボードの上で指を動かし始めた。

「誰がクネクネおじさんよ……」

 腕組みをした勇一松頼斗は流し目で朝美をにらみ付ける。永峰千佳は笑いを堪えた。

 動画の画面を見ながら、上野秀則が口を開いた。

「どうだ、そっちは。何か進展はあったか」

 勇一松頼斗は肩の高さに左右の手を上げた。

「なーんにも。だって、まだ誰も出社してないもの。何度掛けても留守電ばっか」

 そこへ重成直人が息を切らして戻ってきた。上野秀則が顔を向ける。

「ああ、シゲさん、お疲れさまです。すみませんね、無理させちゃって」

 重成直人は永峰の机に両手を吐くと、呼吸を整えてから、右手に握っていたウェアフォンを振って見せた。

「たった今、ネタが入った。空だ。デスクのにらんだ通り、空ですよ」

 彼は上野の前のホログラフィー画像の動画に目を向けた。その視線を追って、上野秀則が言う。

「ああ、これ、政治部の車の車載カメラの映像ですよ。昨夜の分です。何か手掛かりが見つかるんじゃないかと思って」

「じゃあ、上の方を……空の方を見てください。たぶん、神作ちゃんたちは飛行機で連れていかれている。しかも透明の飛行機だ。何か最新の軍事技術だろう。那珂世なかよ湾上空を東に向かって移動したようだ」

 上野と永峰は顔を見合わせた。

 勇一松頼斗が重成に尋ねる。

「どこからの情報なのよ」

「今朝の魚市場から戻ったすし屋のおやじだ。イカ釣り漁船の漁師が、昨夜遅くに船の上を『つむじ風』が通過するのを体験したそうだ。他にも何人か同じような体験をした漁師たちがいる。自然の風じゃなかったのに、上空には何も見えなかったそうだ。だから、朝の魚市場で話題になっていたらしいんだ」

 勇一松頼斗は呟いた。

「ジェット機の風が下に届くことはないわよね。低空で移動していたとすれば、やっぱりオムナクト・ヘリかオスプレイかしら……」

 上野秀則は周囲を見回しながら大きな声を出した。

「別府う、別府はいるか、どこだ」

 低いパーテーションの向うの窓際の応接セットから欠伸交じりの声が返ってきた。

「ふぁーい……ここですう……ここにひまあす……」

 勇一松頼斗が肩を上げて応接セットの方に向かう。

 永峰千佳が重成に尋ねた。

「魚市場って、シゲさん、旧市街まで足を運んだんですか」

「向うの方が人間関係に深みがあるからな。情報の伝播も早い」

 永峰千佳は口を開けて頷く。

 別府博が勇一松に襟を掴まれて連れてこられた。

 椅子を回した上野秀則が尋ねる。

「別府、目は覚めてるか」

 別府博は寝ぼけ眼で答える。

「へえ……まあ、なんとなく……」

 上野秀則は少し横を向いた。

「朝美ちゃん」

 山野朝美は椅子から立ち上がり、別府の後ろに移動すると、しゃがんでから別府にカンチョウをした。体を仰け反らせた別府に上野秀則が再び尋ねる。

「目は覚めたか」

「覚めました。完璧です……くう……」

 尻を押さえて痛みに耐えている別府に、上野秀則は指示を出した。

「昨夜、新首都総合空港から東方向に飛び立った民間のヘリかオスプレイがないか確認してくれ」

「はあ……調べみます」

「私は?」

 そう尋ねた勇一松に上野秀則は言った。

「あんたは防災隊を当たってくれ。永峰は警察の方を頼む」

 永峰千佳が頷く。勇一松頼斗が再び上野に尋ねた。

「軍は調べなくていいの?」

「そっちは俺が問い合わせる。シゲさん、その『つむじ風』が移動したという時間帯は分かりますか」

「いや。すぐに確認してみる」

 重成直人は急いで自分の机に戻った。

 大人たちが慌しく動く中で、ヘッド・マウント・ディスプレイを装着した山野朝美は、周囲をキョロキョロと見回していた。

「千佳お姉ちゃん、これ、便利ですな。ゲーム用のヘッドギアと違うから使い難いと思ってたけど、情報の整理にはもってこいですな」

 永峰千佳は受話器を耳に当てたまま返事をしなかった。

 山野朝美は顔を動かしながらブツブツと続ける。

「ほほう。四方八方に情報が貼り付けられていきますな。ええと、なになに……」

 手を伸ばして空中から何かを剥がす動きをした山野朝美は、何も持っていない手を、書類を読むようにして顔の前に置いた。

「ええと、雪の中で背の高い影と、中くらいの影と、小さい影が並んで二足歩行しているのを見た……雪男か。しかも三人だし。これは関係ないな。ゴミ箱にポイと……」

 彼女は手を横に動かしてから、また別の位置から何かを外す動きをする。

「ええと、これは、葉巻を咥えて、左腕に念力型のエネルギー銃を付けた赤いピッタリした服の人が……」

 ヘッド・マウント・ディスプレイを少し持ち上げた山野朝美は尋ねた。

「ヒョウタンおじさん、パパの骨折はニセ骨折だったんだよね」

 上野秀則は電話の子機を耳から少し離して答えた。

「うえにょだ。そうだ、パパは骨折してない」

 再びヘッド・マウント・ディスプレイを下ろした山野朝美は、また手を横に振る。

「じゃあ、これもポイ。だいたい、パパは赤い服じゃないし、葉巻吸わないし」

 重成直人は朝美に怪訝そうな顔を向けながら受話器を置いた。そのまま上野を覗く。

「デスク、間違いないですね。昨日、キャップたちが津田や郷田たちから救出されて解放された時から、少し後の時間帯です」

 上野秀則も子機を戻して言った。

「ですか。軍の方はやっぱり駄目ですね。取り合ってもらえません。何か、すごく忙しいみたいで」

 隣の散らかった机の奥に子機を戻した勇一松頼斗が言った。

「ハルハルたちを探してくれているならいいけど……。ああ、こっちは無し。防災隊で、昨夜から今朝にかけて海上出動した部隊は無いって」

 上野秀則は左を向いた。永峰の席に座っている別府博が立てた手を横に振る。

「民間機で飛んでいたのは、スーパージャンボジェットだけです。プロペラ機も、オスプレイも、ヘリも、夜は飛んでいません。もちろん太陽光セスナも」

 上野秀則は斜め前の永山の席に座っている永峰に顔を向けた。永峰千佳が報告する。

「警察の方は新首都上空に数機のオムナクト・ヘリを飛ばしていたようですが、海上は管轄が違うので飛んでいないということです。念のため海上警察にも問い合わせましたが、一機だけ飛んでいる警戒ヘリも、漁業域の上空を飛行することは無いそうで、ほとんど臨海物流発進地域とその沿岸の上空のみしか飛行しないそうです」

 上野秀則は背もたれに身を倒して腕を組んだ。

「じゃあ、その『つむじ風』が飛行機だとすると、飛行許可を取らずに不法に飛行していたものか。きっとこれだな、神作たちを運んだ航空機は」

 動く朝美がチラチラと視界に入った上野秀則は、彼女に視線を向ける。山野朝美は空中に手を伸ばしてから顔の前に近づけては、横に振る動きを繰り返していた。

「これも違う。これも。アトランティスは関係ない! もっと真面目に調べろ、馬鹿チンどもが……」

 ヘッド・マウント・ディスプレイの下で頬を膨らませている朝美に、永峰千佳が仕方なさそうに言った。

「後ろに貼ってくる人もいるからね、気をつけて」

 それを聞いてクルリと椅子を回した山野朝美は、ヘッド・マウント・ディスプレイをした顔で空中を見回して言う。

「おお、ホントだ。こっちにも……ん? なんじゃこりゃ」

 朝美は椅子から立ち上がり、空中に手を伸ばした。その手を顔の前に近づけて呟く。

「わー……にんぐ? なんとか、ヒロシ……。誰じゃ、お笑い芸人か」

 眉間に皺を寄せて聞いていた勇一松頼斗が言った。

「warningでしょ。『警告』って読むのよ。『ひろし』にはサンズイが要るでしょうが、まったく」

 山野朝美は顔の前に書面を持ったような体勢で停止したまま、頷いた。

「ああ、ケイコクね。変な名前の人だな。中国の人かな……」

 上野秀則が言った。

「危ないってことだ。なんて書いてあるんだ」

「うーんとね、『それはブラックワードだから、今は使わない方がいいよ』だって」

 また眉を寄せた勇一松頼斗が尋ねた。

「ブラックワード? 放送禁止用語でも使ったの? やっぱり中学生ねえ。なんかイヤラシイ言葉でも書き込んだんでしょ」

 振り向いた山野朝美は、ヘッド・マウント・ディスプレイを額の上に持ち上げて、不機嫌そうな顔を覗かせた。

「違うもん。指令書には『アスキットにさらわれた記者四人の居所を捜せ』って書いただけだもん。特徴も『ノッポのおじさんと、筋肉ムキムキのお兄さんと、美人のオバサンと背の低いお姉ちゃん』としか書いてないし」

 上野秀則は項垂れた。

「ASKITって書いたのか……そういうことをしないために、ビルごとネットから離脱させたんだが……」

 勇一松頼斗が険しい顔で朝美に言う。

「馬鹿ねえ、あんた。どうして書き込む前に大人に確認しないのよ」

 山野朝美は涙目になって口を尖らせた。

「だってオジサンたちは忙しそうだったじゃん。それに、この『アクアK』って人が一番たくさん情報を送ってくれてるし。別に問題ないじゃん」

「どんな情報なんだい?」

 そう尋ねた重成に被せて、永峰千佳が声を裏返した。

「アクアK? ちょっと、朝美ちゃん、それ貸して」

 椅子から腰を上げた永峰千佳は手を伸ばして朝美の頭からヘッド・マウント・ディスプレイを取り上げると、それを自分の顔に装着した。彼女は片笑んで言う。

「イェース。見つけたわよ、アクアK様。こんな所でネットゲームなんかしていたのね」

 上野秀則と勇一松頼斗は怪訝そうな顔を見合わせる。

 別府博が頭の後ろで腕を組んで、朝美に言った。

「ホントに子供だなあ。ASKITなんてワードをネット上で打ち込んだら、連中から狙われちまうじゃないか。朝美ちゃんのこともASKITに知られちゃうよ。そしたら、編集長が真っ先に殺さ……イテっ」

 誰かが後ろから別府の頭を強く叩いた。別府博は頭を押さえてうずくまる。彼の後ろには年配の女性が険しい顔つきで立っていた。社会部部長の谷里素美だった。

 谷里部長は、涙を溜めてうろたえる朝美の顔をじっと見ていた。


 

                 10

 神作真哉は老人をにらみながら言った。

「今の話を聞いて、俺たちに、この協定書に署名しろと言うのか。出来る訳ないだろう」

 老人は淡々とした口調で返した。

「生きて日本の土を踏むか、袋に入れられて運ばれるか、選ぶのは君だ。強制はせん。好きにしたらいい。どちらにしても、ワシはこれを実行するつもりじゃ。協定が成立していなくてもな。力ずくで。だが、できれば協定が存在した方が、奴を騙して奴の膝元に近づきやすい。それだけじゃよ。後は君ら次第じゃ」

 老人の脅迫に神作真哉は反発した。彼はずっと老人をにらんでいる。それを見た山野紀子が口を開いた。

「ならば、私から質問します」

「紀子、焦らなくていい」

 老人をにらんだままそう言った神作に、山野紀子は不敵な笑み浮かべながら言う。

「大丈夫。私はいつも冷静よ」

 春木陽香と永山哲也は、思わず視線を合わせた。

 山野紀子は老人の顔を見て、落ち着いた調子でゆっくりと話し始めた。

「あなたがメリットの少ない協定を日本政府と結んでまでしても、ASKITの軍隊を日本に送り込み、AB〇一八を滅失させようとしていることは分かりました。あなたは、実力を行使しても日本国内にASKITの軍隊を送り込むと言っていますが、おそらく本心では、そんなことは望んではいない。もちろん、そうなればAB〇一八が予測演算を繰り返し、様々な因果の種を巻いて、ASKIT軍が敗北するよう『時の流れ』を仕向けるために、勝機が極めて少ないものとなるということもあるでしょう。しかし、私はあなたの良心を信じたい。お見受けしたところ、あなたは日本人です。あなたは祖国である日本を戦渦に巻き込むことを極力に避けようとなさっておられる。だから、不利な内容の協定でも締結に同意した。私は、そう捉えています」

 老人は微笑みながら山野に言った。

「随分と御人よしじゃな」

 山野紀子は姿勢を正したまま頷いた。

「よく言われます。ですが、いくら人のいい私でも、理解できない点があります。あなたはそこまでしてAB〇一八に妨害されないように事を運び、作戦を実行させようとしているのに、今、こうして私たちに全てをお話しになっておられる。私たちは記者です。そのこともご存知のはず。さっき神作が述べたように、私たちにあなた方の軍事力がいかに強大であるかということについて報じさせる狙いがあるにしても、邸宅内部を見せて回ったり、作戦計画や目的を全て話すというのは、その内容や動機と矛盾します。もし、あなたが本気でAB〇一八を消去しようと考えているのなら、その計画をここで私たちにお話しになることはしないはずです。帰国した私たちが記事にして報じたら、AB〇一八はネット上からあなた方の計画を知り、それに先回りして妨害をしてくるかもしれませんから。あえて失礼を承知で言わせていただくと、私には、今回の協定を含め、あなたの一連の行為は単なるパフォーマンスのように思えるのです。私は、こう考えています。そもそもASKITは、世界中から特許権を集めて、その特許使用料を主な収入源としている組織。ということは、その特許技術が使用されなければ、あなた方の組織を維持していくことは困難になるでしょう。南米戦争が終結に向かっている今、世界経済は戦争特需の反動で縮小に向かうかもしれない。そうなると世界は、軍事産業全盛の市場から通常の産業市場に出来るだけ早く移行しようとする。それには、現状の市場で余った財、特に在庫の武器弾薬を使い切り、戦争前の需要と供給に戻そうとするに違いない。その時必要になるのが、武器弾薬の使用先となる悪役ヒール。国家でもなく、国際法人でもない単なる秘密結社のASKITは、その格好の標的とされかねない。実際、国際社会はその準備を始めているでしょう。きっと、あなた方への国際的批判を高めてくる。そして、批判が高まれば、企業はASKITが保有している特許技術を利用してモノを製造することを止め、特許製品そのものの製造、販売、使用も控えるはずです。そうなれば、あなた方には特許料が入ってこない。組織は疲弊し、その後に物理的攻撃を受ければ、間違いなく壊滅する。そうなることを避けるためには、あなた方は先手を打ってイメージを向上させておかねばならない。人類を影で支配しているヤバイ生体コンピュータを滅失させるために、保有している特許を日本に返却したという事実が報じられれば、ASKITの国際的評価は一転して良くなるでしょう。もしAB〇一八の滅失に失敗しても、保有する最新のバイオ・ミメティクス技術を日本に提供した後なら、あなた方にはAB〇一八を修理することが出来ないという理由が成立し、その責任を免れ、その批判の矛先を日本に逸らすことができる。つまり、この協定は一見してあなた方に不利な内容のように思えますが、実はあなた方ASKITにとっては、それなりのメリットを得た内容になっている。そして、その責任回避を実現するためのイメージ・アップ戦略にマスコミの力を利用しようとしている。だから、この協定の立会人に、この件について事情をよく知っているを指名する必要があった。私たち四人を。気を悪くしないで下さい。全部、私の推測です。ですが、似たようなカラクリは私の会社の労働組合活動でも使われています。労働者の権利のためと言いながら、組合活動を自分たちの権力闘争と出世競争の駆け引きに利用している人間が多くいます。――もし、あなたが本当にASKITの頭領であり、その責任でもって本気で事をなそうとしておられるのなら、なぜ私たちを指名し、ここに呼び、計画を打ち明けたのか、今の私の疑念を払拭できるだけの十分な説明をして下さい。なぜ、私たちなのですか」

 山野紀子は老人の顔を見据えた。老人は少し不機嫌な顔になった。春木陽香が横の山野に目を遣る。山野紀子は机の下に隠して、スカートの上で拳を握っていた。その拳は微妙に震えている。しかし、彼女の目は老人を真っ直ぐに見据えていた。

 老人は山野から視線を逸らすと、少し間を開けてから口を開いた。

「なるほどな。そう疑われても仕方あるまい。じゃが、それは間違えておる。よかろう、説明してやろう」

 山野紀子は、スカートの上の拳を弛めた。

 老人は語り始めた。

「君らマスコミの力を必要としているのは事実じゃ。そして君らは、この件の事情に詳しい。君らに、ここで見聞きしたことを世界に報じてもらいたい。だから呼んだのじゃ」

 口を開こうとする山野を制止して、老人は語り続けた。

「もちろん、リスクは覚悟の上じゃ。この場所も、いずれ知れるじゃろう。じゃが、それは、日本や他国の政府機関が君らの証言や報道内容を分析し終えた後じゃ。まあ、SAI五KTシステムが崩壊した後で分析が出来ればの話じゃがな。君らが記事を発表する頃には、計画は終了しているはずじゃし、この島も引き払っておるはずじゃからのう」

 少し笑みを浮かべながら語った老人は、真顔に戻って山野の目を見ると、言った。

「ワシは、この計画を実行した後のことまで考えて行動しておる。ワシはASKITの頭領じゃ。ワシの号令で動かした兵たちに対しても、その安全を図る義務がある。数百人規模の大隊を送り込んでAB〇一八を消去した後、その兵士たちはどうなる。おそらく、AB〇一八を失った日本政府は彼らに攻撃を仕掛けてくるはずじゃ。彼らを悪役ヒールに仕立て、SAI五KTシステムの崩壊によって混乱した社会からの非難を彼らに向けさせるためにな。じゃが、君らが事実を報じてくれていれば、国際社会が彼らを守ってくれる。施設からの撤収と国外への脱出も容易に実現できるはずじゃ」

 山野紀子は慎重に言葉を選びながら、老人に確認した。

「つまり、AB〇一八への攻撃と記事発表は、ほぼ同時または時間を空けずに実施すべきだと」

 老人は頷いた。

「君らとの連携は必要じゃ。そうすれば、上手くいく」

 神作真哉が口を挿んだ。

「それはどうかな。読みが甘いんじゃないか。おそらく、俺たちが記事を発表したとしても、あんたの兵士たちは全員逮捕されるか、戦闘の末に殺されるかの、どちらかだと思うぞ。この前の貨物船の傭兵たちのように。そして、その次は、彼らに指示を出したあんただ。ここを引き払って別の場所に逃げたとしても、最終的には捕まることになる。これまでとは違い、次は移動の出発点であるこの島が判明した後の捜索だからな。あんたのその後の移動経路を見つけ出すことは容易い。国連の共同監視衛星だけでも、地球上の全面をカバーしているんだぞ。あんたに逃げ場はないさ。いずれ見つかり、逮捕される」

 老人は鼻で笑うと、神作に顔を向けずに言った。

「心配はいらん。ワシは絶対に見つからん。その自信があるから、君らに全てを打ち明けているのじゃよ」

 そして、老人は山野を指差して言った。

「君は、ワシが責任回避のためのイメージ・アップ戦略として君らを利用しておると言ったな。じゃが、実際はその真逆じゃ。ワシは、この危険な任務に従事してくれる兵士たちを、任務終了後に、無事に第三国に脱出させるために、君らの力を借りようとしておるのじゃよ。君らが真実を正確に公正に的確に報じてくれれば、一発の銃弾も発せられること無く事態が収束する。SAI五KTシステムの崩壊によって多少の犠牲は出るかもしれんが、それは已むを得んことじゃ。諦めるしかない」

 老人の最後の言葉を聞いた山野紀子は顔を傾けて、老人を面罵せんばかりに返した。

「諦めるですって? それこそ正に、ただの責任放棄じゃないの。AB〇一八は、あなたたちの配下のNNC社が造った物でしょ。日本に売り込んできたのもあなたたち。企業や団体、組織ってものには、それなりの責任ってものがあるんじゃないの? 量子銃でビビビーってやって、パッと消しちゃうことが適切な責任の取り方ではないことは、誰が聞いても分かる話じゃない。この話を聞いたり読んだりして、あなたのことを、『ああ、このお爺さんは人類のためにリスクを犯してまでも、計画を実行しようとしているのか、立派な人だな』とか、『極力に戦闘を回避しようとしていて、しかも自分の部下の兵士たちの安全まで考えているなんて、いい人だなあ』とか思う馬鹿がいると思う? もし、そんな考えが頭に過ぎる人がいるとすれば、その人は本当に精神が幼い人よ。社会性が無い。基本的な正義感も鈍磨している。あなたと同じよ。普通の人は、誰もあなたの話にも計画にも賛同しないはずだわ。これっぽっちも。こんなことを記事にして報じても、誰もあなたたちのことを擁護してくれないわよ。まあ、マンガだとか、学識本ばかり読んでいたり、ゲームだとか、資格取得の勉強だとか、そういうことにばかり時間を使っていて、普通の感覚が分からなくなってる人は、直感的に、あなたがおかしなことを言っているとは気付かないかもしれないわね。人としての経験を削っちゃってるから。何かが起きた時に、そこからどんなことが起こるのか、どんな事態になるのか、どんな可能性が考え得るのか、自分の経験からより多くの事態を想定して、他人の苦しみや痛みを想像できるのが、社会人でしょ。多少の犠牲は已むを得ないですって? よく平気でそんなことが言えるわね。一人一人の人間が、どんな苦しみを負うか分かってるの? 自分の兵の安全は確保して、関係も無い人々の生活には何も目配りしないんだ。しかも、自分はさっさとトンズラですか。ご立派ですこと」

「紀子、やめろ。無駄だ」

 神作真哉が、何ら反応を示さない老人の顔をにらみながら、山野に言った。

 山野紀子は神作に反論する。

「どうしてよ。この人、自分の責任を上手く誤魔化そうとしているのよ。私たちを利用して。しかも、後先の事なんて何も考えてないじゃない」

 神作真哉は言った。

「いや、この爺さんは分かっているんだ。なぜ、世の中から汚職や不正が無くならないのか。なぜ、司法を滅茶苦茶にした裁判員制度が廃止となったか。なぜ、インターネットやテレビから不適切な性的表現が消えないのか。どうして、社会からイジメが無くならないのか。どうして障がい者や老人などの弱い人にとっての本当の福祉が実現しないのか。理由は全て同じだということをな。そして俺たちが日々、そのことに悩んでいるということも。この人は、それをよく理解しているんだよ。社会性と正義感が鈍磨した『一見して普通の人間』が、自分たちが生まれた頃から既に存在する『社会』の中に実は多く潜んでいると言うことを、よく知っている。だから、俺たちに記事を書かせれば、世の中は動くと思っている。そう踏んでいるのさ。何故なら……」

 山野紀子は老人を見据えて言った。

「この人自身が、最もそういう人だからね。打算的で功利的。絶えず『利得』を意識している。確かに、そういう目をしているわよね。だから世論の動きも読める。そのつもりなのね、きっと」

 神作真哉は頷いた。

「ああ、そうだ。俺はこの爺さんを軽蔑するよ。こういう人間は嫌いだ」

 山野紀子も同意する。

「そうね。私もよ。自分の言っていることの何処に問題があるのかもか分かっていない。たぶん、ウチの雑誌の読者と同レベルね」

 神作真哉が言った。

「最低だな」

 山野紀子も言う。

「ええ、最低よ」

 夫婦は左右から老人を強く蔑視した。



                  11

 新日ネット新聞社会部フロアの一角で、別府博が頭を押さえて机に伏せている。その後ろで、谷里素美部長が仁王立ちのまま金切り声を上げた。

「あなたたち、何やってるの。いったい今、何時だと思ってるのよ!」

 すぐ横の椅子に座ったまま、上野秀則が谷里に食って掛かる。

「何時だろうと関係ないでしょう。神作たちがまだ帰ってきてないんですよ。早く居場所を見つけ出さんといかんでしょうが!」

 勇一松頼斗も怒りをぶつけた。

「あんた、自分の部下が危険な目に遭ってるっていうのに、今までどこで何してたのよ。まさか、仮眠室でいびきかいてたんじゃないでしょうね」

 谷里部長は言い返す。

「違うわよ。下で他の部署を回ってたのよ。穴埋め対策のために。社会部長には社会部長としての仕事があるのよ!」

 上野秀則は腕組をして、プイとそっぽを向いた。

「へえ、それは大変ですね。もう次の人事の調整ですか。言っときますが、指示に従うつもりはないですからね。こういう緊急事態ですから。俺たちは神作たちの居場所を追いますよ。何としても見つけて、救出しますからね」

「あら、そう」

 谷里素美は別府が座っている永峰の席の机の上に大きなレジ袋を荒っぽく置いた。

「せっかく朝ごはんを買ってきてあげたのに。食べたくないなら、好きにすればいいわ。どうせ栄養も摂らずに、回らない頭でいいかげんな仕事をするつもりなんでしょうけど」

 勇一松頼斗が眉を吊り上げて言う。

「朝ごはんどころじゃないでしょ。朝美ちゃんだって夜食も取らずに一晩中、中学生なりに頑張ってたのよ。あんた、なに呑気なことを言ってるのよ」

「どっちが呑気なのよ。こんな大事な時に中学生の力なんかを頼って。あなたたちは、それでもプロの記者なの」

「だれも頼っちゃいないわよ。彼女なりに必死に頑張ってるって言ってるの。あんたこそ部署回りなんかやってる場合じゃないでしょ。少しは何か手伝いなさいよ」

「――私は、私なりの方法でやってるのよ……」

 少し控えめにそう言った谷里素美部長は、すぐに顔を上げて大きな高い声で怒鳴った。

「とにかく、関係ない人は、このフロアから出て行ってちょうだい!」

 反射的に椅子から腰を上げようとした別府博を勇一松がにらみ付けた。別府博は椅子に腰を戻す。

 神作の席の向うで、山野朝美は目に涙を溜めて谷里をにらみ付けていた。

 深く長い溜め息を吐いた谷里部長は、大人の記者たちの顔を順に見回しながら、声の調子を静めて言った。

「だいの大人が五人もいて何やってるの。朝美ちゃんはまだ中学生なのよ。両親のことを心配するのは当然でしょ。大人のあなたたちが、ちゃんと寝かせてあげないと駄目じゃない。こんな時間なのに朝食も取らせないで……」

 彼女は机の上のレジ袋の中から、サンドイッチとおにぎりを取り出し、神作の机の方に歩いていった。朝美の前にそれらを置いて言う。

「難しいことは大人に任せて、あなたは朝食を取りなさい。あらあら、Tシャツも汗びっしょりねえ。こんなことだろうと思って、着替えのTシャツとか、いろいろ適当に買ってきたのよ。サイズが合うか分からないけど、下の当直フロアの更衣室に置いてあるわ。当直フロアにはシャワー室があるから、そこで汗を流してさっぱりして、早く着替えてらっしゃい。女の子なんだから、身だしなみはちゃんとしないと駄目でしょ」

 山野朝美はキョトンとした顔で谷里の横顔を覗いていた。

 谷里素美部長は上野の方を向いて言う。

「経済部やら文化部やら回ってたんだけど、なんとかスポーツ部と話がついたわ。丁度、オディール・オットシイとかいう有名なバスケットボール選手の引退を懸けた試合が米国であるそうだから、その記事を膨らませて、朝刊の社会面の足りない容量は埋めてくれるそうよ。そういうことだから……」

 横を向き、社会部フロアを見回した谷里部長は、声を張った。

「今日の朝刊は、現時点で完成している記事だけで結構よ。同じフロアで働いている同僚が政府に利用されて、どこかに連れ去られたまま、今朝になっても帰って来ないのよ。もう、勝手な取材をしているとか、ちょっと連絡が取れないという話じゃないでしょ。それなのに、他のチームの記者だから関係ないという人は、今すぐ、この社会部フロアから出て行ってちょうだい! そんな記者は、この社会部には必要ありません!」

 谷里の高い声がフロアに響き渡った。永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを持ち上げる。上野秀則も、勇一松頼斗も、驚いた顔で谷里を見ていた。

 谷里部長は厳しい顔をフロアの他の記者たちに向けたまま続ける。

「下の週刊誌社の記者たちに自分たちの持ち場を荒らされて、あなたたちは恥ずかしくないの。ここは新聞の社会部よ。どうして自分たちの方から、ここのチームを手伝おうとしないのよ。この人と、あの人は下の週刊誌の人間で、部外者でしょ。まして、この子は中学生なのよ。今この人たちがやっていることは、本来、あなたたちが手伝わないといけない仕事でしょ。なにボサッとしているの、さっさと腰を上げなさい!」

 そして上野の方を向いて言う。

「あなたも、フロアデスクなんだから、ちゃんと仕切りなさい。徹夜明けで朝食も取らずに無理するから、頭が回らないのよ。少しは自分の歳も考えなさい」

 谷里素美は朝美の腕を掴んで立たせた。

「ほら、下に行くわよ。ここにいたら、みんなの仕事の邪魔でしょ。あとはプロの大人たちに任せなさい。それとも、お父さんとお母さんが見つからなくてもいいの?」

 山野朝美は首を横に振る。

「でしょ。じゃあ、二人が帰ってきた時に、そんな汗ベッタリのまま迎えるつもりなの? 下の食堂も、まだこの時間なら人も少ないから、そこで朝ごはんを食べたら、シャワーを浴びるわよ。ほら、急いで、急いで」

 谷里素美は、おにぎりとサンドイッチを手に持った朝美を連れて、ゲートの方へと歩いていった。

 重成直人と別府博、永峰千佳、勇一松頼斗は、二人がフロアから出て行くまでその背中をじっと見つめていた。

 他の記者たちは上野たちがいる机の「島」に顔を向けている。視線に気付き我に帰った上野秀則は、急いで立体パソコンからMBCを引き抜くと、他のMBCとそれを重ねて椅子から立ち上がった。後ろを向いて両手を上げた彼は、動画を見続けて充血した小さな目を見開いて、フロア全体に届くように声を張る。

「よーし、みんな聞いてくれ。このMBCの中に動画のデータが入っている。政治家や企業家たちの動向を追って、政治部の記者たちが新首都中を乗り回している高級社用車の車載カメラの映像だ。四方八方を映しているぞ。この中から不審なオムナクト・ヘリか、オスプレイの姿を見つけて欲しい。どうも、透明になる何らかの措置を施しているようだ。神作と永山たちはその乗り物に乗せられて那珂世湾方向に移動したと思われる。あいつらが乗せられた場所と、飛んで行った方角を知りたい。この新首都内で乗せられているはずだから、絶対に一度はどこかに着陸している。その際に、きっと姿も見せているはずだ。徹夜明けなのに申し訳ないが、みんなで手分けして映像を確認してくれ。それから、他にも裏をとってもらいたい事がある。まだ体力が残っている者は、そっちのソファーの所に集ってくれないか。俺から指示を出す」

 上野秀則は隣の「島」の中堅記者にMBCの束を渡すと、応接セットの方へと速足で歩いていった。

 机の上に置かれたレジ袋の中に手を伸ばしている別府の前の席で、重成直人が横を向いて永峰に尋ねた。

「その『アクアK』って、例のアイツかい」

 再びヘッド・マウント・ディスプレイを顔の前に降ろしていた永峰千佳は、机の上で手を右に左に動かしながら、重成に答えた。

「ええ。今、本物かどうか、確かめている最中です……でも、このウォールの立て方からすると……ああ、もう、ウザイ。たぶん、本物ですね。こんな面倒くさいセキュリティーを張って接続するのは……ああ、なに? 変化するじゃない。モーフィングかっつうの、まったく……」

 ブツブツと言いながら左右の手を動かしている永峰を見て、重成直人はそれ以上話しかけなかった。

 勇一松頼斗が重成に尋ねた。

「誰なのよ、その『アクアK』って」

 そこへ山野朝美が走って戻ってきた。

「ああ、ウェアフォンを忘れちった」

 彼女は神作の机の上の自分のウェアフォンを取ると、慌てた様子で言った。

「じゃ、ひとっ風呂……じゃない、ひとっシャワ浴びてくるね。千佳お姉ちゃん、あとよろしく」

 そう言って駆け出した朝美に、ヘッド・マウント・ディスプレイをした永峰千佳は手を横に振ったり、クルリと回したりしながら言う。

「ああ、朝美ちゃん。右から三番目のシャワーは、壊れてて水しか出ないからね」

 一時停止した朝美は、手を振ってから駆け出した。

「オーケー、オーケー。ありがと。行ってきます」

 振り返って朝美を見ている勇一松に、椅子から腰を上げた重成直人がさっきの質問の答えを小声で言った。

「ハッカーだよ。世界中の諜報機関が正体を探っている、謎の天才ハッカー」

「ハッカー? 犯罪者じゃないのよ、それ」

 声を大きくした勇一松に、重成直人は口の前に人差し指を立てて言った。

「シー。――どうも、千佳ちゃんが、唯一、そいつとコンタクトが取れた人間らしい」

 そこにまた、山野朝美が駆けて戻ってきた。彼女は永峰の机の横に横滑りしながら止まると、おにぎりを頬張っている別府の前に体を出して、レジ袋の中を覗く。

「飲み物も貰っとかないとな。喉が渇くから……」

 重成直人は気にせずに、勇一松に話し続けた。

「この『アクアK』ってのは、ペンタゴンやモスクワの秘密警察のデータベースからも情報を盗み見ているそうだ。相当な凄腕だよ。この前は、モスクワの科学アカデミーの保管記録が全部覗かれたそうだ」

 レジ袋の中のペットボトルを選んでいた山野朝美の耳がピクリと動く。

 勇一松頼斗が眉を寄せた。

「モスクワ科学アカデミーって、このまえ最高強度のセキュリティープログラムを開発したって発表したところでしょ。そこがやられたの?」

 重成直人は顔の前で手を小さく振った。

「ま、だからかもしれんな。奴にとっては、腕試しだったんだろう」

 レジ袋の中からレモンティーのペットボトルを取り出した山野朝美は、永峰に告げた。

「あ、千佳お姉ちゃん。そのモスクワがくがくデミー何ちゃらにある『スフィア星人の忘れ物』は、私のモノだからね。樺太でマンモスの骨と一緒に見つけたのは、私だから、今度『みんじさいばん』するって、その人に伝えといて」

 ニヤリと片笑んでから、山野朝美は再び駆けていった。

「ああ、うん、分かった……すふぃあせいじん?」

 そう言って、ヘッド・マウント・ディスプレイを付けた頭を傾けた永峰千佳は、また声を上げた。

「ああ、もう。ここも。なんで次々と変化するのよ。ややこしいわね。この前よりレベルアップしてるじゃない。少しは落ち着けっつうの……」

 彼女は苛立ちながら、何かを掴んで退かすように手を動かし続けた。



                  12

 山野紀子と神作真哉は、テーブルの両側から老人の顔を冷ややかな目でにらんでいた。

 老人は一度だけ溜め息を吐くと、再び、静かに語り始める。

「自分で自分の感覚や価値観を見直そうともしない怠け者が、人口の大多数じゃよ。机の上に置いてあるパソコン以下の人間どもじゃ。コンピューターは日に何度も自分を修正するからの。不要なコンピューターが廃棄処分されるのなら、価値序列でそれに劣る怠け者どもが処分されても、仕方ないじゃろうな」

 山野紀子と神作真哉は顔を見合わせた。二人の非難も蔑視も老人には何ら届いていない様子だった。山野紀子は呆れ顔で肩を落とし、神作真哉は椅子の背もたれに強めに身を倒した。老人はテーブルに視線を落としたまま、ほくそ笑んでいる。

 すると、永山哲也が静かに口を開いた。

「SAI五KTシステムの停止で被害に遭う人々が、全てそういった人間だとは限らないと思いますが」

 老人は永山の顔を見て言う。

「どうじゃろうな。大抵の人間は、そういう怠け者じゃ。字面を目で追ったり、言葉を耳で聞いたりはしても、深く考えて思考しようとはしない。過去を顧みようとはせず、話の本質が何なのかを見つけ出そうともしない。この話でも、そうじゃ。諸君でさえも、出来事の本質に気付いていない」

「ならば、記憶を戻して、僕から質問させてもらいます」

 そう言った永山の目を、老人は刺すような視線でにらみ付ける。

 永山哲也は臆することなく語り始めた。

「僕らがこの事件に首を突っ込んだきっかけは、時吉浩一弁護士からのネタの放り込みでした。その父親の時吉総一郎はハニートラップを仕掛けられていた気配がある。NNC社はNNJ社を使って女性二人に金員を渡し、時吉総一郎に近づかせた。狙いは、彼を傀儡にして司時空庁長官の椅子に座らせるため。田爪瑠香がタイムトラベル理論の再検討やタイムマシンの欠陥について研究するための資金を提供していたのもNNC社。つまりあなた方は当初から、僕らがこの事件の取材を始めるずっと前から、司時空庁に狙いを定めていたということです。タイムトラベル事業に。もしあなた方が司時空庁から何かの情報を盗み出すつもりなら、例の『刀傷の男』を使って実行すれば済むことです。僕らから取材データを盗み出したように。だが、それをせずに、わざわざ時吉総一郎に女を近づけてまで司時空庁に彼を送り込もうとしたということは、あなた方は司時空庁長官でなければ知り得ない情報か何かを欲しがったということでしょう。そして、きっとそれは、僕が南米から送ったタイムマシンに関係している。あれは司時空庁が量産してきたタイムマシンとは異なる大きさでした。形状も違う。僕が送ったマシンが二〇二五年の爆心地に到達していたとしても、大きさや形状の異なる他の機体と重なることは無い。二〇二五年の爆発の原因となった量子反転爆発は空間上で物質が重なって存在してしまうために生じる現象です。にもかかわらず、実際に量子反転爆発が起こったということは、僕が送ったタイムマシンは別の時代に飛んで、二〇二五年では他の機体同士が重なったか、あるいは、二〇二五年のあの場所に、僕が送ったタイムマシン、つまり、田爪博士が製造した最新式のタイムマシンが出現していて、そこに、それとそっくり同じ形状の別の田爪型タイムマシンが現われ、その二機が重なったかのどちらかです。ですが、後者が起こったとすると、田爪博士が戦地である南米の山奥で密かに製造していたタイムマシンと全く同じ形状の物がもう一機この世に存在したということになる。しかし、それはない。田爪博士は秘密裏にあのタイムマシンを製造していたはずだから。もう一機あるはずがない。では、僕が送ったタイムマシンはどこに行ったのか。二〇二五年の爆発の原因は何だったのか。僕がタイムマシンに積み込み、爆心地で発見され、南米戦争の原因となった耐核熱金属板はどこから来たものなのか。それらを知る手掛かりを司時空庁は持っていて、それは長官権限でなければ知ることが出来ない。だからあなた方は時吉総一郎を長官として司時空庁に送り込もうとした。僕はそう推理しています。そして、その推理の正誤を確かめるには、どの機体とどの機体が重なったのかを明らかにしなければならない。タイムトラベルして二〇二五年のあの爆心地に出現したのはどの機体なのか。――この十年間司時空庁が送り続けてきたタイムマシンはタイムトラベルなどしていなかった。高橋博士も田爪博士も第一実験と第二実験でそれぞれタイムトラベルに失敗している。いや、高橋博士についてはまだはっきりしていませんが、田爪博士の話によれば、おそらく死亡している。とすると、やはりタイムトラベルに成功した可能性が高いのは、僕が送った田爪博士の最新機だけです。津田長官の話によれば、あなた方は二〇三二年に司時空庁からバイオ・ドライブを奪い取っている。あの中には田爪博士の最新機の設計図が書き込まれていたはずです。あなた方がそれを基に、その通りにタイムマシンを造ったのだとしたら、田爪博士の最新式タイムマシンはこの世に二機以上存在したことになります。そして、それを二〇二五年のあの爆心地に送れば、出現したタイムマシンは僕が南米から送ったタイムマシンとぴったりと重なり、量子反転爆発を引き起こすことになる」

「おい、永山……」

 慌てた様子で神作真哉が永山に顔を向けた。山野紀子も永山に言う。

「なに言ってるのよ、哲ちゃん。せっかく司時空庁のタイムマシン製造工場に危ない潜入までして、機体の確認をしてきたんでしょ。哲ちゃんが送ったタイムマシンと司時空庁の量産機の大きさや形が違うのなら、哲ちゃんが送ったタイムマシンが爆発の原因ではないということが証明されたようなものじゃない。どうして蒸し返すの」

 永山哲也は首を横に振る。

「いや、証明されたとは言えません。今、僕が話した可能性が考えられますから」

「哲ちゃんが世界中からの批判に晒されるのよ。命も狙われかねないわよ」

「いいんです。これはパラレル・ワールドの存在の有無を明確にする重要なポイントでもあります。そして、戦争の原因をはっきりさせ、今後の世界で新たな戦争が起こらないようにするためにも、明確にしなければならない事実です。それに、もし僕にも責任の一端があるのだとしたら、その責任を果たさなければなりません。これが今の僕にできる責任の果たし方です。今、僕がやらねばならないことなんです」

「永山先輩……」

 春木陽香は永山の顔をじっと見ていた。彼の瞳は揺らぐことなく老人を見据えている。ナオミ・タハラも老人の横で永山を凝視していた。

 永山哲也は老人の顔を見て言った。

「あなた方は、あのタイムマシンについて、何か秘密を知っているはずだ。教えてください。タイムトラベルやタイムマシンについて、あなた方は何を隠しているのですか。全てを明らかにして欲しい」

 老人は永山をにらんで言った。

「それにワシが答えたとして、君は何の確信をもってこの協定書に署名するつもりかね」

「人類が同じ過ちを二度と繰り返さないという確信です」

「君の人生は破滅するかもしれんぞ」

「僕一人の犠牲でこれ以上国際紛争が激化することが無くなり、平和が実現するのなら、安いものです。激安バーゲンセールですよ」

「見ず知らずの愚民たちのために人生を賭すつもりか」

「記者ですから。覚悟の上です」

「家族はどうする。巻き込まれるぞ」

 永山哲也は少し間を空けると、真っ直ぐに老人を見て、もう一度頷いた。

「分かっています。僕なりに責任はとるつもりです。家族は守ります」

 老人は黙って永山の悲しげな顔を見ていた。その横で立ったまま、ナオミ・タハラも永山の顔を見つめている。

 老人は目を瞑って言った。

「いいじゃろう。その覚悟、気に入った」

 そして、目を開いて横を向き、手を上げた。

「タハラ。部屋を移りたい。押してくれ。諸君もついて来るんじゃ」

 タハラが老人の車椅子の後ろに移動する。老人はタハラに押されて部屋を出ていった。

 神作真哉と山野紀子は再び顔を見合わせた。

 永山哲也は目の前の純銀製の万年筆を握り、椅子から腰を上げる。

 神作真哉はファイルの一冊を山野に渡すと、残りの一冊をを持って立ち上がった。老人を追って部屋から出て行った永山哲也を追いかけようとした彼は、立ち止まってテーブルに戻り、純銀製の万年筆を手に取ってから、部屋から出て行った。それを見た山野紀子も万年筆を持って神作を追いかけていく。春木陽香はそのまま山野を追いかけた。

 テーブルの上には、春木陽香が座っていた席にだけ銀色の万年筆が残されていた。



                  13

 新日ネット新聞社会部の記者たちは、机の上に浮かべたホログラフィーの平面動画を真剣な顔でにらんでいた。政治部の記者が使用した社用車の車載カメラの動画である。

 トイレから戻ってきた上野秀則が、永山の席に座っている永峰に尋ねる。

「どうだ、永峰。そのハッカー……」

 周囲を見回した彼は、少し声の音量を落とした。

「その『アクアK』とかいうハッカーからの情報は」

「ええ、さっきMBCに落としました」

 ヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま、宙で手を動かしている永峰千佳がそう答えると、横の席の重成直人が一枚のMBCを机越しに上野に渡した。

 上野秀則はそれを立体パソコンに挿入すると、MBCの中のデータをホログラフィーで宙に浮かべた。その分厚い冊子のようなホログラフィー画像を見て、彼は思わず言う。

「うわ、結構な量だな」

 永峰千佳が手を動かしながら頷いた。

「はい。一応、今、こっちでも整理してますけど、全部関係があるんですかね……はい? どうして私のスリーサイズを入力しないといけないのよ。冗談じゃない。別のバックドアは……」

 永峰に視線を送りながら椅子に腰を降ろした上野秀則は、隣の勇一松に尋ねた。

「まだ繋がってるのか」

「みたいよ。なんか、見た感じでは、この子、そのハッカーのいい遊び相手にされているみたいだけど」

 重成直人が口を挿む。

「他の連中は遊び相手にすらならなかったってことだよ。英国MI6の電子情報部隊も相手にしてもらえなかったのに、千佳ちゃんはたいしたものじゃないか」

 上野秀則は小さな目で何度も瞬きしながら、永峰を見た。

「この子、なんでウチに入社したんだ?」

 そして、目の前に浮かぶ分厚い資料のホログラフィーに触れて、頁を捲っていった。彼は新首都の地図上に棒グラフが立てられた頁で手を止める。

「ええと、これは確率データか。香実区南部の開発地域に集中しているな。何の確率なんだよ。分かんねえじゃねえか」

 上野秀則は頁を捲った。今度は世界地図の上に、赤い細い直線と青い曲線が都市と都市を結んで無数に引かれている。

「こっちのは、なんだ、航空機と船便の路線図か。海外路線ばっかりかよ。しかも、普通の定期便ばっかりじゃねえか。神作たちがこんな便で連れ出されたわけないだろうに」

 隣の席で、勇一松頼斗が机に肘をついて言う。

「だから、からかわれているんじゃないの」

 その向かいで、ヘッド・マウント・ディスプレイをして手を動かしていた永峰千佳が、両手で四角い箱を挟むような体勢で停止した。

「よーし、捕まえた。もう逃げられないわよ。ふう」

 上野秀則が両眉を上げて言う。

「ど、どうなったのか分からんが、上手くいったみたいだな。すごいな、おまえ」

 永峰千佳は、箱の上に何かを重ねるような動きをしながら言った。

「何か彼に伝えることがあれば、早くて言ってください。また逃げられますから」

「あ、分かった。ええと……」

 上野秀則が考えていると、重成直人が永峰に言った。

「さっき朝美ちゃんが言ってた宇宙人の話でもして、時間を稼いだら」

 永峰千佳は顔を少し重成の方に向けて答える。

「あ、そうですね。何でしたっけ。ええと……」

「スフィア星人とか言ってなかったかな。忘れ物がどうしたとか、樺太でマンモスの骨と一緒に見つけたとか」

「ああ、そうでしたね。よし、伝えてみよう」

 空中でキーボードを叩くように指を動かし始めた永峰を怪訝な顔で見ながら、上野秀則はホログラフィー文書の頁を捲った。

 横の席で机に凭れてそれを覗いていた勇一松頼斗が、上野の手を握る。

「ああ、待って。これ、どっかの空港に今日到着した便よね」

 上野秀則は勇一松が指摘したホログラフィー文書に目を向けた。一覧表に無数の英文字と数字が並んでいる。その中に、一つだけ赤くマーキングしてあるものがあった。それを読んだ上野秀則は眉を寄せる。

「そうだな。――シカゴか。到着時間と、到着した機体の機種識別番号に製造番号かあ。どうしてこんなに細かく……あ? マジか、これ、アメリカ空軍のデータじゃねえか」

「何か関係があるのかしら」

「さあ……」

 上野秀則は眉を寄せたまま首を傾げた。

 永峰千佳が大きな声を出す。

「はあ? そっちの情報? VPとかいうポイントは要らないの?」

「どうしたんだ」

 顔をあげて上野が尋ねると、永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイを少し持ち上げて説明した。

「ああ、いえ。アクアKが、朝美ちゃんたちが貯めたVPは要らないから、その宇宙人の忘れ物の情報をくれって」

「じゃあ、そうしてやれよ。苦労して貯めたんだ。無くなったら可哀そうだろ」

 そう言いながら、上野秀則は再びホログラフィー文書に険しい顔を向けた。

「シカゴか……」

 何かに引っ掛かった様子で彼が暫らく考えていると、隣の永峰の席に座ってサンドイッチを食べている別府博が言った。

「あ、そういえば、オディール・オットシイが出る試合って、シカゴ・ニュースタジアムじゃなかったでしたっけ」

「バスケは関係ないだろ」

「いやいや、分かりませんよ。その飛行機、もしかしたら、オットシイが乗っていたプライベート・ジェットかも。彼、ASKITの一員だったりして」

 勇一松頼斗が上野越しに別府に言った。

「違うわよ。この飛行機、西海岸から入って来てるもの。彼、加入予定のヨーロッパリーグと交渉中でしょ。ジェット機で渡米するなら、東から飛んでくるはずよ」

「……」

 険しい顔をして資料データを見つめている上野の斜め前で、永峰千佳がブツブツと言っている。

「形? 色鉛筆と紙って……絵でも描けっていうの。知るかっつうの。一〇〇〇PVあげるから、それで我慢しなさい」

「ああ、永峰、ちょっと待った」

 上野秀則が短い腕を前に出した。永峰千佳は再びヘッド・マウント・ディスプレイを額に上げる。上野秀則はホログラフィーを指差して、永峰に言った。

「そいつと交渉してくれ。絵を渡す代わりに、この飛行機の搭乗者リストをくれって。パイロットからキャビン・アテンダントまで全員。――別府、下に行って朝美ちゃんを呼んで来い」

「はあ? シャワー中でしょ」

「いいから早く行け。トゥン!」

 上野に叱られた別府博はサンドイッチを咥えたまま、ゲートへと走っていった。

「デスク、こっちを見てください」

 他の島の記者の一人が上野を呼んだ。上野秀則は椅子を回して後ろを向く。手招きをしているその記者の机まで移動しながら、彼は尋ねた。

「何か見つかったか」

 その記者は机の上の立体パソコンの上で再生させている四面のホログラフィー動画を指差しながら言った。

「議員を追って、香実区の田園地帯を走っていた車のカメラ映像です」

 上野秀則はそれを覗き込みながら言う。

「ああ、東西幹線道路だな。樹英田区に渡る橋の上か。蛭川の方だな」

「こっちの右サイドのカメラ映像……ああ、ここです」

「んん……なんだ……」

 その記者が指差した箇所では、随分と遠くの暗闇の中で小さな光点が下に白い線を垂らしながら、その方向に移動していた。

「オスプレイに見えませんかね」

 上野秀則は更に顔を近づけて目を凝らした。

「……ぽいな。これ、首都墓地の向こうだよな。ってことは、開発地帯の辺りか」

「まあ、その向こうの総合空港に着陸するオスプレイかもしれませんけど」

 上野秀則は薄く髭を浮かべた顎を触りながら、首を傾げた。

「いや、それにしては、変じゃねえか。あの空港で、なんで機体から真下にサーチライトを照らしてるんだ? 降下速度もやけに早いし」

 後ろの島から勇一松が声をかける。

「デスク、ハッカーから貰った、さっきの確率データ」

 振り向いた上野秀則は、勇一松が指差しているホログラフィーを見ながら呟いた。

「香実区南部の開発……」

 振り返って前を向き直した彼は、車載カメラの動画に顔を近づけた。少し早送りしてみると、動画に映っていた小さな飛行物体は、今度は上昇して、画面の端に消えていく。

 上野秀則は悔しそうに顔をしかめた。

「くっそー、ここまでしか映ってねえかあ……」

「他に映像がないか探してみます」

「たのむ」

 奥の机の「島」に戻ってきた上野秀則は、椅子に腰を下ろしながら言った。

「永峰、どうだ、そっちは」

 永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま答える。

「情報は持っているって。でも、渡すのは絵の出来次第だそうです」

 振り返りながら、上野秀則は大きな声で言った。

「朝美ちゃんは、まだか!」

 彼は苛々としながら、朝美を待った。

 


                  14

 タハラに車椅子を押されて、老人は長い廊下を移動していく。その後に永山哲也と神作真哉が続いた。その更に後ろを歩いていた山野紀子が、隣を歩く春木に小声で言う。

「トリは、あんただからね。ちゃんとバイオ・ドライブについて質問するのよ。今、どこに在るのか。せっかく、みんなが流れを作ったんだから。自然な流れで話を持って行きなさいよ」

「分かってますよ」

 春木陽香は頬を膨らまして口を尖らせた。

 暫らく廊下を歩くと、老人とタハラはドアを開けて部屋の中に入った。記者たちも中に入る。

 そこは広い空間だった。バレーボールやバスケットのコートが余裕で入るくらいの広さだ。床には豪華な絨毯が右手の突き当りの壁のところまで敷き詰められている。その突き当りの壁には、一面に西洋画が描かれていて、二階分の高さはあろう壁全体が一枚の絵画になっていた。その突き当たりの壁の絵画の端から、彼らが入ってきたドアの横まで鮮やかな赤色のカーテンが掛けられている。その反対側の壁にも同じ位置にドアがあり、その横から突き当りの壁画まで、やはり真っ赤なカーテンが掛けられていた。春木陽香は、その赤いカーテンに沿って視線を上げた。丈はどこまでも続く。カーテンは二階分を吹き抜けた天井から掛けられていた。体を反らせてそのまま顔を上げると、天井には煌々と輝く大きなシャンデリアが二つ吊り下げられていた。その天井は左の方まで広がっている。二つのシャンデリアをそれぞれ先頭にして、さらにシャンデリアが等間隔で二列に並べてて吊られている。春木陽香は、その列に並んで吊るされたシャンデリアを数えるように、視線を左の方へと動かした。その下にはもっと広い空間が広がっていた。春木たちが立っている床から階段が下がっていて、一階下のその広い空間の床に繋がっている。その一階の空間は、春木たちが立っている二階の空間の三倍ほどの広さがあった。天井までの高さの太い石柱が等間隔で壁際に並んでいる。遠くにある突き当たりの壁の中央に大きな木製のドアが見えた。最初にこの建物に入ってきた時にラングトンが開けようとした両開きのドアだろう。そこからこちらまで、幅の広い深紅の絨毯が一列に敷かれている。絨毯は階段の中央にも丁寧に敷かれていて、そのまま、この二階部分へ続き、奥の壁画の方へと延びていた。その絨毯の先には台座があり、その上に、宝石が散りばめられた黄金の椅子がポツリと置かれている。その椅子は巨大な西洋壁画を背にして、一階の大広間を見下ろす形で置かれ、まるで玉座のようだった。

 春木陽香は目をパチクリとさせながら、その輝く椅子を見つめた。

 背後から山野紀子が小声で言う。

「まるで、ヨーロッパの大聖堂みたいね。法王にでもなったつもりかしら」

「ここ、二階の部分ですよね。ここから向こうの壁までずっと階段だし、閣下さんは、下の階までどうやって下りるんでしょうね。スロープを作ればいいのに」

 春木陽香が疑問を呈すると、山野が笑いながら言った。

「下に行くことは無いんでしょ。用があったら、この階段を上って来いってことよ。俺はお前らより一段上だとでも言いたいんでしょ。ここって、配下の人間や来訪者が閣下様に御拝謁を賜る部屋なんでしょうけど、それにしても悪趣味よねえ」

 山野紀子は顔をしかめながら周囲を見回していた。

「おい、見物旅行じゃないんだぞ。早く来い」

 神作真哉が手招きした。タハラに車椅子を押された老人と神作と永山は、突き当りの壁画の前に並んでいる。春木と山野もそこに移動した。

「タハラ、もう少し右に置いてくれ」

 老人はタハラに指示した。言われたとおりにタハラが車椅子を移動させる。すると、絵画の中の天使の眼球から緑色の光が放たれ、車椅子の上の老人の顔を照らした。反射的に左のポケットに手を入れて一歩下がったタハラに、老人は言った。

「大丈夫じゃ。ワシの体をスキャンしとるだけじゃ。心配はない」

 ナオミ・タハラは怪訝な顔をした。神作真哉と永山哲也が顔を見合わせる。緑色の光は老人の頭頂部から車椅子の車輪の下までをゆっくりと照らしていった。光が消えると、絵画の壁が、そこに描かれていた絵の輪郭線の部分で中央から二つに割れて、奥へと左右に開いていった。

 神作真哉が言った。

「隠し部屋か……」

 老人は片笑んで答える。

「隠しているつもりはないが、確かに、技術者と警備兵以外に見せるのは初めてじゃ。君の言う通り、隠し部屋かもしれんの。部屋と言えるかどうかは、別としてじゃがな」

 左右の絵画の壁が、ゆっくりと奥へと角度を変えて開いていく。向こうに広い空間が見えた。ずっと奥まで続いている。周囲はコンクリートの壁で覆われ、簡素な照明しか取り付けられていない。

 春木陽香が言った。

「すご。秘密基地だ」

 山野紀子が呆れ顔で言う。

「島全体が秘密基地でしょ」

「じゃあ、秘密基地の中の秘密基地ですね。わあ、トンネルだ」

 口をあけた春木陽香の顔が、真顔に戻った。絵画の壁が左右の壁まで開き、記者たちの前にトンネルが口を開けている。突き当りの壁が小さく見える。床には無数の引っかき傷が奥に向けて長く走っていた。しかし、四人の記者たちも、老人の車椅子を押していたナオミ・タハラも、視線を一箇所に向けていた。トンネルの入り口の中央には、大きな卵形の物体が置かれていた。

「これは……」

 永山哲也は数歩だけ前に進んで止まり、その物体を見たまま立ち尽くした。

 老人が彼に言った。

「そう。タイムマシンじゃ」

 神作真哉が声を裏返した。

「タイムマシンだって? 本当か、永山」

 永山哲也は真剣にその機体を観察しながら答えた。

「似ています。僕が送ったタイムマシンと。しかし、大きさが違う。この機体は、南米の地下で僕の前に現われた司時空庁製の機体の大きさに近い。いや、それよりも……」

 神作真哉と山野紀子は機体に駆け寄り、周囲を移動しながら、その機体の全体を観察した。春木陽香は少し離れた所に立って、片方の目を閉じて見たり、伸ばした手の先で人差し指を立てて機体と重ねて比べてみたりしている。

 山野紀子が機体横から春木に尋ねた。

「ハルハル、どうなの。司時空庁の工場で見た機体は、単身乗りの機体だったんでしょ。それより大きい?」

「ええ、大きいです。単身乗りの機体だったのかどうかは分かりませんけど、明らかに、こっちの方が大きいです。ね、永山先輩」

「ああ。間違いなく大きい。僕らが工場で見たのは、南米の地下で僕が見た司時空庁製の家族乗り用の機体よりも小さかった。あの工場にあったものは、きっと単身用の機体だ。でも、僕が田爪博士の指示で南米から日本に送った機体は、同じく単身乗り用の機体だったけれど、工場で僕らが見たものよりもずっと小さかった。これは、それと同じ形状だが、大きさが違う。田爪博士が開発した新型タイムマシンと形は同じだけど、僕がこれまで見た中では、一番大きい。ということは……」

 老人が誇らしげな顔をして言った。

「これは、我がASKITが開発したオリジナルの機体じゃよ」

「オリジナルだって?」

 機体の傍に立っていた神作真哉が聞き返すと、振り返った永山哲也が老人に言った。

「しかし、形状は僕が送った田爪博士の機体に似ていますが……」

 老人は笑みを浮かべて頷いた。

「じゃろうな。彼の設計内容を一部に取り入れている。コアのボディーにな。搭乗者数を増やすためじゃ。ボディの全長を一回り大きくした」

 山野紀子が観察しながら指摘する。

「じゃあ、オリジナルじゃないでしょ」

 怪訝な顔で会話を聞いていたナオミ・タハラが車椅子の後ろから老人に尋ねた。

「やはり、引き出したのですね。彼のデータを……」

 老人はタハラに言った。

「田爪博士の設計から取り入れたのは、乗員の安全に必要な機体の外部構造のみじゃよ。タイムトラベルに必要な機構的な部分は我々のオリジナル。田爪健三の設計データは、参考にした程度に過ぎん。これは完成したばかりの、正真正銘の『最新機』じゃ」

 永山の近くに戻ってきた神作真哉が小声で言った。

「見た目だけの『張りぼてマシン』なんじゃないか」

 老人が二人の方を向いて強く言う。

「既に実験には何度も成功しておる。この大きさでも時空間移動はできるはずじゃ。中も広い。数人で優雅に時間旅行をすることができる。正真正銘のタイムトラベルをな」

 永山哲也が眉間に皺を寄せた顔を老人に向けた。

「実験に成功している? 今、そう言いましたよね」

「うむ。我々は、タイムマシンでのタイムトラベルには、疾うの昔に成功しておる。我々にとってタイムトラベルは『当たり前のこと』なのじゃ。今更、司時空庁のポンコツ・マシンにも、田爪健三のガラクタ・マシンにも、関心は無いわい」

 山野紀子が春木の近くに歩いてきた。春木陽香はタイムマシンを見つめたまま、しきりに首を傾げている。

 老人は永山を指差し、彼に厳しい目を向けた。

「じゃが、君が過去に送ったバイオ・ドライブ、あれは問題じゃ。実際にタイムトラベルに成功したと思われるタイムマシンの設計データが入っている。我々が設計した物と競合する機体の設計図じゃ。放置していれば、この発明の価値が大きく落ちてしまう可能性もある。だから、司時空庁から回収したのじゃ。六年前にな。時吉を傀儡として司時空庁の長官に据えようとしたのは、単なるビジネスじゃよ。田爪瑠香に司時空庁のタイムマシンの欠陥を見つけ出させ、その責任を津田に取らせ、辞任させる。そこに長官経験者の時吉総一郎が臨時の長官として再度就任し、そこへワシらが開発したタイムマシンを日本政府に売り込む。当然、時吉はそれを受け入れ、ワシらと高値で継続的なタイムマシン購入契約を締結する。そう言う計画じゃった。しかし、津田幹雄という人物があそこまで傲慢でしぶといとは……」

 神作真哉が呆れ顔で言った。

「結局は金のためか。じゃあ、バイオ・ドライブを手に入れることができて、さぞかし嬉しかっただろう。あれは高値で売れるだろうからな。国の一つや二つは買える値段で」

 老人は鼻で笑った。

「本来なら、大陸一つと交換しても安いくらいじゃわい」

 そして、その皺だらけの薄緑色の顔から笑みを消した。

「もちろん、重要なのは中のデータじゃがの。ところが実際は、バイオ・ドライブは例の大爆発で大きく損傷しておった。半分近くは焼けて無くなっていたのじゃ。司時空庁の連中は何とかバイオ・ドライブの自己修復機能で再生させようと、様々な方法を試みたようじゃが、まあ、無理だったようじゃな。ワシらのバイオ・ミメティクス技術が無ければ、再生させることなど出来るはずが無い。ワシらはたった三年で再生を終えたぞ。内部のニューラル・ネットワークまで完璧にな。そして、AB〇一八を使って中の情報を引き出したんじゃ。そしたら、他にも色々と入っておってな。驚いたわい。量子エネルギー・プラントの設計図や量子銃の設計図じゃ。我々はそれらを分析し、我々の技術力を用いて製造にとりかかった。苦労したが、ようやく、それらが完成したのじゃ。成功じゃ。量子エネルギー・プラントの部分的な運転では、実際に量子エネルギーの生成にも成功しておる。これからプラントの全面的な稼動試験を終えたら、さっそく大量生成を始めるつもりじゃが、もう既に、ここまでの生成で、さっき諸君が見た我が軍隊が装備している量子銃や戦車の量子砲、あれらに充填するだけの量子エネルギーは確保できた。後は量子銃や量子砲の実用試験も兼ねて、AB〇一八を葬るだけじゃ」

 山野紀子が驚いた顔を素早く老人に向ける。

「は? 試験を兼ねるって、まだ一度も使ったことは無いの? それで日本に乗り込むつもりなの? ウソでしょ」

 老人は目を瞑って答えた。

「AB〇一八の体積を消失させるのに必要な量の量子エネルギーは、計算上、既に確定しておる。今回の量子エネルギー・プラントの部分稼動で抽出できた量子エネルギーの総量は、その必要総量の百パーセント。問題はない」

 誇らしげに顔を上げて語った老人を指差しながら、山野紀子が目を剥いて怒鳴った。

「余計に作んなさいよ、余計に! それじゃ、カツカツじゃないのよ!」

「そのつもりじゃったがの、プラントが、その後に停止したんじゃ。どうやら配管の設置に問題があるようじゃ。現在、大急ぎで修復を行わせている。じゃが、時間が無い。時は迫っておる。我々は、このまま計画を実行するつもりじゃ。計算上必要とされる量子エネルギーの総量は充填されているからな。という訳で、一回の照射も無駄には出来ん。抽出した全量子エネルギーを全て使い切り、計算どおりにAB〇一八をこの世から消滅させるつもりじゃ。フォッ、フォッ、フォッ」

 山野紀子が更に怒鳴る。

「フォッ、フォッ、フォッじゃないわよ! 出たとこ勝負の一発勝負でやるつもり? 失敗したらどうするのよ!」

 老人は笑みを見せて頷いた。

「大丈夫じゃ。その場でAB〇一八が物理的に反撃してくるわけではない。それに、半分以上が消失すれば奴の機能自体は停止する。仮に、こちらのエネルギー切れで完全に消失させることが出来なかったとしても、奴が細胞を再生させる前に、修理したプラントで量子エネルギーを新たに作り、補充すればいい。そして、再度攻撃して奴の残りの部分を消失させ、完了じゃ。問題ない」

 老人の後ろでそれを聞いていたナオミ・タハラも、唖然としていた。それを見た山野紀子がタハラを指差しながら言った。

「ほら、タハラさんも驚いてるじゃない。計画、計画って言ってたけど、蓋を開けてみれば、中学生レベルの計画じゃないのよ。どうせやるなら、もうちょっとマシな計画を立てなさいよ! あのね、大停電になったりするかもしれないのよ。みんなが、ものっすごく迷惑するの。どうせやるなら、ちゃんと成功するプランを立てて……」

 山野の発言の途中で永山哲也が口を挿んだ。彼は疑念に満ちた目を老人に向ける。

「おかしい。タイムマシンはどうしたのです。タイムマシンも量子エネルギーを必要とするはずだ。しかも、大量に。あなたは先ほど、タイムトラベルの実験には既に何度も成功していると言いました。では、そのタイムトラベルに必要な量子エネルギーは、どこからどうやって手に入れたというのです。話が矛盾している」

 老人は機体を指差して言った。

「確かに、このタイムマシンは、基本的には量子エネルギーを使用して過去に飛ぶ。じゃが、それに必要な量は、ほんの少量じゃ。プラントを使わなくても、計画的に貯蔵はできる。時間と金が掛かるがな。その他の動力は電力で補っておる。司時空庁のタイムマシンと同じじゃよ。膨大な電力さえ手に入れば、飛ばせる。ここは日光や海風を遮る物が無いからの。電力はほぼ無限に手に入る。太陽光発電、風力発電、潮力発電。近くの海では海底と海洋表層を使った温度差発電もしている。電気に困ることは無い。しかも、我がASKIT製のタイムマシンは実にエネルギー効率がいい。飛ばすのにそう苦労はしとらん」

 神作真哉が冷静に尋ねた。

「タイムマシンの実験では、今まで、いつの時代に向けて、何機を飛ばしたんだ」

 山野紀子も真剣な顔で老人を問い質す。

「誰を乗せてたのよ。まさか司時空庁と同じことを闇でやってたんじゃないでしょうね」

 老人は二人の顔を見て言った。

「質問は一人一つまでだったはずじゃが」

 永山哲也が落ち着いた口調で老人に言った。

「ならば、僕の質問に答えてください。タイムトラベルについての真実を」

 老人は永山の目を見て言う。

「パラレル・ワールドか」

 永山哲也は黙って頷いた。老人は目を瞑り静かに答えた。

「パラレル・ワールドは――無い。今のところ、それが結論じゃ」

 永山哲也は老人を見据えて言った。

「僕が送ったタイムマシンについては」

「それは何とも言えん。司時空庁の連中も分かっていないのに、なぜ我々が知れる。何なら、このマシンに乗って皆で行ってみるか。すぐに飛べる状態にしてあるぞ。二〇二五年の九月二十八日の、あの爆発現場に行けば、真相を知ることができるはずじゃ。まあ、それが爆発の原因になってしまうかもしれんがのお」

 老人はクスクスと笑った。やがて真顔に戻り、永山の顔を見て皺だらけの細い人差し指を立てた。

「じゃが、一つだけ教えてやろう。当時、あの場所にあった民間実験施設では、田爪博士と高橋博士によって、プロト・タイプのタイムマシンの基礎実験が行われていた。そのプロト・タイプのタイムマシンは、主に高橋博士が設計した機体だそうじゃ。君が送った田爪博士の機体のタイプとは、大きさも形も全く違うものじゃ。よかったのお」

 ずっとタイムマシンを眺めていた春木陽香が、振り向いて言った。

「ということは、永山先輩が南米から送った機体とは形状が重ならない。やっぱり、先輩が送ったマシンは、あの爆発の原因じゃないんですよ」

 永山哲也は困惑した顔で呟いた。

「じゃあ、あの爆発の本当の原因は……」

 山野紀子が永山を見て言う。

「司時空庁のタイムマシン、あれしか考えられないわよ」

 神作真哉が山野に言った。

「いや。ASKITがこれまで何機も製造して飛ばしているなら、その機体同士が重なったということもあり得るだろ」

 老人が口を挿んだ。

「それは無い。ワシらは、全ての機体が目標の時間に遡って到達しているのを、ちゃんと確認しておる」

 老人に顔を向けた神作真哉が聞き返した。

「到達を確認している……だと? まさか……」

 老人は頷いた。

「そうじゃ、我々は未来からのタイムマシンを全て回収しているし、搭乗者も確保している。そして、その記録した通りのマシンを、記録した通りの過去に送っている。その搭乗者を乗せて」

 山野紀子が目を丸くして言った。

「え? じゃあ、あんたたちは未来から時間を遡ってやってきたタイムマシンを自分たちで回収していたの。搭乗者も。じゃあ、その時点で未来のことを知っていたというの」

 永山哲也が驚いた顔で言った。

「ということは、まさか、あなたたちASKITの科学技術力は、そうやって得た物なのですか。特許についても、そういうカラクリがあるから、先回りして関連特許を取得することが出来たのですか」

 神作真哉が老人を指差して言った。

「もしかして、これから先の未来のことも全て知っているのか。だから、こんな無謀な計画を平気で立てているんじゃないだろうな」

 山野紀子が老人をにらみ付けて言った。

「あんたたちが復元したバイオ・ドライブは、今どこに在るのよ。まさか、また『過去』に送ったんじゃないでしょうね」

 老人は再び人差し指を立てて、ゆっくりと言った。

「質問は、一人一つまでじゃ」

 そして、その乾いた人差し指で山野の後ろの若い記者を指差した。

「春木くんじゃったな。君の質問で最後じゃ。何を訊きたいのじゃ?」

「あの……ええと……」

 口籠っている春木に山野紀子が小声で言う。

「バイオ・ドライブ、バイオ・ドライブよ」

 振り返った永山哲也も小声で言った。

「特許情報の取得方法だよ。タイムトラベルでASKITが未来の情報を得ていたのかどうか、そっちの方が重要だ」

 神作真哉が呆れ顔で春木に言った。

「馬鹿。奴らが知っている、これから先の未来のことの方が重要だろ。そっちを尋ねろ」

 春木陽香は山野の前までトコトコと移動すると、老人を真っ直ぐに見て口を開いた。 

「あの……」

 全員の視線が注がれる。

 春木陽香は大きな声で、はっきりと言った。

「おたくの息子さんと結婚させて下さい!」


 

                 15

 花柄の少し大きめのTシャツにジーンズ地の半ズボンを穿いている山野朝美は、永峰のヘッド・マウント・ディスプレイを顔につけて、永山の席に座っている。その後ろで、彼女の乾いたばかりの長い髪を、永峰千佳が丁寧に三つ編みにしてやっていた。

「千佳お姉ちゃん、悪いですな」

 永峰千佳はニコリと笑う。

 山野朝美が斜め上に顔を向けた。

「ん、色鉛筆があるぞ。紙も」

 朝美の髪を編みながら、永峰千佳が言う。

「その仮想ホログラフィーの色鉛筆を使って、その紙に『宇宙人の落し物』の絵を描けってことらしいわよ」

 山野朝美は空中から鉛筆を取る動きをすると、その手を顔の前に運んで言った。

「なるほど。よし。絵は得意ですぞ。ええーと、たしか、こんな感じで……」

 彼女は鉛筆で絵を描くように、空中で手を動かし始める。

 朝刊用の記事データのアップロードの指示を終えた上野秀則が戻ってきた。

「どうだ、シカゴの空港の方は、何か分かったか」

 ウェアフォンを仕舞いながら、勇一松頼斗が答える。

「ええ。この時間に、さっきの機体識別番号の飛行機が到着した事実はないって」

「そうか……。でも、空軍のレーダーには映っているんだろ」

「どうも、その空港職員の話し方から私が受けた感じだと、何か奥歯に物が挟まったような言い方なのよね」

 机の「島」の角の席から、胡麻塩頭の重成直人が覗いた。

「つまり、ウソを言っているってことか。帰国子女のライトちゃんが言うなら、そうかもな」

 宙で懸命に絵を描く動きをしている朝美の横で、彼女の髪を編みながら永峰千佳が顔を向ける。

「着陸したことを隠しているってことですよね。怪しいですね、その飛行機」

 そこへ、ベタベタとした足音と共に、プリント・アウトした紙を握った別府博が走ってきた。

「ありました、ありました。資料室にバッチリ。その機種の資料が。仕様も載ってます」

 別府から資料を受け取った上野秀則は、立ったままそれに目を通す。

 横の席で椅子から立ち上がった勇一松頼斗と、椅子から腰を上げて席を回ってきた重成直人も左右から覗き込んだ。資料には飛行機の写真や図面が記載されている。

 勇一松頼斗が拍子抜けしたように言った。

「ん? 普通の小型ジェット機ね……」

 重成直人が首を傾げた。

「回転翼放棄型のジェット・オスプレイでもないな」

「ですね。ごく普通の個人旅客機タイプですよね、これ」

 そう答えた上野秀則は、別府に再確認した。

「おい、本当にシカゴの空港に着陸した機体と同機種の資料なのか。間違えてねえか。これ小型ジェット機の資料じゃねえかよ。神作たちが乗せられたのは、たぶんオスプレイ機だぞ」

 別府博は濃い顔を険しくして何度も頷く。

「それですよ、それ。間違いないですって。機種識別番号も同じでしょ」

 資料をもう一度見た上野秀則は、首を傾げると、振り返って永峰に尋ねた。

「搭乗者の氏名はまだかよ」

「ええ。朝美ちゃんの方が……」

 ヘッド・マウント・ディスプレイをした山野朝美は空中で必死に絵を描いている。

「うん。もうちょっと青っぽかったかな。ここが、こう、キラキラと……」

 男の声が響いた。

「おい、おまえら、何やってんだ」

 声の方に顔を向けた上野秀則は、軽く頭を下げる。

「ああ、副社長。おはようございます」

 歩いてきた杉野副社長は、机の向うの朝美を一瞥すると、上野をにらみ付けた。

と訊いているんだ」

 上野秀則も朝美を一瞥してから答える。

「ああ、神作の娘さんです。ほら、下の山野と暮らしている」

 横から重成直人が杉野に小声で言った。

「昨日、大変だったんだよ。おまえが立食会に出ている最中に、神作ちゃんたちが……」

 杉野副社長は険しい顔で不機嫌そうに言った。

「知っている。だから、官房長官にパーティーに呼ばれたんだ。社長に、俺に、風潮の社長と副社長が」

「どういうことです?」

 尋ねた上野に厳しい顔を向けて、杉野副社長は言う。彼は苛立っていた。

「こういうことだ。作戦の邪魔をされないように、楔を打たれたんだろう。ホテルで我々だけ別室に呼ばれて、事の詳細を聞かされたよ。さっき、ようやく解放されて、いま戻ってきたところだ」

 永峰千佳が机の向うから尋ねた。

「作戦って、救出作戦か何かですか」

「知らん。そこまでは聞かされていない。だが、どうも政府は、神作たちを利用するつもりだったようだ」

「利用?」

 聞き返した上野に杉野副社長は依然として不機嫌そうな顔を向ける。

「全部が計画の内だったということだ。だから、余計な邪魔をされないように、我々を半ば監禁状態で朝まで会食の席に留まらせ続けた。そういうことだろう」

 勇一松頼斗が尋ねた。

「でも、副社長たちが解放されたってことは、もう終わったってこと? 真ちゃんたち、助かったの?」

「それも分からん。その逆ということも……」

「スギ……」

 横から同期の重成に制止された杉野副社長は、重成が目線で指した朝美の方に視線を向けた。彼女に気遣った杉野副社長は、声の調子を抑えて言い直す。

「とにかく、あいつらが生きて無事に戻ることを祈ろう。今はそれしかできん」

「それしかって。こっちは、こうやって必死に……」

 上野秀則が杉野に怒鳴ろうとすると、朝美の声が背後から響いた。

「できたあ、完成っ。うーん、我ながら、いい出来でございますぞ、うん」

 頷いた山野朝美は、満足気な顔でヘッド・マウント・ディスプレイを外す。

 上野秀則は永峰に指示を出した。

「永峰、早く相手に渡せ」

 永峰千佳は頷きながら、朝美から受け取ったヘッド・マウント・ディスプレイを急いで顔に装着した。

 それを見た杉野副社長が、しかめた顔で言った。

「だから、何をやっているんだ」

 横に立っていた重成直人が杉野に耳打ちする。頭を離した杉野副社長は、大きな鼻の横の目を丸くした。

「ハッカー? おまえら、そんな奴と交渉なんかするな。ウチは新聞社だぞ。相手は犯罪者だろうが」

「ですが、他に方法が……」

 上野の発言に割り込んで、永峰千佳が彼に言った。

「デスク、届きました。例の小型ジェットの搭乗者リストです。今、プリント・アウトします」

 プリンターから出てきた紙を急いで引き出した別府博が、それに書かれている内容を読んで、顔を前に出した。

「あれ、一人しか乗ってない」

 横から覗き込んだ勇一松頼斗が言う。

「でも、キャビン・アテンダントは三人も乗ってる。贅沢者ねえ」

 受け取った書類に目を通した上野秀則が、訝しげな調子で言った。

「タロウ・スズキ? 十八歳……日本人か?」

 上野に顔を寄せて再度見ていた勇一松頼斗も首を傾げた。

「こういう名前の人もいるかもしれないけど、なんか、いかにも偽名って感じね。住所や緊急連絡先の欄も全部空欄になってるし。道楽息子のお忍び旅行かしら」

「……」

 上野秀則は暫く考えていたが、顔を上げると、すぐさま指示を発した。

「おい、写真家。このパイロットについて調べてもらえるか。経歴やら、所属会社やら」

「分かったわ。向うの友達にも助けてもらう」

「別府、この『タロウ・スズキ』ってガキの住所を探してくれ。神作のパソコンを使え。その一台だけ、まだネットに繋がってる」

「了解です」

「永峰、相手は納得したか」

「ええ。絵をトレースして、すぐに消えました」

「よし。そっちはもういい。永峰は、このジェット機が最高速度で飛んだ場合、この時間に到着する離陸ポイントの可能性のある範囲を地図上に重ねてくれないか」

「分かりました。燃料は満タンでいいんですよね」

「ああ、頼む」

 方々で作業にかかる記者たちを見回して、杉野副社長は眉間に皺を寄せた。

「おまえら、いったい何を……」

 彼の肩を重成直人が叩く。

「まあ、スギ。若い連中に任せてみようじゃないか」

 杉野副社長は重成の顔を見てから、再び記者たちに視線を戻した。彼はそのまま黙って記者たちの仕事ぶりを見ていた。

 上野秀則がフロア全体に声を飛ばす。

「他のみんなは、このジェット機の購入者を洗い出してくれ。機体の製造番号を言うぞ、CYT227……」

 日勤の記者たちが出社してきた。皆、驚いた顔で立ち止まっている。その前で、徹夜明けの社会部フロアの記者たちが、慌しく動いていた。



                  16

「おたくの息子さんと結婚させて下さい!」

 春木陽香は老人の方を向いて大きな声でそう言うと、丁寧に頭を下げた。

 春木の横に出てきた山野紀子が老人の顔を指差しながら言った。 

「そうよ、ちょっと古いけど、肉食系女子っていうのは、こういう……はあ?」

 山野紀子は目を丸くして春木の方を向く。

「あんた、何ぶっ壊れてんのよ! バイオ・ドライブでしょ、バイオ・ドライブ! 話の流れってものを掴みなさいよ! ASKITの本当の計画、私たちを呼んだ理由、司時空庁を狙った理由と来れば、次はバイオ・ドライブの所在でしょ。何でプロポーズなの!」

 春木陽香は口を尖らせて言った。

「だってバイオ・ドライブは、ASKITさんが復元させて、もう中のデータを引き出したんですよね。じゃあ、べつに訊かなくてもいいじゃないですか」

「はあ? 馬鹿じゃないの。そのデータの在り処が問題なんでしょ。あんた、なんで自分が津田たちに拉致されたか分かってないの?」 

「えー。だって大金持ちですよ。自家用ジェット機でバスケの試合を見に行くんですよ」

 永山哲也が項垂れながら言った。 

「なに、ここにきて玉の輿を狙ってるんだよ。はー……」

 神作真哉が目を丸くして春木を指差しながら言った。 

「もしかして、おまえ、さっき自分だけ残るって言ったのも、そういうことか」

 春木陽香は二人に言った。

「だって好青年でしたよね。ハンサムだったし、背も高くて、爽やかで。しかも御曹司。あれで独身なら、私の人生にとって最大のチャンスじゃないですか。歳も近そうだし」

 山野紀子が横から怒鳴る。

「だって、だって、うるさい! あんたの御見合い旅行か、これは!」

 老人が笑いながら言った。 

「あの子は、今年で、まだ十八じゃよ。結婚には早いじゃろ」

 永山哲也も春木に言った。

「じゃろ」

 永山の隣では、神作真哉がまた驚いた顔をして立ち尽くしていた。

「この爺さん、十八年前に……見た目と違って元気だな……」

「いや、そんなことより、この状況を何とかしないと。さり気なく話の流れを戻すとか」

「そ、そうだな。やってみよう」

 二人は春木に視線を向ける。その春木陽香は先輩たちの不安を余所に、一人で思案していた。

「十八かあ……うん、ぎりぎりセーフ」

 隣から山野紀子が声を荒げた。 

「アウトでしょ! あんたより九つも下じゃないのよ! しかも、まだ未成年かもしれないのよ。完全にアウトでしょうが!」

 神作真哉は顔を手で覆い、永山哲也は眉間を摘まんだ。

 春木陽香は言う。 

「でも、一応、今年中には結婚できる年齢になるんですよ。――あ、じゃあ、念のために彼が二十代になるまで待ちます! あと二年。私もギリ二十代ですから」

 神作真哉が呆れ顔で春木に言った。

「まともな男が、自分の姉貴より年上の女と結婚する訳ないだろ。話を戻せ」

 春木陽香は神作の方を向くと、口を尖らせて言った。

「そんなことはないですよ。それに、姉貴って、さっきの向こうの建物の部屋にいた人ですか。あの女の人より私の方が若いかもしれないじゃないですか。それに、なんか私の方がイケてると思いますけど」

 ポーズをとってみせる春木の隣で、山野紀子が怒鳴り散らす。 

「こんな所で、なに必要ないライバル心を燃やしてるのよ! 仕事に集中しなさいよ、仕事に! せっかくチャンスだったのよ。ああ、特ダネを逃したあ!」

 山野紀子は顔を手で覆って項垂れた。

 春木陽香は相変わらずの調子で山野に言った。

「集中してますよ。猛烈に集中してます。自家用ジェットですよ、自家用ジェット。自家用炊飯機とか、自家用パン焼き機とかは電気屋さんでも売ってますけど、自家用ジェットは売ってないですよ。ここで集中しないで、どこで集中するんですか」

 永山哲也が顔をしかめて春木に言った。 

「ジェット機と結婚すんのかよ。しかも、何で電気屋が基準なんだ。会話に集中しろよ、会話に!」

 春木陽香はムッとした顔を永山に向ける。

「先輩こそ集中してください。いいですか、あの娘さんよりも私の方が若かったら、私にだって可能性ありじゃないですか。その時は、協定書のことはお任せしますから、私はもう少しこちらで個人的なお話を……」

 老人が口を挿んだ。 

「娘は二十歳になったばかりじゃよ 残念じゃったな」

 そして、プイと横を向く。

 春木陽香が眉間に皺を寄せた。

 山野紀子が言う。 

「じゃったな。――って、怒っちゃったじゃないのよ。どうすんのよ」

 春木陽香は、まだ続けた。 

「いや、諦めませんよ。自家用ルームランナーならともかく、自家用ジェット機ですからね。じゃあ編集長。こちらの閣下さんのお力で私の戸籍とか変えてもらって、十八歳ってことにしてもらうとか、そういうの、どうでしょ」

 山野紀子は春木の両肩を掴むと、彼女の顔を見て言った。

「大豪邸と空腹で完全に壊れたわね、あんた。――いい、協定よ、協定。その確認に来たのよ。しっかりしなさい、ハルハル!」

 山野の手を振り払った春木陽香は、口を尖らせて言った。

「べつに壊れてませんよ」

 そして、老人の方を向き直すと、改めて言った。 

「閣下さん。ほら、私、健康ですし、お祖母ちゃんに礼儀作法とか煩く言われて育ててもらいましたし、英語も少しは出来ますし、それから、ええと、ええと……ああ、ご家族の皆さんとも趣味が合いそうですよ。あの庭のツルツルした木の赤い花、ああいうの大好きなんです。ヒメシャラですよね、あれ。うーん、風流ですねえ。うん、うん。あ、料理はオムライスが得意です。あと、笑顔にも自信があります。ニッ」

 春木陽香は笑顔を作って見せた。

 山野紀子が再度、春木の肩を掴んで自分の方を向かせ、必死に言う。 

「なに全力で媚を売ってるのよ。もう一度言うわよ。あんたのお見合いに来てるんじゃないの。協定の確認でしょ。この協定がパーになったら、私たち、殺されちゃうかもしれないのよ。大事な場面でしょ。ぶち壊しじゃない。どうしてくれるのよ」

 下を向いた春木陽香は上目で山野を見て言った。 

「でも、重要なことですもん」

「どこが重要……」

「あれは百日紅さるすべりじゃよ。ヒメシャラとは違う種類じゃ。ま、よく間違う奴が多いがの」

 山野の声を遮って、老人が春木に話し掛けた。すかざす春木が返す。

「そうでした。サルスベリでした。どっちも表面がツルツルしているから間違えちゃうんですよね。でも、ここに植えてあるのは、全部、百日紅さるすべりですよね。やっぱり、何というか、趣とか、風格が違いますもんね。赤い花もきれいですし、結構長く咲いてくれて。ああ、だから、ビャクジツコウとも言うんですよね」

「ほう、若いのに、よく知っておるのお。感心じゃ。百日紅が好きかね」

 老人は嬉しそうな顔で何度も頷いた。それを見て、神作真哉が目を丸くする。

「おお、マジか。食いつきやがった」

「お、終わりましたね、完全に。こりゃ、縁側トークに終始しますよ、きっと」

 神作真哉と永山哲也は、二人同時に溜め息を吐いて項垂れた。

 春木陽香は、コクコクと首を縦に振って答えている。 

「ええ、大好きです。私の実家の庭にも生えていて、父も母も、お祖母ちゃんも、みんな好きです」

 老人は顔をほころばして言う。

「そうか。綺麗な花じゃからの。ワシも好きじゃ」

 春木陽香は目を大きくして頷いた。

「そうですか。あ、もう一人、あの木が好きな人がいますよ」

 山野紀子が額に手を当てて呟いた。 

「死んだお祖父ちゃんとか言わないでよ。ああ、どうしよう、完全に話が流れてる」

 春木陽香は前を向いたまま静かに答えた。

「いいえ、生きています、たぶん」

 山野紀子は苛立った様子で激しく頭を掻きながら言う。 

「たぶんって、あんた、自分のお祖父ちゃんが生きてるかどうかも……」

 春木陽香は言った。 

「それは、高橋諒一博士です」

 山野紀子の手が止まる。

 春木陽香は真っ直ぐに車椅子の老人を見据えていた。



                  17

 バタバタと動き回る記者たちをキョロキョロと見回していた山野朝美は、隣の重成の顔を見上げて尋ねた。

「ねえ、シゲシゲおじさん。ママとパパたち、助けられそうかな?」

 重成直人は深く頷く。

「大丈夫だ。きっと助かる」

 神作の机でホロクラフィー画面を覗いていた別府博が、からかうように言った。

「朝美ちゃんのママは恐いからなあ。相手が逃げ出しているかもな」

 山野朝美は首を縦に振ることはせず、頬を膨らませる。

「ウチのママは、すっごく優しいもん」

 少し驚いた顔を朝美に向けた別府博は、下唇を出して呟いた。

「――ああ、そうですか。俺には、キっツイけどなあ……」

 杉野副社長が険しい顔で重成に尋ねた。

「朝刊の記事のアップは済んだのか」

「ああ。スポーツ面から少し拝借したらしい。ほら、向うで局長に説明してる」

 ゲートの前では、谷里素美部長が甲斐編集局長に何度も頭を下げていた。

 杉野副社長は目の前の机の「島」に視線を戻す。

 上野秀則と永峰千佳が、立体パソコンから拡大して投影されたホログラフィーの世界地図をにらんでいた。

 フロアの中ほどの机の「島」から記者の声が飛ぶ。

「デスク、例のジェット機の所有者が分かりました」

 振り返った上野よりも先に、杉野副社長が尋ねた。

「誰だった」

「イギリスのUKクライシー社です。ですが、この会社、怪しいですね。武器製造業の子会社も所有しています」

 それを聞いた杉野副社長は、ゲートの方を覗いて、叫んだ。

「甲斐君、――甲斐!」

 慌てて駆けてきた甲斐局長に、杉野副社長は早口で尋ねる。

「君は以前、国際部だったな。UKクライシー社は知っているか」

「ああ、ええ、まあ。イギリスでは結構に古い会社ですが、近年、経営陣が一新されました。ああ、そうだ。以前、フランスのNNC社と合弁企業を立ち上げた会社ですよ。たしか、会社名はイースト・アジア・タスク」

 上野秀則が勇一松に尋ねた。

「パイロットの方はどうだった」

「臭い、臭い。もう、プンプンよ」

 山野朝美が隣を見上げて、重成の顔を覗く。

「屁こいたの?」

 杉野副社長が勇一松の方を向いたまま朝美に教えた。

「怪しいってことだ」

 勇一松頼斗が真顔で報告した。

「この男、イタリア空軍を除隊してからは、あっちこっちの航空会社に勤務して、どこでも問題を起こしてクビになってる。最後は中国マフィアのドンの専属パイロットとして雇われていたけど、その中国マフィアは解体してるわ。噂では、ある組織に資金を根こそぎ奪われたって。その組織っていうのが……」

「ASKITか」

 先に答えた杉野を、勇一松頼斗は鳴らした指でそのまま指した。

「御明算。ま、噂だけどね」

 重成直人が杉野に言う。

「ビンゴだな。その小型ジェット機は、ASKITの拠点から飛んできた可能性がある。離陸地点を絞り込めれば、神作ちゃんたちの居所を掴めるかもしれんぞ」

 杉野副社長は厳しい目を上野に向けた。

 表情を曇らせた上野秀則は、すぐに横を向いた。

「別府、偽名のガキは」

「米国内に同姓同名の人間は多数。でも、プライベート・ジェットを持っていそうな富豪は見当たりませんね。ちなみに、この子が東洋人だとすると、ネット上でこの名前の十代はいません」

 上野秀則は首を大きく傾げる。

 勇一松頼斗が机の上に浮かんだ大きな世界地図のホログラフィー画像を指差しながら、言った。

「それより、こっちの方はどうなったのよ」

 永峰千佳は説明しながら、その地図画像に色のついたシートのホログラフィー画像を重ねていった。記者たちは、その地図画像の周囲に集る。

「まず、このタイプの小型ジェット機が飛行できる範囲は、これだけ」

 その緑色の円盤は、地図のほとんどを覆っていた。

 椅子から立ち上がって地図を覗き込んでいた別府博が言った。

「地球を一周できるってことかあ……」

 永峰千佳は指先でその色付きのシート・ホログラフィーを弾く。シートの面積が小さくなった。彼女は言う。

「でも、シカゴが目的地で、そこまで往復するのだとすると、このとおり、半分の範囲になる。もちろん、目的地で帰りの分を給油しなければの話だけど」

 上野秀則がしかめた顔で地図画像を覗きながら、頭を掻いた。

「それでも広いな。日本とも往復できるってことかあ」

 一緒に覗いていた杉野副社長が永峰に指示した。

「南米の戦闘空域と、先日の合同海軍の哨戒海域を削れ。十八歳のガキを乗せて危険な空域は飛ばんはずだ」

「なるほど。ちょっと待ってください。ええと……。この範囲ですね」

 永峰千佳は別の地図のホログラフィー画像を横に小さく投影させると、それから色付きの円をトレースして、大きな地図の上に移動させた。重なった部分を消去させている永峰に、杉野副社長は更に指示を出す。

「オーロラの最南下範囲までも更に削れ。このクラスのプライベート・ジェットなら、操縦制御用のAIを搭載している。影響がでる空域は避けて飛ぶのが普通だ」

 勇一松頼斗が付け加えた。

「赤道直下周辺も削ったら。エルニーニョの発生海域上空も。台風が渦巻いているところは飛べないでしょ」

「ああ、はい、はい。すると、この範囲ですね」

 永峰千佳が地図ホログラフィーの端に触れると、その下に重なって気象衛星画像が表示された。彼女は画像の雲の様子を見ながら、その上の雲の渦を指先で円形に囲んでいき、その円の部分を地図上のシートから削除していった。

 腕組みをして地図をにらんでいた上野秀則が永峰に言う。

「新首都からオスプレイが飛べる範囲は」

 永峰千佳は再びヘッド・マウント・ディスプレイを装着した。

「たぶん、広いですよ。ええと、最長飛行距離は……ああ、あった。この範囲ですね」

 世界地図上の日本の周囲に広い範囲の円盤が広がった。それは半径だけで中近東地域まで達していた。それを見た勇一松頼斗が首を横に振る。

 重成直人が意見を述べた。

「いや、透明化の何らかのカモフラージュをしているとすれば、かなりの電力を消費しているはずだろ。もう少し狭くなるんじゃないか」

「どのくらいですかね」

「往復しているなら、半分じゃないか?」

「だから、まず、削ってからですよね」

 記者たちが検討していると、杉野副社長が甲斐局長に顔を向けて言った。

「いや、待て。さっきのイースト・アジア・タスクはどこに在るんだ」

「シンガポールのメガ・フロート地区です」

 甲斐の答えを聞いた杉野副社長は、すぐに指示を出す。

「そこから新首都までの距離を半径にして、範囲を絞れ。日本国内でトラブルが生じた場合の逃げ場までは、充電なしで行けるようにしていたはずだ」

 永峰が指示通りに範囲を設定し直し、日本を中心にした、さっきより少し小さな円盤が地図上に重ねられた。

 重成直人が胡麻塩頭を撫でながら、顔をしかめる。

「まだ広いな。この範囲にある小さな島まで入れたら、星の数ほどあるぞ」

 隣で山野朝美がブツブツと言っていた。

「星……銀河……ヒバリノン……」

 勇一松頼斗が提案した。

「ジェット機が離着陸できるだけの滑走路を造れない島を除けば。山岳地帯とかも」

 永峰千佳はヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま細かく頷く。

「ああ、ええっと、離陸までどれくらい必要なんだっけ」

 別府博がジェット機の仕様内容を記した資料を確認しながら伝えた。

「ああ、ええっと、百二十メートルあれば離陸はできるみたいだなあ。すっげ」

 永峰千佳が暫らく空中で指を動かすと、地図上から幾つかの小さな島が消去された。それでも、残った島の数や陸地の面積は多かった。

 上野秀則が頭を掻きながら言う。

「くっそー、絞れねえなあ……」

 すると、山野朝美が永峰の隣にやってきて、彼女の肘をつついた。

「千佳お姉ちゃん。さっきのヒバリノンのキャッシュ画面は見れる?」

「あ、うん。ちょっと待って。――ああ、見えた」

「ユーザー配置画面を開いてみて。右下の小さいボタン。それをタップ」

「これかな」

 ヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま、永峰千佳は右手を右の斜め下に動かして叩く動作をした。

「イッテ……」

 股間を叩かれた上野秀則が腰を引く。

 永峰千佳は首を傾げた。

「すみません。――なんだろ、今の」

 山野朝美が尋ねた。

「見えた?」

「うん。見えたけど、これ、どうするの」

「範囲拡大して、世界地図にすれば、ユーザーの場所が点々で表示されるでしょ」

「ああ、ホントだ」

「どのユーザーからも、いい加減な情報しか上がってこなかったってことは、みんなが見てないってことじゃん。ってことは、その点々の範囲には、悪者の基地は無いってことだよね」

「なーる、ほーど。はい、はい、はい。じゃあ、トレースして……できるかな……よし、これをさっきの地図に、貼り付けてと……」

 世界地図の上に無数の黄色い点が表示された。永峰千佳はその範囲を削っていく。大陸の陸地のほとんどが候補から消えた。

 杉野副社長が眉を寄せる。

「見にくいな……」

「ハイコントラストにして反転させます。はい」

 そう言って永峰が手を動かすと、地図の色調が反転して、少し見やすくなった。

 候補の範囲はかなり絞られているが、まだ太平洋上に広がっていて絞りきれていない。範囲の洋上には島が無数に点在していた。

 重成直人が険しい顔で言う。

「もう少しか……」

 勇一松頼斗が手を叩いた。

「あ、さっきのハッカーちゃんから送られてきた航空路線図とか、船の航路図は。人目に付きたくないなら、船や飛行機が通るルートの近くの島には、基地は造らないんじゃないかしら」

 上野秀則はパソコンの横に放り置いてあったMBCを手に取り、手前のパソコンのスロットに近づけた。

「挿し込むぞ」

 永峰千佳が頷く。

「オーケーです。ええと……まずは空路から」

 地図の上に赤い線が次々と描かれていく。

「続いて船の航路です」

 無数の青い曲線が地図の上を覆った。

 上野秀則が地図をにらんで呟く。

「空間になっているのは……」

 山野朝美が太平洋の真ん中付近を指差した。

「おお、ここじゃ、ここ。ここが一番広いですぞ!」

「でも、島がないぞ」

「いや、在る。小さな島だ。拡大できるか」

 ヘッド・マウント・ディスプレイを外した永峰千佳がホログラフィーの地図の上で手を動かした。小さな点が拡大され、島の形を浮かべる。

「これか……」

 上野が漏らした声に続いて、杉野副社長が指示を出した。

「すぐに座標を抽出しろ。上野、国防省に連絡だ。俺は総理府に伝える。他の者はその島について、できるだけ情報を集めろ」

 重成直人がニヤリと片笑み、朝美の頭を撫でた。

 上野秀則は少し慌てる。

「国防省……あ、じゃあ、軍規監視局でも……」

「どこでもいい。早くしろ。一刻一秒を争うかもしれんぞ」

 そう怒鳴った杉野副社長は、隣の机の「島」に向かうと、電話の子機を取った。

 上野秀則は椅子の背もたれに掛けてあった上着のポケットに手を入れると、中から取り出した二枚の名刺を見比べながら、慎重に検討する。

「どっちにするかな……やっぱ、美人の方にしとくか。いい人そうだったしな」

 上野が神作の机から子機を手に取り、名刺を見ながらボタンを押していると、背後から杉野副社長の癇声が聞こえた。

「はあ? どういうことですか!」

 上野秀則は電話を掛けるの手を止めて、振り返った。

 杉野副社長は子機を肩に載せて叫ぶ。

「上野、ちょっと待て」

 彼はそのまま子機を耳に戻した。そして、険しい顔で暫く通話を続けた後、突然、声を荒げた。

「――そんな……それでは彼らはどうなるのですか! いったい、どういうつもりなんだ!」

 電話の相手に怒鳴る杉野副社長を、上野たちは深刻な顔で見つめていた。



                 18

 そこに居た全員が沈黙していた。そして、誰もがその若い記者に再び注目した。神作真哉は隣の永山と顔を見合わせると、視線を春木に戻し、彼女に鋭い視線を送る。永山哲也は神作と同じように春木を見たが、すぐに車椅子の老人に目を遣った。老人は春木をにらんでいる。老人が座っている車椅子の後ろで、ナオミ・タハラが怪訝そうな顔をして春木を見ていた。

 春木陽香は真っ直ぐに老人を見つめている。

 その横で、山野紀子は口をパクパクとさせていたが、一度頭を左右に振ると、顔を上げ、春木を指差しながら言った。

「えっと……あんた、高橋博士の孫だったの?」

 永山哲也が短く溜め息を吐いて、山野に言った。 

「違いますよ、ノンさん。高橋博士は田爪博士と同い年ですから、高橋博士が生きていれば、現在は四十九歳です。二十七歳のハルハルが彼の孫の訳ないでしょ」

「そ、そうよね。びっくりした」

 山野紀子は胸を撫で下ろした。

 神作真哉が真剣な目をして、ゆっくりと春木に尋ねた。 

「たぶん生きているとは、どういうことだ」

 振り返った春木陽香は、神作の方を見て落ち着いた声で答えた。

「私か永山先輩のイヴフォンがあれば、はっきりしたかもしれません。博士の防災隊員時代の個人識別コードで、今この場で分かったはずです。でも残念なことに、今は私も永山先輩も、神作キャップも編集長も、イヴフォンを持っていません。ということは、ご本人が正直に話してくれない限り、はっきりしません。だから『たぶん』って言ったんです」

 山野紀子が心配そうな顔をして春木に言う。 

「ちょっと、あんた、なに言ってるのよ。ホントに壊れたの?」

 永山哲也は老人を見つめながら呆然としていた。 

「まさか……そんな馬鹿な」

 山野の方を向いた春木陽香は、真顔のまま首を横に振った。

「いいえ、壊れてません。私は、この閣下さんは高橋博士だと思います」

 春木陽香は車椅子の上の老人を真っ直ぐに指差して、そう言った。神作真哉も山野紀子も険しい顔で老人を見た。老人の後ろで、ナオミ・タハラが眉間に縦皺を刻み、老人を見下ろしている。

 山野紀子は老人を見つめたまま、首を傾げて春木に言った。 

「いやいや。歳を取り過ぎてるじゃないよ。高橋博士は、生きていたら四十九歳でしょ。真ちゃんの二つ上よ。今時どこに、こんなヨボヨボの四十九歳が……。ああ、失礼」

 手を上げて老人に謝った山野紀子は、その手を口に添えて、小声で春木に耳打ちした。

「どう見ても、死にかけのお爺ちゃんじゃないの。退職前のシゲさんだって、こんなに老けてはいないでしょ。シゲさん、六十四歳よ。シャンとしてるじゃない。こっちはそれより三十は上って感じでしょうが」

 春木陽香は真っ直ぐに老人を見据えたまま、頷いた。

「ですね。ウチのお祖母ちゃんと同じくらいに見えます。でも、さっきの息子さんは十八歳、そのお姉さんが二十歳だそうです。高橋博士が二〇二七年の第一実験で失踪した後に御家族が引っ越した当時、長女の千景ちかげちゃんが小三で、長男の諒太りょうたくんが小一でした。つまり、九歳と七歳です。十一年後の現在は、それぞれ二十歳と十八歳になっているはずです。私の足し算が間違えていなければ、年齢と性別は一致します」

 山野紀子は再び老人を見て、言葉を探した。

「あ……でも……偶然の一致かもしれないでしょ」

 春木陽香は冷静に説明する。

「高橋博士の邸宅があった跡地にも百日紅さるすべりの木が一本だけ残っていました。よく育った立派な木でした。近所の人の話では、博士はその木が好きだったようで、庭には何本も植えてあったそうです。ここの庭にもあります。何本も。周囲の崖にも沢山植えてあります。あの木は中国南部が原産で、日本でも庭木として親しまれていますが、鑑賞木として人工的に栽培されてきた品種なので、ヒメシャラのように森林に原生していることはありません。ここは、どう見ても太平洋上の孤島ですよね。この強い日差しや海風の中で育てるのは簡単ではないはずなのに、しかも、洋館なのに、わざわざ外部から運んできて、環境に合わせて丁寧に育てるなんて、よほど好きな人じゃないとやりませんよね、普通」

 永山哲也が老人を見つめながら言った。

「だが、老け過ぎている……」

 春木陽香は永山の顔を見て言った。

「永山先輩、思い出して下さい。田爪博士は、タイムマシンに乗ると後遺症を患うと言っていたのではないですか」

 永山哲也は頷いた。

「ああ……老化が速く進むと……」

 神作真哉が言う。

「永山、どうなんだ、田爪博士もこんな感じだったか」

 永山哲也は再度、老人を観察しながら言った。

「あ……いや……ここまでは。正直、見た目の年齢差があり過ぎます。田爪博士もここまでは老化が進行してはいなかった。二人がタイムマシンに乗って実験した第一実験と第二実験は一年の時間差しかないんですよ。一年で、同い歳の二人にここまでの違いが出るとは思えません」

 山野紀子は老人を見つめたまま呟いた。

「どうなってるのよ、いったい……」

 春木陽香は老人の方を再び向いて、彼の目を見て言った。

「閣下さん、私はまだ閣下さんには何も『質問』していません。私の質問する権利を使わせて下さい。閣下さん、あなたは……」

「高橋諒一博士なのですか。あなたが。もし、そうなのなら、事情をご説明ください」

 老人の後ろからナオミ・タハラが口を挿んだ。

「……」

 老人は目線を下げたまま黙っている。

 老人の前に回ってきたナオミ・タハラは、老人に叫んだ。

「閣下!」

 顔を上げた老人は、溜め息を吐いてから言った。

「うろたえるでない、タハラ」

 山野紀子が言う。

「無茶言ってんじゃないわよ。誰だって動揺するでしょうが」

 永山哲也が真剣な顔で尋ねた。

「あなたは本当に高橋博士なのですか」

 神作真哉が老人を指差して言う。

「誠実に答えるって言ったよな。あんた」

 しばらく間を空けた老人は、ゆっくりと口を開いた。

「いかにも。高橋諒一、それがワシの本当の名前じゃ」

 山野紀子が早口で確認する。

「じゃあ、さっきの若者は高橋諒太くんで、向こうの部屋にいたのが高橋千景ちゃんと、奥さんの高橋千保さんなのね」

「……」

 老人が目線を逸らして黙っていると、老人の前に立っていたナオミ・タハラが少しだけ振り向いて、山野に言った。

「私が存じ上げているあの方たちの下のお名前とは、全て一致しています」

 老人が怒鳴った。

「タハラ! 余計なことは答えんでいい。ワシは、あの娘の質問に答えるだけじゃ」

 老人は春木を指差した。

 神作真哉が車椅子の上の高橋諒一をにらみながら言った。

「どこまでも卑怯な男だな。ここまで話したのに、まだ隠し事をするつもりか。あんた、自分が唱えていたパラレル・ワールド肯定説が間違いだと分かったから、身を隠していたんだな。十一年前にあんたが姿を現していたら、その一年後の第二実験で田爪博士が送られることも無かったし、その後に国がタイムトラベル事業を興すことも無かったんだぞ。あんた、この十年間、人々が乗っていったタイムマシンがタイムトラベルなんてしていないと知っていて、見て見ぬふりをしてきたのか。どうして名乗り出なかったんだ!」

 山野紀子も怒りに満ちた顔で高橋に言った。

「百三十人よ。百三十人の命が犠牲になったのよ!」

 高橋諒一は横を向いて言った。

「それはワシがやったことではない。すべて田爪君がやったことだ」

 山野紀子は高橋を指差しながら怒鳴った。

「あなたが名乗り出ていれば、タイムトラベル事業は停止になったはずでしょ。あなたも同罪じゃない!」

 高橋諒一は目線だけを山野に向けてニヤリと片笑んだ。

「まさか田爪君が搭乗者を抹殺していたとは、想像もせんかったよ」

 一歩前に出た永山哲也が声を荒げた。

「じゃあ、タイムマシンが安全にどこかに出現していると思っていたのですか! 搭乗者たちが無事に生きていると思っていたとでも言うつもりですか! 一番最初に飛んだのはあなたじゃないか。同じ時間軸上に現れることを知っていたのなら、タイムマシンで出発しても過去に何も痕跡を残さない搭乗者たちに何かが起こっているかもしれないとは考えなかったのですか!」

 高橋諒一は永山を指差しながら、剣幕を変えて言った。

「ワシは君たちの質問には答えたぞ。もう、これ以上、質問に答えるつもりはない」

「このジジイ……」

 歯軋りをしながら神作真哉が前に出る。永山哲也が彼を止めた。

 それを見た春木陽香は、高橋に言った。

「私の質問は、まだ言っていませんよね。だから閣下さんは私の質問に答えていません。そうですよね、タハラさん」

 ナオミ・タハラは静かに答えた。

「ええ。彼女はまだ、閣下に質問をしていません。最後に閣下に尋ねたのは、私です」

「タハラ!」

 高橋諒一はタハラの顔をにらみ付けて怒鳴った。

 山野紀子がニヤリとして言う。

「ちゃんと質問に答えてくれるって約束だったわよね」

 高橋諒一は山野の目を見据えて言った。

「ワシは君らの質問に必要以上に答えているつもりじゃがな。こうして、秘密のタイムマシンまで見せたぞ。それでも不満かね」

 神作真哉は永山に制止されながら、高橋を指差して叫んだ。

「ちゃんと全員の質問に答えるって約束だったろうが! 俺たちの質問にどれだけ必要以上に答えようが、ハルハルの質問は別だろ。ちゃんと答えろよ!」

 春木陽香は興奮している神作の方を見て、静かに言った。

「神作キャップ。この閣下さんがタイムマシンを私たちに見せたのは、親切や誠実を示すためではないと思います。きっと、私たちの口から日本政府に伝えさせるためですよ。この人は、私たちが帰った後に日本に送り込んだ部隊がAB〇一八を滅失させたら、このタイムマシンで過去に逃げるつもりなんです。たぶん、家族も一緒に。だから、このタイムマシンはこんなに大きいんですよ。これを私たちに見せて、ここにタイムマシンがあったことや閣下さんが先ほど話した内容を、私たちが政府に伝えたり記事にしたりすれば、もう世界中の誰も閣下さんたちを探さなくなります。もし探すとしても、図書館で歴史書を読み込んだり、歴史資料館で古文書を漁るくらいのことしか出来ません」

 山野紀子が驚いた顔を高橋に向けて言った。

「あんた、現在の世界を滅茶苦茶にして、自分は家族と一緒に過去に逃げるつもりだったわけ? だから計画もお粗末だし、慎重さもない。結局、陽動作戦なのね。何が人類のためよ。全部、自分が逃亡するための計画じゃない。AB〇一八のことなんて、どうでもいいんでしょ、本当は!」

 春木陽香は、今度は、高橋を強く指差した山野の方を向いて言った。

「編集長、それは違うかもしれません。たぶん、さっき閣下さん、括弧、本当は高橋諒一さん、括弧返し、がお話しになられたことは本当だと思います。クラマトゥン博士の本の内容とも一致しますし。AB〇一八は時空を超えて予測演算を繰り返しているのかもしれません。あのコンピュータは『時間』というものを超越している。だから、この人が『時間』を遡って『過去』の世界に家族と共に安全に逃亡するためには、何としてもAB〇一八を停止させなければならない。だけど、のんびりしている時間はない。編集長が指摘されたとおり、これまで南米戦争で忙しかった世界各国は、南米戦争が終息に近づくと、今度は協力してASKITに立ち向かおうとしています。いずれ、この拠点島も発見され、攻撃されてしまうんじゃないでしょうか。この人はそれを恐れて、早く逃げ出そうと焦っているんですよ。だから、極端に不利な協定書にもサインしたんです。早くAB〇一八を消滅させて、早く『過去』の世界に逃げたいから」

 ナオミ・タハラは高橋の顔を見据えて、困惑した顔で尋ねた。

「そうなのですか、閣下」

 高橋諒一は黙っている。神作真哉はそんな高橋に軽蔑的な眼差しを向けた。

「金を集めるだけ集めて、次は逃亡か。あんた、奥野や津田と変わらんじゃないか」

 永山哲也が高橋の顔を見たまま、神作に言った。

「いや、奥野恵次郎は少なくとも国務大臣や国会議員としての仕事をしています。津田幹雄も官僚として権力競争に勝とうとしただけです。それに、二人とも逃げ出したりもしなかった。だが、この人は違う。世界中から科学技術を集めて、その特許を利用して金を集め、世界中の人々を食い物にした挙句、自分たちが作った生体コンピュータのフェイルに対して適切な処置もしないで、ただ消し去って、世の中を混乱に陥れ、部下を見捨て、ただ逃げようとしているんです。しかも、AB〇一八の消去は自分たちが過去に逃亡するための事前策。自分のために世界中の人々に危険を負担させようとしている。奥野や津田も世界中の無関係な人々を巻き込もうとはしなかった」

 春木陽香は永山の方を向いて言った。

「永山先輩、この人は自分のためにこんな事をしようとしているのではないのかもしれません。きっと、千保さんや千景さんや諒太くんのためですよ。家族のためだと思います」

 永山哲也は怪訝な顔をして春木を見た。

 春木陽香は車椅子の上の高橋を一瞥すると、永山の方を向いて話し始めた。

「前に話したとおり、私が調べた高橋諒一邸は第一実験の直後にNNJ社の手配で綺麗に処分されていました。いろいろな所にお金をばら撒いたからでしょうけど、近所の人や関係者の中には誰も、千保さんたちのことを悪く言う人はいませんでした。従兄弟さんに大金を送ったのも、この人だと思います。自分のことで親戚に迷惑をかけて悪いと思ったから、お金を送ったのでしょう。それから、先輩がしたインタビューで田爪健三博士は、二〇二五年の爆発についてこう語っていました。爆発当日、高橋博士と田爪博士は急に放送局に呼ばれて、高橋博士は家族を連れて爆心地近くの家を離れていたために、難を逃れたと。きっと、テレビ局に手を回して、過去の自分や千保さんたち家族を移動させるように手配したのは、この人だと思います」

 春木陽香は高橋の方に向き直して、彼に言った。

「ちなみに、私、あの当時に皆さんが住んでおられた爆心地の近くの町のマンションにも行ってみたんです。鯉料理の美味しい、静かで良い町でした。でも、あの二〇二五年の爆発当時は、町に直接の被害は出ませんでしたが、町中に避難勧告が出たりして大変だったそうで、その後も放射能汚染の風評被害で町の売りだった鯉料理は全く売れなくなって、人口も激減したそうです。マンションの他の住人も、町の人も、高橋博士やご家族のことを余り良く言ってはいませんでした。遠慮気味に表現すると、ですけど」

 春木陽香は山野の顔を見て続けた。

「私が生きたままの鯉を丸ごと一匹買わされたのも、たぶん、嫌がらせです。実は、無理矢理買わされました。高橋博士の名前を出した途端に、町の人たちの態度が一変したんです。きっと、あの町の人たちは相当に博士のことを恨んでいます」

 山野紀子は口を開けて頷いた。神作と永山が視線を合わせる。

 春木陽香は再び高橋の方を向いて言った。

「あの爆発の後、ご家族はそのまま、あの百日紅がたくさんあった豪邸に移られていますよね。町のマンションの方には一度も戻っていない。未来のことを知っているあなたは、あの当時、あの大爆発でも町が直接の被害を受けないということは知っていたはずです。ならば、ご家族を事前に移動させておく必要はありません。それでも移動させたのは、町の住人たちから責め立てられるという苦痛を家族に与えないようにするためだった、私はそう思います。つまり、あなたは優しい人です。家族思いの人です。きっと、この一連の計画も、家族を守るためにしている事だと私は思います。津田長官や奥野大臣のように、権力欲や金銭欲で動いている訳ではない。だって、そのどちらも、あなたは既に手に入れていますから。息子さんは自家用ジェットでバスケの試合を見に行くんですもんね」

 俯いて聞いていた高橋諒一は急に咳込み始めた。彼は酸素マスクを渡すようタハラに指示する。ナオミ・タハラは車椅子の後ろに回り、酸素マスクを取ると、それを高橋に差し出した。高橋諒一はマスクを掴み取り、口に当てる。彼は何度も深く息を吸った後、マスクを放り投げ、もう一度深呼吸をしてから春木に言った。

「なかなか、賢いお嬢さんじゃ。驚いたわい」

 山野紀子が春木の肩に手を回して高橋に言う。

「でしょ。ハルハルは私が新聞社から引き抜いたんですからね。それに、私が直々に指導してるし。どうだ、畏れ入ったか、真ちゃん、哲ちゃん。わははは」

「紀子、後にしろ。話が進まん」

「ごめん、ごめん」

 神作に叱られた山野紀子は、春木から手を離した。

 高橋諒一は挑戦的な視線を春木に向けて、静かに言った。

「では、その実力が知りたくなったのお。お嬢ちゃん、君の推理を話してもらえんかね」

 春木陽香は毅然として答えた。

「分かりました。ですが、その前に、私の上司と少しだけ話をさせて下さい。意見を伺いたいので」

 春木陽香は壁際の赤いカーテンの所までトコトコと走っていくと、カーテンの前で立ち止まり、山野に手招きした。山野紀子が春木の方に歩いていく。

 山野紀子が近くまでやってくると、春木陽香は赤いカーテンの中に包まって隠れ、声を押し殺しながら山野に訴えた。

「なにハードル上げてるんですかあ! これ以上、何も無いですよお!」

「ええー! 今ので全部出し切っちゃったの?」

「そうですよ。ここに来て、いろいろと整理できてきたばかりなんですから」

 春木陽香は赤いカーテンに包まったまま、眉をハの字に垂らした。

 山野紀子は困惑した顔で春木に言った。

「どうするのよ、あのお爺ちゃん、括弧、ホントは高橋博士です、括弧返しは、あんたの推理次第で続きの話をしてやろうじゃんってノリじゃないのよ」

「そう運んだのは、編集長じゃないですかあ」

「何か思いつかないの。あいつをギャフンと言わせることを、バシッとさ。どうだ、お見通しだぞって」

「無理ですよ。空腹で頭も回らないし」

「向こうはヨボヨボのお爺ちゃんじゃないの。何でもいいから適当にこじつけて、押しで行きなさいよ。押しで」

「無茶言わないで下さいよ。本当に高橋博士なら、ちょー天才博士じゃないですか。横のタハラさんも時々にらんできて恐いですし。今の私が三人掛かりでも……ん……、三人掛かり……」

 春木陽香が上を見た。山野紀子も上を見てみたが、何も無い。彼女が春木に視線を戻すと、春木は真剣な顔でコクコクと頷いている。

「どう、何か思いついた?」

 山野が期待を込めて尋ねると、春木陽香は一度大きく頷いて返した。彼女はカーテンから出ていき、またトコトコと高橋の前まで走っていった。

 戻ってきた春木を見て、高橋諒一は言った。

「話は済んだようじゃの。では、聞かせてもらおうか」

 春木陽香は、また真っ直ぐに高橋の顔を見て、言った。

「私が思うに、閣下さん、あなたは、きっと何度もタイムトラベルを繰り返しています」

「何度も、繰り返している?」

 怪訝な顔をして聞き返した神作の方を向いて、春木陽香は、背後のトンネルの床に残っている何本もの引っかき傷を指差した。

「この傷跡を見て下さい。たぶん、何回もここにタイムマシンが出現したか、何回もここから飛び立った跡です。この閣下さんはある時期にタイムマシンで何度も戻って、そこからの同じ期間を何度も過ごしているのだと思います。それで、トータルで長い時間を生きてきたために、過度に老化している。もしかしたら、百歳を超えているのではないかと」

 振り向いた春木陽香は、じっと老人を見つめた。


 

                 19

 神作真哉はしかめた顔を春木に向けて言った。

「ひゃ……百歳? 第一実験の当時、高橋博士は三十八歳だぞ。生きていれば今は四十九歳だろ。それが百歳以上だとすると、五十年以上も時を重ねて生きてきたってことか?」

 春木陽香は首を横に振った。

「いえ、トータルで五十年です。例えば、十年前に五回戻っているとか」

 戻ってきた山野紀子が疑問を投げ掛けた。

「タイムトラベルすると、老化の後遺症が残るのよね。そんなに体が持つの?」

 春木陽香は高橋の顔を見て言った。

「だから、たぶん本当に残りの寿命も短い。肉体的な老化が過度に進んでいるのかもしれません。それも、家族との逃亡を急いでいる理由の一つだと思います。きっと、これが最後の家族旅行になるでしょうから」

 高橋諒一は再び手に取ったマスクを口に当てて、春木の顔をにらむように見ていた。

 山野紀子が春木に尋ねた。

「じゃあ、タイムトラベルの後遺症で老けちゃってるんじゃないわけ?」

 春木陽香は頷く。

「それもあるはずです」

「もう、どっちなのよ!」

 山野がそう言うと、春木陽香は説明を始めた。

「さっき、この閣下さんは、永山先輩の質問にこう答えました。『タイムマシンでのタイムトラベルには、疾うの昔に成功している』と。だから興味がないとも。つまり、司時空庁のタイムマシンに関心を持つ必要も無いほど、タイムトラベルに確信を得ている。それは何度もタイムマシンの発射をしていて、且つ、その結果を確実に知っているからではないでしょうか」

 永山哲也が春木の顔を見て言った。

「つまり、自分が何度も乗っている……」

 春木陽香は永山の目を見て頷いた。

「そうです。司時空庁は、タイムマシンで人々を送るだけで、自分たちでその結果を確かめて、知ろうとはしませんでした。それが、あの悲劇の一つの原因でもあると思います。津田長官は、爆心地でタイムマシンの残骸とバイオ・ドライブを回収しましたが、それだけで、田爪博士が唱えていたパラレルワールド否定説が正しいとは確信を持てなかった。それは、そのタイムマシンが別の時間軸から来たものかもしれないという疑いを拭いきれなかったからです」

 神作真哉が永山の顔を見て言った。

「ああ。時吉弁護士と司時空庁に行った時、津田は確かに、そう言っていたな」

 春木陽香は頷いてから、話を続けた。

「だから司時空庁の津田長官は、高橋博士のパラレルワールド肯定説が正しいかもしれないという考えのまま、十年間もタイムマシンを発射し続けた。この点は本当だと思うんです。そして、その確信が持てなかった最大の理由は、自分が乗っていなかったからです。タイムマシンが何時の時代から来たものなのか、それが同じ時間軸上の未来なのか、別の時間軸上の未来なのか、はっきりと分からなかった。ですが、自分が乗っていれば、話は別です。同じ時間軸上にいるかどうかは、自分が一番よく分かるはずですから。もし、過去に戻って、その過去に存在した自分と会っていれば、過去に向かってタイムマシンで出発する時点で、そのことを知っているはずなんです」

 山野紀子が腕組みをして言った。

「んん? どういうことよ」

 永山哲也が説明する。

「例えば、こういうことですよ。今から十年前の二〇二八年に、ある人物Aが存在するとします。十年後の二〇三八年現在はB。いいですか、AとBは同一人物です。Aが十歳年をとったのがB。Bがタイムマシンで十年前の二〇二八年に飛び、Aと会います。するとAは、その後二〇三八年までの十年間、二〇三八年に自分がタイムマシンに乗って二〇二八年に戻るということを知ったまま時を過ごすことになる。つまり、Bはタイムマシンで出発する時点で、自分がタイムトラベルに成功することも、『過去』の自分Aに会うことも知っている訳です。そして、二〇二八年から二〇三八年までは、AとB、歳の違う二人の『自分』がこの世に存在し、二〇三八年からは、更に十歳年を重ねたBが残ることになる」

 永山哲也は高橋の顔を見た。

 春木陽香は頷いてから言った。

「だから、この閣下さんは、さっき明確にパラレルワールドは無いと断言したんですよ。自分が過去に飛び立つところも、到着するところも見てきたから」

 山野紀子が春木と永山に手を広げて言った。

「ちょっと待ってよ。じゃあ、高橋諒一は、過去に何人もいたってこと? ウソでしょ」

 春木陽香は首を縦に振った。彼女は推理を滔滔と語る。

「あくまで私の推測ですが、閣下さんがASKITという秘密結社をここまで強力で巨大な組織に出来たのは、頭のいい他の閣下さんが何人もいたからだと、私は思います。高橋諒一は、タイムマシンで何度も過去に戻った。最初に過去に戻った高橋諒一がいる時代より後の時代に。そうすると、次に過去に戻った高橋博士と、前に過去に戻った高橋博士が存在することになります。それを何度か繰り返して、何人もの『高橋諒一』で未来についての情報を交換し、分析し、協力して分業しながら、事を進めていく。だから、ASKITという組織を短期間でここまで大きくできたんです。未来のことを知っている天才が数人掛かりで取り組んだのですから。そして、実際にタイムマシンで発射した日になると、その高橋諒一は過去へと旅立っていく。過去の事実どおりに。そうやって、一人ずつ居なくなって、最後に残ったのが、この高橋諒一さんです。何回もタイムマシンに乗って、何回も過去に行ったというのは、そういうことです。一定の期間を何度も繰り返し過ごしてきているので、当然、歳も重ねている。そして、タイムトラベルをした分だけ、その後遺症として老化も過度に進行する。それで、肉体的に寿命が尽きようとしている」

 高橋諒一は笑みを浮かべると、春木を指差しながら言った。

「ふむ。面白い推理じゃ。じゃが、全く科学的ではない。ワシが何度タイムトラベルを繰り返しているかが指摘されておらんからの。ただの空想じゃ。おお、そうか、いつから、いつへタイムトラベルしたのかが分からんからのお。指摘しようがないか。論が立っておらん。ただの思いつきじゃな」

 春木陽香は山野の手を引いて再び赤いカーテンの方へと移動した。彼女はまたカーテンに包まると、声を潜めて山野に言った。

「ほら、言ったじゃないですかあ! やっぱり、本当に高橋博士なんですよ。天才の高橋博士。私、田爪健三博士じゃないんですよ! どうやって、ギャフンと言わせるんですかあ」

「あんた、ノープランで相手に喧嘩を売ったわけ?」

「私のプランでは、ここまでで降参してくれるはずだったんです! こんな切り替えしが来るなんて思って無いですって。いつの時代に飛んだかなんて、分かる訳ないですよお。そんなことは、AB〇一八じゃないと……」

 発言を止めた春木陽香が、また上を見上げた。山野紀子が拳を握ってエールを送る。

「よし、頑張れ、もう少し」

 春木陽香は山野の顔を見て言った。

「編集長、さっき閣下さんは、AB〇一八はどの時代のAB〇一八も同じ存在だと言いましたよね」

「うーん、まあ、よく分かんないけど、そんなことを言ってたわね。あ、ちょっと……」

 春木陽香は高橋の車椅子の前まで走って戻った。彼女は高橋の前で急停止すると、向きを変え、彼の方に顔を突き出して言った。

「分かりました。二〇一八年以前です! AB〇一八が製造された二〇一八年以前に、あなたは行ったはずです。AB〇一八が製造される以前なら、AB〇一八の演算の範囲には入っていないはずですから、邪魔をされる危険性が低くなるはずです。安全に過去に戻るなら、最低でも二十年以上は前に戻らなければならない。安全……ということは……そっか、また分かりました。その計画に着手し始めたのは、おそらく二〇三五年の七月二十三日以降です!」

「三五年の七月……ああ、田爪瑠香が司時空庁に上申書を送り始めた日だな」

 そう指摘した神作の方を向いて、春木陽香は頷いた。

「はい。今から三年前です。さっき閣下さんは、六年前にバイオ・ドライブを司時空庁から奪い、三年かけて再生させたと言いました。そして、AB〇一八を使って、中のデータを引き出したと。だとすると、それは三年前、二〇三五年頃の話です」

 春木陽香は、また高橋の方を向いて話を続けた。

「丁度その頃から、田爪瑠香さんは上申書を司時空庁に送り始めています。タイムトラベル理論の計算違いや、タイムマシンの構造上の問題点を彼女が見つけたからです。その情報は、研究資金の提供者であったNNC社を通じて、あなた方ASKITにも届いたはずです。そして、その情報を、バイオ・ドライブから引き出した田爪博士のタイムマシンの設計図と照合し、瑠香さんの指摘した問題点が改善されているかを確認してから、それらを基に、本当にタイムトラベルをする安全なタイムマシンを製造した」

 春木陽香は振り向いた。

「永山先輩、このタイムマシンは、先輩が南米から送ったタイムマシンと似ているんですよね」

「ああ。これよりだいぶ小さかったが、形はこんな感じだった」

 春木陽香は神作と永山の背後のタイムマシンを見つめながら、言い続けた。

「閣下さんは、外観と安全面だけ田爪博士の新型タイムマシンの設計を取り入れたと言いましたが、本当は違う。たぶん、これは、田爪博士が設計したタイムマシンを真似て作ったもの。つまり、まったくの盗作です。これまでに過去に送ったタイムマシンも、きっと田爪型タイムマシンのコピーだったはずです。この閣下さんが本当に高橋諒一博士なら、第一実験でタイムトラベルに失敗したタイムマシンと同じ設計のタイムマシンに乗るはずがありません。ところが、永山先輩が送った田爪博士の新型タイムマシンは、その機体の中に積み込んだ金属板やバイオ・ドライブが二〇二五年という過去で発見されている以上、それ以前の過去に実際にタイムトラベルをした事実は明らかです。あとは、瑠香さんが指摘した問題点が改善されていることさえ確認できればいい。それなら、絶対に安全です」

 神作真哉が腕組みをして言った。

「なるほど。こいつとしては、自分が乗るわけだからな。それくらい徹底した確認はするはずだな」

 山野紀子も納得する。

「そっかあ。もし、この人が本当に高橋諒一博士なら、自分の設計したタイプの機体には乗らないわよねえ」

 春木陽香は付け加えた。

「それと、出発した日は、どれもきっと、ここ数ヶ月の間であるはずです。さっき閣下さんは、量子エネルギー・プラントは近頃ようやく完成したような話をされました。そうなんですよね、タハラさん」

 春木陽香は高橋の方を向いて、横のタハラに尋ねた。

 怪訝な顔で高橋を見ていたナオミ・タハラは、そのまま頷いた。それを見て春木陽香は言った。

「一回のタイムトラベルで、どのくらい大量の電力を消費するかは、毎月タイムトラベルが実施されている日本に住んでいる私たちが、一番良く分かっています。国の赤字は減っていっても、電気代は全然安くなりません。月に一度のタイムマシンの発射で、国内の電気を大量に消費するからです。ストンスロプ社が半永久的に使えるO2電池を開発してくれていて、我々庶民は随分と助かっているくらいですから。とにかく、この島がいくら自然に恵まれていて、それを利用した発電で電力には困ってはいないと言っても、自然発電には限界があるはずです。とても、この島の発電設備だけでタイムマシンを飛ばすのに必要な電力を賄えているとは思えません。もしそうだとすると、やっぱりタイムトラベルには、電気以外のエネルギー、つまり、量子エネルギーが必要になりますし、実際にそれを使用したはずです。でも、それには、自分たちで独自に集めた量子エネルギーだけでは足りないはずなんです。司時空庁は量子エネルギーを集めるのに苦労したから、電力に頼ったわけですし、あの田爪博士でさえ、南米で十年もかけて量子エネルギーを集めていたわけです。必要な量子エネルギーを短期間で準備するためには、どうしても、プラントで量子エネルギーの大量生成をする必要が出てくるのではないでしょうか。だとすると、閣下さんのタイムトラベルが可能になったのは、その量子エネルギー・プラントが完成した後です。つまり、この数ヶ月の間。ということは、閣下さんは、最低でも二十年という期間を何度か過ごしています。最初に飛び立った時が四十九歳だとすると、二回、いいえ、もしかしたら、三回。とにかく、今の閣下さんは、この二〇年以上の時間を何度も過ごしてきた閣下さんです!」

 春木陽香は、高橋諒一の顔を真っ直ぐに指差した。


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