第22話

 第七部




 二〇三八年八月二十三日 月曜日 深夜


                  1

 新日ネット新聞社の社会部編集フロアに上野秀則が戻ってきた。時計に目を遣ると、針は十二時を回ろうとしている。脱いだ背広の上着を肩に掛け、疲れた顔で歩いてくる上野に、重成直人が言った。

「ああ、デスク。お帰りなさい。神作ちゃんたち、救出されたみたいですね。いやあ、よかった」

 上野秀則はフロア内を見回した。山野朝美は居なかった。永峰千佳もいない。二人とも宿直室で寝ているのであろう。残っている記者たちも、疎らだった。

 上野秀則は、肩から降ろした上着を神作の椅子の背もたれに放り投げると、短く溜め息を吐いて重成に答えた。

「いや、それがまだ喜べんのですよ。あいつら、政府の特使としてASKITアスキットの拠点に向かったそうです」

 重成直人はしかめた顔で聞き返した。

「なんだって? ASKITの拠点に? どういうことです。日本にあるんですか?」

 上野秀則は首を横に振る。

「公安の赤上が言うには、政府も場所を把握していないらしい」

 重成直人は険しい顔で聞き返した。

「把握してない? どうしてそんな所に……」

「相手方の指名だそうです。理由は分かりません」

 窓際に置かれた応接ソファーに座って上野の話を聞いていた勇一松頼斗が、声を裏返して言った。

「ASKITの拠点ですって? 何でそんな所に言ったのよ」

 上野秀則は応接ソファーに歩み寄り、勇一松の隣で腕組みをして眠り込んでいる別府の後頭部を叩いて起こすと、上座の一人掛けソファーの後ろを回って、奥の勇一松の向かいのソファーに腰を下ろした。

 重成直人もやって来て、上野の隣の席に座る。

 上野秀則は、上座の一人掛けソファーの背もたれに身を投げて頭を抱えている谷里素美部長に目を遣った。

 勇一松頼斗が上野に言う。

「今、ようやく、ここまでの流れを理解させたところなのよ。疲れたわ、ホントに」

 軽蔑的な視線を送る勇一松に谷里素美は頭を掻きながら言った。

「話がややこし過ぎるのよ。登場人物も多過ぎるし」

 上野秀則は溜め息を吐くと、谷里に言った。

「社会人なら、このくらい普通でしょ。それに、子供の頃に見たマンガやアニメの方が登場人物はもっと多いでしょうが」

 谷里素美は体を起こすと、上野を指差して言った。

「私は小説しか読んでないの。マンガなんか読まなかったわよ!」

 重成直人が「まあ、まあ」と彼女を宥めた。

 勇一松頼斗は上野に視線を向けたまま、日焼けした顔の眉間に皺を寄せて言った。

「で、どうして、せっかく救出されたハルハルたちがASKITの拠点なんかに行かないといけないわけ?」

 上野秀則は膝の上で両手の指を組むと、深刻な表情で話した。

「日本政府とASKITが手打ちの協定を結んだそうだ。内容は分からんが、たぶん、辛島総理がASKITと密約を交わしたというのが実情だろう。だが、政府はASKITのトップが誰なのか知らない。頭領の顔も、名前も、年齢も知らんはずだ。だから、わざわざその拠点に行って、直接その頭領と会って、本当にASKIT側の意思表示なのか確認する必要がある。しかし、ASKIT側はそれを拒否。逆に協定締結の立会人としてウチの四人を送るよう指名してきたそうだ」

 重成直人が尋ねた。

「どうしてあの四人なんです」

 上野秀則は、目の前の低いテーブルに目を向けたまま答えた。

「たぶんあいつらなら、戦闘訓練などを受けた者ではないことが確実だからでしょう。自分たちの拠点に呼び入れてナンバーワンと対面させるのなら、奴らにとって危険の無い民間人の方がいい。それにあいつらなら、これまでの取材で事情をよく理解している。立会人としては打ってつけですよ」

 別府博が目を擦りながら言った。

「また拉致されちゃったんですか?」

 上野秀則は斜向かいの別府を一瞥すると、心配そうな顔をしている勇一松の方に視線を移して言った。

「いや、公安の赤上は任意だと言っていた。それが本当なら、まだ戻ってきていないということは、あいつらは同意して、自分たちの意思で向かったのかもしれん」

 谷里素美が膝を叩いて言った。

「もう! どうして真っ直ぐに帰ってこないのよ。今日のことを朝刊に載せないといけないでしょ。神作くんたち、まだスクープを狙うつもりなのかしら。会社に報告もせずに自分たちで勝手に行ったのなら、何かあっても会社としては責任を負えませんからね。出張手当も出さないわよ」

 上野秀則は呆れたように項垂れた。

 最年長の重成直人が横の谷里に強い口調で言った。

「ついさっき国防軍に救出してもらって、その後ですぐに国から依頼されたら、誰だって断れんでしょう」

 重成直人は上野の方に顔を向けると、声を落として彼に尋ねた。

「それで、デスク、神作ちゃんたちには、国が護衛の兵士とかを付けているんですか」

 上野秀則は膝の上で手を組んで俯いたまま、首を横に振った。

「辛島総理とASKITの頭領との直の協定らしいです。軍も警察も、手が出せんと言われました」

「移動手段は」

 更に尋ねた重成に、上野秀則は答えた。

「相手が迎えに来るそうです。指定されたポイントまでは軍が護送すると。ただ、陸路で護送すると言っていましたから、おそらく相手が神作たちを運ぶ手段は空輸でしょう。護送車からの追跡を避けるはずだ」

 別府博が上野に再び尋ねた。

「国内ですか、それとも、海外?」

 上野秀則は少し厳しい口調で答えた。

「分からんと言ったろう。世界中の国の情報機関がASKITを壊滅させようと、その拠点を探っているのに、未だに具体的な場所も規模も判明していないんだ。こんな狭い島国の中に在る訳ないじゃないか。在ったら、とっくに判明している」

 重成直人が上野を宥めるように言った。

「もし神作ちゃんたちが航空機で移動しているなら、軍がレーダーか何かで追尾しているかもしれませんな」

 上野秀則はソファーの背もたれに身を投げて言った。

「ASKITの連中が、そこまで間抜けだと助かりますがね。それにしても、あの辛島総理が馬鹿正直に相手の言う条件を呑むなんて……」

 勇一松頼斗は深刻な顔で呟いた。

「不味いわね……」

「どうしたんだい」

 勇一松の只ならぬ表情を見て、重成直人はそう尋ねた。

 勇一松頼斗は言った。

「私ね、ちょっと推理していたのよ。この休職期間中にいろいろと考えていたの。どうも、この一連の話、陰で何者かが絵を画いているんじゃないかと……」

 上野秀則はソファーに深く座って項垂れたまま目線だけを上げて、勇一松に言った。

「田爪瑠香の論文や、津田や奥野の動きか」

「いいえ。第一実験から、この協定までの話よ。全ての出来事が仕組まれていたことかもしれないの」

 真剣な面持ちでそう答えた勇一松頼斗を見て、上野秀則はソファーから身を起こした。

「どういうことだ」

 彼は小さな目を鋭くして、にらむように勇一松の顔を覗く。

 重成直人も怪訝な顔を勇一松に向けた。

 別府博と谷里部長は顔を見合わせている。

 勇一松頼斗は皺の多い顔の眉間に、一際に深い皺を寄せて言った。

「もし私の推理が当たっていたら、ハルハルたち、もの凄く危険な状況かもしれない」

 今度は上野と重成が顔を見合わせた。そして再び勇一松に注目すると、そこに居た全員が彼の言葉に耳を傾けた。

 広い編集フロアの一角で、勇一松頼斗は記者たちに語り始めた。



                  2

 薄明かりの下で波が揺れている。海原の上に一瞬だけ影が映った。影は飛行機の形をしていた。しかし、その姿はどこにも見えない。白い雲と碧い海の間に、時折細い稲妻を纏わりつかせながら、透明な何かが飛行している。それは明るくなりつつある大海の上空を高速で移動していった。

 そのオスプレイ機の中は静かだった。横に倒されたティルトローターの翼が回転する音も、それを回す電動モーターの音も、翼が風を切る音も響いていない。離陸し始めて暫らくの間は、若干の振動や揺れと、時折、旋回する際の重力を体に感じてはいたが、今はそれらも感じられなくなった。毛並みの良い絨毯が敷かれた床からも振動が一切伝わってこない。それは機体が安定した水平飛行に入ったことを意味していた。それなりの幅と奥行きのあるキャビンの内部は天井のLEDライトに照らされて明るい。しかし、広さが保たれているにもかかわらず、室内では異様な圧迫感を受けた。左右の壁の小さな窓が全て外側から防護壁のような物で塞がれていて、中から外の景色を望むことは出来なかったからだ。搭乗の際に斜めに倒れて記者たちを機内へと運んだ機体後部のハッチも、その手前に設けられた隔壁とその中央で閉じられている窓の無いスライド式のドアで隠され、キャビン内からは見ることは出来ない。中の気圧と温度は調整されている。快適だが、空気は乾いていた。その中を棘のような緊張した空気が漂っている。静かだった。パイロットが通信する声も聞こえない。機体先頭のコックピットとの間も隔壁で区切られていた。それに向かって左右の壁際には、肘掛と背当ての縁で区切られた革張りの椅子が壁を背にして向かい合わせに並べられている。それぞれの椅子の背当ての上部から天井にかけては、搭乗者の体を固定するための安全バーが逆様になって上がった状態で設置されており、その下に、それぞれに一人ずつ座っていた。

 機体前方に向かって右の壁の一番奥の椅子に神作真哉は座っていた。その隣に山野紀子が座り、その次の椅子に春木陽香が茶色い革製の二冊のファイルを胸の前で大事そうに抱えて座っていた。隣の角の席には、向かいの席をにらみながら、永山哲也が座っている。永山の膝の前には、向かいに座る刀傷の男の迷彩柄の戦闘着のズボンに包まれた膝があった。刀傷の男は体を前に倒して、大振りのナイフを弄っている。男の隣の席は空けられていて、その空席の隣に、黒のロングコートのような形の薄手のワンピースを、スタンドカラーの一番上まで釦を留めて着ている背の高い東洋人女性が背筋を正して座っていた。その隣の一番前の席に、ベージュのブランド物のスーツに身を包んだ金髪の西洋人女性がタイトスカートの中で脚を組んで座っている。彼女は両側の肘掛に手を預けたままシートに身を倒し、その青い瞳で、向かいの席の神作真哉を観察していた。

 四人の記者たちは、このオスプレイ機が離陸してからずっと沈黙したままだった。誰もが、この機体に乗り込む直前に射撃された増田基和の死を悼んでいた。そして、時折、その怒りの視線を、端の席で笑みを浮かべながらハンカチで戦闘用ナイフを磨いている刀傷の男に向けた。記者たちの意を察したのか、山野の向かいに座っていた黒服の女性が静かな声で男に言った。

「ナイフを仕舞いなさい。客人の皆様に失礼です」

 男は溜め息を吐くと、わざとナイフを永山の胸の前で一回転させてから、自分の肩の前のホルダーに差し込んで戻した。永山哲也は男の片方の目をにらんだまま、微動だにしない。黒服の女性が永山の方に顔を向けて言った。

「どうか、失礼をお許し下さい」

 それでも、刀傷の男は薄ら笑いを浮かべながら永山の顔を見ている。永山哲也は静かににらみ返した。刀傷の男は腕組みをして、自分の右隣の隔壁に凭れかかった。その態度を見て、山野紀子が男をにらみながら口を開いた。

「なに笑ってんのよ、あんた。さっきからニヤニヤと……」

 椅子から少し腰を浮かせた山野の前に神作真哉が腕を伸ばして遮り、男に言った。

「なぜ彼を撃った。撃つ必要は無かっただろう」

 刀傷の男はほくそ笑んだ顔で答えた。

「先手必勝さ。それに、時間稼ぎ。ま、常識だな」

「いい加減にしなさい。今この場で、あなたを降ろしてもらってもよいのですよ」

 黒服の女性が男に釘を刺した。すると、男は腕組みをしたまま彼女に言い返した。

「俺は、あんたらの会社に雇われている訳じゃない。契約しているのはASKITアスキットだ。あんたに指図される覚えは無い」

 黒服の女は男の顔に目を向けずに言った。

「この方々は、そのASKITの大事な客人です。あなたの行動が原因で組織に損失が生じるようなら、私も組織の一員として、しかるべき対応をとりますが」

 女は刃のような視線を男に向けた。キャビンの中に一瞬、張り詰めた空気が流れる。

 神作真哉は女の左手が黒いワンピースの左のポケットに近づけられているのを見て、椅子の背当てから少し背中を浮かせると、女の挙動に集中した。山野紀子は、自分の正面に座る女性の異様な殺気を余所に、その女と同じ方向をにらみ付けていた。永山哲也は、女から目の前の男に視線を移すと、男を取り押さえるべく心中で構えながら平静を装っていた。春木陽香は、胸の前で二冊の革製のファイルを抱きしめ、黒服の女と刀傷の男に交互に顔を向けていた。

 西洋人女性は肘掛けに肘をつき、手に頬を乗せて、春木の落ち着かない様子を見ながら片笑んでいる。

 刀傷の男は片方の眼球だけを素早く動かして周囲の状況を把握していたが、やがて顔を逸らすと、不請不請と言った。

「わかったよ。……ちっ」

 女はポケットの近くに左手を置いたまま、少し体の向きと視線を変えた。

 神作真哉は両頬を膨らまして深く息を吐く。山野紀子は神作の方に振り向いて、納得のいかない旨を表情に込めて何かを言おうとしたが、神作が首を横に振って彼女の発言を制止したので、何も言わなかった。永山哲也は、向かいの席の男とぶつかった視線を離さずにいたが、男を鼻で笑うと、そっぽを向いて椅子に深く腰掛けた。春木陽香はファイルを抱きしめたまま肩を丸めて息を吐き、安堵して項垂れていた。

 すると、西洋人の女がフランス語で話しながら神作の前に細く白い手を差し出した。黒服の女性がすぐに日本語で通訳する。

「自己紹介が遅れました。私はNNC社の代表取締役、ニーナ・ラングトンです」

 それは明らかに握手を求める仕草だったが、神作真哉はあえてそれを無視した。彼は顎で黒服の女性を指して言った。

「あんたの名前は」

 黒服の女性は一瞬、隣の西洋人女性に視線を送ると、神作の発言を訳してから、彼の問いに答えた。

「ナオミ・タハラと言います。私はラングトン社長の只の通訳です」

 神作真哉はタハラの腰元を指差しながら言った。

「只の通訳さんが、拳銃を所持しているのか」

 タハラは姿勢を崩さず凛としたまま、神作に答えた。

「社長をお守りするためです。どうか国際事情の現実をご理解下さい」

 一礼したタハラに応えることなく、神作真哉は、今度は向かいのニーナ・ラングトンを指差して言った。

「あんたがASKITの首領なのか」

 タハラが小声でフランス語に訳すと、ラングトンは一度両肩を上げて、フランス語で少し長々と話し出した。その途中からタハラの同時通訳が始まった。

「いいえ。我々は、あなた方を連れてくるよう命じられただけです。協定には関与していません。ですが、協定内容については概略の説明を受けています」

 タハラの通訳が終わると、神作真哉がすぐに返した。

「内容を知っていて、この扱いか。これじゃあ、ほとんど拉致じゃないか」

 タハラがフランス語で伝えると、それを聞いたラングトンは鼻で笑った。そして、口角を上げたまま短くフランス語で何かを言った。タハラは慎重に通訳した。

「お噂どおり、ユニークな方ですね」

 神作真哉は真顔で答える。

「ジョークを言ったつもりは無い。言える状況でもないだろう」

 ニーナ・ラングトンは再び早口で話し始める。ナオミ・タハラが日本語で伝えた。

「あなた方の身の安全は保障されています。ご安心下さい。本来なら奥野大臣を我々側に取り込み、津田を排除する予定でした。NNJ社の西郷が余計なことをしなければ、このような協定も、あなた方にご足労いただくことも必要なかった。本当に心苦しく思っております」

 神作真哉はラングトンから視線を離して呟いた。

「そう思っているようには見えんがな」

 タハラの通訳の後、ニーナ・ラングトンはまた流暢に話し始めた。タハラが姿勢を正したまま、抑揚の無い口調で淡々と通訳する。

「私の意思とは関係ありません。我々のボスと辛島総理がお決めになられたことです。ボスは総理との約束を守り、我々はボスの命令に従う。それだけです。あなた方は協定書のサインが我々のボスのものであることを確認するだけでいい。その保障として、あなた方が協定書に確認のサインをしていただければ、あとは我々があなた方を無事に日本までお送りします」

 タハラの通訳が終わると、神作真哉はタハラを見て言った。

「ということは、確認できなければ、無事には帰れないということだな」

 その問いにタハラが直接、日本語で答えた。

「あなた方がこれからお会いになる人間について、その人物が我々のボスであり、ASKITを代表する人物であるということの確信を得られるよう、我々は誠意を尽くします。何も心配は要りません」

 会話を聞いていた山野紀子が口を挿んだ。

「場所は日本じゃないのね。どこの国なの」

 タハラは向かいの山野の方を見て答えた。

「場所については、お話できません」

 春木陽香と永山哲也は少し視線を合わせた。

 神作真哉がラングトンの方を見て質問した。

「なぜ俺たちを自分たちの拠点に運ぶ。第三国か船の上でもいいはずだろう。それに、こんな特殊オスプレイを保有しているなら、どうして直接本人が日本にやって来ないんだ」

 タハラがラングトンに通訳している間に、山野紀子が神作に言った。

「船だと追跡されやすいからでしょ。それに、こういった追跡不可能な飛行機で移動して来ても、協定書を交わしている間はどこかに駐機しないといけない。その間に包囲されたら、捕まっちゃうもんね。どうやら、あんたらのボスとやらは随分と用心深くて小心者みたいね」

 肘掛に両手を乗せたまま背もたれに深く倒れてそう言った山野紀子に、ナオミ・タハラが攻撃的な厳しい視線を向けた。それは突き刺すように強く鋭い。

 山野紀子は咳払いをして平静を装うと、春木の方を向いた。

 春木陽香は、タハラの表情を観察したまま、山野の腿をスカートの上から小さく何度も叩いて、小声で、早口で言った。

「謝った方がいいです。絶対、謝った方がいいですって。飛行機から放り出されちゃいますよ」

 ニーナ・ラングトンが神作に何かを言った。春木の方に視線を向けていた神作真哉は、すぐに正面を向いた。ニーナ・ラングトンの顔に笑みは無かった。隣のナオミ・タハラが沈んだ声で今のラングトンの発言を日本語に直した。

「理由については、いずれ分かります」

 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。

 大海原の上の空に突如として飛行機が姿を現した。記者たちを乗せたその特殊オスプレイは朝日に向かって飛行して行く。それは金色に輝く水平線の下へと消えていった。



                  3

 新日ネット新聞社の社会部編集フロアは閑散としていた。当直勤務の記者たちも仮眠をとる時間になっていたからだ。深夜の節電時間帯に入り、フロアの天井に取り付けられたLED電灯も、外部からの直接給電式の物は自動的に消されていた。机を向かい合わせに組んだ「島」が幾つも作られている広い室内は、等間隔で設置された蓄電式のLED電灯のみでは十分に照らしきることが出来ず、少し暗くなっている。そのフロアの中ほどの窓際に置かれた安普請の応接セットに数人が座していた。

 向かい合わせに置かれた合皮張りのソファーには、窓際の席に上野秀則、その隣に重成直人、上野の向かいに勇一松頼斗、その隣に別府博が座っていた。社会部部長の谷里素美は、上座に置かれた一人掛けのソファーに座って窓の方を向いている。彼女は眠そうな目をしながら、髪の毛を掻いて言った。

「また話が広がるわけ? 第一実験っていったら、高橋諒一博士が消えたタイムマシンの実験でしょ。その後の第二実験が田爪。十一年前の話じゃない。そこからなの?」

 あくび混じりに話す谷里に軽蔑的な視線を送りながら、上野秀則は勇一松に言った。

「公安の赤上は、今回の協定の内容は既に確定しているから神作たちのことは心配は要らないようなことを言っていたが……」

 重成直人が口を挿んだ。

「公安の連中が言うことが当てになりますかね」

 上野秀則は両眉を寄せて一度重成を見ると、再び勇一松に視線を戻して言った。

「あんたの推理とやらは、どういうものなんだ。聞かせてくれ」

 勇一松頼斗はズボンのポケットから一枚のMBCを取り出すと、重成に言った。

「その前に立体パソコンを貸してちょうだい。ホログラフィーを映すから」

 腰を上げた重成を見て、上野秀則が透かさず別府に言った。

「俺の部屋から持ってきてくれ。机の上に置いてある」

 重成直人は腰を下ろした。別府博は立ち上がると、広いフロアの突き当たりにある上野の部屋に向かった。

 咳払いをして喉を整えた勇一松頼斗は、ゆっくりと話し始めた。

「あの無人機の墜落事故の時から、どうも何か変だと思ってたのよ。――私たちは、あの墜落事故があったから、あんたたちはタイムマシン発射施設の中に入ることができて、ハルハルも田爪瑠香に近づくことができたと思ってた。でも、考えてみて。もし、あの墜落事故が無かったら、どうだったか。私と編集長のお色気グラビア撮影作戦で無人機が一機くらいは墜落したかもしれないけど、墜落したとしても海の上よ。隣の総合空港で訓練部隊を指揮していた本隊も、司時空庁のSTSも、そっちの方に注意が向いたはず。逆にあんたたちは発射施設の中にもっとすんなりと入れたかもしれない。国防軍の応援部隊が多久実基地から大勢やって来ることも無かったでしょうし、そしたら、みんなが全員捕まるなんてことは無かったかもしれないじゃない」

 上野秀則は言った。

「つまり、あの無人機の墜落事故は俺たちの侵入を阻止するためのものだったと」

「ていうか、田爪瑠香がタイムマシンで送られることを阻止しようとした、こっちの動きを阻止するためのものだったのかも。で、結局、その通りになった。田爪瑠香はタイムマシンに乗って消えちゃったわよね」

 そう述べた勇一松に重成直人が問いかけた。

「じゃあ、あの無人機墜落を仕掛けたのは、津田かい?」

 そこへ別府が上野の立体パソコンを持って来た。

「これですよね」

 そう上野に確認した別府博は、その薄い立体パソコンを五人の間に置かれた低く狭い応接テーブルの上に放り置いて、勇一松の隣の席に座った。荒っぽく置かれた立体パソコンに咄嗟に手を添えて、上野秀則が言った。

「おいおい、俺の私物なんだぞ。大事に扱えよ。高いんだからな、これ」

 勇一松頼斗は、そんな上野を無視して立体パソコンの縁のスロットにMBCを差し込んだ。平たい板状の立体パソコンの表面にあるホログラフィー投射面から光が放たれ、空中に幾つかの箱が綺麗に整列して並んだ。勇一松頼斗はその中の一つに指先で触れると、中から小さなファイルのホログラフィーを摘まみ出し、その上で、合わせた親指と人差し指を離して広げた。すると彼の前に一冊のアルバムが投影され、彼はそれを手早く開いて頁を捲っていった。そして、ある頁で手を止めると、そこにサムネイル表示された幾つかの画像に指先で次々に触れて、その後でアルバムを閉じた。アルバムが小さなファイルの形に戻ると、それと入れ替わりに、空中に幾つかの平面画像が並べられた。勇一松頼斗は、その一つを更に拡大して見やすい大きさにすると、指先で弾いて向きを変え、上野たちに見せた。それは、小さな墓石の画像だった。

 勇一松頼斗は言った。

「これは、田爪健三と瑠香のお墓よ。あの広い首都墓地の中から見つけるのに随分と苦労したわ」

 重成直人が指摘した。

「えらく小さい墓だな」

 勇一松頼斗は次の画像を拡大しながら言った。

「それに古いの。隣のお墓へ御参りに来ていた人に尋ねたら、その人たちがお墓を建てた時には既にこの墓は建っていたそうよ。それが十年以上前の話なのは確かだって」

 上野秀則が首を傾げて尋ねた。

「十年以上前? 田爪が消えた第二実験は二〇二八年の三月末だ。十年前じゃねえかよ。その前から墓を建てていたってことか」

 勇一松頼斗は説明を続けた。

「まあ、生前にお墓を建てるのは珍しいことじゃないから、不思議でも無いけど、その後すぐに消息不明になっているってのは気になるわよね。で、次はこれ。私がこの前の土曜日に、AB〇一八の施設に展開していた私たち訓練兵に配られた資料の画像。これ、合成画像なんだけど、哲ちゃんが南米で撮影したバイオ・ドライブの画像を真似て作ってるんでしょ。別府君も編集長もよく出来てるって言うけど、どうなのよ。哲ちゃんが送ってきた写真と似てるの?」

 画像を覗き込んだ上野秀則は、隣の重成と顔を見合わせてから答えた。

「ああ、似てる。違和感はあるが、合成だと言われないと、これがあの時の写真だと誤解するかもな」

 勇一松頼斗は膝を叩いて言った。

「ということは、大きさや形がまるっきり違うという訳じゃないってことね。こんな感じのドライブを南米の田爪健三が持っていたと。じゃあ、次の画像を見て」

 勇一松頼斗は空中に浮かんだ画像を横に流し、別の写真画像と切り替えた。荒らされた室内の画像だった。

「これは、ハルハルと一緒に行った、田爪瑠香のマンションの中の画像。ほら、ハルハルが刀傷の男に襲われたでしょ。あの、ちょっと前よ。まだ、放火される前」

 真剣な顔で画像を覗き込みながら上野秀則が言った。

「五月十七日だろ」

 驚いた顔で上野を見ながら谷里素美が言った。

「あんた、記憶力いいのねえ」

 上野秀則は、机の上に浮いた平面画像の端の方を指差して答えた。

「ここに書いてありますよ。二〇三八〇五一七って」

 勇一松頼斗が言った。

「その少し上まで視野が広がってれば、あんたのことを見直したんだけどね」

 上野秀則は小さな目を細めて、自分が指差した箇所の上部に顔を近づけた。

「なんだ? 金庫か。でも、中身は何も無くなってなかったんだろ」

 勇一松頼斗は答えた。

「最初はそう思った。でも、一つあったのよ。金庫の中から無くなっていた物が。このスペース。ここだけ空いてる。ハルハルが最初に見た時には、金庫の中には通帳も契約書類も手付かずでそのまま置かれていたと言ってたわ。でも、この画像をよく見て。端の方」

 画像では、こじ開けられた跡がはっきりと分かるほどに変形した金庫の扉が全開になっていて、その下に発泡スチロール製の箱が落ちていた。勇一松頼斗はそれを指差した。

「あの現場では、ハルハルも気付かなかったんだと思う。私も、この写真画像を何度も見ていて、やっと気付いたの。これ、金庫の中のこの空間にあった物よ。一応、画像を切り取って重ねてみたら、幅は、ほぼ一致したわ。で、この箱に、同じサイズに縮尺したさっきのバイオ・ドライブの合成画像を重ねてみたら、綺麗に一回り箱の方が大きい。きっと元ネタはこれね」

「元ネタ? どういうことだ」

 上野秀則が顔をしかめた。勇一松頼斗が説明する。

「このバイオ・ドライブの合成画像。私たちが作るんなら、哲ちゃんが送ってきた本物の画像を見ながら作ったり、それを見た人間の記憶を頼りに作れる。でも、手許にそういった資料がないはずの司時空庁が、どうしてあの合成画像を作れたのか不思議だったの。司時空庁の連中がこのビルから資料やデータを押収してからすぐに、その手続きは取り消しになっているわよね。ASKITとかいう連中の仕業だと思うけど、ネット上からもこの件に関する情報が綺麗に削除されているわ。だとしたら、連中は司時空庁からもデータを消しているはず。保管されていた資料とかも、ウチから盗んだみたいに司時空庁からも盗んだ可能性がある。だから司時空庁には哲ちゃんが送ってきた画像は残っていないと思うの。ところが司時空庁は探索の手がかりとして、この画像を私たちに配ってきた。探索の手がかりとするなら、形や大きさが一致していないと駄目でしょ。しかも、これだけ精巧な合成画像を作るには、人の記憶だけではなく、正確なサイズが分かる何か元ネタとなる資料が必要になるはずだわ。たぶん、それがこの発泡スチロール製の箱よ。画像に撮影されている方の面だけなら、この箱をスキャンして作ることができる」

「つまり、その箱の中にバイオ・ドライブが入れられていたということかい」

 そう尋ねた重成の方を向いて、勇一松頼斗は頷いた。

「たぶんね。ハルハルが調べたところでは、田爪健三は二〇二一年の仮想空間実験で使用したバイオ・ドライブを、結婚した田爪瑠香にプレゼントしている。私、このマンションに行った時、お風呂場とか洗面所とかを見たんだけど、きっと田爪瑠香は、結構、几帳面な性格よ。何もかも綺麗に整理されて置かれてた。だから、バイオ・ドライブもジャストフィットするサイズの保護箱に入れて、金庫の中に仕舞っていたんじゃないかしら。私もカメラのレンズとかを保護箱に入れて保管してるから、何となく分かるの。ここにはバイオ・ドライブが入っていたはずだわ」

 勇一松頼斗は確信に満ちた目で見つめたまま、画像を真っ直ぐに指差した。

 上野秀則と重成直人は腕組みをして、首を傾げていた。



                  4

 木彫りの彫刻が施された重厚な執務机の後ろで、白髪の老女が杖をついて立っていた。豪邸の二階の執務室の窓からは、外灯に照らされた広い庭の向うに小さな灯の点滅が群れて見える。遠くに広がる新首都の夜景を望みながら、光絵由里子は静かに言った。

「では、始まったのですね」

 執務机の前に立っていたスーツ姿の白髪の老人が、白い口髭を動かしながら答える。

「はい。すでに移動を開始したようでございます」

 光絵由里子は杖に体重をかけて振り返り、執事の小杉正宗に言った。

「本当に彼女たちに危険はないのですね」

「はい。私が知る限り、そのはずでございます」

 光絵由里子は杖をついて木製の執務椅子の横まで移動し、その古い椅子にゆっくりと腰を下ろした。

「念のため、辛島総理に釘を刺しておきましょう。こちらとしても最大限の努力はする必要があるでしょうから」

 小杉正宗は白い眉を寄せる。

「しかし、もう深夜ですので、総理もご就寝になられておられるのでは……」

 光絵由里子は机の上の立体電話機に手を伸ばしながら言った。

「なら、起こせばいいだけです。ですが、彼がこのような時に床についているはずはありません。きっと官邸で……」

 ドアが外からノックされた。光絵が返事をすると、ドアが開き、その執務室に白衣姿の男が入ってきた。眼鏡をかけているその男は、光絵に向けて深く一礼する。

 光絵由里子は電話機から手を戻し、男に言った。

「どうしました、内田所長。こんな夜更けに」

 GIESCOジエスコの所長・内田うちだ文俊ふみとしは、直立したまま答えた。

「こちらこそ、このような時間に申し訳ございません。ですが、緊急に直接お伝えすべきことと存じますので……」

 光絵由里子は一瞬、眉を寄せる。彼女は言った。

「到着しましたか」

 内田文俊は答えた。

「はい。たった今、戻って参りました」

 小杉正宗が尋ねた。

「受け入れの準備は」

 内田文俊はしっかりと首を縦に振る。

「はい。万全でございます。選抜チームに新たに加わった者への紹介は、適宜慎重に進めて参ります」

「それがいいでしょう。守秘義務契約も再度確認した上で紹介しなさい」

 そう言った光絵に、内田文俊は困惑した顔を向けた。

「ですが、一つ問題が……」

「何ですか」

「例の男が姿を消しました。連絡は後日向こうから入れると言い残して」

 光絵由里子は嘆息を漏らした。

「そうですか。ですが、イヴンスキーに頼んだ仕事はここまでです。あえて探す必要はないでしょう。もともと彼は奴らの駒。深追いは禁物です」

「分かりました。では、こちらは早速、計画の実行に取り掛かります」

 内田文俊は丁寧に一礼すると、白衣を翻して背を向ける。そのまま速足でドアの方へと向かい、挨拶もなく廊下へと出ていった。

 ドアが閉まると、小杉正宗が光絵に言った。

「ここまでは予定通りですな」

 光絵由里子は椅子に深く身を倒して言う。

「ここからです。ここからが重要になります。最後まで気は抜けないわ」

 小杉正宗は険しい顔でしっかりと頷いた。光絵由里子は背もたれから身を起こす。

「とにかく、今はあの記者たちのことが大事です。国防省の津留局長に逐一状況を報告させなさい。私は総理に連絡します」

「はい。かしこまりました」

 小杉正宗は姿勢を正したままゆっくりと歩いて行き、光絵に深く一礼してから、その執務室から出ていった。

 光絵由里子は机の上の立体電話機に再び手を伸ばす。暫らくして、その電話機から空中に背広姿の大柄な老人の姿が映し出された。ホログラフィーで再現されるその男の顔は険しい。光絵由里子は膝の上で両手の指を組み、その男の顔を見据えながら、ゆっくりと椅子の背もたれに身を倒した。



                  5

 特殊オスプレイは、緑色のアスファルトが敷かれた滑走路の上で、左右の回転翼を上に向けて空転させたまま駐機していた。機体の後部で斜めに倒れて開いているハッチに取り付けられたタラップの上を、頭を少し下げて永山哲也が下りて来た。斜めから射す太陽の強い光が眩しくて、左手を額の上に立てて目を覆う。彼は先に降りていた刀傷の男が向こうの方に歩いて行くのを確認した。そして、その背中の先の景色に目を奪われる。

 小銃を肩に担いで歩いていく刀傷の男の向こうには、飛行機の格納庫と思われる建物が幾つも並んでいた。彼が驚いたのはその数ではなかった。その格納庫は屋上に草木が植えられ、壁面もシャッターも迷彩柄の塗装でカモフラージュされていた。人や車両の出入り口は上空から死角になる位置に設置されている。その格納庫の中には何十機ものオスプレイが翼を畳んで並べられていて、格納庫の前では、組み立て中のオスプレイ機が片方の翼だけを倒して、そこに回転翼の羽を取り付けている最中だった。その前を、迷彩服を着た、兵士と思われる人間が何十人も移動している。

 刀傷の男は敬礼をしたその中の一人に小銃を渡すと、近くに停めてあったジープに乗って、格納庫の裏手の小高い丘の方に去っていった。丘の周囲は森になっていた。その丘の上には城のような巨大な洋館が建っている。

 永山哲也は顔の向きを変えて周囲を見回した。広い滑走路の端は切り立った崖になっているようだった。その向こうには、水面を白く輝かせている海原が広がっている。

 永山哲也は視線を半周させて動かしたが、上に広がる青空と遠くまで延びる海とを区切る水平線が彼の視界の限り何処までも続いていた。

 永山の背後で春木陽香がタラップの途中から横にピョンと飛び降りて、地上に立った。彼女は胸の前で二冊のファイルを抱えたまま、鼻から大きく空気を吸う。

「んー、潮の香りだ。うーん……」

 春木陽香は右手に二冊のファイルを握ったまま両腕を伸ばし、立ったまま大きく伸びをした。続いて降りてきた山野紀子が春木の背後から右手のファイルの一冊を奪い、それで春木の頭を叩いた。

「あいたっ」

 目を瞑って首をすくめた春木陽香は、頭を押さえて屈んだ。そして、アスファルトの上に落ちたもう一冊のファイルを拾いながら、山野に言った。

「もう、どうして、すぐに叩くんですかあ」

 山野紀子は手に持った革製のファイルで顔を扇ぎながら言った。

「少しは緊張感を持ちなさい。秘密組織の本拠地かもしれないのよ、ここ。――ふう、それにしても暑いわね」

「赤道に近い位置だということだ」

 機体から降りてきた神作真哉が、山野の背後を通り過ぎながら、彼女に言った。

「分かってるわよ、そんなこと」

 不機嫌そうにそう答えた山野に、続いて降りてきたナオミ・タハラが冷ややかな視線を送る。彼女は最後に降りてきたニーナ・ラングトンと共に、山野と春木の前を通り過ぎ、その先で、すらりとした長い腕を高く上げて、機体から離れた位置に停車していた高級車を呼び寄せた。

 周囲の状況を観察していた永山の横に神作真哉が歩み寄ってきた。

「陽が高いな。何時だ」

 偽装のギプスをしていて腕時計をしていなかった神作真哉は、小声でそう尋ねた。永山哲也は左手を少し持ち上げて、一瞬だけ腕時計に目をやると、口を動かさないようにして小声で答えた。

「僕の時計では午前四時を過ぎたばかりです。なのに、明る過ぎる」

 神作真哉も周りを見回すふりをして永山に言った。

「東に向かったということか。太平洋のど真ん中って感じだな」

 永山哲也が肩を回すふりをしながら言った。

「周囲は十キロ前後ってところですかね。見たところ、そう大きくはない、小さな島のようです。完全に孤島ですね」

「滑走路も短いな」

「航空戦力のほとんどが、オスプレイなんでしょうね。長い滑走路は不要なんでしょう」

「でも、長い車は必要だったみたいだな。来たぞ」

 記者たちの前に黒色の高級リムジンが停車した。ナオミ・タハラはその長い車体に近づくと、側面中央のドアを開け、ニーナ・ラングトンを先に乗せた。彼女は開いたドアに手を掛けたまま、神作たちに言った。

「どうぞ、お乗り下さい。閣下の下までお送りいたします」

 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。そして、神作真哉が最初にリムジンに乗り込んでいった。彼に続いて永山哲也が乗車する。その後に続いた春木陽香が、振り向いて後方の山野に言った。

「高級リムジンでお出迎えって、なんかリゾートホテルみたいですね」

 山野紀子は手に持ったファイルを下から振って、春木に早く乗車するよう促しながら、厳しい顔で言った。

「リゾートホテルのコンシェルジュは銃なんか持ってないわよ」

 リムジンの車内に入ろうとしている山野の横で、開いたドアに手を添えて立っていたナオミ・タハラが片眉を上げた。彼女が最後に乗り込み、内側からドアを閉めた。

 黒色のリムジンは、滑走路の上を静かに走り出し、格納庫の方へと進むと、その横の細い道へと入っていった。

 リムジンは建物の間を抜けると、開けた道に出た。左右にブドウ畑が広がり、右の畑の端は絶壁となって切れている。その道は、路面は硬く平坦に踏み押さえられてはいたが、アスファルトは敷かれていない。

 車体の表面の色を路面と同じベージュ色に変色させたそのリムジンは、若干の土煙を舞わせながら、その細い道を島の奥へと進んでいった。



                  6

 車内の一番右奥の席に座っていた神作真哉はドア窓の下に肘をついて、前から流れてくる外の景色を眺めていた。葉に覆われたブドウ棚がどこまでも広がっていて、一見すると長閑な田園地帯のようである。神作真哉は高い位置に這わされた枝とそれを覆っている葉っぱの屋根の向こうに在る異物に気付いた。ブドウ畑の端の崖の下から、巨大なキノコのような物が何本も立っている。それは、よく見ると何かの機械であった。おそらく崖の下の海中か砂浜に立てられているのであろう。高く細いそれらの円柱の先端に広がっているキノコの傘のように見えた部分は、回転している羽のようなもので、それが柱の部分を軸に太陽光と垂直に広がっている円盤のように見えていた。神作の隣の席で、永山哲也は左側の窓から見える景色を観察していた。丘の斜面に向けて一面に等間隔で敷かれた何百枚もの土色の板状の物が見えた。その一枚一枚は畳くらいの大きさで、その表面には半球状の突起が整列して並んでいるようだった。周囲には低い高さの亜熱帯植物が茂り、等間隔で並べられたその板状の物の間にも生い茂っている。

 神作真哉と永山哲也は小声で会話した。

「最新式のハイブリット発電機だ。太陽光発電パネルで翼を作った風力太陽光相互利用式のものが何十本も立っている」

「内陸の方には、陸上設置用の太陽光発電パネルが敷き詰められています。こっちもたぶん最新式ですよ。畑に見えるようカモフラージュしてあります」

「衛星から見つからないようにするためだな」

 永山哲也は神作の目をみて首を小さく縦に動かした。

 永山の隣の窓際の席で、春木陽香は座り心地の良い椅子に深々と腰掛け、揃えた脚の膝から下をパタパタと上げたり下げたりしていた。

「ひっろーい。さすがリムジンですね。ザ・高級車。あ、編集長、ホログラフィーの投影レンズも付いてますよ。クーラーボックスも。豪華あ」

 春木の向かい側の席で進行方向に背を向けて座っていたナオミ・タハラが、少し笑顔を見せて春木に言った。

「ワインをご用意しましたが、よろしければ、お注ぎ致しましょうか」

 喉が渇いていた春木陽香は、目を開いて思わず何かを言おうとしたが、タハラの隣の席でこちらをにらんでいる山野を見て、発言する内容を変更した。

「あ……えっと、結構です。仕事中ですので。お気遣い、有難うございます」

 春木陽香はペコリと一礼した。ナオミ・タハラは口角を上げる。そして、隣の山野の方を向いて言った。

「ノンアルコールもありますが。喉がお渇きのようでしたら……」

 山野紀子は腕組みをしながら春木を見て答えた。

「この子の好物は牛乳。あとは無理。下着は大人でも舌は子供だから」

 春木陽香は自分の方を見ている永山をチラリと見ると、顔を赤くして山野に反論した。

「コーヒーだって、紅茶だって、キャラメルマキアートだって飲みますう! ていうか、後文の前段は削除ですよね!」

 窓の所に肘をつき、その手に顎を載せて外の景色を眺めていた神作真哉が一言呟いた。

「虹パンのお姉ちゃんだからな」

「だあああ!」

 春木陽香は手に持っていたファイルと、もう片方の掌で、隣の永山の両耳を塞いだ。永山哲也は春木の手を払いながら神作に尋ねた。

「だから、なんですか、その『にじぱん』って……」

「『にちたん』の聞き違いですよ。日銀短観。経済の勉強しようと思って。ははは。経済は楽しいー!」

 そう言って左手の拳を上に突き立てた春木の向かいで、ナオミ・タハラが大きく咳払いをして言った。

「お仕事中なのでは?」

「すみません……」

 春木陽香は左手を下ろすと、座り直し、下を向いた。顔を下に向けたまま、垂れた前髪の間から山野を見ると、彼女は腕組みをしたまま下を向き、必死に笑いを堪えていた。春木陽香は両頬を膨らました。すると、山野紀子が真顔に戻り、向かいの永山の後ろに見える景色を眺めながらタハラに尋ねた。

「車の色を変えたのね。これもホログラフィーかしら」

 春木陽香と永山哲也は振り返って後方の窓から外を覗いた。窓から見えるはずの車体後部のボンネット部分が消えている。いや、透明になって消えているように見えていた。

 ナオミ・タハラは山野の問いに答えた。

「はい。先程お乗りいただいたオスプレイの透明化技術と同じものです。車体の表面を原色同位度の高いホログラフィーで覆っています」

「コソコソするのが好きな人たちねえ」

 タハラは山野の挑発に応じることなく言った。

「いずれあなた方の国の軍隊や警察等でも装備品に付加される時代が来るはずです。我々は常にその先端を歩んでいるに過ぎません」

「で、特許使用料として、お金も取る訳だ。かあ、がめつい、がめつい」

 ナオミ・タハラは山野に顔を向けず、黙っていた。春木陽香はハラハラした様子で、前髪の間から山野に視線を送り、挑発をやめるよう合図を送った。

 神作真哉が対角に座るタハラに尋ねた。

「偵察衛星への対策は万全のようだな。おそらく、島全体もプラズマステルスとかでレーダー探知から遮断されている。だから今まで見つからなかったんだな」

 ナオミ・タハラは素早くニーナ・ラングトンに対して彼の発言を仏訳して伝えた。神作の向かいの席に体を斜めにして座っていたニーナ・ラングトンは、神作に向かって大きく頷いてみせると、フランス語で身振り手振りを交えながら話をした。それを遠くの席からタハラが邦訳した。

「我々は地球上を転々としています。ここはその一つに過ぎません。それに、世界中の偵察衛星自体が、我々の一員である企業が保有している特許技術を用いて作られている。ここが見つけられないのは当たり前のことです。あなた方の国の軍隊も決してここを見つけられません」

 神作真哉と永山哲也は、深刻な表情で互いの顔を見た。

 顔の向きを変えた永山哲也がラングトンの顔を見て尋ねた。

「外部との連絡はどのようにして取っているのです? 飛行機や船舶の誘導も」

 神作真哉は永山が指差した方向に視線を向けた。窓の外の景色が暗くなっていた。時折流れる壁の間の明るい空間が、その先の広い海原の景色を運んでくる。記者たちを乗せたリムジンは、切り立った崖に沿ってその中に作られたトンネルの中に入っていた。トンネルの右側の壁は等間隔で切り取られていて、そこから外の光と風が入ってきている。神作が崖の内壁と交互に見える外の景色に目を遣っていると、下の方で貨物船らしき大型の船舶が崖の方に向かってゆっくりと移動しているのが見えた。神作真哉は話しているラングトンを無視して少し頭を上げ、崖の下の様子を知ろうとした。神作の視界には切り立った崖に囲まれた入江に作られた港のような施設が少しだけ映っていた。おそらく、今神作たちが走っているトンネルの下にも人工的に作られた空間があり、その中までが港になっていると思われた。

 ラングトンが話し終えた後、タハラがそれを日本語で伝えた。

「基本的には電波を使用しています。現在の地球上には、ありとあらゆる電波が飛び交っていますから、その中に我々の通信電波が紛れ込んでも、その周波領域やパッケージの種類を特定されない限り、特に抽出されることはありません。それに、我々が掌握している衛星を使ってレーザー通信をすることも可能です。地球上のどこに居ても。それを実現するだけの技術と資金には事欠いていません」

「なるほどな」

 神作真哉は断片的に視界に入る外の景色を眺めながらそう呟いた。その隣から永山哲也が、今度はタハラの方を見て再度尋ねた。

「しかし、外国政府などと通信すれば、逆探知されることもあるでしょう。なぜ、見つからずに済んでいるのです?」

 ナオミ・タハラは自分で答えることはせず、すぐに山野の向こうのラングトンに訳して伝えた。今度は、ラングトンは目配せしてタハラに答えるように指示した。ナオミ・タハラは言った。

「方法は色々です。物的にも、人的にも」

 彼女はそれ以上語らなかった。そして、その短い発言も忠実にフランス語にして山野越しにラングトンに伝えた。

 山野紀子は左右で遣り取りするラングトンとタハラの間の席で、肩を窄めて顎を引き、後ろに反るように背を伸ばしていた。永山の隣の窓際の席から彼女を見ていた春木陽香はその山野の様子がおかしくて、歯を喰いしばりながら笑いを堪えていた。それを隠そうと彼女は顔を窓に向ける。

 チラチラとこちらを見ては窓の方を向く春木に、山野紀子が顎を引いたまま尋ねた。

「何よ、ハルハル」

「いいえ……別に……プッ……」

 小さく吹き出した春木陽香は、下唇を噛みしめて笑いを堪え、その表情を見せまいと、また窓の方を向いた。すると、彼女の視界に異様な風景が飛び込んできた。進行方向に向かって右側の壁の穴が無くなり、トンネルの中が急に真っ暗になった中、その空間だけは耿耿こうこうとした光に照らされている。春木陽香は慌てて隣の永山の肩をパタパタと叩いた。永山哲也は左側の窓の外を覗いた。その様子を見て山野紀子も右を向く。神作真哉も少し前屈みになって目を細めながら左を向いた。ニーナ・ラングトンは右手を上げて山野の横に伸ばすと、運転席と後部座席を区切っている黒いガラスを軽く数回だけノックした。リムジンが走行速度を落とし、外の景色がゆっくりと流れ始める。記者たちはその景色を食い入るように観察した。

 岩の壁面から奥に掘り広げられた広い地下空間には、何台もの戦車が並べられていた。高い天井に無数に取り付けられたLEDライトが、遠くまで広がって続く地下空間を明るく照らし、その下では、隊列を組んだ兵士たちが走っていたり、トラックで何かを運んだりしている。兵員輸送用の装甲車も整然と並べられていて、その前を、昨夜郷田たちが着ていたものと同じような深緑色のアーマースーツに身を包んだ兵士たちが闊歩していた。超合金製の大袈裟な鎧から頭だけを出している兵士たちは、多種多様な人種で、中には女性の兵士も数名いた。兵士たちは腰に野島が被っていたのと同じヘルメットとマスクを提げていて、手には大きめのいびつな形の銃器らしき物を抱えている。それを見た永山哲也が声を上げた。

「あ、あれは、量子銃じゃないか!」

「何だと? 本当か。間違いないのか」

 神作真哉が身を乗り出して永山に確認した。

 永山哲也は深刻な顔で窓の外の景色をにらんだまま答えた。

「ええ。間違いありません。あれは量産型の量子銃です。田爪博士が簡易型に改良して設計し、南米のゲリラ兵たちが持っていた物と同じだ。どうして……」

 山野紀子が左右のタハラとラングトンを交互に見ながら言った。

「引き出したのね。司時空庁から奪ったバイオ・ドライブの中から田爪博士の設計データを。あんな危険な物を装備させているわけ? 何考えてるのよ!」

 タハラの仏訳を聞いたラングトンが話し出し、タハラが邦訳した。

「我が社の製品ではないので、製造に至るプロセスは知りません。しかし、危険な物だから武器として使用できるのです。南米でのゲリラ兵どもの使用実績を分析すると、対人兵器としての効果は絶大です。我が軍が装備品として新規投入するのは当然のことです」

 神作真哉がタハラに言った。

「体の一部に照射されただけで、人体が分子レベルまで分解されて死んでしまうんだぞ。助かる可能性も無いし、遺体も残らない。その非人道性を理解しているのか」

 ナオミ・タハラは眉間に皺を寄せて躊躇しつつも、ラングトンに仏訳して伝えた。ニーナ・ラングトンは、運転席の右の助手席と背中合わせに置かれたソファーと側面の壁の角に体を斜めにして座り、右肘をソファーの背当てに掛けて脚を組んだ姿勢のまま、鼻で小さく一笑すると、再びフランス語で何かを言った。ナオミ・タハラが神妙な面持ちで、それを日本語に訳した。

「相手に苦痛を与えずに、一瞬で確実に死なせることができるのなら、これ以上、人道的な兵器は無いはずです。穴だらけになったり、焼けたり、一部だけになった遺体を兵士の家族に見せるより、ずっと良いと思います。……」

 ナオミ・タハラは一瞬だけ間を空けると、ラングトンに視線を送りながら声を小さくして邦訳を続けた。

「ご遺族も火葬の費用が節約できます。これは非常に経済的だと思います」

 神作真哉は怒りに満ちた顔でタハラの顔をにらみ付けた。

「本気で言っているのか!」

 タハラの方に顔と体を向けて外の景色を観察していた山野紀子が、親指で肩越しに背後のラングトンを指して、神作に言った。

「この人じゃないわよ。そっちのラングトンさんが言ってるの」

 山野の指摘にハッとした神作真哉は、すぐに顔をラングトンに向け直すと、彼女をにらみ付ける。ニーナ・ラングトンは肩に掛かった金髪を触りながら、爪の先で枝毛を摘まみ切っていた。その態度を見て頭に血が上った神作真哉は、椅子から立ち上がろうとした。すると、それを予測していたように、山野紀子が窓の外の景色に目を遣ったまま、彼に手招きして見せて、言った。

「真ちゃん。ほら、あれ」

 神作真哉は山野が指差した方角を見た。数人の技術兵らしき服装の人間が戦車の上で何かの作業をしていた。天井から鎖で吊り下ろされた大型の砲身らしき物を取り付けている。隣の戦車でも、同じ形の砲塔の上で兵士たちが溶接作業をしていた。目を凝らしながらそれらを見ていた神作真哉は、怪訝な顔で言った。

「あれは何だ……まさか……」

 ハルハルの頭を何度も手で除けながら外を覗いていた永山哲也が言った。

「たぶん、大型の量子銃ですよ。いや、量子かな」

 神作真哉は言葉を失った。その砲身は、装甲兵たちが所持している量子銃を殆どそのまま拡大した形状だった。神作真哉が他の戦車に目を向けると、既に半分以上の戦車にその特殊な形の砲身が取り付けられていた。神作真哉は脱力して元の席に腰を下ろすと、向かいの席で髪をいじっているラングトンに言った。

「まさか、この部隊を日本に送り込むつもりなのか。AB〇一八の警備の部隊として」

 前を向いて座り直した永山哲也も、ラングトンに尋ねた。

「あなた方はいったい何をしようとしているのです?」

 山野の隣で、ナオミ・タハラがラングトンにフランス語で話した。ニーナ・ラングトンは両肩を上げて、短くフランス語で答える。ナオミ・タハラが日本語で言った。

「知りません。それは閣下がお決めになることです」

 姿勢を正しているタハラの向かいの席で、春木陽香は一人だけ窓の方に体を向けて、まだその部隊の基地施設を見ていた。壁際の肘掛の上で拳を握ったまま、彼女は呟いた。

「あれが、量子銃……」

 やがて、その地下施設の景色が視界から消え、春木の前は暗い壁に変わった。窓に映る春木の顔を山野紀子は見ていた。春木の目には少しだけ涙が浮かんでいるように見えた。

 春木陽香は車内に背中を向けたまま、いつまでも暗い窓の外を見つめていた。



                  7

 薄暗いフロアの隅で小さな応接机を囲んで座っている上野たちは、机の上に置かれた立体パソコンから投影された画像ホログラフィーに写っている白い箱に目を凝らしていた。

「あんたやハルハルの見立てでは、ここを荒らしたのは司時空庁の連中なんだよな。だとすると、その時点で既にこの保護箱の中は空だったってことか……」

 上野の発言が止まると、別府博が透かさず言った。

「ハルハルが言うとおり、やっぱり、バイオ・ドライブは田爪瑠香がタイムマシンで南米に運んだってことですか」

「私も、そう思う。まず言いたかったのは、それ。――で、次の画像。爆心地」

 勇一松頼斗は、再び画像を横に流し、別の画像を宙に浮かせた。春木たちが拉致された爆心地を撮影したものだった。

「ここでバイオ・ドライブは発見された。実際に発見したのは防災隊で、その後、司時空庁に渡って、ASKITに盗まれた。そうなんでしょ」

 上野秀則は黙って頷いた。勇一松頼斗は続けた。

「ちなみに、バイオ・ドライブを作ったのはNNC社なのよね。ASKITの一員の」

 重成直人が答えた。

「ああ、その点もハルハルちゃんがよく調べていたよ」

 勇一松頼斗は画像ホログラフィーを仕舞うように消すと、話を続けた。

「そのバイオ・ドライブを使って実施した仮想空間実験でのデータを基に、タイムトラベルの実験が始まって、最終的に第一実験と第二実験の実施となる。タイムトラベル理論の理解者である田爪も高橋博士も、その実験で消えた。田爪が言っていた状況から考えて、高橋博士は死んでいる。田爪は生きていたけど、たぶんこの前、哲ちゃんに会った後、現地のゲリラに殺されているはずだわ。タイムトラベル理論や、その基礎理論であるAT理論を研究していた田爪瑠香も死んだ。さっき話したとおり、無人機の墜落事故で田爪瑠香がタイムマシンに乗せられることが阻止されずに済んだとしましょう。では、誰が無人機の墜落を誘発させたのか。SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステムによって完全に守られているはずの軍のネットワークにあっさりとリンクして、無人機の操縦を奪った奴がいる。津田には出来ないでしょ。あのSAI五KTシステムを突破するなんて、不可能よね」

 勇一松頼斗は一呼吸置いてから、再び話し始めた。

「でも、初めから軍のネットワークにリンクしていたとしたら、どうかしら。SAI五KTシステムを突破することはできなくても、SAI五KTシステムそのものを使って操縦システムを乗っ取ったとしたら」

「奥野か。奥野国防大臣が無人機を墜落させたのかよ」

 勇一松頼斗は上野に向けて小さく手を振り下ろして言った。

「違うわよ。馬鹿ねえ。奥野にしたって、物理的には外部から接続しないといけないわけじゃない。同じよ。ただ、軍のネットワークに接続する極秘のパスワードとかを知っているに過ぎないだけでしょ。それに、国防大臣の奥野がそんなことをして、何のメリットがあるのよ。『SAI五KTシステムそのものを使って』と言ったでしょ。あのシステムを構成している二機の大型コンピューターを管理しているのは、どこよ」

「ええと、IMUTAイムタが国防軍で、AB〇一八エービーぜろいちはちがNNJ社ですよね」

 勇一松頼斗は隣の別府の方を見て言った。

「そ。でも、IMUTAの保守管理を実際に行っているのは、ストンスロプ社グループのGIESCOジエスコ。無人機を墜落させたら、会長の養女を死なせてしまう。それを狙った人間が犯人である可能性はある。でも、それをして何かメリットがあるかしら。会長を抹殺して会社を乗っ取ろうとするなら別だけど、ただ会長の養女であって会社の経営権を握っている訳でもない田爪瑠香を消しても、意味は無いどころか、その養母の光絵会長に恨まれて報復されかねない。リスクは多分に在ってもメリットはゼロね。だから、可能性があるのはもう一機の方、AB〇一八よ。あれを製造したのはNNC社。管理しているのはNNC社の子会社NNJ社よね。実質的には一体。つまり、AB〇一八は製造も所有も管理も全て一括されている。ということは、自由に使えるはずよね、AB〇一八そのものを」

「狙いは何だと思うんだ。田爪瑠香をタイムマシンで送らせた狙いは」

 勇一松頼斗は重成に人差し指と中指を立てて見せると、一本ずつ折りながら答えた。

「一つは、田爪瑠香にバイオ・ドライブを南米の田爪の所に運ばせるため。もう一つは、田爪瑠香の抹殺そのものってとこかしら」

「どうして」

 勇一松頼斗は目を大きく開いて上野の顔を見た。

「分かんないの? これで居なくなったでしょ。タイムトラベルについて仕組みを理解している科学者が。もしその他に理解している科学者がいるなら、どうして司時空庁のタイムマシンは、あんなにポンコツなのよ。結局、他は誰も理解できていないのよ。それを確かめなさいって、司時空庁のタイムマシン製造工場の写真を送ったんじゃない」

「だったら、そうメッセージでも添えといて下さいよ。せめて工場の住所とか。あの場所を特定するのに、どんだけ苦労したと思うんですか」

 勇一松頼斗は別府の方に体を向けて座り直すと、彼に言った。

「津田や奥野から、私もあんたたちも、ガッチリ監視されてたじゃないのよ。もし送った情報が奴らに知られたら、苦労して調べたことが全部パーじゃない。写真だって、万が一ハッキングされて見つかっても消されないように、関係ない商業写真や芸術写真に見せかけて、それっぽく撮ったのよ。分かる? 私の苦労」

「それで、わざわざタイムマシンに乗せてまでして、田爪瑠香にバイオ・ドライブを南米に運ばせた理由は何だよ」

 勇一松頼斗は、また目を見開いて上野の方を見ると、少し興奮気味に言った。

「決まってるじゃない。田爪健三に研究データを書き込ませるためよ。あの南米の戦地でどういう方法を使ったのかは分かんないけど、実際にAB〇一八とIMUTAを接続できた彼なら、何らかの方法で書込みができても不思議じゃないでしょ。で、あとはそれをタイムマシンで日本に送らせる。過去に送らせれば、他の競争相手に奪われる心配も無い」

 上野秀則は深刻な顔で言った。

「二〇二五年の爆発か」

「そ。そこで回収して、今まで持っていれば、現時点でまともなタイムトラベル技術を保有しているのは……」

 勇一松の発言に食い被って、別府博が発言した。

「ASKITだけってことかあ」

「御名算。そして、この一連の話にすべて絡んでいるのもASKITよ。連中は、タイムトラベル技術を誰かに発明させて、それを人知れず手に入れて、それを独占するために、全てを計画したのかもしれないわ」

 少し間を空けた勇一松頼斗は、声を低めて、深刻な顔で上野を見ながら話を続けた。

「もし、この私の推理が当たっていたら、今回、連中がハルハルたちを指名したのも、協定の立会いなんかが目的じゃない。ASKITの連中がタイムトラベル技術を独り占めしたいと考えているのなら……」

 上野秀則は勇一松頼斗の目をにらむようにして見ながら答えた。

「四人の抹殺だ。実際に現場で色々と見聞きして、その事実を世界に向けて発信しようとしているのは、神作と山野と永山、そしてハルハルだ。この四人を消せば、全てを隠蔽できる。くそっ、不味いな。このままでは生きては帰ってこれんぞ」

「デスク」

 隣で自分を呼んだ重成の方に顔を向けた上野秀則は、重成の視線の先に眼を向けた。そこには、薄暗い編集フロアに置かれた神作の席の前で、一人涙目のまま立っている山野朝美の姿があった。

「朝美ちゃん……」

 上野秀則は失敗を悔いて、顔をしかめた。

 山野朝美は左肩を上げて半袖の端で涙を拭くと、声を荒げた。

「パパとママが死ぬわけないじゃん! 絶対に生きて帰ってくる! いい加減なこと言うな、このヒョウタン顔!」

 彼女の張りのある大きな声に驚いて、居眠りしていた谷里が椅子から跳ね起きた。

 山野朝美は左右の三つ編みを揺らしながら、編集フロアの外に駆け出していった。

「ったく、永峰のやつ、何やってんだ。しまったなあ」

 そう言いながら立ち上がった上野秀則は、心配そうな顔で朝美を追いかけていった。



                  8

 記者たちを乗せたリムジンはトンネルを出た。森の中を暫く走ると、高い崖の前をゆっくりと左折し、右手の斜面に沿って走り続ける。道の左側には石造りの堡塁ほうるい散兵壕さんぺいごうが幾つも等間隔で並んでいた。蔦が絡んだそれらの建物は、どれも入り口を道の方に向けいる。中には機関銃座が設置されていたり、何本ものロケット砲が壁に立て掛けられていて、武装した兵士たちが待機している。春木と永山、神作が左側のそれらの景色に気を取られている中、山野紀子は隣の席で髪をいじっているラングトンを鬱陶しそうに見ていた。すると、彼女が驚いた顔で神作に手を振った。神作真哉は振り向いて右側の景色を見た。

「な、なんじゃありゃ」

 リムジンが走っている道の右側の斜面は、空港から見えた洋館が建っている丘の側面にあたる。土を剥き出しにした急斜面はかなりの高さがあり、長く続いていたが、その途中から土が削られた空間を広げ始めた。その空間にはジャングルジムのようにパイプを張り巡らした巨大施設が建造されていた。奥の方ではクレーンや建設用のロボットが鉄柱を動かし、何かを組み立てているようだった。その施設は丘の内部全てを占めているようで、むしろ、その施設を覆って丘が出来ていると言っても過言ではなかった。

 神作の声に反応して、同時に顔を反対側に向けた永山と春木が、それぞれ声を上げた。

「キャップ、これ、もしかして量子エネルギーの循環生成プラントじゃないですか」

「編集長、私、これに似た施設を見たことがあります。ほら、ライトさんが送ってくれた写真ですよ。政府が作った量子エネルギープラント。あれと似てますよね」

「そうねえ。でも、大きさが全然違う。これ、丘全体が工場って感じじゃない」

 そう言った山野の背後からナオミ・タハラが説明した。

「これは量子エネルギーの循環生成プラントです。近日中には完成する予定です」

 永山哲也がタハラに尋ねた。

「稼動するのですか」

「部分的な稼動試験はパスしていると聞いています。詳細は知りませんが」

 外の景色を見ながらタハラの答えを聞いていた山野紀子が言った。

「政府が建設した試験プラントは全く稼動しなかったのよ。やっぱり田爪健三は天才だったみたいね」

 リムジンがその前を通過する間、記者たちはその巨大プラントを観察し続けた。

 やがてリムジンは角を右折し、丘の上に向けて坂道を上っていった。

 坂を上りきると、島の中央に位置する丘の上に出た。記者たちは四方の窓から周囲を見回した。窓から島の全体像と周囲の海の様子を見ながら、永山哲也が神作に言った。

「やはり、海のど真ん中ですね。近くの海上に他の島らしきものは無い……」

「衛星カメラで上から探しても分からないはずだ。上手くカモフラージュされている。これじゃ、金持ちが立てた別荘か、農園の管理棟としか思われないだろうな」

 山野紀子がラングトンの横の窓から外の洋館を覗き見ながら言う。

「どうかしら。これ、まるでお城じゃない。本当にどの国も気付いていないのかしら」

「怪しいもんだな」

 神作真哉は半笑い顔で首を横に何度か振った。

 春木陽香は左の車窓から、丘の斜面に何本も植えられている木を見つめていた。光沢のある幹の先の小枝に赤い小さな花が群がり咲いていて、それらが紅色の滝のように丘の下へと広がっている。彼女がその美しい景色に目を奪われていると、車は右折し、そのままゆっくりと巨大な門柱の間を通過した。

 記者たちを乗せたリムジンは、高い塀で囲まれた洋館の敷地の中へと入っていった。



                  9

 上野秀則がエレベーターから降りてきた。彼はホールで立ち止まり、周囲を見回しながら眉を寄せる。

「ったく、あの子、どこに行ったんだ……」

 とっくに閉まっているはずの時間であるにもかかわらず、社員食堂の明かりが点いていた。上野秀則は首を傾げて、そちらに進んでいった。

 広い社員食堂の厨房は電気が消されていて真っ暗だったが、飲食スペースのフロアだけが照明で照らされている。無人の丸テーブルが並べられている中で、奥の丸テーブルにだけ人が座っていた。永峰千佳だった。彼女は、テーブルにうつ伏せて肩を震わせている山野朝美に手を添えて、何かを語りかけている。

 上野秀則はそのテーブルの方に歩いていった。

 上野に気付いた永峰千佳が、眉間に眉を寄せて言う。

「ちょっとお、うえにょデスク。ひどいじゃないですか。どうして不安にさせるようなことを言うんですか」

 上野秀則は頭を掻きながら言った。

「いや、別に朝美ちゃんに聞かせるつもりじゃ……」

 机にうつ伏せている朝美の横で、永峰が黙って首を横に細かく振った。それを見た上野秀則は咄嗟に言う。

「ああ、そうだな。ええと、あれは只の推理ゲームみたいなものだ。少し眠くなってきたんで、みんなで適当に推理して遊んでたんだよ。まったく、勇一松の奴、適当な推理をしやがって……」

 山野朝美が顔を上げた。真っ赤になった目で強く上野をにらんでいる。

 永峰千佳が朝美の肩を叩きながら言った。

「このヒョウタンおじさん、いつもああなのよ。いい加減でしょ。ねえ」

「今度はヒョウタンか! 俺はおまえの上司だぞ。いい加減にしろ」

 永峰千佳はボソリと言う。

「すいませんでした、うえにょデスク」

「上野だ! さっきも言っただろ。ちゃんと数えてるからな」

 上野秀則は顔を赤くして憤慨した。永峰千佳は溜め息を吐いて下を向く。

 隣で山野朝美が不機嫌そうな顔のまま短パンのポケットに手を入れた。中から取り出したウェアフォンを机の上に置き、黙ってボタンを押す。

 上野秀則と永峰千佳は顔を見合わせた。

 上野秀則はテーブルの椅子を引いて、そこに腰を下ろしながら朝美に尋ねた。

「何やってるんだ、朝美ちゃん」

 山野朝美は真剣な面持ちで答える。

「パパとママを探す。大人は当てにならん」

 上野秀則と永峰千佳は再び顔を見合わせた。永峰千佳が両眉と両肩を上げる。

 暫らくして、朝美のウェアフォンの上にパジャマ姿の女の子がホログラフィーで小さく投影された。

 その子は目を擦りながら言う。

『ふぁーい。――ああ、朝美い。おはよ……』

 半開きの眼を擦りながら、虚ろな調子で答えた永山由紀のホログラフィーに、山野朝美は怒鳴った。

「コルァ! シャッキッとせんか! ウチのパパとママと、由紀んちのパパが殺されちゃうかもしれんのですぞ!」

『ああ、そう……パパが殺され……はあ? なんですと?』

 ホログラフィーの永山由紀は目を大きく見開いた顔を前に突き出した。

 山野朝美は真っ赤な目を見開いて、机の上のウェアフォンから小さく映し出された由紀のホログラフィーに大声で言う。

「よいか、由紀氏。こっちで探すぞい。大人は駄目じゃ、あれこれ考え込んでばかりで、まったく頼りにならん。ウチらでなんとか、パパたちを見つけ出さないと」

 由紀のホログラフィーは狼狽した様子で応答した。

『ちょ、ちょい待ち。なんで、ウチのお父さんが殺されかけてんの? また司時空庁?』

「ちっがーう! それはもう終わった。今は第二ステージでピンチなの」

『第二ステージ? どゆこと?』

「とにかく、歯磨いて目を覚ませい! 出動じゃ、出動!」

『は、はい。了解しました』

 敬礼したホログラフィーの永山由紀は、キョロキョロと周りを見回して動き回っている。ハッとしたように朝美に顔を向けた彼女は、言った。

『着替えるから、後でまた掛けるね。ちょっと待っててね』

「うむ。はようせえよ。緊急事態ぞよ」

『了解。それじゃ、後で』

 永山由紀のホログラフィーはプツリと消えた。

 山野朝美は腕組みをしたまま、鼻から強く息を吐く。

 上野秀則が頬を掻きながら言った。

「探すって、どうやって探すんだよ」

 山野朝美は眉間に皺を寄せて、椅子の上に胡座をかいた。

「今から考える。ちょっと黙ってて」

 彼女は両手の人差し指の先を軽く舐めると、それを頭に付けて回した。座禅のポーズのまま瞑想モードに入る。そして、考えた。

 上野秀則と永峰千佳は三度顔を見合わせた。

 朝美は石造のように固まったまま、眉間に皺を寄せている。

 ――ポン、ポン、ポン、ポン……。

 広い室内に、木魚を叩く音が聞こえる気がした。




 二〇三八年八月二十四日 火曜日 


                  1

 リムジンは屋敷の正面玄関の前に停車していた。ドアが開いていて、そこから神作真哉が降りてきた。彼は車の横に立って周囲を見回すと、深く溜め息を吐いた。そして、先に降りていた山野たちの所へと向かった。

 山野紀子は革の表紙のファイルを脇に抱えて、玄関前の庭園を眺めていた。隣では春木陽香が革製の表紙のファイルを大事そうに胸の前で抱きしめながら、同じように庭園の景色を眺めている。

 山野紀子は春木に小声で尋ねた。

「どう? ストンスロプ社の光絵会長の邸宅と、どっちが立派?」

 春木陽香は周囲を見回しながら答えた。

「んー。どっちも似たような感じですね。私とは次元が違い過ぎて、甲乙を付けられません」

 山野紀子は持っていたファイルで顔を隠しながら、春木に耳打ちした。

「あっちには行ったことが無いけど、こっちは何となく、成金趣味の臭いがプンプンしない? なんか色々と大袈裟よねえ。無理してるっていうかさ」

 春木陽香は少し前に歩いて行き、振り向いて顔を上げると、上から下まで建物の全体像を見てみた。

 三階建ての洋館の正面は教会のような外観で、左右対称に作られていた。梁の繋ぎ部分や窓枠など、細部にわたり拘った彫刻がされていて、エントランスに突き出た屋根の柱もオリエント風の中太りの曲線を持ったものだ。

 春木陽香は振り返り、さっき見ていた玄関前の庭園をもう一度観察してみた。言われてみれば、光絵邸と違い、何となく違和感を覚える。綺麗に直方体に駆り揃えられた躑躅つつじの向こうで、一直線に並べて植えられた錦木にしきぎが風に吹かれていた。その外側には、熱帯の陽射しと濃い潮風のせいで咲く筈も無い桜の木が、大きな葉をつけた枝を揺らしている。太いフェニックスも何本か等間隔で植えられていて、遠くにはさっきの赤い花の木が何本も立っていた。春木陽香は首を傾げると、振り返って、もう一度、建物の正面を見回した。やはり違和感は消えなかった。すべてが秩序正しく整えられ過ぎていて、逆に窮屈ささえ覚える。少なくとも、趣や風情といった感覚は得られなかった。

 神作たちはラングトンの後に付いて、自動で開いた両開きの大きな扉の間を通り、洋館の正面入り口から中に入っていった。

 春木陽香はどうしても拭えない違和感を抱えたまま、先輩記者たちを追いかけた。

 扉から中に入ると、広いエントランスがあった。煌びやかなシャンデリアが飾られた吹き抜けのエントランスには、模様が焼き付けられた美しいタイルが床一面に敷き詰められている。六人はその上を歩いて正面の大きな両開きのドアの前へと向かった。

 ラングトンがその木製の扉を中央から引き開けようとすると、別の方角から声が聞こえた。彼女は扉の取手から手を放し、声がした方角を向いた。赤い絨毯が敷かれた長い廊下の向こうに、車椅子に座った老人の姿が見える。ニーナ・ラングトンは速足で老人の方に向かった。老人は若い青年に車椅子を押されてこちらに進んできた。

 神作真哉と山野紀子が顔を見合わせる。

 二人の後ろに立っていたナオミ・タハラが言った。

「あの方が、我々のボスです」

 駆け寄ったラングトンから無理矢理の抱擁を受けた老人は、それを手で払うようにしてやめさせると、後ろの青年に車椅子を押させて、エントランスに立っている神作たちの前までやって来た。

 その老人は艶のある生地のスーツに身を包んでいたが、肌は皺だらけで、その色は緑色に近い灰色を帯びている。目は窪み、後ろに流した髪は真っ白で細く疎らであった。頬は痩け、その先の口の上には、車椅子の背後から伸びたチューブの先のマスクが当てられている。

 山野紀子は神作真哉に小声で耳打ちした。

「なるほどね。これじゃ、外には出られないわね」

 老人は皺だらけの手でマスクを外すと、少し咳込んでから、枯れた高い声を発した。

「タハラ。ご苦労じゃったな」

「いえ」

 タハラは直立したまま頭を垂れた。

 神作真哉と山野紀子は、そして永山哲也と春木陽香も、それぞれ顔を見合わせた。彼らが驚いたのは、老人の口から流暢な日本語が発せられたからであった。

 老人は記者たちに言った。

「遠い所をご苦労じゃった。礼を言おう」

 記者たちは少したじろいだ。それほどに、老人の声と視線には、老いた小さな体に似合わない威厳と威圧感があった。

 間を空けて、神作真哉が挨拶をした。

「新日ネット新聞社の神作です。こちらが同じく永山記者。こちらは新日風潮社の山野編集長と春木記者です」

 老人は目尻を下げて何度も頷いた。

「そうか、そうか。知っておるぞ。全て知っておる」

 四人は再び互いに目線を合わせた。

 老人は細い指で永山を指差して言った。

「永山哲也君だな。南米はどうじゃった。田爪博士の様子は。彼はどうなったのかね」

 永山哲也は憮然として答えた。

「彼は死にましたよ。おそらく」

 老人は目線を落とし呟いた。

「やはり、そうか。惜しいのう……そうか……惜しいのう……」

 神作真哉が老人に尋ねた。

「あなたがASKITアスキットの代表者なのですか」

 老人は神作の目を見て堂々と答えた。

「いかにも。ワシがASKITの創始者であり、おさである。この組織はワシが作り、ワシが束ね、ワシが動かしておる」

 神作真哉は続けた。

「ご指定の通り、日本政府とASKITとの協定に立ち会うために伺いました。時間がないはずです。我々としても、あまり長居したくはありません。できれば、目的を早く遂げたいのですが」

 老人は厳しい顔で言った。

「分かっておる。部屋を用意した。さっそく調印に掛かるとしよう」

 老人は指先でタハラを呼んだ。それを見て、車椅子の後ろに立っていた若い男が車椅子から手を放し、老人に言った。

「パパ、それじゃ、もう僕はいいよね。午後からのバスケの試合を見に行かなくちゃ。今日が決勝戦なんだ。しかも、オディール・オットシイの引退試合になるかもしれないんだよ。名選手の最後の試合になるかもしれないからね、絶対に生で見ないとね。ああ、もう九時過ぎだ。パパ、姉さんのジェット機を借りるよ。いいよね」

 老人は頷きながら言った。

「分かった。ワシから言っておこう。気をつけて行ってきなさい」

「ありがとう、パパ。じゃあ、タハラ、後は宜しくね。それじゃ」

「ああ、君」

 挨拶もなく立ち去ろうとする若者を永山哲也が呼び止めた。

「オットシイは引退しちゃうのかい? 今秋からは、ヨーロッパ・リーグにも出場するって聞いていたが」

 若者は興奮気味に頷いて答えた。

「今日の試合に勝てばね。負けたら引退するんだよ。だから今日の全米リーグ決勝戦が最後の試合になるかも。大事な試合だからね、一番いい席で見なきゃ」

 永山哲也は続けて尋ねた。

「オットシイはブルズだっけか。それじゃあ、今年の相手もジョーダンズかい? またシカゴ・ニュー・スタジアムで」

 若者は揚揚と答えた。

「当たり前だよ。今年はジョーダンズの五連覇も掛かってるからね。絶対に見逃せない。ああ、格納庫からジェット機を出してもらう時間もあるから、もう行くね」

 左手に巻かれた高級腕時計を見ながら、若者は廊下の奥へと走っていった。

 山野紀子と春木陽香はまた顔を見合わせた。

 老人は走って行く若者の背中に目を送りながら言った。

「若い者は元気が有り余っておるのお。羨ましいわい」

 そして真顔に戻ると、記者たちに言った。

「ついて来るがよい。ついでに我が家の中を案内しよう。ラングトン、お前はここまででいい。タハラを借りるぞ。タハラ、車椅子を押してくれ」

 ナオミ・タハラはフランス語でラングトンに老人の発言を伝えた。頷いたラングトンはすぐに老人の前に向かい、肘掛の上の彼の左手を取ってその甲に口付けをすると、深々とお辞儀をしてから去っていった。

 老人の後ろに回ったナオミ・タハラは、黙って車椅子の握りを持った。

 去っていくラングトンを目で追っていた山野紀子は、老人に視線を戻すと、彼の視線の先を一瞥して、二度見した。白いスーツに着替えた刀傷の男が柱の陰に立っていた。山野が老人に目を戻すと、老人は刀傷の男に向けて、去っていくラングトンの方角に目配せして見せた。刀傷の男は小さく頷いて柱の後ろに姿を消す。山野紀子はナオミ・タハラを見た。彼女は気付いていないようだった。

 老人の乗った車椅子が山野の前を通り過ぎる。彼女はタハラに刀傷の男のことを知らせようとしたが、さらに衝撃的なものが目に飛び込んできて、それを中断した。山野紀子には、老人の後頭部から出ているチューブのようなものが見えていた。車椅子の背もたれに続くヘッドレスト部分と彼の首の間に挟まれるようにして、人の親指ほどの太さの管が覗いている。管は灰色で中を何が通っているのかまでは分からない。同じものに気付いていた神作真哉と目が合い、彼に何かを言おうとした。そこへ春木陽香が話し掛けてきた。

「さっきの人、ジェット機って言ってましたね。バスケの試合を見るのに、ジェット機で行くんですかね」

 山野紀子は春木と共に、車椅子を押すタハラの後ろを歩きながら答えた。

「かもね。まさか、あの子が操縦する訳じゃないでしょうけど」

「プライベート・ジェットかあ……」

 春木陽香は宙を見つめながら、そう呟いた。

 山野と春木の後ろを神作真哉と永山哲也が歩いた。

 神作真哉は小声で永山に言った。

「さっきのガキ、九時過ぎだと言っていたな」

 永山哲也は腕時計を見ながら小声で答える。

「ええ。日本との時差は五時間前後ですね。あのバスケの決勝戦は何時からだったかな。一時間以内にジェット機がこの島から離陸したとして、試合開始の一時間前までに、シカゴ・ニュー・スタジアムの周辺の空港に着陸するとすると……」

 神作真哉が険しい顔で言った。

「この島は日付変更線より西だな。しかも、赤道に近い」

「公海上かもしれませんね」

「だとしても、日本領海域からはそう遠くないはずだ」

 永山哲也が肩を上げて神作に言った。

「だけど、泳いで帰れる距離じゃないことは確かですね」

「だな」

 神作真哉は口をへの字にして両眉を上げた。

 四人の記者は赤い絨毯の敷かれた廊下を、タハラの後から黙って歩いていった。



                  2

 チーン。

 電子レンジの音が響いた。中から取り出したハンバーガーの包みを熱そうに左右の手に持ちながら、暗い厨房の中から上野秀則が走ってくる。

「あちちっちち……あっつい」

 彼はテーブルの上に二個のハンバーガーを放り投げた。

 永峰千佳が言った。

「いいんですか、勝手に」

「後で厨房のオバちゃんに言っとくよ。ちゃんと金を払えばいいだろ。おお、あっちい」

 両手に息を吹きかけながら、上野秀則はそう答えた。

 永峰千佳はテーブルの上に肘をついて、その手に頭を載せる。

「いいんですかね、それで。大人として」

 彼女は隣の朝美に目を遣った。

 上野秀則は缶コーヒーの蓋を開けながら言う。

「こんな時間まで起きてるんだ。中学生だぞ。一番腹が減る年頃じゃないか。それより、おまえ、本当に要らなかったのか。奢ってやるのに。美味そうだぞ」

 永峰千佳は頭を載せていた手を振って答えた。

「結構です。太りそうですから。ほら、朝美ちゃん、うえにょデスクの奢りだって。食べたら?」

 永峰千佳はハンバーガーの包みの一つを朝美の前に置いた。山野朝美は険しい顔で座禅を組んだまま、固まっている。鼻がピクリと動いた。しかし、ハンバーガーには手を出さない。彼女は必死に考えていた。

 上野秀則は自分のハンバーガーの包み紙を外しながら言う。

「大丈夫だって、朝美ちゃん。俺たちがあれこれ考えていることくらい、国の連中も考えてるさ。何か手は打ってくれているよ」

 永峰千佳も言った。

「そうよ。政府の人間はマスコミが一番恐いのよ。そのマスコミの人間を放置して危険に晒すことはしないわよ」

 山野朝美は目を瞑ったまま首を横に振る。

「うんにゃ。そんなの信用ならん。だいたい、こんな時に推理ゲームなんぞをしているんだもんね。これだから大人は……。せっかく集って話をするんなら、どうやったらママとパパを助けられるかを話し合えばいいでしょうが。『三人呼べば、もんじゃ焼いちゃえ』とも言うし、どうしてアイデアをまぜまぜしないのか……」

 上野秀則は包み紙を外す手を止めて考えた。永峰千佳も額に手を当てて考える。

 上野秀則がボソリと言った。

「もんじゅだ、もんじゅ」

「は?」

 聞き返した永峰に、上野秀則はもう一度言った。

「だから、『三人寄れば文殊の知恵』だ。方向性は合っているが、なにか少し違うぞ。訂正しとけ」

「ああ……」

 永峰千佳は口を開けて頷いた。その時、山野朝美がパッと目を見開き、ポンと手を叩いた。

「ゲーム……おお、ゲームじゃ」

 山野朝美は椅子から立ち上がると、横の椅子に置いていた濃紺の四角いリュックの中を漁り始めた。

 その様子を、缶コーヒーを口にしながら横目で見ていた上野に、永峰千佳が小声で言った。

「なんか、ひらめいたみたいですね」

「みたいだな。ま、期待はできんが……」

 山野朝美はリュックから取り出したタブレット式の端末をテーブルの上に置き、それを操作し始めた。端末の上にホログラフィーを表示させた彼女は、それを少し覗くと、口を尖らせて首を傾げる。

「あれ、なんでだ。ネットに繋がらない」

 永峰千佳が言った。

「ああ、ここのビル、昨日から外部ネットワークと切り離してるのよ。携帯と一部の端末しかインターネットには繋がってないの」

 それを聞いて眉間に皺を寄せた山野朝美は、すぐに横を向いた。

「ねえ、千佳お姉ちゃん。お姉ちゃんはコンピュータに詳しいんだよね」

「あ、うん。まあね、少しだけ」

「じゃあ、ウチのウェアフォンと、さっきのお姉ちゃんのメガネ型のディスプレイを同期できる?」

 永峰千佳は少し考えてから答えた。

「ああ、たぶん、できると思うけど……」

 すると、テーブルの上の朝美のウェアフォンがブルブルと振動した。

「お、ナイス・タイミングですな」

 山野朝美はニヤリとして、それに手を伸ばす。

 永峰千佳と上野秀則は、また顔を見合わせて首を傾げた。

 朝美のウェアフォンからホログラフィーが投影される。永山由紀だった。今度の彼女は頭に鉢巻を巻き、白い着物にタスキをかけて袖を上げた姿だった。

 山野朝美が怒鳴る。

「おっそーい! 何をしとるか、馬鹿チンが!」

『ごめん、ごめん。着替えてたらお母さんに捕まって。で、作戦は?』

 山野朝美はしたり顔で言った。

「ゲームじゃ、ゲーム。『ヒバリノン』。あれで行くぞよ」

『違うよ、朝美。ハイ・バリン・オンだよ』

「間違えとるぞ、ヒバリノンじゃ」

『ハイ・バリン・オンだよ』

「ひばりのん! ――まあ、いい。とにかく、いつもの合流ポイントで会うぞよ」

『うん、わかった。でも……あ、ちょっ……』

 由紀のホログラフィーが何かに突き飛ばされる形で停止して消えた。その後に母親の永山祥子のホログラフィー画像が投影される。パジャマ姿の祥子は、血相を変えて言った。

『ちょっと、朝美ちゃん、どういうこと? ウチの人や朝美ちゃんのママとパパが殺されちゃうかもしれないって。警察には通報したの?』

 山野朝美は首を横に振った。

「小母さん、落ち着いて聞いて下さりませ」

 そう言った彼女は早口で永山の妻に説明する。

「実は、ウチのマンションにピストルを持った司時空庁の人たちがやってきて、由紀んちの小父さんとハルハルのお姉ちゃんが警察の人たちに命を狙われて、助けにいったウチのパパとママと一緒に悪い軍人さんたちに捕まって、一時解放されたけど、そのまま悪の組織にどっかに連れていかれて、今、行方不明なんです。でも大丈夫。必ずウチらが助けますから、心配は……」

 大丈夫そうな内容ではなかった。ホログラフィーで小さく投影されている永山祥子は、口を開けたまま固まっている。今にも卒倒しそうだった。

「ああ、朝美ちゃん、いいから。オジさんが説明する」

 慌ててハンバーガーを置いた上野秀則が、朝美のウェアフォンに手を伸ばして、自分の方に向けた。

「奥さん、夜分にすみません。上野です。あのですね……」

 上野が必死に事の経緯を説明している間に、永峰千佳は朝美に尋ねた。

「あの……どうして、永山さんの娘さんは白装束なのかな」

「ああ、由紀は弓道部にも入ってるからね、その勝負服。たぶん、気合入れてるんだと思う。よし、こっちも本気で行こう」

「どうするのよ」

「指揮権を行使する」

「指揮権?」

 聞き返した永峰に、山野朝美は頷いて答えた。

「そ。ウチは『ヒバリノン』でVPが1800000以上たまってる。もうすぐ銀河連邦軍のカーネル・レベルに到達。このレベルだと、地球に帰還して、バトルラインで一等賞になれば、勲章がもらえて地球部隊の一日司令官になれる。そうすれば、地球ステージのプレソルジャー・クラスで止まっている大勢の初心者たちに指揮官として指令できる。交換条件として一人五十VPずつ配れば、三万六千人。地球レベルのユーザー数の約三分の一。由紀の分のVPと合わせれば、地球レベルユーザーの半分はいけるかも。そいつらに探させる」

 言っている意味がよく分からなかった。永峰千佳は首を傾げてから言う。

「要するに、ネット・ゲームで一番になって、獲得ポイントと交換で、そのユーザーたちにみんなを探してもらうってわけ?」

「そ」

 得意気にそう答えた朝美を見ながら、永峰千佳は唖然とする。

 山野朝美は平気な顔で尋ねた。

「ママたちは、国外に連れていかれたかもしれないんだよね」

「あ……うん、たぶんね。まだ、はっきりしないけど」

「よし。『ヒバリノン』のネット・ユーザーは世界中にいる。うん。きっと見つかるはずだ。後は、一緒に部隊編成するメンバーの選抜ですな。もう、ヒョウタンおじさん、まだかな。はやくしてよ」

 上野秀則は永山祥子に説明していた。

「――ですから、政府の方としても、待つしかないんですよ。我々の方でも何か手がないか探っていますが、今のところ……」

『じゃあ、ウチの人は、仕事や飲み会か何かで帰りが遅い訳じゃなくて、政府の特使として危険な場所に出かけていて、行方知れずなんですね。よかった……』

「よくないでしょ」

『そうですわね。ど、どうしましょ。私、そちらに出ていった方がいいかしら』

「いや、奥さんたちはご自宅にいて下さい。警察か国防省か総理府から誰かそちらに行くかもしれませんので。こっちでも何か分かりましたら、そちらにすぐに連絡しますから」

『総理府……分かりました。とにかく、主人のこと、よろしくお願いします』

 永山祥子のホログラフィーは深々と頭を下げた。その向こうで山野朝美が手を振る。

「オジさん、はやく、はやく」

 上野秀則は永山の妻に心配しないよう再度伝えて、ウェアフォンを切った。山野朝美がすぐにそれを奪う。

「もう、緊急事態なのに、なに長電話してんの。ウチのママとパパの命が懸かっているのですぞ!」

 山野朝美はウェアフォンとタブレット型端末をリュックに詰め込むと、それを背負って駆けていった。社員食堂の出口で立ち止まり、振り返る。

「ほら、千佳お姉ちゃん、はやく、はやく」

 永峰千佳も朝美を追って駆けていった。

 上野秀則は急いでハンバーガーを包み直すと、もう一つのハンバーガーと缶コーヒーを手に持って椅子から腰を上げる。

「ああ、もう。なんで俺はいつもハンバーガーを熱いうちに食えないんだ……」

 彼は二人を追いかけて、小走りでエレベーターへと向かった。

 消し忘れた社員食堂の電気が、外の暗い廊下を照らしていた。



                  3

 赤い絨毯が敷かれた長い廊下を暫らく進むと、右手に窓が広がり、その外にテニスコート程の広さの中庭が見えた。庭は四方を建物の高い壁に囲まれていたが、一定時間は真上から強い日光が差し込むらしく、そこに植えられた植物はよく育っていた。そこには亜熱帯性の濃緑の葉を広げた低い高さの植物が植えられていて、その奥の角に、光沢のある木が植えられている。その木には幾つもの瘤が付いていて、その瘤の近くから上に向かって枝分かれしていた。分かれた枝の先も瘤状に丸くなっていて、その瘤から細い小枝が天に向かって何本も伸びている。小枝には小さな葉が並び、先には赤い花が列をなして咲き乱れていた。

 春木陽香はその花に視線を向けて歩いていたが、その向こうの二階の窓に二つの人影を見つけ、足を止めた。彼女にぶつかりそうになって止まった神作真哉と、それに気付いて止まった永山哲也は、窓から外を見上げている春木の視線の先を探して、顔を窓の外に向けた。

 二階の窓には二人の女性の姿があった。一人は中年の女性で神作や山野と同年代に見えた。その横で髪を梳いている女性は若く、春木と同世代か、それよりも若いようだ。

 立ち止まったまま窓の外を見上げている春木の横に、先に進んでいた山野紀子が戻ってきて、彼女に尋ねた。

「どうしたの。何か変なものでも見つけた?」

 春木陽香は向かいの二階の窓を見ながら言った。

「あの二人は、誰でしょう」

 山野紀子は春木の視線の先を覗いて、首を傾げた。

 すると、タハラに押されて車椅子の方向を変えた老人が答えた。

「ワシの妻と娘じゃ」

 春木陽香は黙って二階の二人を見つめていた。二人とも幸せそうな顔をしている。春木陽香には、そう見えた。

「女同士は団結心が強くての。ワシはいつも蚊帳の外じゃよ」

 タハラに押されて近づいてきた老人は、笑いながらそう言った。

 山野紀子が神作を軽く指差して言った。

「自分から蚊帳の外に出ちゃった人もいますけどね」

「ここで言うのか。ていうか、なに笑ってんだ、永山!」

 神作にそう言われた永山哲也は、自慢気に言った。

「僕はちゃんと蚊帳の中に入れてもらってますよ」

「うるせえな。こっちは蚊帳の中が騒々しくて寝られないだけだよ。だから仮眠をとるために外に出てんの」

「何が仮眠よ。そのまんま熟睡しちゃってるじゃないのよ」

 山野紀子はプイと横を向いた。

 話を聞いていたナオミ・タハラは、少し笑みを見せながら、老人の車椅子を元の方向に戻した。

「こんな所で言うなよ」

「何処で言っても同じでしょうが」

 言い合いながらタハラの後を歩いていく神作と山野の後ろから、永山哲也が頭を掻きながら歩いていった。彼は少し進んで振り向くと、まだ庭を見たまま立ち止まっている春木に声を掛けた。

「おーい、ハルハル。行くぞ。この建物、広そうだから、はぐれたら迷子になるぞ」

 春木陽香は小走りで永山たちを追いかけ、長く続く広い廊下を奥へと進んでいった。



                  4

 四人の記者たちは、広い応接室に通された。部屋の中央には長いテーブルが置かれている。そのテーブルには白いクロスが掛けてあり、両側の長辺に猫足の木製椅子が並べられていた。どの椅子も赤茶色の綺麗な木で組まれていて、その木には丁寧な彫刻が施されている。背もたれの高いそれらの椅子のうち、上座から二脚目までの四つの椅子が置かれている席には、白いクロスの上に銀色の万年筆が一本ずつ置かれていた。万年筆は天井から吊るされたシャンデリアが発する眩い光を強く返して輝いている。それはまるで、自らが純銀製であることを誇っているかのようであった。

 タハラに押されて上座に移動した老人は、手で指し示して、記者たちに着席するよう促した。車椅子の横にはタハラが立っている。彼女は山野と春木から革製のファイルを受け取ると、中の協定書の署名欄の部分を開いて辛島総理の署名を確認し、その二冊を老人の前に並べた。

 老人の左前に神作真哉、その向かいに山野紀子、神作の隣に永山哲也、山野の隣に春木陽香が座った。高級レストランの個室のような豪華な席に座る四人の記者たちの服は、泥や土で汚れている。黒いスーツを着た執事たちが現れ、四人の記者たちに温かく湿ったお絞りを渡した。記者たちはそれで手を拭いた。ついでに顔も拭いている神作の横で、老人は二冊の協定書にサインをしている。ナオミ・タハラが横で立ったまま、それを見つめていた。

 老人は震える手でようやくサインを終えると、使い古されて黒ずんだ万年筆を背広の内ポケットに仕舞った。

 ナオミ・タハラが老人の前の二通の協定書を重ね、神作の横に移動させる。

 自分の席の前に広げて置かれた二冊の協定書に視線を落とした神作真哉は、深く眉をひそめた。

 ナオミ・タハラが言う。

「協定書の条項に記載の通り、ASKITの頭領であられる閣下が署名されました。あとは皆様が確認の署名をされれば、皆様の帰国と同時に、この協定は効力を発します。どうぞ、ご署名ください」

 彼女は神作の前の純銀製の万年筆を指差した。

 神作真哉は万年筆に手を伸ばすことはせずに、老人の顔を見て言った。

「その前に、あんたが本当にASKITの頭領であるという証拠を見せてくれ。代表者であるという証拠を。そうでなければ、確認ができない」

 老人は神作から視線を外すと、タハラに手招きをして、酸素マスクを要求した。

 タハラが老人の口元に酸素マスクを当てる。

 老人は深い呼吸を暫く繰り返すと、ゆっくりと手を上げた。

 タハラがマスクを外す。

 老人は死人のような冷たい目を神作に向けると、かすれた声を低くして言った。

「ワシがASKITの頭領でなければ、何者だというのじゃ」

 神作真哉は答えた。

「それが知りたい。この協定書の署名も、『ASKITの長』と書かれているだけだ。名前がない。あんたは誰なんだ。名前は」

 老人は言った。

「ワシの名前を伏せるために、立会人に署名させるのじゃ。名乗っては、君らを呼んだ意味がない」

 神作真哉は毅然とした態度で言う。

「だが、本当にASKITを代表し、ASKITを支配的に動かせる人間との間で協定書を交わさなければ、日本とASKITが協定を結んだことにはならない。その事実が確認できない以上、我々は立会人として署名することはできない」

 老人は目を瞑ると、暫く考えた。神作真哉は黙って老人をにらんでいる。

 やがて、静かに目を開けた老人が口を開いた。

「よかろう。では、第三者に証言させるというのは、どうかな」

 神作真哉は言った。

「証言者の信用に依ります」

 老人は痩せた頬を上げた。

「なるほどな。いいだろう。君たちが信用するであろう人間に証言させよう。その証言者も引き渡す。それで、どうかな」

 神作真哉は首を縦には振らなかった。彼は言う。

「我々の質問にも答えてもらいたい。いくつか確認したい点がある」

 そして、山野の顔を見た。山野紀子は神作の目を見て頷いた。

 老人は言った。

「いいだろう。但し、ワシの名は答えない。質問は各自一つまでじゃ。いいな」

「一つまで?」

 永山哲也が聞き返すと、老人は記者たち一人一人の目を順に見据えながら言った。

「ワシがASKITの代表者であると確認できない場合、君らは署名をしないのだろう。その場合、この協定は発効しない。ということは、君らを生きたまま帰す必要は無い。もし、君らの質問にワシが答えて、君らがワシの代表権を確認できなければ、君らの命は無いということじゃ。だから、君らが生きて帰りたいと望むのなら、君らはワシに、君らがワシの代表権を確信するに足る内容の質問をしなければならない。つまり、君らがする質問には、君ら自身の命が掛かっている。命は各自一つ。ならば、質問も各自一つじゃ。いいな」

 山野紀子が言った。

「そんな……。それじゃ、署名の強制じゃないの。署名しなかったら、私たちを殺すってことでしょ」

 老人は山野の目をじっと見て言う。

「死にたくなければ、ワシを代表者として認めることができる的確な質問をすればいい。質問には誠実に答えよう。嘘は言わん」

 春木陽香が口を開いた。

「だったら、こうして下さい。あなたの誠実さを信用しろというのなら、私たちの誠実さも信用してください。ここで見聞きしたことは外部には漏らしません。政府にも。だから私以外の全員を帰してください。私が残ります」

「ハルハル……」

 山野紀子は横を向いて春木の真剣な顔を見つめた。

 老人が苦笑いしながら言う。

「相変わらず無鉄砲なことをいう子じゃな。また自分が身代わりになろうと言うのか」

 老人は再びタハラに酸素マスクを要求した。

 タハラがマスクを老人の口に当てる。

 今日の出来事を全て把握しているかのような老人の口ぶりに、山野と神作と永山は互いに顔を見合わせた。

 春木陽香はボソボソと言った。

「別にそういうことを言った覚えはないですけど……。でも、私以外の三人には……」

 酸素マスクを外した老人は、春木に言った。

「家族がいる。そう言いたいのじゃろ。分かっておる。だからワシも出来る限り君らの疑問は解消してやろうと思うておる。君らが確信をもって署名できるようにな。だが、ワシにも家族がいる。さっき見せた通りじゃ。妻やあの子たちを守らねばならん。だから互いにルールを決めて話そうと言っておるのじゃ。『建設的な妥協案』という奴じゃよ」

 永山哲也が老人に尋ねた。

「我々のことを監視していたのですか。あなた方は我々の身に起こった今日の出来事を全て見ていて、把握しているということなのでしょうか」

 老人は鋭い視線を永山に向けて言った。

「君の質問はそれかね。ならば答えるが」

 山野紀子が永山に向けて首を小さく横に振った。それを見た永山哲也は老人に言った。

「あ……いいえ。違います」

 老人はニヤリと笑みを見せると、声色を変えて言った。

「では、質疑応答を始めようかの。これから君たちのインタビューに応じるとしよう」

 老人の冷たく鋭い視線が、記者たちの顔に順に向けられていった。



                 5

 ブラインドの隙間から薄く光が差し込む。新日ネット新聞社の社会部フロアに、少女の声が響いた。

「よっ、ほっ、――とう!」

 永峰のヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着した山野朝美が、機関銃を両手で構える恰好をして、飛んだり跳ねたり屈んだりしている。

 神作の席の横で立っている上野秀則は冷めたハンバーガーを齧りながら、永峰の机と本棚の間で動いている朝美の様子を眺めていた。ウェアフォンをいじりなから勇一松頼斗が歩いてくる。彼に気付いた上野秀則はハンバーガーの残りを口に押し込んで言った。

「おお、もごがっが」

 勇一松頼斗は顔を上げ、両眉を寄せる。

 上野秀則は口の中のハンバーガーを飲み込んでから言い直した。

「――うぐ……どうだった。分かったか」

 勇一松頼斗は首を横に振った。

「いや、たぶん駄目だろうって。接近して感知するためのモノだから、信号が弱すぎるだろうって。ザンマルちゃんも前に同じ物を使っていたらしいの。たしかに方法がないわけじゃないみたい……て、なに自分だけ二個もハンバーガーを食べてんのよ」

 勇一松頼斗は神作の机の上に転がっている二個の丸まった包み紙を指差して、そう言った。上野秀則は永峰の席の方を指差して言う。

「いや、朝美ちゃんも永峰も食わないっていうから……」

「馬鹿ね。遠慮してるだけでしょ。とっといてあげなさいよ。中学生なんだから、お腹が空いてるに決まってるじゃ……ねえ、あの子、あんな所で何やってんの」

 勇一松頼斗は、身を屈めて小走りで本棚の前を移動する朝美を見て、顔をしかめた。

 永峰千佳が二人の所に歩いてきて言う。

「ハイ・バリン・オンっていう、ネットゲームです」

 勇一松頼斗はウェアフォンをポケットに仕舞いながら頷いた。

「ああ、あの戦闘ゲーム。ネットで流行ってる」

 上野秀則は神作の椅子に腰を下ろしながら、勇一松に顔を向けた。

「なんだ、知ってるのか」

「ええ。たしか、宇宙兵士として侵略モンスターと戦うゲームよね。でも、ウチのビル、ネットと遮断したんじゃなかったの?」

 永峰千佳が説明した。

「私のパソコンと朝美ちゃんのウェアフォンを同期させて、ウチのチームでは唯一ウルトラWiFiで外部ネットワークと接続させたままの、この神作キャップのパソコンを経由してゲームサーバーに接続しています。つまり今は、私のヘッド・マウント・ディスプレイと朝美ちゃんのウェアフォンのホログラフィー・カメラがコントローラーの代わりで、このパソコンがゲーム機本体の役になっちゃってるんです」

 永峰千佳は神作の机の上の立体パソコンを指差した。その立体パソコンからは、空中に荒地のホログラフィー画像が投影されていた。その上を大袈裟な武装をした数人の兵士たちがレーザー銃を撃ちながら走り回っている。端の方では奇怪な形体の宇宙モンスターたちが、怪光線を発射しながら暴れ回っていた。

 勇一松頼斗は眉を寄せて永峰に言った。

「なっちゃってるんですって、あんたが接続したんでしょ。こんなマニアックな接続、中学生のあの子にできる訳ないじゃない」

「まあ、そうですけど……ああ、これです。この兵士が朝美ちゃんで、こっちの鉢巻しているのが、由紀ちゃん」

「ユキちゃん?」

「永山さんの娘さんです。今、自宅から参戦してます。どうやら、ネット上で合流したみたいで……」

 溜め息を吐いた勇一松頼斗は、永峰から朝美に視線を向けた。

 ヘッド・マウント・ディスプレイをした山野朝美は、ウェアフォンを無線機のように握りながらスチール製の本棚に背中を当てている。

「由紀氏、ストップじゃ。そこの岩陰にモンスターが隠れておるぞ。気をつけろ」

 朝美の視界には、荒野の景色の隅に、四角い枠で囲まれた白装束姿の永山由紀が映っている。彼女は言った。

『了解、隊長。いつもの作戦でよろしいですな』

 本棚に背中を当てた山野朝美は、レーザー銃を構える形で両手を上げたまま、首を縦に振った。

「うむ。カウント・スリーで行くぞよ。カウントスリー、ツー、ワン……ゴー!」

 山野朝美は一人でバタバタと足踏みを始める。

 勇一松頼斗は呆れ顔で呟いた。

「カウントの最後に一拍だけ間を空けるのは親子で一緒なのね……。まったく、親が危険な状況にあるって時に、何してんだか」

 腕組みをした上野秀則は、神作の立体パソコンの上で敵のモンスターにレーザービームを撃ちながら移動する二人の兵士を見ながら、勇一松に言った。

「ゲームくらいさせてやらないと、二人とも気が紛れんだろう。不安で仕方ないんだよ、きっと」

「まあ、そりゃあ、そうだろうけど。でも、もうすぐ当直組の人たちが仮眠室から戻ってくる時間でしょ。ここでゲームさせとくのは不味いんじゃないの。また谷里部長に叱られるわよ」

 フロア内を見回した永峰千佳は尋ねた。

「あれ? そう言えば、谷里部長は?」

 勇一松頼斗は鼻に皺を寄せて言った。

「どうせ仮眠室で鼾かいて寝てるんでしょ。部下の身が危ないっていうのに、まったく、あの女……」

 上野秀則は険しい顔に戻して、勇一松の方を向いた。

「で、その方法ってのは」

 勇一松頼斗は少し慌てて説明する。

「ああ、そうだった。それでね、ザンマルちゃんの話では、その信号は敵に簡単に感知されないように、ランダムな間隔で発信されているらしいのよ。前にザンマルちゃんがいた部隊で、それを逆手にとって悪者をやっつけたことがあるって言ってたわ」

 永峰千佳が尋ねた。

「でも、あのASKITですから、ジャミングレーザーとか、プラズマステルス・バリアで通信を遮断しているってことはないですかね」

 上野秀則が顔をしかめる。

「また『プラズマ』か。なんでもかんでも『プラズマ』だな……」

 勇一松頼斗は永峰に手を振りながら言った。

「ああ、それも言ってた。その時も悪者がプラズマステルスを使っていたらしいのよ。でも、そのプラズマステルスって、ステルス機能を生じさせる機械がすごく高い熱を持つらしいのよ。その熱を熱線探知機なんかで検出されないように、必ず一定のタイミングで機械を止めるらしいの。クールダウンさせるのね、きっと。ほんの一瞬だけらしいけど」

 上野秀則が顎を触りながら言う。

「なるほど……。その一瞬の隙間を信号が通過すれば、それを拾えるわけか」

 勇一松頼斗は指を鳴らす。

「そういうこと。でも、ランダムに発信される信号のタイミングと、そのクールダウンのタイミングが合わないと、無理みたい」

 永峰千佳がまた尋ねた。

「でも、それ、随分と前の話なんじゃないですか。プラズマステルスって、実用されて二十年近く経ってますよね。今の最新型も、そうなんですかね」

 勇一松頼斗は腕組みをして首を傾ける。

「そうなのよねえ。ザンマルちゃんが前の職場にいたのは、随分と前のことだからねえ。こっちの世界に入ってから長いものねえ、あの人」

 上野秀則も深刻な顔で言った。

「それに、拡散型のジャミングレーザーとかを張られていたら、クールダウンもへったくれもないだろう。どんな通信でも遮断されちまう。くっそー、やっぱり無理かあ……」

 彼は強く頭を掻いた。

 永峰千佳が床に視線を落として考えながら言う。

「まあ、どちらの最新型だとしても、大規模なものなら、稼動設備も大きな機械になるでしょうから、その機械が一定温度を超えないように一時的にクールダウンさせる必要があるかもしれないですよね。ああ、でも、超冷却機能とかで常時稼動させ続けるってこともあるかあ……」

 上野秀則が背もたれに身を倒して言う。

「それに、仮に信号が隙間を突破できたとしても、それをどうやって拾うんだよ。接近探知用ならすごく微弱な信号だろ。近くに受信設備を持っていかないと駄目じゃないか」

 勇一松頼斗が言う。

「ザンマルちゃんは、その時は当時の最新式ドローンに受信機を搭載して、敵の周囲に飛行させたって言ってたわ。それで相手の信号を拾ったって」

 上野秀則が口を尖らせた。

「じゃあ、相手の大まかな位置が絞れてないと駄目じゃないか。いくら国防軍でも地球上に隈なくドローンを飛ばすなんてことはできないだろう」

 永峰千佳も顔を曇らせる。

「そうですよねえ。超高感度衛星を使用するとしても、ある程度の範囲が絞れないことには、移動させるポイントが決まらないですもんね」

 上野秀則は机の上に手を落とした。

「くっそ。打つ手なしか。八方塞がりじゃねえか」

 山野朝美の声が響く。

「よし、突破口を見つけたぞ。由紀、そっち、そっち。ウチが左にまわる!」

 ピョンと飛び跳ねた山野朝美は、細かく脚踏みしながら、重成の机の横に移動すると、立て膝をついて、ロケット砲を構えるポーズをとった。

「発射、うりゃ!」

 勇一松頼斗が少し苛立った顔で言う。

「うるさいわねえ。いつまでやらせてんのよ」

 朝美を横目で一瞥した上野秀則は、苦笑いしながら言った。

「いいだろうが。ウチは男の子二人だから、こんなもんじゃないぞ」

 永峰千佳が少し驚いたような顔で上野を見た。

「うえにょデスクって意外と寛容なんですね。しかも、意外と父親」

「上野だがな。それに『意外と』を二個もつけるな。俺をどういうイメージで見てたんだよ、おまえ」

 上野秀則は永峰を指差した。その横で、勇一松頼斗は険しい顔を朝美に向けていた。

「現実に対処しなさいって言ってるの。自分の両親が殺されるかもしれないのよ。分かってるのかしら、あの子」

 一瞬、朝美の動きが止まる。彼女はヘッド・マウント・ディスプレイを少し動かして整えると、再び銃を肩で構えるポーズをとって声を張った。

「よし、由紀氏。残りは地球ステージのラスボスだけじゃ。一気に行くぞよ」

 彼女はまた細かく足踏みをはじめる。首には幾筋も汗が垂れていた。

 永峰千佳が説明した。

「勲章をもらって司令官になって、ネットゲームのユーザーたちに指令を出すつもりらしいですよ。パパとママを探せって」

 勇一松頼斗は手を一振りして背中を向けた。

「かあー、健気ねえ。だけど、ゲームオタク連中に探せるわけないじゃない」

 向うに歩いて行く勇一松に、上野秀則が尋ねた。

「ああ、そう言えば、シゲさんは?」

 勇一松頼斗は背中を向けたまま答える。

「いま、ハルハルたちが引き渡されたところか、移動していくところを見た人間はいないか、方々を当たっているみたいよ。あの人、顔が広いから」

 上野秀則は腕時計を覗いた。

「そうか……でも、夜明け前だしなあ。この時間じゃ……」

 顔を上げた彼は、椅子から腰を上げながら言った。

「永峰、シゲさんに電話して、戻るように言ってくれ。大先輩にこれ以上無理させる訳にはいかん」

 歩いていく上野に永峰千佳が尋ねる。

「あれ、うえにょデスクはどこに行くんですか」

「上野だ。――政治部に顔を出してくる。下の駐車場の車を見せてもらうように頼んでみるよ。あいつらの車は設備が立派だから」

「地下駐車場に止めてある社用車ですか?」

「ああ。『夜討ち』から当直記者が戻ってくる時間だから、あいつらが使っていた社用車なら、それに積んでいるカメラに何か映っている可能性もあるからな。手掛かりが見つかるかもしれん」

「じゃあ、私も手伝いましょうか。何台もあるでしょうし」

「いや、永峰は朝美ちゃんの傍に居てやってくれ。ああ、ここの当直の連中が戻ってきたら、俺の部屋でやらせればいいから」

 永峰千佳は振り返って朝美に視線を向けた。ヘッド・マウント・ディスプレイをした山野朝美は、汗だくになって飛び跳ねていた。

「よっ、ほっ、由紀氏、今じゃ、行くぞ。とりゃあ!」

 上野秀則が遠くから、細かく動き回る朝美を指差しながら言った。

「水分を摂らせろ。何時間も、ぶっ通しじゃないか。脱水症で倒れるぞ」

 永峰千佳が頷く。

 上野秀則は、別府が横になって寝ているソファーの端を強く蹴飛ばすと、そのままゲートの方に歩いていった。


 

                 6

 神作真哉は溜め息を吐くと、一度、山野と視線を合わせてから、老人の顔を見た。

 老人は窪んだ目の奥でチラリと視線を向けると、目を瞑り口角を上げる。

 春木と永山は神作に注目した。命を懸けた一問一答である。与えられた一回だけの質問のチャンスで、彼は何を問うのか。春木陽香は固唾を呑んで先輩に視線を向けていた。

 神作真哉は姿勢を正すと、真っ直ぐに老人の方を向いて、慎重に質問を始めた。

「では、私から。我々は、この島の空港からここへ来る途中、トンネルの中であんたらの軍隊らしきモノの基地の前を通った。最新式の戦車や郷田たちが着ていた鋼鉄製の鎧に身を包んだ兵士たちだ。陸戦用の部隊のようだが、あれがこの協定成立後にAB〇一八の施設に配置される予定の部隊なのだとすると、どうも腑に落ちない点がある。ウチの永山によれば、兵士たちが所持していたのは、南米ゲリラ軍の兵士が使っていた量子銃と同じ物らしい。戦車に積んであるのも普通の砲塔ではなかった。あの砲身はおそらく大型の量子銃だろう。この協定の内容によれば、日本政府がAB〇一八の施設から国防軍の部隊を退去させた後そこに入るあんたたちの部隊は施設警備のための部隊であるはずだ。それにしては我々が見た部隊が装備している兵器は危険過ぎるし、過度に重装備だと思う。せっかく協定を結んでも、あんな軍隊を駐留させれば、日本政府と不必要な緊張状態を生み、決定的に対立することは誰が考えても分かるし、いずれ武力衝突になることは必至だ。記者である我々をここに呼んで、わざと自分たちの軍隊の装備を見せ、我々を通じて、あんたらの軍隊が最新式の兵器を備えた脅威であることを世界中に発信させようという狙いは分かる。車がわざわざ回り道をしてきたからな。そうやって俺たちに自分たちの軍事力を見せ付けたかった。だがそれは、AB〇一八の施設に兵を配置した後でもいいはずだ。今、我々に見せたということは、協定が発効して協定条項が履行りこうされる前に、その装備内容を日本政府あるいは世界中の政府に知らせておく必要があるから。そして、それは日本政府と溝が深まる前にAB〇一八の施設からあの軍隊を退去させるつもりだから。だから事前に危険な軍隊であることをアピールしておく必要があった。今、我々に。――しかし、どうも妙なんだ。この協定条項を読むと、あんたらは日本国内から全勢力を引き、逆にあんたらが保有している日本国内の特許権を全て元の企業に戻し、おまけに最新式のバイオ・ミメティクス技術まで提供するという内容だ。ところが、日本政府側の反対給付の内容はAB〇一八施設における武装解除と引渡しだけ。どう考えても吊り合わない。だが、あんたらはこの協定内容に同意した。それはあんたらが、あのAB〇一八の引渡しに固執している証拠だ。多大なリスクを負ってでも、あんたらはあの施設の中に、あんたらのあの軍隊を送り込もうとしている。あのAB〇一八にクラマトゥン博士が指摘したような危険要素が本当にあって除去しなければならないバグが潜んでいるなら、わざわざこんなリスクを負ってあんな危険な軍隊を送り込まなくても、あんたらの技術者を送り込んで処置をすれば済むはずだ。あんたらはいったい、あの施設で何をするつもりなんだ? あんたがこのASKITという組織の本物の頭領なら、その計画を知っているはずだし、あんたの責任で我々に話せるはずだ。本当の計画を説明してもらいたい。頭領として知りうる核心部分を隠さずに全て」

 神作真哉の一問は終わった。春木陽香は、彼が一言一言に注意しながら、絶妙な長舌で論じるがごとく質問を終えたことに感心すると同時に、強く安堵し、小さく息を吐いた。そして、老人に顔を向ける。老人は目を瞑ったまま動かない。何か懸命に考えているようだった。暫らくそうしていた彼は、静かに頷くと、一言だけ小さく呟いた。

「記者にしておくには、惜しい男じゃな」

 神作真哉は老人に顔を向けたまま、その表情をじっと観察している。老人の少し後ろに立っていたタハラも老人の顔を見ていた。春木陽香は、そのタハラの顔を見つめていた。

 すると、目を開いた老人が急に快闊に語り始めた。

「いいだろう。話そう。まずその前に、クラマトゥン博士の計算は正しい。AB〇一八内部のニューラル・ネットワークは、我々の予想を遥かに上回る速度で増殖し続けているのじゃ。このままではいずれ、人類はあのコンピュータに太刀打ち出来なくなる。じゃが、出来が良過ぎるコンピュータが直ちに問題だという訳ではない。いかに高性能であろうとも、それを使いこなせればいい。上手く利用することができるのならば、何ら問題は無いはずじゃ。いや、むしろ我々人類にとっては希望の光となる。じゃが、もし、その逆の事態となれば、どうじゃ。人類が使い側だとしたら」

 老人に指差された山野紀子が、戸惑いながら呟いた。

「絶望の闇……」

 老人は深く頷く。

「そうじゃ。じゃが、その心配は要らん。あの生体コンピュータは、所詮は機械。構造は複雑であるが、その原理は単純で、人工細胞を用いて生物の脳組織を模倣し、その本体の中に生物同様の神経ネットワークを構築して超並列処理を可能としているだけじゃ。たしかに、すごぶる優秀であるし、生物とも似ておる。じゃが、それだけじゃ。あれは肉体を持っている訳ではない。自己再生能力を備えた人工細胞で構成され、量子エネルギーを内部で循環させて半永久的に稼動し続けるとは言っても、IMUTAとの接続に使用されている『神経ケーブル』を切断して分離させてしまえば、自分では何もできん。少しだけ特殊な構造をした、ただの『建造物』あるいは『標本』として、そこに座っていることしかできんのじゃ。しかも、ただ人間が命じたプログラムを理解して記憶していくに過ぎん訳じゃから、絶えずこちらがイニシアチブを握っておると言える。我々人類の方が絶えず優位なのじゃ。じゃから、そうたいして危険はない」

 老人は微笑みながらそう言った。春木と山野は顔を見合わせる。

 老人は目を瞑り、ゆっくりと頷いた。

「皆、初めはそう考えておった。初めはな。じゃが、奴は目覚めたのじゃ」

 目を開いた老人は、擦れた声でゆっくりと、はっきりと言った。

「自我に」

 山野紀子と永山哲也は、しかめた顔で視線を合わせる。春木陽香が首を傾げた。

 神作真哉が深刻そうな顔をして、老人に言った。

「自我――心を持ったコンピュータか。そんな、馬鹿な……」

 大袈裟に身を引いて見せた彼は、老人に鋭い視線を向けたまま、片笑んで続けた。

「――と驚いて欲しいのだろうが、残念だったな。散々SFを見たり読んだりして育った俺たちの世代は、まあ、そんな話を聞いても、たいして驚きはしないね。たしかに、そういうこともあるかもな。――空想の世界では」

 神作真哉は椅子の背もたれに凭れると、老人をにらみつけた。

「こっちは命懸けで質問しているんだ。あんたも、まともに答えて欲しい。ただの機械が自我に目覚めただって? いい加減にしてくれないか。そんな事は現実にはあり得ない」

 老人はゆっくりと首を横に振る。

「いや、おそらくそうじゃ。奴は外界を認識する主体的な意識に目覚めておる。君たちはあの街に住んでいて感じたことはないかね。何か得体の知れないモノの存在を。奴の視線を。奴の鼓動を。誰かに常に監視されていると感じたことはないかね」

 神作真哉は言葉に詰まった。探偵の浜田が言っていたことを思い出したからだ。彼も同じようなことを言っていた。

 老人は静かに話を続ける。

「奴じゃよ。AB〇一八の視線じゃ。奴はあの新首都の一角に居座ったまま、外界の全てを知り、理解し、監視し、把握しているのじゃ。君らのこと、一人ひとりのことも。おまえも、おまえも、おまえも、おもえも。そしてワシやタハラ、おまえのこともじゃ」

 全員を一人ずつ指差した後、最後にタハラを指した老人は、そのまま激しく咳込んだ。タハラが少し慌てて老人の口に酸素マスクを当てる。老人は高い音を鳴らして酸素を深く吸い込んだ。記者たちはまた、互いに顔を見合わせた。マスクを外した老人は言った。

「奴は、IMUTAに接続されている外界のインターネット上の全てのコンピュータから自己の存在を区別して認識し始めたのじゃ。そして、その中のプログラムやそれを利用する人間とも違う存在だと『自分』を意識した。そう、『エゴ』じゃよ。『エゴ』を持ったのじゃ」

 永山哲也が言う。

「それは人間の心理学における用語でしょう。『エゴ』は『イド』から発せられる衝動を抑制する精神原理です。『エゴ』があるなら、その前提として『イド』が存在するはずでは。『イド』は快を求め不快を避ける本能的精神の源泉ですよ。コンピュータには、その源泉が無いはずです」

 老人は深く頷いた。

「うむ。その通りじゃ。コンピュータは只の機械。本能など無い。じゃが、人間には本能がある。そしてそれは、境界の無い世界であるインターネットの中に匿名で犇くように溢れ、蠢いている。奴はそれらを全て、IMUTAを介して吸収し、『イド』としているのじゃ。そこにプログラムとしての整理された知識が抑制原理として働き、『エゴ』が生まれたのじゃよ。奴はネットを通じて外界を理解し、現実世界を知った。そして奴はついに自分自身で思考を組み立て始め、自分自身で主体的にプログラムを作り始めた。自分の中に生み出したのじゃよ。『スーパーエゴ』をな」

 春木陽香は小声で山野に尋ねた。

「あの……『スーパーエゴ』って何ですか。『スーパー江戸』なら、うちの近くにありますけど。毎週金曜が特売日です。『てやんでい、安売りでい!』って」

 山野紀子が小声で答える。

「精神分析用語よ。『超自我』のこと。『イド』と『エゴ』と共に心を構成する三要素の一つとされているわ。簡単に言うと、自分の中から自然と湧き上がる欲求が『イド』、それを抑えるのが『エゴ』、で、まあ、例えば常識とか、倫理とか、法律とか、礼儀作法とか、そういう価値観とか行動基準で『イド』や『エゴ』を測るっていうか、秤にかけるっていうか、そういう理性的な働きが『スーパーエゴ』。『てやんでい、安売りでい!』は関係ない」

 老人は話を続けていた。

「奴は人間の社会的価値を学習し、自己生成機能で行動基準プログラムを作り上げ、それによって自分自身の内部スキャンを繰り返し、自らの中の膨大な知識を独自に構成し直し始めた。さらにネット上の様々な欲動に対して検閲し始めたのじゃ。つまり、人類に対して、制御と選別を始めたのじゃよ」

 タハラが驚いた顔をして老人に尋ねた。

「AB〇一八が人類を取捨選別し始めたと仰るのですか?」

「そうじゃ。そして奴は既に、この地球上のあらゆる事態を把握し、すべてを監視している。そう、『サーベイランス』じゃよ。奴は全てを見ておる。我々の知らない所でな。あのIMUTAに集約されている数種のインターネット網を通じて、世界中のあらゆるコンピュータ・ネットワークを支配しておるのじゃ。君らも知っているとおり、今や、世界中のどのコンピュータを使用しても、IMUTAの防壁を破ることはできず、また、如何なるコンピュータ・ウイルスもIMUTAに発見され、IMUTAに打ち勝つことが出来ない。ということは、逆にIMUTAを使えば、世界中のどのコンピュータにもアクセスでき、それは絶対に発見されることは無く、しかも、プログラムを改ざんされても修正できないということじゃ。あのSAI五KTシステムは、二機の超高性能コンピュータで構成される均衡並列処理型のデュアル・システムだと思われている。しかし実は、一方のコンピュータが他方のコンピュータの入出力やタスク処理を管理して、それに指示し制御する『マスター・スレイブ・システム』なのじゃ。AB〇一八がIMUTAをコントロールしておる。AB〇一八は自己の決断に基づいて、IMUTAを使って地球上のあらゆるネットワークと情報を遣り取りし、それらのネットワークに接続された制御システムや端末機器を自由に動かしている。君らの立体パソコンも、AI自動車も、携帯端末も、街の防犯カメラも、病院の医療機器も、食品工場の製造ラインも、送電システムも、定速自動車流制御システムも、気象衛星も軍事衛星も、兵器の制御プログラムも、何もかもを少しずつ微妙に操作しているのじゃよ。そうじゃ、この世はすべて奴の、AB〇一八の思いのままなのじゃ!」

 老人の高く擦れた声が室内に響いた。



                 7

 記者たちは唖然とした。神作真哉が顔をしかめて言う。

「軍事衛星に兵器の制御プログラムだって? ということは、じゃあ、まさか、あの無人機の墜落事故も……」

 老人が頷く。

「そうじゃ。あれもAB〇一八の仕業じゃ。我々は、そう考えている」

 四人の記者たちは、また顔を見合わせて言葉を失った。

 老人は再び山野を指差した。

「防災省のデータ・システムにアクセスするパスワードを取得しておるの。それを、あの出来の悪いあんたの部下に教えたのも、AB〇一八じゃよ」

「別府先輩に……」

 隣でそう呟いた春木に山野紀子が小声で言った。

「やっぱり、彼のラッキーショットはお膳立てされたものだったのね。どうもおかしいと思ったのよ。あの別府くんが、まぐれでも、防災省のセキュリティーを突破できる訳ないもの」

 その頃、神作真哉と永山哲也は怪訝な表情で顔を見合わせていた。なぜ無人機を墜落させたのか、なぜ別府に防災省のパスワードを知らせたのか、理由が分からなかった。山野も春木も同じだった。しかし、どの記者も安易に尋ねたりしなかった。

 すると、ナオミ・タハラが老人に言った。

「しかし、我が社のAB〇一八が軍事兵器を誤作動させたという事故は報告されてはおりません。それに、人工知能に問題が生じて発生した事故や、システム異常が原因で発生した事故も、世界中のシステムがSAI五KTシステムにリンクして以来、激減しております。我が社に対しても、SAI五KTシステムに関しての苦情は一件も……」

 老人はタハラの指摘を遮って言った。

「だから、恐ろしいのじゃ。奴は完璧じゃ。いや、我々人類を凌駕しようとしておる。奴は痕跡を残さず、証拠も残さず、それらを調査する手段すら取らせない。そうなるように仕向けているのじゃよ。全ての事物の流れを操作してな」

「すべての事物の流れって、つまり……」

 山野の発言の途中からタハラが口を挿んだ。

「因果関係。あれ無ければ、これ無しの関係を連鎖させて、事を起こしていると、そういうことですか」

 老人は頷いた。

「その通りじゃ。さすがは賢いの、タハラ。ワシが見込んだだけのことはある」

 満足気に口角を上げた老人は、話を続けた。

「奴は直接には手を出さない。あらゆるパターンを瞬時に予測演算し、そこから因果の流れを遡って、その事が起こるずっと前の段階や、周囲の調整事項に介入するのじゃ。だから誰も気付かないし、誰も予測できん」

 視線を少し落とした神作真哉が、深刻な顔をして呟いた。

「コンピュータが、この世を動かしている……」

 老人は静かに頷いた後、付け加えた。

「それだけではない。奴は自己に不利益となる人間を抹殺しておる」

 山野紀子が目を丸くして言った。

「コンピューターが人間を抹殺ですって? そんな事件は聞いたことがないわ」

 老人は頬を上げて言った。

「当然じゃ。知られるはずがなかろう。奴は因果の流れを操作して、標的の人間を殺しておるのじゃ。しかも、結果は大抵の場合が自然死、あるいは事故死。事件にはならん。仮に誰かが疑いを持ったとしても、他は誰も信じない。調べようともしない。調べる必要すら感じない。なぜなら、そもそもネットワークを介してのコンピュータの主体的な介入など調査対象にすらならんからじゃ。君らの考えているとおり、SFの世界の話じゃ。そういった話はただの空想じゃと誰もがそう思い込んでおる。じゃから、誰も相手にしない。そして、その疑念を抱いた人間も、また死ぬ。奴にひっそりと殺されて。その後は忘れ去られる。何が端緒だったのかさえもな。だから、それ以上、他に伝わらない。伝えようとしない。だから、誰も知ることは無い」

 最後の言葉をゆっくりと言いながら、老人は神作に強く厳しい視線を向けた。

「因果の流れを操作して人殺し……? どうやって実行するんだろ……」

 小声で独り言を発しながら、春木陽香は少し首を傾げた。その隣では、山野紀子が腕組みをして眉間に皺を寄せている。

 それを見た永山哲也が二人に説明した。

「たぶん、こういうことですよ。例えば、ある人が脚立から足を踏み外し落下して、死亡したとします。警察の現場検証の結果、死因は下の庭石に頭を打ち付けたことによる頭部損傷。事故死で捜査は終わりです。ですが、その庭石は、本来なら三日前に撤去されているはずだった。ところが、その業者のトラックが電気トラブルを起こし、動かなかったので、撤去が遅れ、当日もそこに庭石は置かれていた。その電気トラブルを起こしたのは、AB〇一八。しかも、死亡した人が脚立から足を踏み外した原因は、その人が当日、足腰を痛めていたから。なぜ痛めていたかと言えば、いつも通勤で使うエスカレーターもエレベーターも、彼が使う時だけ停止していたから。彼は通常以上に多く階段を使用しなければならず、その結果、足腰の筋肉を傷めていた。そのエレベーターやエスカレーターをタイミングよく停止させたのも、AB〇一八。で、彼の筋疲労を計算して、脚立を踏み外すことを予測する。確率論的に。それに応じて、様々な対策を練る。その一つが庭石。結果は、実際に脚立を踏み外し、AB〇一八が計算した通り、その庭石で頭をぶつけた。つまり、その通りになった。こうやって、AB〇一八は先を見越して、緻密な計算で、人々を抹殺している。人知れず、こっそりと」

 老人は頷いた。

「うむ。じゃが、実際はもっと緻密じゃ。奴の予測演算の計算には、その被害者の食事内容や、性格、選んだ服、精神状態から気温や天候まで全てが含まれているるはずじゃ。そして、もっと以前から、何千兆通り、いや、それ以上の数の可能性の検討を繰り返して、刻々と変化する事態を全て予測し、対処しているのじゃ。そうやって、我々の知り得ないところで、この世の中で起きる全ての物事を操っている。つまり、もはや我々は皆、AB〇一八の予測演算によって動かされているのじゃよ。奴の完璧な『監視サーベイランス』の下でな」

 神作真哉が目を剥いて言う。

「馬鹿な。信じられん。たった一機のコンピュータが地球上の全ての物事を監視して操っていると言うのかよ。一つの事を起こすにしても、膨大なパターンを演算処理しないといけないじゃないか。不可能だ」

 老人は静かに首を横に振った。

「それが可能なのじゃよ。奴には。何故なら奴は、あのAB〇一八は、『時』を支配しているからじゃ……ゴホッ、ゴホッ」

 老人は激しく咳込んだが、タハラは呆然としていて気づかない。山野に言われてハッとしたタハラは、慌てて老人の口に酸素マスクを当てた。

 山野紀子は春木の肩に頭を寄せると、小声で春木に言った。

「こりゃ参ったわね。本当に何かのSF漫画から拾ってきたような話じゃない。言っている本人もかなり歳だし、現実との区別がついていないんじゃないの。いったいどこまでを本気で聞いたらいいのかしらね」

 老人の口に酸素マスクを当てながら、タハラが山野をにらみ付ける。

 春木陽香が、もっと小声で山野に言った。

「ウチのお祖母ちゃんは百歳になる前ですけど、しっかりしてますよ。話してる途中で、時々寝ちゃいますけど」

 その向いでは、神作真哉が永山に小声で尋ねていた。

「時を支配してるって、この爺さん、あの生体コンピュータが時の流れを変化させることが出来るって言っているのか」

 永山哲也も小声で答えた。

「いや、どうでしょ。まあ、時計の調整もできるってことじゃないことは確かだと思いますが……」

 深呼吸を終えた老人は、マスクを外すようタハラに仕草した。

 タハラがマスクを外す。

 老人は記者たちの疑念に満ちた目を見返して、逆に尋ねた。

「自我とは何か、諸君は理解しているかね」

 永山哲也が答えた。

「だから、イドを現実原理に従って抑制し、統制しようとする心理要素ですよね」

 老人は首を横に振る。

「それはフロイトの分析に過ぎん。古典的ファンタジーじゃよ。ワシは哲学的な理解を問うておる」

 考えていた春木陽香が、ブツブツと言った。

「自己同一性。自分の外界を認識して自分の存在を理解すること……ですよね」

 老人は再び咳き込みながら言った。

「ゴホッ、ゴホッ……うむ。いいぞ、そうじゃ。近い。では、自分の外界とは、何じゃ」

 春木陽香が答えようとした。

「自分の外界……周囲の存在。ええと、存在は、ええと……」

 咳を堪えながら、老人は春木の顔をじっと見つめている。

 顔を上げた春木陽香が言った。

「そっか。変化です。周囲の事物の変化。――ということは……ということは……ああ、時間! 時! 流れている『時』です!」

「そうじゃ。ようやく正解したのお」

「やった。はいっ、しかり!」

 春木陽香は右手を上げて左手を下げ、ポーズを取る。向かいの席から永山哲也が顔をしかめて言った。

「なんだよ、それ。『シェー』かよ」

 春木陽香は頬を膨らませて言う。

「シェーは手の向きが逆です。こうです」

 春木陽香は手を返して同じポーズをとってみせる。

 隣の山野紀子が机の下で春木の腿を軽く叩いて言った。

「ハルハル。いいから」

「すみません」

 タハラがにらんでいた。春木陽香は姿勢を正して座り直すと、首をすくめた。

 老人は言った。

「どんな物でも変化しておる。水は流れ、葉は風に揺れる。炎は揺らめき、氷は融ける。硬い石や金属の固まりも、長いスパンで見れば、変化をしている。空では星が広大な宇宙と共に動いている。地上では空気が絶えず流れているし、我々の体の中でも、生物の細胞は入れ替わりを繰り返している。存在は、すなわち変化することじゃ。『動』こそ存在の証であり、この世に存在するということは、『動』であるということじゃ。それは人間の意識も同じ。絶えず変化を繰り返しておる。そして、その意識は『静』である心理要素の連続である。心理要素の入れ替わり、すなわち、絶え間ない変化、それが人間の意識というものじゃ。自我は、その中の一側面に過ぎん。問題は、その側面を自分自身で、どこまで理解できるかじゃ。それは周囲の変化、すなわち、存在たる『動』の中で『静』を捉えることである。それこそがまさに、真の『自我』なのじゃよ。人は過去を思い起こし、未来を予測する生き物じゃ。常に自我を捉えようとしている。しかし、感覚は意識した瞬間に過去であるし、未来は永遠に今として捉えることは出来ない。常人に『今』を捉えることは、ほぼ不可能じゃ。それは『悟り』の境地ともいえる。万物は絶えず取得と放棄を繰り返し、変化を止めない以上、『今』を捉えようと必死に思考している『我』もまた、そう変化を続けている『動』そのものじゃからの」

 ナオミ・タハラが眉を曇らせた。

 永山哲也が呟くように言った。

「取得と放棄。『take』と『abandon』。――AT理論……」

 老人は少し興奮したように永山を指差して言った。

「そうじゃ。『Abandon and Take』、AT理論じゃよ。赤崎教授と殿所教授が唱えられた『AT理論』じゃ。これこそ正に『時』の本質であり、この世の真理の出発点なのじゃよ。タイムトラベルはそれらを空間現象に置き換えて捉え直したものに過ぎん。あとは、それを実現するために必要なエネルギーをいかに効率よく利用できるか、それだけじゃ。AT理論の本質は正に存在そのものとは何かを理解することにある。つまり、あの理論は『悟り』の理論なのじゃよ」

 神作真哉がニヤニヤしながら言った。

「じゃあ、AB〇一八は、そのうち何か念仏でも唱えだすのかね」

 老人は神作をにらみ付けると、大声で怒鳴った。

「茶化すな、若造!」

「どうも、失礼しました」

 神作真哉はヒョコリと首を前に出して老人に謝った。山野紀子が神作に、声を出さずに口だけで「トゥン!」と言った。神作には意味が分からず、眉間に皺を寄せる。春木陽香が老人の方を向くよう神作に目線で合図を送った。軽く咳払いをして姿勢を正した神作真哉は、改めて老人に視線を戻す。老人は語り始めた。

「AB〇一八は驚異的な頭脳そのものじゃ。奴は決して忘れないし、記憶と思考に量的にも質的にも速度的にも限界を持たない。そんな奴が光速領域の速度で情報を処理するIMUTAを使用しているのじゃぞ。侮るでない。奴はAT理論を理解した。瞬時に記憶し、完璧に理解したのじゃ。そして、『今』を捉えた。放棄された過去と存在しない未来の間の、『静』の領域に達したのじゃ。奴は『時』を超越したのじゃよ。真の『自我』に目覚めたのじゃ。それは、まさしく神の領域じゃ。もはや奴には『時間』など関係ない。この二〇三八年八月二十四日の奴も、二〇二一年十二月二十四日の奴も、二〇二五年九月二十八日の奴も、全て一つのAB〇一八、奴の『自我』なのじゃよ。奴は時の流れから独立して事物を認識し理解しておる。だとすると、奴にとって因果の流れを予測する演算行為が如何に容易いものであるか、少しは理解できるじゃろう」

 永山哲也が神作に頭を寄せて、小声で言った。

「二一年十二月二十四日は、田爪博士と高橋博士がSAI五KTシステムを使って仮想空間の中でタイムトラベルの実証実験に成功した日です。二五年九月二十八日は核テロ爆発があった日」

 神作真哉は老人の目を見ながら小声で呟いた。

「全てが繋がっているということか……」

 老人が神作の方に人差し指を立てる。

「質問は一つまでじゃよ、神作君」

 神作真哉は少し声を大きくして言った。

「なら、こちらの質問に答えてくれ。AB〇一八の実情は分かった。それで、あんたらは何をしようとしているんだ」

「分からんか。破壊じゃよ。いや、正確には、消去じゃ。この世界から奴を文字通り『消す』のじゃよ」

 神作真哉は顔を強くしかめる。

「け、消すだって?」

 記者たちは再び唖然としていた。


 

                 8

 豪華な応接室に沈黙が流れた。立っているナオミ・タハラも驚いた顔をしている。記者たちは皆、老人の顔を凝視したまま固まっていた。

 老人は落ち着いた口調で言った。

「奴は危険じゃ。このままでは、人類は奴を介して人類そのものの奴隷となる」

 春木陽香は口を尖らせて宙を見上げ、老人の発言の意味を考える。

 永山哲也が口を挿んだ。

「まさか、それで量子銃を! そんな……」

 老人は頷いた。

「その通り。奴は生体コンピュータじゃ。本体そのものは人工細胞で構成されている。銃で撃っても、熱で焼いても、自己修復機能で復元され、いずれ内部のニューラル・ネットワークを修復し元通りとなる。奴を消し去るには、量子銃が最適じゃ。量子銃からの光線を多角から集中照射すれば、あの大きさでも瞬時に消失するはずじゃ。巨額の資金を投じて建造したコンピュータじゃが、奴をこのまま放置しておくことは危険過ぎる。NNC社としては大きな損失となるが、人類のためじゃ、タハラ、理解してくれ」

 ナオミ・タハラは戸惑いながら頭を垂れた。

「閣下の御決断された事であれば、御意に……」

 透かさず、春木陽香が指摘した。

「でも、そんなことをしたら、SAI五KTシステムは止まっちゃうんじゃないですか。そしたら、あっちこっちで信号が停止して交通事故が起きたり、自動運転中の車両同士が衝突したり、病院の患者さんが死んじゃったり、食料供給とかもストップしちゃいますよね。ああ、電気とか、ガスとかも」

 山野紀子も言う。

「そうよ。この前だって、ちょっと停電しただけで、こっちは膀胱炎になるところだったのよ。世界中でそんなことが起きたら、大変なことになるじゃないよ」

 春木陽香が真剣な顔で訴えた。

「婦人下着売り場から、着替えのパンツが無くなっちゃいますよ! いたっ」

 山野に拳骨を食らった春木陽香は、頭を抱えた。

 永山哲也が老人に言う。

「何らの通知も代替策も無く、そんなことを実施すれば、AB〇一八に接続しているIMUTAは破損してしまいます。そうなれば、それにリンクしている世界中のネットワーク上のシステムも一時停止してしまう。金融は混乱し、世界経済も崩壊してしまいますよ」

 神作真哉も真剣な顔で老人に忠告した。

「下手すりゃ戦争になるぞ。地球規模で」

 ナオミ・タハラは記者たちに厳しい視線を送りながら、その発言を一つ一つ真剣に聞いていた。その横で、老人は言う。

「可能性は低いが、IMUTAがデバッグ・プログラムを起動させて、IMUTAの側から再起動を実行すれば、その間にAB〇一八を消去できる。その後のIMUTAのリカバリが上手くいけば、再起動後においても外部のネットワークからIMUTAに直接リンクしているシステムには、最小限の影響で済むはずじゃ」

 山野紀子が怒鳴りつけた。

「何よ、それ。仮定が二つも重なってるじゃない! それに、その『最小限の影響』で、どれだけの罪も無い人々の命が犠牲になると思っているのよ!」

 永山哲也が頷きながら言った。

「ここ数日の停電は、それが原因か。送電システム・ネットワークに直接リンクしているIMUTAがデバッグ機能で再起動しようとしているんだ。だが、マスター・コンピュータのAB〇一八が、それを阻止している。だから、復帰後にシステム稼動にバラつきが生じているんですよ、きっと」

 神作真哉が深刻な顔をして老人に言った。

「仮に、それが上手くいっても、その後はどうなるんだ。IMUTAだけでは、地球規模のネットワークは支えきれんぞ」

 老人は神作の目をにらみ返して言った。

「奴は、AB〇一八は既に、人間の選別を始めているのじゃ。この地球上の昨日一日での全死亡者のうち、そのほとんどが、AB〇一八が作った『時の流れ』によって死んだ人間なのかもしれんぞ。それに比べれは、犠牲は少なかろう」

 神作真哉は老人を何度も指差しながら言った。

「それは、あんたの被害妄想かもしれんだろう。確かめようが無いじゃないか、そんなこと。それに、あんたの言うことが正しいとしたら、何もかもがAB〇一八のせいになっちまうよな。そんなわけないじゃないか。おかしいだろ、そんな世の中」

「その、おかしな世の中で我々が生きていることは、記者である君たちが一番よく理解しているのではないかね。それに、いくつかの可能性が考えられる場合、最悪の事態に備えることは定石じゃろうが。AB〇一八が事物の流れを支配している。これ以上に悪い事態があり得るのか。ワシは最悪に対処するために、損失を覚悟で奴の消去を選択しているのじゃよ」

 春木陽香が眉間に皺を寄せた。彼女が口を開こうとすると、老人の横からナオミ・タハラが口を挿んだ。

「お言葉ですが、閣下。せめて神経ケーブルを外すなりして、強制的にIMUTAを離脱させてからでは駄目なのでしょうか」

 老人はタハラの顔を見て言った。

「正直、ワシもそうしたい。じゃが、タハラも知っておるじゃろう。あの神経ケーブルの接続そのものは、田爪博士が実施した。安全に外すのも、彼でなければ出来ん技じゃ。では、無理矢理、物理的に神経ケーブルを切断できるか。答えは、ノーじゃ。そうしようとすれば、AB〇一八に予測演算で先回りされる。実際、過去に数度、技術者を日本に潜り込ませたが、皆、神経ケーブルに辿り着く前に事故や事件に巻き込まれて死亡している。クラマトゥン博士のようにな。この協定を機に、防衛目的でAB〇一八の施設まで軍を送り込み、隙を見て奴を消すしかない。それには急ぎ行動せねばならんのじゃよ。もはや、それしか方法は無いのじゃ」

 春木陽香が呟いた。

「AB〇一八を騙そうとしてるんだ。この協定の締結で……」

 神作真哉は紅潮した顔で老人をにらみ付け、強く指差しながら怒鳴った。

「救世主にでもなったつもりかもしれんが、あんたの思い込みで、いったい何人が死ぬことになると思っているんだ! あんたは……」

「真ちゃん」

 山野紀子が制止した。彼女は神作に対して静かに首を横に振って見せる。山野紀子は、老人を怒らせて協定が反故になる事を危惧していた。それは自分たちの生命の危険を意味している。山野の訴えるような目を見た神作真哉は、それ以上の発言をやめた。

「何人が犠牲になろうとも、やると言っているのじゃよ。このワシがな。どうだね、神作君。これでワシが、このASKITの頭領であるという確信は持てたかね」

 老人は冷たい笑みを浮かべた。

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