第18話
二〇三八年八月二十一日 土曜日
1
新日ネット新聞社の社会部フロアに朝日が射し込んでいる。背中を照らされながら自分の席で朝食の菓子パンを齧っている神作真哉の横に、上野秀則が鞄を提げたまま立っていた。神作真哉は口の中のパンを慌てて飲み込むと、残りの食べかけのパンを机の上に放り投げた。椅子を回し、しかめた顔を上野に向ける。
「辛島総理がゴルフ? 閣僚を集めてか」
「ああ。だが、閣僚の全てではない。呼ばれているのは、防災大臣の阿多、経済産業大臣の円山、外務大臣の小川、法務大臣の指宿、環境大臣の塚田、それと警察庁長官の子越」
神作真哉の眉間に皺が寄った。
「子越長官が?」
上野秀則は頷く。
「ああ。大臣クラスの中に一人だけ、警察庁長官。しかも、もう一つ、奇妙な点がある」
「なんだ」
上野秀則は真っ直ぐに神作の顔を見て言った。
「辛島勇蔵は、ゴルフをやらない」
神作真哉はすぐに電話に手を伸ばす。
「いつの情報だ」
「さっきだよ。下の駐車場で政治部の奴に聞いた。奥野の『サンズイ』ネタが欲しいらしくて、政治部の方から教えてきたよ」
「サンズイ」とは、汚職事件のことである。贈収賄絡みの事件は記者たちの間でそう呼ばれていた。
電話機のボタンを押し終えた神作真哉は、受話器を耳に当てたまま顔を上野に向けて言った。
「こっちのネタはまだ教えるな。――ああ、別府か。俺だ、上の神作だ。紀子に代わってくれ。――はあ? マジか。わかった」
神作真哉は荒っぽく受話器を置いた。
「なに、しっかり休んでんだ、あいつ。こんな時に……」
「なに言ってんだ、朝美ちゃんの夏休みは来週いっぱいだろ。たぶんこの調子だと、来週はずっと泊り込みになる。今のうちに家のこととか、色々と済ましてるんだろ」
上野の話を聞きながら机の上の食べかけのパンを取り、口の中に全部押し込んだ神作真哉は、頬を膨らませながらイヴフォンを手に取った。
「こっちだって溜まってんだよ」
「何が」
無理矢理にパンを飲み込んだ神作真哉は、包み袋を丸めてゴミ箱に放り投げる。
「ゴミだよ。ゴミ。出す時間が無いじゃないか。部屋の中、ゴミだらけだよ。虫が湧いているかもしれん」
奥の席の永峰千佳が汚い物でも見るような視線を神作に浴びせた。
上野秀則が永峰の視線を気にしながら神作に言う。
「帰れよ、たまには」
神作真哉はイヴフォンをワイシャツのポケットに挟んで操作しながら言った。
「そうしたいんだけどな。なかなか時間が――ああ、紀子か。今、話せるか。――辛島が私的に閣僚を集めて、何かを画策してる。呼ばれたのは、防災大臣の阿多、法務大臣の指宿、外務大臣の小川、それから……」
神作真哉は上野の顔を見た。
上野秀則が言う。
「経産大臣と環境大臣」
神作真哉は視線を戻して山野に言った。
「経済産業大臣の円山、環境大臣の塚田、警察庁長官の
神作真哉はしかめた顔で右の耳を押さえた。しかし、いくら耳を押さえても脳内の聴覚野に直接伝わる山野の大声が小さくなる訳ではない。神作真哉は軽く頭を振って言った。
「――そうなんだ。子越長官も呼ばれている。今、上野とも妙だと話していたところだ。――ああ、そうらしい。ということは、何か奥野絡みの話だ。――かもしれんな。とにかく、こっちはもう少し動きを追ってみる。それから……ああ、ちょっと待て」
神作の視界の隅に、鞄を提げた重成直人が慌てて走ってくるのが映った。
重成直人は鞄を椅子の上に放ると、深刻な顔で言った。
「大変だ。NNJ社が入っているビルが火事だ」
上野秀則が急いで窓に駆け寄った。ブラインドの隙間を指で開いて上空を覗くと、数機の消火ヘリが編隊を組んで飛行していくのが見えた。下を見ると、車道の上を赤色灯を回した赤い特殊消火車両が何台も走っていた。それらの進行方向に目を向けると、ビルの谷間から黒煙が昇っているのが見える。
振り向いた上野秀則は、応接セットの方を指差して叫んだ。
「誰か、テレビつけてくれ! ニュース、ニュース!」
記者の一人が応接セットのテーブルの上のリモコンを手に取り、その向こうの古い薄型テレビのスイッチを入れた。チャンネルを変えてニュース番組にする。火事の様子を実況放送していた。上野と神作と重成がテレビの前に駆け寄る。画面では、黒煙を上げている高層ビルの空撮と共に火事を伝えるリポートが流れている。
フロアに居た他のチームの記者たちが駆け出していった。それを目で追いながら、神作真哉はイヴフォンの通話に戻った。
「くそっ。NNJ社が入っているビルがやられた。火事だ。とにかく後でまた電話する。――ああ、永山は、例のクゼとかいう元軍人の素性を調べてる。――ハルハル? いや、来てないぞ。直接かければいいだろ。――そうか。とにかく、後で電話する」
イヴフォンを切った神作真哉は、テレビの画面に視線を戻した。
重成直人が胡麻塩頭を掻きながら言う。
「畜生、証拠隠滅か……」
後ろから背伸びしてテレビを覗き込んでいる永峰千佳が言った。
「また、例の『刀傷の男』ですかね」
神作真哉と上野秀則は顔を見合わせた。二人はテレビの周りの観衆から少し離れた所に移動する。
上野秀則が言った。
「どう思う」
神作真哉は怪訝な顔をして首を捻った。
「妙だな。証拠となる資料はこっちにあるんだ。この資料と奥野、西郷の銀行口座の取引履歴を全て押さえれば、客観的な証拠は揃う。捜査当局は二人を逮捕して起訴できるはずだ。今更、自分たちの社屋に火を放っても意味は無い」
「そうすると、第三者の仕業か。このタイミングで……。何者だ?」
「分からんよ。とにかく、バイオ・ドライブがあそこに無かったと祈ろう」
上野秀則は溜め息を吐いて言った。
「こっちが現物を手に入れなけりゃならん状況には、変化なしか」
「何としても津田よりも先に手に入れないと、永山の奴、本当にヤバイことになるぞ」
「あの写真家が見つけてくれればいいんだがな」
神作真哉が首を横に振る。
「まず無理だな。あいつは、ドライブの画像も見てない」
「そっかあ。あいつ、あの時はもう旅に出てたからなあ」
「ああ。――それより、ハルハルを見なかったか。紀子が探してた」
「いや。携帯に掛ければいいだろ」
「俺もそう言ったんだが……。週刊誌の方は、土曜日は交代で休みじゃなかったか。別府が出社してるってことは、ハルハルは、今日は休みのはずだろ。また出社してんのかよ」
上野秀則は頭を掻いて答えた。
「ああ、昨日、『私、永山先輩の無罪の証拠を必ず見つけます!』って、意気込んでたからな。たぶん、出てきてるかもなあ」
「まったく。あいつ、自分が尾行されてるかもしれないってこと分かってるのかよ。休みの日くらい家でじっとしてろっての。何やってんだ……」
神作真哉は眉間に皺を寄せて、イヴフォンを操作し始めた。
2
「絶対に何か見落としてる」
春木陽香は力を込めてそう言った。
彼女は資料室に来ていた。山野が不在で騒がしい編集室の中よりも、静かな資料室の方が集中できる。春木陽香は広い閲覧スペースで一人端末の前に座り、閲覧用の立体パソコンの上に、これまでの記事原稿の項目を表示したホログラフィー文書をいくつも並べて浮かべていた。彼女はその一つずつに丁寧に目を通し、真剣な顔で記事を読み返していく。
すると、活字の前にイヴフォンの着信を知らせる表示が浮かんで彼女の視界を塞いだ。同時に、脳内の聴覚野に直接、着信音が響く。
春木陽香は少し下を向いて音声で操作した。
「通話オン」
机の上にスーツ姿の中年女の姿が浮かんで見えた。春木陽香は自己の印象記憶からイヴフォンが再現したその虚像を頼りに、相手と通話する。
「ああ、編集長。おはようございます。――はあ……。いえ、何か見落としているような気がして、この件に関する記事を最初から全部読み直してみようと。――はい、それも忘れてません。私、考えたんですけど、あの二〇二五年の大爆発の原因を突き止めれば、永山先輩が送ったタイムマシンの行方も分かるんじゃないかと思うんです。ということは、バイオ・ドライブの行方も分かるんじゃないでしょうか。だから爆発について、もう少しよく調べてみようかと。――ああ、大丈夫です。実家の母に頼みました。――はあ……。――そうですけど、今は緊急事態なので――それは来週にでも会いに行きます。――あ、いえ、編集長は、ちゃんと土日の休みを取られて下さい。お盆休みに帰省されて、こっちに戻ってすぐに出社だったんですよね。いろいろと片付けもあるでしょうし、先日の感電もありますから、せめて土日くらいは体を休められた方が。それに、たぶん、来週は忙しくなるでしょうし。――ですか……。――朝美ちゃん、どうです? 頑張ってます?」
春木の視界に浮かぶ山野紀子の像は、呆れたような表情で言った。
『何か、今度は理科で苦戦してるみたいよ。さっきから、ゴムボールやらゴルフボールやらで、クルクルと何やら実演中よ。天体のところで悩んでるみたいね』
「あそこは私も苦手だったからなあ。でも、朝美ちゃん、素朴な所に疑問を持つ子みたいなんで、そこが分かればスイスイと進むと思うんですよね。絶対に頭は悪くないですよ。神作キャップと編集長の御子さんですから」
『別に、頭が悪いとは言ってないわよ。馬鹿だって言ってるの。他人の子を何だと思ってるのよ』
イヴフォンが山野の音声を解析して春木の脳内に再現した山野紀子の像は、眉間に皺を寄せて目を剥いていた。春木陽香は思わず頭を下げる。
「すみません。失礼しました」
『とにかく、あまり遅くまで残ってないで、早めに帰りなさいよ。真ちゃんたちに捕まったら、こき使われちゃうわよ。自主的に休日出勤しても、日当満額は出ないんだからね。わかった?』
「はい。そうします。――はい。じゃあ、失礼します。通話オフ」
顔を上げた春木陽香は、短く息を吐く。
「ふう……。よし、やりますかあ。朝美ちゃんも頑張ってるからなあ」
背筋を伸ばした後、顔を前に出してホログラフィー文書に近づけた。顔を左から右に動かして、記事を探す。
「とりあえず、四月十二日からかあ。四月十二日、四月十二日……」
春木陽香の顔の角度が固定される。
「あった、四月十二日月曜日。時吉先生が『ドクターT』の論文データを持ってきた日だよね。この日の記事は――あ、そっか。新聞は真明教の記事だったんだ。ええと……」
春木陽香は、表示させた新日ネット新聞の記事に目を通し始めた。その隣には、ホログラフィーの「週刊新日風潮」が頁を広げて宙に浮かんでいる。彼女がその頁を捲ろうとすると、背後から男性の声がした。
「何だ、こんな所に居たのか。みんな心配してたぞ」
春木陽香はドキドキしながら振り向いた。知った顔だった。
「ああ、別府先輩。お疲れ様です……」
彼女は少し残念そうに挨拶する。別府博は濃い顔をしかめて言った。
「休日の自主的な出勤でも、編集室に一度は顔を出せよ。みんな心配するじゃないか」
「すみません」
「それより、聞いたかよ。NNJ社が入っているビルが火事らしいぞ」
「ええー! もしかして、また放火ですか」
「今、消火している最中みたいだから、まだ分かんないけど、たぶん、田爪瑠香の時と同じだろ。丁度あの会社が入っているフロアだけが燃えているそうだ」
春木陽香は眉間に皺を寄せ、頬を最大限に膨らませた。それを見て別府が言う。
「お、ご立腹ですな」
「当然です。なんか、無性に腹が立ってきました」
「じゃあ、少し機嫌がよくなる情報を一つ。例のタイムマシンの工場……」
春木陽香は別府に顔を向けた。
別府博はガッツポーズをして体を反らしながら、声高に叫んだ。
「場所を特定しちゃったかもしれません。ああ、俺って天才!」
春木陽香は、そんな別府を白々しい目で見つめる。
別府博は春木の視線に気付き、咳払いをすると、冷静さを装って言い直した。
「ああ、実はな、司時空庁が極秘にしているタイムマシンの製造工場の場所が、この前のライトさんからの写真から絞り込めたんだ」
「それは、今、聞きました」
「うん……。ええとな、それでな、まず、後ろに写っていた山の形と車道の位置を立体図に起こしてみて、一致する地形がないか、国土地理院の全国立体地形図と照合してみた。スーパー・インポーズ法で。スウパア、インポーズ!」
春木陽香が冷静に問う。
「どこだったんです?」
「意外と、すぐそこ。
「じゃあ、二つの山の谷間の
「そうなるね。たぶん西の外れの方。下文紀山と下寿達山が連なっている所の麓あたり。衛星写真で探してみたけど、丁度その辺りだけ倍率の悪い撮影になっていて、何が何だかよく分からなくされてる。だから、きっとその場所で間違いは無いと思う」
「そのスーパー……何でしたっけ」
「スーパー・インポーズ法。スウパア・インポーズ!」
「なんで繰り返すかな。そのスーパー・インポーズ法の照合に間違いは無いんですか」
「他にもヒットした地形はあったけど、一番、ていうか、格段に適合率が高かったのが、下文紀山だったからね。それに、古澤村からなら、
「なるほど……。それに、多久実インターで下りて、すぐに多久実第二基地に運ぶとか、善谷市から
「うん。だから可能性としては一番高い場所だと思う」
再び春木の視界に着信表示が浮かんだ。今度は神作からの着信である。
「私、ちょっと上に行ってきます」
春木陽香は椅子から腰を上げ、出口まで駆けていった。途中で立ち止まり、振り返る。
「別府先輩、有難うございました。やっぱり、先輩はすごいです」
彼女は頷いて見せてから、出口へと走っていく。別府博は頭を掻きながら言った。
「いやあ、すごいだなんて、そんなあ。ははははは。ようやく分かったかね、後輩くん。はははは」
広い資料室の閲覧スペースで、別府博は一人で高笑いをしていた。
3
ノースリブのワンピースを着た山野紀子が、自宅マンションのリビングで掃除機をかけている。床に転がっている懐中電灯やクリスマスツリーの星飾りをノズルの先で退かしながら、ラグマットの縁を掃除する。掃除機を止めた山野紀子は、ロケットのプラモデルを拾ってリビングテーブルの上に置くと、物が散乱しているリビングを見回して、呆れ顔で言った。
「もう、散らかしてばかりじゃない。あんたね、片付けるってことを知らないの?」
山野に背を向けて、リビングテーブルの上にゴルフボールやゴムボールを転がらないように慎重に並べながら、娘の山野朝美は答えた。
「知っとります。知っとりますが、散らかさないと片付けられない。片付けるために散らかす。片付けて散らかし、散らかして片付ける。こうして人は進化していく……
せっかく並べたボールたちが四方に転がった。朝美は掃除機のノズルで叩かれた頭を押さえながら、テーブルから落ちたボールを拾い集める。そんな朝美を指差しながら、山野紀子は怒鳴った。
「ちっとも進化しとらんじゃないかい。自分の部屋も早く片付けなさい!」
ボールを拾いながら朝美は口を尖らせて言った。
「ちょっと待ってよ。今、宇宙の神秘を探求中なんだから」
「宇宙の神秘?」
「そ」と短く頷いた朝美は、左右の手に持ったピンクとブルーのゴムボールを山野に見せながら、ピンクのボールとブルーのボール、その上の日本地図の形をした印を順に指す。
「これが太陽でしょ。こっちが地球。ここが日本」
そして、左手のピンクのボールをテーブルの上に置き、その横に神作が置いていったゴルフボールを置いた。二つのボールの間でブルーのボールを回しながら言う。
「ここに、お月様でしょ。光がこう当たって、地球は、こう回ってる。お月様は――こうやって一緒に、ニニニニ――ん? おかしいな。これじゃ、ずっと日本の真上にお月様が出とるぞ。『月は東に日は西に』って、理科の日高先生が言ってたのにな。そっか、太陽がこっちで、東だから――日本は、こっちで……あれ、指が届かない。お月様も置いとくか。ええと、東だから日本の右側と。それで、地球がこう回ると……はい、夜になりますう。月が見えてきました。月が見えて、月が見えて、はい、朝ですう。――こうなって、お月様がここだから、日光はこう当たってて、こうやって地球が回って、はい、また月が見えてきました。んあ? まてよ。ということは、毎晩一回は皆既月食か。おかしいな、昨日は皆既月食じゃなかったよね。うーん、変だなあ……」
山野紀子が呆れ顔で言う。
「月も地球の周りを周ってるのよ」
「ああ、そうか。そしたら……」
朝美はゴルフボールを手に取り、ブルーのゴムボールの周りを廻し始めた。
「ええと、夜になりましたあ。ここで半月になって、そして陰になって、また半月になって……って、ママあ、地球って、一日一回、皆既日食になるんだっけ」
「なりません。毎日一回、昼間に暗くなる?」
「ならない。うーん。でも、これだと、やっぱり、ずっと日本の東側に月が出てるんだよよなあ。しかも、こうやって昼になると――ほら、太陽と地球の間に月が来る。やっぱ、日食じゃん。しかも、毎日。――あ、そうか。東の位置で、こうクルクルと……月は東に日は西……あら? 日が東から昇っとるぞ。西じゃない。でも、確かに太陽はあっちからだから、東から昇る。うーん、宇宙では、東西南北が逆になるのかあ。――ああ、無重力だから。なるほどね。で、太陽が見えてくると、月が前に来て、太陽を隠して……って、おかしい! これじゃ、毎日お日様が出ないじゃん! ――はっ! も、もしかして、いつも眩しく空で輝いているアレは、お月様なの?」
窓の外の空を覗いた山野朝美は、手を額の上に立てて太陽に目を凝らした。眩しい。目が痛い。
呆気に取られた顔で朝美を見ていた山野紀子が呟いた。
「宇宙より、あんたの頭の中が神秘的だわ」
溜め息を吐いた山野紀子は、掃除機のホースを床に置くと、朝美の横に歩み寄った。すると、山野のイヴフォンが彼女の脳の聴覚野に着信音を送った。山野紀子はポケットからイヴフォンを取り出すと、ボタンを押して、ワンピースの丸襟に挟んだ。
左目を青く光らせた山野紀子が言う。
「ああ、真ちゃん。おはよう。――うん、大丈夫」
少し間を置いて、彼女は大きな声を出した。
「ええー! しかも、なんで官僚の警察庁長官が呼ばれてるのよ。――奥野は呼ばれていないのね。――奥野の更迭に向けた人事の話かしら。早めに決めとかないと、南米の戦後処理に影響するからね。――そう。分かった――あれ、真ちゃん? もしもし?」
山野紀子は暫く待った。視界の隅で、朝美が神作のゴルフボールを持って、反対の手のゴムボールの周りを何回も回しながら、首を傾げている。
山野紀子は少し腰を曲げて朝美に言った。
「地球が一回転する速さと、月が地球の周りを一周する速さが違うのよ。地球は二十四時間で一回転でしょ。月は約一ヶ月で地球の周りを一周するの」
「ほう……なるほど」
目を丸くして口を尖らせた山野朝美は、両手に持ったボールを見つめて少し考えた。
山野紀子がイヴフォンの通話に戻る。
「もしもし、真ちゃん、何かあったの? ――はあ? 火事? ちょっと、ちょっと。哲ちゃんは? 焦ってない? ――そう……。彼が一番、心中穏やかじゃ無いはずよね。まあ、分かった。ああ、そうだ、そっちにハルハルが来てる?」
リビングテーブルの横で、朝美が一人で頷いている。
「はい、はい。解かりました。宇宙の神秘、一つ解明。こうなって、新月、半月、満月、半月で、一ヶ月と。なるほどね。あれ、臨月って、どれだっけ……」
左目を青く光らせた山野紀子もリビングテーブルの横に立ったまま頷いていた。
「そう。うん。そうする。いや、もしかしたら、あの子、また休日出勤してるんじゃないかと思って――うん、分かった。ああ、明日、真ちゃんのアパートも掃除に……何よ、切るなっつうの」
顔を上げた朝美が言った。
「ん、明日、パパのアパートですか」
「うん。朝美も行く?」
朝美はコクコクと首を縦に振った。
「行く行く。掃除でしょ。よーし、ピカピカにしたろ」
山野紀子はリビングテーブルの上のテレビのリモコンに手を伸ばしながら言った。
「その前に自分の部屋をピカピカにしてよ」
彼女はリモコンのスイッチを押してテレビをつけた。
旧式の薄型テレビの画面にNNJ社ビルの火災を生中継する映像が広がる。高層ビルの中腹から赤い炎が四方に、花弁のように広がって揺れていた。そこから吹き出している黒煙が上層階を覆い、隣のビルも見えなくしている。時折、ガラスか何かが外に撃ち出されるように激しく放出され、その後を白煙が追いかけた。近くの空中から放水していた消火用オムナクト・ヘリが機体を真横に倒して旋回し、吐き出される熱風の直撃を回避する。
「うわあ――マジですか……」
山野紀子が顔をしかめて呟くと、朝美もテレビを見ながら言った。
「あっりゃあ。火の元には気をつけないといけないね」
山野紀子は頷いた。
「そうね。――まあ、この場合、必要以上に気をつけていたんでしょうけど」
そして、溜め息混じりに呟いた。
「きっとまた、現場から青い花が見つかるんだろうなあ……」
朝美が顔を上げて尋ねた。
「花? ここ、花屋さんなの?」
「ああ、いや、何でもないから。あんたは宇宙の謎を解き明かしてちょうだい」
山野紀子は娘に勉強を教えようと、朝美の横に移動した。ラグマットの上に膝をついた紀子に朝美が言う。
「あのう、ママ……火事のニュースを見てる時になんですが、なんか、すっごく煙たくない?」
山野紀子は顔を上げた。顔の前に薄っすらと白煙が漂う。
「――? ――しまった!」
山野紀子は飛び上がるようにして立ち上がり、煙が充満している台所に駆けて行く。カウンター式のキッチンの向こうで慌しく動いた後、換気扇の強さを最大にした彼女は、コンロの上の大鍋を覗きながら言った。
「あいたー。焦がしちゃった。明日、パパに持っていこうと思ったのに。こりゃ、作り直しだな。はあ……」
朝美が母親に声を掛けた。
「ドンマイ、ドンマイ。私も宿題は毎回、やり直しだから」
山野紀子はシンクの上に手をついて項垂れる。
「全然、慰めになってない。ママとしては、それはそれでヘコむわ」
テレビでは、防災隊の懸命の消火と救助活動が報じられていた。
山野紀子は再びテレビの前にやってきて、厳しい視線を画面に向けた。
朝美は母親を目で追って、その表情をじっと見ていた。
山野紀子はイヴフォンを操作しながら言った。
「ハルハルにも電話しとくか」
暫らくして、左目を青く光らせながら、山野紀子は言った。
「あ、もしもし、ハルハル?」
彼女はキッチンへと戻りながら通話をする。
「ちょっと、まさか会社にいるんじゃないでしょうね。――はあ、じゃないわよ。休日にちゃんと休むのも仕事の内だって言ったでしょ。――そんなことより、どうせ休日を潰すんなら、バイオ・ドライブでしょ。それか、田爪博士の研究データ。哲ちゃんの名誉が懸かってるのよ。――自分の家はどうなってるの。散らかり放題なんじゃないの? 帰りも遅いから、洗濯物も溜まってるでしょうが。――そんな甘えたことじゃ駄目じゃない。自分でやらないと。――ハルハルのお母さんもお婆ちゃんの介護とかでいろいろ大変なんでしょ。――お盆に顔を出したからって、毎日の家事仕事の手伝いにはならないでしょ。それに、お婆ちゃんに顔を見せるのを怠っちゃ駄目じゃない。失礼かもしれないけど、そんなにいつまでもお話できる御歳じゃないんだから。――そう。午後からで良かったら、私も出ていこうか。調べ物なら、二人でやった方が早いでしょ」
鍋をシンクに運んだ山野紀子は、水道の蛇口から水を垂らすと、消火活動を報じているテレビに目を遣った。火はようやく鎮められたようだった。
彼女は春木に言う。
「そうね。とんでもなく忙しくなりそうな予感がする」
朝美がキッチンで通話を続けている母親に声を掛けた。
「ハルハルお姉ちゃんに、お仕事頑張ってねえって言っといて。って、何の話してるのか分かんないけど」
すると、突然、山野紀子がムッとした顔で言い出した。
「別に、頭が悪いとは言ってないわよ。馬鹿だって言ってるの。他人の子を何だと思ってるのよ」
水道の水を止めた山野紀子は、口調を平生に戻して言った。
「とにかく、あまり遅くまで残ってないで、早めに帰りなさいよ。真ちゃんたちに捕まったら、こき使われちゃうわよ。自主的に休日出勤しても、日当満額は出ないんだからね。わかった?」
スポンジに洗剤を垂らしながら、山野紀子は言う。
「無理せずに、ちゃんと帰るのよ。いいわね」
通話を終えた山野紀子は、指先でイヴフォンのボタンを押すと、それを摘まんでポケットに仕舞った。彼女が顔を上げると、カウンターの向こうのダイニングテーブルの横に、朝美が立っていた。
朝美は不安そうな顔をして紀子に尋ねた。
「ねえ、ママ。ハルハルお姉ちゃん、私のこと、何か言ってた。頭が悪いとか……」
山野紀子はスポンジで鍋を擦りながら言った。
「逆よ。頭は悪くないって言ってた。ちゃんと才能は有るはずだって。ちょっとカチンと来ちゃった。だって朝美は、馬鹿じゃんね」
朝美が腕組みをして頷く。
「だよね。勝手に才能あるとか言われても……ん?」
朝美は更に不安気に尋ねた。
「ママ。私……馬鹿なのかな」
山野紀子は力を入れて焦げた鍋を洗いながら言った。
「そうよ。馬鹿。でも、頭は悪くないはず。絶対に。ちなみに、ママも馬鹿。こうやって鍋を焦がしちゃったでしょ。でもね、馬鹿からは絶対に抜け出せるから心配は要らない。方法は簡単。頑張ればいいだけ。ひたすら頑張ればいいの。それだけ。アーユー、オーライ?」
山野朝美は少し考えた。そして、ポンと両手を打つ。
「なんだ、それだけか。うん、分かった」
山野朝美は少しだけ元気が出た気がした。リビングテーブルに戻った朝美は、再びゴムボールとの格闘を始めた。
山野紀子は朝美の様子を見ながら口角を上げると、鍋を擦りながら朝美に言った。
「もう一人、馬鹿を知ってる。その子も、たいして給料も出ないのに休日出勤して、ひたすら頑張ってる。大人もみんな頑張ってる。だから、あんたも見習って頑張りなさい。夏休みもあと少しだから、やれるだけやってみること。いいわね」
朝美はボールを回しながら答えた。
「ほーい」
懸命に鍋の底を擦る山野紀子。顔に飛び散った泡を腕で拭い、また力を込めて鍋底を擦り始めた。煤が落ちて銀色の鍋の表面が見えるまで。
4
国防大臣室の奥野の机の上には、平面ホログラフィーで表示されたニュース番組の映像が宙に浮かんでいた。映像は、中層階から黒煙を上げる高層ビルの様子を流している。NNJ社が入るフロアの火災であると伝えるアナウンサーの声に耳を傾けながら、奥野恵次郎は食い入るようにホログラフィー画面を見ていた。
ニュースが終わり、ホログラフィー画面を消した奥野恵次郎は、机の前に立つ増田基和に言った。
「西郷と連絡がとれないだと?」
増田基和は頷く。
「未明に姿を消したようです」
奥野恵次郎は顔をしかめた。
「なんだと? 姿を消した? 逃げたということか。なぜだ」
増田基和は奥野に問い返した。
「昨日の新日の記事のせいでは」
奥野恵次郎は横を向いて答える。
「言っただろう、あれは全てデタラメだ」
そして、机の上を指先で細かく叩きながら呟いた。
「しかし、あんな週刊誌のデタラメ記事一つで姿を消したというのか」
増田基和が言った。
「もう一つ、理由は考えられます」
奥野恵次郎は目線だけを増田に向ける。
「何だ」
「今朝方、例のオーストラリア船籍の貨物船が、フィリピン沖で環太平洋諸国連合の合同海軍により
奥野恵次郎は体を増田の方を向けた。
「拿捕? あのNNJ社の警備用ロボットや傭兵たちを乗せた船か」
「はい。戦争当事国の権利の行使として拿捕したようです。現在、積荷を全て審検中ですが、武器、弾薬、戦闘用ロボットの類が押収されることは確実かと。なお、密入国容疑で乗員七十三名を逮捕または射殺との情報が入っています。実際には全滅でしょうが……」
「な……全滅? どういうことだ!」
増田基和は説明する。
「こちらの訓練兵が到着する直前までAB〇一八の施設を守っていたのは七十名。それと同規模の部隊がその船で出国したのだとすると、一個小隊二十四名の二個小隊編成からなる本隊に、支援部隊として一個小隊。計三個小隊での中隊を構成していたはずですので、指揮官を含め七十三名と……」
奥野恵次郎は声を荒げた。
「そんなことを訊いているのではない! 射殺だとか全滅とは、どういうことだ。戦闘になったのか」
増田基和は頷いて、淡々とした口調で説明した。
「はい。約二十三分間の作戦だったようです。衛星追尾による捕捉後、掃討作戦用ロボット『マニ・ハーンⅡ型機』を三機、船上に投下。船内を攻撃すると同時に、巡洋艦からのGPS捕捉による超高精度狙撃により、船上の敵兵を一掃したようです。仕上げは、熱線誘導式中型徹甲弾『キャロライン・ミサイル』十二発で船体を攻撃。船舶自体が航行不能となっていますので、曳航しながら船内の生存者の探索を進めるようですが、我々の分析では、生存者は見つからないと予測しています。船体の損傷も激しいので、探索活動自体が難しいでしょう。遺体の収容と身元確認は数日後になるものと思量されます」
奥野恵次郎は目を丸くして言った。
「最初から『マニ・ハーン』を投入したのか。あれは閉鎖区画内での接近戦用ロボットだろ。『キャロライン・ミサイル』も超高熱タイプの溶鉄水平焼夷弾だ。撃ち込まれたら、逃げようがない。これでは初めから、乗船者を皆殺しにするつもりの作戦じゃないか」
増田基和は表情を変えずに言った。
「敵がASKITの傭兵だと合同海軍側も了知していたようですので、それは当然かと」
奥野恵次郎は目を泳がせた。彼は困惑した顔で言う。
「馬鹿な。それでは、相手の投降意思も確認せずに攻撃したというのかね」
増田基和は落ち着いた声で答えた。
「海上戦では先手必勝。これが戦闘の現実です、大臣」
奥野恵次郎は増田の顔を見た。増田基和の目は、冷静さの奥に厳しさと冷酷さを秘めているようだ。それは獲物を狙う鮫のような冷たい眼差しだった。
彼から視線を逸らした奥野恵次郎は、椅子の背もたれに身を倒し、増田に言った。
「そ、その合同海軍に、我が軍からは参加していないだろうな」
「既に我が国の全ての兵力は、協働部隊からも、合同海軍からも離脱しております。当然、今回の作戦にも参加しておりません」
「そうか。こんな作戦に参加などしていたら、ASKITから目の敵にされるぞ。私も次の選挙でどう叩かれるか分からん」
「西郷はASKITからの制裁を恐れて逃亡したものと思われます。おそらく、今回の勝手な兵の配転が知られたのでしょう」
奥野恵次郎は身を乗り出した。
「制裁? じゃあ、国防軍との契約のことをASKITは知らんかったというのか」
増田基和は頷いて言った。
「我々は、そのように分析しています」
「そんな……」
一瞬、呆然とした奥野恵次郎であったが、すぐに増田に厳しい顔を向けると、彼を指差して言った。
「例の物は見つかったか」
増田基和は怪訝そうな顔で問い返した。
「バイオ・ドライブでしょうか」
奥野恵次郎は頷く。
「そうだ。見つかったのか。訓練兵から何か聞いてはいないか」
増田基和は首を横に振った。
「いえ。そのような情報は得ていません。今回の訓練は、あくまでNNJに対し我が軍の哨戒能力をデモンストレーションしてみせるのが二次的な目的だと心得ていましたので」
奥野恵次郎は苛立ちを露にする。
「ぬうう、どいつもこいつも、役立たずが……」
増田基和は奥野に追い討ちを浴びせるように、悪い知らせを伝えた。
「官邸から、早急に訓練停止をするよう要求が出ていますが……」
奥野恵次郎は下唇を噛んだ。そして、肘掛の上を強く叩いて言った。
「国内の軍事訓練についての指揮権は国防大臣にあるんだ。部外者から要求される筋合いは無い!」
増田基和は冷静に進言する。
「ですが、いずれ辛島総理が大臣に直接、その指揮権の行使の仕方を指示されるのでは」
奥野恵次郎は舌打ちすると、増田に指を振って言った。
「訓練兵たちに、もう一度探させるんだ」
「もう一度? すでに施設内部の探索をさせたのですか?」
「ああ。何人かの兵隊に命じただけだ」
「指揮命令系統の逸脱は部隊活動の混乱に繋がります」
「今はそんなことを言っている場合か。そうだ、例の件はどうなっている。新日の奴らのことだ。実行できそうなのかね」
「適宜、機会を伺っております」
「そうか。いやな、私の方でも信頼できる兵士を特別に集めてみた。そいつらと共に万全の態勢で臨んで欲しい」
増田基和は奥野の目を見て言った。
「お言葉ですが、私の指揮監督外の兵員の活動は作戦の邪魔になります。できましたら、私の直接指揮下の部隊のみで実行させて下さい」
奥野恵次郎は椅子を横に向けて言った。
「そうか。もういい、下がれ!」
増田基和は一礼すると、奥野に背を向けて歩いていき、ドアを開けて退室した。
ドアが閉められると、奥野恵次郎はすぐに机の上の立体電話機に手を伸ばし、電話を掛けた。立体電話機から机の向こうに光が照射され、ホログラフィーで戦闘服姿の大柄な中年男性の姿が投影された。その男は言った。
『はい、
奥野恵次郎は椅子の背もたれに身を倒したまま、郷田に言った。
「私だ。国防大臣の奥野だ」
郷田のホログラフィーは直立したまま背筋を正し、敬礼した。
奥野恵次郎はゆっくりと頷いた後、郷田に言った。
「今日いっぱいで、おまえらを訓練部隊から外す。おまえらを除隊前の階級に戻してやるから、国防省ビルの私の部屋まで出て来い。その後の働き次第では、除隊履歴も消してやるし、階級を上げてやってもいい」
郷田は敬礼して答えた。
『は。ありがとうございます』
奥野恵次郎は郷田のホログラフィーに激しく指を振りながら言った。
「但し、今日中にバイオ・ドライブを見つけろ。本日中に、そこにいる全訓練兵に指示を出す。施設内を隈なく探し、絶対に見つけ出すんだ。いいな」
『了解しました』
そう返事をした郷田のホログラフィー映像は、敬礼をしたまま停止し、消えた。
奥野恵次郎は両肩を上げて強く肘掛を掴むと、それを叩いた。そして椅子から立ち上がり、独り言をブツブツと吐きながら、キャビネットへと向かう。
「西郷の奴、何が『上に話をしておく』だ。大船に乗った気でいろだと? 自分が命を狙われとるじゃないか。船まで沈められかけて……。ふざけやがって、あの青二才が!」
荒っぽくキャビネットのガラス戸を開いた奥野恵次郎は、戸棚の中のウイスキーの瓶を取り出し、グラスに注いで一気に呷った。
グラスを持った手で口を拭いた奥野恵次郎は、猛獣のような目をしながら言った。
「くそ、こうなったら、やるしかない。くそ……」
奥野恵次郎は再びグラスに洋酒を注いだ。瓶を持つ彼の手は大きく震えていた。
5
上野デスクの部屋で三人が話していた。上野秀則は自分の椅子の背もたれに身を倒し、腕組みをしている。机の前には神作真哉と永山哲也が立っていた。永山哲也は片手に持った手帳を広げて、そこに目を落としている。ノックの音に神作真哉が返事をすると、「俺の部屋だ」と上野秀則が文句を言う。
入り口から春木陽香が顔を覗かせた。
「失礼します。あの、大事なことが……」
神作真哉が春木に手招きして言った。
「よお、ハルハル。さっき電話したが、話し中だったな。それにしても、休日なのに、また自主出勤かよ。紀子が心配してたぞ」
春木陽香が三人に歩み寄りながら言う。
「ああ、さっき電話がありました」
上野秀則が言った。
「丁度良かった。あの写真家が言っていた
永山哲也は手帳を見ながら報告を始めた。
「
春木陽香が興味深そうに永山の手帳を覗きながら言った。
「どうやって、そんな細かな情報が分かったんですか?」
「軍規監視局に行ってきたんだよ。国防省ビルの中の。先に電話で問い合わせて、情報公開請求したいって言ったら、あっさり応じてくれた。悪さをした元軍人の情報は、ぜーんぶ公開してるんだって。国防軍兵の雇用条件になっているらしい」
永山の説明に少し驚いたような顔をしている春木に、神作真哉がニヤリとして言った。
「外国の戦地での軍人の問題行動が、日本の国防兵がダントツで少ないのは、こういうことさ。『バード・ドッグ』が目を光らせていて、悪さをすれば、除隊後も全ての情報が世間に公開される。さすがにインターネットにまでは載せていないようだが、誰でも請求すればすぐに見ることができるようになっているってのは、すげえよな」
春木陽香はまだ驚きを隠せないようだった。彼女は目を丸くして、永山に再度尋ねた。
「個人情報の保護は、無しですか」
永山哲也が手帳を閉じて答えた。
「不名誉除隊になった者のうち、敵前逃亡や理由ある命令違反で処分された者は公開リストに含まれてないって言ってたな。私戦、私殺人、私傷害、強盗、窃盗、強姦、こういう類の行為をしでかした奴の情報は全て公開だそうだ。要は、悪事を働いた人間の個人情報までは、軍は保護しないってことさ」
上野秀則が腕組みをしたまま、天井を仰いで言った。
「厳しいねえ。さっすが国防軍。これじゃ、除隊後にまともな再就職は難しいもんなあ」
春木陽香は、もう一度永山に尋ねた。
「本当に、誰でも請求できるんですか」
永山哲也は手帳をズボンの後ろのポケットに仕舞いながら答える。
「まあ、一応は請求者のチェックがあって、向こうが許可する形だけどね。外国のスパイが内部情報を分析するために情報を取得すると不味いから。だけど、僕は今回、ほとんどノーチェックだった。請求書をその場で書いて提出したら、すぐに出てきたよ。まるで自分の住民票情報を取るみたいに」
「おまえ、今や有名人だからな」
神作真哉が永山を指差してそう言うと、永山哲也は頷きながら言った。
「役得です、役得」
自慢顔で頷いている永山に上野秀則が尋ねた。
「そいつが所属していた機械化歩兵連隊って、あれか、例の赤鬼連中みたいな」
「ですね。
そう答えて、永山哲也は隣の春木に顔を向けた。
「ほら、米軍とNATOが実施したソマリアの強制治安形成活動の時に、こういうロボットみたいな大きな鎧を着て、馬鹿デカイ銃器を持ってた兵士たちがいただろ、あれだよ」
そして再び上野に顔を向ける。
「その先攻特殊部隊だそうなので、突撃部隊といった感じでしょうね。一応は夜間の奇襲攻撃が主な任務だそうです」
神作真哉が不可解そうな顔をして言った。
「そんな奴を奥野は呼び戻したのか。とんでもねえワルなのに」
上野秀則が椅子に深く身を倒したまま、視線だけを神作に向けて言った。
「だからだろ。再就職先も決まらないなら、声をかければ乗ってくるだろうし、そういうワルなら、多少の違法行為だって平気でやる。兵士としての実力もあって、内部情報にも通じている人間なら、親元の国防省が反対しても、現場の国防軍サイドとしては、なるべく巷に泳がせときたくはない。意見が対立していたところに、国防省トップの国防大臣が提案したとなれば、国防省も二つ返事で呼び戻したはずだ。せっかく内部規則で事実上の有罪処分にしたバード・ドッグの法曹さんたちも、自分たちの努力を無駄にされて頭に来たんだろうな。だから、おまえに積極的に情報を提供したんだよ」
上野秀則は永山を指差した。春木陽香は納得顔で何度も頷く。
神作真哉が真剣な顔で永山に尋ねた。
「その南米での強盗事件は、単独犯なのか」
永山哲也は慌ててもう一度手帳を取り出すと、頁を開きながら首を横に振った。
「いいえ。仲間二人と実行しています。それも調べました。ええと……
上野秀則は神作の顔を見て言った。
「やっぱり、奥野の駒が施設の中に置かれているって訳か。しかも随分と凶悪な駒が」
永山哲也は手帳を再び仕舞いながら言った。
「ライトさんが危ないかもしれませんね」
神作真哉は永山に厳しい顔を向けて言った。
「おまえは自分のことを心配しろ。昨日、ライトが言っていた泥棒訓練兵はその郷田か野島のどちらかだ。奥野の命令で、施設内でバイオ・ドライブを探索しているに違いない。こっちより先にアレが奥野や津田の手に渡ったら、何もかもおまえのせいにされちまうかもしれないんだぞ」
上野秀則も永山の顔を見て言った。
「検察当局が動き出す前に奴らがバイオ・ドライブを手に入れたら、収賄疑惑もタイムマシンのことも、力技で握り潰しちまうだろうな。こっちは何か別の方法を考えないと」
永山哲也は二人から目線を逸らして黙っていた。
春木陽香が永山の顔を一瞥してから、神作と上野の表情を伺いながら言った。
「あの……その点なんですが」
「なんだ」
神作真哉がぶっきら棒に言うと、春木陽香は揚揚とした様子で答えた。
「別府先輩が、ライトさんが撮影して送ってきた写真から、司時空庁のタイムマシン製造工場の場所を特定したんです」
神作と上野は視線を合わせた後、溜息を吐いて黙った。
春木陽香は戸惑いながら男たちの顔を見回した。
「あ……えっと……あの……すごくないですか?」
神作真哉がギプスをした左手で顎を掻きながら、面倒くさそうに言う。
「すごい、すごい。でもな、問題は、その情報がどう役立つかだ」
春木陽香はポンと手を叩くと、神作を指差して言った。
「それです。その点です。私、思ったんですけど、その工場の中の詳しい写真とか撮ってきて、司時空庁製のタイムマシンの部品と、爆心地にちょっとだけ残ってたっていう部品を照合してみればいいんじゃないでしょうか。それが一致すれば、爆発の瞬間にその場に在ったタイムマシンが、永山先輩が南米から送った田爪博士製の新型タイムマシンじゃなくて、司時空庁製の量産型タイムマシンだったことが証明されるんじゃ……」
神作真哉が厳しい視線を春木に向けて言った。
「一致しなかったら、どうすんだよ。向うに旗を上げるようなもんじゃねえか」
上野秀則も春木に向けて人差し指を振りながら言う。
「それにな、おまえ、第一どうやってその工場に入るんだよ。近寄れるわけ無いだろ。俺もその画像は見たけど、めちゃくちゃ遠い位置から撮影した画像だったじゃねえか。あの写真家も近寄れなかったんだよ。仮に工場の中の写真が撮れたとしても、部品の一個一個をどうやって全部撮影するつもりだ。何個あると思ってんだ。ネジ一本から全てそこで製造しているって話だぞ。全部の部品といったら、たぶん天文学的な数になる。だいたい、その中のどの部品が焼け残った部品に該当するものか、全く分からんだろうが。こっちは爆心地で焼け残ったっていう部品を見てないんだぞ。馬鹿か、おまえ」
溜め息を吐いた神作真哉は、床を向いたまま言った。
「それに、津田が照合に応じるわけが無い。相手は今、崖っぷちの大勝負に出てるんだ。もっと現実的な対処を考えろ」
確かに二人が指摘した通りだった。二人は、どうにもならない現状に対する苛立ちを春木にぶつけていた。
少し涙目になった春木陽香は、口を尖らして呟くように言う。
「そ、そんなボロクソに言わなくても……すみませんでした……」
すると、隣から永山哲也が言った。
「いや、待って下さいよ。それ、使えるかもしれない」
春木陽香は目を大きくして永山の顔を見上げた。
上野秀則が目を細めて永山に尋ねる。
「使える? 何が」
永山哲也は少し興奮気味に答えた。
「その工場の中に在る物ですよ。僕が送った新型タイムマシンとなら、比較できるかも」
神作真哉が怪訝そうな顔を永山に向ける。
「どうしておまえが送ったタイムマシンと比較する必要があるんだ。あの工場で作っていたのは、それとは形の違う量産機だろ」
永山哲也は隣の春木を一瞥してから説明を始めた。
「たしかにハルハルが言ったとおり、もしこれまで司時空庁が送り続けたタイムマシンのうちの一機が二〇二五年に誤って移動して、あの大爆発の原因になったのだとしたら、そこに残った残骸は今まで司時空庁が製造してきた機体のパーツと一致するはずですよね」
上野秀則が眉を寄せて、永山の発言を遮るように言った。
「ああ、分かってるよ。時吉ジュニアも同じことを言っていたんだろ。だから今、俺たちが言ったじゃねえか。照合しようにも方法が……」
神作真哉が手を上げて上野を制止する。彼は永山の目を見て言った。
「それで」
永山哲也は説明を続けた。
「津田長官が説明したとおり、爆心地で発見されたその残骸が機体の縁の部分、つまりフレーム部分のみだったとしても、それを見れば機体のパーツだとすぐに分かる」
上野秀則が再び口を挿んだ。
「当然じゃねえか。司時空庁は十年も同じ機体を作り続けてきたんだから。いくら黒焦げになっていたとしても、自分たちが作ってきた機体の部品かどうかは、見ればすぐに分かるだろうよ」
永山哲也は上野に顔を向けて続けた。
「ということは、つまり、それは自分たちの失敗を証明する決定的な証拠となってしまう物ですよね。そんな物を、わざわざ地下の保管庫なんかにいつまでも隠し持っておく必要がありますかね。これまでの津田長官の行動からすると、むしろ早急に廃棄処分するのが普通じゃないでしょうか。しかも、こっそりと」
「ああ、まあ、そうだな。津田の奴なら、自分に不利な証拠はすぐに処分するだろうな」
そう言って、上野秀則は首を傾げた。永山哲也は、今度は神作の方を見た。
「ところが、僕らが司時空庁ビルに行った時の話では、津田長官や松田部長は、どうもそれを今でも隠し持っているかのような言いぶりでしたよね。では、なぜそんな物を今まで保管しておく必要があったのか。たぶんそれは、その焼け残ったフレーム部分の形状が、連中が製造してきたタイムマシンのそれと非常によく似ているが、同一の物とは言い切れないほど微妙に何かが違うからではないかと思うんです。それで、自分たちが作っている機体のパーツだと確信が持てないから廃棄できなかったのではないかと」
神作真哉は眉間に皺を寄せて永山の話を聞いていた。そんな彼に、永山哲也は尋ねた。
「司時空庁製の単身乗り用の機体は、誰も見ていないのですよね」
「ああ。結局、俺も上野も、あの発射施設の中では機体を見ることはできなかった。もちろん、ハルハルも見ていない」
神作の答えを聞いた永山哲也は、再び上野の方を向いて言った。
「僕が送った、南米で田爪博士が作ったあのタイムマシンは、その前日に僕が目撃した、南米の地下に日本からワープしてきた家族乗り用のタイムマシンよりも、ずっと小さかったんです。『少し』どころの違いじゃない。大きさに随分と開きがありました。以前、司時空庁は、家族搭乗用の機体は単身搭乗用の機体を少し大きくした物だと発表しました。田爪博士もインタビューの時に、家族搭乗機は単身搭乗機をただ拡大コピーしているだけだと馬鹿にしたような発言をしていた。また、形状も、僕が見た田爪博士の新型機は卵形でしたが、司時空庁が飛ばした家族搭乗機は弾丸のような形でした」
「ん? だから、何が言いたいんだよ」
上野秀則がしかめ面をする。永山哲也は説明を続けた。
「似ているのかもしれないんですよ、僕が送った新型機と司時空庁の単身搭乗機が。卵形と弾丸形といっても、大きさも近く、骨格となるフレーム部分にも共通する部分があったのかもしれない。だけど、形や大きさが完全に一致しない二機のフレームやパーツは、似ていても微妙に違った。形や大きさが。だから司時空庁は自分たちのタイムマシンの部品だとは断定できなかった。そういうことではないでしょうか」
春木陽香が口を挿んだ。
「でも、司時空庁の家族搭乗機は単身搭乗機を少し大きくしただけなんですよね。永山先輩が南米で見た家族搭乗機は田爪博士の新型機よりずっと大きかったんでしょ。そうすると、単身搭乗機と新型機の大きさも一致しないじゃないですかね。卵と弾丸じゃ、形も全く違いますし……」
「その『少し大きくした』の『少し』の度合いによるじゃないか。形だって、部分的に似ている所があるかもしれない」
永山哲也が春木にそう言うと、上野秀則が漏らした。
「たしかに、あの官庁が発表したことを鵜呑みにはできないよな。本当に『少し大きくした』だけなのかどうか……」
神作真哉は右手で後頭部をポンポンと叩きながら唸った。
「うーん……。まあ、とにかく、司時空庁の単身搭乗型のタイムマシンが実際にどれくらいの大きさで、どういう形状だったのか、それ次第だな。永山は実際に田爪の新型機を見ている訳で、その際の追加レポートも公表されたから、その点は既に証明されている。新型機の目撃者である永山が新型機と司時空庁の単身搭乗機を比較してみて、その大きさがほぼ同じで、形にも似た部分があれば、今の永山の説明をそのまま記事にして、司時空庁があの新型タイムマシンを過去の時点で回収していたという事実を世間に公表できるかもな。だが、そうなると……」
神作真哉は永山の顔に視線を向けて、再度口を噤んだ。春木陽香が永山の顔を覗く。
永山哲也は一度ゆっくりと両目を瞑って頷いて見せた。
腕組みをした上野秀則が口を尖らせた顔を傾けて言う。
「でも、どうやって比較するんだよ。辛島総理がタイムマシン事業を凍結させたから、工場でのタイムマシンの製造はストップしているだろう。大量生産している訳ではないようだから、在庫の機体があるとは思えんぞ。作りかけの機体があったとして、それで機体全体の形状が分かればいいが、判別がつかない場合も考えられる。事業凍結の指示が出されたのは、俺たちが止めた七月の発射の直後だ。次の機体の製造に着手したばかりか、下手すりゃ、取り掛かってもいないかもしれん。現物の単身搭乗型の機体が無ければ、どうしようもないじゃないか。どうやって比較するんだよ」
「完成した機体が、少なくとも一機は残っているはずなんです。しかも、単身乗り用が。いや、必ず残っている。だって、それに乗って渡航せずに降りてきた人間に、この春木記者がインタビューしていますから。存在することも、それが単身搭乗型の機体であることも、飛んでいないことも確実なんです」
永山の答えを聞きながら、神作真哉は怪訝な顔で春木を見ていたが、すぐに顔を永山に向けて声を上げた。
「アキナガ・メガネか!」
永山哲也は何度も頷いた。
「ええ、そうです。秋永社長が出発し損ねた最後の単身乗り用のマシン。あれ、もしかしたら、秘匿している工場の方に戻して保管してあるんじゃないですかね。発射施設の方に保管するより、場所を知られていない工場に保管した方が安全でしょうし。それに、今後『ワープ』についていろいろと検証する必要もあるはずですから、まだ解体はされていないと思います」
上野秀則が神作に顔を向けて言った。
「じゃあ、まずは秋永社長に取材してみるか。実際に単身機を目の前で見て、中に乗り込んだ彼なら、形状についてはっきり証言してもらえるはずだ」
神作真哉が首を横に振る。
「いや、無理だろうな。ハルハルがインタビューしたような、搭乗が中止になったことについての個人的な感想は言えても、見た機体の形状などは外部に漏らさないよう法的義務を負っているはずだ。それに、『週刊新日風潮』が秋永社長の感想を記事にしたことも、司時空庁は既に知っている。たぶん、秋永社長は厳重に監視されているはずだよ。現状で俺たちが彼に近づけば、最悪、津田は秋永社長を消しにかかるかもしれんぞ」
「ですね。だから、僕が実際に工場に行って、残っているタイムマシンそのものを見てみる必要があります」
また無茶を言い出した永山を一瞥して、神作と上野は視線を合わせる。すると、春木陽香が慌てて先輩たちに手を広げながら言った。
「でも、ちょっと待って下さい。でもですよ、それじゃ、永山先輩が送ったタイムマシンが二〇二五年の爆発の原因になったと、こっちから認めることになるんじゃ……」
上野秀則がハッとして永山を見た。神作真哉は項垂れるように視線を床に落とす。
永山哲也は春木の目を見て、落ち着いた口調で言い聞かせた。
「僕一人のために、何百万人も犠牲になった戦争の原因を有耶無耶にする訳にはいかないよ。これは歴史に責任をとる大事な問題だ。それに、戦争勃発を画策した、あるいは真実を知っていて、それを隠して利用した人間がいて、その中心人物がバイオ・ドライブを手に入れて、中の最新科学技術情報を餌に国政を動かそうと企んでいるんだ。しかも、情報を手に入れた後は、軍を使ってAB〇一八を破壊してしまうかもしれない。そうすれば世界中に多くの犠牲者が出る。ここで真実を明らかにして、津田を権力の座から引きずり降ろさないと、僕らマスコミが存在している意味が無いじゃないか」
「それじゃ、永山先輩が世界中から非難されちゃうじゃないですか」
「それは覚悟の上さ。僕は記者だ。記者には記者としての責任がある」
永山哲也はもう一度、静かに頷いて見せた。春木陽香は受け入れられない。
「でも、祥子さんや由紀ちゃんが……」
「僕の家族も自分たちが記者の家族だってことは分かっているんだ。それに、現にあの新型機を南米から送ったのは僕だからね。仕方ないよ。記者として以前に、人としての責任でもある」
「永山先輩、でもそれは……」
神作真哉が口を挿んだ。
「心配するな、ハルハル。仮に最悪の事態になっても永山を救うことはできる。二〇二五年の爆発では、幸いにも死傷者ゼロだ。その後の戦争誘発の展開は津田が絵を画いたもので、永山とは関係ない。俺たちがしっかりとした内容の記事を書けば、永山を救えるはずだ。だが、それには、この事を明らかにしたのが俺たちでなければならない。そうでないと、いくら永山を擁護する記事を書いても説得力が無いからな。前にもそう言ったろう」
春木陽香は紅潮させた顔を神作に向けて、叫ぶように言った。
「だって、永山先輩が送った機体が直接二〇二五年の爆心地に届いたとは限らないじゃないですかあ!」
上野秀則が厳しい顔で春木に言う。
「他に何か可能性があるのかよ」
「どうして決め付けるんですか。まだ分からないじゃないですか!」
涙目で上野をにらみ付ける春木に、神作真哉が尋ねた。
「永山が南米から新型機を送った同時刻や、その近い時間に、防災隊が他の場所に出動した履歴は見つからなかったんだろ?」
春木陽香はスカートの横で両手の拳を握り締めて言った。
「それは日本の防災隊です。まだ、他の国の防災隊の出動履歴は調べていません。もしかしたら、今までのタイムマシンのように、どこか別の国にワープしている可能性だってありますよね」
上野秀則が呆れ顔で春木に言った。
「司時空庁は、爆心地で発見された金属板に例の文言が刻まれていたと言ってるんだ。永山がリポートした文言がな。二〇二五年のあの場所に到達したのは、間違いないよ」
「でも、その金属板を確認したわけじゃないですよね。それに、永山先輩のリポートを聞いた後なら、文言を後から刻み込むことだって出来るじゃないですか」
神作真哉が春木を宥めるように穏やかな口調で言った。
「政府は二〇二五年の爆発直後から、あの金属板の文言を公表して、核テロ事件だと発表してきたんだ。十年前からな。その点は諦めろ。ハルハル」
スカートの横で拳を握ったまま両肩を上げた春木陽香は、首を左右に強く振った。
「でも、何か、何か見落としているはずです。私、絶対に諦めません!」
彼女はドアの方へと駆けていった。永山哲也は黙ってその背中を見ている。
腕で涙を拭きながら出て行く春木を心配そうに見ながら、入れ替わりで重成直人が部屋に入ってきた。部屋の中に視線を移した重成直人は、外のフロアを指差して言った。
「おい、お三方。またテレビで面白いニュースをやってるぞ」
上野と神作、永山の三人は顔を見合わせた。
「今度は船だ。奴さんたちが絡んでいるかもしれん」
その重成の言葉を聞いて、三人は慌てて部屋から出て行った。
フロアでは、今朝のように記者たちが旧式の薄型テレビを囲んでいた。しかし、駆け出していく記者は誰もいない。神作真哉と永山哲也は記者たちの後ろからテレビを覗いた。
記者たちを押し退けて前に出た上野秀則は、テレビの画面を見て口を開ける。
画面には、海上を移動する黒焦げの大型船を空撮で捉えた画が映っていた。その黒焦げの大型船の甲板はひどく損傷していて、無数の大穴が開いている。操舵室と思しき場所は焼け爛れた土台しか残っておらず、船上に横たわっている遺体であろう部分にはモザイク処理が施され、隠されていた。撮影用ドローンのプロペラ音と共にカメラが船の甲板に近づくと、画面はモザイクだらけになった。
首を伸ばして記者たちの頭の上からテレビを覗いている神作に、重成直人が言った。
「オーストラリア船籍の貨物船が合同海軍と戦闘の末、拿捕されたそうだ。フィリピン海沖で」
「戦闘? 貨物船が最新鋭海軍と喧嘩ですか?」
神作真哉は眉を寄せる。重成直人は頷いて答えた。
「どうも、中に乗っていたのは重武装した戦闘要員だったらしい。見ての通り、かなり激しい戦闘だったようだから、おそらく武器弾薬も満載だったんだろう」
記者たちの間を抜けて出てきた上野秀則が重成に尋ねた。
「すると、この貨物船の正体は、傭兵部隊か何かの密航船ってことですか」
「でしょうね。『臨検した』と報じていますが、どう見ても攻撃作戦の遂行ですからな」
神作真哉がテレビ画面を他の記者たちの頭の上から覗きながら言った。
「あの海域で合同海軍の臨検に引っ掛かったのなら、ただの密航船じゃないな……」
永山哲也も重成に尋ねた。
「どこから、どこに向かう船だったんです?」
「どこに向かっていたのかは知らんが、出港したのは日本だそうだ。
重成の答えを聞いて、神作真哉と上野秀則が顔を見合わせた。
テレビではニュースキャスターが原稿を読み上げている。
『……というコメントを発表しました。続いて、オーストラリアのギブソン大統領の会見です』
画面が切り替わり、演説台を前にしてコメントを読むスーツ姿の男が映った。同時通訳が彼の言葉を邦訳する。
『我が国の海軍が、今回の作戦で合同海軍の中心的役割を担えたことは、名誉に思う。今後も、我が国は国際社会の一員として、各国と連携し、法と秩序の維持にのために……』
重成直人が永山に小声で言った。
「千佳ちゃんがネット上で、この船に乗っていたのはASKITの兵隊たちだったという書込みを見つけた。それで急いで調べてみたんだが、どうも、この船が日本を出港したのは、昨日AB〇一八の施設で哨戒訓練が開始された時刻の数時間後のようだ。もしかしたら、この船に乗っていたのはAB〇一八の施設内にいた傭兵たちかもしれんな」
神作真哉はテレビを見たまま首を傾げた。
「どういうことなんだ? 諸外国がASKITに反旗を翻したってことか……」
ニュースの画面が再び空撮映像に切り替わり、黒い煙をあちこちから昇らせながら曳船に曳かれていく一隻の貨物船が映し出された。今度は距離を置いて撮影されていて、船の全体像が分かる。それは並航している巡洋艦と比べても、かなり大きな貨物船であった。
記者たちの間から顔を出してテレビを見ていた上野秀則が、眉を八字にして言った。
「これ、貨物船なのかよ。ほとんど軍艦じゃねえか。なんで大砲や機関砲が付いてんだ」
上野の周囲に立っている記者たちがテレビを見ながら話している。
「しかし、半端ねえヤラレっぷりだなあ。ボコボコじゃねえか」
「船内から生存者を探すと言っても、これじゃ全滅だな。滅茶苦茶にやられてるもんな」
「親父の跡を継いで船乗りにならなくて良かったあ。鉢合わせた海軍さんから、こんなにされたんじゃ、たまったもんじゃないからな」
永山哲也は怒りに満ちた目で、記者たちの後ろからテレビの画面を見つめていた。彼はズボンの横で拳を強く握っている。それに気付いた神作真哉が永山の肩を叩いて言った。
「おい、永山。これは国際部のネタだからな。おまえは、明日は休日。休日はちゃんと父親しろ。いいな」
「いや、でも、これは絶対に今回の件と関係が……」
「いいから、日曜は休め。祥子さんも機嫌が悪いんだろ」
「ええ……まあ……」
永山哲也は苦笑いしながら指先で顎を掻いた。
神作真哉は伸びをしながら言った。
「ふああ……っと。俺も明日は休みだから、アパートに帰るよ。おまえ、仕事に精を入れ過ぎると俺みたいになるぞ。休日を単身アパートで侘しく過ごしたくなければ、とにかく明日は家にいた方がいい。元父親だった男の勘だ。いいな。ちゃんと休めよ」
ギプスをした左手をあげて肩を回しながら、神作真哉は自分の席へと戻っていった。
「分かりました。じゃあ、そうさせてもらいます。すみません」
そう言った永山の肩を叩いて、重成直人も自分の席に戻っていく。
永山哲也は暫らくその場に立ったまま、テレビのニュース映像を見つめていた。
6
司時空庁長官の津田幹雄は長官室の応接ソファーに座り、立体テレビでニュース番組を見ていた。若手のアナウンサーが、民間の貨物船を合同海軍が戦闘の末に拿捕したと伝えている。津田幹雄は片笑んだ。
ドアが開き、タブレット型の立体パソコンを腰の横に抱えた佐藤雪子が入ってきた。彼女はソファーの近くまで来ると、テレビのホログラフィー画面を一瞥して言った。
「これじゃ、西郷社長が逃げ出すはずですわね」
津田幹雄は佐藤に尋ねた。
「そういえば、今朝、NNJ社が入っているビルが燃えたな。西郷が放火したのか」
佐藤雪子は首を傾げた。
「さあ。放火と言う情報は入ってませんわ」
「そうか。――で、どうだった。奥野の件で、検察の動きは」
「特捜部がようやく動き出したようですわ。相変わらず、腰が重いですわね」
津田幹雄は鼻で笑う。
「相手がASKITの手先と国防大臣と来れば当然だ。それで、その国防大臣は何と言っていたんだ」
「それが、バイオ・ドライブは発見できていないと」
津田幹雄は眉間に皺を寄せ、表情を一変させた。
「なんだと、発見できていないだと? どういうことだ。ちゃんと探しているのか」
佐藤雪子は津田の隣のソファーに腰掛けながら言った。
「もう一度しっかり探すそうですわ。明日は現場の兵士を総動員して探させるとか」
津田幹雄は強く自分の膝を叩く。
「くそ。何をしているんだ。あのドライブが見つからんと始まらんじゃないか。もし何も見つからなければ、私も君も一巻の終わりだぞ」
「あら大変」
佐藤雪子は茶化すようにそう言った。
津田幹雄は熱心に語り続ける。
「もうNNJ社は再起不能だし、AB〇一八はこちらの手中にある。今や奥野大臣は梯子を外された状態だ。逮捕を避けるために私に縋ってくるに違いない。そうなれば、国防軍が警備しているIMUTAも手に入るかもしれん。新日の連中も、奥野の記事を出してくれて、おまけに
手を広げて興奮気味に語る津田に、佐藤雪子が穏やかな口調で言った。
「見つからない場合も想定されておかれた方がよろしいのでは?」
彼女は静かに津田の前にタブレット型の立体パソコンを置いた。その立体パソコンの上には二枚の写真画像が平面ホログラフィーで立体表示されている。宙に浮いたその二枚の写真を指差しながら、佐藤雪子は言った。
「一昨日の夜の撮影ですから、彼らがデータを無くしたボヤ騒ぎの直後の画像ですわ。どちらかの中身が、例の田爪博士の研究データのコピーかもしれませんわよ」
津田幹雄は画像を見ながら鼻に皺を寄せた。
「永山の奴、やっぱり田爪博士からデータのコピーを貰っていたんだな」
「こちらの回収も、されますでしょう?」
「もちろんだ。そのコピーデータは、今、どこにあるんだ」
「探させましょうか」
津田幹雄は少し間を空けてから答えた。
「いや、待て。西郷と奥野の件で検察が動き出したのなら、あの記者たちの周りにも捜査官が張り付くはずだ。特に土日だ。記者の休日の行動を探って、バックにいる政治家を特定しようとするはずだからな。それに、休みの日は皆、自宅に居るかもしれん。どうせ家捜しすることはできんのだ。今は手を出すな。こういうチャンスの時こそ慎重に行動せねばならん」
佐藤雪子は深く頷いた。
「では、月曜ですわね。記者たちが出社した後に」
「それがいい。――それより、松田君はどうした。まだ見つからんのか」
「ええ。長いランチですわね。もうすぐ、丸二日になりますわよ」
津田幹雄は割れた顎を触りながら言った。
「木曜の午後からだな。誰かに殺されたか……」
佐藤雪子は津田の目を見つめて言った。
「彼の捜索はこのまま続けさせますの?」
津田幹雄は即答する。
「いや、もういい。今は無駄なことに人員を割いている余裕は無い。やったとしたら、たぶんASKITの連中だろう。君も気をつけたまえ」
佐藤雪子は笑みを浮かべながら、頭を津田の肩に寄せた。
「私は長官のご自宅にお邪魔させていただいてますので、安心ですわ」
津田幹雄は頬を緩めて言う。
「それは、庁内では口にしない約束だろう。ふふふ」
佐藤の髪を撫でてから立ち上がった田津幹雄は再び厳しい顔に戻すと、窓の方に歩いていきながら佐藤に指示した。
「とにかく、奥野の所に人を送って、もう一度よく探索するように伝えさせろ。明日取り掛かるなどと呑気なことを言っていないで、明日の朝までに見つけるように言うんだ。全ての兵士に徹夜させてでも探させろと」
窓辺に立った津田幹雄は、そこから官庁街を眺めながら顔を気色ばませた。
「もうすぐだ。もうすぐ、これらが全て私の物になる」
彼はスラックスの横で強く拳を握っていた。
二〇三八年八月二十二日 日曜日
1
資料室の窓から朝日が射し、机の上にうつ伏せている若い女の頬を照らした。目を細めて体を起こした春木陽香は大きく
洗面を終えた春木陽香は、メイクを洗い流したばかりの顔に再び薄くファンデーションを載せた。鏡の前で髪を整え、服の皺を伸ばしたりスカートを少し廻してまっすぐにしたりして身形を整えると、上の階の社員食堂に向かう。
日曜の朝の社員食堂は空いていた。ガラリとした広いスペースに幾つも並ぶ丸い大きなテーブルには、何人かの当直明けの新聞記者たち座っているだけである。
春木陽香は四角いトレイを手に取ると、厨房の前のカウンターに沿って歩き、軽食コーナーでコーヒー一杯とワッフルを一つ注文した。清算用のマネーカードチェッカーに社員証のIC部分を翳し、後払いの清算を終えた。続いて、カウンターに置かれた紙コップとワッフルをトレイに乗せ、そのトレイを持って窓際に移動する。天井から床までの大きな窓に沿って走るカウンター席には誰も座っていない。彼女はカウンターの中央の席にトレイを置き、高めの丸椅子の足載せに
「はー。絶対に何か見落としてるはずなんだよなあ……」
ビニール製の袋を手に取った春木陽香は、袋からワッフルを取り出しながら言った。
「どうして、みんな決め付けるかな。永山先輩が送ったタイムマシンは、どこか別の所に行ってるかもしれないのに」
袋から半分だけ外に出たワッフルをカプリと齧った春木陽香は、咀嚼しながら考えた。
この事件の始まりは単純だった。司時空庁から流出した謎の論文データを、弁護士の時吉浩一が新日風潮社に持ち込んだのが、春木たちが事件を追う端緒だった。春木たちは、その論文の作者『ドクターT』の正体を探った。そして、その論文内容から、タイムマシンに重大な欠陥があり、その発射が失敗している可能性を見つけた。春木たちは、タイムマシンの発射を阻止するため、重要証人である論文の著者『ドクターT』の特定と探索に奔走した。その過程で国のタイムトラベル事業に南米戦争が関係していて、多くの利権が絡んでいることも突き止めた。やがて、『ドクターT』の正体が田爪瑠香であることが判明した。春木たちは、田爪瑠香が司時空庁によってタイムマシンに乗せられて実験の名目で抹殺されようとしていることを知り、彼女を救出しようとタイムマシン発射施設に潜入した。しかし、救出には失敗し、瑠香はマシンと共に消えた。一方、南米で噂になっていた謎の科学者を探っていた永山は、ついにその科学者と接触。その科学者は十年前に失踪した田爪健三博士であった。その田爪健三が日本から到着していたタイムマシンの搭乗者たちを処刑していたことを聞き出した永山は、それをレポートして本社に送った。その後永山は田爪の指示に従い、難民スラム付近の山小屋から、田爪健三がAT理論を修正して新たに作ったという卵形のタイムマシンを日本に向けて発射させた。中に田爪健三の研究成果のデータを記憶させた「バイオ・ドライブ」を乗せて。ところが、帰国した永山は司時空庁によって自宅に軟禁されてしまった。後日、時吉浩一弁護士の協力と春木たちの奇策により救出された永山は、時吉弁護士、神作と共に自ら司時空庁に出向き、津田長官と対峙して情報開示の交渉をした。その際に彼らは津田長官から、永山が送ったタイムマシンが南米戦争勃発の原因となった二〇二五年の核テロ爆発の本当の原因だったと聞かされる。そして、それは同時に、津田が司時空庁のタイムマシン事業に必要な資源を獲得するために南米戦争勃発を企画したということを裏付ける事実でもあった。さらに、二〇二五年に爆発現場から回収され司時空庁の地下に保管されていた「バイオ・ドライブ」は、日本のタイムマシン技術を狙っている国際秘密結社ASKITに奪取されていた事実も判明した。
「で、津田長官は、自分の失態を隠すために、世界中が欲しがっている『バイオ・ドライブ』を誰よりも先に手に入れて、その中の科学技術情報を盾にして、自分に有利な状況を作り出そうとしている。うん。そういうことよね。簡単に言うと」
春木陽香は、コーヒーを啜った。そして、反対の手に持ったワッフルを動かしながら、窓に向かって一人でブツブツと説明を続ける。
「津田長官としては、永山先輩が送ったマシンのせいで爆発が起きて、当時は、それがタイムマシンだとは分からなかったので、僕は悪くありませーんって言いたいのよね。こっちは、それは嘘でしょって言いたい。分かってたはずでしょ、南米戦争はあなたが意図的に誘発させましたねって。だから、津田長官は私たちよりも先に、タイムマシンの設計図なんかが入っている『バイオ・ドライブ』を回収しようとしてる。こんな物を二〇二五年に回収していたのなら、それがタイムマシンで、しかも未来から来たものだって分かっていたでしょって証拠になっちゃうから。そうよね。うん、うん」
ワッフルを齧った春木陽香は顎を動かしながら、窓の外の昭憲田池とその手前に見える
「ストンスロプ社は関係なかったのよね。有働代議士も事業の裏で甘い汁を吸っていただけ。なんだろなあ、何か抜けてるのよねえ……」
首を傾げてからコーヒーを啜ると、紙コップを手に持ったまま、再び独り言を続けた。
「
春木陽香は手に持っていた残りのワッフルを一気に口の中に押し込んだ。頬を膨らませて咀嚼を繰り返しながら、眉間に皺を寄せ、考えを廻らせる。独り言は続いた。再び乾いてきた口の中にコーヒーを注ぎ込んだ。紙コップを顔の前から下ろしながら目の前の窓に何気なく目を遣ると、遠くの席からこちらを見てヒソヒソと隣人と話している記者たちの姿が反射して映っていた。社員食堂の片隅で独り窓に向かって語りかけていた自分に気付いた春木陽香は、慌てて残りのコーヒーを飲み干すと、その記者たちに背中を向けたまま椅子から降り、少し顔を赤くしながらコソコソと返却口に向かった。
彼女が背伸びをして、紙コップとワッフルの包み紙を乗せたトレイを返却口の一番上の棚に乗せていると、後ろから記者たちが囁く声が聞こえてくる。
「仕事し過ぎちゃうと、ああなっちゃうんだな。かわいそうに……」
「いや、流行の『イヴフォン病』じゃないか。イヴフォンの通話でもないのに、幻覚とか幻聴を相手に独り言を話しちゃうっていう」
「ああ、あれかあ。でもそれ、高齢者に多い症状だろ。あの子まだ若いのに、気の毒に」
少し涙目になった春木陽香は、厨房の方に顔を向けたまま速足で出口へと移動し、社員食堂から逃げるように去っていった。
2
総合空港の出国ロビーは、今朝も多くの旅行客で賑っている。人ごみを掻き分けながら大きなスーツケースを引きずった西郷京斗が速足で移動していた。燻し銀の洒落たスーツを着てはいるが、彼の髪は乱れていて、ネクタイも曲がっている。顔面は蒼白で、目には涙を、額には玉の様な汗を浮かべていた。西郷京斗は後方を何度も振り返りながら、前の客を押し退けて、搭乗手続きカウンターへと向かう。
途中で立ち止まった西郷京斗は、再び背後を確認し、続いて左右を確認した。首を伸ばして辺りを見回し、自分が予約した航空会社のカウンターを探す。航空会社の表示板を高い位置に見つけた彼は、その下のカウンターに向けて急いで進んだ。真っ赤なスーツケースを重そうに引きずりながら、前の人間を押し退けて進む。カウンターの近くで顔を上げた西郷京斗は、急停止して体の向きを変えた。横目で先を覗く。そのカウンターの前には数人の背広姿の男たちが立っていた。彼らはこちらに背を向けて、カウンターの向こうの航空会社職員から熱心に話を聞いている。くるりと反転した西郷京斗は、下を向いて顔を隠しながら、目立たないように細心の注意を払って、元来た道を速足で戻っていった。そのままエレベーターへと走り込む。
辺りを見回しながらエレベーターから降りてきた西郷京斗は、外への出口に向かった。
彼は目に涙を溜めて、震える口で呟いていた。
「嫌だ。捕まりたくない。捕まりたくない。刑務所は嫌だ。捕まりたくない。……」
出口の自動ドアを通った西郷京斗は、シャトルバスの専用道路の向こうに立つ二人の背広姿の男を視界に捉えた。二人とも背広姿であるにもかかわらず、鞄を提げておらず、片方の耳を不自然に手で押さえて口を動かしている。そして時折、鋭い目つきで辺りを見回していた。その一人と目が合った。西郷京斗は慌てて顔を逸らすと、後ろを向き、もう一度自動ドアを通って空港ビルの中に戻る。数歩進んだ彼が少しだけ振り向いて後方を確認すると、自動ドアのガラスの向こうに、強引にバスを停めて道路を横断して来るさっきの背広姿の二人組の姿が見えた。西郷京斗は咄嗟にスーツケースをその場に放棄して、建物の奥へと走り出した。広いロビーを全速力で走ると、エスカレーターに乗り、他の乗客を押し退けながらそこを駆け上がる。上階に出た西郷京斗は素早く左右を見回した。左の方から別の背広姿の男たちが人ごみをかき分けて走って来る。西郷京斗は振り返り、自分が上がってきたエスカレーターの下を覗いた。下から、さっきの二人組みの男たちが乗客たちをかき分けて駆け上がって来ていた。西郷京斗は右へと走り出した。歩いている旅行客の間を縫うように走り続けた彼は、土産物を売っている角の店の前で急停止し、その角から先を確認した。人ごみの向こうに、走ってくる数人組みの背広姿の男たちが見えた。少し考えた西郷京斗は、店の前の商品陳列棚の棚板を下から持ち上げてひっくり返した。棚に積んであった土産物が散乱し、周囲の女性客が驚いて悲鳴をあげる。
西郷京斗は、大声で叫んだ。
「爆弾だ。爆発するぞ、逃げろ!」
それを聞いた周囲の客たちは、一斉に騒ぎ始めた。皆、そこから走って避難しようとする。フロアは大きく混乱した。西郷を追っていた刑事たちは、我先にと駆け出す群衆に阻まれて前に進めない。西郷京斗は、その混乱に乗じて人ごみに紛れた。身を低くして移動し、壁の前まで来ると、更に腰を曲げて壁沿いを進み、行き当たったドアを開けた。中を覗き、急いで身を入れる。ドアを閉めた彼は、その先に続く廊下の奥へと走っていった。
人ごみの中で冷静に西郷を探していた赤上明が大声で叫んだ。
「そこの職員用の連絡通路だ。出口に回れ!」
背広姿の公安部の刑事たちが、それぞれの方角に走っていく。
赤上明は逃げ惑う客を肩で押し退けながら、そのドアへと向かった。
西郷京斗は廊下の途中にある職員更衣室の中に飛び込んだ。室内に並べられたスチール製のロッカーの間を走り、一番奥のロッカーの隅に身を隠す。呼吸を整えようとしたが、強い動悸が止まらない。足も震えていた。それがただの筋肉疲労ではないことは彼にも分かっている。西郷京斗は小刻みに動く腿を押さえながら、ロッカーの角から頭を出し、出入り口の方を覗いた。ドアが閉じられていることを執拗に確認しながら、彼は苛立ちを声にして漏らす。
「くそお。どうしてラングトンは助けてくれないんだ。これじゃ、飛行機は無理だ。船で逃げるしかないじゃないか。船は苦手なんだぞ。チクショウ、嫌だ、捕まりたくない。捕まりたくないよお」
髪を掴み、身を丸める。
すると、彼の肩を男の手が軽く二度叩いた。西郷京斗が驚いて顔を上げると、目の前に白いスーツ姿の男が立っていた。その男の顔には、片方の目の上から頬にかけて大きな刀傷がある。
男は薄っすらと笑みを浮かべて、西郷に言った。
「港も押さえられていますよ。船も無理ですな。我々の方でチャーター機を用意しましたが、逃げるのなら、それでどうです?」
「ヒッ」
男の冷徹な隻眼を見た西郷京斗は、慌ててその場を立ち去ろうとした。刀傷の男は西郷の背広の襟を掴んで引き戻し、そのまま彼を壁に押し付ける。
「おまえを連れてくるように言われたんだ。面倒をかけるなよ」
そう溜め息と共に言った彼は、西郷の耳元に顔を近づけて、低い声を放った。
「閣下がお呼びだ。呼ばれたら、すぐ行く。それが礼儀だろう」
それを聞いて一瞬凍りついた西郷京斗は、再び抵抗して逃げようとした。刀傷の男は西郷の顔面に一撃を加えると、胸ぐらを掴んで更に強く壁に押し付ける。そして、白いスーツの中から銀色のリボルバー式拳銃を取り出した。男は慣れた手つきで拳銃の撃鉄を下ろすと、その銃口を西郷の顎先に押し付けて言った。
「ところで、俺は別に『生きたまま連れて来い』とは言われていないんだが、さあ、どうする?」
刀傷の男は西郷を睨みながら、冷酷な笑みを浮かべた。
3
「さてと、もう一度、読み直してみますか」
資料室に戻り、再び机に座った春木陽香の目の前には、立体パソコンから投影された接触式ホログラフィーの小さな新聞記事が横一列に幾つも並んでいた。彼女はそれを指先で左から右に流すと、一番左端の小さなホログラフィーに軽く触れて、それをアクティブにした。外枠が青い線で覆われたそのホログラフィーの上で、合わせた親指と人差し指を広げると、その記事が原寸大に拡大されて中央に表示される。宙に浮いている新聞紙のホログラフィーに顔を近づけながら、春木陽香はその記事を丹念に読み返し始めた。すると、彼女のブラウスの胸元に装着していたイヴフォンの小さなランプが点滅し、彼女の脳の聴覚野に呼び出し音を響かせた。春木陽香は、ホログラフィーの新聞記事の前から顔を引いて、自分の視界に表示された発信者の表記を確認した。彼女の視界の中央には「山野編集長」という文字が浮かんで見えている。
春木陽香は、さっき食堂で聞いた記者たちの言葉を思い出した。一度頭を振って、強く瞬きしてみる。しかし、文字も呼び出し音も消えなかった。
「よし。幻覚でも、幻聴でもないな。大丈夫、大丈夫」
春木陽香は周囲を見回して、資料室の中に他に誰もいないことを確認してから、着信に応答した。
「通話オン。――はい、春木です」
『おはよ、虹パ……じゃなかった、ハルハルのお姉ちゃん』
聴覚野に届いたガラガラ声と同時に、春木陽香の視界に迷彩服姿の山野朝美の姿が映し出された。
「あれ、朝美ちゃん? どうしたの? イヴフォン、買ってもらったの?」
『ん、ママのイヴフォンを借りて掛けてる。うちのウェアフォンからだと、音声しか送れないでしょ。イヴフォンとウェアフォンじゃ、立体通話できないから』
「うん、それは分かるけど……」
『立体通話じゃないと、フインキ出ないじゃん。ま、こっちは借り物だけど、中学生だから我慢する』
「雰囲気ね。でも、なんか……」
春木陽香は、目の前に見えている三つ編みのお下げ髪に迷彩服を着た少女が気になって仕方がない。もちろん、通話の相手である朝美が今その恰好をしている訳ではなく、永山宅の隣家で出合った時の朝美の格好が強烈に印象に残っていて、春木の脳裏に焼きついたその記憶映像をイヴフォンが彼女の脳の視覚野に再現しているのだということは、彼女自身も理解していた。しかし、その
『あのね、お姉ちゃん。数学の宿題でね、中一レベルコースで七十点を採ったよ。ギリギリクリア、イヤッホオイ!』
「ホント? よかったね。すごいじゃん」
陽香は素直にそう言った。自然に出た言葉だった。なぜだか分からないが、彼女も嬉しかった。
ところが、朝美は少し拍子抜けしたような様子だった。彼女は陽香に尋ねた。
『あれ、朝美ちゃんは中三でしょとか、言わないんだ』
「自分で立てた目標が達成できたんだから、よかったじゃない。頑張った、頑張った」
陽香は年上らしく冷静を装う。少し間を空けてから、朝美は応えた。
『でしょ。いやあ、やっぱり、お姉ちゃんに電話してよかったわ。ママに言ったら、だからどうしたとか、今頃中一かとか、うるさい、うるさい』
陽香は笑みを浮かべながら、朝美に諭した。
「お母さんは、朝美ちゃんを信じてるんだよ。中二、中三レベルも出来るはずだって」
『そうかなあ……』
朝美の声の後ろから、山野の叫ぶ声が聞こえた。
『朝美い、早くしなさいよ。行くわよ』
陽香は朝美に尋ねた。
「お出かけ?」
『うん。これからパパのアパートに掃除しに行くの。男モメモメには虫が出るんだって』
陽香は一瞬考えて、冷静に朝美に話した。
「たぶんそれは、『
『ああ、ヒヒだね』
「
反射的に朝美の発言を修正した春木だったが、ちょっと考えてみた。すると、鈍い打撃音が響いた後、また山野の声が聞こえた。
『早くしなさいって』
『あ痛あ……。じゃ、切るね。とにかく、お姉ちゃんに教えてもらった、マイナスかけるマイナスで第一肛門を突破できた。ありがと』
陽香は慌てて必死に修正した。
「関門だよ、関門。カ、ン、モ、ン」
上機嫌の朝美は、それを聞き流して、嬉しそうに話を続ける。
『また今度も教えてね。数学、面白くなってきたから』
「うん。いいわよ。ほら、早く行かないと、お母さんにもう一発食らうよ」
『うん。じゃね。お姉ちゃんも、色々と頑張ってね』
「うん、ありがと。それじゃ」
視界から朝美の姿が消えた。春木陽香は脱力して呟いた。
「今頃、中一レベルかあ……大変だなあ」
少しの間、椅子に凭れて天井を眺めていた春木陽香は、座り直して姿勢を正すと、両手に握った拳を胸の前に持ってきて、力強く念じるように呟いた。
「いや、諦めるな朝美ちゃん。頑張れ!」
椅子を引いて再びホログラフィーの新聞記事に顔を近づけた春木陽香は、記事を目で追いながら言った。
「よーし、私も頑張るか。朝美ちゃんもプラス・マイナスの計算から頑張って……」
彼女の動きが止まる。横を向いて記事から目を放した春木陽香は、誰もいない資料室で独り言を発した。
「プラス・マイナス……。プラス・マイナス。マイナスの計算……。マイナスとマイナスはプラス。ひっくり返して、プラス。ひっくり返して……」
春木陽香は口を開けて立ち上がり、慌てて左右を見回した。そして、資料検索用の古い端末を見つけると、バタバタとそこへ駆けて行き、その前で立ったまま腰を曲げて、急いでキーボードを叩き始めた。独り言を発しながら。
「マイナスとマイナスでプラス、マイナスとマイナスでプラス……」
画面に表示された文献の開架番号と位置を確認した春木陽香は、立ち並ぶ本棚の列の間へと走っていった。
4
永山哲也の家の北側で、大工が一人で木塀の修理をしている。家の裏手は日陰ではあったが、夏の暑さは変わらない。汗を垂らしながら電動ドリルの音を響かせている大工に、永山祥子が冷たい麦茶を運んできた。
「お疲れ様です。暑いでしょうから、これ、どうぞ」
電動ドリルを止めて下に置いた大工は、首に掛けたタオルで汗を拭いながら、言った。
「ああ、どうも。奥さん、すみませんね」
大工は水滴がついたコップに手を伸ばしたが、家の中からチャイムが聞こえて、コップを載せたお盆を持ったまま祥子が振り返ったので、大工はコップを取り損ねた。ドアが開いたままの勝手口から家の中に向けて祥子が大きな声を送る。
「はあい。ちょっとお、あなたあ。誰か来たわよ。出てよ」
家の表の方から永山哲也の大声が返ってきた。
「今すぐは無理だあ。宅配便だよ。受け取ってくれえ」
祥子は勝手口から中を覗いて言った。
「ちょっとお、由紀い。居ないの。宅配便だって。受け取ってちょうだい」
軽快なリズムの音楽と共に永山由紀の声が聞こえた。
「こっちも取り込み中」
祥子は溜め息をついた。
「はあ……もう、しょうがないわねえ。すみません。ここに置いておきますから、自由に飲んで下さいね。暑いでしょうから」
「ああ、どうも。悪いね、奥さん」
永山祥子は麦茶が注がれたコップを乗せたお盆を、脚立の上に掛けられた細い板の上に置いて、勝手口から中に上がっていった。細い板の上に、麦茶を入れたガラス製のポットとコップを載せたお盆が、絶妙なバランスを保って置かれている。大工はポットとコップのどちらを先に取るべきが迷いながら、戸惑っていた。
玄関に駆けて行った祥子は、宅配業者から小さな箱の荷物を預かった。宅配業者は真新しい玄関ドアを不思議そうに見回しながら丁寧に閉め、帰っていった。祥子はその小さな箱に貼られた伝票の送り主の欄を見た。
「司時空庁……ああ、あの人のイヴフォンね。まったく、自分の物なら自分で受け取りなさいよ」
祥子はサンダルを履いて、その真新しい玄関ドアを開けた。すぐ横の庭木の隣に梯子が掛けてある。祥子は梯子の上に向かって大きな声で言った。
「あなたあ、あなたのイヴフォンが帰ってきたみたいよ。開けていいの?」
脚立を一直線に立てた梯子の一番上と横の太枝に足を掛けて剪定バサミを握っている永山哲也が、タオルを巻いた頭を少しだけ振り向かせて答えた。
「ああ……いや、一応、調べるから、二階の僕の書斎に置いておいてくれ」
祥子は返事もせずに振り返ると、スタスタと玄関の中に戻り、少し強めに玄関のドアを閉めた。彼女は不機嫌そうな顔で言った。
「もう。何なのよ、ホントに。あの態度」
サンダルを脱いで上がった永山祥子は、少し荒めに足音を立てながら、箱を持って二階に移動する。
永山哲也はバランスを取りながら枝から梯子の上に体重を移すと、剪定バサミを右手に握ったまま、下を見ながら慎重に一段ずつ梯子を下りてきた。梯子の足下には、切り落とした小枝や葉が散らばっている。梯子の途中からそこに飛び降りた彼は、剪定バサミを木の根元に立て掛け、頭からタオルを外した。そのタオルで、体中に付いた木屑や葉っぱを払い落とす。首筋は真っ赤に日焼けし、肩の上まで捲くったTシャツは汗で体に張り付いていた。タオルを振って屑を落とした永山哲也は、額に玉のように浮かんだ汗と顎から首筋に垂れる汗をタオルで拭きながら、リビングのガラスサッシの前へと移動した。腰を叩きながらリビングの中を覗くと、サッシの向こうのクーラーが効いた部屋の中で、半袖に短パン姿の由紀が踊っていた。彼女の前のリビングテーブルには立体パソコンが置かれていて、その上に浮かんだホログラフィーの『イノウエくん』が、由紀をリードして踊っている。赤いジャージ姿の中年男『イノウエくん』は、由紀と一緒に腰をくねくねと動かしていた。リズムに合わせて、時々歯茎を見せる。
永山哲也は首を傾げてからサッシを開けた。
「おーい、由紀い。何か『冷たい物』を持ってきてくれよ」
ピタリと停止した由紀は、永山の方に顔を向けると、立体パソコンのホログラフィーと音楽を消して、無言のまま台所へと駆けていった。冷蔵庫を開け閉めして戻ってきた由紀は、サッシの所に腰を降ろした永山にそれを手渡した。
永山哲也はそれを受け取って言う。
「いやあ、冷たい、冷たい……って、これ冷凍餃子じゃないか! 飲み物だよ、飲み物。見ろよ、父さん汗だくだろ」
由紀は冷凍餃子のパックを受け取りながら、口を尖らせた。
「だってお父さん、『冷たい物』って……」
「麦茶か何かあるだろ。喉がカラカラなんだ。脱水症になっちゃうよ」
由紀は再び台所に駆けていき、冷蔵庫を何度も開け閉めすると、今度はコップに注がれた麦茶を持って永山の所にやってきた。永山哲也は黙ってそれを受け取ると一気に飲み干し、空になったコップを由紀に渡した。コップを受け取った由紀は再び台所に走ると、すぐに戻ってきて、また麦茶が入ったコップを永山に手渡した。永山哲也はまたそれを一気に飲み干し、由紀に渡す。由紀は再び台所に駆けていった。
永山哲也は由紀に言った。
「普通のコップに注いで来いよ! それはウォッカを飲む時に使う奴だろ。なんで、そんな小さいのに注いでくるんだよ」
台所で麦茶が入った容器を手に持っていた由紀は、こちらを向いてニヤリと笑った。そして、今度は普通の大きさのガラス製のコップに麦茶を注ぐと、それを永山の所に持ってきた。受け取った永山哲也は、ようやくまともな麦茶が手渡されたことに安心して、それを一口飲むと、長めに息を吐いた。そのまま、狭い庭を見回す。切り落とした枝葉が散乱していた。塀の前の地面には雑草が茂っている。司時空庁から監視されていた間、自宅周囲の塀の上には熱線レーザーと動体感知センサーが張り巡らされていたので、センサーの感知範囲である塀の近くには近づくことが出来なかった。それで、放置されたその範囲の雑草たちは夏の日差しの下で見事なまでに成長していた。永山哲也はコップの麦茶を三口で飲み干すと、フローリングの床の上に空のコップを置いた。両膝を強く叩いてから立ち上がり、自分を鼓舞する。
「よし。やりますか」
永山哲也は、肩から取ったタオルを広げて頭に巻きながら、床の上のコップを取りに来た由紀に小声で話しかけた。
「お母さん、まだ怒ってるのか」
由紀は小声で永山に耳打ちした。
「当たり前じゃん。せっかく司時空庁さんの監視から解放されたのに、お父さんが突然、実家に帰るとか言うから、玄関とか二階の工事業者の人たちが帰ってからバタバタと荷造りして出かけて、向こうでお父さんの親戚とかに気を使って、疲れて帰ってきたら旅行荷物の片付けして、洗濯が済んだなあと思ったら、お父さんの南米の荷物がドッと送られてきて……」
永山哲也は、また小声で由紀に言った。
「水曜まで片付けてくれなかったもんな」
「そりゃそうだよ。それにお父さん、出勤していきなり、今週もずっと帰りが遅かったでしょ。ようやく週末が来たと思ったら、お父さん、昨日も仕事だったし。裏の塀の大工さんの手配とか、ご近所さんへのお菓子配りとか、全部お母さんが一人でやったんだよ。そりゃ、機嫌悪いよ」
「父さんも忙しかったからなあ。職場で火事騒ぎがあったり」
「朝美んとこのオバちゃんが充電されたやつでしょ。朝美から聞いた」
「感電な。危なかったんだぞ、マジで」
「そうなんだ。でも、この一週間は、お母さんだって大変だったんだから。町内会のオバちゃんたちとかが、連日、暇つぶしにお茶飲みに来て、お父さんのこととか司時空庁さんのこととか、色々訊いてきたりしてさ」
「ったく。あの人たちは、興味本位で聞きたがるからな」
永山哲也は顔をしかめる。由紀は眉を寄せ、深刻な顔をしながら更に小声で言った。
「それより、樹英田町のお祖母ちゃん。怒ってるよ。昨日もお母さん、お祖母ちゃんと電話で喧嘩してたもん。親子喧嘩。マジなやつ」
「あ? マジか」
「うん。今日、行くんでしょ」
「ああ。裏の塀の修理が終わったらな。おまえも行くだろ?」
「うん。でも、恐いなあ……」
由紀は下を向いた。
永山哲也は少し笑いながら我が子に言う。
「礼儀をちゃんと教えてくれるのは、由紀の将来を考えてくれているからだよ」
「そうじゃなくて、たぶん、お父さんが南米からお土産を買ってこなかったからだと思うよ。お姑さんにはお土産を買ってこないと駄目じゃん」
永山哲也は腕組みをする。
「うーん。ちょっと違うと思うぞ。たぶん、解放されてから、すぐ近くなのに挨拶に行ってないからじゃないかな。お盆も父さんの方の実家に行って、お母さんの実家には顔を出さなかったし」
「行けなかったんでしょ」
永山哲也は由紀に顔を寄せた。
「お祖母ちゃん、真明教にはまっちゃってるだろ。父さんの所の新聞社、今その辺もいろいろと記事にしてるんだよ。行けば、喧嘩になっちゃうじゃないか」
「はまってるのかな。真明教のお寺がお祖母ちゃんの家のすぐ近くにあるから、近所付き合いで朝の『何とか会』に行ってるだけでしょ」
「近所付き合いで宗教に入るか?」
「家庭にいて地域社会との兼合いを保つっていうのは、いろいろ大変なんだよ。きっと」
永山哲也は大人びた発言をする由紀をまじまじと見た。我が子は庭の植木のように、いつの間にか成長していた。
その由紀が、ハッとした顔で手を叩いた。
「あ、はまってると言えば……」
由紀は台所の方をチラリと覗いて祥子が居ないのを確認すると、永山に言った。
「お父さん、ヤバイよ。お母さん、トッキーが貸してくれた『真夏のメヌエット』にドはまりしてるよ」
「まなつのめぬえっと?」
「今、オバちゃんたちの間で流行ってる『トナドラ』」
「なんだよ、『となどら』って」
「東南アジア・ドラマだよ。お父さん、知らないの?」
「ああ、東南アジア各国のテレビ局が合同で製作している、アレかあ」
「あれさ、話が変なんだよね。何故か設定は日本の話なんだけど、全員が浴衣着てたり、警官が刀を差してたりするんだよ。でも、お母さんはそれ見て、いつも大号泣だもんね。どうかしてる。ちょっと精神的にヤバイのかも」
「どんな内容なんだ」
「頑張っても頑張っても報われない主婦が困難と立ち向かう話。この前、私が見た第四十二話では、集中豪雨で床上浸水した家の中で、主人公の『優子さん』がバケツで必死に水をかき出してたら、その水が外で土嚢を積んでた旦那さんに全部掛かっていて、それにキレた旦那さんが床の間に飾ってある日本刀を取りに行こうとしたら、上流から流れてきたワニに食べられちゃった。日本でワニなんか流れてくるかっつうの。超ウケる」
由紀は自分の膝を叩いてゲラゲラと笑った。
永山哲也は怪訝そうな顔で由紀に尋ねた。
「それは、ドラマなのか? コントなのか?」
「ネット雑誌では、究極の恋愛ドラマってなってたけど、違うの?」
「旦那がワニに食われる恋愛ドラマなんて、あるか。間違ってるだろ、そのジャンルの分け方」
「とにかく、このドラマがオバちゃんたちには大人気なんだって。毎回、シーズンごとに旦那さんが死んで、優子さんが旅に出るんだそうですぞ。で、次のシーズンで再婚して、優子さんの困難が始まると、ま、こういう流れですな」
「どれくらいあるんだ、そのシリーズ」
「お母さん、シーズン・セブンまで全部見てるよ」
「そんなにあるのか。何回再婚すりゃいいんだよ、その『優子さん』」
「インターネットの情報によると、今回のセブンで優子さんが死んじゃって、完結の予定だけど、視聴率がいいので、『真夏のメヌエット・リターンズ』を製作中なんだって。優子さんがサイボーグになって戻って来るって書いてあった」
「どういう恋愛ドラマなんだ。父さんにはさっぱり分からん」
「これだから男は駄目だねえ。でも、もしかしたら、お父さんもお風呂にワニを入れられちゃうかもよ」
「なんだそりゃ」
永山哲也は首を傾げながら、日の照りつける庭に歩いていった。塀の横に腰を下ろし、雑草を抜き始める。すると、リビングの中から外の様子を見ていた由紀が声をかけた。
「お父さん、梯子とデカばさみ、仕舞っとこうか」
永山哲也は雑草を抜きながら答えた。
「あれは『剪定バサミ』って言うんだ。ああ、頼む。梯子を折り畳む時、指を挟まないように注意しろよ」
永山が話し終わらないうちに、玄関からサンダル履きの由紀が出てきて、剪定バサミと梯子の所に駆けて行った。
「お父さん、この『センテイバサミ』っていうの、洗っとくね」
永山哲也は、根を張った雑草と力比べをしながら、由紀に答えた。
「ああ……頼む……まったく、しぶとい、よいしょ。――ふう、抜けた」
顔に飛んだ土を払っている永山の後ろで、由紀がニヤニヤしながら、剪定バサミを家の中に持ち運んでいた。すると、リビングの開けたままのサッシの向こうから、祥子の声が響いた。
「あなたあ、春木さんから電話よ。あなたあ……」
永山は手を払って土を落としながら立ち上がり、返事をした。
「はーい。はい、はーい。聞こえてますよお」
頭から外したタオルで手を拭きながらリビングを見ると、祥子の姿はなく、奥のダイニング・テーブルの上に祥子のウェアフォンが置かれていた。
タオルを肩に掛けた永山哲也は、ズボンの汚れを気にしながら、履いていた運動靴を脱ごうとした。すると、階段から下りて来る由紀の姿が見えたので、彼女を呼んでそのウェアフォンを持ってこさせた。永山哲也は、土で汚れた手で妻の携帯端末を汚さないよう、指先でそっと触って持ちながら、それを耳の下に当てた。
「ああ、替わりました。永山です」
『あ、永山先輩ですか。私です、春木です。あの、すっごいことが分かりました。びっくりですよ。驚き、桃の木、山椒の木どころか、屋久島の天然杉レベルです』
「どうしたんだよ、興奮して」
『マイナスとマイナスはプラスです。プラスなんですよ』
「はあ?」
『とにかく、今から会社に出てこられませんか』
「今から?」
永山哲也は腕時計を見ようとしたが、庭仕事をするので外していたことを思い出し、リビングの掛け時計を見ようと視線をそちらに向けた。途中、台所で腕組みしている祥子の姿が目に入った。少し視界を戻すと、玄関の前から繋がる階段の途中から、由紀が台所の祥子に見えないように隠れながら、永山に向けて、手を交差させて必死にバツ印を作って見せたり、台所の方を指差したり、人差し指を立てて頭の上に角を作ったりしていた。台所に視線を戻すと、激しく食器の音を鳴らしながら洗い物をする祥子の姿が目に入った。
永山哲也はハルハルに答えた。
「いやあ、無理だなあ。ウチは今、プラスとマイナスでマイナスだ。ごめんな」
『はあ? 永山先輩、今、何をされてるんです?』
「庭仕事。剪定したり、雑草抜いたり」
『はい? に、庭仕事? 何やってるんですか、こんな時に! 今、大変な時じゃないですか! 永山先輩的に。ていうか、この国も。ピンチじゃないですか』
永山哲也は端末と口元を反対の手で覆いながら小声で言った。
「家庭的にもピンチなんだよ。今夜も僕だけ卵かけ御飯しか出ないかも。はあ……」
『そうですかあ。やっぱり、夏はバランスのよい食事をしなくちゃ……って、何を言うとるんですか。南米戦争を永山先輩のせいにされちゃうかもしれないんですよ。夕食の献立と、戦争責任のどっちが大事なんですかあ。よく考えて下さいよ、永山先輩!』
「夕食の献立かなあ。ああ、カラ揚げ食いてえー」
『この炎天下で庭仕事をし過ぎたんですか? しっかりして下さい』
「夏は無性にカラ揚げが食べたくなるんだよ」
『カラ揚げとバイオ・ドライブなら、どうですか!』
「今は、カラ揚げ」
『先輩!』
その頃、永山由紀は再び庭に出て、立て掛けてあった梯子を庭木から離し、狭い庭の真ん中まで移動させていた。
「よっ、ほっ、と、この辺でいいかな」
脚立の二つの梯子部分を、繋ぎ目を中心に百八十度に広げて直列させ一本にしてある梯子を、そのままバランスをとりながら庭の中央に持ってきて立てた由紀は、背伸びをしながら繋ぎ目の左のストッパーに手を掛けた。
「よっ。ここの……留め金を……押して……よし、外れた。うお、あぶね!」
リビングの方を向いてサッシの前で春木と通話している永山の背後で、由紀は倒れそうになった長い梯子を必死に支えた。
「ふう、あぶない、あぶない。お父さんの頭を直撃するところだった。よっ」
彼女は梯子を立て直す。
背後の状況に気付かないままウェアフォンで通話している永山哲也は、春木に言った。
「いやさ、家族にも大分迷惑を掛けちゃっただろ。休日にまで家庭を放っぽり出して出勤という訳にはいかないよ。それじゃ、本末転倒じゃないか」
『だけど、ご家族のためにも、今は頑張らないと……』
「そりゃ、必要があれば出て行くけど。例えば、例の工場だって今は閉鎖中だろ。平日でも日曜と変わらない状況だし、官邸だって正式に動くのは月曜からじゃないか。日曜が僕の出勤日なら別だけど、今日はせっかく取れた日曜日の休日だし、状況は今日が出勤日のシゲさんと千佳ちゃんと、うえにょデスクが確認してくれている。例のことは、心配は心配だけど、家庭のことも父親がやるべきことはちゃんとやらないといけないしね」
永山哲也は台所の祥子に目を遣った。祥子は永山に背を向けて、冷蔵庫の中を覗いている。永山哲也は腰を叩きながら話し続けた。
「大事な話はちゃんと月曜日に聞くよ。それとも、どうしても今日じゃないと調べられないとか、動かないといけないような話かい?」
『あ……いえ、別に明日でも大丈夫です。……』
「悪いね。ハルハルは休日出勤までして頑張ってくれいて、本当に申し訳ないとは思うけど。でも、働くこともそうだけど、その他の父親としての責任も果たさないといけないからさ」
『大変ですね、父親って』
「まあ、家族を守るのも、父親の仕事だからね」
永山の背後で、片方の手で梯子を支えてバランスをとっていた由紀は、背伸びをしながら、もう片方の手を精一杯に伸ばし、繋ぎ目の右の留め具に手を掛けていた。
「ぬっ、この……もう一つのストッパーも外せば……ほっ」
ジャンプした由紀が留め具を外した瞬間、縦に直立していた長い梯子は、中央の繋ぎ目の部分で「く」の字に折れて、繋ぎ目から上の梯子が由紀の背中の方に倒れてきた。
「むぎゅっ!」
折り畳まれた二個の梯子に勢いよく前後から挟まれた由紀は、声を上げると同時に脚立と一緒に地面に倒れた。
背後での凄まじい音に驚いた永山哲也は、一瞬、首をすくめたが、すぐに振り向いて、脚立に挟まれて倒れている我が子を見るや否や、リビングの床の上にウェアフォンを放り置いたまま彼女の所に駆けつけた。庭から響いてきた娘の声に反応して振り返った永山祥子も、食材を手に持ったままリビングまで駆けると、それらをリビングテーブルの上に置いて、裸足のまま庭に下りてきた。祥子が由紀の所に駆けつけた時、由紀は哲也が持ち上げた脚立の片方の足の下から這い出そうとしていた。
「イテテテ。ドジったあ……」
「アホか、おまえ。一旦倒してから地面の上で畳めよ。立てたまま畳む奴があるかよ。あぶないなあ」
呆れながら由紀を立たせている永山哲也の横で、祥子は胸に手を当てて目を閉じ、大きく息を吐いた。哲也は祥子の足元に目を遣りながら、由紀に言う。
「繋ぎ目の所で指を挟んでいたら、切断していたかもしれないぞ。『梃子の原理』は知ってるだろ」
「ああ、テコの原理ね。理科で習った。こういうことね。支点、力点、作用点と」
脚立の上を順に指差す由紀。それを見た祥子は、少し眉間に皺を寄せて由紀に言った。
「何言ってるの。理科で習ったことは日常で活かしなさい。ていうか、これ、梃子の原理以前の問題じゃないの。びっくりさせないでよね。もう」
「はーい。ごめんなさーい。――ああ! せっかく大きくなりかけた胸がペチャってなっちゃったかも! はああ、どうしよう、お母さん」
「馬鹿なことを言ってないで、早く着替えてらっしゃい。はあ、こっちも足の裏が真っ黒になっちゃったじゃないの」
祥子は片方の足を後ろに上げて自分の足の裏を見ると、溜息を漏らした。そして、由紀と共に真新しいドアの玄関へと歩いていった。
脚立を持ち上げていた永山哲也は、春木と通話中だったことを思い出し、脚立を置いてリビングのサッシの所まで移動した。床に置かれたままの祥子のウェアフォンを取って耳の下に当ててみたが、既に通話は切れていた。
「なんだ、切れたのか。――ん、うわっ、ヤベッ」
汚れた手で触った祥子のウェアフォンは必要以上に汚れていた。永山哲也は肩に掛けていたタオルを慌てて取ると、首を伸ばして祥子の所在を確認した。彼女は奥の風呂場で足を洗っている。永山哲也はこっそりとタオルでウェアフォンの表面を拭き、懸命に汚れを落とした。すると、家の裏手から回ってきた大工が角から頭を出して、永山に言った。
「ご主人、塀の修理が終わりましたんで、確認してもらえますか。お隣さんも出てきていますから」
「ああ、分かりました。今、行きます」
永山哲也はいい加減に畳んだタオルをリビングの床の上に置くと、その上に祥子のウェアフォンをそっと置いて、軽く髪を整えてから家の裏手へと回って行った。
リビングテーブルの上には、冷凍された鳥の腿身が一パックとカラ揚げ粉の袋が置かれたままだった。
5
神作真哉は、新首都の西の住宅街にアパートを借りている。その部屋は狭い。六畳一間の和室に四畳程度の台所と窮屈なユニットバスが在るだけである。築年数も古く、彼の年齢を超えていた。普段、神作真哉が仕事の合間で寝るために帰ってくるだけの用しか果たしていないその部屋を、今日は山野紀子と朝美が掃除している。紀子がシンクで洗い物をしていて、朝美は溜まったゴミを仕分けしてビニール袋に入れていた。神作真哉は和室に置かれた小さな
大きなビニール袋を左右の手に提げた朝美が、狭い玄関で靴を履きながら言った。
「じゃあ、ゴミ出してくるね」
台所の洗い物を終えた紀子がタオルで手を拭きながら言う。
「うん、お願い」
神作真哉は原稿の文書ホログラフィーに顔を向けながら言った。
「悪いな。溜まってたからな」
「ノープロブレム。モメモメに虫も湧いてなかったし」
「訳の分からないことを言ってないで、さっさと出してきなさい」
「ほーい。行ってきまーす」
朝美はゴミ袋を提げて出て行った。
和室にやってきた紀子が皮肉を込めて言った。
「あら。休日もお仕事ですか。相変わらず仕事熱心ですねえ」
神作真哉はギプスの左腕を持ち上げて言った。
「仕方ないだろ、これじゃあ。右手だけじゃ記事を打つのに時間がかかるんだよ。持ち帰らないと、終わらなくてな」
山野紀子は神作の横に座って言った。
「家の中なんだから、ゆっくりしたら」
「どこから監視されてるか分からんからな。くそ、調子悪いな、このパソコン」
神作真哉は立体パソコンの端を軽く叩いた。
山野紀子が言う。
「例の『刀傷の男』に徹底的に中をいじられたんでしょ。買い換えたら?」
「そんな余裕はねえの。それに、朝美も来年は高校生だしな」
紀子がボソリと呟いた。
「その『高校生』に成れるかが問題ね」
神作真哉は紀子に顔を向ける。
「
「うん。本人はそのつもりみたいだけど、今のままじゃ、ちょっとねえ……」
不安な顔をする紀子を見て、神作真哉が焦った顔で言った。
「マジか。永山んとこの由紀ちゃんは行けそうだって言ってたぞ」
「由紀ちゃんは勉強できるから。ウチの朝美は、ほら、馬鹿界の優等生じゃない」
「自分の娘を馬鹿って言うこと無いだろ」
「あなたがそうやって甘やかすから、いけないのよ」
神作真哉は紀子から目を離して、また立体パソコンをいじり始めた。
「別に甘やかしちゃいないが……くそ、また勝手に、変なソフトが起動しやがった」
朝美が帰ってきた。
「たっだいまー。全部捨ててきたよ」
紀子が朝美に手招きして言った。
「朝美、ちょっと、こっちに来なさい」
紀子は卓袱台の横に朝美を座らせると、自分も正座してきちんと座り直し、朝美の顔を見て言った。
「ねえ、朝美。あんた、自分の将来とか、どう考えてるの?」
「将来? うーん……」
神作真哉はしかめた顔で言った。
「おまえさ、何も急にそんな話をしなくても……」
紀子は真剣な顔を神作に向けて言う。
「じゃ、いつだったら急じゃないのよ。いつかは話さないといけないでしょ」
朝美が目を丸くして言った。
「え、そうなの?」
「そうよ。当然でしょ」
紀子がそう言うと、朝美は両親の顔を交互に見ながら言った。
「私、パパとママの子じゃないの?」
紀子は呆れ顔で言った。
「なんでそうなるのよ。そうじゃなくて、あんたの将来」
朝美は、耳の横の髪をかき上げながら、台詞に合わせて頭を横に振って言う。
「ああー、それは、あ、どういう、こと……
紀子は朝美にデコピンをしてから、言った。
「それは『あんたが大将』の人でしょ。どうして、そんな古いのを知ってるのよ。ママが言ってるのは『あんたの将来』よ」
神作真哉もパソコンを操作する手を止めて、朝美に顔を向けた。
「将来の仕事だよ。何か、なりたい職業とかないのか」
朝美は腕組みをして考えた。
「うーん。そう、急に言われても……。そもそも、世の中にどんな仕事があるのか知らないからね。学校でも教えてくれないし」
紀子は真顔で朝美に言う。
「でも、もう真剣に考えないといけないでしょ。十五歳なんだから」
「うーん。まあ、あえて言うなら……」
少し遠慮気味に言ってみた。
「キシャレンジャーかなあ……って、痛い」
朝美の片方の三つ編みのお下げを下に引っ張った紀子は、低い声で言った。
「ふざけんな。真剣に考えなさい。自分のことなんだから」
朝美は頬を膨らませて反論した。
「別に、ふざけてないもん」
神作真哉は穏やかな口調で、娘に諭した。
「まあ、朝美がヒーロー好きなのは知ってるけど、現実の社会で実際にヒーローをやったら警察に捕まっちまうからな。『バトライダー事件』って聞いたことあるだろ。あの事件はな……」
「もう、余計な話はいいから」
紀子に口を挿まれて、神作の説諭は開始十五秒で終了した。
紀子は真剣な顔をして朝美に言う。
「とにかく、もっと現実を見なきゃ駄目よ。みんな陰で努力してるんだから。高校だけでもいいから、目標を決めて頑張らないと。他の人たちみたいに」
神作真哉も娘にアドバイスを送った。
「今からでも頑張って、選択肢を増やせ。選択肢が無いとな、苦渋の選択を強いられてばかりの人生になるぞ。つまらんだろ、そんな人生」
朝美は頷いて言った。
「うん、知っとるばい。ハルハル姉ちゃんが、パパもママもふっとか仕事ば抱えて頑張っとると、言っとらっしゃたあ。やっぱ、こってりしとるけんねえ」
紀子は項垂れて言う。
「あのね、『九州の豚骨』じゃないのよ。パパが言ったのは『苦渋の選択』。ちゃんと聞いてなさい。パパが娘に人生教育するなんて、彗星の飛来並みに珍しいことなんだから」
神作真哉は眉間に皺を寄せて紀子を一瞥すると、朝美に言った。
「あのな、朝美。パパもママも、ずっと生きて朝美のことを世話してやれる訳じゃないんだ。パパだっていつか死ぬ。そうなったら……」
突如、パソコンから木魚を叩く音と念仏らしきものが聞こえてきた。
『念、念、念っと。宇宙の神様は、そちたちをしっかりと見ておられるぞよ。ぬうう……念、念……』
神作真哉が慌ててパソコンに向かい、音を止めようと操作した。しかし、念仏らしきものは、いつまでも止まらない。
「なんだよこれ。このパソコン、どうなってんだ。あの刀傷野郎、ぶっ壊しやがったな」
諦めた神作真哉は、パソコンをスリープ状態にして停止させた。
朝美は天井を仰いで言った。
「宇宙かあ……そだね、これからは、やっぱ、宇宙だね」
すくと立ち上がった朝美は、そのまま上を向いて何かを想像している。神作真哉が言う。
「おいおいおい、博多から宇宙か。えらく飛んだなあ」
紀子が首を傾げて言った。
「じゃあ、将来は宇宙飛行士? あのね、あんたの体格でなれる訳無いでしょ。もっとちゃんと現実的に考えなさいよ」
「そんな、おまえ、夢を壊すようなことを言わなくても」
「ほら、そうやって甘やかす。夢は夢、目標は目標でしょ。軍隊が夢に向かってミサイルを撃つ? 目標に向かって撃つでしょ。それと同じよ」
「どう同じなんだよ。分かんねえよ、全然」
両親が言い合いを始めると、朝美はブツブツと何やら構想を練りながら、窓辺へと移動した。
「よし。今度のコスプレ遠足のテーマは『宇宙』で決まりだな。由紀が作ってるコスプレともバッチリ合うわ。うん。これで決まりだ」
紀子は剣幕を変えて神作に言っている。
「だいたいね、あなたが仕事ばかりに夢中で家庭をほったらかしにするから、いけないんでしょ。家庭訪問に同席したのも、この前が初めてじゃない」
「普通は、父親は同席しないだろ。仕事なんだから。だいたい学校も学校だ。いつまで家庭訪問とかやってんだよ。それが何か役に立ってるか。あれは、教師の保身のための情報収集活動だろうが。やめりゃいいんだよ、あんなの」
「そういう、ひねくれたことばかり言ってるから、朝美がああなっちゃったのよ」
「何だよ、全部、俺のせいだって言うのかよ」
言い合う二人を背にして、山野朝美は、夕日に照らされる家々の屋根を窓から眺めながら、一人で呟いていた。
「だけど、一から作ってる時間は無いなあ。夏休みも、あと十日も無いし。宿題に予想以上の時間をとられちゃったからなあ。コスプレ遠足は十月の初めでしょ。うーん、製作期間的には、一ヶ月ちょいかあ」
紀子は神作に苛立ちをぶつける。
「少しは朝美のことも気に掛けてよ」
「気にしてるさ。だから、こうやって話してるだろ」
「全然、真剣じゃないじゃない。司時空庁や軍隊があんな状況なのよ。これからは世の中がどうなるか分からないでしょ。親だったら娘の未来も、もっと真剣に……」
朝美の右耳がピクリと動いた。
「ん。軍隊? ほほう、軍隊かあ。そっかあ、その手があったかあ……」
窓から射しこむ夕日に照らされながら、山野朝美は肩を震わせて忍び笑いを始めた。
「くくくく。見ておれ、見ておれ。誰もがあっと驚くコスチュームを作ってやるわい。くくく、くーくくく」
狭いアパートの和室で言い合う両親の向こうで、仁王立ちのまま窓辺に立つ中学生山野朝美の小さな背中が細かく揺れていた。
6
日曜の総理官邸は一見すると閑散としていた。ロビーには警備員が立っているだけで、ドアを並べた広い廊下にも人は歩いていない。平日のように政治記者たちが往来していることもなく、来客らしき人もいなかった。しかし、職員たちは閉じられた各ドアの向こうの事務室で平日と変わることなく働いていた。ここに休日は無かった。
この年中無休の建物の地下深くには、「バンカー」と呼ばれる一室がある。その地下室は核シェルター機能を備えた緊急司令室であり、外部とは完全に遮断された空間だ。唯一「バンカー」と外界を結んでいるのは、衛生を使った直接電波通信のみである。
「バンカー」の中にある広い部屋の中央には大きな楕円形の会議机が置かれていた。その上座には辛島勇蔵が大型モニターを背にして座っている。他には誰も居ない。彼は厳しい顔でテーブルに両肘を付き、立てた腕先で指を組んでいた。黙り、思索している。部屋の中では、ただ時計の秒針の音だけが聞こえていた。
そこへ、強化ガラス製のドアをノックする音が鳴った。辛島勇蔵の低い声が響く。
「入れ」
長身の秘書官が入ってきた。
彼は言った。
「総理。準備が整いました」
「分かった。繋いでくれ」
そう答えた辛島勇蔵は、ゆっくりと椅子を回し、壁の大型モニターを正面に見据えた。
壁一面に設置された大型モニターに文字が表示される。
『辛島総理、ごきげんよう。まず、このような不便な形で話し合いをすることに応じてくれた貴殿に感謝申し上げる。私もASKITを束ねている頭領という立場上、身の危険も多い。ご理解いただきたい』
椅子の背当てに深く身を倒し、両側の肘掛に手を乗せてモニターの文字を読んでいた辛島勇蔵は、少し上を向きながら言った。
「前置きはいい。そちらの要求は」
高速で左から右へと移動するカーソルの後ろに並んだ文字は、端的に結論を告げた。
『我々と協定を結んで欲しい』
辛島勇蔵は、表情を変えずに応えた。
「内容は」
文字が高速で並べられる。
『我々は西郷を引き渡す。NNJ社を解散させ、他のNNC社関連企業も日本国内から撤退させる』
「こちらの条件は」
『現在AB〇一八周辺に展開させている部隊の即時撤収』
「何故」
『あれは、我々の所有物だ』
辛島勇蔵は口角を上げて目を閉じると、言った。
「NNC社の所有物ではなかったかな。そのNNC社の株価は、子会社のNNJ社の火事のニュースと西郷の贈賄疑惑の報道で、一時的に急落している。このタイミングで、フィリピン沖で拿捕された貨物船の中から、NNC社が購入したという戦闘ロボットが発見されれば、株価は決定的に暴落してしまうはずだが。いずれにしても、日本国内でAB〇一八の管理を委託されているNNJ社は、既に事実上の倒産状態だと言っていい。この状況で我々が撤収したら、いったい誰があのコンピューターを管理し、警備するのかね」
『その心配はない。我々で手配する。我々も相応の装備と部隊を備えている。これまで通り施設の安全を維持することは可能だ』
目を開けてモニターの文字を読んだ辛島勇蔵の眉間に皺が寄った。
「これまで通り、国外の私設軍隊を施設内に駐留させろと?」
『そうだ。AB〇一八を守り、日本国民の生活を守るためだ。理解して欲しい』
「国内に自国民の監視の目が届かない軍隊が常時駐留するなど、理解できんね」
『先人はそれを許容してきた。しかし、我々は施設の外に対して武力を行使することはしない。貴国の治安と防衛に関与するつもりもない。もちろん、周辺諸国にも』
「政治にもかね」
『当然だ』
「信用できんね」
『その理由を知りたい』
辛島勇蔵は再び口角を上げながら答えた。
「先人の失敗から学んだものでね」
暫く間を空けてからカーソルが動き出し、モニターに文字を表示し始めた。
『どうも翻訳ソフトか音声認識ソフトに不具合があるようだ。どうか私の真意を受け止めて欲しい』
辛島勇蔵は溜め息を吐いてから言葉を発した。
「身を潜めたまま素性も明かさない相手の真意を、どうやって受け止めろと言うのだね」
カーソルは淡々と文字を表示していった。
『AB〇一八は渡さない。我々には国際社会を動かす力がある』
辛島勇蔵は椅子に深く腰掛けたまま、表情一つ変えずに落ち着いた声で応えた。
「NNC社とNNJ社が共に倒産すれば、国内法規およびフランス国との条約に従って正式に破産処理が開始される。AB〇一八は特別破産財産として司法の管理下に置かれることになるだろう。当然、特別破産管財人に選任された弁護士では警備することは出来んだろうな。そうなれば、裁判所が、つまり国家が直接管理することになる。我が国はデュープロセスに従って手続きを進めるつもりだが、これは国際社会が最も求めるところではないかね」
また少し時間を空けてから、カーソルが動き出した。
『我々が求めれば、国際社会は現実的に動き出す。我々の要求に従うのに、理屈は必要ない。他国を動かして実力を行使させることは十分に可能だ。もちろん、我々自身もそれだけの実力を備えているし、その用意もある』
「ならば尚更、軍を撤収させる訳にはいかんな。日本国民の生活を守るためだ。理解して欲しい」
辛島勇蔵は鋭い目つきでモニターをにらんだまま、若干の笑みを浮かべた。
四角いカーソルはモニターの左隅に停止したまま、点滅を続けている。暫く、それはそこに留まっていた。
辛島勇蔵は、モニターに視線を向けたまま椅子の背当てに後頭部と背中を当て、相手の返事を待ち続けた。
やがて、カーソルが再び動き始めた。
『AB〇一八を引き渡してくれれば、日本国内から我々は撤収する。我々の配下の企業を全て日本の領土から退去させよう。もちろん、関係する人間や企業とも手を切ろう。そして、西郷も引き渡す』
辛島勇蔵は愁眉を寄せて答えた。
「後ろ足で砂をかけて出て行かれてもな」
カーソルが文字を返した。
『加えて、我々が保有する全てのバイオミメティクス技術を貴国に提供する。そういう条件では、どうだろう』
辛島勇蔵は間髪を容れずに言った。
「全ての国内特許の返還も要求する」
また暫くカーソルが停止した。そして、再びカーソルが動き出した。
『よかろう。応じよう』
辛島勇蔵は椅子から立ち上がると、両手を腰の後ろで組んで言った。
「協定書はこちらで作成する。協定は互いに直にサインをした紙の文書で交わしたい。使者を送ろう。貴殿のサインがなされた協定書がこちらの手許に届き次第、直ちに軍を撤収させる」
カーソルはすぐに返事を表示した。
『使者はこちらが送る。その者に総理のサインがされた協定書を渡してもらいたい』
辛島勇蔵は眉間に皺を寄せると、首を大きく左右に振って答えた。
「あの『刀傷の男』かね。それは拒否する。あのような方法で侵入し接触してきた者を信用することなどできん。使者は我々の方からそちらに送る。この点は譲れん」
カーソルが再び点滅したまま停止した。
辛島勇蔵は腰の後ろに手を回して立ったまま、返事を待った。
カーソルが動き出した。
『こちらが指定する民間人の使者なら受け入れよう。我々も安全の確保を図りたい』
辛島勇蔵は即答した。
「よかろう。互いに信用できる者を選定されることを期待する」
カーソルが文字を並べ、最後の幾つかの文章を表示した。
『協力に感謝する。有意義な話し合いだった。
そしてすぐにモニター画面が暗転した。その後、画面にノイズが走り始める。
辛島勇蔵は険しい表情のまま、鼻から息を吐いた。
ドアがノックされた。
「ん」
椅子に腰を戻した辛島勇蔵は無愛想にそう答えた。
入室してきた秘書官はすぐに報告した。
「通信が途絶えました。衛星ネットワーク上に同一周波数の通信ノイズが拡散されています。逆探知はできませんでした。申し訳ありません」
左右の肘掛に手を乗せた辛島勇蔵は、椅子に凭れて目を閉じたまま答えた。
「そうか。想定の内だ。構わん」
目を開けた辛島勇蔵は、秘書官に指示を出した。
「関係者を招集してくれ。今後のプロセスを確認したい。それから、十七師団の阿部大佐を呼んでくれ。至急、一個小隊を特別編成してもらいたい。奪還任務に当たって欲しい施設がある。構成メンバーのリストを作成して、私の執務室まで出向くように伝えてくれ」
「かしこまりました」
秘書官は短く一礼して退室した。
椅子から立ち上がった内閣総理大臣辛島勇蔵は、一度、深く溜め息を吐いてから、その地下室を後にした。
消灯と共に、黒一色の上に不規則な縞模様を映し出していた大型モニターの電源が落ち部屋の中は真っ暗な闇に包まれた。
無人となった「バンカー」の中では、時計の秒針が時を刻む音だけが響いていた。
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