第17話
5
新日風潮社の編集室があるフロアの廊下には、非常ベルが鳴り響いていた。広い中央廊下の端にあるエレベーターホールには、避難してきた記者たちが犇いて立っている。そこから少し離れた所で、「トゲトゲ湯飲み」を持った山野紀子が、しかめ面をしていた。
エレベーターのドアが開いた。血相を変えた春木と神作が飛び出してくる。神作真哉はホールの隅に立つ山野の姿を見つけると、急いで駆け寄った。
神作真哉が尋ねた。
「火事だって。大丈夫か」
「消火器、消火器……」
春木陽香は慌てた顔でオロオロと動き回り、壁際に取り付けてある消火器の所に駆けて行く。
山野紀子は言った。
「ハルハル、落ち着きなさい。火なんか、どこにも出てないわよ。煙も出てないでしょ」
春木陽香は周りを見回した。確かに火の気は無かった。煙も漂っていない。クンクンと鼻を動かして嗅いでみる。特に煤けた臭いもしない。春木陽香は首を傾げた。
神作真哉が怪訝な顔をして山野に尋ねた。
「どういうことだ。誤報か?」
山野紀子は首を傾げて答える。
「分かんない。誤報は、確かに誤報ね。突然、火災センサーが作動して、向うとそっちの防火扉が閉まり始めたから、とりあえず外に逃げ出したの。でも、火の気は無い」
山野紀子は背後の大窓と中央廊下の突き当たりの大窓を覆っているシャッターを交互に指差した。
戻ってきた春木陽香が尋ねた。
「スプリンクラーは?」
山野紀子が編集室への入り口ドアの方を指差しながら言った。
「さっき止まった。噴霧された消化剤が揮発するまで一時間くらいかかるそうだから、暫くは中に入れないわね」
春木陽香が心配そうな顔で言った。
「パソコンとかは大丈夫でしょうか。全部おじゃんになっちゃうんじゃ……」
山野紀子は答えた。
「揮発性の特殊な消化剤だから、たぶん大丈夫。一時的には濡れるけど、すぐに乾くはずよ。非電導性の液体だし、問題ない」
「ああ……でも、私のバッグとか、大丈夫かな」
そう言って編集室へのドアへと向かった春木を山野紀子が呼び止めた。
「こらこら、やめときなさい。気化した消化剤が部屋中に籠ってるから、中毒で倒れるわよ。自動換気が済むまで、ドアを開けちゃ駄目」
非常ベルはまだ鳴っている。エレベーターから永山哲也が出てきた。周囲を見回しながら三人に駆け寄ると、拍子抜けした顔で言った。
「あれ、火事じゃないんですか。逃げなくても……」
神作真哉が答えた。
「センサーの誤作動みたいだ。心配はない」
「そうですか、よかった」
永山哲也は、ふうと息を吐いた。
山野紀子が廊下に出ている職員たちの方に歩いていき、声を張った。
「みんなあ、とりあえず下の社員食堂に移動。ここに居たら事後処理の邪魔になるから。エレベーターは混むから、若い子から先に階段で下りてね。はい、さっさと移動」
永山哲也が深刻な顔で神作に言った。
「また、システム異常ですか……」
神作真哉も眉間に皺を寄せて言う。
「こりゃ、本気でビルごと外部ネットワークから切り離した方がいいかもな。その後で、ビルのセキュリティーシステムから順に入れ替えていかないと駄目だろ」
戻ってきた山野紀子が言う。
「まあ、でも、何かの熱にセンサーが反応しただけかもしれないしね。それに、もしかしたら、どこかで配線がショートしてるってことも考えられるじゃない。ま、防災隊の消火部の初動班が到着したら、天井裏まで念入りに見てもらいましょ」
春木陽香が山野の顔を見て言った。
「あれ、別府先輩は?」
「あいつは非常ベルが鳴ると同時に、真っ先に出て行った。早かったわよお。短距離走の逸材を発見したわ」
春木陽香は山野の手許を指差して言った。
「編集長、なんで、その湯飲みを持ってるんですか」
山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」を背中の後ろに素早く隠して言った。
「あ、ちょっと慌てていて……。あはははは。お茶を飲んでたものだから」
春木陽香は目を細めて言う。
「湯飲みの中は空ですけどねえ」
「いいでしょ、いちいちうるさいわね。ほら、さっさと社員食堂に移動しなさい。点呼するから」
山野紀子はパタパタと手を振る。
春木陽香はニヤニヤしながら階段の入り口へと向かった。
すると、階段の方から防火アーマー姿の男が出てきた。オレンジ色のヘルメットと防煙マスクで顔を覆い、同じくオレンジ色の隊員服の上に耐熱素材の防具を付けている。鎧姿の兵士のような恰好の男に驚いた春木陽香は、壁際に体を退ける。
そのマスクの男は鼎立している神作たちの所まで来て、言った。
「防災隊消火部です。消火小隊が上がってきますので、皆さん退避して下さい」
神作真哉が怪訝そうな顔で言った。
「えらく早いな」
隊員は言う。
「そう訓練していますから」
まだ鳴り止まない非常ベルを訝り、永山哲也が神作に小声で言った。
「ちょっと、見てきます」
永山哲也は駆けていくと、壁際に立っている春木の前を通り、階段を下りていった。
山野紀子がマスクの隊員に言った。
「あの、どうも誤作動みたいなんですけど……」
隊員は答えた。
「それは調査班が結論を出します。一見して火の気が無いようでも、種火の熱をセンサーが拾った可能性もあります。以前には、不良品のO2電池が発火する直前の熱をセンサーが拾ったことがありました。このように、皆が安心して見物しているところで、ドカン。酸素電池が爆発した時の威力はご存知でしょう。そういう危険もありますから、念のためにこの場からは退避して下さい」
下の階に着いた永山哲也はエレベーターホールを走り、突き当たりの窓へと向かった。窓の前に着いた彼がその窓から下を覗くと、ビルの前の通りに防災隊の特殊車両が次々と到着してきていた。永山哲也は顔を窓に押し付けて、上を覗いた。ビルの真上に黄色のオムナクト・ヘリがホバリングしていて、そのヘリから降下用の粘性ワイヤーが数本、屋上に延びている。永山哲也は、その黄色いワイヤーが硬化して風に散ったのを確認すると、急いで階段へと戻った。階段を駆け上がっていた彼は、途中、下の階へと向かう春木とすれ違った。
振り返った春木陽香が尋ねる。
「あれ? 永山先輩、避難しないんですか」
立ち止まった永山哲也は春木の方を向くと、険しい顔で言った。
「今の隊員は?」
「室内を確認するって、ウチの編集室の中に入っていきましたけど」
それを聞いた永山哲也は、慌てた様子で残りの階段を上がっていった。首を傾げた春木陽香は、とりあえず永山を追って上の階へと戻ることにした。
山野紀子と神作真哉が階段の出入口の所に来ていた。階段を駆け上がってきた永山哲也が山野に尋ねる。
「明日の記事のデータは?」
「――あ、ええと、私のデスクの上だけど。これから印刷部署に……」
永山哲也は廊下の方に駆けていった。山野紀子と神作真哉が顔を見合わせていると、下から春木陽香が戻ってきた。
「永山先輩、隊員さんに用事ですか? 消化剤が充満してることを知らないんじゃ……」
神作真哉が廊下に戻った。広い廊下の先を見ると、永山哲也が新日風潮の編集室のドアノブに手を掛けて、必死に押し開けようとしていた。
近寄っていった神作真哉が尋ねた。
「どうしたんだ」
永山哲也はドアノブを力一杯に動かそうとして顔を紅潮させている。
「くそ、内側から鍵が掛けられてます。キャップ、社員証カードを貸して下さい。僕のカードじゃ開きません。キャップのなら……」
駆けつけた山野紀子と春木陽香を見て、永山哲也が山野に言った。
「ああ、ノンさん、この部屋のキーは?」
「うん、持ってるけど……」
山野紀子は上着のポケットから社員証を取り出し、永山に渡しながら言った。
「開けるつもり? マスク無しじゃ、かなり臭いわよ。中毒にもなるし」
永山哲也は山野から受け取った社員証をドア横の壁に取り付けてある認証装置に翳した。鳴るはずの音がしなかった。
永山哲也は言った。
「反応しない。ハルハルのは」
春木陽香は慌てて首に提げていた社員証を外し、永山に渡した。永山哲也は同じように装置に翳したが、やはり反応しない。永山哲也は装置を叩いて言った。
「駄目だ。何か細工がされている」
神作真哉が眉間に皺を寄せて言った。
「どうしたんだ。あいつ、やっぱり……」
永山哲也が早口で言う。
「ええ。ニセモノです。僕が下の階から外を見たら、ついさっき、防災隊の消火車両が到着していました。屋上にホバリングしていたヘリから延びていた粘性ワイヤーも、僕が見ている時に硬化して風解していきました。粘性ワイヤーの解除は各隊員が手許で操作します。つまり、屋上に降下した先発の防災隊員たちは、まだ上に居たんです。隊員が単独で行動するはずは無い。奴はニセモノです」
永山が話し終わらないうちから、神作真哉が激しくドアを蹴り始めた。彼は渾身の力でドアを蹴る度に、一言ずつ発する。
「くそ! どおりで! 早いと! 思ったん、だよ!」
永山哲也も一緒にドアを蹴った。
山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」を春木に手渡すと、エレベーターホールの方に駆けながら、彼女に指示した。
「ハルハル! 下の階から緊急解除用のロック・レンチを借りてきて。ドアごと外す時に使う奴!」
春木陽香は「トゲトゲ湯飲み」を持ったまま駆け出していった。
山野紀子は、廊下の壁に取り付けてある消火器の上のガラス戸を開けた。中にはめ込まれている赤い鉄斧を取り外すと、それを重そうに両手で持って、編集室のドアの前まで駆け戻る。
ドアを蹴るのをやめた神作真哉が、息を切らしながらボヤいた。
「くそっ、頑丈だな、びくともしねえ」
そこへ戻ってきた山野紀子が、ドアの前で斧を振り上げる。
「哲ちゃん、どいて! ロック装置を壊すから!」
神作真哉が慌ててギプスの左手を出した。
「おいおい、待て待て……」
山野紀子は神作の制止を聞かずに、ロックの認証装置に鉄斧を振り下ろした。
「おりゃ!」
鉄斧が打ち込まれた装置が火花を散らし、突き刺さった鉄斧に緑色の光線が纏わり付きながら登って、握っていた山野の手に絡みつく。
「んぎゃ!」
山野紀子は髪の毛を逆立てて後ろに仰け反った。永山哲也が山野の手を蹴って斧から離す。直立したまま煙を吐いて後方に倒れる山野を、神作真哉がギプスをした左手で受け止めた。
「おい、紀子! 大丈夫か!」
神作の腕の中で、山野紀子は鼻から白い煙を吐きながら言った。
「ビリビリってきた、ビリビリって……」
そして気を失った。
永山哲也がドアの取っ手を握りながら言う。
「駄目だ、開かない!」
彼が必死にドアを押していると、春木陽香が階段を駆け上がってきた。
「有りましたあ! ロック解除用のレンチ……ああ、編集長! どうしたんですか!」
床に倒れたまま神作に抱きかかえられている山野を見て、驚いて駆け寄った春木に永山哲也が言った。
「ハルハル、レンチを!」
春木陽香がレンチを投げる。受け取った永山哲也は、それをドアの上の
「外れました!」
そう叫んだ永山の声を聞いて、神作真哉は気を失っている山野を春木に預け、ドアに駆け寄った。永山と二人でドアの蝶番の方を引き、ドアノブのロック棒を曲げて反対側にドアをこじ開ける。
気化した消化剤が鼻を突く異臭と共に中から勢いよく吹き出した。
永山哲也はワイシャツの袖で口元を覆い、ドアと壁の隙間から体を押し入れて狭い廊下へと入った。そのまま咳込みながら奥へと進んで行く。
神作真哉も体を隙間に押し込んで中に入ると、廊下には消火剤が充満していた。左手のギプスの上の包帯で口を押さえ、右手で前方の霧を払いながら前に進んだ。強い風が前から押してくる。ワイシャツの背面が空気で膨らんだ。風圧に耐えながら前に進む。
狭い廊下を抜けて編集室の中に入ると、山野の席の後ろの窓ガラスが割られていて、そこから強風が吹き込んでいる。窓のブラインドは風で押し上げられ、天井を叩いていた。
窓の前に立っていた永山哲也が咳込みながら神作に叫んだ。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ。くそっ、やられました! ゴホッ、ゴホッ」
床に落ちていた防災隊のマスクとヘルメットを拾った神作真哉は、それを放り投げ、咳き込みながら言った。
「ゴホッ、ゴホッ……畜生、やっぱりニセモノか……ゴホッ、ゴホッ……」
ワイシャツの袖で口を押さえながら、永山哲也が山野の茶色い机の上を指差した。
「ゴホッ、ゴホッ……キャップ……これ、ゴホッ、ゴホッ……」
顔の前のガスを払いながら、神作真哉が永山の指した先を見ると、そこには、一輪の青い切花が置かれていた。
「くそ! あの刀傷野郎か。ゴホッ、ゴホッ……」
強く机の上を叩いた神作真哉は、咳き込みながら床に座り込んだ。永山も膝を落とす。
二人は意識を朦朧とさせながら床に倒れ込み、強く咳き込み続けた。
その時、凄まじい爆音と共にドアが吹き飛ばされた。煙の中から数本の太い光線が室内に射す。慌しい足音と共に、さっきの男と同じ防火アーマーに身を包んだ数名の防災隊員たちが、肩からサーチ・ライトを照らしながら編集室の中に突入してきた。
先頭の隊員が機関銃のように「消火銃」を肩で構えながら前進してきて、後方に叫ぶ。
「生存者二名確認! 直ちに救護します!」
神作と永山に駆け寄ったそれぞれの隊員たちは、腰に提げた小型酸素ボンベを取り外すと、すぐに神作と永山の口にそれぞれを当て、支えながら部屋の外へと連れ出した。
非常ベルが鳴り続ける中で、強風に煽られたブラインドが激しく踊っていた。
6
司時空庁長官室には、津田幹雄と佐藤雪子が居た。
津田幹雄はいつも通り椅子に座ったまま、横に立っている佐藤に尋ねた。
「奥野大臣から連絡は」
「AB〇一八の施設に投入する兵士の確保が出来たということでございますわ」
「そうか。あとは、新日の連中が奥野の尻に火を点けてくれることを待つのみか」
すると、佐藤雪子がハッとした表情になり、言った。
「そういえば、新日ビルで何かあったようでございますわよ。防災隊の消火部隊が駆けつけたとか。火事かもしれませんわね」
「消火部隊が出動したのなら、火事だろう。――火事? ま、まさか、例の『刀傷の男』の仕業じゃないだろうな。今度は、奴らの職場に火を点けたとか」
「調べてみますわ。少々お待ちを」
佐藤雪子は胸の前に抱えたタブレット型の立体パソコンにホログラフィー・キーボードを表示して操作し始めた。
「ここでASKITに横槍を入れられては困る。松田君は、まだ昼食から戻ってこないのか。こんな時に何処に行ってるんだ」
「ランチの美味しい店で、行列に並んでいるのかもしれませんわね。――ああ、有りましたわ。『火災事実は無し』ですって。誤報のようですわね」
「誤報? イタズラかね」
佐藤雪子は端末の上に浮かべられた防災省のホロ・サイトを見ながら、首を傾げた。
「さあ。――あら? 警察との連携出動に表示が切り替わりましたわ。何かあったのかしら。救急車二台と鑑識部隊が現場で待機するようですわよ」
「嫌な予感がするな……。松田君が戻ったら、急いで現地に人を送り込むように言ってくれ。事情が知りたい」
「分かりましたわ。警視庁の方にも問い合わせておきましょうか」
「そうしてくれたまえ。正確な情報が欲しい」
爪を噛んだ津田幹雄は、一言だけ呟いた。
「ASKITの仕業でなければいいが……」
津田の眉間には深い皺が寄っていた。
7
新日ネット新聞社ビルの前には、赤色灯を回した何台ものパトカーと防災隊消化部の特殊車両が止まっている。通りの向こうには見物人が集まり、騒然としていた。
春木に付き添われた山野紀子が担架に乗せられ運ばれてきた。救急車の前まで来ると、救急隊員の一人が運転席に回り、もう一人が後部ドアを開ける。担架の上の山野紀子が細く短い息をしながら春木の手を握った。春木陽香は山野の手を握り返す。
「山野編集長……」
「ハルハル……週刊誌の未来は、あなたに任せたわ」
「そんな。編集長がいないと、私、どうしていいか分かりません」
「そんなことは無いわ。あなたには全てを伝えたつもりよ。もし、何か分からないことがあったら、あのお月様に尋ねるのよ。私は、あの月明かりの向うから見守っているわ」
「月明かりよりも、編集長の笑顔の方が、ずっと眩しいです」
「嬉しいわ……でも……私は、出版界を照らす太陽に……なりたかっ……た……ガクッ」
「編集長。死んじゃ駄目です、編集長! 編集ちょおおお!」
春木陽香の悲痛な叫び声が木霊する。
「あの、もう、いいですかね。そろそろ出発しますんで」
横から二人に声を掛けた救急隊員が、まだ明るい空を見上げて溜め息を吐いた。
春木陽香が山野の手を放して言った。
「あ、はい。すみません。じゃあ、編集長、朝美ちゃんの御飯は私が作っときますから」
頭を少し持ち上げた山野紀子は、担架の上から言った。
「うん。ごめんね。本当なら、ここが父親の出番なんだけど、なーんにも料理が出来ない男だからさあ。あー、困ったなあ」
大きな声でそう言っている山野紀子が救急車の中に運び込まれていく。
歩み寄ってきた神作真哉がタオルで顔を拭きながら言った。
「悪かったな、何も出来なくて。――だけど、ハルハル。ホントにいいんだぞ、無理しなくて。俺が何か買って行くから。どうせあいつ、まだ夏休みだし」
春木陽香は顔の前でパタパタと手を振って答えた。
「ああ、いえ、いいんです。前に風邪でダウンした時に、朝美ちゃんにも助けてもらいましたから。今日はそのお返しです」
救急車の中の担架の上で顔を持ち上げた山野紀子が言う。
「あ、洗濯はいいから。自分でやるから」
「はいはい。分かってます」
春木陽香は目を閉じて頷いた。そこへ、首にタオルを掛けた永山哲也がやってきた。
「ほら、キャップも早く乗ってください。いつまでも喋ってたら、救急車が出られませんよ。ノンさんも安静にしとかないと、結構な電圧だったんですから」
神作真哉は救急車の中に乗り込みながら言った。
「じゃあ、念のため診てもらってくるわ。後、頼むな」
「はい。警察の現場検証の結果が出たら、すぐに電話します。ノンさん、今日は病院で休んで下さいよ。ちゃんと精密検査を受けないと駄目ですからね」
「分かってる、分かってる」
山野紀子が担架の上で手を振って答えた。
救急隊員が後部ドアに手を掛けて言う。
「もう、出しますよ。本当に月が出ちまう。はい、ドア閉めまーす」
ドアが閉められ、その救急隊員が助手席に回っていった。救急車がサイレンを鳴らさずに走っていく。永山哲也と春木陽香はそれを見送った。
永山哲也が首に残った消火剤をタオルで拭きながら、呆れ顔で言う。
「泥棒がああいうことをするから、大抵のロック装置には放電式の防御機能が付いてるのになあ。知らなかったのかなあ、ノンさん」
春木陽香も救急車を見ながら言った。
「まあ、スタンガン程度の電圧でよかったですよね。主電源に接触してたら、編集長、本当に大変なことになってましたから」
永山哲也は頷くと、心配そうな顔で春木を見て言った。
「でも、そっちも大変なことになっちゃったな。明日の『週刊新日風潮』の記事データ、盗まれちゃったじゃないか。紙面はどうするんだよ。頁を減らして出すのかい? 掲載内容を今から変更しようにも、もう、この時間じゃ間に合わ……」
春木陽香は永山に笑って見せた。
「ニヒヒヒ。大丈夫です。ちゃんと手は打ってありますから」
永山哲也が眉間に皺を寄せて首を傾げる。
春木陽香はビルを見上げ、不敵な笑みを浮かべていた。
8
国防大臣室に机を叩く大きな音が響いた。額に入れられた日本国旗を背にして自分の椅子に座っている奥野恵次郎は、握った拳を机の上に載せたまま、机の上に浮かんでいる増田のホログラフィー映像に向かって声を荒げた。
「いったい、どういうことなんだ。国防大臣の私抜きで、緊急閣僚会議だと?」
ホログラフィーの増田基和は言う。
『はい。辛島総理が外遊先から招集した模様です』
奥野恵次郎は頬を震わせて言った。
「副大臣には。何も連絡はなかったのか」
『大臣のお耳に届いていないのなら、おそらくは』
「君に連絡は来なかったのかね」
『私は、こうして第一基地に待機しておりますので』
「連絡はなかったのか。官邸との連絡業務は君に任せてあるだろう」
『いえ。私の方には、特には何も』
「そうか……」
奥野恵次郎は机の上の拳を強く握り締め、歯軋りをしながら言った。
「辛島めえ、本気で私を締め出すつもりだな……」
そして、前を向いて言う。
「増田君、明日の模擬訓練は予定通り実施できるのだな」
『はい。準備は整っています』
「偵察隊からの報告は」
『NNJ社は、AB〇一八の施設から警備用の大型戦闘用ロボットを撤収する準備を始めたようです。おそらく、搬出は今日の深夜だと予想されます』
奥野恵次郎は少し安心したように肩を下ろすと、椅子の背もたれに身を倒して言った。
「そうか。だが、施設から運び出したロボットを何処に隠しておくんだ。結構な大きさだし、数も多いのだろう」
増田基和のホログラフィーは直立したまま言う。
『
「ほほう。さすがは国際組織だな。手筈がいい。引き続き、警備兵たちの撤収が済むまで監視を続けさせてくれ。ウチの兵士との衝突だけは避けたい」
『了解しました。状況は随時ご報告いたします』
「うむ。そうしてくれ。まだ相手方からの連絡がない。金曜の午前中になるかもしれんから、兵員の移動の準備をしておくんだ。土日でじっくりと施設内を探索させればいい」
『探索とは……』
奥野恵次郎は椅子ごと体を横に向けた。
「いや、何でもない。君は気にせんでいい」
椅子から立ち上がった彼は、壁に掛けられた額の中の日の丸を見つめながら言った。
「とにかく、兵士の配置さえ済ませてしまえば、契約はスムーズにいく。SAI五KTシステムの二つのコンピューターは、今や国民生活にとって必要不可欠なものだ。我が国の防衛上もな。民間企業の違法な私設軍隊に警備させておくよりも、国防軍で一括して警備した方が絶対にいい」
『御意。私もそう考えます』
増田のホログラフィーに背中を向けたままの奥野恵次郎は少しだけ横を向いて言った。
「そうか、分かってくれるか。だが、そんなことも分からん不見識な閣僚共が私を排除しようとしているのだ。国民のためにも、何としても闘わねばならん。増田君、君の力が必要だ、宜しく頼むよ」
『私は指揮命令に従うのみです。――では、明日の準備がありますので、私はこれで』
「ん、ご苦労だった」
背中を向けたまま奥野がそう言うと、増田基和のホログラフィーは直立したまま停止して、消えた。
奥野恵次郎は腰の後ろで手を組んで日の丸を見つめている。彼はつま先で細かく床を踏み鳴らしていた。
国旗を入れた額のガラスに奥野の強張った顔が映る。
「西郷の奴、何をモタモタしているんだ。まったく……」
その大柄な初老の男は、大きな日の丸の前に立ったまま、いつまでも貧乏揺すりを続けていた。
9
「謎じゃ。うーん……」
日の丸付きの白い鉢巻を頭に巻いた御下げ髪の少女は、首を横に倒して唸っている。
山野のマンションのリビングでは、ラグマットの上に山野朝美が腕組みをして座っていた。目の前には、ホログラフィーで投影された「夏休みの友」の数学の宿題が浮かんでいる。それには赤いバツ印が並んでいて、正解を示す赤マルは数個しか見当たらない。ホログラフィーを投影している立体パソコンの周りには、電子辞書や教科書、電卓、定規が散らばっている。床のラグマットの上には、クレヨン、はさみ、計算ドリル、お菓子の袋、ジュースを飲み干した空のペットボトルなどが散乱していた。低いリビングテーブルの上も周囲も目一杯に散らかして宿題に取り組んでいた山野朝美は、胡座をかいて腕組みをしたまま、独り言を発した。
「うーん、解からん。現代の謎だね。マイナス五かけるマイナス三が、どうしてプラスの十五なんじゃ。五かける三は十五でしょ。うん。それは解かる。リンゴが五個入った袋が三つ。全部で十五個」
山野朝美は指を折って数えてみた。足りないので、右足の指も使う。
「――だよね。十五で合ってる。じゃあ、今度は『マイナス五』だから、腐ったリンゴが入った袋が、マイナス……『マイナス三つ』って、なんじゃ。うーん、マイナス、マイナス……」
暫らく考えた山野朝美は、顔の前で手を叩いた。
「ああ、そうか、凍らせてるってことか。腐ったリンゴが五個入った袋を三つ凍らせている。カチン、コチン……おえっ、やっぱりマイナスじゃん。腐った冷凍リンゴが十五個並んでても、全然美味しそうじゃない。おっかしいなあ。なんでプラスなんだ?」
怪訝を顔いっぱいに表して首を傾げた山野朝美は、すくと立ち上がると、自分の部屋へと向かった。部屋の中では、同級生の永山由紀がベッドの横に座って、バラバラになった「
永山由紀は顔を上げて言った。
「あ、朝美。終わった?」
朝美は部屋の中に散乱している中世の騎士のヘルメットや、超人ヒーローのベルトなどを足で退かしながら、由紀の前を通り過ぎ、ガラクタが詰まった段ボール箱へと向かう。
朝美は由紀に答えた。
「ん。まだ。今、数学の神秘を卓球してる」
釣竿にガムテープを巻いている手を止めた由紀は少し考えた後、またガムテープを巻きながら言った。
「あ、そう……『探求』ね」
朝美は段ボール箱の前に腰を下ろすと、中のガラクタを漁り、旧式の乾電池を二個見つけ出した。彼女は、その乾電池のそれぞれの平らな底同士を合わせて言う。
「マイナスとマイナス……こっちはプラスとプラス……これじゃ使えないよね。全然プラスじゃない」
朝美が後ろに放り投げた乾電池が由紀に当たった。
「あ
朝美は腕組みをして思案している。
「うーん……マイナスとマイナスはプラス。マイナスとマイナスはプラス。うーん……」
立ち上がり、ブツブツ言いながら部屋の出口へと向かった。
由紀がガムテープを巻きながら言う。
「覚えちゃえばいいじゃん。『マイマイ、プラ』で」
立ち止まった朝美は、由紀の方を向いて言った。
「うん。それ、リカコ先生に教わって、やってみた。でも、テストの時に分かんなくなるんだよね。『マイマイ、マーイ!』だったかなって。なんか、そっちの方が、元気出そうじゃん」
そして、またブツブツと言いながら部屋から出て行った。
由紀が一人で呟いた。
「そういう問題かね……」
リビングに戻ってきた朝美は、再び低いテーブルの前に腰を下ろした。精一杯に眉間に皺を寄せて、腕組みをしたまま、宙に浮かんだ数学の宿題を見て言う。
「うーん。これは、どげんかせんといかん。このままでは宿題が終わらんぞ。うーむ」
また暫く考えた朝美は、ポンと膝を叩いて言った。
「そうか。数学の橋口先生が蛸みたいな顔して言ってたなあ。数学は別の角度から考えてみることが大切だ、ロマンがありますねえって」
そしてまた、考える。
「でも、栗は秋の食べ物だよね。栗と数学と何の関係があるんだ?」
口を尖らせて大きく首を傾げた山野朝美は、再び手を叩いて言った。
「ま、いいか。今は夏だし。ええと、角度ね。分度器、分度器……」
分度器を探し始めた山野朝美は、文房具入れの袋を広げた手を止めて、顔を上げた。
「違う、こういうことじゃないはず」
腕組みをした朝美は、ニヤリとして言った。
「フフン、分かった。これは罠ね。『角度』って言うのは、ヒヒでしょ。ん? ヒユだったかな。ヒイだっけ。――ま、いいや。とにかく、ものの例えよ、きっと。別な見方をしてみろってことだね。よーし……」
浮かんでいる数学の宿題を、頭を横に倒したり、顎を引いて上目で見てみたり、朝美は「別な見方」を色々と試してみた。
空のペットボトルの口を右目に当てて、底から望遠鏡のように宿題ホログラフィーを覗いていた山野朝美は、ペットボトルを放り投げ、大きく頷いた。
「なるほどね。マイナスは一本線で一画かあ。プラスは、イチ、ニ……は! に、二画。マイナスとマイナス、一画と一画。一足す一は二。そして、プラスは二画……き、気付いてしまった」
驚愕した顔をした山野朝美は、前のめりになって宿題に取り掛かった。
「よし、できる。できるぞ。マイナス七かけるマイナス七は、一画と一画で二画だから、『+(プラス)』の四十九。マイナス三かけるプラスの三は、一画と二画だから、足して三画で、『
山野朝美は鉢巻を外して放り投げ、リビングに大の字になってひっくり返った。
インターホンのチャイムが鳴る。
山野朝美は立ち上がった。
「誰じゃ、この忙しい時に」
ブツブツと言いながら、壁に取り付けられた姿見の横のインターホンの前まで行き、そのパネルを背伸びして覗き込んでみると、そこには、一階の入り口に立っている小柄な若い女の姿が映っていた。
『こんにちは。朝美ちゃん、居る? 春木です』
「あれ? 虹パンのお姉ちゃん。あ、ちょっと待ってね、今開ける」
朝美はインターホンのスイッチを押して、一階エントランスの自動ドアを開けた。
ふと何かを思い出した山野朝美は、自分の部屋に駆けていった。
ドアを開けて言う。
「由紀、虹パンのお姉ちゃんが来たよ!」
由紀が飛び上がるように立ち上がる。
「え、マジで! 何も準備してないよ」
朝美は腕組みをして考えた。
「うーん、今日は何にするかな。水に浸けてプニョプニョになった冷湿布を背中に入れるのもやったし、靴下バズーカもやったし、髪の毛に洗濯ばさみ付けたまま帰ってもらうのもやったし……」
由紀が提案する。
「ここは、古典的に、紙袋でパーンじゃね?」
「うーん。いまいち芸が無いよねえ」
「床ワックス作戦は。ツルって行くやつ」
朝美は首を横に振る。
「お姉ちゃんが怪我したら可哀そうじゃん。それに、ウチら今年は受験生だからね。滑るのは縁起が悪い。はっ、そうだった。受験生だった……」
中三の山野朝美は深刻な顔に戻った。しかし、今の彼女には受験勉強よりも重要な任務があった。勉強どころではない。朝美は知恵を絞る。
由紀が焦った顔で言った。
「もう、来ちゃうよ。早く何か考えないと」
「よし。仕方ない。さっき、アイスレモンティーを飲み終わったよね。由紀は大急ぎで、その容器を洗って。ウチは中身を準備するから」
「うん、分かった」
二人は行動に移った。由紀がリビングに転がっていた空のペットボトルを取ってきて、台所のシンクで中を漱ぐ。朝美は戸棚から何かを探していた。
「ええと……あった。穀物酢。うーん、色的にはレモンティーとそっくり。くくく」
「それを、このアイスレモンティーの容器に入れて、虹パンお姉ちゃんに一気飲みしてもらうんですな。おぬし、ワルですなあ」
朝美は穀物酢が入った瓶の蓋を開けた。
「ほれ、早く、そっちの中に入れるぞよ。容器をしっかり持っておれ」
ラベルに「アイスレモンティー」と印字された容器に穀物酢を注ぐ二人。
ペットボトルの蓋を閉めた由紀がそれを高く持ち上げて言った。
「おお、これは、どこから見てもアイスレモンティーですな」
朝美は空の瓶をシンクの下に隠しながら言った。
「他にも思いつたぞよ。ママのヘアームースを持って参れ」
「おお、ヘアームースですな。いずこに」
「脱衣所の洗面台の上じゃ。ワシは紙皿を探す。くくく」
山野朝美は食器棚の下の引き出しを漁り始めた。
春木陽香がレジ袋と傘を提げて外の廊下を歩いてきた。レジ袋には卵や玉ネギが入っている。
春木陽香は山野宅の玄関の呼び出しボタンを押した。中から朝美の返事が聞こえる。
『はーい。開いてるよ、入って』
春木陽香は深呼吸をしてから、ドアノブに手を掛けた。ドアを開けると同時に傘を突き出して開く。傘に水の入ったビニール袋が当たった。
傘の横から顔を出した春木陽香は、玄関の中を覗いて、言った。
「――やっぱりね。あぶない、あぶない」
山野朝美が頭を掻きながら出てきた。
「あっちゃー。見抜かれてたかあ」
春木陽香は警戒しながら玄関に入り、朝美を指差しながら言った。
「あっまーい。そう大人は馬鹿じゃないって」
朝美は不敵な笑みを浮かべる。
「ふふふ。それは、どうかな。――ま、上がって、上がって」
「お邪魔しまーす」
春木陽香は閉じた傘を横に立て、靴を脱いだ。由紀の靴は隠してあった。由紀は脱衣所の角に隠れて、山盛りのヘアームースを載せた紙皿を左右の手に一枚ずつ持ったまま、春木を待ち構えている。
朝美が廊下の先に手を向けて、春木に促す。
「ま、どうぞ、どうぞ。お客さんは先に」
訝りながら、春木陽香が廊下をリビングへと向かう。
朝美は春木を先に歩かせて、背後で笑いを堪えていた。
「くくく……由紀が来てることには気付いてないな。このまま廊下を歩いていけば、脱衣所から出てきた由紀のダブル攻撃で、顔にヘアムースがベチャ、グチャ、じゃ。くくく」
脱衣所の入り口の手前で春木が立ち止まり、振り向いた。
「ん? 何か言った?」
朝美は慌てて首を振る。
「ううん。何も。別に。さ、さ、行って、行って」
春木陽香は立ち止まったまま朝美に言った。
「それでね、朝美ちゃん。実はね、お母さんが倒れたのよ。感電して」
朝美は頷いた。
「へー。そうなんですか……ええー! ママが? 感電?」
「でも大丈夫。命に別状は無いし、意識もはっきりしてるから。髪の毛がちょっと逆立っちゃったけど。ピーンって」
「そうなんだ……」
山野朝美は眉を寄せた。
春木陽香は提げていたレジ袋の中を漁りながら言った。
「だから、ビタミン成分が入ってる補修用のヘアスプレーを買ってきた。お母さんに使ってもらって」
春木からスプレー缶を受け取った朝美は、軽く頭を下げた。
「あ、ありがと。じゃ、洗面台に置いてくる」
彼女はヘアスプレーの成分表記を読みながら、春木の横を通って脱衣所に向かう。
「由紀い、作戦は中止……」
「ちぇすとお!」
飛び出してきた永山由紀が、左手の紙皿を朝美の顔面に押し付けた。
「あれ……」
そう言って、由紀は動きを止めた。
突然現われた由紀を見て、春木が言った。
「あら、由紀ちゃん。何やってるの……?」
由紀は、ヘアムースが盛られた紙皿を右手に乗せたまま、左手を朝美の顔面に向けて突き出した姿勢で挨拶した。
「ははは、虹パンお姉ちゃん、こんにちブッ」
朝美が由紀の右手を持ち上げて、由紀の顔面に紙皿を押し当てる。
顔中ヘアムースまみれの山野朝美は、鼻からムースを噴出しながら言った。
「クンッ、クンッ。――中止って言ったべ!」
顔に張り付いた紙皿を外した永山由紀も真っ白な顔の鼻からムースを飛ばして答えた。
「フンッ、フーンッ。ゴホッ。――申し訳ない。聞きそびれた。ゴホッ」
顔面を白い泡で覆っている二人を見て春木陽香が言った。
「あの、君たち……いったい、何をやってるのかな」
春木陽香は首を大きく傾げながら、リビングの方に歩いていった。
リビングのドアを開けると、ダイニングテーブルの向こうの空間は、猛烈に散らかっていた。
春木陽香は唖然とする。レジ袋をダイニングテーブルの上に置き、リビングの方に向かう。散乱するお菓子の袋や色鉛筆などを見回して、少し溜め息を吐いた。
リビングテーブルの上には立体パソコンが置かれていた。上に宿題のホログラフィー画像が浮かんでいる。周囲に散らばっている紙に描かれたみかんの絵や、テーブルの上に散乱するコンパスや三角定規が、朝美と宿題との格闘を物語っていた。
春木陽香は正直に朝美を褒めた。
「お、やってるな」
朝美と由紀が頭をバスタオルで拭きながらリビングに入ってきた。
朝美が言った。
「受験生ですから当然ですな。ちゃんと勉強しないと」
春木陽香は頷きながら言った。
「偉い偉い。勉強は中学生の仕事だからね」
由紀がバスタオルで髪を拭きながら言う。
「なら、朝美は無職じゃん。うっ」
朝美にカンチョウされた由紀は、お尻を押さえて背伸びをした。
春木陽香はレジ袋から食材を出しながら言った。
「それでね、お母さんは今夜一晩は病院に入院して、念のため検査とかしてもらうから、今日は私が、お夕飯を作ってあげる。ハルハルの特製オムライス。どう?」
朝美は目を大きくした。
「ホントに? イヤッホオイ!」
嬉しそうに飛び上がる。
春木陽香は由紀にも言った。
「由紀ちゃんも食べるでしょ。卵も一パック買ってきたし。お母さんに電話しなよ」
由紀はお尻を押さえながら言った。
「もちろんです……つう。いただきます。……」
台所に回った春木陽香は、シンクで手を洗いながら言った。
「じゃあ、ちょっと待っててね。今作るから。君たちは、それまで部屋の片付けね。編集長が帰ってきたら、怒られるよ、これじゃ」
朝美がリビングに駆けていく。
「ほーい。ほら、由紀、手伝って」
由紀が口を尖らせながら言う。
「ていうか、散らかしてるの、朝美じゃん。まったく……」
二人はリビングの片付けを始めた。
10
工事が終わった新日ネット新聞の社会部フロアでは、通常通りに記者たちが業務に取り組んでいた。原稿提出の締め切り時間が迫り、フロアの中は慌しい。
そんな中、神作チームの席の面々は動きが止まっていた。重成直人は硬い表情で腕組みをしている。永山哲也もパソコンをにらんだまま眉間に皺を寄せていた。
重成直人が呟いた。
「やられたな……」
顔を上げた永山哲也が永峰に尋ねた。
「千佳ちゃんのパソコンは」
ヘッド・マウント・ディスプレイを装着したまま仮想空間を必死に覗いていた永峰千佳は、手を宙で動かしながら答えた。
「駄目です。こっちも消されてます。奥野大臣の収賄の資料も、この前のインタビュー記事も。ああ、裁判所から返してもらった資料とか、司時空庁から取り返した資料も消されてます」
永山哲也は頭を抱えて椅子に仰け反った。
「ああー、くっそおー。やられたあ。じゃあ、僕が南米で撮影して送ったバイオ・ドライブの画像も消されてるわけかあ」
ヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま、永峰千佳が頷いて言った。
「せっかく深層ファイルに隠してたんですけどね。やられました。私が作った特製ファイヤー・ウォールも突破されています。レベル高いなあ……何者なのよ」
重成直人は自分のパソコンを操作しながら言った。
「クラマトゥン博士とAB〇一八の関係についての資料も全て消されているな。いつの間にやられたんだ」
「たぶん、さっきの工事業者でしょ。中にニセモノが紛れていたんですよ」
フロアの中を見回しながらそう言った永山哲也は、壁際の本棚の上に置かれているペン立てに目を止めた。椅子から立ち上がり、そちらに歩いていく。
永峰千佳が指先を宙で動かしながら言った。
「バックアップ・データから復元すれば……」
永山哲也はペン立てから一輪の青い花を取って言った。
「無駄だね。きっとそっちも消されてる。シゲさん、今日、ここに来た作業員の人数を業者に問い合わせてもらえませんか。千佳ちゃん、避難誘導システムにアクセスして、ここのフロア・ゲートの人体感知センサーの記録から、工事していた時間にこのフロアにいた人間の数を確認してくれないかな」
永峰千佳が答えた。
「記録されているかどうか分かりませんけど、やってみます」
電話機のボタンを押している重成の前に、永山哲也が一輪の青い花を投げ置く。目線を向けた重成に、永山哲也が言った。
「あいつですよ。例の『刀傷の男』。はあ……」
そして、自分の机に戻ると、もう一度パソコンを操作し始めた。
暫くして、彼は項垂れて言った。
「やっぱりだ。バックアップのドライブ・ボックスからも消されてる。こりゃ、サーバーもやられてるなあ、きっと」
重成が電話機の通話口を手で覆いながら永山に言った。
「ここに送った作業員は十二名だそうだ」
永山哲也は重成に言った。
「マイクロ・レーザー・メスを持たせたか、訊いてもらえますか」
永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを外して、さっきの永山の指示に答えた。
「あの時間帯だと、二十五名から、最大三十一名ですね」
永山哲也は腕組みをして天井を見上げた。
「ハルハルも入れて、社員は十八名いたはずだから、一人多いかあ」
重成直人が電話を切って言った。
「永山ちゃん、レーザー・メスなんて高価な物は持たせていないらしい。一級技師じゃないと持っていないそうだ」
永山哲也は頭を掻きながら顔をしかめた。
「はあ……アイツかあ。目の前にいたのに……」
重成直人が深刻な顔で言う。
「どうするよ。こっちの手持ちの取材データが無くなっちまったぞ」
永山哲也は言った。
「夕刊のアップロードまで時間が無いですよね。――他のチームはどうですか」
隣のチームの記者が手を振って答えた。
「いいや、こっちは大丈夫だ。何も消されてない」
永山哲也が更に尋ねる。
「クラマトゥン博士の記事関係は」
その記者は頷いた。
「残ってる。問題ない。だけど、ただの交通事故としての資料しかないぞ」
永山哲也は嘆息を漏らした。
「やっぱりなあ。狙われたのは、僕らの方のディープな資料だけかあ」
永峰千佳がしかめた顔で言った。
「腹立ちますね、やることが姑息で。ていうか、物理的に攻撃されたら、仮想防壁も意味無いじゃない。反則だろっつうの」
永峰千佳は怒っていた。
重成直人は永峰に視線を送りながら、永山に言った。
「とりあえず、今日は真明教でいくとして、問題は奥野大臣の収賄ネタだな。こっちの証拠資料が無いんじゃ、記事を書いても否定されて終わりだぞ」
永山哲也は軽く手を振って答えた。
「いや、そっちは大丈夫です。予定通り週刊誌の記事掲載の反応を見て、週明けには記事を出せると思います」
永峰千佳が怪訝そうな顔で言う。
「でも、下の方もデータを盗まれたんですよね。明日の『週刊新日風潮』、どうするつもりなんでしょうね」
永山哲也はエケコ人形貯金箱を持ち上げて、永峰に見せた。
「大丈夫、コイツが幸運を引き寄せてくれる」
永峰千佳は呆れた顔で言った。
「また、それですか。永山さん、南米に浸り過ぎなんじゃないですか」
そこへ、ドタドタとした足音を鳴らしながら、別府博が駆けてきた。
「ほら、来た」
永山哲也はエケコ人形貯金箱を持ち上げたままニヤリと笑う。
別府博は神作の机に激突するかのようにして停止し、濃い顔を突き出して言った。
「永山さん、ハルハルから聞きました。永山さんに明日の記事のバックアップ・データを預けてあるって。MBCをハルハルから預かっていませんか?」
永山哲也は、上に持ち上げたエケコ人形の底を覗いて蓋を開けた。中から「春木札」を取り出すと、それを別府に渡して言った。
「はい。これでしょ。いや、さすがに幸運の神様だね。あの『刀傷の男』も、エケコ様には手を出さなかったみたいだ」
それは、表面にサインペンでお札の絵柄が描かれているMBCだった。
別府博はそのMBCを高く持ち上げて、嬉しそうに言った。
「おお、これです、これ。助かったあ。下の記事データが盗まれちゃって、明日の記事、どうすんだって話になってたんですよ。うおお、ラッキー」
永山哲也が別府を指差して言う。
「ラッキーなんじゃなくて、ハルハルが、こういう時のために備えていてくれてたんですよ。ああ、それ、この前送られてきた収賄ネタの証拠資料データのコピーも入っているらしいから、全部こっちにもコピーさせて貰っといていいですか。来週の記事に使わしてもらいたいんだけど」
別府博は頷きながら言った。
「どうぞ、どうぞ。でも、急いでくださいよ。こっちも印刷の時間ギリギリですから」
永峰千佳が別府に手を出して言う。
「だったら早く渡しなさいよ」
そこへ上野秀則が駆け込んできた。
「大変だあ」
重成直人が呆れ顔で呟く。
「まったく、いそがしい職場だね、ここは」
上野秀則は慌てた様子で言った。
「た、大変だぞ。警察に、司時空庁の松田が逮捕されたみたいだ」
永山哲也が眉間に皺を寄せた。
「松田部長が?」
上野秀則が頷く。
「そうだ。あの津田長官の右腕の男だ。ウチの警察記者クラブの記者がサツ回りの最中、特調の赤上と車に乗って地下駐車場に入っていく松田千春を見かけたらしい。降車する時にはワッパを掛けられていたそうだ」
「手錠掛けてるってことは、任意じゃないわけかあ。逮捕したのに、公表は無しですか」
永山哲也が腕組みをしたままそう言うと、重成直人が厳しい顔つきで言った。
「正式な逮捕なのかどうか判らんぞ。なんせ『特調』のやることだからな」
机越しに永山と永峰が視線を合わせる。
上野秀則が少し間を空けてから言った。
「――とにかく今、警察担当記者が裏取りをしているんだが、どうも警察の口は堅いらしい。何か変だ」
永峰からMBCを返してもらった別府博が言った。
「じゃあ、僕、下に戻ります。――ああ、忙しい。ああ、大変だ」
別府博はゲートの方にドタドタと足音を鳴らして走っていった。
永山哲也は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「警察が、しかも公安の特別調査課が、司時空庁職員を逮捕。このタイミングで。いったい、どうなってんだ?」
彼は頭を掻いた。上野秀則も腕組みをして考える。
机の上では、エケコ人形貯金箱が両手を上げて笑っていた。
11
山野朝美と永山由紀は、ダイニング・テーブルに仲良く並んで座っていた。二人の前には、それぞれ、湯気を立てたオムライスが盛られた皿が置かれている。黄色くふっくらとした卵の上には、茶色の洋風ソースと白いクリームソースで綺麗な網が描かれていた。
二人は手を合わせると、声を揃えて言った。
「いっただっきまーす」
カウンターキッチンの向こうから、春木陽香が笑顔で頷く。
朝美と由紀は、スプーンですくったオムライスの一切れを口に運ぶと、次々に感想を放った。
「ウマし!」
「マイウー!」
様子を伺っていた春木陽香は、顔を少し上に向けて言った。
「でしょ。フフン。オムライスには自信があるんだよねえ」
「モグ、モグ、これは、いける。カプ、モグ、モグ、モグ」
「マジ、美味しいね。カプ、モグ、モグ。うん、最高。モグ、モグ」
春木陽香は、競うように食べる二人を見ながら、笑顔で言った。
「デザートに『レモンチーズケーキ』も作ったからね。後で食べてみて」
「マジ? すっげー」
「よし。モグ、モグ、モグ。レモンチーズ、モグ、ケー……モグ……ゴホ、ゴホ」
フライパンを洗いながら、春木陽香が微笑んで言った。
「そう慌てなくてもいいよ。固まるまで時間掛かるから。ゆっくり食べなよ」
「食べなよ、だって。なよ。なんか、お姉さんぽくね?」
「だね。今度から、由紀もそうやって喋り『なよ』」
「そうやって喋ってみるわよ『なよ』。カプ、モグ、モグ」
春木陽香はハンカチで手を拭きながらダイニング・テーブルに移動し、二人の向かいの椅子に座った。テーブルの上に春木の分のオムライスは置かれていない。
スプーンを止めた朝美が、キョトンとした顔で言った。
「あれ、お姉ちゃんは食べないの」
「うーん。ちょっと大人の夕食には早いからね」
それを聞いた由紀が朝美に言った。
「大人の夕食。ヌヒヒヒ。いやらしかあ」
「何でよ。まだ仕事があるんです。これから会社に戻らないといけないの」
そう言った春木に山野朝美が言った。
「大人って大変だね」
春木陽香は頷いて見せた。
「そうよ。お母さんだって、そうでしょ」
朝美は上を向いて少し考えてから言った。
「――そっかあ。いつも慌ててるもんなあ」
春木陽香は少しお姉さん口調で二人に言った。
「お母さんも、お父さんも、頑張ってるのよ。由紀ちゃんのお父さんとお母さんも。みんな大変なんだから」
朝美は首を傾げた。
「その大変さが、いまいち子供には分かんないんだよねえ。カプッ。モグ、モグ、モグ」
「はあ……」
春木陽香は残念そうな顔をして項垂れる。
すると、由紀が春木の顔を覗くように見て言った。
「ねえ、お姉ちゃん、ちょっと訊いていい?」
「なに?」
「お姉ちゃんは、どうして記者になろうと思ったの? カプッ、モグ、モグ、モグ」
「うーん……」
春木陽香は上を向いて色々と思い出した。彼女は懐かしそうな顔で二人に話す。
「高校の時にね、新聞部だったの。で、二人みたいに仲のいい親友がいて、その子と一緒に頑張って取材して、記事を書いて……まあ、高校生のレベルだけどね。それで、この仕事もいいかなあって。なんか、世の中のためになりそうでしょ」
朝美が言った。
「じゃ、世の中のために働いてるんだ。スーパー・ヒーローみたいだね。かっちょいい。カプ、モグ、モグ、モグ」
由紀も言う。
「ハルハルマンだ。違った、ハルハルウーマンか。すげっ」
「由紀ちゃんのお父さんや、朝美ちゃんのお父さんも、そうなんだよ。朝美ちゃんのお母さんも」
春木陽香がそう言い聞かせると、朝美が上を見て言った。
「そっかあ。哲也マンに、真哉マンに、紀子ウーマンか。名前考えないといけないな、こりゃ。カプッ。モグ、モグ」
由紀が提案した。
「執筆戦隊キシャレンジャー」
朝美が、コスチュームに身を包んだ自分の両親と由紀の父親を想像しながら言った。
「キシャレンジャー。くくく、うける」
春木陽香が由紀の顔を見て付け加えた。
「遊撃隊の祥子さんウーマンが抜けてるわねえ。それに、新聞や週刊誌は数人で書いてる訳じゃないんだよ。もっと大勢の人たちが協力して、みんなで書いてるだから。別府先輩とか、永峰先輩とか、シゲさんとか、うえにょ……上野デスクとかね」
朝美が目を丸くして声を裏返した。
「シゲ? シゲだって。ハルハルとシゲシゲ。虫か。くくく」
由紀が春木に尋ねた。
「上野さんって、ハーフ?」
「ハーフ……ああ、『デスク』ってのは役職。次長さんっていって、偉い人……のはず」
朝美が言う。
「でも、パパもママも、『うえにょ、うえにょ』って言ってるよ。あのヒョウタン顔の人でしょ」
「ああ! あの人か。にょろんってした人。ヌハハハ」
由紀も朝美の方を向いてそう言った。
春木陽香は、なんとか上野の名誉を回復させようとする。
「ああ……ええと、ホントに偉い人なんだよ。ただ、威張ってないだけ。それに、物凄くいい人。だから、編集長たちも尊敬の念を込めて、『の』を『にょ』に……違うか……」
困惑している春木の顔をスプーンを咥えて見つめていた朝美は、またキョトンとした顔で言った。
「そうなんだ。パパも親友だって言ってたもんなあ」
春木陽香はすぐに応えた。
「そうだね。いい友達みたいだもんね。ああ、そうだ。二人も仲良くしないと駄目だよ。さっきみたいにヘアムースを顔に押しつけ合ったりしたら」
「あれは、友情の儀式じゃ」
「そ。我らの友情は永遠なり。イェーイ」
朝美と由紀はハイタッチをした。春木陽香が微笑む。
朝美が春木に尋ねた。
「お姉ちゃんも、その高校の頃の友達とは、今も親友なの」
春木陽香は少し悲しそうな目になった。彼女は小さく頷いて答えた。
「うん、そうだね。――でも、もう居ないけどね」
朝美と由紀は黙って顔を見合わせた。
春木陽香が話題を変えた。
「それより、朝美ちゃん。お父さんの釣竿、修理できたの」
「大丈夫。工作の天才、由紀氏に外注に出したから」
「もう少しで完成。パテと接着剤で繋いで、割り箸と輪ゴムで補強。ガムテープで強度を増して、んー、これで現代の名工『
由紀の解説を聞いた春木陽香は、猛烈な不安を覚え、首を傾げた。
「ホントかなあ。すぐ折れそうだけど……」
由紀は自信満々で答える。
「大丈夫、大丈夫。その代わり、畳めないけど」
「駄目じゃん、それじゃ」
肩を落とした春木に、由紀は言った。
「んー。だから、一本抜いて三本で再構成。短くしといた。コンパクト・イズ・ベスト」
「……」
目を細めて由紀を見つめる春木に、朝美が後ろの棚から棒を取り出して言った。
「由紀って、すごいんだよ。お姉ちゃん、見て。使わない一本に穴を開けて、こうして縦笛に……ピロロー、ピロピロ……」
額に手を当ててテーブルに肘を乗せた春木陽香は呟いた。
「ああ……いい竹を使ってるからね。音はいいけどね……駄目だコリャ」
朝美と由紀は、また顔を見合わせた。そして一緒に首を傾げる。
顔を上げた春木陽香は、言った。
「宿題は。宿題は終わったの、朝美ちゃん。ちゃんと毎日提出してる?」
朝美は眉間に皺を寄せて答えた。
「うーん。出すには出してるんだけどね。やり直しで戻って来る。採点不能です、再提出して下さいだって。だから、すっげー溜まってる」
春木陽香も眉を寄せて言った。
「それ、ヤバイじゃん。また、何とか授業になっちゃうよ」
朝美は大きく頷いた。
「そ。ヤバイ。イチイチダイダイのピンチ。ご馳走様」
由紀が通訳する。
「一世一代のピンチだそうです。同じく、ご馳走様」
春木陽香は頭を抱えた。
「うーん。また、疑いの余地なくピンチだね、それ」
すると、山野朝美が神妙な面持ちで春木に声を掛けた。
「ねえ、あの……」
「ん?」
顔を上げた春木に、朝美は少し遠慮したような感じで尋ねた。
「虹パンのお姉ちゃん、頭いいんだよね。記者だし」
「いや、まったく意味が分かんないけど」
朝美は上目遣いで春木に言った。
「あの……よかったら、ちょっとだけ、勉強を教えてくれると……」
春木陽香は口を開けて頷いた。
「ああ、そういうこと。うーん、そうねえ……」
朝美は両手を合わせて懇願する。
「お願い。この通り」
春木陽香は朝美の顔を覗きこんで言った。
「もう、イタズラしない?」
「しない。絶対にしない。ね、由紀」
「あ……うん。――ちぇっ、つまんないの」
春木陽香は由紀の顔を覗きこんで言った。
「なんと? 親友が困っているのですぞ」
「あ、はい。しません。絶対にしません」
由紀はプルプルと顔を左右に振った。
春木陽香は姿勢を正すと、人差し指を立てて言う。
「それから、『虹パンお姉ちゃん』も無し。『ハルハルお姉ちゃん』で行こう」
朝美はコクコクと高速で頷いた。
「わかった。了解。ばっちりインプット。ハルハルお姉さま。いや、ハルハル大先生」
「よーし。じゃあ、教えてあげる」
「マジ? イヤッホオイ!」
山野朝美は満面の笑顔で飛び上がった。
春木陽香は、それに合わせる様に立ち上がると、言った。
「その前に、レモンチーズケーキを食べよっか。お姉ちゃんもお腹すいて来ちゃった」
由紀が安心したように言う。
「お姉ちゃんの分もあるの? じゃあ、食べよう」
「今持ってくるから……」
春木陽香は二人が綺麗に平らげたオムライスの皿を持って、キッチンへと向かった。朝美と由紀は、ワクワクとしながらレモンチーズケーキを待つ。
やがて、皿の上に切り置かれたレモンチーズケーキが二人の前に並んだ。薄黄色の柔らかそうなケーキを前にして、朝美と由紀は狂喜乱舞するかのような喜びようである。
山野朝美がガッツポーズをして言う。
「うおお! レモンチーズケーキじゃあ」
永山由紀は真上から斜めからと皿の上を覗いて言った。
「すっげー、美味しそう」
自分の分もテーブルに置いて椅子に座った春木陽香は言った。
「初めて作ってみたから、味は分かんないけど。じゃ、いただきます」
朝美と由紀は大きな声を揃えて言った。
「いっただっきまーす! カプリ」
舌の上で味を確かめながら、春木陽香が呟いた。
「うーん、ちょっと酸っぱ過ぎたかなあ。付属のレモン油を入れ過ぎたなあ……」
視線を上げると、朝美と由紀は口にスプーンを咥えたまま両肩を上げて固まっている。
春木陽香が尋ねた。
「あれ、酸っぱかった? 子供にはキツかったかあ」
震えながら立ち上がった朝美と由紀は、口を膨らましたままキッチンへと駆け込んだ。必死に飲み込んだ山野朝美は、口を窄めながら言った。
「酸っぱいという感覚も分からんくらい、酸っぱい。これが大人の味かあ」
咀嚼物を空気と共に一気に飲み込んだ由紀も言った。
「はー。自分の口の中に自分が吸い込まれるかと思った。酸っぱ過ぎる。大人すげー」
朝美は冷蔵庫からアイスレモンティーのペットボトルを取り出して蓋を開けた。そのまま一気にラッパ飲みすると、それを由紀に手渡す。由紀も慌ててラッパ飲みした。
顔を見合わせた二人は、同時に口から穀物酢を噴出する。
「ブハッ……ゲホッ、ゴホッ、酢……ゴホッ……酢……ゴホッ、ゴホッ……」
少し酸っぱそうな顔をしながらレモンチーズケーキを食べていた春木陽香は、キッチンに目を向けた。朝美と由紀が涙と鼻水を垂らして咳込んでいる。
春木陽香は自分のレモンチーズケーキをもう一口食べてみて、味を確かめた。少しだけ酸っぱいが、咳込むほどではなかった。
春木陽香は二人を見ながら首を傾げていた。
12
車椅子の老人は洋館の窓から外の景色を眺めていた。その洋館から海岸に向かって下がる斜面には低木が立ち並び、一面を丸い緑色の葉と赤い小花が埋め尽くしている。海風が吹くと、その斜面は赤い波を描いた。その美しい風景を眺めている老人の顔は険しい。彼の背後には刀傷の男のホログラフィーが投影されていた。
車椅子の老人は擦れた声で尋ねた。
「どうじゃ、すべて消してきたか」
『はい。全て抹消いたしました。ハード・ドライブのデータまで、レーザーメスで綺麗にね。復元も不可能です。一人、上級プログラマーレベルの手強い奴がいると聞いていましたが、ドライブに物理的に接触できればこっちのものです。楽勝でした』
「そうか。これで奥野の記事が世に出ることは無い訳じゃ。津田は奥野を操れなくなる」
『でしょうな』
刀傷の男はニヤリとした顔で頷く。老人は背中を見せたまま尋ねた。
「西郷の方は」
『私兵の撤収の準備をしています。今頃はロボット搬出の準備中でしょう』
老人は慌てて車椅子を反転させた。
「な、なんじゃと。あの大型ロボットを秘密裏に日本国内に持ち込むのに、どれだけ苦労したと思っているんじゃ」
『私に言われましてもねえ……』
刀傷の男は老人の顔を見て眉間に皺を寄せる。そして、目線を逸らして言った。
『しかし、まだ国との交渉は始まってはいないのに、先に警備態勢の解除とは妙ですな』
老人は少し考えると、刀傷の男のホログラフィーを指差しながら言った。
「西郷にメッセージを送れ。ロボットを直ちに元の配置に戻すか、ワシに逆らって早めに死ぬか。どちらか選べとな」
『承知しました』
怪訝そうな顔をしたまま刀傷の男のホログラフィーは頭を下げて停止し、消えた。
老人は、灰緑色の乾いた頬を引き攣らせ、窪んだ眼を剥いて呟いた。
「こんな所でひっくり返されてたまるか。もう二度と御免じゃ。二度とな」
老人は苦しそうに呼吸をしながら、車椅子の肘掛を強く握り締めていた。
13
山野家のマンションでは、リビングのラグマットの上に春木陽香と山野朝美が横に並んで座っていた。春木がリビング・テーブルの上に直線定規を掲げて、目盛りを指差している。隣の山野朝美は、春木の指先に真剣な眼差しを送っていた。
「ね、ここがゼロ。いち、に。ここがプラスの二。二かける三は、二を『同じ方向に』三倍だから、二、二、二。ニサンが六でしょ。だから、プラスの六」
「ふん、ふん」
朝美が頷くと、春木陽香は定規の左右をひっくり返した。
「じゃあ、今度はマイナスね。ここがゼロ。マイナスだから左にいち、に。ここがマイナス二。マイナス二かける三は、マイナス二を『同じ方向に』三倍ってこと。だから左に、マイナス二、マイナス二、マイナス二。答えは、マイナス六」
「うんうん」
春木陽香は、もう一度、定規をひっくり返す。
「次に、二かけるマイナス三。二は、ここ。『マイナス三倍』ってのは、『三倍だけど本当はひっくり返りますよ』ってこと。まず、三倍。プラス六。ひっくり返ると……」
春木陽香は定規を時計回りに回して左右を逆にした。それを見て、朝美が驚いたように言った。
「マイナス六だ」
「そ。じゃあ、マイナス二かけるマスナス三は?」
朝美が早口で答える。
「マイナス二を同じ方向に三倍だけど、『本当はひっくり返る』ってことだから、マイナス六がひっくり返って――プラス六!」
「正解。だから、マイナスかけるマイナスは、すべてプラスの答えになるの」
「おお! そっかあ。週末ゴールデンシネマ劇場は関係ないんだ」
「――うん。絶対に関係ないと思う」
春木陽香が自信をもってそう答えると、山野朝美は早速、自分の前に立体パソコンを移動させ、その上にホログラフィー文書で浮かんでいる数学の宿題に取り掛かった。
「うーん、すっきりした。なるほどね。じゃあ、この問題にチャレーンジ。ええと、マイナス一五六かけるマイナス四五は……四十五倍がひっくり返って、プラスの……プラス七〇二〇。――お、正解だ。やった」
春木陽香は少し驚いた顔で言った。
「計算速いね」
「そろばんをやってたからね。
「ふーん……そうなんだ。勝手に思い込んじゃ駄目だね。坂道の上の家と同じかあ……」
「坂道?」
ホログラフィー画面から顔を放した山野朝美は、キョトンとした表情で春木を見た。
春木陽香は向かいで寝転んでいる少女に顔を向ける。
「ううん。なんでもない。――あれ、由紀ちゃんは……、寝ちゃったか」
再び宿題に顔を向けた山野朝美は、次々と問題を解いていきながら答えた。
「ああ、由紀は食べたらすぐに眠くなるタイプだから、放っとけばいいよ」
春木陽香は腕時計を見た。
「うわっ、ヤバ。こんな時間だ」
春木陽香は立ち上がった。朝美の立体パソコンから正解を知らせるチャイム音が何度も鳴っている。安心したように微笑んだ春木陽香は、朝美に言った。
「じゃあ、私はそろそろ会社に戻るね」
「うん」
朝美は返事をした後、もう一度、春木の方を見て言った。
「あ、お姉ちゃん。ありがと。すっげースッキリした」
「んー。ピンチを脱したとは言えないけど、諦めずに頑張ってね。ファイト」
「うん。やれるだけ、やってみる」
春木陽香が大きく頷いて応えた。
永山由紀が目を覚ました。
「ふにゃ……ああ……れ、お姉ちゃん、帰るの?」
「明日は発刊日だからね。由紀ちゃんも、お父さんが迎えに来るまで一人で帰っちゃ駄目だよ。もう暗くなりかけてるから」
「ふぁー……い。あ、オムライス、ご馳走様でした。レモンチーズケーキも」
寝ぼけ眼でそう言った由紀に朝美が消しゴムを投げつけた。
「コルァ、由紀。シャキッとせんか、シャキッと。ウチら、受験生ですぞ」
編集長とそっくりの言い方をする朝美を見て、春木陽香はクスクスと笑っていた。
14
春木陽香が山野のマンションの一階にあるエントランスから外に出てきた。周囲は少し暗くなっている。坂の下には新市街の明かりが並んで見えた。春木陽香は腕時計を見ながら歩き始める。
顔を上げると、街灯の下に浮かぶ人影が目に入った。長く高いその人影は、背筋を曲げてこちらに近づいてくる。その男は春木に声をかけた。
「おお、ハルハル。なんだ、こんな時間まで居たのか」
「あ、神作キャップ。編集長のお具合、どうでした?」
神作真哉は両肩を上げて答えた。
「ああ。手先に軽度の火傷を負ったみたいだが、他は何とも無いようだ。今は検査疲れで眠ってる。ガーガー
「大事を取るように言って下さい。編集長、すぐに無理するので」
お姉さんぶった雰囲気で話す春木が可笑しかったのか、神作真哉は笑いながら言った。
「ああ、言っとくよ。――それより、飯は朝美と一緒に食ったんだろ」
「あ、えっと……由紀ちゃんも来てたので、二人分作って、私は遠慮しました。どうせ会社に戻らないといけませんし」
「あ? マジか。――ったく、何やってんだ、あいつら」
神作真哉は頭を掻きながら、しかめた顔を山野の部屋の階に向けた。
春木陽香は微笑んで言う。
「夏休みの宿題ですよ。朝美ちゃん、真剣に取り組んでました。あ、そうだ。これ」
春木陽香は神作に小さな紙袋を差し出した。神作真哉はそれを受け取りながら言った。
「ん? なんだ、これ」
「レモンチーズケーキです」
神作真哉は紙袋の中を覗いた。中には、黄色く照り輝くケーキを詰めたタッパーが入っている。
春木陽香は少し照れくさそうに言った。
「朝美ちゃんの夜食の分もと思って多めに作ったんですけど、朝美ちゃんには酸っぱ過ぎたみたいなので。丁度、今から病院に持って行こうかと思ってたんです。編集長がもうお休みでしたら、神作キャップが召し上がって下さい」
神作真哉は申し訳ない様子で眉を寄せた。
「こんな物まで作ってくれたのかよ。随分と手間がかかったろ。悪かったな」
「あ、いいえ。実はインスタントの『手作りセット』なんですけど……朝美ちゃんたちには言わないでくださいね」
春木陽香は首をすくめて気まずそうに笑った。
神作真哉も笑顔で頷くと、ズボンの後ろに手を回しながら言った。
「ああ、そうだ、こっちも、これ」
彼はポケットから取り出した封筒を差し出して言う。
「少ししか入ってないが、受け取ってくれ。今日の材料代とか、いろいろ。足りるかどうか分からんし、今時、現金で悪いんだが……」
春木陽香は首を振りながら、封筒を押し返した。
「いや、そんな。受け取れません」
神作真哉は封筒を前に突き出す。
「いいから。後輩に娘の夕食まで作らせて、材料代も持たせたら、俺も恰好がつかないだろ。紀子にも叱られるし。黙って受け取ってくれ。大した額は入ってないから」
「そんな……でも……」
「いいから」
神作真哉は春木の手を取ると、無理矢理に封筒を握らせた。そして、紙袋を少し持ち上げて言った。
「じゃあ、これ、有り難くいただくよ。ちょうど酸っぱい物が食いたかったんだ。暑いからな。ありがと」
マンションのエントランスへと向かう神作に春木陽香が言った。
「あ、そうでした。由紀ちゃんは、帰りに永山先輩が迎えに来るそうです」
「そうか。おまえも気をつけて帰れよ。どうせ、どっかから監視されているはずだから」
春木陽香は周囲を見回しながら言った。
「はあ……じゃあ、失礼します」
春木陽香は神作に一礼すると、街灯に照らされた坂道を下っていった。
小さな影が坂の下へと消えていく。
暫らくして、その坂の上に停まっていた一台の白いバンがライトを点けた。そのバンは静かにゆっくりと走り出し、坂道を下っていった。
二〇三八年八月二十日 金曜日
1
財務省下駅。名前の通り財務省ビルの真下の地下に作られた地下リニア鉄道の駅は、財務省だけではなく、他の省庁のビルへも連絡通路で繋がっている。ホームに到着したリニア列車から大勢の乗客が降りてきた。朝の通勤ラッシュの時間帯である。国の中央省庁で働く人間でなくとも、今日一日の戦いに備える人々の表情は険しい。鞄を提げた労働者たちは肩をぶつけながら速足で歩き、それぞれの出口へと進んでいく。
改札口までの長い連絡通路は人々で混雑していた。通路の途中には、民間のコンビニの店舗がガラスの壁を連ねている。どの店の店内も通勤客で溢れていた。
そのコンビニの中もそうだった。皆、朝の短い時間をそれぞれに過ごしている。腕時計を見ながらプラズマ・コーヒーが注がれた耐熱紙コップを持ってレジの前に並ぶ人。プラスチック製のカゴに菓子パンやカップ麺を詰め込む若い男。弁当コーナーの前で左右の手に持った弁当のカロリー表示を見比べている女。窓際の雑誌コーナーでホログラフィーのマンガ雑誌を立ち読みをする中年のサラリーマン。その隣で紙製の雑誌を立ち読みしている白いスーツの男。その白いスーツの男は片方の目の上にある刀傷に皺を寄せると、読んでいた雑誌を激しく床に投げ捨てた。近くで床にモップを掛けていた店員が振り向き、男に注意する。男は店員の言葉を無視したまま、横に居た中年のサラリーマンを押し退けてその場を去り、何も買わずに店から出て行った。男の傷の無い方の目は眉尻を上げ、吊りあがっている。彼の口は、下唇が上の前歯によって押さえられ、強く硬直していた。
リニア列車から降車した人々が進む方向とは反対に進んで行く刀傷の男は、向かってくる人々を手で押し退けながら、肩を怒らせて歩いていった。
男が出て行ったコンビニの店内では、彼が床に投げた雑誌を店員が拾い上げていた。店員は溜め息を吐きながら手で表紙の埃を払うと、それを元の棚の位置に戻す。平積みにされた同じ雑誌の最上部に重ねられた「週刊新日風潮八月二十日号」には、水着姿の女性アイドルの写真の横に、大きな文字が躍っていた。
コミッション・インポシブル
国防大臣奥野恵次郎の黒い真実
国防軍は外資系私企業に金で動かされているのか!
2
司時空庁長官室に朝日が差し込む。津田幹雄は、今朝発売された「週刊新日風潮八月二十日号」を膝の上で広げて読みながらコーヒー啜っていた。秘書室のドアが開き佐藤雪子がやって来ると、津田幹雄は視線を誌面に落としたまま佐藤に尋ねた。
「どうだ、松田君と連絡はついたかね」
「いいえ。今朝も出勤されていないようですわ」
津田幹雄はコーヒーカップを机の上に置いて言った。
「STSの警戒態勢を一段階上げろ。それから、暫く待っても松田が出勤してこないようなら、一応、監視要員を数名使って探させるんだ」
「はい。そういたします」
「軍は作戦を開始したんだな」
「先程、オムナクト・ヘリ四機が多久実第一基地から発進したそうですわ。先に出発した兵員輸送用の装甲車両五台は、すでに施設周辺に到着しているみたいですわよ」
「そうか。ここに至っては奥野大臣も後には引けまい」
津田幹雄は机の上に週刊新日風潮を放り投げると、椅子の背もたれに身を倒した。
「しかし、新日の連中、こちらの思惑通りの記事を書いてくれた。これで奥野恵次郎はまな板の上の鯉だ。あとは辛島総理がどう判断するかだな。総理の帰国予定は」
「変更はございませんわ。今日の午後、こちらに到着される予定です」
「さては外遊名目でのヨーロッパ各国との調整が上手くいったか。南米戦争が終わるな。そうなると、次は選挙だ。このタイミングで奥野を更迭するのをためらうか、選挙を見据えて、あえて更迭してみせるか。仮に辛島総理が更迭を見送ったとしても、裏で奥野に辞職を迫るだろう。こちらとしては、それがベストだ。どちらにしても、来週中には片が付く。その頃には私と総理の話し合いも終わっているはずだ。その後は、今後、国防軍を指揮するのは私だし、SAI五KTシステムを掌握するのも私だ」
佐藤雪子が津田の肩に手を乗せて言った。
「そして、この国の実権を握られるのも、ですわね」
津田幹雄は肩の上の佐藤の手を握りながら言った。
「まあ、見ていなさい。これが『ワンサイド・ゲーム』という奴だよ」
津田幹雄は零れる笑みを抑えきれなかった。彼はいつまでも笑っていた。
3
派手な柄のカーテンの前に鮮やかな色調の椅子が並んでいる。その横には珍しい形の葉を四方に垂らした観葉植物が飾られていた。西郷京斗のオフィスはカラフルである。そのガラス張りの社長室からは、フロアに卍型に並べられた机に向かう若い女性従業員たちの姿が一望できる。
葉巻を手にした西郷京斗は艶のある真っ白なソファーに脚を組んで深く座り、向こう側にホログラフィーで映し出された二人の女性と話していた。彼女たちのスカートから出ている膝に時折視線を送りながら、彼はニヤニヤとして言う。
「本当に大丈夫なんですか、こんなことを進めて」
フランス語で話すニーナ・ラングトンの横でナオミ・タハラが同時通訳を始めたが、西郷は左手を上げてそれを止めた。彼は同時通訳ソフトが再生する合成音声の吹き替えに耳を傾ける。ニーナ・ラングトンが発するフランス語に少し遅れて、若い女性の声で再現された日本語が聞こえてきた。
『閣下も、そう長くはないご様子。閣下にもしものことがあれば、組織はバラバラに分散するでしょう。そうなれば、これまでの味方同士も敵になります。今のうちに足場を固めておかなければ、生き残れません』
西郷京斗は葉巻でラングトンを指しながら言う。
「ですが、これはあまりにも、あからさま過ぎるのではないですか。ご老体が血圧を上げませんかね」
ニーナ・ラングトンは微笑んで言った。
『それなら、ベターです』
西郷京斗はラングトンの目を見て片笑んだ。
「酷なジョークだ」
葉巻を一咥えした西郷京斗は、口の中で回した煙を強く吐くと、少し鼻を啜って再び話し始めた。
「まあいい。とにかく我々は、当初の閣下の指示とは真逆の方向に動いている訳だ。いざという時のことも考えておいて下さいよ。どんな証拠も絶対に残さないように」
ニーナ・ラングトンは頷く。
『当然です。もちろん、成功した時のことも考えてあります。あなたの処遇も』
西郷京斗は灰皿の縁で葉巻を叩いて灰を落とすと、言った。
「処遇ね。ま、それはそれとして、一度、私と一緒にディナーを楽しむとも、お約束いただいていたはずだが」
ニーナ・ラングトンは足を組み直しながら微笑んだ。
『もちろん忘れてはいません。楽しい夜が迎えられることを期待しています』
スカートから少し覗いている彼女の膝に視線を落とした西郷京斗は、そこから彼女の体を舐めるように視線を上げ、最後に彼女の唇を見つめて言った。
「私もだ」
彼は再び葉巻を燻らせると、煙を一吐きしてから言う。
「とにかく、国防軍の配置が無事に終わったら、また連絡しましょう。国防軍を動かしている奥野大臣は我が社の言いなりだ。ということは、AB〇一八の施設を実質的に支配するのは、我が社だということになります。閣下はもう、AB〇一八には近づけなくなるはずだ。我々の許可無しではね。その後いずれは、IMUTAも掌握できる。そこまで行けば我々の完全なる勝利です。その後は安心して夜を楽しめますよ。二人きりでね」
西郷京斗は甘いマスクに卑猥な笑みを浮かべた。
ニーナ・ラングトンは妖艶な微笑みを見せて応える。
『その夜が楽しめるよう、良い報告が届くことを期待しています。では、後ほど。あなたに幸運が訪れますことを祈っています』
通訳ソフトの直訳を耳に残して、二人のホログラフィーが視界から消えた。
煙に乗せて溜め息を吐いた西郷京斗は呟いた。
「同時通訳ソフトか。興ざめだな」
ドアがノックされた。西郷が返事をすると、ドアが開き、タイトスカートを穿いた若い女の秘書が、谷間を見せた胸元の前に雑誌を抱えて入ってきた。彼女はその雑誌を西郷に差し出して言う。
「社長、新日風潮社から、お届け物です」
西郷京斗は椅子に座ったまま手を伸ばす。前屈みで雑誌を渡す女の胸元に視線を据えながら、彼はその雑誌を受け取った。
「ああ、ありがとう」
その女は一礼すると背中を見せて帰っていく。西郷京斗は女が部屋から出るまで、彼女のタイトスカートに浮き出たヒップを見つめていた。女がドアを閉めると、口角を上げたまま、受け取った雑誌の表紙を見る。
「週刊新日風潮?」
西郷京斗は葉巻を握ったまま、組んだ脚の膝の上でその雑誌を開いた。
「今時、紙製の雑誌か。懐かしいさが売りなのかね……」
頁を捲っていた西郷の手が、奥野の記事の頁で止まる。彼は慌てて足を解き、葉巻を灰皿に押し当てた。ガラス製の応接テーブルの上に雑誌を置いた彼は、前かがみになると、顔を近づけて記事を読んでいく。暫らく真剣に読んだ後、頁を捲ったり戻したりしながら彼は言った。
「どうしてだ。なぜだ。これでは、奥野大臣が更迭されてしまうじゃないか!」
西郷京斗は背中を丸めて、もう一度記事を読み直した。彼の足は細かく震えている。
再びドアがノックされた。西郷京斗は記事に顔を向けたまま答えた。
「どうぞ」
白い革靴が部屋の床に音も無く底をつける。西郷京斗は熱心に記事に目を通していた。
男の声がする。
「奴らにしてやられましたな」
西郷京斗が顔を上げると、目の前に、白いスーツを着た刀傷の男が立っていた。
4
国防大臣室の黒い革張りの重役椅子に座っている奥野恵次郎は呆然としていた。手から落ちた「週間新日風潮」が床の上で頁を広げている。それは、奥野と西郷の贈収賄の記事が見開きで掲載された頁だ。
奥野恵次郎は椅子の背もたれに身を倒したまま、宙を見つめて呟いた。
「どうしてだ。どうして、こうなるんだ。そんな馬鹿な……」
背もたれから身を起こした奥野恵次郎は、机の向こうに怒鳴った。
「資料は、すべて回収したんじゃなかったのか!」
机の向こうには、ホログラフィーで津田幹雄が投影されている。
奥野恵次郎は彼の立体映像をにらみ付け、指差した。
「貴様か。貴様が記事を出させたのか。裏切ったな」
津田幹雄のホログラフィーは、落ち着いた様子で首を横に振る。
『まさか。私は大臣とは一蓮托生ですよ。まあ、もともと新日の連中が持っていた情報です。きっと、どこかに取材資料のコピーデータを隠し持っていたのかもしれませんな。ですがね、心配は要りませんよ。バイオ・ドライブさえ手に入れれば、こんな記事など、痛くも痒くも無い。言い訳は何とでもつきます』
奥野恵次郎は下唇を噛んだ。
「ぬうう……。こうなった以上、探索を急がせんといかんな。総理が帰国するまでには、ケリをつけなければ」
津田のホログラフィーは口角を上げて頷く。
『そうです、そのイキです。さすがは我が国の軍隊を統括されているお方だ。頼もしい。AB〇一八の施設に国内最強の実力部隊である国防軍の一団が配置されれば、警察も検察もあなたには簡単には手が出せんでしょう。あとは勢いですよ、勢い』
奥野恵次郎は肘掛に手を載せて、椅子の背もたれに勢いよく体を倒すと、太い声で言った。
「分かっておる。それより、そっちはちゃんと閣僚たちや官僚たちへの根回しを済ませたのだろうな。こっちは貴様の要求どおり、再雇用した元軍人を今日の訓練兵たちの中に混ぜ込んだんだぞ。不名誉除隊になったような奴らを再雇用することが手続き上どれだけ大変だったかは、官僚の貴様なら、よく分かっているだろう!」
津田のホログラフィーは目を瞑って頷いた。
『重々承知しております。お手数をお掛けしました。こういう時には、汚れ仕事を引き受ける人間が必要だと思いましてね。ま、来週あたりには早々に訓練兵を卒業させて、実弾を使用できる正規兵に戻しておいて下さい。彼らを使う時が、きっとやってきますから』
奥野恵次郎は津田のホログラフィーを指差しながら怒鳴った。
「貴様に言われなくても、必要な時に使える人材は揃えておるわい。いつも汚れ仕事は、そいつらにやらせておる。中途半端な除隊兵など、端から当てにはしておらん」
津田幹雄は落ち着いた声で言った。
『混ぜて使えばいいんですよ。そうすれば、短期間ならホンモノと変わらない。でも混ぜ物だから商品価値が無い。商品価値がない物は、いつ捨てても惜しくない』
奥野恵次郎は少し間を空けた後、片笑みながら頷いた。
「なるほどな。まあいい。とにかく、今日中に探索を開始させる。結果を知らせるから、待っていろ。そっちは総理周辺に網を張っておくんだ。総理が帰国しても、何も動きが取れんようにしておけ。いいな」
津田のホログラフィーは奥野に鋭い視線を送りながら言った。
『勢いが良過ぎるのも、問題ですな。大臣に救いの手を差し伸べたのは私であることをお忘れなく。では、報告を待っています。失礼』
奥野の顔をにらんだまま、津田のホログラフィーは停止し、消えた。
奥野恵次郎は舌打ちをして言う。
「津田の奴……たかが長官風情が調子に乗りやがって。こっちは国務大臣だぞ」
津田のホログラフィーの背後に立っていた増田基和が言った。
「長官は何かを企んでいるように推察されますが」
奥野恵次郎は鼻で笑った。
「させておけ。所詮は先の無い『庁』の事務屋に過ぎん。それより、準備は出来ているんだな」
「はい」
増田基和が返事をすると、奥野恵次郎は増田に厳しい視線を向けて指示を発した。
「記者共は頃合を見てさっさと始末しろ。津田が奴らを利用せんとも限らんからな。方法は任せる」
「では、その件についての指揮権は、全面的に私の方にご委譲いただくということでよろしいのでしょうか」
奥野恵次郎は頷いた。
「うむ。全て君に任せる。現場の判断は君の方が長けているからな。その代わり、絶対にしくじるな。国の未来のためだと思って、本腰で取り組んで欲しい」
増田基和は姿勢を正して返事をする。
「は。元より、そのつもりです。では、これより早速、準備にかかります」
「頼むぞ」
「は。失礼します」
一礼した増田基和は、出口へと歩いていった。
大臣室から廊下に出てドアを閉めた増田基和は、ネクタイの上に留めたイヴフォンのボタンを押した。増田の左目が青く光る。
廊下を歩きながら、彼は通話を始めた。
「私だ。国防大臣から正式に指揮権を委譲された。これよりプランを決行する。司令室に各自、状況を報告しろ。命令は追って下す。以上だ」
イヴフォンのボタンを押して通話を切った増田基和は、速足で廊下を歩いていった。
5
新首都の上空を三機のオムナクト・ヘリが飛行していく。迷彩塗装を施されたそれらの特殊ヘリは、互いに無線で交信しながら、AB〇一八の施設へと向かって飛行していた。
機内では、壁の握り棒に掴まったフル装備の訓練兵たちが、左右の壁際にそれぞれ一列に並んで立っていた。
コックピットの後ろの壁の横で大きな受話器を耳に当て、教官の軍曹が叫んでいる。
「了解! 繰り返す。ポイントM、ヒトマル、サンマル、P。アクセルレベル・ツー。作戦コード二マル一を実行する。通信終わる」
素早く受話器を壁に戻した教官は、その横のスイッチをオンにした。室内灯が赤い色に変わる。それは、訓練兵たちへの降下準備の合図であった。
教官は怒鳴る。
「いいか、ヒヨッコ共。実戦になれば、ベテランも新米も区別せずに敵の弾は飛んでくるぞ。速やかに降下しろお!」
一人の訓練兵が壁の方を向いた。
教官はその訓練兵を指差して言う。
「おいおい、まだだ。――ったく、落ち着け」
教官は機内を見渡して声を張った。
「これから、警備ポイントの建物図面と敷地図面を各自の左腕の端末に送る。暗号ロックの確認を忘れるな。警備ポイント名は『AB〇一八施設』。外国企業の所有物だが、国民生活には必要不可欠な重要施設だ。気合を入れて哨戒しろ。各自の配置ポイントは図面上に緑色で表示される。降下したら訓練通り速やかに散開し、自分の防衛担当位置に移動するんだ。移動アクセルレベルは二。実戦では遅くても四か五だからな。これでモタついていたら承知しねえぞ!」
教官は横を向き、壁際の椅子に座って立体パソコンを見ている伍長に指示を出した。
「よし。配備司令図を全員に送信しろ」
伍長はホログラフィーのキーボードの上で指を動かし、作戦に必要な情報を各訓練兵の左腕の端末に送った。
訓練兵たちはそれぞれ、左腕に装着したパネルを覗き込んでいる。
教官の怒鳴り声が飛んだ。
「いいかあ、訓練だと思って甘く見るんじゃねえぞ! 降下の危険性は、実戦も訓練も変わりはねえ!」
機体が軽く揺れ、室内の灯が消えた。暗闇の中、各訓練兵の横の壁に小さな緑色のライトが点灯する。
教官は言った。
「よーし。全員、粘性ワイヤーの発射装置を準備。装置側面の粘度数値をチェックしろ。稀に不良品もあるからな」
各訓練兵は腰から拳銃のような形をした機械を取り出し、その側面につけられた粘度計の色が青色である事を確認する。その様子を教官が見回していると、一番奥の訓練兵が発射装置を何度も傾けて、防弾マスクを装着した顔に近づたり離したりしていた。
教官が声を掛けた。
「どうした? 問題か」
その最後尾の訓練兵は防弾マスクの下から裏返った声を出した。
「暗くて、よく見えないのよ。こんなちっちゃな緑色の電気じゃ……」
教官は怒鳴りつける。
「バカヤロウ! 何のために戦闘マスクを装着してるんだ。マルチ・バイザーを暗視モードにしろ! 暗視モードに。フルカラーで見えるだろうが!」
その訓練兵はヘルメットの横のスイッチを押した。
「あ、ホントだ。すみませーん、オーケーでーす」
軽い返事をしたその訓練兵に、教官は更に怒鳴る。
「弛んどるぞ貴様! もっと緊張感を持て!」
そのまま他の訓練兵たちを見回して大声で指示した。
「よーし、粘性ワイヤー固着!」
訓練兵たちは一斉に壁の方を向いた。機内に、防弾プラスチック製の背嚢が向かい合わせに並ぶ。各訓練兵は壁に向かって粘性ワイヤーの発射装置を構えた。緑色の小さなランプに先端を近づけて引き金を引くと、発射装置からピンク色の粘液が発射され、緑色の小さなLEDライトに付着して、その表面を覆った。そこから粘り気のある太い糸が発射装置の先端まで伸びている。暗くなった機内で、各訓練兵たちは発射装置の先端を付着位置に近づけた。
教官は言う。
「まだワイヤーを引くなよ。常温では、一分程度で固まって崩れるからな。瞬間接着剤なんかと同じだ。強制凝固スイッチにも触れるんじゃねえぞ。降下の途中で凝固させたら、ワイヤーが固体化して風化しちまう。何も無しで、四十メートルの高さから落下だぞ。ワイヤー粘液の放出量も注意して調節しろ。多すぎてダマになったら、そこで切れちまうことも……」
最後尾の訓練兵が叫んだ。
「早くしなさいよ! 固まっちゃうでしょ!」
教官は気まずそうな顔で咳払いをしてから、叫ぶ。
「よーし、降下ハッチを開けろ!」
各訓練兵の前の壁が、天井との接合部を
機内に強風が吹き込む中、教官は壁の手すりに掴まりながら怒鳴り続けた。
「おまえらはヒヨッコだあ。発射装置から手が離れないよう、しっかりと安全帯で固定しろよ。おい、そこの三番目、ちゃんと安全帯を手首に固定しろ」
教官に指差された大柄な訓練兵は言った。
「慣れてんだよ。素人と一緒にすんじゃねえ」
最後尾から甲高い声が響く。
「早くしなさいって! ワイヤーが固まっちゃうでしょ。何モタついてんのよ」
教官は少し慌てて言った。
「よーし、下を確認したら、高さと敵の位置を頭に叩き込め。今日は訓練だから……」
三番目の大柄な訓練兵が勝手に飛び降りた。
教官は更に慌てる。
「あ、馬鹿、勝手に……くそ、降下だ。全員、降下開始い!」
訓練兵たちは次々と飛び降りていった。上に張り出した壁から伸びる粘性物質に支えられて、糸を伸ばす蜘蛛のようにゆっくりと降りていく。訓練兵たちは右手の粘性ワイヤー発射装置の引き金を軽く引いて調節しながら、粘性ワイヤー液を少しずつ放出し、ピンク色の糸を細く伸ばして降下していった。
機内から心配そうに下を覗く教官に、壁際の椅子に座っている伍長が言った。
「軍曹、いきなり実際の降下は早すぎたんじゃないですか」
教官は下を覗きながら言った。
「そうだなあ。数名を除いて、全員素人だからな……」
各訓練兵の粘性ワイヤーは糸を引いて伸び、フル装備の訓練兵を地上へと低速で下降させていった。訓練兵たちは心配そうに粘性ワイヤーの太さを見ながら、慎重に粘液を射出していたが、彼らを吊っているそれぞれのワイヤー粘液の太さは一定ではなく、細く切れそうになっていたり、玉になっていたりと、誰もが今にも落下しそうな有り様だ。降下の速度も一定ではない。途中で止まっている者もいた。
機内からその様子を覗いていた教官は、コックピットの方に顔を向けると、ヘルメットの耳の部分に手を添えて言った。
「機長、機体高度を限界まで下げてくれ。粘性ワイヤーが切れて、落下する奴が続出するかもしれん」
教官は手すりを強く握ると、心配そうに再び下を覗いた。
最初に飛び降りた大柄な訓練兵は既に地上に到着していた。その周囲に、スムーズに降下を遂げた数人の訓練兵たちが着地していく。彼らは、着地の直前でワイヤー粘液の凝固スイッチを押した。ワイヤー粘液に微弱電流が流れ、粘液が瞬間的に固まる。固体化したワイヤーは、すぐに細かな塵状になって風に散った。
風に舞うワイヤーの塵の中で、最後尾から飛び降りた訓練兵が降下している。彼は玉になったワイヤー粘液の下で両足をバタつかせて騒いでいた。
「わ、わ、わ、落ちちゃう、落ちちゃうわよ! ワイヤーも切れちゃうかも。私は納豆の粒粒じゃないのよ。なんで、こんなこと……わっ、ちょっと、切れそうじゃないの。糸が細くなってるわ!」
他の訓練兵たちのワイヤー粘液も切れそうである。その時、オムナクト・ヘリが訓練兵たちを吊り下げたまま、垂直に急速降下し始めた。ワイヤー粘液が切れた訓令兵が、一人ずつ悲鳴をあげて落下していく。最後尾から降りた訓練兵も落下した。
「あっらー落ちちゃうわあ! ――って、あ
オムナクト・ヘリは地表に程近い高さまで降下していた。落下した訓練兵たちは、落ちてすぐに地面にぶつかった。降下の勢いで地上すれすれの高さまで機体の底を近づけたオムナクト・ヘリは、フル回転させた四つの回転翼から真下に烈風を噴き放って停止して地面への激突を回避すると、さらに強い風を吐いて急上昇していく。その真下で、落下した訓練兵たちがヘルメットごと頭を左右に振ったり、鎧の上から腰を押さえたりしながら地面に寝転がっている。
上昇途中のオムナクト・ヘリから教官と伍長が粘性ワイヤーで降下してきた。スムーズに降下してきた二人は、着地と同時に当たり前のようにワイヤーを凝固させ風化させた。
教官は速やかに回りを見回して怪我人の有無を確認する。落下した訓練兵たちは皆、体を起こし立ち上がろうとしていた。負傷者はいないようだった。教官は伍長と視線を合わせて安堵の息を吐く。そして周囲に向けて声を張った。
「オラオラ、モタモタするな! さっさと配置に付け。ここは戦地だぞ、戦地い!」
ヨロヨロと立ち上がる訓練兵たちを蹴り上げながら、教官は荒声を飛ばす。
「オラッ、さっさと立て! 実戦なら撃たれているぞ。ホラ、ホラ、走れ、走れ、走れ。それじゃあ、アクセル一にもならんだろうが! もっと急げ!」
訓練兵たちは、降下した駐車場から奥に建つ巨大な建物の方へと駆け足で移動していった。その最後尾で、一人の訓練兵が腰を押さえながらヨタヨタと内股で走っていく。
駐車場に数台の緑色のトラックが入ってきて急停車した。各車の荷台の幌が持ち上げられ、中からからフル装備の訓練兵たちが飛び降りてきた。彼らは降下した訓練兵たちの後を追うように、施設の中に走っていった。
6
日の丸が記された白い機体が新首都総合空港の滑走路に停まっていた。その大きな公用ジェット機を背にして、何人ものリポーターやキャスターたちが、それぞれのカメラの前でマイクを握っている。タラップから手を振りながら夫人と共に降りてくる辛島総理の姿がテレビニュースの電波に乗って全国に届けられた。その画を背景にして、パシフィックテレビのニュースキャスター藤崎莉央花がマイクを握り、視聴者に向けて熱く語る。
『ええ、辛島総理が今、機内から姿を見せました。五日間に及ぶヨーロッパ外遊を終え、今日帰国した辛島総理が、政府専用機のタラップを下りてきます。非常に晴れ晴れとした表情です。中四日でヨーロッパ各国を歴訪し、各国首脳たちと親睦を深めたということですが、アメリカをはじめとする環太平洋連合諸国の首脳たちも交えての連日の晩餐会は、実質的に、ヨーロッパ諸国を仲介役とする南米戦争終結のプロセスを協議するための事前協議だったとの評価もあります。ええ、とにかく、連日のハードスケジュールを終え帰国された総理には、ホッとした表情も見受けられます。夕方には、外遊についての感想を正式にコメントされるとのことであり……』
辛島勇蔵は作り笑顔で手を振りながらタラップを降りる。祖国の大地に降り立った彼はSPたちに囲まれて夫人と共に移動し、黒塗りの公用車へと向かった。夫人が先に乗った後、辛島が乗り、秘書官によってドアが閉められる。その長身の秘書官は素早く助手席に乗り込んだ。ドアが閉まるとすぐに車が走り出す。記者団の間を抜け、後方のカメラのフラッシュの光が小さくなると、辛島勇蔵は上げていた口角を下げた。
助手席の秘書官が口を開く。
「総理。地下高速は避けて、一般道を移動するルートに変更しました。幹線道路も回避しますので、旧工事用道路を抜けて、寺師町東に移動します。よろしいでしょうか」
「『ガテン道』か。懐かしいな」
少し片笑んでそう呟いた辛島勇蔵は、本来の厳しい顔に戻して言った。
「結構だ。任せる」
運転手に合図を送った秘書官は、後ろを向くことなく言った。
「急報が一つございます。国防軍の訓練部隊が、今朝、AB〇一八の施設に訓練兵を派遣したそうです」
辛島勇蔵は外の景色を眺めたまま応えた。
「そうか。規模は」
「中隊一個。さらに、訓練教官として正規兵二十四名が参加しております。また、バックアップとして、情報局の偵察隊から小隊が一個、周囲に展開しているとの報告です」
辛島勇蔵は鼻で笑う。
「小賢しい。で、奥野君から報告は」
「大臣から特には。通常の連絡ルートで訓練日程が上がってきました。もちろん、こちらから拾い上げてのことですが」
辛島勇蔵は横を向いたまま言う。
「だろうな。施設にいた傭兵団は、既に退去したのだな」
「はい。そのように報告を受けています」
「ギブソン大統領とは話ができた。後のことは向こうに任せよう」
短く溜め息を吐いた後、辛島勇蔵は前を向いて言った。
「さて、帰ったら我が家の害虫駆除をせんといかんな」
パトカーに先導された黒塗りの公用車が空港から市街地に向けて走っていく。その先では、遠くにある工場地帯に並ぶ高い煙突が青空に黒い煤煙をなびかせていた。
7
防弾マスクで顔を覆ったその訓練兵は、息を切らしながら、細く長い廊下を駆け足で進んでいた。突き当たりの壁にぶつかると、すぐに左腕に装着した立体投影パネルに視線を移し、その表面に浮かんで表示されたホログラフィーの各階平面図を確認する。そこから壁の左へと視線を動かすと、遠くまで延びる廊下の先には、両開きの自動ドアらしきものがあった。百八十度視界を回して、壁の右方向の廊下を見ると、先は突き当たりになっていて、更に左右に廊下が走っている。再び左腕の立体地図に視線を戻し、自分の位置をもう一度確認しながら、その訓練兵は泣きそうな声で呟いた。
「もう、どうしよう。迷っちゃったじゃない。早く警備位置につかないと、また教官さんにお尻をガツンて蹴られちゃうわ。どっちに行ったらいいのよ」
訓練兵は顔を覆っていた防弾マスクを外すと、右手に持っていた自動小銃の銃口を床につけ、左右の太腿と膝で挟んで立てた。
彼は額の汗を拭った。
「どうして、こんな迷路みたいな造りにするのよ。分かんないじゃない」
戦闘具に身を包んだ
『よーし、ヒヨッコ共、配置についたな。これから百二十分の哨戒態勢維持だ。いいな、各配置ポイントには教官がランダムに見回りに行く。それに気付かないようなら、その場で腕立て五百回だ。しっかり見張りやがれ。いいな!』
勇一松頼斗は慌ててマスクをつけると、又の間に挟んでいた自動小銃を肩に担いで、右の方向に走っていった。
「ご、五百回! またなの。これじゃ、マッチョになっちゃうじゃないの。冗談じゃないわ。ああ、もう。どっちなのよ!」
勇一松頼斗は、ずれた防弾マスクを何度も顔の前に持ち上げながら、内股でスコスコと走っていく。角を曲がると、先の階段の陰に隠れるように素早く消えた人影を発見した。
「あ、誰かいたわ。あの人に訊いてみようかしら」
勇一松頼斗はその人影の後を追っていく。上りと下りの階段の前に出た彼は、首を傾げながら呟いた。
「早いわねえ、もう居ないわ。ええと、どっちに行ったのかしら。上かしら、下かしら」
勇一松頼斗はマスクを再び外して、それを腰のベルトに掛け、鼻を上下に動かした。
「男のフェロモンは分かるわよ。クンクン……下ね。待ちなさい、お兄さん。ちょっと道を教えて……」
勇一松頼斗は急いで階段を駆け下りた。
下の階に出ると、廊下の先の角から何やら光が漏れ出ていた。勇一松頼斗は息を切らしながらその角まで進み、角から少しだけ顔を出して先の様子を覗いてみた。角を曲がった廊下の先で、自分と同じ装備に身を包んだ男が、ドアの前でこちらに背を向けて屈んでいた。ドアノブの辺りに位置していたその男の頭部の向こうからは、点滅する青白い光が漏れている。男が足下に置いた工具を拾おうと顔を横に向けた。その点滅する光に照らされた横顔を見た勇一松頼斗は、すぐに角のこちら側に身を戻した。
「さっき真っ先に降下した人じゃない。前に軍隊経験があるとかいう。あの人、一階のロビーの配置じゃなかったかしら。こんな所で何やってんのよ」
勇一松頼斗は左腕の上に薄く広がったホログラフィーの平面図を覗き込み、自分の位置を確認した。
「もう、分かんないじゃない。ここ、どこなのよ。ええー? あの人、何やってるのよ」
勇一松頼斗は角からもう一度、今度は慎重に頭を出した。すると、さっき男が前で屈んでいたドアが開いていて、男の姿は消えていた。好奇心に駆られた勇一松頼斗は、すぐに半開きのドアに駆け寄り、そのドアノブを覗きこんだ。
「あらら、電磁誘導ドライバーね。鍵穴から差し込んで、ドアの向こう側から鍵を開けるヤツ。こんな物を使うなんて、随分と手が込んでるわねえ……」
そう小声で呟くと、勇一松頼斗は腰を低くして、ドアを静かに押し、中に入って男を捜した。自動小銃を背中のランドパックの上に引っ掛けて、四つん這いで静かに移動する。
暗い部屋の中には制御パネルのようなものが幾つも並んでいて、左右の壁には沢山の計器が並んでいた。突当りの壁はガラス張りになっており、その向うに、もう一つ小部屋があるようだった。ガラスの向こうで時折、非常灯の光を人影が隠した。さっきの男である。男は、その小部屋の中の引き出しや小さな扉を片っ端から開け、中を確認していた。
勇一松頼斗は顔をしかめて呟いた。
「何やってんのよ、あの人。入隊してすぐにコソ泥かしら。ああ、癖が悪いから前も除隊になったとか。きっとそうね、柄も悪そうだったし。あのての輩には関わらない方がいいわ。退散、退散っと」
勇一松頼斗は、そのまま反転すると、音を立てないようにドアの方に向かった。半開きのドアから身を出そうとした時、背中の小銃の端がドアに辺り、高い金属音を鳴らした。ガラスの向こうから男の声が響く。
「誰だ! そこに居るのは!」
その声に驚いた勇一松頼斗は、慌てて部屋の外に出ると、急いでドアを閉め、そこから駆け出した。
「もう、なんで私が逃げなきゃなんないのよ」
訓練兵・勇一松頼斗はスコスコと小股で走っていく。
角を曲がった勇一松頼斗は、一旦立ち止まった。呼吸を整えていると、後方でドアが開く音がした。彼は再び走り出した。階段を駆け上がり、廊下に出て、更に必死に走る。
T字路の所で角を曲がった途端、誰かとぶつかり、相手と共に激しく床に転倒した。
勇一松頼斗は腰と額を押さえながら言った。
「いたたた。あんたね、どこ見て歩いてんのよ! 痛いじゃ……あら、教官さん」
教官は顔面を押さえたまま床に転がっている。
「うう……き、貴様あ! 何やっとるかあ! 貴様の哨戒範囲は反対側の棟の、便所の前だろうがあ!」
「いや、あの、怪しい兵隊が一人居たので……」
立ち上がった教官は言った。
「兵隊だあ? 嘘を言うな、嘘を。このブロックに配置要員は居ないはずだぞ! 哨戒スペースは、ここから西と、ここから東だ。ここの地下にあるAB〇一八に敵を近づけさせないための哨戒だろうがあ! 最初から中心部に後退していてどうするんだ! さっさと持ち場に戻れえ!」
教官は拳を振り上げる。
勇一松頼斗は左右の手で頭を覆うと、首をすくめてその場を立ち去った。
走っていく勇一松の背中をにらみながら、教官は呟く。
「あの馬鹿が。だからオッサンの採用には反対したんだ。まったく……」
教官はブツブツと文句を言いながら、T字路の突き当たりを左に曲がり、先へと進んでいった。突き当たりのドアが閉まる音がした後、そのT字路にさっきの男が姿を現した。男は左腕の立体地図を確認すると、勇一松が進んで行った方向へと走っていった。
8
新日風潮社の編集会議室には、いつものメンバーが集まっていた。山野紀子がいつものように楕円形の会議テーブルの上座に座っている。その前の左右の席に春木陽香と別府博が座り、春木の隣に永山哲也、その向かいに重成直人が座っていた。神作真哉は永山の隣の席で背もたれに身を倒している。彼の向かいに座っている上野秀則は、自分が末席に座らされていることに不満そうな顔をしていた。会議テーブルの上には一台の立体パソコンが置いてあり、そのカメラとマイクの部分にビニールテープが貼ってある。部屋の天井の隅に設置されている防犯カメラにも目張りが施されていた。
少しだけ髪型が変わった山野紀子は、全ての指先に巻かれている絆創膏を一枚ずつ剥がしながら言った。
「これで奥野は崖っぷちに立たされた。もう下手には動けないわね。あとは、津田がどう出るか……ああ、もう。なんでこんなにピッタリと貼るかな……」
絆創膏をしかめ面で剥がしている山野を見ながら、永山哲也が心配そうに尋ねた。
「ていうか、ノンさん、大丈夫なんですか」
山野紀子は、剥がした絆創膏を振りながら答える。
「ああ、平気、平気。逆に肩こりが治って調子いいかも。指の火傷も大したことないし」
神作真哉が真剣な顔で言った。
「みんな心配したんだぞ。別府以外は」
別府博がもっと真剣な顔で言う。
「心配してましたよ。全力で」
山野紀子は笑って言った。
「ごめん、ごめん。でも、本当に大丈夫だから」
腕組みをした重成直人が、背もたれに身を倒しながら言った。
「しかし、ハルハルちゃんのお蔭で、連中に一泡吹かせてやれたな」
永山哲也も言う。
「ホント、起死回生の一撃でしたね。ハルハルの機転に救われた。まさか、僕の『エケコ人形貯金箱』の中にバックアップデータを隠してるとは誰も考えないだろうからなあ」
春木陽香は手を顔の前でパタパタと振って言った。
「いや、そんな。前にうえにょデスクに、『バックアップは別に保管しとけ』って言われたので、それならって思っただけです」
「上野だ。ちゃんと聞いてるぞ」と言った上野の後で、山野紀子が自慢気に言う。
「ま、私の普段の教育がいいってことね」
神作真哉が山野を指差しながら言った。
「いいとこ取りすんなよ。なんで、おまえはいつもそうなんだ」
絆創膏を途中まで剥がした手を下ろして、山野紀子が神作に噛み付く。
「いつもとは何よ、いつもとは」
いつもの口喧嘩が始まりそうだったので、上野秀則が割って入った。
「まあ、とにかく、これで奥野も西郷も顔を青ざめさせているはずだ。二人が逮捕されるのは時間の問題だからな。あとは辛島総理が手早く奥野を切るかどうか、それ次第だな」
別府博が尋ねた。
「逮捕されるまで、奥野を国防大臣に据え続けたら、どうします?」
上野秀則は首を横に振る。
「それは無いな。現職の国務大臣の逮捕には内閣総理大臣の承諾が必要だが、閣僚に汚職の嫌疑が掛けられて逮捕の承諾を検察から求められたとなれば、総理は国会で野党から監督責任を追及される。しかも、南米戦争が終息するなら、近いうちに必ず総選挙となるはずだ。その時のことも考えて、辛島総理は先手を打って早々に奥野大臣を罷免するに違いない。その後の逮捕なら、監督責任を野党から突かれることはないからな。だから奥野の逮捕はその後だ。問題は総理がいつ奥野を罷免するか。そのタイミングだな」
神作真哉が上野に言う。
「いや、分からんぞ。辛島総理としては、検察当局が動き出す前に、奥野が自発的に大臣も国会議員も辞職してくれれば、それがベストなはずだ。だから、まずは奥野への説得工作に取り掛かるんじゃないか」
山野紀子も神作に同調した。
「そうね。それで、奥野が辞職を固辞してまごまごしていたら、司時空庁の津田はその間隙を縫って国防軍を動かしてくるかもしれない。死に体となった奥野の権限を利用して」
重成直人が山野に尋ねる。
「そのバイオ・ドライブとかいうモノを、ASKITから無理矢理に奪うってことかい」
山野紀子は頷いてから答えた。
「それと、AB〇一八の破壊。あの生体コンピュータは津田の失態の証拠となる情報も記憶しているはずだから」
神作真哉が続けた。
「それに、田爪博士の研究データもな。もしそれをAB〇一八が取り込んで記憶しているとしたら、津田がバイオ・ドライブごと研究データを手に入れても、大して価値は生じない。津田としては、自分だけが世界最先端の科学技術情報をすべて握っている状態にしたいはずだ。元を消し去ることを考えるに違いない」
春木陽香が重成の顔を見て言った。
「もしSAI五KTシステムが停止したら、大変な事になるんです。人が沢山死んだり、戦争が起こったり」
山野紀子が言う。
「世の中が地球規模で混乱する。南米戦争の戦後処理どころじゃなくなるわ」
上野秀則が言った。
「今の国内の政治状況で、もしそんなことになったら、津田の天下だな。そしたら、最後は……」
永山哲也が先を言った。
「タイムマシンですね。僕が送ったタイムマシンが二〇二五年の大爆発の原因だったと国際社会に公表される。一個人の行為だと。それで国家としての国際社会からの責任追及を免れようとする」
「津田自身の責任もな」
神作真哉が付け足すと、山野紀子が厳しい顔で頷いてから言った。
「津田が実権を握れば、それこそ、証拠の捏造でも何でもやりたい放題だからね」
「あるいは、そういったことをネタに、こっちに封じ込めを掛けてくるか」
その声がした会議室の入り口に全員が顔を向けた。山野紀子が驚いた顔をして尋ねる。
「杉野副社長。どうして、こちらに」
新日ネット新聞社の重役が下階の新日風潮社まで足を運ぶのは珍しい。それを知っている記者たちは、皆一様に驚いた顔をしていた。
ズボンのポケットに両手を入れて立ったまま会議室内を見回していた杉野副社長は、ビニールテープが貼られた立体パソコンや防犯カメラを見て眉間に縦皺を刻むと、山野に顔を向けて答えた。
「こっちの社長と話をしていたんだ。今回の件は、ウチと君たちとの連携記事として掲載することで話がついた。編集方針はそれぞれ別々だが、掲載する文面等については、新聞と週刊誌で矛盾が生じないよう協議して決めることにした。『風潮』には悪いが、当面のスケジュールは日刊新聞であるウチに合わせてもらう。それを言いにきた」
山野紀子は不満そうに言った。
「新聞が仕切るってことですか」
「表向きはな。現実問題として、その方が信用が高い。だが、掲載する記事の内容や取材方法については、これまで通り、君らで自由に決めてくれ。こうやって協議してな」
永山哲也が軽く手を挙げて質問した。
「あの、ビル全体の外部ネットワークからの切断の件は……」
「それで進める。ここのサーバーは記事の保管用として使用し、ネット新聞の掲載には、その都度、外部の代行業者のサーバーを使う。ただし、その代行業者へ記事データを送る際には、ネット通信を使わない。つまり、その日に発行する新聞データを手運びで業者まで持ち込んで、そこで直接アップロードするということだ。そのため、原稿データ提出のタイムリミットが一時間繰り上がるが、事態が解決するまでは仕方がない。何とか持ちこたえてくれ」
「一時間! マジですか」
神作真哉は目を丸くしてそう言うのも無理はなかった。 彼ら日刊新聞の現場記者にとって、一時間の原稿データ提出時限の繰上げは大きいからだ。一度神作と顔を見合わせた上野秀則が杉野副社長に尋ねた。
「外部業者って、どこなんです?」
「ステムメイル社だ。新興の大手ネット広告代理店だが、設備はいい。サーバーの容量も処理能力も、ウチの新聞掲載に十分耐え得る。セキュリティーについても基準をクリアしているという評価だ。あそこなら問題ない」
山野紀子が真剣な目で指摘した。
「SAI五KTシステムにとっても問題じゃないわよね。たぶん、簡単に突破する」
杉野副社長は頷いた。
「そうかもな。一応、ステムメイル社の方では、専用サーバーを一台別に準備して、SAI五KTシステムには接続しない形で、直接、ネットワークとオンラインさせるそうだ。ま、インターネットに接続している以上、結局は同じなのだろうが、ウチの方で独自にそれだけの準備をしている時間は無いから、それに乗るしかない。この土日で各種の工事を済ませて、月曜からこの体制でいく。皆もそのつもりでいてくれ」
杉野副社長はそう言うと、背中を向けて退室しようとした。
神作真哉が怪訝そうな顔をして呟いた。
「随分と対処が早いですね」
立ち止まって振り返った杉野副社長は、神作を見て言った。
「当たり前だ。社屋内に賊が入って取材データを盗まれたんだぞ。この上、ネットワークを介して情報が盗まれる惧れがあるのだとしたら、その対処をせんと、今後も同じことが繰り返されて、最終的には記事が出せなくなるかもしれん。会社を救うための上層部の結論だ。それに……」
杉野副社長は永山の顔を見て言った。
「奥野の一件を津田が裏で糸引きしているのだとすれば、奴はマスコミ操作のための触手を伸ばしてくるに違いない。永山、おまえの件を公表しないことを条件に、こちらに対して掲載する予定の記事内容を検閲させろと言ってくることも考えられる。そうならんためには先手を打つ必要があるし、そのためには先手を打てる体制を整えなければならん。それだけだ」
上野秀則が鼻の頭を掻きながら言った。
「でも、こう言っちゃなんですが、これまで会社は永山のことをあまり気にかけてくれなかったじゃないですか。それが急に永山を引き合いに出して『先手を打つ』って、いったいどういう風の吹き回しなんです?」
杉野副社長は上野に厳しい視線を向けた後、永山を一瞥してから、再び上野の方を見て答えた。
「記者一人と会社を比べれば、会社をとる。それが企業経営だ。だが、これはもう永山一人の問題ではない。言論の自由の問題だ。表現の自由の領域だし、民主主義の根幹にまで関わる。我々は新聞社と出版社だ。経営効率以前に、企業としての責任を果たさねばならん。これは新日グループとしての企業決定だ。君たちもそのつもりで、尚いっそう気を引き締めて取り組んでくれ」
杉野副社長は全員を一睨みした後、会議室から出て行った。
神作真哉は椅子の背当てに深く凭れながら、さっきの杉野の口調を真似て言った。
「君たちもそのつもりで、尚いっそう気を引き締めて取り組んでくれ、だと。こっちは、とっくにケツの穴まで引き締めてるっつうの」
山野紀子が咳払いをした。神作真哉は山野が目線で指した春木を一瞥して、座り直す。
春木陽香は小声で山野に言った。
「杉野副社長さんって、やっぱり、いい人ですね」
山野紀子は呆れ顔で答えた。
「はいはい。みんないい人よ。世の中、平和でいいわね」
春木陽香は頬を膨らませる。
隣の席の永山哲也も、ふて腐れたように言った。
「そりゃ、記者一人の人生より言論の自由の方が大事ですよね。表現の自由とか民主主義とか言われりゃ、納得するしかないか」
春木陽香は天井を見つめながら、真剣に考えた。
「――そもそも表現って、自由なものかなあ。なんで『自由』って言い方をするんだろ」
上野秀則は春木に冷ややかな視線を送りながら言った。
「ま、これで、こっちとしては戦闘態勢が整った訳だ。とりあえず、この土日は辛島総理の様子を見てみよう。それで、新聞の方で記事掲載するかどうかを決める」
神作真哉が腕時計を見ながら言った。
「あとは遊軍からの連絡か。遅いな。何やってんだ」
山野紀子も腕時計を見て言った。
「この時間に連絡するって言ってたんだけど……」
春木陽香が机の上の立体パソコンを指差しながら、山野に言った。
「そろそろ、カメラに貼ったビニールテープを剥がしといた方がいいんじゃないですか。マイクの上のテープも」
「ああ、そうね」
山野紀子が立体パソコンに手を伸ばし、カメラとマイクに貼られたビニールテープを剥がし始めた。その間に、永山哲也が口の横に手を立てて、小声で隣席の神作に言った。
「キャップ、ステムメイル社って、うちのスポンサーでしたっけ」
「どうだったかな。フィンガロテル社がスポンサーから下りたって話は聞いたことがあるが、ステムメイルとは関係なかったような……。裁判になりそうなんだよな、あの二社」
上野秀則がコソコソ話している二人の会話を察して、神作と永山に言った。
「経済部に訊いてみろよ。それか、会計課か」
山野紀子が声を上げた。
「あ、来た。ライトからだ」
テーブルの上の立体パソコンにホログラフィーが投影される。同時にパソコンのスピーカーから小さな歌い声が聞こえてきた。
『イフサームストゥレージ、イニュアボア、フユゴナコール……』
片方の耳の後ろに手を添えた戦闘服姿の勇一松頼斗の立体映像が現われる。身を乗り出した春木陽香は、両手を左右に添えた口を立体パソコンのマイク部分に近づけて言った。
「ゴースト・バス……
春木の頭を叩いた山野紀子が言う。
「ノらなくていい」
重成直人が不思議そうに首を傾げた。
「ハルハルちゃんが生まれる前の映画じゃないか。俺がガキの頃の映画だぞ。何で知ってんだ」
春木陽香は頭を掻きながら答えた。
「ウチの祖母が好きみたいで。何度も一緒に見たんです。あと、リメイク版とか」
「祖母ね……」
重成直人は口を引き垂れて息を吐いた。
ホログラフィーで投影された勇一松頼斗が小声で歌った。
『あら、編集長、お久しぶーりーねえ、あなたに会うなんてえ』
山野紀子が応えた。
「歳がバレるわよ。しかし、あんた、戦闘服が似合わないわねえ。ブカブカじゃないの。――で、どうですか、軍隊生活は」
空中に浮かんだ勇一松頼斗の像は、小声を裏返した。
『どうもこうも無いわよ。毎日、腕立て伏せばっかりで。見て、この腕。パンパン。お尻は蹴られて青アザだらけだし。ちょっとしか練習してないのに、いきなりオムナクト・ヘリからの降下までさせられたんだから。死ぬかと思ったわよ。ああ、もう嫌!』
山野紀子はニヤニヤしながら言った。
「どうせ、もうすぐ体験入隊も終わるんでしょ。こっちの準備も出来そうだから、さっさと戻って来なさいよ。たぶん、もう安全だから。どうせ訓練部隊じゃ、手に入れられる情報も限られているでしょ」
ホログラフィーの勇一松頼斗は、したり顔で手を横に振った。
『ところがどっこい、びっくり饅頭よ。私、今、どこに居ると思う?』
「厚木の訓練施設じゃないの?」
『ブー。はずれ。AB〇一八の施設でした』
「はあ? AB〇一八? 嘘でしょ」
山野紀子は会議テーブルに両肘を載せて身を乗り出した。
勇一松頼斗のホログラフィー画像は山野に向かって手を一振りして言った。
『それが本当なのよ。昨日、突然ヘリに乗れって言われて、多久実第一基地に運ばれたの。そして、いきなり今日、ここに投下よ。もう、たまったもんじゃないわ』
席を立って回ってきた神作真哉が、山野を押し退けて割り込んだ。
「おい、くそオカマ、どういう命令でそこに投入されたんだ」
ホログラフィーの勇一松頼斗は、顔をしかめて後ろに仰け反った。
『ちょっと、立体カメラの前にデュアル接続無しで二人で立たないでよ。こっちのホログラフィーは二人が混ざって妖怪みたいになって映って……、気持ち悪いわあ』
神作真哉が大きな声で叫ぶ。
「命令は何だったんだ!」
ホログラフィーの勇一松頼斗は左右をキョロキョロと見回しながら、小声で言った。
『大きな声を出しなさんな。こっそり通信してるんだから。また教官さんにおケツを蹴られちゃうじゃないの。訓練よ、訓練。哨戒訓練。有事の際にこの施設を警備することを前提にした、哨戒技術の実地訓練ですって』
永山哲也が神作に言った。
「哨戒訓練? そこは私設の傭兵たちに守らせているって噂じゃ……」
神作真哉は勇一松に尋ねた。
「どうだ、傭兵か警備員らしき連中は居たか」
ホログラフィーの勇一松頼斗は首を左右に振った。
『ううん。傭兵ちゃんなんて、だーれも居なかったわよ。白衣着た技術職員と事務職員以外は、誰も居なかった』
山野紀子が横から尋ねた。
「普通の警備員も?」
『そ。武器を持ってるのは、私たちだけね。ほら、新型自動小銃。弾はゴム弾だけどね』
勇一松頼斗のホログラフィー画像は、小型のマシンガンを掲げて見せた。
神作真哉はそれには触れずに、勇一松に尋ねる。
「他に変わったことは」
『そうねえ……、あ、さっきNNJ社の西郷社長が視察に来たわ。教官の軍曹さんがペコペコして案内してた。そうそう、泥棒訓練兵も居たわね。どこの世界にも癖の悪い奴がいるものねえ』
「泥棒?」
山野紀子が聞き返すと、宙に浮かんだ勇一松頼斗の像は頷いた。
『そ。コソ泥ちゃん。中心ブロックの部屋の中をコソコソと物色してた。何か柄の悪そうな男なのよ。なんであんなのを再雇用したのかしら』
神作真哉が尋ねた。
「再雇用って、その男、元軍人なのか」
『そうよ。南米戦争のこともあって、兵士を募集しても新規入隊希望者が集まらないんですって。それで、私みたいな中年でもオーケーってわけ。それでも集まらないから、除隊した人間にまで声を掛けているみたいよ。軍に戻って来いって。国防軍も節操が無いわよね。ここに来た訓練兵の半分は軍隊経験者みたい。いろいろ手馴れているもの』
「その経験者の中で、誰か親しくなった奴はいるか」
『いいえ。みんな私を遠ざけるのよね。シャワーの時とか。でも、一人話した人はいるわよ。ええとね、たしか名前は……クゼ君。下の名前はタクヤ君だったかな。元は伍長さんだって。国防大臣直々の呼び出しで再入隊したそうで、訓練終了後には、元の階級に復帰することが約束されているって随分と自慢してたわ。まあ、国防大臣も軍人のリクルートからマネージメントまで、いろいろ大変よねえ』
永山哲也が急いでメモを取った。
神作を押し退けた山野紀子が真顔で言った。
「ライト、そこは危ないかもしれないから、すぐに辞めて戻ってらっしゃい」
ホログラフィーの勇一松頼斗は困惑した顔で言う。
『そうしたいけど、そう簡単に辞められないのが軍隊なのよね。命令違反逃亡は犯罪なのよ。知ってた? 向うがクビにしてくれなきゃ、こっちからは、はい今日で辞めますって訳にはいかないんですって』
神作真哉が溜め息を吐いて言った。
「完全に丸め込まれてるな。あのな、それは普通の会社だって同じだろうが。いいか、軍の採用だって雇用契約の一つなんだ。雇用契約の合意解除には当事者の合意が必要だろ」
永山哲也がメモを止めて、付け加えた。
「逆に言えば、合意があれば解除できるってことですよ」
『そうなの? 知らなかった。じゃあ、こっちから除隊を申し込んで、軍が承諾してくれればいいのね。でも、そんな勝手な申し込み、納得してくれるかしら』
「それは、円満に除隊して退職金をもらえるかって問題でしょ。今のあんたには関係ないじゃないの。相手の承諾なんてどうでもいいから、とにかく早くその場を離れなさい」
山野紀子がそう言った後で、神作真哉が再び厳しい顔で言った。
「そうだ。おまえは体験入隊なんだ。『辞める』と上官に一言だけ告げたら、後は知ったことじゃないだろう。何でもいいから、さっさと戻って来い。奥野の息が掛かった元軍人が周囲に紛れているんだぞ。そこはヤバイ。危険すぎる」
『きゃー。初めて真ちゃんが私のことを本気で心配してくれたわ。分かった、そうする』
勇一松頼斗のホログラフィーが嬉しそうにそう言った後、立体パソコンのスピーカーから、太く低い声が聞こえてきた。
『コラッ、勇一松訓練兵! どこに行ったあ!』
ホログラフィーの勇一松頼斗が身を屈めて言う。
『あらら、教官だわ。じゃ、切るわね。ああ、大変、大変。また叱られちゃう』
春木陽香が神作の横から顔を出して早口で言った。
「ライトさん、写真送ってくれて有難うございました。気をつけて帰ってきて下さい」
『あらハルハル、あんたも怠けてなかったでしょうね。リベンジよ、リベンジ』
スピーカーからドアを蹴り開ける音と、教官の怒鳴り声が聞こえる。
『ここかあ、勇一松う! 誰が便所の中を警備しろって言ったあ! 貴様の警戒範囲は、この便所の、前だ!』
勇一松頼斗のホログラフィーは小さく手を振った。
『そいじゃね』
ホログラフィーが消えた。
神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。二人とも深刻な顔をしている。
上野秀則が春木の顔を見て、机の上の立体パソコンと天井の隅の目張りされた防犯カメラを順に指差した。皆、通信機器に一応の注意を払っているのだ。春木陽香は立体パソコンを持って会議室から出て行った。
ドアが閉まると、上野秀則が口を開いた。
「訓練兵を使ってAB〇一八の施設で哨戒訓練って、どういうことなんだ」
永山哲也がメモを見ながら言う。
「しかも、半分は元軍人。どうも臭いますね」
重成直人が永山に言った。
「正規軍を使えなかった理由があるのかもな。訓練兵なら、訓練名目で総理や国防委員会への報告無しに動かせる」
別府博が質問した。
「奥野が勝手に兵を動かしたということですか」
神作真哉は春木が座っていた椅子に腰を下ろすと、深刻な顔で言った。
「ライトが言っていた泥棒訓練兵ってのが、奥野か津田に仕込まれた兵士だろう。あの施設内で探しているんだ、バイオ・ドライブを」
山野紀子が首を傾げながら言った。
「でも、変ねえ。あの施設にはNNJ社が私設の傭兵を入れて警備させてるって噂じゃなかったかしら。軍が介入したら、傭兵たちと衝突して戦闘とかになりそうだけど」
永山哲也も怪訝な顔をして言う。
「噂では、防衛用の軍事ロボットも設置しているという話です。どうして国防兵がすんなりと入れたんでしょう。しかも、訓練兵なのに」
上野秀則が言った。
「全部を事前に撤収させていたということかあ。西郷が奥野に金を掴ませていた目的は、これなのか。国防兵に施設警備をさせるっていう」
重成直人が怪訝な顔で呟いた。
「自分たちにとっては随分と都合が悪そうだが……」
上野秀則は神作の顔を見て言った。
「だが、訓練兵とは言え、国防兵士をあそこに配置したということは、辛島総理としては簡単に奥野を処分できなくなったな」
「どうして?」
そう尋ねた山野に神作真哉が説明した。
「もし本当に訓練目的なら、緊急展開時の連絡体制の確認のためにも、平時に施設を警備している人間が訓練に参加しているはずだ。ところが、ライトの話だと、傭兵どころか警備員も居ない。つまり、連絡体制の準備をする必要が無いってことだ。たぶん軍としては今後も継続してAB〇一八の施設を警備するつもりなんだろう」
上野秀則が続けた。
「少なくとも、奥野はそのつもりだろうな。それが西郷との約束だったのかもしれんし。その目的はともかく、NNJ社側に武装解除させて国防軍を投入したのであれば、今、その国防軍を撤収させたら、あの施設は丸裸になっちまう。訓練目的の兵士の投入なら、指揮権者は国防大臣だ。その大臣が更迭されれば、発令された命令は効力を失う。つまり、ライトたちを撤収させなければならなくなる。NNJ社側が猛反発するのは必至だが、それ以前に、ここまで深く国民生活に浸透しているSAI五KTシステムを危険に晒すことになる。辛島政権としては、それは避けるはずだ」
「だから、簡単には奥野を更迭できない」
山野紀子が確認して言うと、神作と上野が同時に頷いた。
永山哲也が立ち上がって言った。
「僕、この『クゼタクヤ』という元伍長について調べてきます」
永山哲也は会議室から出て行った。入れ替わりに春木が戻って来た。春木陽香は自分が座っていた席に神作が座っていたので、空いていた神作が座っていた椅子と永山が座っていた椅子のうち、永山が座っていた椅子に腰掛けた。少しニコニコしている。それを見た山野紀子は呆れ顔で溜め息を吐いた。
重成直人が山野に言った。
「辛島総理が訓練命令の撤回をしろと奥野大臣に命じればいいんだが、奥野も政治家だ。AB〇一八の安全を盾にして、簡単には従わんだろう」
神作真哉も山野に言う。
「仮に撤回させたとしても、AB〇一八が危険に晒される点は変わりませんからね。辛島総理としては強気で奥野を攻めることができない」
山野紀子は神作と重成の顔を交互に見て言った。
「じゃあ、その間に津田がバイオ・ドライブを見つけちゃったら、どうするのよ」
神作真哉は椅子の背もたれに倒れて言った。
「ワンサイド・ゲームで終わりだな。マジでコールド負けだ」
上野秀則が腕組みをして言った。
「かといって、あの写真家に探させるわけにもいかんしなあ、あの調子じゃ」
春木陽香がはっきりとした口調で言った。
「ライトさんには戻ってきてもらいましょう。うん。危ないです、絶対」
神作真哉も頷いた。
「だな。あいつのために香典を包むのは、しゃくだしな」
隣の席で春木陽香は頬を膨らませた。
別府博が言った。
「辛島総理が強気に出るってことは? 例えば、奥野を切って、すぐに次の国防大臣を据えるとか、あるいは、総理の命令で正規軍をAB〇一八に配置するとか」
上野秀則が首を横に振った。
「この状況では国防大臣のポストを引き受ける人間はおらんだろう。捨石になるようなものだ。それに、有事でもないのに正規軍を国防計画外で動かすとなれば、周辺諸国との調整が必要になるし、事前に国防委員会に報告する必要も出てくる。そこまで早く動けるとは思えんな」
神作真哉が上野の顔を見て言った。
「だが、頑張ってやれない訳じゃないだろ」
「まあ、それはそうだが……」
目を逸らした上野は首を傾げた。
山野紀子が上を見て言った。
「辛島総理次第かあ」
頭の後ろで右手とギプスの左手を組んだ神作真哉が言う。
「こりゃ、やっぱり土日で様子を見るしかないな。それより、早くライトをピックアップしないとな。どんな事態になるか分からんからな。連絡はどうなっているんだ。こうやって、向こうからのを待つしかないのか」
山野紀子が答えた。
「まあ、今のところは、そうね」
上野秀則が溜め息を吐いて言った。
「永山の次は、ライトかよ。ったく」
別府博が真顔で言った。
「大丈夫ですよ。ウチのライトさん、防災隊も経験してますし、たぶん自力で脱出してきますよ」
誰も別府の意見に同意しなかった。皆が一様に心配そうな顔をしている。
「大丈夫かな、ライトさん……」
春木陽香も眉を寄せていた。
9
車椅子の上の老人は、窓の外に浮かぶ月をにらみながら呟いた。
「おのれ、ラングトンめ……」
顔を横に向け、書斎の中央に浮かぶ刀傷の男のホログラフィー映像に向かって言う。
「西郷には警告したか」
ホログラフィーで映し出された刀傷の男は、ニヤリと笑って答えた。
『ええ。かなり怯えていましたよ。何もかも、すんなりと吐きましたからね』
「直ちに国防軍を立ち去らせて、傭兵たちを戻すようにも伝えろ。そうすれば、あと数年は長生きさせてやるとな」
『はい。そう伝えます』
老人は、ニヤニヤとしている刀傷の男のホログラフィーを指差して言った。
「おまえもだ。新日の雑誌に奥野と西郷の記事が載ったそうだな」
『――はい。申し訳ありません』
老人は窓の方に顔を向けて言った。
「だが、おまえはこれまで良く働いた。チャンスをやろう。NNJ社のオフィスと西郷の自宅から証拠となるものを全て消せ。すぐに日本の検察当局の強制捜査が始まるとも限らん」
『分かりました。直ちに』
「西郷には、まだ手を出すな。奴を消すのは、奴がAB〇一八の施設の防衛体制を原状に復してからじゃ。その後で全ての責任をとらせればいい」
『奴が逃げようとした場合は、どうします?』
「その時はすぐに捕えて、ここに連れて来い。ラングトンと共にな。しっかりと弁明を聞いてやった後で、各国の捜査当局に引き渡す。死体袋に入れて」
刀傷の男は満足そうに笑みを浮かべて頷いた。老人は不機嫌そうな顔をしたまま言う。
「このままでは、我々はあの施設に近寄れん。本意ではない方法で計画を実行せねばならなくなる。何としてもAB〇一八の施設から国防軍を撤収させるのじゃ」
刀傷の男のホログラフィーはゆっくりと頷いた後、消えた。
「こんな時に、あの馬鹿共が……。もう少しだというのに……」
車椅子に座っている老人は、深い皺を刻んだ灰緑色の額に濃緑の血管を浮き立たせながら、窓の外をにらんで歯軋りをしていた。
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