第13話

                  5

 夜の住宅街の中を、ライトを点けて白いバンが走っていた。その前を白いセダンが走っている。セダンの中には後部座席に三人の人影が映っていた。司時空庁の車で帰宅する永山家の三人である。

 運転席の後ろの席で、永山祥子が不機嫌そうに言う。

「だいたい、なんでウチの子が訴えられないといけないのよ」

 助手席の後ろの席の永山哲也が顔をしかめて言った。

「だって、宿題をそのまま渡したのは由紀だろ」

 祥子が少し大きな声を出した。

「そのままコピーして提出したのは朝美ちゃんでしょ。ウチの由紀は悪くないじゃない」

 永山哲也は大袈裟に溜め息を吐くと、仕方無さそうに言った。

「だから、裁判所も、そう言っていたじゃないか」

 祥子は身を乗り出して横を向き、哲也を指差しながら不満をぶつけた。

「じゃあ、なんで訴えられるのよ。だいたい、あなたもあなたよ。さっき『市民のための裁判教室』で教えてもらったわよ。反訴って方法があるんですって。それで、こっちからも逆に訴えてやればよかったのよ。なに、ボーッとしてるのよ」

 永山哲也も祥子の方に体を向けて、紅潮させた顔で声を荒げる。

「お前な、俺は裁判に勝ったんだぞ。なんだよ、その言い方。もっと何か、別の言葉があるだろ」

「ボーっとしてる旦那には、言葉が見つからないわよ。それにね、向こうが敗訴したんです。あなたが勝訴した訳では、ありません」

 祥子はそっぽを向いた。

「なんだよ、それ」

 永山哲也も反対側に顔を向ける。

 二人の間に座っていた娘の由紀が、両手で顔を覆って泣き出した。助手席に座っていた仲野が後ろを向いて言った。

「やめないか、二人とも。子供の前で。――ほら、着いたぞ」

 永山の家の前で白いセダンが止まった。その後方に白いバンが停止する。

 セダンの後部ドアが開き、ブツブツ言いながら永山哲也が降りてきた。続いて、泣きながら、由紀が降りてくる。助手席から呆れた顔で外に出た仲野とほぼ同時に、祥子が目くじらを立てながら降りてきた。

 後方の白いバンの運転席からその様子を確認していた仲町が、後部スペースの仲島に合図を送る。横向きに座ってモニター画面を見ていた仲島がマイクを口に近づけた。

「こちらサーベイ・ツー仲野班。対象者SとT、Uを自宅に届けた。全員、邸内に入る」

 運転席の仲町は前のセダンが走って行ったのを確認すると、ハンドルに凭れかかり、玄関前で言い合いを続けている永山夫婦を見ながら、呆れ顔で言った。

「まったく……。相当、苛々してますね、あの二人」

 後部スペースから仲島が顔を出して前を覗き、仲町に言った。

「まあ、二週間以上、家の中に閉じ込められて、電話もネット通信も事実上、不可だからな。そこにきて、同僚から裁判提起だ。ストレスが溜まってるんだろ、きっと」

 仲野と共に玄関の前まで移動した永山哲也は、ドアを機嫌悪そうに荒々しく開けた。頬を膨らませた祥子が先に入っていく。その後に続いて、顔を手で覆って泣きながら、由紀も入っていった。

 永山哲也は、横に立つ仲野に一礼して言った。

「どうも。ご苦労様でした」

 仲野が諭すように言う。

「奥さんも疲れているんだ。喧嘩はするな。娘さんも可愛そうだろう」

 永山哲也は玄関の中に入りながら、軽く頭を下げた。

「お気遣い、どうも。じゃあ、これで」

 ドアが強く閉められた。仲野は呆れ顔で門の外まで戻ると、門柱の表札の下に取り付けた機械のスイッチを押す。左右の門柱の内側の機械から赤いレーザー光線が何本も横に放たれ、門の間を塞いだ。同時に永山宅の敷地の周りを赤いレーザーの柵が囲む。それを確認してから、仲野は白いバンの方へと歩いていった。

 玄関ドアの覗き穴から外の様子を見ていた永山哲也は、ドアに鍵をして、深く息を吐いた。そして、靴を脱いで中に上がり、リビングへと向った。

 カーテンが閉められたリビングでは、ソファーの前で不機嫌そうな顔をして祥子が立っていた。由紀は下のテーブルに顔を伏せて泣いている。

 永山哲也は言った。

「もう、行ったよ」

 息を吐いて脱力した祥子は、崩れるようにソファーに座った。テーブルから顔を上げた由紀は、ケロリとした顔で台所に向かう。

 ソファーに腰を降ろした哲也の隣で、祥子が大きく息を吐いた。

「はあ、疲れた。あなたが山野さんみたいにって言うから、やってみたけど。山野さんって、あんな感じよね」

 永山哲也は笑みを浮かべながら頷いた。

「ああ。でも、もう少し迫力があるよ。もっとキツイ」

 祥子が顔の前で手を振りながら言う。

「駄目。私には、あれが精一杯。とても無理」

 由紀は冷蔵庫の前で身を屈めて歌っている。

「チョっコ・バナナあ、チョっコ・バナナあ」

 膝を叩いた永山哲也が祥子に言った。

「さて。じゃあ、腹も減ったし、晩飯でも食うか」

 祥子が立ち上がりながら言う。

「そうね。着替えてくる。由紀い、アイスは御飯の後にしなさーい」

 そして、夫の顔を見ながら言った。

「昨日から寝かせておいた冷製スープと、豚の冷しゃぶでいいでしょ?」

 永山哲也はニヤリとして答える。

「いいねえ。美味そ」

 台所から駆けつけた由紀が目を大きくして尋ねた。

「マジ。冷製スープは何味?」

 祥子が自信あり気に答える。

「かぼちゃ」

 由紀は飛び上がった。

「イッイェーイ。か、ぼ、ちゃ。か、ぼ、ちゃ」

 小躍りしながら二階の自分の部屋に向かう由紀。立ち上がった永山哲也が上着を脱いでネクタイを外しながら祥子に言う。

「じゃあ、俺、風呂掃除してくるわ」

 しっかりと頷いた祥子は、二階の寝室へと向かい、哲也はワイシャツの首元のボタンを外しながら風呂場へと向かった。


  

                  6

 永山宅の前には白いバンが停まっていた。その後部スペースで、仲島が司時空庁本部に報告の無線通信を入れている。

「こちら、サーベイ・ツー仲野班。対象者S、T、U、リビングにて夕食中のもよう。敷地周囲のセンサーにも異常なし。どうぞ」

『本部、了解。もうすぐ交代要員が到着する。到着まで引き続き警戒せよ』

「了解。サーベイ・ツー、通信終わる」

 運転席の仲町が愚痴を吐く。

「はあ。もう少し監視局の要員を増やせないんですかね。今日は朝から、ぶっ通しじゃないですか」

 開けていた助手席側の窓から肘を出して、明かりが灯る永山宅のリビングを見ていた仲野が言った。

「通常任務の他に、NNJ社の西郷とその他の関係者、来日予定のNNC社の女社長の監視に人員が割かれている。その上、今日は長官が裁判に証人として呼ばれて、その護衛に回されたSTS部隊の穴をこっちが埋めさせられているんだ。おまけに、時吉弁護士と神作、山野たちにも数チームを回している。仕方ないだろ」

 後部スペースから仲島が顔を出して仲町に言った。

「もうすぐ交代要員が到着するそうだ。それまでの辛抱だよ。明日からは、俺たちの班は盆休みじゃないか。あと何分かの辛抱だ」

 運転席の仲町が顔を上げた。

「ん? ああ、二階に灯が点きました。娘が二階に上がったみたいですね」

 助手席の仲野が二階を見上げて、薄っすらとカーテンが光ってる窓を見ながら言う。

「また何か要らん物でも作ってるんだろ。工作マニアか、あのガキ。中三なら少しは勉強しろっての、まったく」

 仲町は顔をしかめた。

「この前は、お手製のブーメランを飛ばしてきましたよ。大人をナメてるんですかね」

 仲野が自分の額を指差して言った。

「俺は先週、紙コップ製のロケットを顔面に食らった。あのガキ、いつか痛い目に遭わせてやる」

 その時、永山家のリビングの方から声が聞こえた。

 仲野が助手席の窓から頭を少し出して外を伺う。後部スペースの仲島は急いで席に戻りヘッドホンを被ると、モニターの前のスイッチを切り替えて外の音を拾った。運転席の窓を下げた仲町が、耳を澄まして言う。

「んん? 班長、何か聞こえますね。何ですかね」

 仲野が後ろの仲島に顔を向けて言った。

「集音機で音を拾ってみろ」

「拾ってます」

「聞こえねえよ。こっちにも聞かせろ」

 仲野は苛立った声でそう言った。仲島が機械を操作する。ダッシュボードのスピーカーから雑音に混じって声が聞こえてきた。

『ひどい。そんな人だとは思わなかったわ』

『もう、おまえのそれにはウンザリなんだよ。だいたい今日の料理だって、何だこれは』

 ガラスが割れる音がする。

 仲町がまた顔を強くしかめて言った。

「あらら。また始まったみたいですね」

「まったく……」

 助手席側の窓を開けたままドアに凭れた仲野が、呆れ顔で呟いた。

 スピーカーから雑音と共に男の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。

『だいたい、おまえの作る飯は不味くて仕方ないんだよ。こんなもの、食えるか』

 皿が割れる音がした。雑音に紛れて、女のすすり泣く声も聞こえる。

『ひどいわ。せっかく一晩掛けて作ったのに。かぼちゃよ。冷製スープよ。だからもっと冷静に……うう』

『俺はな、もう、おまえには騙されないぞ。その顔を上げてみろ』

『い、痛い。やめて』

『ほらな、嘘泣きだ。そんなことだろうと思ったよ。この嘘つき女!』

『きゃっ。お願い、ぶたないで。次はちゃんと、かぼちゃの種は取り除いておくから』

 仲野がドアから身を離して言った。

「なんだ、暴力かよ。最低だな、あいつ」

「イライラを女房にぶつけているんですかね。どんでもない男だな。どうします。止めますか」

 後部スペースから顔を出した仲島が、心配そうに前を覗きながら尋ねた。助手席の仲野は、しかめた顔で首を横に振る。

 三人はそのまま、雑音の中で途切れ途切れに聞こえる声に耳を澄ました。暫らくして、今度は男の声がはっきりと聞こえた。声色も調子もいつもと違う。

『いいだろう。今夜は殴らないでいてやろう。だがな、今夜、俺が使うのは……これだ』

『きゃああ! や、やめて。いやあ!』

「おいおい、なんだよ。何やってんだよ」

 仲島が焦った顔で後部スペースに戻り、モニターに目を遣った。

『おまえみたいな女は、殺してやる。死ね!』

 車内のスピーカーから一発の銃声が聞こえた。仲野と仲町は顔を見合わせる。

 仲野が慌てて助手席のドアを開けて車から降り、永山の家の門の前に駆け寄った。

 仲町も運転席から出て、仲野の様子を伺う。彼は門の前の仲野に声を掛けた。

「班長、どうですか。何か……」

「シー。静かに」

 仲野は仲町を制止して、目を瞑って集中し、家の方に耳を澄ました。

 リビングの方から若い女の声が聞こえる。

「やめて。お母さんは悪くないわ! 撃つなら、この私を撃って!」

「邪魔だ、どけ!」

 ガラスが割れる音と同時に、女たちの悲鳴が聞こえる。続けて、数発の銃声が響いた。

 血相を変えた仲野は、車の横に立っている仲町に叫んだ。

「おい! 本部に連絡しろ。応援も急がせろ!」

 仲町は運転席の窓から頭を中に入れて、後部スペースの仲島に指示を伝えた。

 門の前の仲野は門柱に取り付けられた機械を必死に操作している。熱線レーザーが解除できない。駆けつけた仲町の背中を叩いて、仲野が怒鳴った。

「はやくレーザーを解除しろ。急げ!」

 仲町が慌てて機械のボタンをあれこれと押す。

「あれ、これ、どうするんだっけ……」

 仲野はリビングの方と仲町を交互に見ながら、苛立った顔で声を荒げた。

「なにやってんだ、早くしろ!」

 白いバンの後部スペースでは、仲島がマイクを握り締め、必死に叫んでいた。

「こちらサーベイ・ツー仲野班、緊急事態発生、至急応援を……」

 突如、車体の天井に強い音と衝撃が響いた。仲島は咄嗟に見上げる。運転席の上でも音がして、フロントガラスの向うに人影が飛び降りてきた。その紺碧の人影は、長い黒髪を舞わせて、そのまま門の前に走っていく。

 門の前では、仲町が必死に門柱の機械と格闘していた。

「くそ。さっきは解除できたのに。パスワードが変わったのか」

「なにやってんだ。パスワードの更新は毎朝確認しろと……」

 仲町の後ろから怒鳴っていた仲野が、後ろから黒い手袋をした手に肩を掴まれ、引いて退かされた。仲町が振り向くと、そこに、体に密着した紺碧の戦闘スーツの上からコバルトブルーの鎧を身につけた長い黒髪の女が肩でマシンガンを構えて立っていた。

「さがって!」

 女が叫ぶと、仲町と仲野が慌てて後退する。

 門柱に取り付けられた機械の操作パネルに向けられたマシンガンが銃口から烈火を噴いた。機械が粉砕され、門の間の熱線レーザーが消える。同時に永山宅の敷地を囲っていた赤いレーザー柵も消えた。

 女は門扉を蹴り開けると、その奥の玄関へと駆けていった。

「応援か! 早かったな」

 そう叫んだ仲野の隣で仲町が空を指した。仲野が見上げると、永山宅の遥か上空に小さな機影が見えた。ホバーリングしているオムナクト・ヘリのようだ。そこから二本の赤い線が急速に伸びてくる。それぞれの線の先端には人影が見えた。大きい方の人影がどんどん近づいてきて、門扉と玄関の間に着地した。さっきの黒髪の女と同じコスチュームを身に纏った大男だ。彼は手に持ったピストル形の機械のスイッチを押し、その先端から上空のオムナクト・ヘリまで延びていた赤い粘性ワイヤーを凝固させた。一瞬で霧状になった粘性ワイヤーが風に散る。大男は玄関の方に駆けていった。

 玄関ドアの前で黒髪の女が振り向いて叫んだ。

「鍵が掛かってる!」

「当たり前でしょうが。耳を塞げ!」

 大男は背中から外した大きな筒状の物を腰の横で構えると、先端を玄関ドアに向けた。女がドアから離れ、身を屈めて手で両耳を覆う。それを見た仲野と仲町も、咄嗟に両耳を手で塞いだ。大男が踏ん張ると、一瞬、低く鈍い音がして、空気が揺れた。同時にドアが激しく窪み、家の中に吹き飛ばされる。

 白いバンの中では、モニターやスピーカーから火花が散っていた。悲鳴をあげた仲島がヘッドホンを頭から外して投げ捨てる。

 大筒を放り投げた大男と耳から手を離した女は、素早くマシンガンを肩に据えて構えると、銃口を永山の家の中に向けたまま音もなく突入していった。

 顔をしかめた仲野が頭を振りながら言う。

「お、音波砲か。すごい威力だな」

 そこへ、耳を押さえた仲島がヨロヨロと歩いてきた。駆け寄った仲町が肩を貸す。

「もう一人は、どうした」

 仲野が尋ねると、仲島は苦しそうな顔をしながら、上を指差した。

「二階に飛び込んで行きました。窓から直接」

 仲野は上空のヘリを見上げて言った。

「あの高さからか。大丈夫だったのか。死んでないだろうな」

 夜空には、ホバリングしているオムナクト・ヘリが小さく見えていた。



                  7

 二階の由紀の部屋には割れたガラスが散らばっていた。窓から吹き込む風でカーテンが横になって激しくなびいている。部屋の隅で、永山由紀が雑誌を頭に被ったまま腰を抜かしていた。彼女は目を丸くしたまま、顎をフカフカと動かして言った。

「あ、あなた様は……どちら様……でしょうか。この地区のプールは向うの公園に……」

 部屋の中に立っていた紺碧の戦闘服姿の兵士は、由紀を見下ろしながら言った。

「怪我は無いか」

 雑誌で顔を隠した由紀は叫んだ。

「ひ、命だけはお助けを!」

 兵士は部屋の出口に移動しながら言った。

「大丈夫だ。子供は殺さん」

 廊下に出ようとした兵士は、由紀が鼻から下を覆っている雑誌に目をやった。「週刊新日風潮」だった。

 兵士と目が合った由紀は、慌てて雑誌を背中の後ろに隠して言った。

「いや、これは、ママが読んでたのを、ちょっとだけ……漢字の練習です。大人の文章とか……ああ、私、まだ子供です。子供」

 兵士は由紀の眼を見て静かに言った。

「子供なら、そんな雑誌は読むな」

 小銃を構えた兵士は、素早く左右を確認してから廊下に出ていった。彼は小銃を構えたまま階段の前まで進むと、左手を耳に当てながら一階の兵士と通信した。

「宇城だ。二階は異常なし。下は」

 マシンガンの銃口を上に向けて抱え、反対の手を腰に当てて一階のリビングに立っていた大男は、返事をした。

「クリア。大丈夫です」

 大男の前では、床に座っている永山祥子がティッシュペーパーの箱を抱えたまま、テレビの方を指差して、涙と鼻水を滝のように流していた。

「優子さんが、優子さんが死んじゃうー。ううー。かわいそおおおー、おおー……」

 祥子が指差しているテレビの画面では、髪の毛と鼻の下の髭をポマードで固めたガウン姿の中年男が、ぐったりとしている女を抱きかかえて叫んでいる。

『おまえを本当に撃つつもりはなかったんだ。許してくれ、優子。ゆうーこおー……』

 俳優の台詞が大音量で家中に響く。リビングに宇城中尉が入ってきた。大男はテレビの横に差し込んであったMBCを引き抜き、中尉に見せて言った。

「これですよ。『真夏のメヌエット』。流行のドラマです。やられました」

 中尉はテレビに視線を向けて言った。

「リアル音声バージョンか。どおりで……」

 奥から女性兵士が叫んだ。

「中尉、永山が居ません! 逃走しました!」

「くそ! 追え!」

 女性兵士は風呂場から駆け出し、台所の横の勝手口から外に出た。後に大男が続く。

 宇城中尉は風呂場へと駆けつけ、中を見回した。風呂蓋の上にドライバーと数本のネジが転がっている。その向こうの壁の小さな高窓は空いたままとなっていた。その向うに取り付けられていたはずの防犯用の柵は外されている。中尉は項垂れて溜め息を漏らした。

 家の裏手に回った女性兵士は、木塀の周囲を見回した。熱線レーザーが消えている。大男が駆け寄ると、彼女は木塀の半円形に切り取られている部分を小銃の先で指して言った。

「ここから出たのね」

 木塀の向こうから老人の声がする。

「誰じゃ。足音がするから来てみれば、また司時空庁の連中か。塀の弁償はどうなった。支払うまで補修はせんぞ!」

 太った犬を連れて塀の向こうの庭に立っている老人は、腹巻にステテコ姿で仁王立ちになり、顔を紅潮させて憤慨していた。

 大男は半円形の穴を見ながら言った。

「しかし、この穴の位置じゃ、ちょっと高すぎるな。ここ、狭いし……」

「仕方ないわね。退いて」

 その女性兵士は長い黒髪をかき上げると、両手で持ちあげたマシンガンを頭の上で角度をつけて構え、躊躇無く引き金を引いた。彼女は木塀を縦一列に射撃していく。下まで撃ち終えると、続いて半円形の穴の隣も、同じように縦一列に真っ直ぐに撃っていった。

「ひ、ひいいい!」

 犬を抱いてうずくまる老人の横を、塀を貫通した弾丸が通過していく。老人の後ろで跳ね上がった土が一列に走っていった。

 二列目の射撃を終えると、女性兵士は大男の顔を見て、首を一振りした。

「ん」

 大男は片足を持ち上げながら答える。

「どうも」

 大男は木塀を力強く蹴りつけた。半円形に切り取られた部分の下の板が銃撃痕に沿ってミシン目で切り離されるようにはずれ、隣家の庭の方に倒れた。犬を抱いてうずくまる老人を半円形の穴が通過していく。地面を叩いた木塀の板が土煙を舞い上げた。

 女性の兵士が開いた塀の間から隣家の庭に駆け出していくと、大男もそこを通って駆け出した。

 ふと立ち止まった大男は、振り向くと、腰を抜かしている老人に言った。

「驚かせて悪かったな。塀の補修費は国に請求してくれ」

 背中を向けた大男は、女性兵士が向かったその隣家の表の方に駆けていった。

 老人は、犬を抱いて地面に座り込んだまま叫んだ。

「ふ、ふざけるなあ!」

 老人に逆様に抱かれた眠そうな顔の肥満犬は、いつまでも吠え続けていた。


 

                  8

 ワイシャツにスラックス姿の永山哲也は、住宅街を抜け、近くの大通り沿いの商店街に出ていた。車道には車が多く走っていて、歩道の上にも通行人が多い。息を切らして立ち止まった永山哲也は、振り返り、走ってきた住宅街の道に視線を向けた。向こうから紺碧の二つの人影が走ってくる。永山哲也は嘆き顔で漏らした。

「ちくしょう、しつこいな」

 永山哲也は再び商店街の歩道の上を走り始めた。通行人を避けながら息を切らして必死に走る。横道の端の横断歩道の手前で急停止した永山哲也は、振り返って背伸びをした。遠くの方で、人ごみの中から騒めきが起こり、通行人の頭が移動している。車道からの車のライトに照らされて、人の輪の中に紺碧のコスチュームの大男が見えた。横にもう一人の黒髪が見える。

 舌打ちをした永山哲也は、再び前を向いて横断歩道を渡ろうとした。すると、横道から猛スピードで白いバンが飛び出してきた。バンは急停止して、永山の行く手を阻む。永山哲也も急ブレーキをかけて止まり、悔しそうに叫んだ。

「しまった。先回りされたか!」

 白いバンの側面のスライドドアが勢いよく開いた。

「永山先輩、早く! 乗って下さい!」

 春木陽香だった。永山哲也は慌てて車内に飛び込んだ。ドアを急いで閉めた春木陽香は、運転手に叫ぶ。

「別府先輩、出して!」

 運転席でハンドルを握っていた別府博は素早くギアを入れ替えて、アクセルを踏んだ。急発進した白いバンは大通りに入り、テールランプが並ぶ車列の中へと消えていった。

 マシンガンを縦に立てて持ち、人ごみをかき分けながら走っていた紺碧の兵士たちは、その横断歩道の前までようやく辿り着いた。立ち止まった黒髪の女性兵士は背伸びをしながら首を伸ばし、視線で春木たちが乗った白いバンを追った。横で大男が双眼鏡を覗いて車を探す。

 黒髪の女性兵士が耳元に手を添えた。

「こちら綾。支援者がいました。永山をピックアップして車で南に向かっています。箱型のバン。色は白。現在、山本一等軍曹が捕捉中」

 斜め上を見て大男の顔を確認する。大男は双眼鏡を下ろすと、首を横に振った。

 女性兵士は再び通信を続けた。

「駄目です。捕捉に失敗。見失いました」

 後方から怒鳴り声が響いてきた。紺碧の二人の兵士が振り向くと、背広姿の仲町と仲島が向こうで人ごみをかき分けていた。

「待てえ! 永山あ!」

「どけ、邪魔だ。司時空庁だ。道を開けろ。任務中だあ!」

 仲町と仲島は大声を上げて通りを走ってきていた。通行人の視線が彼ら二人と、紺碧の二人の兵士に注がれる。女性兵士のイヤホンマイクに通信が届いた。

『一時撤退だ。人目に付き過ぎる。プランを変更してリカバリーしろ』

「了解」

 大男と黒髪の女性兵士は速やかに横の路地に姿を消した。

「待てえ! どこに行ったあ、永山あ!」

 叫びながらそこを通り過ぎた仲町と仲島は、横断歩道を渡り、人ごみをかき分けながら明後日の方向へと走っていった。


 

                  9

 司時空庁長官室で、津田幹雄が執務椅子に深く腰掛けていた。彼の前の机の上には半透明の人の映像が浮かんでいる。津田幹雄は椅子の背もたれから身を起こし、机の上に浮かんでいるホログラフィーの仲野に聞き返した。

「に……逃げられただと?」

 そして、机を強く叩いて大声を上げた。

「馬鹿者が! 逃げられたで済むと思っているのか。この私が、追跡や捜索は出来んと、今朝、裁判所で証言したばかりなのだぞ。話の流れが分からんのかあ!」

 仲野のホログラフィーは下を向いて小声で言った。

『も、申し訳ありません』

 津田幹雄は横を向いて立体電話機に手を伸ばしながら言った。

「もういい。貴様ら三人は、地下の資料管理課に異動だ。一生そこに居ろ!」

 彼は荒っぽくボタンを押して立体通話を切った。そして、机の上に肘を付き、両手で頭を抱える。

 隣に立つ佐藤雪子が心配そうな顔で津田を覗いた。

 津田幹雄は顔を上げ、佐藤に指示した。

「松田君を呼んでくれ。それから、永山の家から監視機材を全て撤収だ。時吉、神作、山野の全員からも、監視班を一時、撤収させろ。暫らく監視は中止だ」

 佐藤雪子が言った。

「よろしくて。記者たちの動向が分からなくなりますわよ」

 津田幹雄はしかめた顔を佐藤に向けて言った。

「いいから撤収させろ。今すぐに」

「――はい。承知しました……」

 佐藤雪子は眉間に皺を寄せて秘書室へと向かった。

 一人になった津田幹雄は膝を叩いて言う。

「くそお。はめられた。このための裁判だったんだ。私にあんな証言をさせて、実際に、その通りに永山を逃走させるとは。これ以上永山を追えば、法的根拠が無いということについて言い訳が出来ん。だとすると、仮に永山を捕まえても、逮捕監禁罪だ。逆に法的根拠を主張すれば、私は、今日の裁判で偽証したことになってしまう」

 机を強く叩いた津田幹雄は、歯軋りしながら言う。

「『一家族の幸せ』だと? 時吉の奴、もっともらしいことを言いやがって。狙いは、こういうことだったんじゃないか。うまく、してやられた。まさか今夜、いきなり実行してくるとは……」

 暫らくして、入り口のドアがノックされた。津田が返事をすると、松田千春が急いで入ってきた。

「長官、お呼びでしょうか」

 津田幹雄は椅子の背もたれに身を投げて言った。

「永山に逃げられた」

 松田千春は眉を寄せて言う。

「聞きました。申し訳ございません。支援体制を強化すべきでした」

「仕方あるまい。裁判所への配置と私の護衛、時吉らの監視で、永山の家の監視が一時的に手薄になる。そこまで全て計算済みだったに違いない。だから奴らは、今夜、決行したんだ」

「いかが致しましょう。探し出して、始末しますか」

「……」

「長官。ご決断を」

 津田幹雄は松田に向けて手を上げた。

「まあ、待て。お盆に殺生というのもな。それに、今、奴らに手を出せば、自分たちの首を絞めることになる。殺しは『プロ』に任せるのが一番だ」

 津田幹雄は秘書室のドアを一瞥すると、机の上の立体電話機を松田に向けて、声を落として言った。

「国防大臣に繋いでくれ」

 松田千春は困惑した顔で言う。

「ですが、長官。ここで必要以上に軍の力を頼れば、例の物についても軍に主導権を握られてしまうのでは」

 津田幹雄は声を潜めて松田に言った。

「いや、今はそのようなことを言っている場合ではない。とにかく、早く電話を繋いでくれ」

 松田千春は眉間に皺を寄せながら、立体電話機のボタンを押した。



                  10

 寺師町の「ランコントル」は、電気が消され、静かだった。派手な服装の女装コンパニオンたちも居ない。店の中央でぽつりと明かりに照らされたボックス席に、神作真哉と山野紀子、時吉浩一、春木陽香、そして司時空庁による軟禁状態から脱することができた永山哲也が座っている。深夜の店内で、彼らは深刻な顔をして、何も乗せられていない小さなテーブルを囲んでいた。

 ソファーに深く腰掛けていた神作真哉が、ギプスが巻かれた左腕を背もたれに乗せて振り返った。後ろで酒瓶が入ったケースを三つ重ねて運んでいる巨漢に声を掛ける。

「悪いな、ザンマル。店を休ませちまって」

 ザンマルは軽々とケースを持ったまま、カウンターの方に歩いていく。彼の丸い大きな背中から太く潰れた声が聞こえてきた。

「いいのよ。どうせ明日からはお盆休みで、ウチの子たちも、お客さんも、みんな帰省するでしょ。今日みたいな日に店を開けてても、どうせ誰も来ないわよ。じゃ、私、裏を片付けてくるから」

 空箱でも置くように易々と三段の酒瓶ケースをカウンターの上に乗せたザンマルは、紫のドレスを揺らして、バックヤードに入っていった。

 山野紀子が春木に尋ねた。

「別府君は?」

「車を返しに行きました。明日からお盆休みなんで、そのまま帰るそうです」

 春木の答えを聞いて、山野紀子はしかめ面で首を傾げた。

「相変わらず、呑気な奴ねえ」

 永山哲也が神作に尋ねる。

「シゲさんや千佳ちゃんは元気にしてますか。うえにょデスクも」

「ああ。だが、シゲさんと千佳ちゃんには、今日は帰ってもらった。その方が、こっちも司時空庁の連中を撒きやすかったからな」

 春木陽香が山野に言った。

「明日から、お盆休みですもんね。十三、十四、十五。金、土、日かあ。司時空庁も休みですかね」

 彼女がそう言い終わるとすぐに、彼女のイヴフォンが脳内に着信を伝えた。春木陽香は少し後ろを向いて、イヴフォンに出た。

 神作真哉が椅子に深く倒れたまま言う。

「どうかね。事務職員の一部は休みかもな。動きが止まってくれれば、有難いが……」

 山野紀子が真剣な顔で言った。

「全員が普通に登庁していると考えといた方がいいわね。今は、こっちも向こうも、お盆どころじゃない」

 イブフォンを切った春木が、前を向いて言った。

「うえにょデスクからです。由紀ちゃんと祥子さん、自由になったみたいです。司時空庁の職員たちが監視機材を外して、全員、家の周りからも居なくなったそうです」

 山野紀子が安堵した顔で言う。

「そう。よかったわね、哲ちゃん」

 永山哲也は大きく息を吐いた。

 神作真哉が右膝を叩いて身を起こした。

「よーし。仕切り直しだな。――とは言っても、さて、どうするかね」

 山野紀子が真顔で言う。

「まずは論点の整理ね。この話、どうも入り組んだ裏があるみたいだから」

 時吉浩一が口を挿んだ。

「よければ、僕にも分かるように、最初から聞かせて下さい。話を持ち込んだのは僕ですから」

 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。神作真哉が頷く。山野紀子は時吉の方を向いて話し始めた。

「いいえ、違うんです。私たち、どうも、この件に最初から首を突っ込んでいたみたいなんです。気付かないうちに。あえて言えば、掘り起こしたのはハルハルかもしれません」

「ハルハルさん?」

 時吉に視線を向けられた春木陽香も、自分の顔を指差しながら山野の顔を見ていた。

「私ですか」

 山野紀子は頷いた。

「そ。あんたがパパ時吉の二股不倫に……失礼、時吉大おお先生の二重の不倫に、時吉夫人のインタビュー記事と音源を照らし合わせている時に気付いたでしょ。それで、私たちは時吉大先生……」

 時吉浩一が再び口を挿む。

「総一郎でいいですよ。ややこしいから」

 山野紀子は遠慮気味に話を続けた。

「私たちは、時吉総一郎の不倫調査を始めた。あの不倫相手の女たちには、NNJ社から報酬が支払われていた可能性がある。NNJ社は司時空庁人事への介入を画策しているのかもしれない。そこへ、この時吉浩一先生から、例の、津田幹雄から時吉総一郎に送られたメールデータが持ち込まれてきた」

 神作真哉が続きを話す。

「ストンスロプ社がアキナガ・メガネ社から技術盗用しているというネタと同時にな。それで新聞の方は、急遽、ストンスロプ社が新型兵員輸送機を軍に納入するという記事を取りやめて、永山が追っていた真明教の使途不明金のネタに切り替えて記事掲載することにした。表面上は」

 時吉浩一が言う。

「つまり、あなたがた新聞社は真明教を、ハルハルさんたち週刊誌社の方は父の不倫疑惑を、それぞれ取材案件として抱えながら、実は、僕が持ち込んだあの論文の内容と『ドクターT』の正体を探っていた、ということですね」

 山野紀子が頷いた。

「そうです。で、その調査の過程で、南米に謎の科学者がいるという情報に当たった。それで、哲ちゃんが南米に行って、現地で調べることになった。やがて、私たちは、『ドクターT』が田爪瑠香だということ、論文の内容が、司時空庁が実施しているタイムトラベルの理論的欠陥を指摘するものであることを掴んだ。私たちは、タイムマシンの発射を中止させるべく、いろいろ頑張ってみたけど、司時空庁は絶対に止めなかった」

 神作真哉が山野に続けた。

「一方で、俺たち新聞の方は、上からの命令で『ドクターT』の記事を出せなくなった。それで、代わりの記事ネタとして真明教を追っていたところ、奴らの金が南米に流れていることに気付いた。そこから、総理時代にタイムマシン事業を始めた有働代議士が、陰でタイムマシンの燃料資源を南米から輸入する事業を取り仕切っていることを知り、彼を追及した。しかし、有働は白。むしろ、タイムマシンで田爪瑠香が消されようとしている時に、それを阻止しようとした俺たちに協力してくれた」

 山野紀子が再び口を開く。

「その後、哲ちゃんが帰ってきて、例の田爪健三のインタビューが公開され、ようやく、国はタイムマシン事業を停止」

「だが、何故か永山は幽閉、俺たちにも更に厳しい監視が付いて、挙句に、これだ」

 神作真哉はギプスが巻かれた左腕を上げて見せた。

 山野紀子が時吉に顔を向けて言った。

「それで、先生の協力で、こうして哲ちゃんを自宅軟禁から解放して、ようやく、話が聞けるようになった。とまあ、ここまでが、一応の流れ」

 時吉浩一は椅子の背もたれに身を倒して少し考えた。そして、再び体を戻して神作たちに尋ねた。

「司時空庁があなたたちを監視するようになったのは、いつからなのです?」

 山野紀子が上を見ながら言う。

「そうねえ……ハルハルたちが東京に取材に行って、その時にライトが尾行に気付いて、写真を撮ってきてくれて、それで私も気付いたから……、五月十一日以降からね。でも、もしかしたら哲ちゃんが南米に出発した四月二十五日、あの日以前から監視されていたのかもしれない。あの時も空港で、それらしい人間がいたような気がするの」

 時吉浩一が春木に顔を向ける。

「ハルハルさんが、田爪瑠香の研究室で襲われたのは?」

「五月十七日です」

 春木が即答すると、時吉浩一は顎を触りながら呟いた。

「なるほど……」

 永山哲也が山野に尋ねた。

「そう言えば、ライトさんは?」

「風景写真を撮りに全国を放浪中。今朝も写真が届いたわ。タイトルは『虚しき盆日』ですって。ああ、写真があるわよ」

 山野紀子はバッグの中を覗いて端末を探し始めた。その間に神作真哉が言う。

「とにかく、俺たちは今話した流れにばかり気を取られていた。田爪瑠香が指摘したAT理論やタイムマシンの設計の基礎的間違いを司時空庁が知りつつ、利害関係の維持を優先して、タイムトラベル事業を継続しているんだと」

 永山哲也が怪訝な顔で神作に言った。

「違ったということですか」

 神作真哉は首を横に振る。

「いや、違ってはいないかもしれんが、それは、副次的な理由だったのかもしれん」

 時吉浩一が尋ねた。

「本当の理由があると」

 神作真哉は時吉の目を見て、黙って頷いた。

 山野紀子がバッグから取り出した葉書大の端末を操作して、空中に平面ホログラフィーで画像を表示させた。勇一松頼斗が送ってきた写真だった。五人の間の空中に、遠くまで広がる墓場の写真画像が浮かぶ。

 神作真哉が首を傾げて言った。

「なんだこりゃ。墓場じゃねえか。あいつ、随分と暗い写真を撮るようになったなあ。この前まで女優に工事用のヘルメット被せたり、祭りの半被だけ着せてヌード写真を撮っていた奴が撮影した写真とは思えんな」

「でしょ。どういう心境の変化かしらね。急に芸術に目覚めちゃって」

 山野紀子は手許の端末を操作して、勇一松が撮影した写真を次々と表示していった。どれも墓場の風景ばかりである。途中から、乾燥した平地の写真に変わった。

 嫌気がさした顔で見ていた神作の向かいの席から、永山哲也が声を上げた。

「ちょっと待って。それ……」

 山野紀子が手を止めた。椅子から腰を浮かせて、空中に浮かんだホログラフィー画像に顔を近づけた永山哲也は、目を凝らしながら一点を指差して言った。

「この、小さく写っているやつ。溶けて曲がった電波塔じゃないですか。これ、もしかして、爆心地ですよね。例の核テロ爆発の」

 山野紀子もホログラフィーに顔を近づけて目を凝らした。

「ホントだ。これだけが、あの大爆発で唯一残った物よね」

 春木陽香も顔を近づけながら呟いた。

「外国じゃなかったんだ」

 永山哲也が山野に言う。

「ノンさん、さっきの墓の写真に戻してください」

 山野紀子は端末を操作して、写真画像のホログラフィーを前の墓場の画像に変えた。

 永山哲也が顔を前に出して目を凝らす。暫く、頭を傾けたり、少し引いたりして熱心に画像を見ていた彼は、また一点を指差して言った。

「すみません、この辺り、拡大できますか」

「う、うん」

 山野紀子は言われたとおり、永山が指定した部分を拡大させた。それに目を凝らした永山哲也が、隅の方を指差して言う。

「これ、香実かみ区の田園地帯を貫けている東西幹線道路ですよね。てことは、これ、新首都の東部にある大霊園じゃないですか。ああ、これ、蛭川の横の雑木林じゃないかな」

 山野紀子が目を丸くして言った。

「首都墓地なの、これ。すぐそこじゃない」

 永山哲也がホログラフィー画像に目を凝らしながら呟いた。

「そこまで近くは無いですけど……あ、ここ、もっと大きくできませんか」

 山野紀子は、そのとおりに更に写真を拡大した。

 永山哲也が声を上げた。

「ああ! これ……」

 椅子から腰を上げた神作真哉と時吉浩一がホログラフィー画像を覗き込んだ。立ち並ぶ墓石の中で写真のアングルの中央に立っている小さな墓石には、金字で「田爪家之墓」と刻まれていた。

 神作真哉がホログラフィーをにらむ様に見つめながら、嬉しそうに言う。

「あの、くそオカマ野郎、ちゃんと仕事していやがった!」

 ホログラフィーに顔を近づけた春木陽香も、興奮気味に言った。

「ライトさん、すごい! ずっと事件を追ってたんですね」

 首都墓地は広大な集合墓地である。墓石は星の数ほどあり、その中から他人の墓を探し出すことが相当に難儀であることは、皆分かっていた。誰もが勇一松に感心した。

「他の写真も、よく見直さないといけないわね」

 そう言ってホログラフィーを消した山野紀子は、早速、端末のパネルに表示された写真をスライドさせていき、一枚ずつ確認していった。

 椅子に腰を戻した時吉浩一が神作に尋ねた。

「それで、司時空庁が事業を停止しなかった本当の理由とは、何なんです」

「たぶん、飛ばしているタイムマシンがちゃんとタイムトラベルしているという、何らかの確証を得ていたからだろう。その確証が正しかったかは別としても、タイムトラベルし損なった秋永社長からハルハルが聞いた話では、彼は発射の直前に、タイムトラベルの成功について何か物証を得ているようなことをタイムマシン発射施設の職員から聞かされたそうだからな」

 時吉浩一は春木の顔を見て言った。

「その職員というのは、司時空庁の職員ですか」

「はい。白衣姿の職員と言ってましたから、研究部門の人間ではないかと思います」

 時吉浩一は首を傾げる。

「そう……初耳だなあ」

 神作真哉が深刻な表情で永山の顔を見て言った。

「それから、司時空庁は、おまえが送った田爪製のタイムマシンは二〇二五年の核テロ爆発のあの場所に飛んだと、学者たちに言わせているようだ。あの核テロ爆発を、おまえのせいにしたいのかもしれん」

 永山哲也は眉間に皺を寄せて、黙っていた。

 山野紀子が電源を切った端末をテーブルの上に置きながら言った。

「あの核テロ爆発には、何か隠された真相があると言うことなのかも」

 神作真哉が付け加える。

「それか、そういう話にした方が、奴らにとっては都合がいいのかもな。永山が送ったタイムマシンは、爆発で消えたということになるからな」

 時吉浩一が神作と山野の顔を順に見ながら言った。

「マシンに乗せていた、例のデータ・ドライブや録音機も。すると、司時空庁は既に、タイムマシンや、そのデータ・ドライブを回収しているということですか」

「ええ。私たちは、そう睨んでいます。それを隠すために、哲ちゃんが送ったタイムマシンは二〇二五年の爆心地に飛んだと決め付けて、事を終わらせようとしているのではないかと」

 時吉浩一は永山の方を向いて尋ねた。

「そのデータ・ドライブには、どんなデータが入っていたんでしたっけ」

「AT理論を修正する内容の論文とタイムマシンの新しい設計図、博士が改造した量子銃の設計図、タイムトラベルの後遺症の観察データ、それから、量子エネルギープラントの設計図です」

 永山の答えを聞いて、時吉浩一の顔が曇った。彼は深刻な顔で永山に言う。

「物理原理に軍事技術、産業技術、医療技術にエネルギー技術。しかも、未知の最先端の物ばかり……。そりゃ、世界中の国家機関が狙いますよね。だから、あなたを幽閉した」

「ええ。ですが、僕を外に出さなかったのは、他にも理由があるんだと思います」

「というと」

「司時空庁は、頻りに僕に、データ・ドライブの外観の絵を描かせました。それから、積み込んだ装甲板の枚数も」

 永山に山野紀子が尋ねた。

「対核熱反応金属の?」

「ええ。ということは、やはり、僕が送ったマシンが、彼らが知っている物と一致する物かどうか、同一物であるかの確認をしていたんだと思います。やっぱり、あの二〇二五年の爆発は、僕が送ったマシンが原因だったのかも……」

 下を向いて黙り込んだ永山を見て、神作真哉が明るい声を出して言った。

「まだ分かんねえじゃねえか。それに、核テロ爆発が起きた瞬間に、おまえが送ったタイムマシンが偶然にも現われたのかもしれん。おまえが原因とは限らんさ」

「そうよ。仮に、あのマシンが原因で爆発が起きたのだとしても、哲ちゃんには責任は無いわよ。訳も分からないまま、田爪健三の指示通りにボタンを押しただけなんだから。ねえ、時吉先生」

 山野に顔を向けられた弁護士の時吉浩一は大きく頷いて見せてから、永山に言った。

「ま、あの最後のレポートを聞く限りでは、誰が聞いても永山さんに責任は無いですよ。間接正犯の被利用者みたいなものですからね。言い換えれば、田爪健三に道具にされただけです。心配することはない」

「ですが……」

 そう言いかけて、永山哲也はまた下を向いた。

 春木陽香は心配そうな顔で永山を見つめている。

 神作真哉が話題を変えた。

「とにかく、この件には不可解なことが多過ぎる。まず、あの無人機墜落事故。タイミングが良過ぎるし、墜落した無人機の製造元はストンスロプ社の子会社ときている。そのストンスロプ社の会長は、当日、タイムマシンに乗せられた田爪瑠香の養母だ。どうも話が出来過ぎている」

 山野紀子も神作に追随した。

「それに、NNC社とNNJ社。NNJ社は時吉総一郎に賄賂を送っていた疑惑があるけど、私たちが調べた限りでは、例の不倫相手の女たちにも金を掴ませていた形跡がある。それが時吉総一郎を次期司時空庁長官に据えるためだとしたら、あの会社は司時空庁の人事に関与しようと、かなり前から画策していた可能性があるわ」

 春木陽香が山野に続いた。

「しかも、その親会社のNNC社は田爪瑠香さんの研究も支援していたようなんです。それで、タイムマシンやAT理論の研究に関する古い記事を調べてみたら、意外なことが分かって」

「なんです?」

 そう尋ねた時吉の方を見て、春木陽香は言った。

「NNC社はAB〇一八を製造していた時期に、赤崎教授と殿所教授に、ニューラルネットワークを自己生成するタイプの新型データ・ドライブを提供しているんです。いわゆる『バイオ・ドライブ』という物を」

 時吉浩一は怪訝な顔で春木に尋ねた。

「それが、どう関係するんですか」

「その赤崎教授に提供された『バイオ・ドライブ』を使って、田爪博士と高橋博士は、試運転中のSAI五KTシステムの中で仮想空間実験を実施したんです。そうですよね、永山先輩」

 永山哲也はようやく顔を上げた。

「うん。インタビューでも、博士はそう言っていた。……まさか!」

 春木陽香はハッとした顔をしている永山に言った。

「永山先輩に田爪博士が渡したデータ・ドライブは、その『バイオ・ドライブ』だったのではないでしょうか」

「あれが……『バイオ・ドライブ』……?」

 永山哲也は驚いた顔をしていた。

 春木陽香は話し続けた。

「だから、適合するインターフェースが見つからないんだと思います。『バイオ・ドライブ』という物は、AB〇一八にしか接続できない物らしいので」

 時吉浩一が再び春木に尋ねた。

「君が調べた、その古い記事に、写真とかは掲載されてなかったの?」

「いいえ。言葉で数回出てくるだけで、特に写真は……」

 春木の発言の途中で、神作真哉が補足した。

「当時は、NNC社が日本にAB〇一八を建設中だった頃だからな。NNC社は日本法人のNNJ社を設立して、AB〇一八を軍に売り込もうと必死だった。IMUTAイムタを開発していたストンスロプ社を追い抜くためにな。そのAB〇一八に唯一接続できるのが『バイオ・ドライブ』だ。そりゃあ、当然、社外秘だったはずだよ。そして当然、マスコミにも圧力が掛かっていたはずだ。そうだとすれば、当時の記者としても、記事の隅に活字で載せるのが精一杯だったんだろうさ」

 山野紀子が眉間に皺を寄せて言った。

「そして、今朝の津田の証言」

 時吉浩一が応えた。

ASKITアスキットですね。噂には聞いたことはありましたが、本当に存在するのですか」

 時吉に顔を向けられた神作真哉が言った。

「あれから少し調べてみた。どうも、何者かが陰で各国の内政に干渉しているのは、本当みたいだ。例のアフリカ戦争、あれも、マイクロチップに使用する金やダイヤモンドを確保するためにASKITが裏で糸を引いたという記事があった。ちなみに、その記事を書いた記者は、南アフリカ共和国の国境沿いで地雷事故に遭い、死んでいる。記事を出した直後にな」

 山野紀子が神作に尋ねた。

「そのASKITとかいう連中に殺されたってことなの?」

「たぶんな」

 神作がそう答えると、時吉浩一は真剣な顔で神作に尋ねた。

「どうして、各国はASKITを排除しないのです」

 神作真哉は苦笑いして首を横に振った。彼は言う。

「自分の国の経済を支えている産業技術の特許を握られているから、手が出せんのさ。それに、存在しているのは確かだが、その拠点も中心人物も判明していないらしい。だから強硬手段に出ようにも叩きようがないんだと。先進諸国のスポークスマンたちは口を揃えてそう言っている。ま、よく出来た『言い訳』にしか聞こえんがな」

「つまり、どの国も、政治的事情から組織の撲滅に本腰を入れないということですね」

 時吉の問いに神作真哉は頷いて答えた。

 永山哲也が疑問を投げる。

「この件にASKITが絡んでいるとすれば、やはり、タイムマシンの技術を狙っているということでしょうか」

 神作真哉は言った。

「単純に考えれば、そうだ。フランスに本社があるNNC社は、ASKITの傘下の企業だという情報があってな。それで、その女社長のニーナ・ラングトンについて、いつものとおり千佳ちゃんに調べてもらったところだ」

 神作真哉はシャツの胸ポケットからMBCを取り出すと、それを机の上に置いた。山野紀子がそれを拾い、電源を入れ直した端末の中に差し込む。端末のパネルに永峰がまとめた調査事項についてのファイルが表示された。山野紀子は端末から平面ホログラフィーでファイルの中の文書を表示させて、目を凝らす。

 神作真哉が「読んでくれ」と言うと、山野紀子は文書ホログラフィーに顔を近づけた。彼女はしきりに瞬きしている。それを見て神作真哉がからかった。

「なんだ、そろそろ老眼か?」

「うるっさい! 疲れてんのよ」

 山野紀子は意地になって読み上げ始めた。

「ええと、ニューラル・ネット・コーポレーション、かっこ通称NNC社かっこ返し、のフランス本社CEO、ニーナ・ラングトン、四十五歳。え、年下?」

「いいから」

 神作に注意され、山野紀子は、また読み上げる。

「ええと、独身。カナダ出身のアメリカ系フランス人……よく分からんなあ」

「それで」

「うーんと、十代から渡米してアメリカで過ごす。大学卒業後、クンタム社に就職。フランスに渡り、いきなりNNC社の社長に就任。当時、二十五歳。若っ。――その後、フランス国内の重要な特許権取得に関与。フランス前大統領ジョルボとも親密な仲だと報じられている。カンボジアのアジアンネット新聞によれば、クンタム社の所有する特許権を社長から譲り受け、NNC社に譲渡した見返りに同社の社長に就任した疑惑あり……かあ。悪い女ねえ」

 神作真哉が山野の端末を軽く指差す。

「シゲさんが調べてくれた、NNJ社の社長の情報もあるだろ」

「もう、人使いが荒いわね」

 山野紀子は不機嫌そうに、浮かんでいる文書ホログラフィーを閉じ、別の文書ホログラフィーを開くと、それを再び読み上げ始めた。

「ええと、NNC社の日本法人ニューラルネットジャパン株式会社、かっこ通称NNJ社かっこ返し、の代表取締役、西郷京斗さいごうけいと。父親は、インド系カナダ人、母親は日本人。五十五歳。プレイボーイ。金持ち。現在は独身。スケベ」

「……」

「それだけか」

「うん……それだけ。シゲさんも、疲れたんじゃないの。歳だから」

「――そ、そうか……。とにかく、NNC社のニーナ・ラングトンが特許権をかき集めているのが事実だとすると、ASKITの一員である可能性が高い。そうすると、ASKITはこの件に、タイムマシンの研究段階から関与していた可能性がある」

 神作の発言に続いて、春木陽香が手を上げた。

「それから、他にも重要なことが」

 春木陽香は山野の顔を見た。

 山野紀子は永山に視線を移して、言った。

「ハルハルは自宅研修期間中に、SAI五KTシステムについていろいろと調べていたと言ったでしょ。その後もずっと調べていたのよ、この子。設置のプロセスとかを細かく」

 春木陽香が永山に言った。

「NNC社やNNJ社とストンスロプ社やGISCOを結ぶ接点だと思ったので」

「で、どうだった?」

 永山の問いに、春木陽香は張り切って答えた。

「はい。ええと、時系列に沿って事実を整理すると、まず、NNC社がAB〇一八の開発に成功したのが、二〇一八年です。これは丁度、高橋博士が殿所研究所に入所した年になります。翌年、GIESCOがIMUTAの開発に成功しました。その年、高橋博士がバイオコンピュータAB〇一八と、量子コンピュータIMUTAを接続することを提案しています。当時の政府は、それを了承。NNJ社と生体型電算機利用協定を締結し、本格的にSAI五KTシステムの構想を立ち上げました。その中心人物が田爪健三博士。しかし、この構想に対して、既に国防軍にIMUTAの納入を決めていたストンスロプ社が難色を示しました」

 神作真哉が驚いた顔をして言った。

「なんだ、光絵の婆さん、反対してたのか」

 春木陽香が首を縦に振った。

「はい。どうも、そうみたいです。私がインタビューした時に光絵会長も言っていましたが、もともとストンスロプ社は、安定している自社製のIMUTAに比べ、人工生体組織で作られたAB〇一八は不安定で信用できないと主張していました。でも、自分の養女の瑠香さんの夫がするタイムトラベルの研究に役立つならと、政府を動かして二機の接続に協力したようです。ですが本心では、あまり積極的ではなかったようなんです。NNC社に騙されたとも、会長さんは言っていました。資料によると、ストンスロプ社は今でも、政府に対して、SAI五KTシステムの解消を訴えているそうです。早く、IMUTAをAB〇一八から離脱させてくれと」

 山野紀子が言った。

「ライバル会社のNNC社が作ったものだからね。そりゃあ、すんなりとは受け入れられないわよね」

 春木陽香は説明を続けた。

「時の政府、第二次田部たべ政権ですが、政府はストンスロプの主張を却下。これにより、正式発足したばかりの国防軍に対するストンスロプ系列会社からの防衛装備品の納入が、一時、全面的にストップしたそうです」

 永山哲也が腕組みをして言った。

「じゃあ、光絵会長が率いるストンスロプ社は、自分たちの主張が聞き入れられなかったから、売上げのメインになるはずの国防兵器の納入を止めたっていうの。会社が潰れるかもしれないのに。すごいね」

 神作真哉が視線だけを向けて永山に言う。

「それが光絵由里子だ。肝が据わっている。政治家や財界人が恐れるはずだ」

 春木陽香が続ける。

「その後、二〇二〇年、第二回東京オリンピックの延期騒動の陰で、この新首都への移転計画が実行され、同時に、SAI五KTシステムも完成しました。そして、翌二〇二一年、同システムを使った仮想空間内で、田爪博士と高橋博士のチームが時空間逆送実験に成功します」

 永山哲也が言った。

「田爪博士が興奮して話していた、あれかあ。帆掛け舟の模型を使って、タイムトラベルのシミュレーションをした」

 春木陽香は少し嬉しそうに頷いてから、話を続けた。

「はい。――でも、この実験により、タイムトラベルの可能性と共に、もう一つのことが実証されました」

 神作真哉が言い当てた。

「SAI五KTシステムの実用性だな。逆走実験では、地球規模の大量の情報を瞬時に整理し、リアルタイムで仮想空間を再現できた。ということは、そのスキルを現実世界のインフラシステムの制御に応用すれば、どんな状況の変化にも対応して、最適の状態を維持させることが出来る」

「そうです。実際に、ご存知の通りSAI五KTシステムは、私たちが普段使っているAI自動車だけでなく、新首都の地下高速、地下リニア、東西幹線道路、南北幹線道路、そして全国の新高速道路の上に設置されている自動走行システムと接続され、あらゆる状況の変化にリアルタイムで対応して、事故を未然に防いでいます。その後、利用範囲は拡大され続け、現在では、全国の病院や研究機関、通信ネットワークシステム、金融取引システム等にも接続されていて、国内の全インフラ設備と取引市場を監視し、また、陸海空の交通網の全てを整理調整しています」

 春木の説明に山野紀子が付け足した。

「国防システムもね。軍は第四防衛空間、つまり、インターネット上の仮想空間にSAI五KTシステムを配備したわ。電子仮想空間における敵国からのサイバー攻撃に備え、国内インターネットを全て、SAI五KTシステムを経由する方法に切り替えた。お蔭で、日本国内に外国からハッキングを仕掛けることは、まず不可能。以来、日本に世界中から金融取引市場が移転するようになった。で、十年前のバブル景気」

 神作真哉が言う。

「今じゃ、他国のインフラシステムも乗り入れているらしいな。国防軍にしてみりゃ、サイバー攻撃されることは無いが、こちらからサイバー攻撃することはいつでもできる状態だということだ。楽だわな、そりゃ」

 春木陽香が真剣な顔で言った。

「ですが、その軍も、当初、SAI五KTシステムをインターネットと接続することには反対していました」

 時吉浩一が春木に確認する。

「またストンスロプ社かい?」

「はい。おそらくですが。国防装備品の納入と新型兵器の開発で、国防軍に対して強い影響力を持っていたストンスロプ社が、AB〇一八の危険性を軍に訴え、国防軍側が国防省に対して、生体型コンピューターの配備の反対を主張したのだと思います。一部の記事でも、そう書かれていました」

 永山哲也が頷きながら言った。

「だから、ネット空間だけの配置に限定されて、衛星管理システムや自律型の軍事ロボット、ミサイル発射システムとは接続されなかったのか」

 春木陽香は、すぐに永山の方を向いて答えた。

「はい。しかし、例外もあります。例えば無人戦闘機の操縦システムです。ネットワーク自体は各部隊で別個の構成になっていますが、衛星を使った多次元インターネットを使用して操縦施設と機体の間で通信をしている以上、ハッキングを防止する必要があります。それで、SAI五KTシステムを経由させているということです。それから、歩兵部隊の通信システムも」

 時吉浩一が、また尋ねた。

「敵に傍受されないために」

 春木陽香も、また頷いた。

「はい。そのようです。量子暗号通信をリアルタイムで解読できるのは、量子コンピュータであるIMUTAを包含するSAI五KTシステムしか有りませんから」

 山野紀子が両肩を上げて言った。

「結局、何もかも殆どが、あのシステムに繋がっているってことよ。この端末も、そのイヴフォンも」

 彼女に指差されたワイシャツの胸ポケットに挿した自分のイヴフォンを見ながら、神作真哉は言った。

「タイムマシンと、どう繋がるんだ。あの発射場のシステムもSAI五KTシステムと繋がっているのか」

 春木陽香は首を横に振った。

「いいえ。そこは念入りに調べました。あの発射場も、発射のシステムも、SAI五KTシステムには一切接続されていません。ある事情で」

「事情?」

 そう聞き返した永山の方に顔を向けて、春木陽香が説明する。

「二〇二一年の仮想空間内での逆送実験の成功で、タイムトラベルに実現の可能性があることを証明した高橋博士と田爪博士は、翌年から、試験機レベルでの実射実験に取り掛かりました。あの、核テロがあった爆心地に建っていた施設で。それを支援していたのが、ストンスロプ社です。実験そのものは、ストンスロプ社の研究機関であるGIESCOの全面的なバックアップで進められていました」

 永山哲也が驚いた顔で言った。

「田爪博士が言っていた『民間企業』って、ストンスロプ社だったんだ」

 山野紀子が腕組みをしながら言った。

「この頃、二つの事が同時に進むの。一つはNNJ社。彼らは、タイムマシンの実験に集中していたストンスロプ社やGIESCOの隙を突いて国防軍に取り入ろうと、色々と画策を始めた。そして、国防省と国防軍の双方に、自分たちのパイプ役となる人間を置き、AB〇一八の安全性を内部から頻りに訴えさせた。その結果、第四防衛空間にSAI五KTシステムを配置することが決定されたってわけ」

 神作真哉が尋ねた。

「もう一つは」

 山野と目が合った時吉浩一が言う。

親父おやじですね。金を送り、親父を動かし始めた」

 山野紀子は苦笑いしながら言った。

「先生が仰るなら、間違いないわね。NNJ社は、時吉総一郎に研究支援金の名目で、多額の金員を提供しています。ハルハルが、当時、お父様が国税庁に指摘されて修正申告した記録を確認しました」

 時吉に視線を向けられた春木陽香は、黙って頷いた。

 神作真哉が山野に尋ねた。

「研究って、何の研究だよ」

 時吉浩一が代わりに答えた。

「哲学ですよ。法律論は哲学と接近しています。NNJ社は父に哲学者への転身を勧め、タイムトラベルについて、哲学的アプローチで批判論文を書くように勧めたんです。父も面白半分で研究を始めた。あの『時吉提案』のね。当時、僕は二十三歳で大学に入学したばかりの頃でしたから、物凄く迷惑でした」

 神作真哉は、目の前の青年の青春期がどのようなものであったか察し、少し気の毒に思いながら彼に言った。

「まあな、親父さんの指摘のせいで、国民の意見が真っ二つに割れた訳だからな。パラレルワールドが有るのか、無いのか」

 春木陽香が口を挿んだ。

「たぶん、NNJ社は、それが狙いだったのだと思います。国民全体をタイムトラベル事業に注目させて、その間にSAI五KTシステムの利用領域の拡大を図る。実際、SAI五KTシステムが地下リニアに接続されたのは、二〇二三年。これは『時吉提案』の翌年ですし、総合空港発着の飛行機が全てSAI五KTシステムによる制御に切り替えられたのも、この年です」

 永山哲也が神作の顔を見て言った。

「二〇二三年って言えば、真明教団が設立された年ですよね。キャップ」

「ああ。だが、偶然だろう。その後のバブル景気をにらんで設立したとすれば、その時期になるからな」

 春木陽香が永山の顔を見て言った。

「もしかしたら、関係があるのかもしれません。真明教の後押しで、有働武雄が政界に返り咲いたのは、二〇二四年の総選挙の時です。総理に就任したのは、その二年後。高橋説と親和性を持つ真明教の教義を背景に、急速に拡大した教団の資金援助と信者からの票で当選したと、当時の記事には書いてありましたが、私は、それだけでは無いと思います。『時吉提案』によって二分された国民の意見の一方が、選挙の際の票として、有働武雄に集中した。そういう見方も出来るのではないでしょうか」

 神作真哉が上を向いて言う。

「なるほどなあ。政界を追われた実力者、有働武雄を政界に戻して、総理にするための画策だったということか」

 春木陽香は永山を気にしながら、少し声を小さくして言った。

「推論ですけど……。とにかく、国民の支持が半減したストンスロプ社側は、この頃から急速に発言力を低下させていきます。そこに、例の核テロ爆発が起きました。……」

 先の発言を躊躇している春木を見て、山野紀子が口を開いた。

「まさに、とどめの一撃ね。大金を注ぎ込んだ実験施設が吹き飛んで投資額がパーになった上に、さらにピンチ。爆発による国の損害額の補填をストンスロプ社が被る可能性が出てきた。あの大爆発は核ミサイルによる攻撃ではないことは、当初から明らかとなっていたわ。ということは、持ち込み式の核爆弾によって引き起こされたものだということ。まあ、少なくとも当時の認識では、そうね。それで、もし、そうであれば、ストンスロプ社側の警備上のミスが問題となりかねない。死傷者ゼロだったのはいいけど、あれだけの面積の国有林が消失した訳だからね。国としても巨額の損失が生じていて、さあ、どうするかって話になっていた。そればかりか、実験の失敗による爆発じゃないかと言い出す国会議員も現れ出した。結局、政府としてはストンスロプ社に対して幾分かの責任追及はしないといけなくなったわけ。それで、下手をすれば、国の損害額の全額をストンスロプ社が弁償することになるかもしれなくなった。そうなったら、いくらストンスロプ社でも、まず倒産するわね。だからストンスロプ社は必死で、自分たちが実験をバックアップしていた事実を隠そうとした。政治家たちにお金をばら撒いて。当時の政治家さんたちが、真相追究と政治献金のどちらを選択したかは、分かるわよね。で、結局、ストンスロプ社の帳簿には巨額の支出が連日のように計上されて、一気に赤字に転落。一時は倒産すれすれの状況にまでなったみたい。本末転倒ね。しかも、そうなれば余計に政府からも距離を置かれる。事業業績は更に下落。ハルハルの言う通り、あの当時のストンスロプ社は政府に対して全くと言っていいほど発言力を失った状態だった。まあ、あの婆さん、そんな状況からよくここまで立て直したわよ。すごい、すごい」

 春木陽香は山野の助走に押されて、声の大きさを戻して説明し始めた。

「その後に、反ストンスロプ派の有働内閣が成立。そして、すぐに、国家時間空間転送実験管理局が設立され、タイムトラベルに関する実験はすべて、そこの管理下に置かれることになりました。場所は、今のタイムマシン発射施設場です」

 神作真哉は頷いてから尋ねた。

「それは知っているが、そのことと、SAI五KTシステムにあの発射施設が接続されていないことと、どう関係してくるんだ」

 春木陽香は説明を続ける。

「二〇二五年の爆発で消失した、前の実験施設は、GIESCOの技術提供で建設されていました。GIESCOの親会社であるストンスロプ社は、SAI五KTシステムへの接続を絶対に許さなかったようです。ですから、実験施設の構造そのものが、SAI五KTシステムには接続されない構造となっていました。今の発射場に建設された実験管理局の施設も、建設案の中心メンバーとなったのは田爪博士と高橋博士です。結局、建設されたのは以前の実験設備と同じものだったようで、やはり、SAI五KTシステムには依存しない完全なスタンドアロンタイプの設備だったようです。その後、第一実験と第二実験で両博士が失踪すると、実験管理局は司時空庁と改名して再スタート。二〇二九年から民間人の有料転送を開始しました。田爪博士と高橋博士が残した、理解不可能な機械と発射設備を使って」

 時吉浩一が整理する。

「つまり、今の発射施設は爆発以前の民間実験施設とほぼ同じ作りで、それをそのまま使い続けているから、SAI五KTシステムとは接続されていない。そういうことかい?」

 春木陽香は自信をもって頷いた。

「はい。そしてストンスロプ社は未だにSAI五KTシステムを掌握し切れていません」

 永山哲也が春木に尋ねた。

「IMUTAはGIESCOが管理しているんだろ?」

 春木陽香は真剣な顔で頷いてみせた。

「はい。でも、もう一台のAB〇一八はNNJ社の管理です。それに、AB〇一八の方はNNJ社の所有物ですが、IMUTAはGIESCOが国に納入したものです。つまり、所有者は国で、GIESCOは、その保守管理を任されているに過ぎません」

 山野紀子が補足した。

「ちなみに、IMUTAは軍が警備しているけど、AB〇一八は、NNJ社が私設の警備会社に警備させているわ。だから、国もGIESCOもAB〇一八に近づけない」

 神作真哉が聞き返した。

「警備会社? 外国じゃあるまいし、日本の警備会社と国防軍とでは、違いがあり過ぎるだろ。民間の警備会社じゃ、たいした武器も持てないだろうが」

 山野紀子が首を横に振った。

「ところが、その警備会社は私設軍隊並みの装備を保有しているらしいのよ。組織体系も一国の軍隊と変わらないらしくて、警備員とやらも、殆ど、国防軍や外国の軍隊から引き抜いてきた人間だとか。しかも、その警備会社に重役クラスで天下りしている元国防官僚も何人かいる」

 時吉浩一が顎を指先で掻きながら言う。

「私設軍隊って、日本では違法なんだけどなあ」

 神作真哉が山野に尋ねた。

「どこから得たんだ、そんな情報」

「人事院よ。それと、警察。辛島政権になって以来、どちらも、NNJ社には目を光らせているみたいよ」

 山野の返答に、永山哲也が納得した顔で頷いた。

「辛島総理はストンスロプ派だからなあ」

 山野紀子は更に話を続けた。

「しかもね、さすがにNNJ社としても、これじゃ不味いと思ったのか、今、水面下で国防軍にAB〇一八の警備を委託する準備を進めているようなの。奥野大臣に取り入って」

「賄賂か」

 神作の問いに春木陽香が答えた。

「まだ、そこまでは。ですが、国税局で確認したNNJ社の資本減少額と、奥野大臣が公開した資産の増加額が、微妙に一致しています。国税も一応は調べたみたいで、関連する当事者の納税資料には、どれも、査察部からの監査アクセス数が急増していました」

 神作真哉が険しい顔で呟く。

「それなのに、いまだに奥野が逮捕されていないということは、国税の査察部も尻尾を掴めなかったということか……」

 山野紀子が人差し指を立てて言った。

「その他にも、もう一つ。さっきハルハルが言っていた、核テロ爆発以前に、NNJ社が軍に食い込もうとして国防省内に人脈を築いたという話、あれ、国防政務次官時代の奥野恵次郎も入ってるのよ。その人脈に」

「つまり、奥野大臣はNNJ社とつるんでいる」

 神作の指摘に、山野紀子は大きく頷いて見せた。

「そう。ガッツリね。もしかしたら彼、その後ろのASKITとも仲良しかもしれない」

「馬鹿な。奥野は辛島政権の閣僚じゃないか。辛島総理は国内派だぞ。だからASKITや、NNC社、NNJ社を毛嫌いしている。まして、奥野は現職の国防大臣だろ。その奥野がASKITとつるんでいるとしたら、大問題じゃないか」

 そう言った神作に向けて手を大きく振って、山野紀子は言った。

「そう怒りなさんな。これを知ったら、幹雄ちゃんが怒ってくれるから」

「津田か。司時空庁長官の津田幹雄が、どうして」

「例の、別府君が見つけた大当たりパスワードを使って、また、防災隊のデータサーバーの中を覗いてみたの。防災隊って、いざという時は軍隊のバックアップとして使えるように、人員構成も、連絡体制も、国防軍とほぼ同じ形にしてあるでしょ。で、もしやと思って、防災大臣の連絡記録を覗いてみたの」

 時吉浩一が目を丸くして言った。

「ぼ、防災大臣? 阿多防災大臣のメール・ボックスを勝手に閲覧したのですか」

 山野紀子が片方の目を瞑って見せて、言った。

「どうせ、居眠り大臣よ」

 そして、話を続ける。

「そしたら、やっぱり、国防大臣の連絡記録は、自動的に防災大臣にも転送されるようになってた。もちろん、防災大臣の連絡記録も、国防大臣に行くようになってる。誰と通信したかだけだけどね」

 神作真哉が尋ねた。

「で、何が分かったんだ」

 山野紀子が答える。

「ここ数日で奥野大臣が一番頻繁に連絡を取っているのが、司時空庁長官の津田幹雄。変でしょ、タイムトラベル事業は、当面の間、停止となっているのに。発射に備えた大掛かりな警備も必要ない。なら、そんなに連絡を取り合う必要は無いはずじゃない」

「まあ、そうとは限らんが……。発射施設そのものは今も残っているんだ。その警備だってあるだろ」

「でも、私たちが突撃取材した六月五日、その前日なんて、わんさか電話してるのよ。その当日と後日も。丁度、無人機が墜落する直前にも、頻繁に連絡してる」

 永山哲也が指摘した。

「しかし、津田長官と奥野大臣が結託しているとしたら、妙ですよね。津田幹雄という男はガチガチの国内派でしょ。アンチASKITはもちろんのこと、国際企業であるストンスロプ社とも距離を置いている。今日の法廷でも、あんな感じでしたからね。そんな男がASKITに動かされているかもしれない奥野大臣と手を結びますかね」

 山野紀子が言った。

「だから、言っているのよ。津田は奥野がASKITと通じていることを知らないんじゃないかしら。そしたら、それ聞いた津田ちゃんは怒るでしょ。きっと」

「分かっていて、あえて手を結ぶと言うこともあり得ますよ。僕が見てきた世界では、むしろ、そちらの方が多い」

 険しい顔でそう言った時吉の顔を見て、神作真哉が言った。

「そうなると、そこまでしなければならない理由が問題になるな」

 暫らく皆、考え込んだ。店の中がいっそうに静かになる。

 春木陽香がボソリと言った。

「永山先輩が送ったタイムマシン、やっぱり、あれですよね」

 神作真哉が頷いてから言う。

「あるいは、ドライブ。永山が受け取ったあれが『バイオ・ドライブ』だったのだとすれば、中のデータに何か秘密がある」

 春木陽香が少し遠慮気味に言った。

「あの……傷が付いてましたよね。永山先輩が送ってくれたドライブの画像には」

 永山哲也が春木の顔を見て答えた。

「あ……うんうん。裏の方か表なのか分かんないけど、大きな傷が付いてた」

 春木陽香が永山の顔を見て、訴えるように言った。

「永山先輩が送ってくれた田爪博士のインタビュー録を、私、何回も聞いたんです。田爪博士は仮想空間での実験の話の時に、こう言っていました。支給された高価なデータ・ドライブを床に落としてしまった、大きな傷が付くほど、激しく……って」

 永山哲也の眉間に皺が寄る。

 山野紀子が言った。

「その『バイオ・ドライブ』を手に入れれば、はっきりするわね」

 少し無理にまとめようとした彼女の発言に対し、神作真哉が呆れ顔で言った。

「手に入る訳ないだろ。持ってるとしたら、司時空庁だぞ。それに、その傷が、今ハルハルが言った実験の時の傷だとは限らんじゃないか。仮に、司時空庁が何かを隠し持っていたとしても、それが、永山がタイムマシンに乗せた物かどうか、分からんだろ」

 山野紀子は口を尖らせて言う。

「じゃあ、どうするのよ。このままじゃ、あの核テロ爆発を哲ちゃんのせいにされちゃうのよ。それでもいいの」

 神作真哉は永山の顔を一瞥して言った。

「よくねえけどよ。もっと裏を取ってからの方がいいだろ。事は戦争の原因になった事実だぞ。慎重に行かないと、大変な混乱に繋が……」

 永山哲也は消沈した。山野紀子がしかめた顔を神作に向け、首を横に振って見せる。

 春木陽香は心配そうな視線を永山に向けたまま、懸命に彼を励ます言葉を探していた。

 時吉浩一が口を開いた。

「明日、司時空庁に出向いて確かめてみましょうか。その方が早い」

 神作真哉が困惑した顔で言う。

「無茶ですよ、先生。相手は司時空庁ですよ。今度は裁判所じゃないんですから」

「ですかね。ま、やるだけは、やってみましょうよ。はっきりさせないと。事は戦争の原因になった事実ですから」

 端然としてそう答えた時吉に山野紀子が眉を寄せて尋ねる。

「でも、そうなると哲ちゃんも一緒に行かないと行けませんよね。また拘束されてしまうんじゃ……」

「そうならないようにするのが、僕の仕事でしょう」

 時吉浩一は静かに微笑んで見せると、永山の顔を覗いて尋ねた。

「永山さん、確かめられるのですよね」

 永山哲也は首を縦に振った。

「ええ。現物を見ることができれば。分かりました。行きますよ。やってみましょう」

「永山先輩……」

 春木陽香は猛烈に心配そうな顔で永山を見つめた。神作真哉と山野紀子は、顔を見合わせて、互いの不安を確認している。

 丁度その時、上野秀則が店に入ってきた。彼は薄暗い店内を見回しながら歩いてくる。

「なんだ、今日は休みかよ。まあ、特に残念でもないけど……」

 上野秀則は、五人が深刻な顔で座っている中央のボックス席までやってくると、手を上げて言った。

「おお、遅くなってすまん。車が混んでてな。お、永山、ようやく自由になったか。どうだ、久々の娑婆の感想は。ハルハルから聞いたと思うが、おまえんちから司時空庁の奴らが居なくなって、機材とかも撤収されたぞ。これでご夫人も娘さんも、もう自由だ。心配は要らん。よかったな。あ、そうだ、今日は解放祝いに、パッと飲みにでも行くか。な、神作……って、どうしたんだ、みんな。白けた顔して」

 神作真哉は頭を掻きながら、呆れ顔で言った。

「おまえ、下戸だろうが。ったく……」

 上野秀則は、皆から注がれる冷ややかな視線に、一人で困惑していた。




 二〇三八年八月十三日 金曜日


                   1

 司時空庁ビル内の大会議室には、幅が広く長い会議テーブルが置かれていた。窓側の長辺に沿って並べられた重役椅子の分厚い背もたれに、閉じられたブラインドの隙間から鋭く射す朝日が当たっている。壁に掲げられた明告鳥あけつどり(鶏)を模ったロゴを背景にして置かれている上座の三脚の椅子には、誰も座っていない。長いテーブルの中央の窓際に、時吉浩一と永山哲也、神作真哉が窓を背にして順に座っているだけで、他には誰も居なかった。

 両開きのドアが左右に開き、光沢のある黒い背広を着た津田幹雄が入ってきた。地味な背広姿の松田千春と洒落たブランド物のスーツを着た佐藤雪子がそれぞれ鞄と資料を持って後に続く。三人は時吉たちの向かい側の席まで歩いてくると、壁際に並んだ。

 永山の向かいの席の椅子を引いた津田幹雄が、椅子に腰掛けながら言う。

「これは、これは。そちらから、わざわざご出頭ですか」

 時吉の向かいの席に松田が、神作の向かいの席に佐藤が座った。

 時吉浩一は淡々とした口調で言う。

「おはようございます、長官。昨日は貴重な証言をありがとうございました。一応、申し上げておきますが、出頭したつもりはありません。話しに来ただけです」

 津田幹雄は眼鏡を指先で持ち上げながら言う。

「そうですか。では、こちらも一応、申し上げて起きましょう。私は昨日、永山氏が我々の監視下から脱した場合、同氏を追跡、捜査、探索をする法的な根拠は無いとは証言しましたが、目の前に現れた『指定機密情報保有者』を再度、我々の保護下に置く権限は無いとは言っていませんよ。お忘れなく」

 津田幹雄は時吉に視線を据えた。

 時吉浩一は落ち着いて頷いて見せた。

「無論、承知しています。しかし、その心配は無いでしょうから、こうして伺いました」

 津田幹雄は片笑みを浮かべた。

「なるほど。強気ですな。お父様に似たのかな」

 時吉浩一は口角を上げて言う。

「父は常に強気ですが、僕は常に本気です。お忘れなく」

 時吉浩一が津田の顔を真っ直ぐに見ている。津田幹雄は時吉に威圧的な視線を返す。時吉浩一は無表情のまま、津田から目を逸らさない。

 津田幹雄は大きく溜め息を吐くと、視線を落として言った。

「――まあ、いいでしょう。それで、ご用件は」

 時吉浩一は凛とした姿勢のまま津田に言った。

「私の依頼人は、自己の所有物の返還を御庁に求めています。今日は、その請求に伺いました」

 津田幹雄は背もたれに身を倒して答えた。

「所有物? 何のことです」

 時吉浩一は津田の顔を見据えて滔滔と伝えた。

「まず、永山氏が帰国した際に空港でそちらが押収した彼の機材。立体ノートパソコン、カード式端末、タブレット式端末、イヴフォンの各一つ。その他MBCなどの記憶メディアの全て、計十点。次に、取材ノート、手帳、パスポート、マネーカードの各一つ。最後に、衣類その他の私物が入ったスーツケース二個、鞄一つ。その他、御庁が永山氏から押収した彼の所有物すべて」

 津田幹雄は割れた顎を時吉の方に向けて言った。

「取材機器は永山さんの私物ですかな。会社からの支給品でしょう。ならば、会社の所有機材では?」

 時吉浩一は横を向き、促した。

「神作さん」

 神作真哉が右手で一枚の書類を前に出した。手を伸ばした佐藤がそれを受け取り、内容を確認してから隣の津田に手渡す。

 時吉浩一が言った。

「新日ネット新聞株式会社から永山哲也氏に所有権を移転したことを証する譲渡証明書です。ご確認下さい」

 書類を一瞥した津田幹雄は、それを松田に渡して言った。

「なるほど。いいでしょう、お返ししましょう。しかし、手続にしばらく時間が掛かりますのでね、その点はご了承下さい。なにぶん、事務担当職員の大半が『お盆休み』を取得していましてな」

 時吉浩一は間を置かずに言った。

「ならば、訴訟提起と仮処分を申し立てるだけです。裁判所に『お盆休み』は無いので」

 津田幹雄が左右の肘掛に手を乗せて、余裕のある表情で言う。

「ほう。この司時空庁を相手に、ですか」

 時吉浩一は頷いて見せた。

「そうです。その後に横領罪であなた方を刑事告発します。当然、捜査範囲はこの司時空庁ビル全体になる。地下の保管庫もね」

 時吉浩一の人差し指が下を指す。

 津田幹雄の表情が曇った。

 松田千春が向かいの時吉をにらみながら言う。

「どこから情報を……」

 手を上げた津田幹雄が松田を制止して、時吉の顔をにらみ付けながら言った。

「我々を脅すつもりかね」

 時吉浩一は表情を変えずに津田の眼を見て言う。

「私は常に本気だと、申し上げたはずですが」

 津田幹雄も時吉の眼を見て尋ねた。

「何が狙いかね」

 時吉浩一は毅然と答える。

「本日中の返還を求めます。それが、今、この場で約束できないのなら、私は永山氏の代理人弁護士として法的手続きに着手します。それが、この国が法律で定めたルールですから」

 津田幹雄はテーブルの上に視線を落とした。暫らく眉間に皺を寄せて検討した彼は、時吉に視線を戻して口を開く。

「分かった。返却しよう」

 時吉浩一が確認した。

「彼の所有物、全てを、お返しいただけるので?」

 津田幹雄は永山に顔を向けた。

「ああ。すべて返す。それでいいんだろう」

 永山哲也は横を向き、時吉と顔を見合わせた。

 時吉浩一は言う。

「永山さん、私が言い忘れている物はありませんか。あなたの所有物で」

 永山哲也が人差し指を立てて言った。

「先生、一つ忘れてますよ。大事な物を」

 時吉浩一がわざとらしく尋ねる。

「大事な物とは?」

 永山哲也は前を向き、津田の顔を見据えて言った。

「バイオ・ドライブです」

 時吉浩一も津田の顔を見て言う。

「だそうです。それも、ご返却下さい」

 津田幹雄はにやけながら言った。

「バイオ・ドライブ? 何を馬鹿な。知らんよ、そんな物」

 時吉浩一は両眉を上げた。

「あれ、おかしいですね。永山さん、鞄に入れて持って帰ったのですよね。空港まで」

 永山哲也が頷く。

「はい。機内に持ち込んだ鞄の中に入れていたんですけどね。変だなあ。鞄ごと、そちらの職員に押収されたのに」

 津田幹雄は椅子の背もたれに深く身を倒したまま、永山を指差して言った。

「追加レポートの記録音声では、あなたはそれをタイムマシンに乗せて、マシンごと、どこかに飛ばしたように記録してありましたがね。私の聞き違いでしょうかな」

 時吉浩一が津田に鋭い視線を向けながら言った。

「どうして、永山さんがマシンに乗せたものが、バイオ・ドライブだと思うのです? 私も永山さんも、それが田爪博士から永山さんが貰った『小型記録媒体』のことだとは言っていませんが」

「いや……それは……」

 返答に窮する津田に神作真哉が言った。

「見たことがあるんだな。タイムマシンに乗せてあるバイオ・ドライブを」

 時吉浩一は津田の顔を見たまま言った。

「いや、神作さん。だとすると、変なんですよ」

 そして横を向き永山に言う。

「永山さん、あなた、そのバイオ・ドライブを自分の手許の鞄に入れて、帰りの飛行機の機内に持ち込んだのですよね」

 永山哲也が頷いてから答える。

「ええ。軍が仕官送迎用の軍用機で日本まで直接送ってくれると聞いていましたから、それなら技術検疫も関係ないし、安全だと思って、田爪博士の遺髪と共に、鞄に入れて持ち帰りました。レポートでは恰好つけて、あんなことを言いましたけどね。結局、マシンには乗せなかったのですよ」

 松田千春が永山を指差しながら強い口調で怒鳴った。

「嘘を言うな。我々の事情聴取にも、軍の事情聴取にも、あのデータ・ドライブはタイムマシンに乗せたと言っていたじゃないか。鞄の中だって徹底的に探しているんだぞ。いい加減なことを……」

「松田君」

 横から津田幹雄が制止した。

 時吉浩一が大袈裟に首を傾げて言う。

「徹底的に探した? 見たことも無い物を、どうやって探したのです? 彼は追加レポートの中で、バイオ・ドライブの大きさも、形も、重さも、色も、何も述べてはいませんよね。しかも、彼は、こう表現している。『小型記録媒体』と。それがバイオ・ドライブだとか、データ・ドライブなどとは、一言も言っていませんよ。それなのに、なぜ、それがドライブ機器だと分かったのです?」

 松田千春は口籠った。

「それは、彼の供述から……」

 時吉浩一は間髪を容れずに要求した。

「では、その供述書を読ませて下さい。今、この場で確認したい」

 津田幹雄が時吉を睨みながら言った。

「随分と無茶な要求をされますな。役所が書類を出すのには相応の時間がかかることは、弁護士さんなら知っておられるでしょう」

 時吉浩一は言う。

「ええ。ご自分たちが役所内で使用する際には、何処よりも早く書類を準備していることも、知っています」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せた。

 時吉浩一は、着ていた派手な背広の内ポケットからICレコーダーを取り出すと、それを顔の横で振りながら言った。

「今の矛盾ある回答を証拠として添付して捜査機関に刑事告訴してもいいのですよ。れっきとした横領罪で」

「貴様……」

 津田幹雄が時吉をにらみ付けた。

 時吉浩一は松田の方に顔を向けて、彼を問い詰めた。

「軍の供述調書は手に入れられても、自庁の供述調書は入手できないと仰るのですか。それとも、調書を読まれては何か不味いことでも? 質問内容を分析されると、何か不都合な真実が出てきますかな」

 松田千春は反論できない。

 津田幹雄が落ち着いた低い声で時吉に言った。

「どこまで知っているんだ」

 時吉浩一が津田に顔を向け直して答えた。

「それを知りたいのです。どこまでが真実なのか」

 再び津田と時吉はにらみ合った。

 張り詰めた空気が流れる。

 松田千春が時吉を指差しながら、顔を紅潮させて言った。

「弁護士管理機構に正式に懲戒申立てをしてもいいのですよ。これは脅迫でしょう」

 津田幹雄が横から言った。

「松田君。もういい」

「しかし……」

 再び手を上げて松田を制止し、津田幹雄は時吉に厳しい視線を向けながら言った。

「懲戒手続は弁護士管理機構が内部で実施する裁判手続だ。主張と立証を強いられる。そうなれば、窮地に立つのは我々だ。それを分かっているんだよ、こちらの先生は」

 平然としている時吉の隣で、永山哲也と神作真哉は顔を見合わせた。

 津田幹雄は観念したように下を向くと、背もたれから身を起こしながら言った。

「いいだろう、話そう。だが……」

 顔を上げた津田幹雄は、時吉の手に握られているICレコーダーに目を遣った。

 時吉浩一はレコーダーのスイッチを押し、テーブルの上に置くと、そのまま松田の前までレコーダーを滑らせた。松田千春が受け取る。

 時吉浩一は言った。

「どうぞ。確認して下さい。すべて消去しましたので」

 ICレコーダーのパネルを確認した松田千春は、横を向いて津田に頷いて見せた。

 ゆっくりと座りなおしてから、津田幹雄が話し始める。

「結論から言おう。永山君、君が送ったタイムマシン、あれは、二〇二五年の爆心地に届いたのだよ」

 永山哲也は、ただ黙って津田の顔を見ていた。

 神作真哉が津田に言う。

「そうやって、すべてを永山に被せて、真実を隠し通すつもりか」

 津田幹雄は首を横に振った。

「違う。本当だ。あのタイムマシンは、二〇二五年九月二十八日午前十一時十七分五十二秒の前後に、あの爆心地点に出現したのだ。爆発現場から防災隊員が残留物の一部を発見している」

「そんな……」

 眉を寄せて呟いた永山哲也の隣で、神作真哉が怪訝な顔で津田に尋ねた。

「なぜ防災隊が。火山の噴火でもないのに。災害観測システムが爆発を捉えたのか」

 津田幹雄は再び首を横に振る。

「いや。爆発を最初に観測したのは、MIDASミダスだ」

「ミダス?」

 時吉浩一が問い返すと、佐藤雪子が口を開いた。

「米国が長年使用している軍事衛星ですわ。ミサイル・ディフェンス・アラーム・システム( Missile Defense Alarm System)。略してMIDASミダス。弾道ミサイル攻撃の警報や核爆発を探知するための防衛システムの一つですの。古いシステムですけど、今も現役で使用されていますのよ。当然、二〇二五年当時も。我が国の国防軍も、条約により、その情報を得ておりますわ」

 松田千春が口を挿んだ。

「情報を得た国防省から自動的に連絡を受けた防災隊の核災害対策部隊が、最初に現場に駆けつけたんだ」

 津田幹雄が再び背もたれに身を倒しながら言った。

「大型救助ヘリ十機で速やかに現場に到着した彼らは、各ヘリから救助用機動装甲車を降下させ、一個大隊の総力を挙げて、生存者の捜索に取り掛かった。対放射能アーマーに身を包んだ特殊隊員たちが、熱を残した地表を耐熱ブーツで踏みしめながら、生存者を探したのだ。見事なものだった」

 永山哲也が深刻な顔をして尋ねる。

「人が居たのですか」

 津田幹雄は首を横に振った。

「いや。実際には爆発以前から誰も居なかった。だが、防災隊は確実な情報が入るまで、被災した生存者が現場に居ることを前提に救助作戦を続行する。当時も、現場に人が居たことを前提に、懸命の捜索活動が行われた。そして、その過程で、爆発の中心点と思われる所から数キロ離れた地点で、例の物が発見されたのだ」

 時吉浩一が尋ねた。

「例の物とは」

 津田幹雄は時吉を一瞥すると、椅子の背もたれに身を倒したまま、永山をしっかりと指差して言った。

「君がタイムマシンに積み込んだ金属板と、バイオ・ドライブだよ」

 永山哲也は眉間に深い皺を寄せていた。


 

                 2

 道路脇の並木の下に青いバイクが止まった。紺碧のライダースーツを着た女が、ラピズラズリ色のヘルメットから車線の反対側を覗いている。彼女の視線の先には、二人の女が立っていた。腕時計を見ている山野紀子と、心配そうな顔で目の前の司時空庁ビルを見上げている春木陽香である。

 春木陽香は、階段を上った先にあるビルの玄関に視線を移して、呟いた。

「永山先輩、大丈夫かな……。また捕まっちゃうんじゃ……」

 山野紀子は春木の視線の先に目を向けた。そこには白い防具で武装したSTSの警備兵たちが入り口のガラス戸を背にして立っていた。

 山野紀子は腹から出した声で春木に言った。

「オロオロしても仕方ない。無事に出てくることを祈るのよ」

「でも……」

 春木の不安は拭われなかった。

 山野紀子は言う。

「とにかく、哲ちゃんが田爪博士から受け取ってタイムマシンに乗せたデータ・ドライブが、ハルハルの推理の通り『バイオ・ドライブ』だったのだとしたら、この一連の事件にNNC社の影がちらつく理由も分かるかもしれない。それに、その『バイオ・ドライブ』が、二〇二一年の仮想空間実験に用いられた物なら、外装に傷があるはずなんでしょ。つまり、同一物かどうかを特定できる。幸いにも、哲ちゃんが建屋に向かう前に、こっちにドライブを撮影した画像データを送ってきているからね」

 春木陽香は山野の顔を見上げて言った。

「でも、それ、司時空庁に押収されちゃいましたよね」

 山野紀子が片方の眉を上げて答えた。

「帰ってきているのよ。行政処分も裁判所の証拠保全も、どっちも取り下げになったみたいだから。ドライブ・ボックスのメモリーボールから焼き切った分も、裁判所がその前にコピーを保管している訳だから、結局、全部帰ってはきているの。ただ、段ボールに入って何もかもゴチャ混ぜ状態で送ってきたそうだから、新聞の人たちが一生懸命に整理している最中みたい」

「そうなんですか……」

 山野紀子は司時空庁ビルの前の階段に背を向けて言った。

「ま、その画像データが帰ってきていないとしても、司時空庁が隠し持ってる訳だから、出させればいいだけでしょ」

「司時空庁に保管されている物が、永山先輩が送ってくれた画像の物と同一物だと特定できれば、田爪博士の唱えていたパラレルワールド否定説が正しかったという証明になりますよね」

「そうね。その保管されている物が過去に遡ったタイムマシンから回収したものだとすれば、の話だけどね。でも、もしそうなら同時に、司時空庁は全てを知っていて民間人をポンコツ・タイムマシンで飛ばしていたということの証明にもなる。津田幹雄はお終いよ」

「でも、問題は、司時空庁側がドライブやタイムマシンを保管していることを認めないという点ですよね。こちらとしては、それらを見せてくれないと、同一物かどうか判別できないですもんね」

 山野紀子は両肩を上げた。

「見せる訳ないじゃない。例のゲリラからのメッセージが刻まれているという金属板だって、南米戦争に軍が参戦する前から、有る、有ると言って、国民には一切公開されていないのよ。はあ、哲ちゃんがそれを見れば、きっと一発で、自分が乗せた金属板かどうか判明するのに……」

 山野紀子は短く溜め息をついた。

「田爪博士が改良したタイムマシンで本当にタイムトラベルが実現していて、しかも、時間軸は一本線上に伸びているということがはっきりしてしまうと、国にとっては不都合だということですよね」

「それは、政府? 私たち?」

 山野からの問い返しに、春木陽香は真顔で答えた。

「両方です。政府にとっては、戦争参加の大義名分が間違っていた、というか、意図的に偽られたものだったということになりますし、タイムトラベル事業についても、それを開始した前提条件が崩れます。タイムマシンが到達した時点からパラレルワールドが進行して現状の世界には影響を与えないということだから、国民は賛同した訳ですから。そのパラレルワールドが存在せず、過去に戻ったものが現在に何らかの影響を与えるのだとしたら、この事業は廃止せざるを得ない。そうなれば、来年度以降の政府財源は大幅に縮小します。結果、赤字財政の建て直しが非常に難しくなります」

「皺寄せは、私たちの生活に及んでくるわね。他に私たちには、どういう影響がある?」

 山野が更に問うと、春木陽香は少し考えて答えた。

「――ええと、現状では、環太平洋諸国のみならず、ヨーロッパ連合をも巻き込んだ南米戦争における南米ゲリラの科学武装化による急速な軍事力増強が、全て日本のタイムトラベル事業によるものだったということで、諸外国とかなりの軋轢が生まれています。そこに来て、この戦争を始めるきっかけになった日本への核テロ攻撃が、実はタイムマシンの事故による爆発であったということになれば、日本は完全に国際社会で信用を失って、孤立してしまいます。そしたら、輸出入が落ち込んで、国民経済にも深刻なダメージを与えるかもしれません」

「それだけ?」

 山野紀子は更に深い考察を春木に要求する。

 春木陽香は、また少し考えてから答えた。

「――あと、不安です。過去に飛んだタイムマシンによって、変えられてしまった現在を生きているのではないかという不安。もし、そのタイムマシンが過去に戻っていなかったら、つまり、二〇二五年に爆発が起きていなかったらという仮定的な詮索が始まります。人々の間で。そして、やがてそれは、現状への不満へと変わる。大きな社会不安が広がる可能性が考えられます」

「よし、正解。そうね、タラレバ論が蔓延するかもね。きっと人々は前を向いて生きなくなる」

「世の中に対する不満や不安が募れば、テロや犯罪の増加も懸念されますよね」

「うん。そうかもね……」

 静かに頷いた山野紀子は、春木を軽く指差して言った。

「あんた、それでも、この事を記事として書く?」

 春木陽香は間を空けてから、首を縦に振る。

「――はい。記者ですから」

「よし、それも正解。それでいい」

 片笑んで見せた山野紀子に対し、春木陽香は深刻な顔を返す。

「でも、それによって永山先輩が世間から叩かれることになるかもしれないというのは、正直、胸が痛いです」

「それは、あの大爆発が哲ちゃんが送ったタイムマシンによって引き起こされたって場合でしょ。核テロ攻撃は、それ自体として事実であって、その瞬間にタイムマシンが到達したのかもしれない」

「それは分かりますけど、でも、田爪博士も二〇二五年の爆発は知っていたのですよね。どうして、そんな時間と場所に送らせたのでしょう」

「場所は、あの爆心地の跡地に送るということを哲ちゃんにも伝えていたみたいだけど、時間については、もしかしたら、単純に田爪博士の計算ミスとか設計ミスなのかもしれない。あるいは、考えたくないけど、哲ちゃんの入力ミスか」

「永山先輩、自分の体重とほぼ同じ重さの鉄板を乗せたんですよね。厳密に同重量ってことはなかったでしょうから、その誤差が影響したとか」

「それも考えられるわね。いずれにしても、あのタイムマシンの到達が、二〇二五年の大爆発の原因となったかどうかとは別問題よ。今話したのは、何故タイムマシンが二〇二五年に到達してしまったのかって問題でしょ。到達しても爆発の原因となったかどうかは分からない。それに、その前に、本当にタイムマシンが二〇二五年に到達しているのかを確かめないと。それには、司時空庁が地下に隠している物は何なのかを、はっきりさせないといけない。それがタイムマシンや、その部品、あるいは、例のデータ・ドライブなのかどうか。そこが出発点よ」

「引き出せますかね」

 山野紀子は階段の上の司時空庁ビルを見上げながら言った。

「やってくれるわよ。トッキー、哲ちゃん、真ちゃんじゃない。芸人トリオみたいで、リズムが良さそうだし、キャラのバランスも……あれ、どこ行ったの、ハルハル?」

 山野紀子は周囲を見回した。

 春木陽香は車道沿いの街路樹の横に立って下を向き、手に何かを握ってブツブツと口を動かしている。彼女は握っていた手を広げて、そこに載った小さなチョビ髭おじさんの人形を見つめると、念を込めるように呟いた。

「どうか、永山先輩たちが上手く話を引き出せますように。無事にビルから出て来られますように……」

 遠めに春木の様子を見ていた山野紀子が不安そうな顔をして呟く。

「何よ、あの子。まさか、変な宗教にでも入ったんじゃないでしょうね」

 溜め息を吐いた山野紀子は、春木の方に歩いていった。

 車が往来する道路の反対側から、青いバイクのライダーが二人の様子を見つめていた。


                  3

 司時空庁の大会議室内は一瞬静まった。津田が永山を指差した手を下ろすと、神作真哉が聞き返した。

「バイオ・ドライブの一部?」

 時吉浩一も尋ねる。

「どういうことですか」

 津田の横から松田千春が答えた。

「破損していたのですよ。爆発の熱で」

「どの程度」

 時吉の問いに津田幹雄が答えた。

「約半分だ。半分が欠けていた。焼け残った部分も黒く炭化していた」

 神作真哉が怪訝な顔をして言う。

「そんな状態で、どうしてそれが『バイオ・ドライブの一部』だと判るんだ」

 津田幹雄は、肘掛に左右の手を載せたまま、神作の顔を見て言った。

「もちろん、発見したその場で判った訳ではない。防災隊から我々が回収し、数ヶ月の分析を経て辿り着いた結論だ。残っていたのだよ。炭化した外装の中にドライブ本体の一部が。それで、バイオ・ドライブだと判明したんだ」

 神作真哉は隣の永山哲也と再び顔を見合わせた。

 その様子を見て時吉浩一が言った。

「こちらにも解かるように説明してもらえますか。あなた方と違って、こちらは全員、文系でしてね」

 松田千春が鼻で笑う。

 津田幹雄は隣の松田を眼中には入れずに、時吉の顔を見て言った。

「バイオミメティクスという言葉は、聞いたことがあるかね」

 時吉浩一が眉を寄せて問い返す。

「生体模倣技術ですか」

 津田幹雄は頷いた。

「そうだ。生物の形態や機能、構造、挙動などを分析して、機械工学や材料工学に取り入れる技術のことだ。特に近年は、人工材料生成の分野での発展が目覚しい」

 永山哲也が口を挿む。

「人造細胞技術を使った新素材の生地や、軟性金属、変色カーボン粒子などですね」

 津田幹雄は永山に顔を向けて頷いて見せた。

「ああ。だが、そんなものは遊びのレベルに過ぎん。生物の究極の神秘は、ここにある」

 津田幹雄は自分の側頭部を指先で突いてみせた。

 神作真哉が呟くように言う。

「脳……」

 津田幹雄は語り始めた。

「生物の脳ほど、高性能なコンピュータは無い。蟻を考えてみたまえ。あんなに小さな体の頭部に極小の脳を入れて、自律的に動いている。大海を廻る鯨は、あらゆる状況の変化に対応している。街中の複雑な状況に対応する猫、吠える相手を識別する犬、社会形成をする猿、そして、学習し進化する我々人類。こんなことが出来るコンピュータは、過去には存在しなかった。実現しようとすれば、途方も無い容量のCPUとメモリーが必要になるし、何より、そのための高度なプログラムを構築しなければならない。それは実に困難だった。だが、それらとは違う方法で、バイオミメティクスを応用して、それを実現した企業が現われた」

 神作真哉は答えを言わず、じっと津田の顔を見ている。

 津田幹雄は時吉の方に顔を向けて言った。

「AB〇一八を製造したNNC社、ニューラル・ネット・コーポレーションだよ。あの会社は、バイオミメティクスを専門とする会社でね。彼らは、その技術を利用して、AB〇一八を製造した。バイオ・コンピュータ『AB〇一八』をね」

 永山哲也が尋ねた。

「つまり、あの巨大な生体コンピュータは、生物の脳を模倣して出来ているということですか」

 津田幹雄は一度頷いてから言った。

「建物が巨大なだけで、AB〇一八の本体は、そう大きくはないと聞いている。ま、管理しているNNJ社の連中が中を見せてくれんので、本当かどうかは分からんがね」

 津田幹雄は大きく鼻息を吐いた。

 時吉浩一が尋ねる。

「そうすると、同じくNNC社が開発したバイオ・ドライブも、生物の脳機能を模倣して作られているという訳ですか」

 津田幹雄は頷いた。

「そうだ。もともと、『バイオ・コンピュータ』とは、バイオ・チップで構成されたコンピュータのことで、世界各国がその開発を進めていた。我が国では、あのGIESCOも開発のための研究を続けていたが、構造があまりにも複雑であるが故に、開発を断念し、事業から撤退した……ということになっている」

 神作真哉が眉間に皺を寄せて尋ねる。

「GIESCOが? ストンスロプ社が手を引いたのか」

 津田幹雄は片笑みながら神作に答えた。

「表向きはそうだが、実際には、手が付けられなくなったのさ。奴らに散々やられてな」

「奴ら……NNC社ですか」

 そう尋ねた永山の方を見て、津田幹雄は頷いた。

「ああ。正確には、その背後にいるASKITだよ。連中がバイオ・コンピュータ技術に関する国内特許を掌握した。研究に必要な実験の特許技術まで全てを。それらの技術を利用するためには奴らに莫大な特許料を支払わねばならない。だから事実上、日本国内の企業はこの分野に手が付けられなくなったのだ」

 神作真哉が少し呆れたような顔で言った。

「金の問題だけでか。そんなこと何とかなるだろう。支払額の交渉をするとか」

 神作を鼻で笑いながら松田千春が説明した。

「いやいや、特許料支払額の交渉の過程でね、奴らは特許料を引き下げる替わりに、その特許技術を使用した研究や開発に関する全ての情報提供を求めてくるのですよ。結局、新たに開発したモノや技術そのものもASKITに奪われてしまう。これでは意味がないでしょう。まあ、実際にそうなってしまった馬鹿な企業も少なくないようですがね」

 逆に呆れ顔を作って笑って見せる松田を一瞥してから、時吉浩一が尋ねる。

「ASKITは他国でも同様のことを?」

 津田幹雄は険しい表情を浮かべて答えた。

「おそらくな。だから、世界各国がこの分野から撤退したんだ」

 永山哲也は怪訝な顔で首を傾げると、津田に尋ねた。

「どうしてそこまで。ASKITはバイオ・コンピュータに何か拘りでもあるのですか」

 津田幹雄は口をへの字にして言う。

「分からん。だが、他の分野でも似た様なことをしているようだ。そうやって、掌握した産業技術を武器に、その国の政府に外圧をかけてくる。それが連中のやり口だ。実に腹立たしい」

 荒々しく鼻から息を吐いた津田幹雄は、少し間を置いてから、眼鏡を指先で上げて話を続けた。

「とにかく、結果として、バイオ・コンピュータに関するあらゆる研究技術や研究の実績がNNC社に集中し、奴らの研究と開発は飛躍的に進んだ。そしてついに、生体に類似の構造を持つ人工有機分子素材と人工神経素子でできたバイオ・コンピュータの開発に成功したのだ」

 時吉浩一が津田と松田の顔を交互に見ながら尋ねた。

「人工有機分子素材と人工神経素子と言うと、要は人工神経細胞組織のことですよね。素材や構造が重要なのですか」

 津田幹雄は背もたれに倒れたまま、ゆっくりと説明をした。

「バイオ・コンピュータには、いくつかの概念がある。まず、タンパク質や酵素などを使用する演算素子や記憶素子、つまりバイオ・チップをメインとする『バイオ・チップ型コンピュータ』。次に、脳科学に基づいて人間の脳の機能的構造を模倣した『バイオ・アーキテクチャ型コンピュータ』。そして最後に、人工細胞を用いて生物と同様に自己修復、自己増殖、自己組織化を進める『真性型バイオ・コンピュータ』。AB〇一八は、その全てを包含している。人工神経細胞組織の中にマイクロ技術で作られた演算素子と記憶素子を融合させ、人間の脳機能の構造を模して設計されている。各神経細胞組織は、学習し記憶する度に、自己修復と自己増殖、自己組織化を繰り返し、シナプス結合による神経組織と神経回路の統合を進めて、内部にニューラル・ネットワークを構築する。そこに直接、プログラムとデータを再現し、情報を『知識』として記憶していくのだ。効率よく、無限にな。しかも、一度記憶された情報は決して失われない」

 神作真哉が隣の永山の顔を見て言う。

「GIESCOが作った『IMUTA』よりも、すげえじゃねえか」

 また神作の発言を馬鹿にするように、松田千春が空笑いして言った。

「はは。IMUTAは全くの別物ですよ。あちらは、量子コンピュータですからな。部品に用いる量子効果素子の製造過程でタンパク質を使用することはありますが、単にそれだけです。確かに、従来の半導体論理回路を用いたコンピュータとは動作原理が異なるという点では、AB〇一八と共通しますが、根本的な原理が違う。IMUTAは物質の量子的な反応をコンピュータの演算素子に見立てて応用した物です。キュービットという一つの情報単位で複数の状態を同時に表現することができるのですよ。それにより、超並列演算処理を可能にしている。そこに、新型の『球体フォトニックフラクタル』を併用することで、無限に近い容量の演算でも超光速で、しかも、複数を同時に処理することができるのです。ですから、IMUTAは、インテグレイテッド・マルチタスク・ターミナル・アクセスレーター(Integrated Multitask Terminal Accelerator)の略で、翻訳すると、統合型同時並行処理端末加速装置と……」

 神作真哉は広げた右手を松田の方に向けて言った。

「ちょ、ちょっと、待ってくれ。その球体フォト何とかって、何だ」

 横から永山哲也が説明した。

「球体フォトニックフラクタルですよ。随分昔に、日本の大学の共同グループが開発したフォトニックフラクタルを更に進化させたもので、ゴルフボールのように穴が開いた球体で構成された準相似構造体の中に、光を閉じ込めることが出来るんです。理論的には十四万分の一秒でしたっけ」

 松田の方を向いた永山に、津田幹雄が向かいの席から答えた。

「そうだ。それを数百万個組み合わせることで、光速限界の理論値を突破した処理速度を実現している」

 神作真哉が顔をしかめて頭を掻く。そんな神作を見て、佐藤雪子が親切めいた笑みを浮かべながら補足した。

「AB〇一八は『記憶力の良い天才少年』、IMUTAは『高性能の電卓』と思っていただければ、ご理解いただけるのでは?」

 神作真哉は佐藤には顔を向けず、津田に尋ねた。

「AB〇一八は、何の略なんだよ」

 津田幹雄は、ぶっきら棒に答える。

「知らんよ。Arch‐Biocomputer(バイオ・コンピュータの頂点)かね。『〇一八』は製造年だろう。とにかく、AB〇一八が生体型コンピュータの中で、IMUTAが金属型コンピュータの中で、それぞれ最も高性能であり、両者を結合させたSAI五KTシステムが、地球上で最も優れた情報処理システムであることは、否定しようのない事実だ」

 横から松田千春が得意気な顔で言った。

「ちなみに、『SAI五KT』は、Sinchronize AB018 and IMUTA 五型式 Knowledge Teaminalsの略ですな。翻訳すれば……」

 津田幹雄が手を上げて、また松田の口を制止した。松田が不満足そうに口を閉じる。

 津田幹雄は時吉の顔を見て言った。

「とにかく、そのAB〇一八を製造したNNC社が、データの入出力用機器として製作したのが、バイオ・ドライブだ。基本的構造は、AB〇一八と同じだと聞いている」

 時吉浩一が確認する。

「人工神経細胞組織で出来ていると」

 津田幹雄は頷いた。

「そうだ。したがって、神経細胞組織を自己増殖、自己組織化することによって、情報を蓄積する」

 時吉浩一が言った。

「自己修復も、ですね」

 津田幹雄は再び頷いた。

「NNC社が開発した人工神経細胞組織は、損傷を得ても、残存するニューラル・ネットワークからシナプス結合の構造を予測演算し、損傷前の状態の、完全な形のニューラル・ネットワークを元通りに復元することが出来ることが分かっている」

 永山哲也が尋ねた。

「つまり、失った情報を取り戻すことが出来るということですか」

 津田幹雄は目を瞑り、首を縦に振った。

「そう。だから『絶対に忘れない脳』なのだ。どんなに小さな断片からでも、必要な養分とエネルギー、そして時間さえ与えれば、損傷前の状態に復元することができる。元の情報と共に」

 神作真哉が言う。

「プラナリアみたいなものか」

 津田幹雄は答えた。

「それに近い」

 時吉浩一は津田の顔をしっかりと見据えて言った。

「あなたがた司時空庁は、爆心地付近で発見したバイオ・ドライブの断片を回収し、それを復元して、田爪博士が書き込んだ情報を再現し、引き出そうとした。いや、まさか、既に引き出しているのですか」

 津田幹雄は小さく笑いながら椅子の背もたれから身を起こすと、テーブルの上で両手の指を組み、時吉の顔を見て言った。

「先生、もう少し冷静に聞いていただきたい。そんな訳は無いでしょう。あの中に情報として何が書き込まれていたのかを我々が知ったのは、つい先日だ。新日社から押収した追加レポートの部分を聞いて、初めて、あのバイオ・ドライブの中身が判明したのですよ」

「ということは……」

 口を挿もうとした永山を制止して、津田幹雄は話を続けた。

「まあ、聞きたまえ。我々は当初、爆心地から回収した物が、バイオ・ドライブの焼け残りであることには辿り着いたが、それに何が書き込まれているのか、何故あの場所にあったのか、さっぱり見当がついていなかったのだよ」

 時吉浩一が怪訝な顔をして尋ねる。

「十三年後の未来から届いた物だということを知らなかったというのですか。そんな馬鹿な。タイムマシンの残骸が残っていたでしょう」

 津田幹雄はテーブルの上に視線を落として首を振った。

「いや。ほとんど残っていなかった」

 神作真哉が指摘する。

「では、いくらかは残っていたんだな。そして、それも回収した」

 津田幹雄は目線だけを神作に向けた。

「そうだ。だが、残っていた残骸は、ほとんど外側の縁の部分。フレームの一部程度しか残っていなかった。それだけの残骸では、タイムマシンの初期実験段階にしか到達していなかった当時の我々には、いったい何の一部なのか見当もつかなかったのだよ。実際、当初は、そこに建っていた実験施設の建材の一部だろうと考えられていたくらいだ」

 永山哲也が尋ねた。

「田爪博士と高橋博士の意見は?」

 津田幹雄は再び首を横に振る。

「いや、彼らには見せていない。回収した物質があることすら、知らせていなかった」

「何故ですか」

 リズムよく尋ねてくる時吉に、津田幹雄はゆっくりと顔を向けて、険しい顔をしてゆっくりと答えた。

「政治的理由だよ」

 神作真哉と永山哲也が眉を細める。

 津田幹雄は姿勢を正したまま話を続けた。

「爆心地周辺からは、バイオ・ドライブと機体の残骸の他に、六枚の金属板が発見され、回収された。あれだけのエネルギー放射に耐えた、未知の金属板だ」

 神作真哉が確認する。

「永山が積み込んだ、耐核熱装甲用の金属板か」

 津田幹雄は頷いた。

「そうだ。当時はまだ、研究すらされていない対核熱反応金属。そして、その一枚には、ポルトガル語で、こう刻まれていた。『敵どもよ。滅びるがいい』と」

 永山哲也は言葉を失った。それは、確かに自分がタイムマシンの中に積み込んだ金属板に刻まれていた文言だった。

 だが、時吉浩一は冷静だった。彼は津田に尋ねた。

「それだけで、南米ゲリラの核テロ攻撃だと断定したのですか」

 津田幹雄は頷いた。

 それを見た時吉浩一は黙って下を向き、呆れ顔で首を横に振る。

 津田幹雄は神作に顔を向けると、諭すような口調で言った。

「考えてみたまえ。爆発が起きた二〇二五年は、国防軍が正式発足してから、ちょうど八年目という年だ。PDCA(Plan Do Check Act)サイクルで二週目。彼らは自分たちの実力を試したがっていたのだよ。東京五輪から四年、遷都宣言から三年という時期でもある。徐々に一過性の経済効果の熱も冷めてきていた。そこに、SAI五KTシステムが登場。日本経済に再びバブルの兆しが見え始めた。当時の田部内閣は、ここで諸外国に睨みを利かせ、日本経済を成長の波に乗せようと考えていたのだ。そうだ、国防軍が活躍できる『場』を探していたのだよ。戦場が地球の反対側の南米で、しかも、敵は反政府ゲリラ。おまけに、日本国内が核で先制攻撃されたとなれば、当時の政権にとって、世論を説得するには打って付けの条件だった。そこに君が積み込んだ金属板が発見されたのだ。お誂え向きの文言付きでね」

 神作真哉は唖然とした顔で言う。

「政府ぐるみの、言いがかり戦争だったということか」

 津田幹雄は強い口調で否定した。

「違う。当初は本当に、誰もが南米ゲリラの仕業だと考えていた。だから、爆発現場から残留放射能が計測されなくても、放射能の非拡散処理を施した新型の核兵器だと、国防委員会はあっさり断定したのだ。誰も、未来からやってきたタイムマシンが爆発の原因だとは考えなかったのだよ」

 時吉浩一は細めた目で津田を見据えながら言う。

「あなたもですか」

 津田幹雄は姿勢を正したまま時吉を真っ直ぐに見て、言った。

「そうだ。私は当時、経済産業省の一職員だった。そんな裏事情など知る由も無い」

 神作真哉が津田に促した。

「それで、どうして田爪や高橋に、回収物質のことを知らせなかったんだ」

 津田幹雄は再び神作の方に顔を向けて言った。

「分からんかね。当初は誰も、世界中の誰もが、一年、長くて数年で戦争は終結すると考えていたのだ。戦争開始当初の力の差は歴然としていたからな。まさか、ゲリラ側がここまで急速に拡大し、高度の科学武装をするとは考えていなかったのだよ」

 一度深く溜め息を吐いた津田幹雄は、再び語り始めた。

「当時の政府は、短期の戦争終結を見据え、戦後処理が始まった場合の諸外国との交渉をシミュレーションしていた。ポルトガル語で宣戦布告するかのような文言が刻まれた金属板は、格好の交渉カードになる。だから、存在は世間に知らせても、現物は絶対に見せないようにした。他の回収物についても同じだ。新型核爆弾の部品の一部だということで政府は結論付けていたからな。重要な証拠品である以上、全てが極秘事項だった。外交上、国家の命運を左右する重要な機密とされたのだ。だから、田爪博士にも、高橋博士にも見せてはいない」

 眉をひそめた時吉浩一が疑問を投じた。

「バイオ・ドライブもですか。どうも、おかしいですね。あなたは先程、自分たちが防災隊から入手して分析し、爆発から数ヵ月後に、それがバイオ・ドライブの断片であることに気付いたという旨の説明をされました。それなのに、他の回収物については、新型核爆弾の部品の一部だと、当時の政府は認定したのですか。考えてみれば、爆発当時の二〇二五年は、司時空庁はまだ存在していないし、その前身の実験管理局も設立されていない。いったいどこが、防災隊からバイオ・ドライブの焼け残りを引き受けたのです? 当時あなたは、経済産業省のどの部署に所属していたのですか」

 神作真哉が津田の顔を鋭い目で見据えながら言った。

「知ってるよ。産業技術管理局の局長補佐だ。あの爆発後、いち早く動き、外局として実験管理局を設立した部署さ。あんた、バイオ・ドライブの断片のことを時の政府には知らせないで、裏でこっそりと防災隊から現物を入手したんだな。だから、当時の政府関係者はバイオ・ドライブのことは知らないし、記録にも残されていない。それで、政府は残りの回収物だけで新型の核兵器だと断定したんだ。違うか!」

 神作真哉は津田を強く指差した。

 津田幹雄はテーブルの上で指を組んだまま背筋を立て、黙っている。視線をテーブルの上に落とした伏し目がちの顔には、薄っすらと笑みを浮かべていた。

 津田の表情を観察していた時吉浩一は、頭に浮かんだ直感的推理を口にした。

「――まさか、その後の有働内閣も、今の辛島内閣も、そのバイオ・ドライブの焼け残りのことは知らないのですか。あなたは、ずっと隠していたのですか」

 顔を上げた津田幹雄は、時吉をにらみ付けると、厳しい表情で声を荒げた。

「バイオ・ドライブは、AB〇一八に接続し、その中に外部からの情報を直接送り込める唯一の外付けドライブなんだぞ。それに、基本構造はAB〇一八と同じだ。いわば、あのスーパーコンピュータのミニチュア版だ。バイオ・ドライブを解析すれば、AB〇一八の構造を解明することが出来る。あの時、私は既に世の中の流れを読んでいた。そしてその通りになった。いいかね、今では、この国の経済も、軍事も、医療も、交通も、通信も、何もかもが、あのSAI五KTシステムに集約されているのだ。いや、今や世界中の殆どの情報が、SAI五KTシステムを経由している。そのSAI五KTシステムの半分は、あのASKITが陰で支配しているも同然なのだぞ。分かるかね。この国の半分は、知らず知らずのうちに、得体の知れない国外の秘密結社に乗っ取られているのだよ。一刻も早くバイオ・ドライブの構造を分析して、遅れたバイオミメティクスの技術を国内に取り戻さなければならんのだ。あのAB〇一八に勝る新型のバイオ・コンピュータを製造して、AB〇一八と入れ替えなければ、この国は、いずれASKITに乗っ取られてしまうぞ。それでもいいのかね」

 津田幹雄は荒々しく机を叩いた。

 神作真哉が津田の気迫に呼応するように怒鳴り返した。

「だったら、政府にちゃんと説明して、政策として進めればいいだろう。どうして、コソコソと一人で進めるんだよ。今からでも遅くはないだろう。それを早く公開して、政府が一体となって事を進めろよ」

 津田幹雄は神作に顔を向け、彼をにらみ付けた。神作真哉もにらみ返す。

 津田幹雄は皺を寄せた鼻を震わせ、歯を喰いしばって頬を硬直させた。彼はテーブルの上で握った両手の拳を細かく震わせながら、悔しそうに声を絞り出した。

「そ……それが、出来んのだ」

 それまでと違う津田の様子に、神作真哉と永山哲也は一瞬顔を見合わせる。

 時吉浩一が問い質した。

「どうしてです?」

 津田幹雄が左右の拳で強くテーブルを叩いた。

「無いからに決まっているだろ! 私の手許に!」

 時吉浩一が更に問い詰める。

「地下の保管庫に隠してあるのでは?」

 津田幹雄は時吉の方に体を向けて、彼をにらみ付けながら大声で言った。

「だから、無いと言っているだろ! 無いんだよ、ここには!」

 顔を紅潮させた津田幹雄があげた右手の指先は、真っ直ぐに下を指し示していた。



                  4

 総理大臣執務室のドアの横には、長身の秘書官が立っていた。彼の視線の先には、総理大臣の執務机の前に投影されたホログラフィーの奥野恵次郎国防大臣と、机の向こうで執務椅子に座っている辛島勇蔵内閣総理大臣がいた。

 辛島勇蔵は頷いて言った。

「うむ。そうか。AB〇一八を君らの方で警備できるのなら、その方が良かろう。武力は政府の管理下で行使されるべきだ」

 ホログラフィーの奥野恵次郎は口角を上げて応えた。

『では、早速、先方との交渉に入りたいと思います』

「それは待て」

『は?』

 辛島の思わぬ指示に、奥野恵次郎は思わずそう言った。辛島勇蔵は椅子を回し、奥野大臣のホログラフィーに横顔を向けて言った。

「交渉役を別途任命する。それまで待て」

『しかし、先方は、すぐにでも警備の強化を図りたいと申しておりますが』

 辛島勇蔵は横を向いたまま言った。

「ならば、こう伝えろ。こちらは、すぐにでも銃刀法違反で強制捜査をしてもいいと」

 奥野恵次郎は顔を曇らせた。彼は言う。

『穏便に彼らの私設警備兵を国外に撤収させた方が得策では。市街地で揉めれば、戦闘になった場合が厄介だと思われますが』

 辛島勇蔵は奥野のホログラフィーの方に顔を向けて言った。

「それは、作戦上かね。それとも、政治的にかね」

 奥野恵次郎は答える。

『もちろん、政治的にですよ。AB〇一八の施設は大交差点の西側。この有多町の官庁街とも、大企業の本社が集中する昭憲田池西の高層ビル街とも、目と鼻の先です。それに、我々国会議員の家も多い薫区とも近い。後々、色々と問題になるのは必至かと』

 辛島総理は奥野に横顔を見せたまま言った。

「施設の南部に広がる住宅街や旧市街のことは関係ないのかね」

『いや……もちろん、関係ありますよ。次の選挙の大きな票田ですからな。とにかく、あの一角での戦闘は避けるべきだと思いますがな』

 辛島勇蔵は椅子を元の向きに戻し、奥野のホログラフィーを真っ直ぐに見据えた。

「作戦遂行が困難でないのなら、必要に応じて対処するまでだ」

 奥野恵次郎は眉間に皺を寄せる。

『あくまで、力で追い出すおつもりですか』

 辛島勇蔵は背もたれに体を倒したまま、目を瞑った。

「交渉役の選任まで、待てないようならな」

 奥野恵次郎は辛島の顔を見て言う。

『しかし、強硬な方法を採られるのは得策ではないのでは……』

「私は、自らの権限を行使するだけだがね、奥野国防大臣」

 辛島勇蔵は目を開いて奥野をにらみ付けた。

 立場の違いを自覚した奥野恵次郎は、速やかに頭を下げる。

『はい。失礼しました。とにかく、先方にはそのように伝えておきます』

 辛島勇蔵は厳しい顔のまま、再び目を瞑った。

「うむ。そうしてくれ。君もよく理解しておくように」

『――はい。では、失礼します』

 奥野恵次郎のホログラフィーは腰を折ると、顔を上げ前に手を伸ばした。そのまま彼のホログラフィーは停止し、消えた。

 辛島勇蔵は短く溜め息を吐くと、広い机の上に積まれた書類に手を伸ばし、それを読みながら、秘書官に指示を出した。

「国防省の増田情報局長を呼んでくれ。それから、津留調達局長と立体通話の……」

 書類から目を離し、視線を上げた辛島の視界には、ドアの前で床に倒れている秘書官の姿が映っていた。

 辛島勇蔵は机の上の立体電話機に手を伸ばす。すると、声がした。

「大丈夫。死んではいませんよ。眠っているだけです」

 辛島勇蔵が視線を秘書官から横に向けると、部屋の隅に白いスーツの男が立っていた。顔に大きな刀傷があるその男は、手に注射器を持っている。

 辛島勇蔵は、その刀傷の男の隻眼をにらみながら、落ち着いた声で言った。

「何者だ」

 刀傷の男は注射器をポケットに仕舞うと、ニヤリと笑ってから言った。

「メッセンジャー……とでも、呼んで下さい。特に名乗る主義では無いので」

「誰の使いかね」

ASKITアスキット

 刀傷の男は、嘗め回すような言い方でそう答えた。

 辛島勇蔵は男を見据えたまま、椅子の背もたれに身を倒して言う。

「知らんな」

 刀傷の男は薄ら笑いを浮かべながら言った。

「ご冗談を。本当は目の仇にしているのでしょう。我々を」

 辛島勇蔵は憮然として言う。

「要件は何だ」

「閣下が、お力になりたいと」

「閣下? どこの誰だね」

 刀傷の男は下を向いて忍び笑うと、目線を下げたまま辛島に言った。

「身中の虫は、自分では駆除できんものです。他人に取り除いてもらわねば」

 辛島勇蔵は鼻で笑って答えた。

「他人の程度によるな。赤の他人には誰も頼むまい。まして、得体の知れない人間に、どうして頼めるかね」

「その様なことを仰っている場合ですかな。わらにもすがるべき時では?」

「縋った藁をかれては、かなわんのでね。縋るにしても、藁の選別はしなければ」

「他人に操られるのは、お嫌いだと。ですが、それは誤解です。こちらも、虫を駆除したい。ギブ・アンド・テイクですよ。手を結べば、互いに利益を得ることができる。そちらの虫も、こちらの虫も、一度に排除できますよ」

 意識を取り戻した秘書官が微かに手を動かした。それに気づいた刀傷の男は、腕時計に目を遣りながら言った。

「さすがは総理秘書官だ。よく鍛えている。予定より五分も早い。もう少し多めに注射しておくべきでした」

 その秘書官は必死に立ち上がろうとしながら、腕時計のボタンを押した。官邸内に警報音が鳴り響く。刀傷の男は眉間に皺を寄せた。

 辛島勇蔵は片笑んで言う。

「虫捕りの誘いに来て、逆に捕られることになったようだな。君の雇い主に伝言できなくて残念だ」

「ご心配なく。入ってくる時には、ちゃんと出る時のことを考えていますので。また伺います。よい御返事を期待していますよ。それでは」

 そう言った刀傷の男は、ズボンの裾を掴む秘書官の手を蹴り払い、正面のドアを開けて堂々と出て行った。

 応接テーブルの中央には、一枚の小さな記憶媒体と一輪の青い花が置かれている。

 左右のドアが激しく開けられた。自動小銃を構えた武装兵たちが隊列を組んで次々に突入してくる。兵士たちは広い総理大臣執務室内の隅々に銃口を向けて確認しながら、訓練どおりに移動し、総理を取り囲んだ。兵士の一人が叫ぶ。

「クリア! 総理をお守りしろ。早く地下のバンカーに避難させるんだ」

 辛島勇蔵は、応接ソファーに掴まって必死に立とうとしている秘書官を指差しながら怒鳴った。

「私の避難はいい。彼を早く医務室へ。侵入者は白いスーツ姿の男一人だ。何としても捕獲しろ。絶対に逃がすんじゃない!」

 総理官邸内には、非常警報がいつまでも鳴り響いていた。



                  5

 司時空庁ビルの広い大会議室内に津田幹雄の怒号が響いた。彼はテーブルの上で振るわせた拳を握ったまま、紅潮した顔で時吉をにらみ付けている。

 神作真哉が目を丸くして津田に問い質した。

「無いって、どういうことだよ。無くしたのか」

 津田幹雄は神作に素早く顔を向けて答える。

「違う。奪われたのだ。顔に傷のある男に」

 神作真哉は、さらに目を丸くして言った。

「か、顔に傷って、まさか、ウチの春木を襲った男か。田爪瑠香の研究室ラボで」

 津田幹雄は静かに息を吐くと、握った拳を緩めて、落ち着いた声で神作に答えた。

「おそらく、そうだ。五月七日にタイムマシン搭乗者の待機施設を襲撃したのも、奴だ」

 永山哲也が眉間に皺を寄せて言った。

「いったいどういう事ですか。詳しく話してください」

 津田幹雄は永山の顔を見て言った。

「二〇三二年のことだ。奴がここの地下施設に侵入して、保管されていたバイオ・ドライブを奪っていった」

 ギプスをした左手をテーブルの上に乗せて、寄りかかるようにして顔を前に出した神作真哉が言った。

「二〇三二年と言えば、博多五輪の年だから、あんたが、ここの長官に就任した年だな」

 津田幹雄は椅子に体を倒して答えた。

「そうだ。私が時吉前長官の後任として一期目の司時空庁長官職に任じられた直後に、事件は起こった。未明に何者かが、ここの地下保管施設に侵入し、修復途中だったバイオ・ドライブを奪い、逃走したのだ。その途中でSTSの警備兵小隊とビル内で交戦となり、その小隊は全滅した。奴はたった一人で、悠然と、このビルから立ち去っていったのだ。あのバイオ・ドライブを持って」

 時吉浩一が怪訝な顔で確認する。

「犯人は一人だったのですか」

 津田幹雄は目線だけを時吉に向けて言った。

「そう言っているだろう」

 永山哲也が尋ねる。

「目撃者は?」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せて答えた。

「重症のSTS隊員がそう証言して息を引き取った。他に生存している目撃者は居ない。奴は防犯カメラなどにも一切姿を映していない。かなりの凄腕だ。以来、我々は警備兵の人員強化を図り、軍から出向してもらった現役兵士たちを『STS隊員』として配備することにしたんだ」

 神作真哉が驚いた顔で言った。

「防犯カメラに映らないだって? ここのビルに使われているカメラのレンズは、三六〇度を同時に撮影できる全方位多角レンズを使用しているだろ。それにも映らないのか」

 椅子の背もたれに身を倒したまま、腹の上で両手の指を組んだ津田幹雄は、神作に目線だけを向けて答えた。

「死角を狙うのが上手いらしい。待機施設のカメラにも映っていなかった」

 時吉浩一が冷静に質問を繰り返す。

「それで、なぜ、同一犯の犯行だと」

 松田千春が答えた。

「奴は必ず、自分が侵入した現場に一輪の花を置いていく。まあ、侵入が成功したという誇示でしょうがね。六年前の現場にも、この前の待機施設の現場にも、やられた隊員の体の上に一輪の花が置かれていました。田爪瑠香の自宅と研究室の焼け跡にも、一輪ずつ置かれていたそうです」

 佐藤雪子が続けた。

「全ての花の植物DNAが、系統的に一致しましたの。同一種の花で間違いないということですわ」

 神作真哉は佐藤と松田の顔を順に見て尋ねた。

「じゃあ、バイオ・ドライブは、そいつに盗まれちまったのか。何者なんだ、そいつ」

 津田幹雄が目を瞑って言った。

「我々はASKITの手先だろうと見立てている」

「警察には」

 時吉浩一の問いにも、津田幹雄は目を瞑って答えた。

「いや。知らせてはいない」

 神作真哉は大きく溜め息を吐いてから言った。

「また演習中の事故か工事中の事故ってことか。まあ、言える訳ねえわな。バイオ・ドライブのことがバレちまうからな」

 津田幹雄は瞼を閉じたまま、淡々とした口調で言った。

「兵士の家族への補償は、ちゃんと実施している」

 椅子の背もたれに身を倒して当然のように答える津田に、時吉浩一が厳しい視線を向けて言った。

「そういう問題では……」

 目を開いた津田幹雄は、時吉をにらむと、彼を指差しながら激しい口調で言い返した。

「そういう問題なのだよ。これはね、現実に実弾が飛び交う世界の話だ。法廷で電子パネルをレーザー・ポインターで指して理屈を並べているだけの世界とは違うのだよ」

 時吉浩一も怒りに満ちた声で反論する。

「人が死んだのですよ。兵士も人間ですよね」

 永山越しに神作真哉が時吉に言った。

「まあ、先生」

 時吉浩一は真っ直ぐに津田の顔をにらみ付けていたが、声を掛けられて神作に顔を向けると、津田を一瞥してから嘆息を漏らし、発言を止めた。

 神作真哉が落ち着いた声で津田に問いかけた。

「それで、バイオ・ドライブの修復は、どこまで進んでいたんだ」

 津田幹雄は左右の肘掛に手を乗せて神作の顔を見ると、沈んだ声で答えた。

「全体で五〇パーセントを超えていた。あと五、六年もすれば、自己修復が完了するだろうと見込んでいたのに……」

 肘掛の先端を握る津田の両手に力が入る。

 永山哲也が、田爪健三にインタビューした時のように冷静に、津田に質問した。

「修復には、いつから取り掛かったのです」

 津田幹雄は椅子の背もたれに頭を付けたまま、目線だけを永山に向けて答えた。

「私が実験管理局の主任管理官に就任してから、すぐだ。田爪博士と高橋博士に知られないように、秘密裏に進めた。まあ、さっき話した政治的理由もあるが、そもそも、あの二人は事実上NNC社からバイオ・ドライブの提供を受けて研究を続けていた経緯がある。信用ならん。だから、彼らが勤務する海沿いの実験施設、つまり今のタイムマシン発射施設だが、そこからは遠い、別の場所で復元作業に取り掛かった。当時は実験管理局の出張所ビルで、後の司時空庁ビル、つまり、このビルの地下のラボだ」

 永山哲也は更に尋ねた。

「方法は、どうやって」

 松田千春が津田に代わって答える。

「人工神経細胞の組成に必要な合成タンパク質の投与、その他アミノ酸等の注入、それから、微量の電気エネルギーの荷電です。本来は、量子エネルギーをコンピュータ内で循環させて、シナプス結合間で情報の遣り取りをするのですが、我々には、量子エネルギーを完全に理解することが出来なかった。それで、微弱電流で代用することにしました」

 津田幹雄が補足した。

「その結果として、細胞の再生に時間がかかってしまった」

 神作真哉は松田を指差しながら言った。

「田爪や高橋博士に訊けば、早かっただろうに。そんなに信用できなかったか」

 津田幹雄は神作に言った。

「理由は、もう一つある。管理局時代になると、田爪博士と高橋博士の実験機が形を成してきた。そして我々は、あの爆心地で発見された部材が、両博士が作っているタイムマシンの一部の部材と酷似していることに気づいた。その頃からだ、あの爆発は未来からやって来たタイムマシンが引き起こしたもので、バイオ・ドライブも未来の情報を書き込んだものではないかと考え始めたのは。そして、あの爆発が量子反転爆発だという科学的分析に達した時、我々は、タイムトラベルの成功を確信したのだ」

 永山哲也が怪訝な顔で尋ねた。

「そもそも、その『量子反転爆発』って、何なのですか。田爪博士もその言葉を口にしていましたが……」

 松田千春が説明する。

「基本的には、量子エネルギーの不安定化が原因で起こると考えられていますが、量子エネルギーパックを搭載したタイムマシンで実施するタイムトラベルに特有の爆発だと言えるものですよ。量子の定常状態が崩壊して、ヒルベルト空間値に格差が生じると、量子間で働いている運動エネルギーが一気に上昇して……」

 松田の説明を遮って、時吉浩一が口を挿んだ。

「要するに、タイムマシンの到着により起こった爆発だということが、科学的に判明したわけですね」

 津田幹雄が頷いた。

「そうだ。だから、タイムトラベルが成功することも判明した」

 眉間に皺を寄せた時吉浩一は、首を傾げた。

 神作真哉が軽く津田を指差しながら言う。

「どおりで、当時、あんたが実験予算の獲得に奔走した訳だ」

 津田幹雄は悪怯れた様子も無く神作に顔を向けて言った。

「当たり前だ。成功することは分かっていたからな。だが、問題が一つあった。そのタイムマシンは、いったい何処からやってきたのか」

 時吉浩一が確認する。

「出発した年代が知りたかったと」

 津田幹雄は声を上げて笑った。

「ははは。――時吉前長官のご子息とは思えん発言ですな。違いますよ。どの時間軸からやって来たのかということです。我々がいる、この時間軸の延長の未来から、過去である現在にやって来たものか、別の時間軸上の未来からやって来たものか。つまり、今のこの時間軸が、送り手側からみれば、パラレル・ワールドなのか否か。『時吉提案』ですよ。お父様が唱えていらっしゃる」

 津田幹雄は再度、時吉を指差した。

 時吉浩一の眉間に皺が寄る。

 時吉の横から永山哲也が津田に言った。

「つまり、未来が大きく変わることを危惧したと、そういうことですか」

 津田幹雄は時吉に向けていた指先を永山の方に向け直して、言った。

「そう。そうだ。さすがは理解が早い」

 神作真哉が顔をしかめた。それを見た永山哲也が神作に説明した。

「この人たちは、田爪博士と高橋博士に、未来からやって来たタイムマシンの話をすることによって、二人の研究が失敗するという未来に変わることを恐れたのですよ。だから、二人には知らせなかった」

 津田幹雄は頷きながら言った。

「そうだ。そして、だから、第一実験と第二実験で、安心して彼らをタイムマシンに乗せたのだよ。成功すると分かっていたからね。問題は、タイムマシンが到達した時点から、別の時間軸に分かれるのかどうか。知りたいのは、その一点だった」

 時吉浩一が厳しい視線を津田に向けながら、彼を糾弾した。

「その量子反転爆発のことは考慮しなかったのですか。現実にタイムマシンが到達した場所で発生している訳ですよね。あなた方は、その危険性を認識しながら、第一実験も、第二実験も実施したのですか。その後のタイムトラベル事業も。しかも、全て有人で」

 今度は永山哲也も時吉の糾弾に続いた。彼は津田に指摘する。

「それに、爆発の原因が判明した時点で、なぜ政府に報告しなかったのです。戦争を止められたかもしれないのに」

 津田幹雄は小さく鼻で笑うと、永山の顔を見て言った。

「その頃は既に、南米連邦政府と環太平洋連合諸国による協働部隊が編成されていた。今更、間違えていましたで済む状況ではない。私としては、今後の財政赤字の解消のためにも、タイムトラベルは国家事業として運営し、収益を上げる必要があると考えていたのだよ。触手を伸ばしてくるASKITに対抗しうる財力を国がつけねばならんからな。だから、タイムトラベル事業は何としても実施しなければならない。そのためには、タイムマシンの発射に必要な鉱物資源を得る必要がある。それが南米大陸の地下に豊富に眠っているとなれば、国益のために、そこで戦争から手を引く訳にはいかんだろ」

 永山哲也は声を荒げた。

「十年ですよ。十年間も、あの大陸の人々は戦禍を被り続けたのですよ。いったいどれだけの難民が生じたと思っているのですか。何千万人が命を落としたと思っているのです。潤っているのは、プレスセンターのある町だけだ。あなたも現地のスラムや小都市に行ってみればいい。人々が、どれだけ不便な生活を強いられているか。どれほどの恐怖に耐えながら、毎日おびえて生活しているか。現地の人たちだけじゃない。兵士たちも、敵も味方も、皆どれほど疲れきっているか」

 津田幹雄は永山を真っ直ぐに指差して、大きな声で言った。

「永山さん、あなたに言われたくはないですな。戦争のきっかけとなった誤解を生む原因を作ったのは、あなたでしょうが。あのタイムマシンの発射ボタンは誰が押したのですかね。あなたでしょう」

 そう言われた永山哲也は、次の言葉が出なかった。

 沈黙している永山の隣から、神作真哉が怒鳴った。

「ふざけるな。コイツは田爪の指示どおりに操作しただけじゃないか!」

 そして、右手で津田たちを順に指差して言った。

「おまえら、何もかもをウチの永山に被せるつもりなんだな。それならそれで、こっちにも……」

「とにかく……」

 大きな声が、憤慨して怒鳴る神作を制止した。時吉浩一だった。彼は普通の声の大きさに戻して言い直した。

「とにかく、その二〇二五年の爆発現場で発見された物を見せてもらえませんか。その機体が、永山さんが送った機体だという証拠が見たい」

 永山哲也が思い出したことを口にした。

「レコーダー。僕のICレコーダーは、どうなりました。あれに全てが録音されているはずだ」

 松田千春が呆れ顔で言った。

「残っている訳ないでしょう。機体の九〇パーセント以上が溶解して気化したんですよ。バイオ・ドライブが焼け残ったのは、対核熱反応金属で出来た装甲板が偶然、盾になったからだと我々は考えていますが、それにしたって奇跡的だ。他の物が残っているはずがない。あの唯一残った電波塔を見たことはあるでしょ。金星の地表に設置している反射アンテナと同じ素材でできた電波塔が、あんなに溶けて曲がっているのですよ。どうして市販のICレコーダーが残りますかね。まったく」

 松田千春は嘆息を漏らした。

 津田幹雄が時吉の顔を見据えて言う。

「発見物をお見せする訳には参りませんな。今説明しましたでしょ。これは、戦後処理の外交上、我が国にとって重要な交渉カードになると。今、まさに戦争が終わろうとしているのですよ。しかも、日本が非常に微妙な立場に立たされる状態で。ここでマスコミの人間であるあなた方に回収物そのものを見せられる訳がない」

 時吉浩一は毅然とした物腰で問い返した。

「しかし、証拠も無しに非難されましてもね。私の依頼人としては、非常に迷惑な話ですよ。そう思いませんか」

 松田千春が馬鹿にしたような顔で言った。

「どれも黒焦げですからね。どうせ見ても分からんと思いますがね」

 すると、津田幹雄が背もたれから身を起こして言った。

「いいでしょう。お見せできる物は、お見せしましょう。ただし、こちらにも条件があります」

「何でしょうか」

 そう尋ねた時吉の方に指を立てて見せて、津田幹雄が言う。

「一つ、永山さんに、我々の質問に正直に答えてもらいたい」

 時吉浩一と永山哲也が顔を見合わせた。

 永山哲也が津田の方を向いて答える。

「何でしょう」

 津田幹雄は再びテーブルの上で両手の指を組んで下を向いた。一拍置いて顔を上げた彼は、永山の顔を見ながら言った。

「あなた、追加のレポートの最後の部分で、こう仰っていますな。『それから、これは記念に』と。これは、いったいどういう意味です。記念として何かを乗せたのですか」

 永山哲也は顎を掻きながら言った。

「あ、いや……それは、記念にちょっと……」

「ちょっと、何です?」

 津田幹雄が問い詰めるように言う。

 永山哲也は答えた。

「人形を乗せたんです。プレスセンターのみやげ物店で買った、小さな『エケコ人形』のストラップ。それくらいなら、影響は無いだろうと思って。重さ的にも」

「どのくらいの大きさですか」

「答えなくていい」

 間髪を容れずに投じられた津田の質問に、時吉が素早く反応し、永山に助言した。

 永山哲也は困惑した様子で黙っている。

 津田幹雄は永山の顔を見据えたまま言った。

「佐藤君、例の物を」

 佐藤雪子が鞄から取り出した物をテーブルの上に置いた。

 津田幹雄がそれを手に取り、永山の前に置く。それは、ゴルフボールほどの大きさの、焼け焦げたプラスチックの塊だった。よく見ると、洋服の跡や手足の形がかすかに見て取れる。

 津田幹雄が永山の顔を見ながら、口角を上げて言った。

「人形とは、このくらいの大きさですかな」

 永山哲也はテーブルの上の塊を覗き込んで言った。

「あ……ええと、たぶん……」

「永山さん」

 時吉浩一が横から注意した。

 永山は口を閉じる。

 津田幹雄は突き刺すような視線を永山に浴びせながら言った。

「どこに置かれたのです? もしかして、積み込んだ金属板の上じゃないでしょうね。いやあ、これ、運がいいですな。耐核熱金属の装甲板によって、偶然にも爆発の熱から守られたようです。これも、爆心地付近で発見されたのですよ。まあ、原型は留めていませんが、あの爆発で蒸発しなかったとは、実に運がいい。流石は幸運を呼ぶと言われる『エケコ人形』だ」

 佐藤雪子がテーブルの上に真新しいエケコ人形を置いた。耳まで被った赤い毛糸の帽子の先に紐が付いている。その小太りの男性の人形は、黄色いポンチョから出た短い両手を天に向けて左右に広げ、ちょび髭の下の口を大きく横に広げて笑っていた。それは、困惑する永山をあざ笑うかのようにも見えた。

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