第12話

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 夜の寺師てらし町――昭憲田しょうけんた池の北西部に広がる繁華街をネオンの灯が照らしている。

 春木陽香は山野に誘われ、神作と共にメイン通りのイチョウ並木の下を歩いていた。広い歩道の上は多くの人が行き交っている。

 歩きながら、春木陽香は神作に言った。

「へえ。じゃあ、神作キャップの懲戒処分について、役員会では賛否が分かれているってことですか」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま歩く神作真哉は、浮かない顔で答えた。

「そうらしい。可否同数で、決議は明日に持ち越し。明日、会長も入れて、正規の臨時取締役会を開くそうだ。杉野副社長の話では、多分、会長の一存で懲罰委員会に一任って形になるだろうってさ」

 隣を歩く山野紀子が溜め息を吐いて言った。

「役員同士でのゴタゴタは御免って訳ね。それに、現場職員で構成される社内懲罰委員会に丸投げすれば、従業員からの不満や責任追及を、そっちに押し付けられるものね」

 神作真哉も溜め息を吐いた。彼は背中を丸めたまま言う。

「どっちにしても、俺は『まな板の上の鯉』だよ。どうしようもない」

 山野紀子が言った。

「そんなことないわよ。ね、ハルハル」

 春木陽香が頷く。

 神作真哉は怪訝そうな顔で二人を見た。

 前に顔を向けた神作真哉は、眉間に皺を寄せたまま言った。

「何なんだよ、上野の奴。こんな時に、人を飲み屋街に呼び出して。みんなで俺を慰めようってことか?」

 山野紀子は顔の前で手を振った。

「違う、違う。ランコントルよ。そこで、うえにょは待ってるんですって」

 神作真哉は肩を落とした。

「なんだ、ザンマルの店か。たまには別の店にしろよ」

 山野紀子が言う。

「いいじゃない。ハルハルも初めてだし」

 春木陽香が首を傾げた。

「ランコントル? ザンマル?」

 山野紀子は春木の肩を軽く叩いて言った。

「ま、行けば分かるわよ」

 三人は雑踏の中を歩いていった。その後を、人ごみから頭一つ飛び出した長身の神作を目印にして、数人の男たちが人ごみをかき分けながら、距離を置いて追いかけていた。

 新首都一の繁華街を奥へと進んだ春木たち三人は、大通りから少し入った所にある、派手なネオンで飾れたビルの入り口で立ち止まった。階段が上下に伸び、客を中二階の入り口と地下の入り口に招いている。正面には鏡張りのドアのエレベーターがあった。

 山野紀子は階段の下を指差しながら言った。

「ここよ。ランコントル。真ちゃんの大学時代の同級生がやってる店。『ザンマル』って人なの」

 春木陽香は階段の下を覗きながら言った。

「ザンマルさん……強そうな名前ですね」

 神作真哉は春木の前を通って階段を下りながら言った。

「実際、強えけどな。ま、会えば分かるよ」

 神作と一緒に山野も階段を下りて行く。

 春木陽香は階段の前で立ち止まり、その如何わしさ満載のビルを見回しながら呟いた。

「なんか、行けば分かるとか、会えば分かるとか、場当たり的だなあ……」

 階段の下に着いた山野紀子が、店のドアを開けながら、上の春木に手招きして言った。

「ほら、ハルハル。早く」

 春木陽香はトントンと階段を下りていった。

 春木がやってくると、山野紀子は勢いを付けるように言った。

「よーし。朝美は化石を堀りに行ってて居ないし、今夜は飲むぞお」

 拳を突き上げた山野紀子は、ドアの取っ手を春木に渡して、店の中に入っていった。

 春木陽香はドアを閉めながら呟く。

「ああ……やっぱり、行ったんだ。朝美ちゃん……」

 閉まった地下のドアを階段の上から覗きながら、背広姿の男が右耳に手を添えて言う。

「こちらサーベイ・フォー。対象者BCF、店内に入ります。こちらは路上にて待機」

 男はその場を離れ、近くに停まっていた白いバンに乗り込んでいった。


 その店の中は、音と光で溢れていた。騒音に近い音楽と過度を通り越した眩い装飾が店内を埋めている。広いフロアの中は幾つものボックス席が並び、酒に酔った客と派手な服装のコンパニオン達が笑い声や奇声をあげていた。

 少し身を屈めながら、春木陽香は神作と山野の後を追った。すると、横から大柄なコンパニオンが何人も出てきた。綿帽子のように盛り上げたカラフルな髪、必要以上に前に突き出ている付けまつ毛、厚塗りのファンデーションと黒で縁取った真っ赤な口紅。そんな恰好をしたコンパニオンたちは、スパンコールで覆われた派手なドレスから筋肉質な肩や腕、腿を出している。回転するミラーボールに反射した光で一瞬照らされた「彼女たち」の顎の辺りには、薄っすらと髭が浮いていた。

 そのコンパニオンたちは、低い声を揃えて春木に言った。

「いらっしゃーい」

「ははは。どうも……」

 愛想笑いをした春木陽香は、逃げるように走って神作と山野を追いかけた。神作真哉と山野紀子は慣れた様子で店の奥に進み、カウンターの席に座った。山野の隣の、そのカウンターの一番端の席に、春木陽香もチョコンと座る。

 カウンターの中から綺麗に女装した巨漢が話しかけてきた。

「あら、いらっしゃい。久しぶりじゃないの」

 膨らんだ背中と境をつけない丸い肩に脂肪で包まれた太い首が埋まっている。その上の大きな顔に丁寧に塗られたファンデーションは、髭の影など浮かせてはいない。キャビンアテンダンドのように上手に施されたメイクの奥で鋭い眼が春木を睨む。山のような肩から下を覆った青いドレスの袖が上がり、カウンターの上に丸太のような腕が出された。

 神作真哉が前に置かれたお絞りを取り、それで手を拭きながら言う。

「いろいろ忙しくてな」

 そのドレス姿の太った「男性」と思しき者は、山野にお絞りを差し出しながら言った。

「あら、ノンちゃん。一段と妖艶になって。離婚して女の魅力が全開なんじゃないの」

 山野紀子は受け取ったお絞りを広げながら応えた。

「あらあ。じゃあ、今夜はたくさん飲んじゃおうかなあ」

 神作真哉が口を挿む。

「営業トークするような仲じゃねえだろ」

 青いドレスの巨漢は春木にお絞りを渡しながら言った。

「そうね。じゃ、今の取消し」

「なんじゃ、そりゃ」

 そう言った山野に、ドレスの巨漢が春木を指差しながら尋ねた。

「この子は? 新人さん」

 山野紀子が椅子を回して春木の方を向き、言った。

「そ。紹介するわね。ウチの新人のハルハル。ハルハル、この人が、ザンマルさん」

 ザンマルはカウンターの中から、反対の手でドレスの袖を持ち上げながら、太い腕と大きな手を春木の前に差し出してきた。握手を求められた春木陽香は、その肉付きの良い逞しい手を握った。硬い。力も尋常ではないほどに強かった。

 ザンマルは握った春木の小さな手を振りながら言った。

「よろしく。ザンマルこと丸山まるやま新輔しんすけ、四十七歳。見ての通り、ガッツリとオカマよ」

「ハルッ……ハル……です……うう、握力が……」

 両肩を上げて強力な握手に耐えた春木陽香は、離した手をプラプラと振った。それをカウンターの中から見ながら、ザンマルは言う。

「あら、花車きゃしゃなのねえ。ごめんなさあい」

 神作真哉がザンマルに言った。

「いじめんなよ。おまえのそういう所、全然変わらねえよな」

 山野紀子が春木に言った。

「柔道でね、大学時代は名を轟かせた人なの。ええと、何だったっけ」

 神作真哉が答えた。

「鬼のザンマル。試合でコイツと当たった奴は、大抵が病院送りにされている」

 春木陽香は手を振りながら顔をしかめて言った。

「す、すごいですね」

 ザンマルが神作と山野の顔を見て尋ねる。

「で、何にする? とりあえず焼酎のロック?」

 神作真哉が言った。

「任せるよ。それより、うえにょは?」

 ザンマルはフロアの奥の赤いカーテンの方を指差して言った。

「奥の個室で、お得意さんとお話し中」

「お得意さん?」

 そう聞き直した神作真哉に、山野紀子が葉書大の薄型端末に表示させた画像を見せた。

「これよ」

 端末の画像を覗き込んだ神作真哉は、言った。

「ん? 甲斐局長じゃねえか」

 山野越しに春木陽香も、それを覗き込んだ。

 山野紀子は言った。

「いい幼馴染を持ったわねえ。真ちゃんが無茶した時のために、いろいろと探ってくれていたみたいよ、例のネタ元さん」

 春木陽香が山野に尋ねた。

「ダーティー・ハマーさんから送ってきた画像って、それですか」

 山野紀子が頷く。

 神作真哉は呟いた。

「あいつ……」

 山野紀子は手許の端末を指先で操作して、次々と別の画像を表示させながら言った。

「さっき、うえにょのパソコンに送られてきたの。念のため私も貰っといた。立体投影ホログラムにして大きくすると見やすいんでしょうけど、この画像だからね。他のお客さんの目もあるし、大きくは出来ないわよね」

 神作真哉は端末の画像に顔を少し近づけて言った。

「なんだ、これ。局長、なにやってんだ。この店の常連なのか」

 カウンターの中で瓶の蓋を開けながら、ザンマルが答えた。

「イエース。それも、超ディープな常連よ。もう、ウチの子たちとも、ガッツリお友達」

 山野紀子は画像を次々と表示させていきながら、呆れ顔で言った。

「局長さんって、国際畑で海外が長かったからねえ。ストレスのいろんな発散方法を覚えちゃったみたい」

 神作真哉が眉間に皺を寄せて画像を見ながら、言った。

「かあ……はじけてるなあ。あーあーあー、こんなの着ちゃって……」

 山野紀子はしかめた顔を端末から少し離すと、画像の表示を次々と変えていく。

「この辺の画像から、レベルが上がるけど……」

 腕を精一杯に伸ばしたまま顔を離して端末を操作する山野の前に、春木陽香が少し身を乗り出して、その画像を覗き込んだ。

「そんなに強烈な……ゲッ……オエっ」

 画像を見た春木陽香は口を押さえて顔を逸らす。

 山野紀子は顔をしかめながら言った。

「やっぱりハルハルには、この辺が限界ね。――ていうか、私も正直、ギブだけど」

 山野紀子も眉を寄せた顔を逸らしながら、伸ばした手の先に持った端末の画面を神作に向けた。

 画像を見た神作真哉は、大きく何度も瞬きしながら、呆れ顔で呟いた。

「こいつ……要は『変態』だな」

 ザンマルがカウンターの中から言った。

「ウチもね、正直、困ってたのよ。常連のお客さんだから、帰れとも言いにくいしね」

 山野に握られている端末を向こうに押した神作真哉が尋ねた。

「で、うえにょがどうして」

 山野紀子は端末の表示を消してバッグに仕舞いながら答えた。

「甲斐局長は懲罰委員会のメンバーでしょ。うえにょが、これをネタにプレッシャーを掛けているのよ」

 神作真哉が目を丸くして言った。

「あの顔でか」

 山野紀子は頷く。

「そ。あの顔で」

 春木陽香が山野の隣から神作を覗きこんで言った。

「私たちも立ち会った方が効果があるだろうって。――うう……気持ち悪い……」

 画像に映っていた衝撃的な光景を思い出した春木陽香は、口を押さえた。

 ザンマルが春木の前にストローが刺さったコップを差し出す。

「はい、ハルハルちゃんには、とりあえずレモンソーダ。――で、こっちの感性が鈍った中年二人には、強烈なこれ」

 神作真哉は、自分の前に置かれたグラスを持ち上げて言った。

「なんだ、これ」

 ザンマルが自慢気に答える。

「熊本の銘酒、火の国の伝説『球磨小路くまこうじ』。苦労して手に入れたんだからね」

「そうなのか……お、美味いな、これ」

 グラスを傾けた神作真哉は、素直にそう言った。

 山野紀子が神作の肩を叩いて言う。

「ほら、真ちゃん。甲斐局長が出てきたわよ」

 沈んだ顔の甲斐局長は、職場で見る時と同じで、三つ揃えのスーツにシックなネクタイをして、髪を綺麗にポマードで固めている。いかにも海外帰りのエリートと言わんばかりの恰好も、ここでは嘘っぽく見えた。彼はカウンターに座っている三人に気づくと、コソコソと後ろを通り過ぎようとした。

 山野紀子が振り向いて、大きな声で言う。

「あっらあ。甲斐局長じゃ、あーりませんの。奇遇ですわあ、こーんな店でお会いするなんて」

 甲斐局長は無理に胸を張ると、平静を装って応えた。

「な、なんだ。君たちも、この店に来るのか。そうか」

 椅子を回して振り返った神作真哉が、カウンターの中のザンマルを親指で指して言った。

「こいつが大学の同級生でね。義理ですよ」

 山野紀子が更に言う。

「私たちは女だから、問題ないわよねえ、ハルハル」

 春木陽香はストローでレモンソーダを吸いながらコクコクと頷いた。

 神作真哉が甲斐局長の肩を叩いて言う。

「いやあ、局長が常連だとは知りませんでした。こーんな気さくな趣味がお有りだったとは……」

 山野紀子が追い討ちをかけた。

「このお店、専用のコスチュームもキープして置いておけるんですよね。ザンマルさん」

 ザンマルも応えた。

「んー。色々あるわよ。女王様系からバニーガール、女子校生の可愛い制服まで。いーろいろ」

 神作真哉が甲斐局長に頭を下げて言った。

「ああ、明日の懲罰委員会、手間を掛けますけど、ご配慮方よろしくお願いします。何卒穏便に」

 甲斐局長は脂汗を額に滲ませながら言った。

「わ、わかった。だから、誰にも言わんでくれ。な、頼む」

 両手を合わせて懇願する甲斐局長に背を向けた山野紀子は、カウンターに肘をついてグラスを回しながら言った。

「真ちゃんが暇になったら、言っちゃうかもねえ。ウチも、今やってる件が書けなくなったら、これ、書いちゃおっかなあ」

 春木陽香が横から真顔で言った。

「編集長……」

 山野紀子はカウンターの下で春木の腿の上を小さく二度叩く。

 甲斐局長はハンカチで額の汗を拭いながら言った。

「分かった、分かった。たった今、上野君に約束したところだ。穏便に解決できるように努力すると」

 そこへ上野秀則が現われた。平たい顔に逆三角の真っ黒なサングラスを掛けている。彼は甲斐局長の隣に来ると、少し背伸びをして肩に手を回し、反対の手の指先でサングラスを少し上げながら、声を低めて言った。

「結果が全てなんですがねえ。頼みますよ、キョクチョウさん」

「分かった。頑張ってみる。神作君の処分が無しとなれば、その画像は消去だ。いいな」

 上野秀則は甲斐局長のネクタイの上を軽く叩きながら言った。

「もちろんですよ。約束は、しっかり守らせていただきやす。それがスジってものですからね。じゃあ、ひとつ、よろしく頼みますよ、きょくちょおさん」

 再度、甲斐の胸を数回叩いてカウンターの席についた上野秀則は、短い脚を振り回すように上げて、大袈裟に脚を組んだ。

 甲斐局長は逃げるようにコソコソと帰って行く。

 サングラスを外した上野秀則と隣の神作真哉、その隣の山野紀子は肩を震わせて笑いを堪えていたが、やがて三人同時に吹き出して笑った。

 カウンターの端の席で、春木陽香は眉を寄せて三人を見ながら、呟いた。

「これでいいのかなあ。なんか、いけないことをしているような……」

 ザンマルから渡されたグラスを持った上野秀則は、神作と山野と、順に乾杯をした。高い音が鳴る。斑の光が回るカウンター席に、記者たちの背中が並んでいた。


 それから暫らく、四人は談笑し飲み続けた。久しぶりに緊張やプレッシャーから解かれた時間だった。明日は水曜日。深酒は禁物と分かっていても、ついついグラスが進んでしまう。気が付けば随分と時間が過ぎていた。上野秀則はカウンターに突っ伏せて眠っている。隣の神作真哉は少し赤くなった顔をしきりにお絞りで拭きながら、グラスの氷を回していた。その隣で、真っ赤な顔をした山野紀子がキャロットスティックを齧っている。

 端の席の春木陽香は四杯目のレモンソーダのストローを回しながら、山野に尋ねた。

「へえー。じゃあ、ザンマルさんと、神作キャップと、編集長は、大学時代にお友達だったんですか」

 神作真哉がカウンターに肘を乗せたまま答えた。

「まあな。紀子が、俺が入ってたボクシング部のマネージャーで、こいつが柔道部」

 山野紀子が昔を懐かしむように言った。

「この二人、喧嘩しちゃってね。真ちゃんが、ボクシングが最強だあって言ったら、ザンマルが、いや、柔道だって」

 春木陽香は微笑みながら言った。

「へえ。熱いですね」

 山野紀子は話を続ける。

「で、他流試合よ。異種格闘技戦、ワンKO、一本取りのガチンコ勝負」

 隣で神作真哉が手を振りながら言った。

「もう、その話はいいって。ハルハルにすることはないだろ」

 春木陽香は背筋をキンと正して言った。

「いいえ、聞かせて下さい。記者ですから」

 ほろ酔いの山野紀子が春木の肩に手を回して言う。

「お、ついにハルハルも記者魂に目覚めたか」

「やめろって」

 神作が止めるのを聞かずに、春木陽香は山野に尋ねた。

「結果は?」

 キャロットスティックを齧った山野紀子は春木に教えた。

「真ちゃんの惨敗。ピザ生地みたいにビタン、ビタンと投げ飛ばされて。腰痛めて、一週間、動けなかったのよねえ」

 神作真哉はそっぽを向いて答えた。

「うるせえな。体重が違い過ぎたんだよ。こいつ、スーパーヘビー級もいいところじゃねえか」

 グラスを磨いていたザンマルは、カウンター越しに春木に言った。

「でも、その時の看病が縁で、二人は付き合うようになったのよ。投げられても、投げられても、フラフラになりながら立ち上がる真ちゃんに、この子は惚れちゃったってわけ」

 山野紀子は顔の前で必死にキャロットスティックを振った。

「ち、違うわよ。全然違う」

 春木陽香は羨ましそうな顔で三人を見ながら言った。

「へえ。何か、いいですね。青春って感じで。素敵です」

 キャロットスティックを口に放り込んだ山野紀子は、咀嚼しながら言った。

「でも真ちゃん、苦手のカウンターばかり狙うんだもん。そりゃ、大学選手権大会第一位のザンマルには勝てないわよねえ。作戦負けよ」

 神作真哉は下唇を出して項垂れながら、呟いた。

「上手くいくと思ったんだけどなあ」

 ザンマルが呆れ顔で言った。

「まーだ言ってるのか。真ちゃんのカウンターは、試合で一回も決まったことが無いんでしょ。あれで私に当たる訳ないでしょうが」

「ケッ。運が悪かっただけだよ。相手の汗が目に入ったりとか、読みがハズレたりとか」

 山野紀子は春木の方を向いた。

「でも、結構、様にはなってたのよ。昔はもっと締まってて、こう、シュッ、シュッて」

 そう言って、山野紀子は空中にパンチを打ってみせた。

 春木陽香は山野越しに神作を見ながら言った。

「へえ、そうなんですか。でも、今は……」

 神作真哉が、ムスっとした顔を春木に向ける。

「なんだよ、ハルハル」

「いえ、何でもないです」

 そう言って笑いを堪えた春木に背中を向けて、山野紀子は神作の腹を叩いた。 

「ブヨブヨじゃないの。このお腹の、まあ、どうしたことやら」

「悪かったなあ」

 神作真哉は更にふて腐れた。

 春木陽香は、端の席からじっと山野と神作を観察していた。

 グラスを傾けた山野紀子が視線だけを春木に向けて言った。

「ん? どうした、ハルハル」

「いえ、何でも……」

 そう答えた春木陽香は、少し笑みを浮かべていた。

 神作真哉が膝を叩いて言った。

「どれ、そろそろ帰るか」

 山野紀子が神作の向こうを指差して言う。

「うえにょ、どうする。完全に酔い潰れてるけど」

 椅子から腰を上げた神作真哉が、呆れ顔で上野を見ながら言った。

「酒に弱いのに、どうしていつも全速力で飲むのかね、こいつは」

 ザンマルがカウンターの中から上野の様子を覗いて、言った。

「暫く寝かしといたら起きるわよ。慣れない交渉事で緊張して疲れたんでしょ」

「こいつの分は俺が払うよ。起きたら礼を言っといてくれ。ああ、タクシー代も俺が持つから、よろしく頼む」

 ザンマルは神作に指でOKサインを出した。山野紀子も椅子から立ち上がった。

「じゃ、帰ろうか。ハルハルは旧市街だから、遠いしね。そいじゃ、またね、ザンマル」

 三人はゆっくりとした足取りで帰っていった。



                  6

「ランコントル」の前の階段を上り、地上に出た三人は、街路の生温い風に吹かれながら面々に伸びをした。

 神作真哉が腕時計を覗く。

「ああ、もうこんな時間か。どれ、地下リニアで都庁下駅まで行って、あとはタクシーにでも乗るかな」

 そう言うと、彼は駅の方に歩いていった。

 山野紀子が春木に尋ねる。

「ハルハルは、どうする?」

「私も、昭憲田西駅まで地下リニアに乗って、後はバスかタクシーで帰ります」

「そ。じゃあ、駅まで送るわ」

 山野と春木は神作の後を追って、歩いていった。

 通りにはまだ多くの人が歩いていた。新首都一の繁華街は朝まで眠らない。人ごみを避けて、春木と山野は歩道の端を歩いた。

 春木陽香は歩きながら山野に尋ねた。

「朝美ちゃん、どっちになったんです? 樺太ですか、択捉ですか」

「樺太。今朝、出発しました。ま、金曜日には帰ってくるそうだから、心配ないけどね。夏だし」

「でも、凍土を掘らされるんですよね。大丈夫ですかね」

 山野紀子は顔の前で手を振った。

「心配ない、心配ない。芋掘り大会でも、必要以上に穴を掘って、毎年、畑の所有者から苦情が来るくらいだから。あの子、土を掘り起こすのが大好きみたいなのよ」

 春木陽香は口を尖らせて言った。

「そんな子、いますかね」

 山野紀子は黙っていた。

 娘のことを気にしていないような素振りは見せてはいるものの、やはり母親である。心配していないはずがなかった。実際、さっき「ランコントル」で飲んでいた時も、山野がイブフォンをブラウスの胸元に付けっぱなしにしていたことに春木陽香は気付いていた。神作真哉も、飲んでいる間、お絞りで顔を拭く度に、ワイシャツの胸の釦の間に留めていた真新しいイヴフォンを胸ポケットに挿し替えたり、そこから胸の釦の間に戻したりしていた。二人とも内心では娘のことが気がかりなのである。そして春木には、二人がそのことを分かり合っているように見えた。二人の出会い話を聞くことができた今夜の春木陽香は、一人だけ飲んでいないせいか、妙に週刊誌の記者としての好奇心に駆られていた。

 春木陽香は、少し前を歩いている神作を気にしながら、山野に言った。

「あの、編集長。一つお聞きしてもよろしいですか」

「ん、なに?」

 春木陽香は口籠りながら続ける。

「すごく個人的なことなんですけど……、気になってるもので……」

「だから何よ」

 一度言葉を飲み込んだ春木陽香は、少し考えてから、思い切って訊いてみた。

「編集長と神作キャップは、どうして離婚されたのですか」

 山野紀子は歩きながら上を向いて少し考えると、言った。

「まあ、いろいろ有るのよ」

「別々に住んでいらっしゃるのですよね」

「……うん。ウチは有多東区の、華世区との境だけど、真ちゃんは、旧市街北部の旧『新興住宅街』。ああ、もう、この新首都って、『旧』なのに『新興』って、色々ややこしいわよねえ」

 一人で怒っている山野の隣で、春木陽香は頷きながらブツブツ言って歩いていた。

「じゃあ、神作キャップのお宅は会社には近い訳で、編集長のマンションとも、そう遠くは無い。うん。大丈夫だ」

 山野紀子が逆に尋ねた。

「何が大丈夫なのよ」

「いえ。すみません、立ち入ったことを訊いて」

 そう答えた春木の顔を見て、山野紀子が言った。

「気になる?」

 春木陽香は鼻の頭を掻きながら言った。

「あ、ええと……いいえ。いいです」

 山野紀子は春木を指差しながら言った。

「気になってるでしょ。離婚の理由。じゃあ、教えてあげる。決定的な理由はね……」

「何だ、おまえら!」

 神作の威圧的な声に、山野と春木は視線を前に向けた。先を歩いていた神作の前に、二人の柄の悪そうな男たちが立ちはだかっていた。派手なシャツを着たチンピラ風の若者たちである。一人は木刀を、もう一人は金属バットを手に握っていた。

「新日ネット新聞の神作真哉だな」

 そう言った男の顔をにらみながら、神作真哉は一歩前に出た。

「だからどう……」

 三人目の男が神作の背後に現われ、鉄パイプで神作の後頭部に一撃を加えた。

「真ちゃん!」

 叫んだ山野の前で、地面に倒れた神作真哉に三人は持っていた木刀やバットで容赦なく攻撃を加えた。

 神作真哉は頭を覆いながら、山野に叫んだ。

「逃げろ、紀子! ぐはっ」

 咄嗟に春木陽香が大声で叫んだ。

「誰かあ、警察を呼んで下さい。誰かあ!」

 神作への攻撃は続く。山野紀子は両手で口を覆ったまま立ち尽くしていた。

 男たちが攻撃をやめた。彼らの足下の路上で、神作真哉はぐったりと倒れていた。男たちが振り返り、山野と春木の方に近づいてくる。

 春木陽香は山野の腕を掴んで言った。

「編集長、逃げましょう」

 山野紀子は動かなかった。彼女は立ち尽くしたまま叫び続けた。

「真ちゃん……真ちゃん!」

 男の一人が山野の前に立った。鋭い目つきで山野をにらむと、鉄パイプを振り上げる。男が振り下ろそうとすると、その棒が後ろで何かに引っ掛かり、ピタリと止まった。動かそうとしても、棒は前にも下にも動かない。その男が振り返ると同時に、彼は勢いよく宙を舞った。地面に激しく落下した男の横に青いドレスが揺れている。山のような人影がそこに立っていた。ザンマルである。

「何だ、テメエ」

 もう一人の男がザンマルの背後から木刀を振り上げて襲い掛かってきた。男が木刀を振り下ろすよりも早く男の手首を掴んだザンマルは、「よいしょお!」という掛け声と共に一瞬で男を体ごと宙に浮かせた。男は空中でぐるんと体を回転させられると、硬い路面に叩き付けられるように背中から落とされた。

 最後の男がバットを振り上げて近づいてきた。

 ザンマルが、その男の目を見て言う。

「あんたも遊ぶ?」

 立ち止まった男は、顔に汗を浮かべながら後ずさりした後、バットを放り投げて、そのまま逃げ出した。他の二人も腰を押さえながら逃げていく。

 山野紀子が路上に倒れている神作に駆け寄った。

「真ちゃん、真ちゃん、大丈夫、真ちゃん!」

 ザンマルも駆け寄ってきて、神作を抱きかかえると、揺さ振って必死に声をかける。

「ちょっと、真ちゃん。しっかりしなさいよ。請求書を渡す前に死ぬんじゃないわよ! ウチのツケを踏み倒す気? 起きなさいよ。真ちゃん!」

 額から血を垂らしたまま、神作真哉は目を開けなかった。

 春木陽香はイヴフォンで救急車を呼んでいる。

 見物人が周りを取り囲み始めた。その間を生温い風が吹きぬけていった。




 二〇三八年八月四日 水曜日


                  1

 スライド式のドアが横に激しく開き、血相を変えた永峰千佳と重成直人が部屋の中に駆け込んできた。白い壁の個室には、白い布が掛けられたベッドが置かれている。白布の下には長い体が横たわっていた。その横に、沈んだ様子の山野紀子が静かに立っていた。

 窓のカーテンは閉められ、天井のLED電灯だけが、その病室を照らしていた。

 永峰千佳は走ってベッドに駆け寄った。彼女はベッドの枕元の横に立つと、そこに横たわる神作の顔を覗き込んだ。すぐに顔を逸らした永峰千佳は、口を噤んだ。目に涙を浮かべて鼻を啜り、ズボンのポケットから取り出したハンカチで鼻と口を覆う。後ろを向いた彼女は背中を震わせた。

 遅れてベッドの足下に駆け寄った重成直人も深刻な表情をしていた。彼は山野に視線を送る。山野紀子は神妙な面持ちで静かに頭を下げた。

 室内を重い沈黙が埋める。カーテンの隙間から指す光は薄く、かすんでいた。

 ベッドに背中を向けて肩を震わせていた永峰千佳が、その両肩を大きく上げた。

「――っくしゅん」

 鼻を啜った永峰千佳は振り返り、涙を拭きながら言った。

「キャップ、大丈夫ですか」

 神作真哉が頭を上げる。

「ああ、大丈夫だ。かすり傷だ、かすり傷。イテテテ」

 ベッドの上の神作真哉は、白いカバーが施された掛け毛布をはぐると、右手をつきながら体を起こした。頭部に包帯を巻き、左腕にはギプスをして首から三角巾で吊っている。彼は体中から湿布薬の臭いを漂わせていた。

 永峰千佳がハンカチで口を覆って言った。

「すみません。私、シップの臭いって駄目なんです。目がシボシボしちゃって。くしゃみも出るし。ああ、くさっ。――何枚はってるんですか?」

「ええと、何枚かな。一、ニ、三……」

 自分の体を見回して、パジャマの下の体に貼られた湿布の枚数を数えている神作の横で、山野紀子が答えた。

「十二枚。背中と、腿と腹。念のため、首の左右にも一枚ずつ」

 重成直人が神作と山野に言った。

「こんな状況の時に、飲みになんか行くからだ。心配したじゃないか」

 山野紀子がもう一度頭を下げた。

「すみません。軽率でした。以後、気をつけます」

 神作真哉も小さく頭を下げた。

 重成直人は一応そう言ったが、怒っている訳ではなかった。彼は苦笑いしながら、神作に言った。

「しかし、派手にヤラレたなあ」

 神作真哉は両眉を上げて言う。

「まあ、こんなものですよ」

 重成直人が自分の頭を指差しながら尋ねた。

「中身は大丈夫なのか」

 山野紀子が真顔で答える。

「一応、透過撮影をしてもらいましたが、中が空洞で何も映りませんでした……」

「やっぱり……」

 山野に合わせて、永峰千佳もハンカチで口を覆いながら、深刻そうな顔でそう答えた。

「おいおい」

 そう言って、神作真哉は不安そうな顔で左右の山野と永峰を交互に見た。

 山野紀子は声の調子を明るく変えて、重成に本当の神作の診断内容を告げた。

「脳にも頭骨にも異常は無いって。打撲と軽い裂傷だけだそうです」

 重成直人は安堵したように息を吐いた。

 神作真哉はギプスをした左腕を持ち上げて言った。

「左腕は、この通り」

「ひでえ事しやがやる……」

 眉を寄せた重成直人に、山野紀子が言った。

「医師からは、念のため今週いっぱいは入院してくれって言われています」

「すみません。永山も居ないのに、俺まで穴を空けてしまって。千佳ちゃんも、ホントに申し訳ない」

 そう言った神作真哉に重成直人が言った。

「気にせんでいい。有給休暇の消化だと思えば、短いもんだ。それに、四、五日分を埋められるくらいの『埋め草』記事の原稿はストックしてあるよ。どれかを適当に選んで使うさ。なあ、千佳ちゃん」

「ですね。前に私が取材した『分身おばあちゃん』の話とか、お蔵入りになってる記事が色々と有りますから……っくしゅん。――ああ、やっぱ駄目だ」

 永峰千佳は目を擦りながら、ベッドから少し離れた。

 山野紀子は怪訝な顔をして言った。

「社会部も、いろいろと扱ってるのね。『分身おばあちゃん』って……」

 永峰千佳は目を擦りながら答えた。

「ええ。いろいろです。――それより、山野編集長とハルハルは、何もされなかったんですか」

 山野紀子は頷いた。

「うん。私たちは大丈夫。ハルハルも怪我は無い。今、下でうえにょと一緒にマスコミ対応をしてくれてる。どう、たくさん来てた?」

 永峰千佳は答えた。

「ええ。駐車場の前の道路は、すごい人数でした」

 神作真哉はベッドの上から、カーテンが閉じられた窓の方を見ながら言った。

「例の記事を出したとたんに、これだからな。俺があいつらの立場でも、一応は駆けつけるわな。仕方ないか」

 神作真哉が同業者への理解を語っていると、スライド式のドアがノックされた。山野が返事をすると、ドアが横に開き、春木陽香が話しながら入ってきた。

「編集長、一応、他社のマスコミの皆さんには、病院敷地の外に出てもらうことに……ああ、永峰先輩、シゲさん」

 重成直人が春木に言った。

「恐い目に遭ったんだってな。びっくりしただろ」

 春木陽香は神作の方に顔を向けて言った。

「私はともかく、神作キャップが……」

 神作真哉が永峰の顔を見て言った。

「ハルハルがすぐに警察と救急隊を呼んでくれたんだ。お蔭で助かったよ」

 春木陽香は首を横に振った。

「いえ。実際に助けてくれたのは、ザンマルさんです。お強いですね、あの人」

 重成直人が納得した顔で言う。

「そうかい、丸山ちゃんが助けてくれたのか。襲撃犯も運が悪かったな。黒帯びに勲章持ちが相手じゃ、尻尾巻いて逃げるしかなかっただろうに」

 神作真哉が右手の人差し指を口の前に立てた。

「シゲさん、それは、シー」

 山野紀子が腕組みをしながら言った。

「ホント、鬼のザンマル相手に三人程度じゃねえ。襲われたのが、あの店の近くでよかったわ」

 春木陽香は目を丸くして神作に尋ねた。

「ザンマルさん、勲章も持ってるんですか。もしかして、元警察官とか、元軍人さんとかなんですか?」

 神作真哉が困った顔で答えた。

「まあ、いろいろな。いつか、ゆっくり説明してやるよ」

 永峰千佳がハンカチの下で鼻水を吸いながら言った。

「――それより、襲った連中の目星は立っているんですか?」

 神作真哉は首を横に振る。

「いや。知らん顔だった。だが、あれだけ多くの防犯カメラが設置されている繁華街で、しかも、通行人の前で堂々と襲ってきやがった。たぶん、本職だな」

 春木陽香は少し下を向いてブツブツ言いながら、考えた。

「本職。――暴力するのが本職の人……暴力屋さん……暴力団……億乃目組ですか?」

 神作真哉は再び首を横に振る。

「分からん。警察には話してみたが……」

 重成直人が言った。

「億乃目組は、任侠一筋の組だろう。こんなチンピラがやるようなことをするかね」

 山野紀子が重成に言った。

「警察も、そう言ってました。彼らがやるなら、ウチのビルに白昼堂々と乗り込んで来るはずだって。拳銃や日本刀を持って」

 春木陽香は以前の取材のことを思い出し、宙に焦点を合わせたまま、汗を垂らした。

 神作真哉が視線を重成に向けて言う。

「それに、あの組は警察の方に念書を入れていて、一般市民に危害を加えたら即解散らしいですよ」

 重成直人は胡麻塩頭を撫でながら言った。

「じゃあ、どこかのヨゴレか。誰かに目先の金で雇われた」

 神作真哉は首を傾げて言う。

「分かりませんがね。イテテ。億乃目組も資金的には困っているようですから、金に目が眩んだのかも」

 重成直人は眉間に皺を寄せた。

「どうかな。あそこの二代目、なかなかの筋者って話だぞ。金で動くかね」

 山野紀子が言った。

「でも、その二代目さんは服役中なんでしょ。三代目は女子大生の『なんちゃって組長』だし」

 春木陽香が小声で言った。

「かなり迫力はありましたけど……」

 神作真哉は重成と永峰の顔を見ながら、真顔で言った。

「とにかく、シゲさんも気をつけてください。千佳ちゃんも。暫くは、なるべく明るい時間に帰るようにしてくれ」

 ハンカチで口元を覆ったまま、永峰千佳は不安そうな目で尋ねた。

「警察の護衛とか、付かないんですかね」

 山野紀子が答える。

「今、その調整中ですって」

「調整中?」

 永峰千佳は首を傾げた。

 神作真哉が説明する。

「司時空庁の奴らさ。俺たちを監視するための尾行を邪魔されたくないんだろ。警察が俺たちに護衛を付けることに猛反対なんじゃないか。もしそうなら、警察の警護は期待できんな」

「そんなあ。どうしよう……」

 永峰千佳は嘆いた。

 山野紀子が口角を上げて言った。

「大丈夫よ。たぶん、真ちゃんがリーダーだから襲われたんだと思う。それに、これだけマスコミが騒げば、襲撃を指示したのが誰であれ、もうこれ以上、こっちには手を出せないわよ」

 重成直人が腕組みをしたまま言った。

「しかし、司時空庁の連中も、尾行していたんなら助けてくれてもいいものだろうに。何がSTSだ。最後のSはセキュリティ(security)のSだろ。役に立たん連中だなあ」

 山野紀子が顔の前で手を大きく振って言った。

「ザンマルが出てきましたからね。必要ないと思ったのかも」

 春木陽香が眉を寄せて言う。

「それとも、やっぱり、襲撃を指示したのは司時空庁なんでしょうか」

 神作真哉が首を傾げながら答えた。

「どうかな。津田も、そこまで馬鹿じゃないだろう」

 山野紀子が神作に言った。

「でも、これからどうするの。このまま大人しく警察の捜査を待ってるつもりは無いんでしょ」

「当たり前だ。これ、見ろよ」

 神作真哉はギプスをした左腕を上げて見せて、そう答えた。

 重成直人が言う。

「しかし、神作ちゃんはこうして病院、永山ちゃんは自宅に幽閉中じゃ、こっちとしては動きが取れんな」

 神作真哉もベッドの上で深刻な顔をして言った。

「そうなんですよね。まずは永山を何とかしないと」

 春木陽香が尋ねた。

「顧問弁護士さんは何もされないんですか。飯田先生でしたっけ」

 重成直人が顔の前で手を横に振りながら言った。

「ありゃあ、駄目だ。警備措置は永山ちゃんの利益のための処分だから異議申立ても出来ないとか、法廷で賠償請求事件として争うとか言っている。司時空庁が相手で完全に腰が引けてるな、ありゃ」

 山野紀子が苛立って言った。

「もう! ピリッとしない弁護士ねえ。誰か他に頼りになる人は居ないかしら」

 その時、スライドドアがゆっくりと横に開いた。上野秀則が入ってくる。彼は悠然と室内に歩いてきて、言った。

「どうやら、俺の出番らしいな。うう……頭痛い。二日酔いか……」

 山野紀子が永峰に顔を向けて言う。

「何か聞こえたけど、無視しましょう」

 永峰千佳が頷く。

 上野秀則は山野を指差しながら言った。

「あのな。神作の処分を揉み消してやったのは、誰だよ」

 下を向いていた重成直人が、顔を上げた。

「そう言えば、さっき神作ちゃんの処分の件で『懲罰委員会』が開かれてな、十五分程度で終わったよ」

 神作より先に山野紀子が尋ねた。

「結果は?」

 重成直人が答える。

「お咎め無しだそうだ。反対したのは谷里部長だけ。よかったな、神作ちゃん」

 神作真哉はニヤリとして言った。

「不幸中の幸いですな」

 そして、山野に向けてウインクした。山野紀子は両肩を上げて応えた。

 上野秀則が神作に合図を送ろうとポーズの準備をしていると、重成直人が発言した。

「あとは、永山ちゃんだな。さて、どうするか……」

 上野秀則が春木を見て頷きながら言った。

「やっぱり、俺が司時空庁と掛け合うしかないか……」

 腕組みをしたまま床に視線を落として考えていた山野紀子が、そのままの姿勢で言う。

「余計なことはいい。話がこじれそうだから。もっとキレのいい人間を探してるの」

 不満そうに口を尖らせた上野を一瞥してから、春木陽香が山野の方を向いて言った。

「いるじゃないですか。キレのいい人」

 山野紀子は顔だけを春木に向けて尋ねる。

「誰よ。もしかして、杉野副社長?」

 神作真哉が首を横に振った。

「いやいや。この状況じゃ、杉野副社長も動けんだろう。永山を南米に行かせたのは、会社ってことになっているからな。きっと司時空庁は、そこを突いてくるに違いない」

 重成直人は胡麻塩頭を撫でながら考えた。彼は呟く。

「この状況で、永山ちゃんを救えそうな人物かあ……」

 上野秀則が自分を指差して必死にアピールしている。永峰千佳がそれを見ながら首を傾げていた。

「こうなったら、また有働代議士に頼んでみるか……」

 重成直人がそう言うと、神作真哉が首を横に振った。

「永山の軟禁に有働は何も絡んでいませんよ。この件で有働を頼れば、どんな交換条件を提示されるか分かりません。それにこれ以上、シゲさんにばかり迷惑をかける訳には……」

 その頃、春木陽香は少し背伸びして山野に耳打ちしていた。山野紀子は背を丸めて春木の話を聞いている。春木から頭を離した彼女は、頷くと、納得した顔で言った。

「ああ。ホントだ。一人いるわね。使えるかも。確かにキレは良さそうだわ」

 春木陽香は右目を瞑って山野に言った。

「ね」

 ニコニコとしている春木を、神作真哉と重成直人は怪訝な顔で見ていた。


 

                 2

 司時空庁長官室で革張りの応接ソファーに座り、津田幹雄は立体テレビを見ていた。ホログラフィーで空中に平面表示された画面では、病院を背にしてマイクを握った藤崎莉央花が、新日ネット新聞社の記者が襲撃された事件を伝えている。彼女はしきりに「言論の自由」を訴えていた。

 リモコンを突き出してホログラフィー画面を消した津田幹雄は、大きな応接テーブルの上にリモコンを放り投げた。

「まったく。馬鹿が。どうして、やるんなら徹底したことをしないんだ。中途半端なことをしやがって」

「……」

 ソファーの後ろに立っていた佐藤雪子は黙っていた。

 津田幹雄はソファーの背もたれに肘を掛けて佐藤の方を向いた。

「佐藤君、警察との協議は何時からかね」

 佐藤雪子は腕時計を見ながら答えた。

「一時半からとなっていますわ」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せて言う。

「ここで奴ら記者連中の監視を邪魔される訳にはいかんからな。だが、これはれっきとした傷害事件だ。あるいは、最悪、殺人未遂事件として対処するかもしれん。しかも、ここまで大きく報じられている。警察としても放って置く訳にはいかんはずだ。いずれ彼らの周りに捜査員を配置するだろうな」

 津田の向かいのソファーに腰を下ろしていた松田千春が鋭い視線を向けて言った。

「いかがされますか」

 津田幹雄は一瞬、松田と視線を合わせると、再び後ろを向いた。

「奥野大臣は、兵士のピックアップが済んだと言っていたよな」

 佐藤雪子は頷いた。

「ええ。私用できる機動部隊を編成できたと」

 松田千春が言う。

「警察が動き出す前に、使ってもらう必要がありますな」

 佐藤雪子が不安げな顔で言った。

「無理はなさらない方が……。お名前に傷が付きますわよ」

 松田千春は津田の目を見て言った。

「いや。辛島総理の調査の件もあります。お早めに手を打たれるべきかと」

 津田幹雄は眉間に深い皺を刻んだまま、ソファーから立ち上がった。松田千春も腰をあげる。険しい顔で前を通り過ぎる津田に佐藤雪子が言った。

「現状では、ウチと警察との間には溝ができていますわ。警察庁長官の子越こごしさんは、長官に好意的ではないようですし、そもそも長官と同じ官僚の立場。ライバルじゃありませんの。信用できませんわ。この状況で無理をなされば、必ず子越長官に足下をすくわれますわよ。警察の動きを見極めてからでもよろしいのでは。今はあの記者たちに世間の注目が集まり過ぎていますわ。こちらとしては、無闇に手を出すべきではないかと存じますわよ」

 窓辺に立った津田幹雄は、南の窓から官庁街のビルを眺めながら言った。

「では、このまま待っていろというのか」

 松田千春が歩み寄ってきた。

「警察は押さえられます。それに、永山を自宅に閉じ込めている以上、過度の心配は不要なのでは。神作も入院して動けないとなれば、残りは実力の無い記者ばかりです。何もできませんよ。ならば、こちらから仕掛けるべき時ではないでしょうか」

 津田幹雄は振り返り、松田を指差して怒鳴った。

「その油断が危ないんだ。まだ、春木とかいう、あの小娘がいるだろうが。奴らは発射施設の中にまで侵入してきたんだぞ。あの無人機の墜落も、奴らの仕業かもしれん」

 松田千春は津田の目を見て言った。

「その件ですが、一つ、お耳に入れておかねばならないことが」

「なんだ」

「国防軍から入手した無人機のAIを、ウチの技術部門が精密に検査しました。その報告によれば、あの無人機のAIに何者かが外部から侵入した形跡は皆無とのことです」

「……? では、なぜ墜ちた。しかも、発射施設を目がけて」

 松田千春は深刻な顔で言った。

「外部からの侵入の痕跡は見当たりませんでしたが、内部からの侵入の痕跡は見つかりました」

「内部からの? どういうことだ」

 松田千春は冷静に説明する。

「飛行システム、制御システム共に、通常通り作動。遠隔操作システムのみが遮断され、ネットワーク制御システムの内部から機体の人工知能に対して、独自に飛行命令が発せられています。つまり、『SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステム』から」

「SAI五KTシステムから? 誰がシステムを利用したんだ」

 松田千春はゆっくりと首を横に振った。

「いえ。SAI五KTシステムからの独自の命令です。主体的演算による」

 津田幹雄は一瞬、言葉を失った。そして、自分の机に早足で向かいながら言った。

「馬鹿な。システムが勝手に命令を出したと言うのか。そんな馬鹿な」

 津田が椅子に座ると、彼を追って机の前に移動してきた松田千春が言った。

「ご承知の通り、量子コンピュータIMUTAイムタのセキュリティーゾーンを突破することは不可能です。外部からシステムのソースコードにアクセスして命令を書き込むことは考えられません。だとすると、システム自体が命令を発したと考えるのが自然かと……」

「IMUTAを製造したのはGIESCOジエスコだな。元々、何か仕込まれていたんじゃないのか。管理しているのは国防省だろ。軍は何をやっていたんだ」

 佐藤雪子が口を挿んだ。

「いいえ。軍はあの施設を警備しているだけですわよ。国防省から委託されて、実質的にIMUTAを管理しているのは、製造元のGIESCOですわ。つまりストンスロプ社。あそこの会長さん、田爪瑠香の養母ですわよね」

 津田幹雄は憮然とした顔で答えた。

「そんなことは知っている。では、光絵か。光絵由里子が無人機を落とすように仕向けたというのか」

 津田に指差された松田千春は、再び首を横に振った。

「いえ。それはどうかと。IMUTAは実際のところ大型のターミナル・コンピュータですので、そもそも主体的演算は致しません。問題は、IMUTAに神経ケーブルで接続されている生体型コンピューターの方にあるかと」

 津田幹雄は目を丸くした。

AB〇一八エービーゼロイチハチか! 自己増殖型のニューラルネットワークを有するコンピューターなら、主体的演算が出来るとでも言いいたいのかね。自発的に」

 松田千春は首を縦に振る。

「はい。理論的には。あるいは、製造元が指令を書き込んだ可能性も考えられます」

 津田幹雄は視線を落とした。

「製造元……NNC社。ということは、指示したのは……」

 松田千春が頷いた。

「はい。例の『刀傷の男』のことを考え合わせましても、その可能性が一番高いかと思われます」

 津田幹雄は顔を上げ、松田に言った。

「だが、ちょっと待て。どうやって指令を出すんだ。そのためには、AB〇一八の内部に新たな神経ネットワークを構築させんといかんだろ。それには、例のバイオ・ドライブが必要になるはずだ。まさか、奴ら……」

 松田千春は津田の目を見たまま、再度、ゆっくりと首を縦に振った。

「はい。おそらく、復元に成功したものと思われます」

 津田幹雄は椅子の背もたれに倒れ込むように背を当てた。

「なんということだ……まさか、そんな……」

 愕然としている津田に松田千春が言った。

「しかし、断言は出来ません。もう一台のバイオ・ドライブは、既にストンスロプ社の手に渡っているという情報もございます。だとすると、そちらを基にしてGIESCOがバイオ・ドライブの解析を終えた可能性も……」

 津田幹雄は厳しい表情のまま首を横に振った。

「有り得ん。仮に奴らが解析に成功していたとして、どうやってAB〇一八にバイオ・ドライブを接続するんだ。あの施設はNNJ社が厳重に警備しているんだぞ。施設内に非合法の私設軍隊を駐留させているという噂だ。国防大臣の奥野も以前、軍事活動として大規模な攻撃でも仕掛けないかぎり侵入は不可能だと言っていたじゃないか。ストンスロプ社ではない。奴らだ。奴らに違いない」

 松田千春は津田の目を見て尋ねた。

「対応は、いかに」

 津田幹雄は椅子の背もたれから身を起こして言った。

「記者共に付き合ってなどおれん。これは、国家存亡の危機だ。何とかしなければ……」

 佐藤雪子が言う。

「しかし、長官。本命を見失われてはなりませんわよ。このまま記者たちを放置すれば、いずれ長官の政界進出に支障が……」

「うるさい! 進出する政界そのものが無くなれば、意味が無いだろう!」

 津田幹雄は佐藤に怒鳴った。そして、机の向こうに立つ男を指差して言った。

「松田君、監視局員の配置を組み替えるんだ。永山一人に集中しろ。君の言うとおり、彼を外に出さなければ問題は起こるまい。他の人員を使って、こちらで問題に対処する必要がある。他の記者たちへは、監視局の最低限の人員だけを付けろ」

「分かりました。では、他の記者たちについては、監視レベルを最下に落とします」

 津田幹雄は頷きながら横を向いた。

「そうしてくれ。佐藤君、国防大臣に繋いでくれ。それから、官邸にも……」

 佐藤雪子は秘書室へと向かおうとした。津田が手を上げる。

「いや、待て。奥野大臣と話してからにしよう。官邸の方は、それから対応を決める」

「承知しましたわ。直ちに」

 そう頷くと、佐藤雪子は速足で秘書室へと向かった。

 津田幹雄は歯軋りをしながら、こめかみに血管を浮かせた。

「くそお、ASKITアスキットめ……夷敵らがあ……」

 彼は机の上で拳を強く握り締めていた。



                  3

 高級料亭の広い和室で、床を背にして置かれた肘掛つきの座椅子に凭れ、奥野恵次郎は津田幹雄と立体通話をしていた。テーブルの上に並べられた懐石料理の上に、津田の上半身がホログラフィー映像で浮かんでいる。

 奥野恵次郎は赤らんだ顔で頷いて、言った。

「そうか。分かった。何とかしよう」

 ホログラフィーの津田幹雄は眉間に強く皺を寄せる。

『何とかしようですと? 無人機の墜落が奴らの仕業なら、奴らは既に行動を開始しているということですよ。もう二ヶ月も遅れをとっていることになります。『何とか』などと悠長なことを仰っている場合ですか。国が乗っ取られるかもしれんのですよ』

 奥野恵次郎は津田のホログラフィーに向かって掌を向けた。

「まあ、そう慌てるな。ワシも準備は出来ておる」

 津田幹雄は苛立った顔で言う。

『どんな。もし、例のバイオ・ドライブが既に復元され、AB〇一八に接続されているのだとしたら、奴らに、とんでもない技術情報を盗まれてしまった可能性があるのですよ。あのタイムマシンを使えば、地球上の何処にでも瞬時に攻撃が可能です。どんな強力な防衛を布いていたとしても関係ない。設定した場所に、瞬間的に破壊兵器を送り込めるんですよ。お分かりですか、大臣!』

 奥野恵次郎は頬を下げて、ゆっくりと頷いて見せた。

「分かっておる。だから手を打っているのだ。実はな、AB〇一八の施設防衛を我が国防軍が引き受けることになるかもしれん。国防委員会の承認さえ得られれば、部隊の配置は可能だ。そうなれば、IMUTAとAB〇一八の双方に国防兵が配置されることになる。つまり、SAI五KTシステムは全て我が国防軍が警備することになるのだ。結局、奴らは自由にシステムを動かすことは出来なくなるんだぞ。心配はなかろう」

 津田のホログラフィー映像は、まだ眉を寄せている。

『ですが、それでは時間が……』

 奥野恵次郎は津田の発言を遮り、大きな声で言った。

「そんなことより、早くあの記者共を何とかしろ! これでは、貴様の失態が世に知られてしまうぞ。それに、司時空庁自体も解体に追い込まれるかもしれん。何のために苦労して、ここまで大きくしてやったと思っているんだ。予算の実質的な決定権を握っているうちに、早く手を打つんだ。いいな」

 ホログラフィーの津田幹雄は、困惑した顔で言った。

『しかし、一刻も早くバイオ・ドライブを回収せねば、大変なことに……』

 奥野恵次郎は声を荒げた。

「くどい! それはこちらでやる。貴様らは、記者たちの封じ込めに知恵を絞れ。もし本当に例の奴らが動き出したのだとしたら、これは事実上の戦争だ。貴様ら機械屋の出る幕ではない! つべこべ言わず、さっさと記者たちを押さえ込め。分かったな!」

 津田のホログラフィー映像は渋々と返事をした。

『はい。――わかりました』

 奥野恵次郎は顔を横に向けたまま、ホログラフィーの津田に向けて下から手を振った。

 津田のホログラフィー映像は頭を垂れたまま停止し、消えた。

 奥野恵次郎はテーブルの上の杯を手に取り、中の酒を一気にあおる。

 彼が杯をテーブルに戻すと、その前に光沢のある燻し銀のスーツの袖から出た手が徳利を差し出し、杯に酒を注いだ。

 奥野恵次郎は再び杯を手にすると、それを口に近づけながら言った。

「ご覧の通りの男でしてな。使い物にならん。このままでは、いずれ司時空庁は解体となるでしょう。そうなれば、宝の持ち腐れだ」

 奥野恵次郎は酒を呷った。

 向かいに座っている燻し銀のスーツを着た男は言う。

「そうなる前に、司時空庁を手中に収めたいと」

 杯を持った手で口を拭いた奥野恵次郎は、言った。

「そういうことですな。そうなれば、実質的に、あらゆる省庁を裏で国防省が仕切ることになります。司時空庁を介して」

 男は更に奥野の杯に酒を注ぎながら言う。

「まさに『我が世』ですな」

 奥野恵次郎は杯の酒に視線を落としながら言った。

「まさか。私は国を守ろうとしているだけですよ」

 もう一度、杯を傾けた奥野恵次郎は、赤くなった顔で続けた。

「南米戦争は近々終結する。現状では、日本が戦後処理の舞台で吊るし上げられるのは避けては通れまい。諸外国とも軋轢が生じるでしょう。そうなれば、この国は孤立無援だ」

 奥野恵次郎は空の杯を唇の上で傾け、残りの酒を啜り取ると、荒っぽく杯をテーブルに置いて、言った。

「一人で立つ者は、強くなければならん。それには、まず、軍事の担い手である我が国防省が実権を握り、予算を巡って馬鹿な権力争いをしている各省庁をまとめ上げ、統一的にコントロールする必要がある。そういうことです」

 男は言った。

「だが、適切にコントロールするためには仮面が必要だと。それが、司時空庁ですな」

 まぶたを半分落とした奥野恵次郎は、男の顔を指差しながら言った。

「さすがは、お察しがいい。ですが、それには協力者も必要です。各国に対してにらみを利かすことができ、我が国に最新技術を提供してくれる、力強い後ろ楯が。それが、あなたたちなのですよ」

 男は奥野の杯に再度、酒を注ぎながら言った。

「閣下も申しておりました。奥野恵次郎なる政治家は、次の日本のフェーズを任せるに相応しい男だと」

 奥野恵次郎は杯を見つめながら、片口を上げる。

「いやいや。光栄ですな。おっとと」

 身を屈めてテーブルの上の杯に口を近づけ、零れそうになった表面の酒を吸った奥野恵次郎は、指先で口を拭きながら言った。

「しかし、まさか御頭首が同じ日本人だとは知りませんでしたよ。それを聞いて、私も腹を決めた次第です。ま、今後とも末永く、ご高配を賜りたい」

「では、AB〇一八の防衛の件は、ご了承いただける訳ですな」

 奥野恵次郎は赤い顔の前で手を大きく横に振って言う。

「了承も何も、IMUTAイムタと共に一括で防衛できる訳ですから、我々としても、是非、そうさせていただきたい」

「メンテナンスの方は、従来どおり我々NNJ社が続けるということで」

 奥野恵次郎は首を大きく何度も縦に振りながら言う。

「もちろん。もちろんですとも。国防軍との間で随意契約を締結して、これまで通り御社にお任せしましょう。これまで通りですよ。これまでどおり」

 男は少し大きな声で言った。

「ですが、司時空庁に入ってこられては、困りますなあ」

 奥野恵次郎はテーブルの上に肘を乗せて言った。

「ああは言いましたがね、今回のゴタゴタで津田の馬鹿野郎は総理から首を切られます。スパッとね。我が軍がAB〇一八に配備される頃には、時吉総一郎が長官職に就いていますよ。それに、戦争が終結すれば、総選挙となる可能性もある。新内閣が組閣されれば、やはり津田に椅子は無い。次の司時空庁の長官は、内閣総理大臣が学識経験者の中から任命するでしょうからな」

 男は眉を寄せて言った。

「学識経験者ですか。しかし、その学識はタイムトラベルに関する理学の分野でしょう。法律と哲学が専門の時吉総一郎で大丈夫ですかな」

 奥野恵次郎はテーブルに凭れたまま、深く頷いた。

「大丈夫。問題ありませんよ。理系の研究者が理想的でしょうが、彼は長官経験者だ。可能性は十分に在ります」

 そして、肘を乗せた手で力なく男を指差す。

「まあ、あなた方の力で、私を総理の椅子に座らせてくれれば、もっと簡単に事は進められますがね。フフフフ」

「閣下に、そう伝えておきましょう」

 奥野恵次郎は項垂れるように下を向いたまま、上半身をフラフラと左右に揺らしながら言った。

「宜しく頼みますよ、社長」

「こちらこそ」

 そう言って頭を下げた男はテーブルの上にマネーカードを置き、奥野の前に滑らせた。

 奥野恵次郎はテーブルの上のカードに顔を近づけた。そのまま顔を上げた彼は、虚ろな目で尋ねた。

「これは?」

 男が笑みを浮かべて答える。

「先生名義のマネーカードです。お忘れのようですので、お届けします」

「ほう……」

 奥野恵次郎をそのマネーカードを手に取り、半開きの目を男に向けた。

 男は甘い声で言う。

「以前、お忘れになった時よりも、残高が増えているようで。益々のご発展、お喜び申し上げます」

 奥野恵次郎は、手に持ったマネーカードを一度軽く上げると、背広の内ポケットに仕舞いながら言った。

「そうですか。これは、これは。そうだ、閣下にもお伝え下さい。いつも気に掛けて下さり、感謝していると」

「いやいや、これは私が拾ったものでしてね。閣下はご存じないことです」

 奥野恵次郎は片手を懐に入れたまま動きを止め、男の顔を覗いた。そしてニヤリと片笑んで男に言う。

「ほう、そうでしたか」

 男は奥野の杯に酒を注ぎながら言った。

「これは私個人の政治的な考えですがね、先生には、これからの日本を背負っていただかないといけないと思うのです。まあ、私は本気で、そう考えていますよ。ですから、たまには私からの個人的なエールも受け取って下さい」

 奥野恵次郎は大きく頷きながら言った。

「なるほど。しっかり伝わりました。この奥野恵次郎、誠心誠意、頑張らせていただきましょう」

 男は座布団から後ろに下りると、深く一礼してから言った。

「では、私はそろそろ。失礼致します」

 燻し銀のスーツを着たその男は立ち上がり、銀色のアタッシュケースを手に提げて部屋から出ていった。

 襖が閉まると、奥野恵次郎は慌てた様子で背広の内ポケットからマネーカードと財布を取り出し、財布に内蔵された残高読み取り機にそのマネーカードを翳した。財布の裏面の薄い小さなパネルにデジタル表示の数字が並ぶ。そこに並んだゼロの数を半開きの目で何度も数えた奥野恵次郎は、部屋の中で一人、ほくそ笑んだ。

 暫らくして、その高級料亭の和室に奥野恵次郎の笑い声が響いた。

「ハハハハ。これで選挙も勝てるぞ。俺の勝ちだ。ワハハハハハ」

 彼は赤い顔で、いつまでも声を上げて笑っていた。




 二〇三八年八月五日 木曜日


                  1

 司時空庁長官室の東と南の窓はブラインドが閉められ、そこから見える夕暮れの景色に目隠しをしている。

 津田幹雄は自分の机の上に立てた鞄に書類を詰め、帰宅の準備をしていた。鞄の向こうには、津田に背を向けた背広姿の中年男がホログラフィーで映し出されている。津田の机の上の立体電話機を自分の方に向けて机の前に立っている松田千春が、目を丸くして言った。

「さ、裁判だと? 訴状の送達だと言われて、すんなりと中に入れたのか」

 監視局員の仲野のホログラフィーは松田に頭を下げた。

『は。申し訳ございません。しかし、裁判所書記官が差置き送達とやらを実施するとのことでしたので、中に入れない訳には……』

 松田千春は聞き返した。

「差置き送達だって? 裁判所の強硬措置じゃないか。それを、いきなりか」

『はい。我々の厳重な警備で、郵便局員が臆して近寄れないと申し出ているとか』

 仲野のホログラフィーの後ろから津田幹雄が言った。

「してやられたな。原告は誰だ」

 それを聞いた松田千春は、仲野に尋ねた。

「裁判の相手方の氏名は」

『送達された訴状の中身は見ていませんので、不明です。ですが、裁判所の書記官と同行してきているのは、時吉弁護士です』

 松田千春は怪訝な顔で言った。

「時吉先生か。前長官の」

『いえ。そのご子息の方の先生です』

 松田千春は眉間に縦皺を刻んで津田の顔を見た。

時吉浩一ときよしこういち……母親の離婚裁判で代理人として、父親である前長官と争っているとは聞いていましたが、なぜ、彼が……」

 津田幹雄は嘆息を漏らして言った。

「やり手の弁護士らしいな」

「そう聞いています。しかし、いったい誰が彼を……」

「目的は永山だ。裁判にかこつけて、永山を外に出すつもりなのだろう。時吉先生の息子に依頼したのも、すべて知ってのことに違いない」

「では、原告は新日の記者どもでしょうか」

「おそらくな。訴状の送達なら、裁判の呼出状が添付されているはずだ。永山家の誰かが外出を申し出てきたら、呼出状を確認させろ。そこに事件番号と裁判期日が記載されている。それから、裁判所に誰か出向かせて、その事件番号から訴訟当事者、担当判事、裁判所書記官の氏名を調べさせるんだ」

「分かりました」

 そう返事をした松田千春は、仲野に指示を伝えた。

「その呼出状の中身を確認しろ。永山が訴状の確認を拒否したとしても、呼出状は見せるように言え。外出の理由が本当かどうかの確認だと言えばいい。そこに記載されている当事者名と事件番号を確認して、報告するんだ」

『はい。了解しました。書記官と時吉弁護士はどうしましょう。今、家の中に入っていますが』

 松田千春は津田の顔を一瞥した。津田幹雄は黙って首を左右に振る。

 松田千春は仲野に言った。

「そのままにしておけ。裁判所書記官と時吉には手を出すな。司法を敵に回す訳にはいかん。二人が帰って、書類を確認したら、再度報告しろ」

『承知しました』

 通信が切れ、ホログラフィーが消えた。

 津田幹雄は再び溜め息を吐いた。

「まったく……次から次へと」

 電話機の向きを元に戻しながら松田千春が尋ねた。

「いかが致しましょう」

 津田幹雄は割れた顎を触りながら言う。

「おそらく、狙いは永山の奪還だ。日程が分かったら、その日はSTSの警備兵を私服で裁判所内に送り込め。傍聴人として傍聴席に座らせるんだ。武器などの携帯については、裁判所に話を通せ。あくまで永山の警護だと。その日の裁判が終了したら、すみやかに永山を回収しろ。時吉の事務所や他の場所に移動させてはならん。分かったな」

「承知しました」

 松田が退室すると、津田幹雄は横を向いて大きな声を出した。

「佐藤君。佐藤君は居るか」

 秘書室のドアが開き、佐藤雪子が出てきた。

 津田幹雄は言った。

「佐藤君、永山が裁判に出頭するそうだ。警視総監の雲雀野ひばりの君に連絡して、当日、裁判所周辺の道路を封鎖して警備するように伝えてくれ。見返りとして、次期警察庁長官の椅子か、公安委員会の椅子でもチラつかせればいい。我々に協力的でない子越には、この件が片付いたら、速やかに警察庁長官職を退いてもらう予定だとな」

「分かりましたわ。早速」

 佐藤雪子は頷いて秘書室へと戻った。

 津田幹雄は独り言を発した。

「時吉浩一、何を企んでいる……」

 眼鏡の奥の津田の目は、鋭く遠くをにらんでいた。



                  2

 夕刻。永山哲也の家の狭い玄関の中に永山由紀の大きな声が響いた。

「ええー! じゃあ、私、逮捕されちゃうの? 刑務所? 少年院?」

 玄関に立っているタータンチェックの背広を着た時吉浩一弁護士は笑いながら言った。

「違うよ。民事裁判って言ってね、逮捕とか刑務所とかは関係ない。裁判所に行って、お話しするだけ」

「ええー! 裁判所お! お父さん、どうしよう」

 由紀に掴まれた腕を払って、永山哲也は書類を読みながら言った。

「ちょっと待てよ。今、訴状を読んでるから」

 時吉浩一と同行した中年の裁判所書記官は笑顔を見せて穏やかな口調で由紀に言った。

「お父さんとお母さんが、君の法定代理人として同行するから、心配は要らないよ」

 永山由紀は困惑した顔で祥子を見て言った。

「ねえ、お母さん。裁判所って、どんな服装で行けばいいんだろ。やっぱ、しましまの繋ぎ服とかかな。持ってないよ」

 永山祥子は哲也の隣から訴状を覗きながら答えた。

「制服でいいの。制服で」

 時吉浩一は分厚い鞄から箱を取り出しながら言った。

「ああ、それから、これ。ハルハルさんから頼まれて買いましたけど、溶けちゃいそうなんで、ここに置いて帰ります。適宜に処分して下さい。いいですよね、書記官さん」

 中年の裁判所書記官は呆れ顔で答えた。

「ええ、どうぞ。どこに不要な物を捨てようが、先生の自由ですから」

「ということで、ここに置いていきます」

 時吉浩一は、表面に水滴が乗った保冷性の厚手の紙で作られた箱を下駄箱の上に置いた。

 永山哲也がその箱を手にとって尋ねた。

「なんですか、これ」

「見ての通り、チョコバナナ・アイスです。いやあ、持って帰れなくて残念だ」

 時吉浩一はわざとらしく頭を掻いた。一方、永山由紀は飛び上がって喜んだ。

「イェーイ! アイス、アイス! チョっコ、バナナあ。チョっコ、バナナあ」

 裁判所書記官の男はしかめ顔を左右に振ると、永山哲也に淡々とした口調で言った。

「では、期日は八月十二日ですので、出頭して下さい。我々は、これで」

 その裁判所書記官が玄関ドアを開けると、時吉浩一が永山哲也に言った。

「簡易裁判ですから、一日で終わりますよ」

「はあ……分かりました。――ああ、これ、有難うございました」

 由紀が高々と持ち上げている「チョコバナナ・アイス」の箱を指差した永山哲也に、時吉浩一が言った。

「では、法廷でお会いしましょう。失礼します」

 二人はドアを閉めて帰っていった。その途端に永山祥子が由紀に言う。

「ちょっと、由紀。あんた、また何か変なもの作って、他人に迷惑かけたんでしょ」

「何もしてないよ」

 由紀は頬を膨らませた。

「祥子、違うよ。この訴状を読んでみろよ」

 永山哲也は訴状を祥子に手渡すと、リビングに移動してソファーに腰を下ろした。

 永山祥子は訴状を読みながらリビングまで移動すると、そのままソファーの横に立って読み続けた。その後ろをニコニコ顔の永山由紀が「チョコバナナ・アイス」の箱を高く掲げながら通り、台所へと直行していく。彼女はシンクの上にその箱を置くと、箱に向かって敬礼し、次に拝むように手を合わせて何かブツブツと言ってから、一気にそれを破って開けた。中のアイスの小袋を一袋ずつ取り出した永山由紀は、引き出した冷凍庫の中に丁寧に一つずつ仕舞い始めた。時々、小躍りをする。

 台所の由紀の奇行を背景にして立ったまま、永山祥子は訴状を小声で音読していた。彼女は途中で声をあげた。

「ええー! 朝美ちゃんが樺太送りになったのは、ウチの由紀のせいだって言うの? 信用して由紀の宿題をコピーしたのに、その宿題のせいで、反省授業に送られたって」

「原告は、朝美ちゃんと、その親権者のノンさん。樺太への反省授業の旅費として学校に振り込んだ金額を、こっちに請求するんだと」

 永山祥子は哲也の隣に座り、困惑した顔で言った。

「そんな。無茶苦茶じゃない。ウチの由紀は、朝美ちゃんに自分の宿題のコピーを渡しただけでしょ」

「そうカッカするなよ。ノンさんも本気じゃないよ。閉じ込められている俺たち……」

 永山哲也は声を小さく絞って、言い直した。

「閉じ込められている俺たちを、何とかして外に出そうとしているのさ。きっと何か考えてる」

「もうこれ以上家族を巻き込まないでよね。何か危ない目に遭うんじゃないでしょうね」

「それは無いと思うぞ。――まあ、こっちも外の情報が入って来ないから、どうなっているのか、さっぱり分からないけど」

 台所の方を覗いた永山祥子は、由紀に尋ねた。

「由紀い、あんた、朝美ちゃんとは連絡とれてないの。中学生の方法で」

 冷凍庫の前でこちらに背中を向けて「チョコバナナ・アイス」の収納という重要な任務に取り組んでいた永山由紀は、引き出しを閉めて振り返ると、手を振って答えた。

「無理、無理。この前、宿題を入れたMBCを渡したのがやっと。外のオジサンたちに、すっげー怒られたし。――あれ?」

 永山由紀はシンクの上の空箱を覗いて、中に手を入れた。そして、リビングまで走ってくると、両親の前に右手を突き出し、小声で言った。

「これが入ってた」

 永山由紀の右手には、キンキンに冷えたMBCが一枚握られていた。


 


二〇三八年八月六日 金曜日


                  1

 有多町の官庁街を突き抜ける大通り「東西幹線道路」。そこを真っ直ぐに横断する長い横断歩道の上を、春木陽香と山野紀子が歩いている。

 二人が道路の中央分離帯にある横断者の待機場に着くと、信号が赤に替わった。片側だけで十車線以上ある幹線道路は、一度には渡りきれない。二人は他の横断者たちに混じって、道路の中の浮島のような待機場で次の信号を待つことにした。信号待ちをしている人の群れの中で山野と並んで立っていた春木陽香は、素早く振り返った。

「んん!」

 手を額の上に立てて、渡ってきた横断歩道の上を眺めてみる。

「んー。居るようで居ないような、居ないようで居るような……」

 横断歩道の上を車が左から走り出した。春木陽香はまだ眺めている。

 独り言をブツブツと発している春木に山野紀子が次の信号を見ながら言った。

「やめなさいって、みっともない。みんな見てるじゃないの」

 春木陽香は後方の景色をキョロキョロと観察しながら返事をした。

「いや、でも、いつもの尾行のオジサンが居ないんですよ。今朝、家を出てくる時も、いつも家の前に止まっていた車がありませんでしたし」

 春木と反対の方向を向いて立っている山野紀子は、横を見ないで言う。

「私も。家からいつも付けてくる車が、今日は付けてきてなかった。急にどうしたのかしらね」

 春木陽香は背伸びをして、自分たちが渡ってきた横断歩道の向こうを見回しながら言った。

「でも、なんっっか、視線を感じるんですよね」

「気にし過ぎじゃないの。いつも監視されていたから、そう感じるだけよ」

「ですかね……よし、いない」

 春木陽香はくるりと振り向いて前を向いた。横から山野紀子が言った。

「警察が私たちの警護を言い出した途端に、私たちの周りから司時空庁の尾行職員が居なくなった。やっぱり、真ちゃんを襲ったのは司時空庁なのかもね」

 春木陽香は隣の山野の顔を見て言った。

「でも、警察も、警護してくれないんですよね。結局」

 山野紀子は前を向いたまま答える。

「まあ、分かんないけど。必要なら、そこの角の警視庁ビルか、その向かいの警察庁ビルにでも入って、お願いしてきたら。私たちを守って下さいって」

 春木陽香は道路の向こうに建っている警視庁ビルを見上げた。その巨大ビルは、ビルと言うよりも要塞に近い。新日ネット新聞ビルを四本束ねたよりも大きく、高さも同じくらいか、こちらの方が少し高い。春木陽香は振り向いて後ろを見た。東西幹線道路を挟んで警視庁ビルの向かい側にも、同じくらいの大きさの警察庁ビルが建っている。首都警察と巨大な国家警察組織全体をそれぞれに統括する双方のビルは、組織の規模だけでなく、権力の強大さと実力も誇示しているようだ。

 二つのビルを小さな自分と比較した春木陽香は、肩を落として言った。

「私が行っても……」

「あ、青だ」

 信号機を見てそう言った山野紀子は、前に歩を進めながら言った。

「とにかく、訴状は昨日、届いたそうだから、裁判が開かれる十二日までには、こっちの資料も揃えるわよ。せっかくのチャンスだから」

 春木陽香は山野の横を歩きながら言った。

「出て来られますかね、永山先輩たち」

 山野紀子はまっすぐ前を見て歩きながら答えた。

「さすがの司時空庁も、裁判所の呼出状には逆らえないでしょ。みんな裁判には出てくるはずよ。裁判所からは出られないかもしれないけど、あそこの地下にはレストラン街もあるし、ちょっとした売店やコンビニもある。祥子さんや由紀ちゃんも少しは息抜きできるでしょ。毎日家の中じゃ退屈だろうから」

 春木陽香は歩きながら山野の顔を見て尋ねた。

「それで、わざわざ裁判を提起したんですか?」

「そんな訳ないでしょ。ま、時吉ジュニアに期待しましょうよ。なんか、やってくれそうな感じだよね、彼」

 春木陽香は前に顔を向け、少し下を向いて尋ねた。

「私たちは、傍聴するだけでいいんですか」

「それしか出来ないでしょ。当事者は朝美で、私は法定代理人として出廷する訳だから」

 春木陽香は、もう一度横を向いて尋ねた。

「そう言えば、朝美ちゃん、今日帰ってくるんですよね」

「うん。夕方に総合駅に着くって。マンモスの大腿骨を見つけたって、喜んでた。あと、変な石も」

「変な石?」

 山野紀子は前を向いたまま頷いて答えた。

「そ。朝美曰く、古代人か宇宙人が残したデータ・カプセルだろうと」

「い、一大事ですね……」

 横断歩道を速足で渡り終えた山野紀子は、警視庁ビルと隣のビルとの間から見える、奥に建つ細く高いビルを見上げながら春木に言った。

「どうせ、誰かが捨てた玩具の欠片か、何処にでもある岩石でしょ。そんなことより、ほら、あれよ。国税庁ビル。私は、ここからバスで人事院まで行ってくるから。そっちの方は頼んだわよ」

 春木陽香は頷いて答えた。

「分かりました。企業局で、ストンスロプ社とGIESCO、それからNNJ社の公開されている寄付金関係の資料を調べてみます」

 山野紀子はそこから東へと歩き出しながら言った。

「私は、津田幹雄が司時空庁の長官に指名されたプロセスを探ってみる。津田のバックに誰が居るのかを調べないと」

 春木陽香はスタスタと歩道の上を歩いていった山野の背中に向かって叫んだ。

「夕方までには戻ってきて下さいねえ。編集長が待っててあげないと、朝美ちゃんも頑張った甲斐が無いですからあ」

 山野紀子は背を向けたまま手を振って返事をする。

「分かってるわよ。それじゃ」

 彼女は人ごみの中へと歩いていった。

 春木陽香は上司の背中を暫らく見送った後、国税庁ビルの方へと足を進めた。

 春木の後ろ姿を、通りの向こうに停めた青いバイクのライダーがじっと見ていた。




 二〇三八年八月七日 土曜日


                 1

 春木陽香は、大きなをボストン・バッグを両手で重そうに提げて、山野のマンションの廊下を歩いていた。リビングに入り、足下にバッグを置く。

 カウンターキッチンの中から山野紀子が春木に言った。

「ごめんね。手伝わせちゃって」

「いえ。気にしないで下さい。これ、中の洗濯物は出しておきますね」

 山野紀子はお盆に乗せたコーヒーカップを運びながら言った。

「ああ、いいわ。置いといて。まあ、こっちに来て、コーヒーでも飲んで」

「いえ、お気遣い無く」

 山野紀子はコーヒーが注がれたカップをテーブルの上に置きながら言う。

「気を遣うわよ。せっかく退院祝いで来てくれたのに、真ちゃんの荷物を運ばせちゃったんだから。ほんとに、ごめんね」

 春木陽香は顔の前で手を振った。

「いえ、いいんですって。神作キャップのことですから、きっと職場に直行するだろうとは思っていましたので。そのつもりでした」

 山野紀子は呆れ顔で言った。

「ほんとに、あいつは何を考えてるのやら」

 憂えた顔で春木陽香が尋ねる。

「左手の骨、まだ繋がってないんですよね」

 山野紀子は椅子に腰を下ろしながら、静かに答えた。

「うん。ちゃんと治ってからでいいのにね。馬鹿よね」

 春木陽香は笑って見せて、言った。

「男の意地って奴ですよ。きっと」

 微笑んで返した山野紀子は、自分のコーヒーカップを持ち上げると、コーヒーを一口飲んで言った。

「真ちゃんって、ああいう所は変わらないのよねえ。困ったものねえ」

 春木陽香は神作真哉のことをよく知ってはいたが、先日聞いた大学時代の話を思い出して、いっそうに納得した。神作真哉とは、そういう男だ。ニヤリとしながら深く頷いた彼女は、山野に言った。

「神作キャップらしいですね。素敵です」

 山野紀子は顔の前で手を一振りして言った。

「恰好つけてるだけよ。今度言っとくわ。まあ、喜ばないだろうけど。表面上は」

 少し笑った春木陽香は、今度は廊下の方をチラリと見てから尋ねた。

「それより、朝美ちゃんは? 車の中でも、ずっと黙ってましたけど……」

 山野紀子は菓子器に盛ったスナック菓子を一つ手に取って答えた。

「よっぽどショックだったのね。樺太から帰って来たら、パパが包帯グルグルで入院だもんね」

「自分の部屋ですか」

 山野紀子は再びスナック菓子に手を伸ばしながら頷く。

「うん。帰ってくるなり、部屋に直行」

 春木陽香は朝美の部屋の方を覗きながら言った。

「見てきましょうか。反省授業になったこととか、神作キャップの釣竿のこととか、いろいろ重ねて考えちゃったんじゃないでしょうか」

「放っときなさい。そんなに繊細じゃないわよ。お腹が空いたら、出てくるんだから」

 山野紀子は、またスナック菓子を口の中に放り込んだ。

 春木陽香は眉を寄せて言う。

「いや……でも……」

 彼女は椅子から腰を上げた。

「ちょっと心配なんで、見てきますね」

 春木陽香は廊下の方に歩いていく。


 朝美の部屋の前で立ち止まった春木陽香は、部屋のドアを軽くノックした。

「朝美ちゃん。大丈夫? コーヒーが入ったよ。一緒にどう?」

 返事が無い。

 春木陽香は、そっとドアを開けてみた。

「朝美ちゃん、入るよ」

 部屋の中は散らかっている。ダンボールや色画用紙の切れ端、ガムテープ、はさみ、正体不明のガラクタ、色鉛筆、読み捨てた古い紙製のマンガ雑誌に、ロボットのプラモデルなどが散乱していた。思春期の女子の部屋とは思えない景色に、春木陽香は唖然とする。

 足下に転がっていた筒状の物につまづいた。側面にグリップとボタンが付いている。手製の大砲だろう。

 春木陽香は首を傾げて、部屋の奥に目を遣った。

 ベッドの上で、黒いランニングシャツを着た山野朝美が、こちらに背を向けて胡座あぐらをかいている。背中にはお菓子の空筒を斜めに背負い、下は迷彩柄のズボン。彼女は後頭部で結んだ赤い鉢巻の両端を握り、それをゆっくりと左右に引いて絞めていた。

 春木陽香は慎重に尋ねる。

「――なに……やってるの」

 山野朝美は背を向けたまま、無言でゆっくりと左手を上げた。伸ばした左手の先には弓が握られている。顔を左に向けた山野朝美は、右手で弦を引いて、その張り具合を確かめた。そして、静かに言う。

「女には、やらねばならない時がある」

「えっと……何を、やるつもりかな」

 山野朝美は、背中のお菓子の空筒から引き出した矢を弓に交えて、弦と一緒に引きながら、ゆっくりと語る。

「戦い。それは呪われた宿命。そして、復讐……」

 春木陽香は瞬きしていた。我に帰り、言う。

「いや……いやいや、よく意味わかんないし。それに、弓と矢は必要ないと思うよ」

 背中の筒に矢を仕舞った山野朝美は、ベッドの上に立ち上がって言った。

「昔の映画で見た、筋肉モリモリでソバージュ頭のおじさんは、弓矢とナイフだけで戦闘ヘリと戦ってた。いける」

 山野朝美は、しっかりと頷く。

 春木陽香は言った。

「ど、どこに。ていうか、戦闘ヘリも、変なおじさんも、出てこないと思うよ」

 ダンボールにアルミ箔を巻いたナイフらしき物を腰の鞘に入れる山野朝美。

「おのれ、よくもパパを。億乃目組か!」

 春木陽香は必死に手を振って言った。

「違う、違う。絶対に違うよ、朝美ちゃん。それは駄目」

 玩具のマシンガンを手に持った山野朝美は、それを右手に構えて、そのマシンガンから垂れている作り物の弾帯を左手で支えながら、ポーズを取った。

「ふー! ならば司時空庁か! ふー! ふー!」

 春木陽香は困惑しながら言った。

「あの……いろいろ、話がややこしくなるからさ。もう、止めとこうよ。とりあえず、いろいろなことは時吉先生に任せて、朝美ちゃんは裁判を……」

 ベッドから飛び降りた山野朝美は、前転しながら春木の横を通り、ドアの前まで移動した。マシンガンを放り投げ、床から手製のバズーカ砲を拾った彼女は、ドアを背にして右足を立ててしゃがみ、玩具のバズーカ砲を肩に載せて構えると、言った。

「誰であろうと、大事なパパを傷つける奴はこのウチが絶対に許さん! コイツをぶっ放してやるぜ。にににに……」

 砲筒に顔を添えて狙いを定めた山野朝美は、ゆっくりと、そのバズーカ砲の先端を春木の方に向ける。

 春木陽香は手で顔をかばって逃げながら言った。

「ちょ、危ない。それ、絶対に何か飛んでくるでしょ! なんか、中に白いのが見えてるし!」

 山野朝美は春木に狙いを定めたまま言う。

「こうなりゃ八つ当たりじゃ。悪く思うな虹パンよ。発射! あ痛っ!」

 頭を押さえてうずくまる朝美の後ろに、玩具の刀を振り上げた山野紀子が立っていた。朝美の足下には、何かを飛ばした後の玩具のバズーカ砲が転がっている。

 山野紀子が怒鳴る。

「何やってるの! あんたは、ほんとに、もう! もう一度、樺太に行きたいのか」

 朝美は振り向いて言った。

「いや、夏休みの実験で作った新型兵器の試し撃ちを……痛っ」

 朝美にもう一撃食らわした山野紀子は、朝美に言った。

「いいから、部屋を片付けなさい! その戦闘服も着替える! 弓と矢は没収!」

 矢を入れたお菓子の筒と手作りの弓を山野紀子が取り上げる。

 一方、春木陽香はベッドの上に力なく腰掛けていた。彼女は頭の上に乗ったモノを摘み上げ、それを見た。

「ギョゲッ。靴下。く、臭い……最悪……」

 朝美の汚れた靴下を遠ざけて持ったまま、春木陽香は鼻を摘まんだ。




 二〇三八年八月十二日 木曜日


                  1

 狭い法廷の傍聴席は人いきれで窮屈だ。少ない数の傍聴席のほとんどは背広姿の男たちで埋められている。最前列の隅の椅子に春木陽香と神作真哉が並んで座っていた。傍聴椅子の上で両足をプラプラと前後させている春木陽香。頭に包帯を巻いた神作真哉は前の柵に届いた足を組み、三角巾で首から吊ったキプスの左手の肘を椅子の肘掛に乗せて背もたれに深く身を倒している。二人の背後の席はスーツ姿の司時空庁職員で埋められていた。奥の方に腕組みをした男が左右の席を空けて座っている。彼は厳しい視線を原告席に向けていた。

 原告席には、相変わらず派手なチェックの背広を着た弁護士の時吉浩一、中学校の制服である黄色いブレザーを着た山野朝美、普段どおりシックなスーツを着こなしている雑誌編集長の山野紀子が座っている。

 大人に挟まれて座っている山野朝美は机の上に大きな骨を乗せ、その上を小骨でリズムよく叩いていた。

 時吉浩一が咳払いをすると、山野紀子がファイルで朝美を叩いた。

 頭を押さえた朝美が紀子を見て言う。

「いったあ。ママ、ここ、裁判所だよ。暴力は……」

 山野紀子は前を向いて姿勢を正したまま、声を潜めて言った。

「いいから、発掘した骨は仕舞いなさい。必要ない」

「でも、せっかくだから、由紀に見せないと」

「後で見せればいいの。仕舞いなさい」

 朝美は渋々、足下に置いた四角い紺色のリュックに、その骨を仕舞った。

 背広姿の永山哲也と、朝美と揃いの中学の制服を着た永山由紀、少し派手なスーツを着た永山祥子が入廷してきた。三人は並んで被告席に座る。

 朝美が原告席から由紀に大きく手を振った。由紀も朝美に手を振る。紀子は机の上で小さく祥子に手を振った。祥子が軽く会釈をする。山野紀子は短くウインクして見せた。

 壇上の扉が開き、法衣をまとった白髪の判事と若い裁判所書記官が入ってきた。

「起立」

 廷吏の掛け声に廷内の全員が起立し、壇上に一礼する。廷吏は手許の文書を大きな声で読み上げた。

「新首都第一簡易裁判所、事件番号二〇三八年、ハ、第……」

 廷吏が事件番号を読み上げている間に、立ち上がっていた人々が椅子に腰を下ろす。廷吏は読み続けた。

「原告、山野朝美。同法定代理人山野紀子。被告永山由紀。同法定代理人永山哲也、同永山祥子。不法行為損害賠償金請求事件」

 文書を読み終えた廷吏が端の席に座ると、判事席の前方の一段下にある席に座っている裁判所書記官が後ろを向き、判事に文書とMBCを渡した。それを受け取った判事はMBCを自分の机の上に設置された端末に挿し込む。机上のモニターを確認し終えた判事は、書類を捲り少し読み返した後、永山哲也の顔を見ながらマイクに口を近づけた。

「ええ、被告は、訴訟代理人の弁護士あるいは認定司法書士を付けないということで、よろしかったですね」

「はい」

 永山哲也がはっきりと即答すると、判事は頷いた。

「分かりました。確認ですが、原告の主張については、すべて否認または不知ですね」

 永山哲也は明確に返答した。

「はい。提出した答弁書に記載した通りです」

 判事は再び頷いてから、永山に再度尋ねた。

「原告側から証人申請がされていますが、異議がありますか」

 永山哲也は首を横に振った後、明言する。

「いいえ。ありません」

 判事は書類に視線を落として言った。

「そうですか。では、当法廷は簡易裁判ですので、さっそく、本日、証人尋問を実施することになりますが、原告代理人、証人は」

 傍聴席に一度顔を向けた時吉浩一は、再び判事の方を向いて答えた。

「いらしています」

 判事は背筋を正して言った。

「争点も整理されていますので、これより尋問を開始します。証人は前へ」

 傍聴席で三人分の席を陣取り、その中央に座っていた男が、ゆっくりと立ち上がる。彼は悠然と前に歩いてきた。腰高の柵の入り口の前に立ったが、簡単に開けられる柵戸を自分では開けない。傍聴席から背広の男が近寄り、柵を開ける。一礼して法廷内に入った男は、中央に置かれた机の所まで進むと、その前に正面を向いて立った。机の上のモニターに表示された宣誓内容を承諾した彼は、少し背を曲げて机上のマイクに口を近づけ、小声でそれを棒読みする。そして、横の指紋読取機に親指を入れ、反対の手の人差し指で証言台のモニターの承諾ボタンに触れた。正面の席で裁判所書記官が机に顔を向けて何かを確認し、振り向いて、判事に形式手続が終了したことを告げる。

 証言台の男を観察していた朝美は、隣の山野紀子に小声で言った。

「ママ。あのおじさん、アゴが割れてるよ。先っぽが、お尻みたいになってる」

 山野紀子は前を見て姿勢を正したまま、声を落として言った。

「シッ。静かにしときなさい」

 壇上から白髪の判事が男を見下ろして言う。

「証人。名前と職業を言って下さい」

 証言台の前に立った男は、太く低い声ではっきりと答えた。

「津田幹雄。司時空庁長官です」

 彼は壇上の判事を挑戦的な目で見据えていた。


 

                 2

 濃紺のスーツに白いワイシャツの津田幹雄は、髪を綺麗に整え、眼鏡を掛け、深紅の無地のネクタイをしている。法廷の中央に置かれた証言台の前で真っ直ぐに正面を向いて直立している彼は、いかにも実直な公務員と言わんばかりに見えた。しかし、その眼鏡の奥には、強圧的で挑戦的な瞳を据えている。

 白髪の判事は、時吉の方を見て言った。

「では、原告代理人。尋問を開始して下さい」

 時吉浩一が立ち上がり、証言台の方を向く。彼は津田に一礼してから言った。

「長官。お忙しいところ、わざわざお呼びたてして、申し訳ございません。では、早速、質問をさせていただきます」

 傍聴席の神作真哉は、小声で隣の春木に言った。

「さて、どう切り出すかな」

 春木陽香も小さな声で言う。

「行けえ、時吉先生」

 時吉浩一は下を向いて机の上の資料に視線を落としながら、尋問を開始した。

「ええ、まず、被告法定代理人の永山哲也氏は、七月二十六日月曜日に帰国して以来、司時空庁により、三日間にわたり計二十四時間の事情聴取を受け、その後も自宅に軟禁状態であると主張されています。そこでなのですが、司時空庁が、永山さん御一家を自宅に軟禁しているというのは、本当でしょうか」

 神作真哉が小さく呟いた。

「いきなりストレートパンチかよ。ジャブで間合いを詰めろよ」

 視線を津田の背中に向けたまま、春木陽香が声を絞って神作に言う。

「ボクシングじゃないんですから」

 津田幹雄は時吉をにらみ付けながら、低い声で言った。

「これは何のつもりだ。裁判所を利用して、私に何かを公言させようという算段かね」

 時吉浩一は津田の顔を見据えて言う。

「私の質問に答えて下さい。軟禁しているのですか。していないのですか」

 津田幹雄は時吉をにらんだまま、激しい口調で言った。

「弁護士管理機構に抗議するぞ。これは行政活動の妨害じゃないか!」

 正面の壇上から白髪の判事が津田に言う。

「証人は質問に答えて下さい」

 津田幹雄は溜め息を吐いてから、ふて腐れたように答えた。

「――いいえ。軟禁など、しておりません」

「そうですか。分かりました」

 そう言った時吉浩一は、判事の方に顔を向けた。

「判事、電子証の甲第一号証から第十二号証までの、永山氏自宅周辺のデジタル画像の提示を申し立てます」

 判事が首を縦に振る。

「許可します」

 原告席、被告席の上のモニター、判事と裁判所書記官の机の上のモニター、証言台の上のモニター、そして判事の背後の大型モニターのそれぞれに、同時に同じ画像が表示された。永山の自宅を外から撮影した画像である。時吉浩一が手許のパネルを操作して画像を切り替え、永山の家の玄関が写っている画像を表示させて、その門扉付近を拡大する。胸ポケットから取り出したレーザーポインターで判事の後ろの大型モニターに光を当てながら、時吉浩一はその画像に写っている門の間に張られた赤い光線を示した。

 彼は津田に尋ねる。

「見えますか」

 判事の後ろの大きな画像を見ながら、津田が答える。

「ああ」

 時吉浩一は津田に顔を向けて言った。

「これは、被告の自宅の画像ですが、この赤い線、熱線レーザーですよね」

 津田幹雄は真っ直ぐに前を見たまま白々しく答えた。

「ええ、おそらく。そうかもしれませんな」

 時吉浩一は手許のパネルで画像をスライドさせ、次の画像に変えた。彼は再び判事の背後の大型モニターをレーザーポインターで指しながら言った。

「この通り、自宅の周囲の塀の上にも張られている。高さは、そうですね……地上からですと、四メートルというところでしょうか。これでは、中に入ることも、中から外に出ることも出来ません」

 時吉浩一は更に画像を切り替え、永山の自宅の前に駐車している白いバンや、そこから出てくる人物、路上に立つ人物を写した画像を次々と表示させていった。最後に、門扉の前に立ち塞がり、掌を前に突き出して時吉と裁判所書記官を制止している仲野の画像を表示して、仲野の顔の部分を拡大した。判事も机の上のパネルを覗き込む。

 時吉浩一は津田に確認した。

「これ、おたくの庁の職員さんですよね。右に写っているのが、こちらの裁判所の書記官と私です。一緒に、この裁判の呼び出し状と訴状を届けに被告の家まで行ったのですが、こうして、被告宅の敷地内に入ることを止められました。この人、司時空庁の監視部門の方ですよね」

「……」

 黙っている津田に判事が言う。

「証人、どうなのですか」

 津田幹雄は渋々と答えた。

「はい。確かに、ウチの職員です」

 時吉浩一は言った。

「明確なご回答、有難うございます。もう一つ伺いますが、この職員は何のために、ここに立っていたのですか。他の車の中の職員たちも」

 津田幹雄は少し間を空けてから答えた。

「――来客に注意を促すためですよ。熱線レーザーに触れて、大怪我をするといけませんので」

 時吉浩一が驚いたふりをしてみせて言う。

「大怪我。このレーザーは、そんなに高出力なのですか。それは危ないですね。ですが、それならば、手荷物の検査や身分確認までする必要はないのでは。危ないから下ってくださいとか、レーザーに触らないで下さいと声を掛ければいいだけのことです。なぜ、手荷物検査や身分確認までしているのですか」

「そんなことは……」

 津田の発言を遮って、時吉浩一が言った。

「私と、こちらの裁判所の書記官は、実際にこの画像の通り、訴状を届けるために被告の御宅まで伺っているのですよ。その時も同じでした。根掘り葉掘り、まあ、色々と尋ねられましてねえ。大変でした」

 津田幹雄はしかめた顔で言った。

「それは……警備のためですよ。不審者に対して尋問をするのは当然です」

「手荷物の検査も?」

 時吉の問いかけに、津田幹雄は苛立った顔で答える。

「警備だと言っているだろ。当たり前じゃないか」

 時吉浩一は、また驚いた顔で言う。

「警備。では、被告宅に設置されている、この熱線レーザーや赤外線探知装置、高電圧電子線など、これらの設備は、すべて、被告たちを警護するのが目的だと」

 津田幹雄が頷く。

「そうです」

「理由は?」

「……」

 時吉からの間髪を容れない質問に、津田幹雄は声を呑んだ。

 時吉浩一は追撃する。

「警備の理由です。理由も無く警備するのですか」

 津田幹雄は胸を張り、正面を向いて堂々と答えた。

「永山氏は海外から、非常に貴重な科学情報を国内に持ち込みました。だから、第三者から命を狙われる惧れもある。国家として国民を保護するのは当然じゃないか」

 津田幹雄は時吉を指差してにらみ付けた。

 時吉浩一は、津田の顔を真っ直ぐに見たまま、冷静に尋ねた。

「それは、永山哲也氏のことですね」

 手を下ろした津田幹雄は、再び正面を向いて答えた。

「そうだ。だから司時空庁が彼と、彼の家族を保護している。それの何処が悪い」

 時吉浩一は困惑した顔をして見せて、言った。

「どうも、この訴訟の構造をご理解されていないようですね。いいですか、原告の山野朝美氏は、被告の永山由紀氏から適当な宿題のコピーを渡されて、それをいつもどおり学校に提出したために、学校から樺太まで、ええと……『反省授業』とかで送られて、化石の発掘作業をさせられたのですよ」

 時吉浩一は、頬を膨らませて笑いを堪えている朝美の顔の前に手を出して、小声で言った。

「ああ、さっきの骨、出して」

 机の下に屈んだ朝美は、慌ててリュックから一番大きな骨を出すと、時吉に渡した。

 津田の顔を見たまま朝美から骨を受け取った時吉浩一は、その思いのほか太く重い骨を二度見してから、その骨を持ち上げ、それで津田を指した。

 弁護士時吉浩一は、古代生物の太い骨を振りながら言う。

「原告は現地で子供のマンモスの大腿骨を発見したそうです。こんな物を掘り出させるなんて、相当に過酷な労働だ。そんな過酷な労働を、被告から渡された宿題データが原因で強いられることとなったのです。だから原告は、いい加減な宿題のコピーを渡して原告を樺太送りの目に遭わせた被告に対し、その渡航に掛かった費用の返還と、慰謝料の支払いを求めているのですよ。損害の賠償金として」

 津田幹雄は時吉に視線を向けずに、呆れたように答えた。

「そんなことは、知っている」

 時吉浩一はマンモスの骨で自分の肩を叩きながら言う。

「ほう、なぜ知っているのです? あなたを証人申請したのは、原告代理人の私ですよ。あなたには裁判所から証人としての呼出状が届いたでしょうが、私は、あなたに、訴状も被告からの答弁書もお渡ししていない。『証人』は訴訟の進行内容に関わらず、自分が体験した事、見聞きした事を法廷で有りのままに正直に話してくれさえすれば、それでいいからです。あなたは訴状も見ていないはずなのに、どうしてこの裁判の内容をご存知なのですか。被告から見せられたのですか」

「いいや」

「では、どのようにして、この訴訟の内容を知ったのです? まさか、裁判所の職員から聞いたのですか。だとすると、事は深刻ですが……」

 そう言って、時吉浩一は判事の方を見た。その前で若い裁判所書記官が慌てている。裁判所内部から裁判資料やその内容が漏洩したとなれば、いかにそれが簡易裁判所といえども、時吉の言うとおり大事だからである。

 白髪の判事は深刻な顔で津田に問う。

「証人、どうなのですか。当事者の主張内容を知っている理由は」

 津田幹雄は困惑した顔で答えた。

「いや……私の思い違いでした。訂正します。訴訟の内容については、今、初めて知りました」

 時吉浩一は、それを淡々と受け流した。津田が政治権力を使って情報を収集したことは予想が付いていた。しかし、時吉浩一は論点をずらしたりしない。彼は言った。

「そうですか。まあ、いいでしょう。話を続けます。ともかく、こちらが被告に請求した損賠賠償に対して、被告は、自分たちには非が無かったと、答弁書で反論してきました。ご存知だろうとは思いますが、不法行為による損害賠償義務の発生要件は、故意または過失です。通常なら、原告と綿密に打ち合わせて原告用にカスタマイズして提出していたはずの宿題を、原告と打ち合わせることも出来ないまま、単に被告が解答したものをそのまま原告に渡したのは、原告をおとしめる意図ではなく、そうせざるを得なかったからだと、被告は言っているのです。あなたたちの『警備』で、被告が外部の者との接触を断たれていたから。つまり、自分には故意も過失も無い、そう主張しているのですよ」

 時吉浩一は少し間を空けてから、発言を続けた。

「私は原告の訴訟代理人です。被告側からそのような主張がなされれば、その真偽を確かめなければならない。だから、証人として、あなたをお呼びしたのです」

 時吉浩一はマンモスの骨の先で津田を指すと、それを下ろして、朝美に返した。

 傍聴席の春木陽香が神作に小声で尋ねた。

「こっちのペースに引き込もうとしているんですかね」

 神作真哉が春木の耳元で答えた。

「そう簡単にいく相手じゃねえよ」

 時吉浩一は机に両手をつくと、下を向いて言った。

「ま、私としては、そのような事実は無かったと、あなたに証言していただきたかったのですが、実際に『警備』なさっているとの証言ですから、仕方ありませんな。質問を次に移しましょう」

 顔を上げた時吉浩一は、次の尋問を始めた。

「あなたは先程、永山哲也氏が貴重な科学情報を国内に持ち込んだので、彼と彼の家族を保護するために、自宅を『警備』していると仰った」

 津田幹雄は大きな声で答えた。

「ああ、そうだ」

 時吉浩一は淡々と尋問を続ける。

「永山哲也氏を『警備』されるのは分かりますが、その配偶者の永山祥子氏や、子の永山由紀氏まで『警備』するというのは、何か特別な理由でも?」

 立って尋問している時吉の隣で、座っている制服姿の山野朝美が口に手を当てて忍び笑いをした。

「くくく。『由紀氏』だって。くくく」

 その隣の山野紀子が声を殺して叱る。

「静かに」

 津田幹雄は低い声で落ち着いて答えた。

「重要な情報を握っている人間は、その家族を狙われて脅されることだって有る。それを避けるためだ」

 時吉浩一は大袈裟に頷きながら言った。

「なるほど。そうすると、それは、情報を知っている人間の家族を襲ってまでも手に入れる価値があるほど、重要な情報なのですね。ですが、それならば、家族全員を、居宅ごと外部との接触を断つという状況にする必要までは無いのでは」

 津田幹雄は前を見たまま答えた。

「永山一人の周りを固めれば、同居している人間も必然的に同じ状況になる」

「んー。やむを得ないことだと」

「そうだ。多少の不便は我慢してもらうしかない」

 時吉浩一は向かいに座る永山一家を手で指して言った。

「被告も、いい加減な宿題のコピーを、いい加減な方法で原告に渡したのは、やむを得なかったと言っているのですがね、果たして、そうなのでしょうか」

 津田幹雄は無表情のまま鼻で笑って、言った。

「知らんよ。中学生の宿題など」

 時吉浩一は続ける。

「被告は、あなた方の『警備』が厳し過ぎて、やむを得なかった、だから、過失は無いと主張しているのです。あなた方の『警備』が無ければ、原告と十分な打ち合わせをして、適切な形で宿題のコピーを渡せたはずだと。そこでまた確認なのですが、あなた方は、彼らの承諾も無く、彼らの家を『警備』しているのですか」

 傍聴席の春木陽香が隣の神作に言った。

「宿題は自分でやらないと駄目ですよね」

 神作真哉がしかめて言う。

「今は、そういう問題じゃないだろ」

 証言台の津田幹雄は、時吉の方に顔を向けて、語気を強めた。

「特定国家機密指定法第十三条の情報保護措置として、法に定められた当該情報についての所管官庁である司時空庁が実施しているのだ。これは行政の強制処分だ。情報保有者の承諾は必要ない」

 時吉浩一は津田の顔を見て尋ねる。

「司時空庁が所管しておられる情報と言うことは、タイムトラベルに関する科学技術情報ですよね」

 津田幹雄は判事である裁判官の顔を見て言った。

「証言を拒否する。特定国家機密については、証言の義務は無い」

 傍聴席の神作真哉が、眉間に縦皺を刻んで言った。

「伝家の宝刀を抜きやがったか。どうする、ジュニア……」

 春木陽香は胸の前で拳を握り、声を殺して叫ぶ。

「時吉先生え、頑張れえ」

 壇上から白髪の判事が言った。

「認めます。原告は質問を変更してください」

 時吉浩一は頷いた。

「分かりました。では……。ええ……」

 時吉浩一は机の上で資料の紙を幾つも捲る。

 傍聴席の春木陽香は潜めた声でエールを送った。

「行け行け時吉。ゴーゴー時吉」

 隣で神作真哉が呆れた顔で言う。

「チアリーダーかよ」

 そして、机の上で書類の頁を捲っている時吉に厳しい視線を送りながら、呟いた。

「さてジュニア、どうするつもりだ」

 時吉浩一は頁を捲る手をピタリと止めて、顔を上げた。彼は、こちらを見てニヤニヤしていた津田の目を見て、滔滔と論じ始めた。

「その特定国家機密指定法の第十三条。条文には、情報保護措置の対象者は、『指定機密情報保有者』と記載されていますよね。二条の総則規定によれば、第二項第十一号で『情報保有者』とは『同法第七条の手続によって指定された機密情報を保持する者』と規定されている。と。本件の場合、『指定機密情報』をのは、永山哲也氏のみなのでは。祥子氏は普通の主婦、由紀氏は中学生。タイムトラベルに関する高度な科学技術情報などは何も持ち合わせてはいない。違いますか」

 津田幹雄は一蹴した。

「だから言っただろう。永山を保護すれば、その家族も影響は受けると」

 時吉浩一は言った。

「では、情報保護措置の対象者は、あくまで永山哲也氏お一人であることを、お認めになるのですね」

「ああ、そうだよ」

 顎を触りながらそう答えた津田を、時吉浩一はすぐに問い詰めた。

「それなら、被告や、被告の法定代理人である永山祥子氏が申し出れば、いつでも、彼女たちは自由に外出することが出来たり、外部とコンタクトを自由に取ることは出来た訳ですね。それなのに、申し出なかったと」

 津田幹雄は少し考えたが、すぐに永山たちの方に顔を向けて怒鳴った。

「誘導尋問だろ。どうして被告は異議を述べないんだ」

 壇上の判事が原告の尋問事項に対する回答を津田に求めた。

「被告たちの意思で、警備状況から脱することはできたのですか」

 津田幹雄は判事の方に顔を向けて、にらみ付けながら言った。

「裁判所もグルか」

 白髪の判事は、津田の目を見据えて言った。

「証人は口を慎むように。ここは法廷ですよ」

 津田幹雄は横を向くと、鼻で笑って言った。

「簡易裁判所じゃないか」

 時吉浩一が真顔で津田に指摘した。

「簡易裁判所も立派な法廷です。お望みなら、地方裁判所への移送申請をして、もう一度最初からやり直してもいいですが。ここより多くの傍聴人が入れる広い法廷で。被告も応じてくれると思いますがね」

 時吉浩一が永山哲也に視線を向けると、永山哲也は大きく頷いた。

 それを見た津田幹雄は、少し困惑した顔で下唇を噛んでいたが、やがて、苛立ったように時吉や判事を指差しながら、声を荒げた。

「君たちは分かっているのか。これは国家の安寧を揺るがす情報なのだぞ。ASKITアスキットは陰で、この国を乗っ取ろうと画策している。彼の握っている情報を、奴らは欲しがっているのかもしれんのだぞ!」

 彼は最後に永山哲也を指差した。

 傍聴席が大きく騒めいた。

 春木陽香が神作の顔を見て言う。

「アスキットって、何ですか」

 神作真哉は騒つきに乗じて、春木に早口で説明した。

「アルファベットでA、S、K、I、T。Assemblage of Knowledge・Intelligence・Technology、知識と情報と科学技術の集合体を謳っている、正体不明の国際秘密結社だ。しかし、実体は単なる特許マフィアだとも言われている。世界中の最先端技術の特許を掌握していて、それをチラつかせて、陰で先進諸外国の内政にも干渉し続けているという噂もある連中だ」

「日本にもですか」

 驚いた顔で尋ねる春木に、神作真哉はぶっきら棒に答えた。

「分からん。今の政権は、かなり警戒しているようだ。だが、NNJ社やNNC社はその傘下なのではないかということは、随分前から噂されていた。ただの都市伝説だと思っていたが、くそっ、こんな所でASKITアスキットの話が出てくるとは……」

 春木陽香は津田の背中を見ながら呟いた。

「国際秘密結社……」

 判事がマイクに口を近づけて言う。

「静粛に。傍聴人は静粛に願います」

 廷内の騒つきが沈んだ。

 時吉浩一は尋問を続ける。

「個人的には、そのASKITについて、もう少し詳しくお聞きしたいところですがね。しかし、この事件の論点とは関係が無いので、省きます。この法廷での争点ははっきりしています。たった一つ。それは、被告側に過失があったか否かです」

 指を立ててそう言った時吉浩一は、続けて津田に質問した。

「もう一度、お尋ねします。永山祥子氏と永山由紀氏が、自発的に司時空庁に申し出さえすれば、あなた方の『警備』から解放されるのですね。それとも、それでも尚、彼女たちの『警備』を継続する法的な根拠があるのですか」

 津田幹雄は黙っている。

 判事が津田に言った。

「証人。原告代理人の質問に答えて下さい。あなたは原告側の証人として呼ばれているのですよ」

 津田幹雄はマイクに口を近づけて、渋々と不機嫌そうに答えた。

「法的な根拠はありません。従って、彼女たちの申し出があれば、警備を継続することはできません」

 山野紀子は机の下で小さくガッツポーズをしながら、声を殺して言った。

「イェス! やった」

 津田幹雄は姿勢を正すと、更に証言を続けた。

「――しかし、永山哲也氏は『指定機密情報保有者』に該当する以上、彼の警備は必要であり、可能であると考えます。とするならば、彼を危険から守るために、そのご家族、特に同居されているご家族については、やはり、永山哲也氏の警備の一環として、今後も、継続的に保護と観察を続けていく必要があると考えます」

「そんなあ……」

 肩を落とす母の様子を見ていた朝美は、小声で呟いた。

「よく分かんないけど、ほっぺ膨らましとこ。ブー」

 頬を膨らましている朝美を見て、向かいの被告席の由紀も頬を膨らませた。それを見て、隣の祥子も眉間に皺を寄せる。しかし、内容がよく解らなかったので、首も傾げた。

 傍聴席から津田の背中に向けて、神作真哉が大声で叫んだ。

「ふざけんな。詭弁じゃねえか。拡大解釈で、法文に記載されていない人間にまで強制保護措置を広げようっていうのか」

 白髪の判事が厳しい顔を神作に向けて、大きな声で言った。

「傍聴人はご静粛に。退廷を命じますよ」

 神作真哉は不満顔で口を閉じる。

 神作から視線を戻した時吉浩一は、すぐに尋問を継続させた。

「分かりました。法的解釈の是非については、最高裁での判例に委ねるとして、あなた方司時空庁としては、そのようなおつもりであると。つまり、今後も被告たちの『警備』は継続すると」

 津田幹雄は当然のような顔をして答えた。

「そうだ。そうなる」

 時吉浩一は津田を見据えて諭すように言った。

「しかし、お尋ねしている論点と違うのですよ。私が証言していただきたいのは、過去の話でしてね。これまでは、どうだったのですか。この点を伺いたいのです」

 津田幹雄は時吉に顔を向けずに答えた。

「これまでも同じだ。仮に、警備を拒否する旨の申し出があったとしても、彼女たちを警備対象から除外する訳にはいかん。いずれにしても、永山哲也と共に警備対象の範囲に入れなければならんからな」

 時吉浩一は法廷の高い天井を向いて言った。

「でしょうなあ。本法廷を境に、行政の行動に違いが生じてはなりませんからな。法的安定性を害する。――ま、とにかく司時空庁としては、永山哲也氏を保護する一環として、これまでも、これからも、ご家族も警備すると……」

 津田幹雄は時吉の発言の途中から、苛立ったように判事に食って掛かった。

「いつまで、こんな茶番劇を続けるつもりだ。私は司時空庁長官だぞ。簡易裁判所などで油を売っている暇は無い。今は国家の一大事なんだ。簡裁判事、いい加減にしてくれないか。もっと尋問事項を整理して、手早く終えるように指示したらどうだ」

 白髪の判事は壇上から証人を見下ろし、その目を見据えたまま静かに言った。

「それは、本法廷の訴訟指揮権を有している私に対するご指示ですか」

「あ、いや……それは……」

 津田幹雄は返答に窮した。彼が立たされているのは「裁判所」の証言台に他ならない。ここでは彼は、ただの証人である。法廷の訴訟指揮権は判事たる「裁判官」にあった。それが国家の統治構造の縮図であることを、行政長官である津田幹雄は熟知していた。

 判事は時吉の方に顔を向けると、彼にも言った。

「原告代理人。証人は国家行政官庁の長たる人間です。多忙であるのも事実でしょう。質問は完結に整理してするよう努力してください」

「はい。心得ました」

 素直に頭を下げた時吉浩一は、顔を上げて津田の方を向くと、再び尋問を始めた。

「では、お忙しいようなので、次の質問に移ります。あなた方は永山哲也氏を警護し、その目的のために、つまり哲也氏の安全のために、被告と祥子氏も警備対象に加えているということですが、もし、永山哲也氏があなた方の警備の範囲から脱したら、どうなりますか。つまり、例えば、永山哲也氏が行方不明となった場合は」

「そんなことは有り得ん」

「どうしてです? 命を狙われるほど重要な情報を持っているのですよね。もしかしたら何者かが自宅を襲撃して、彼を連れ去るかもしれない。その場合の話ですよ」

「だから、有り得んと言っているだろう! 我々の警備体制は万全だ。設備も最新鋭の機材を使っている。実に馬鹿げた質問だ」

「もしも、永山哲也氏について、あなた方の把握が及ばない状態になった時、残された被告由紀氏と被告代理人祥子氏の『警備』は継続されるのか、ということをお訊きしているのです」

 津田幹雄は舌打ちして吐き捨てるように言った。

「――だから、何なんだ。仮定の話に答えられるか」

「どうして」

「それは……その……仮定は、仮の話だからだろう」

 少々狼狽している津田の背中を見ながら、春木陽香が小声で言った。

「シドロモドロですね」

 神作真哉も小声で呟く。

「コーナーに追い詰めたか。あとは、一気にラッシュだな」

 時吉浩一は、尋問に答えない津田に助け舟を出すかのように、尋問趣旨を噛み砕いて説明し始めた。

「被告らが、努力義務を果たしているかを確かめたいのですよ。永山哲也氏が行方をくらませば、つまり、あの家から出て、あなた方の前から姿を消せば、彼女たちの『警備』が停止するということならば、彼女たちは、永山哲也氏が家から脱出することを手助けすることで、自分たちが『警備』から解放されるように事を運ぶことも出来たはずなのです。それをしていないのなら、それは懈怠、つまり『過失』と言えるかもしれない。少なくとも、可能性は出てきます。私は原告の代理人として被告の『過失』を立証しなければならないのでね。やむを得なかったという被告側の主張を排除しなければならない。そのための質問です。――もう一度訊きます。永山哲也氏の行方を見失えば、あなた方は由紀氏と祥子氏の『警護』を続けることが出来ますか」

 津田幹雄はふて腐れたように、仕方なし気に答えた。

「事実上は可能ですが、法的には根拠を失いますな。保護すべき本人が居ないのなら」

 そして、小声で漏らした。

「――これでいいんだろう。早く終わらせてくれ」

 時吉浩一は頷いて言う。

「そうでしょうね。では、別の観点から。もし、そうなった場合に、あなた方に永山哲也氏を捜索したり、逮捕する権限がありますか」

 津田幹雄は顔を紅潮させて時吉を指差しながら、再び苛立ちをぶつけた。

「それが、何の関係があるんだ、この裁判と。たかが、中学生が宿題をカンニングしたことで課外授業に送られたという話だろ。国家の安寧秩序を担う省庁の長を呼び出してまでする話か。馬鹿馬鹿しくて、話に……」

「成長期の多感な時期の中学生が、夏休みに家の中に閉じ込められたまま、クラブ活動に汗を流すことも、友達と遊ぶことも、プールに行くことも、図書館に本を借りに行くことも出来ずに、大人の監視の目に囲まれて、狭い自分の部屋の中だけで、中学時代最後の夏を過ごそうとしている。ネットも電話も盗聴されていて、プライバシーも無い。何の罪も無い少女が、『無辜むこの国民』が、国家権力によって事実上、監禁されているのですよ。重大な人権侵害です。それは、私に言わせれば、大臣クラスの人間を証人に呼び出してもいい程に十分な理由ですよ。まして、それより下級の長官クラスなら、なお更だ。この国はいつからファシズム国家になったんだ。国家の安寧ですと? 一家族の幸せも実現できない行政に、国家の安寧秩序の実現など出来るか!」

 時吉浩一の腹の底から押し出された大きな声が廷内に響き渡った。狭い法廷内に静寂が走る。圧倒された津田幹雄は黙っている。傍聴席では時吉の大声に驚いた春木陽香が目をパチクリとさせていた。山野紀子が娘と共に時吉を凝視している。被告席の永山哲也も傍聴席の神作真哉も、時吉の顔をじっと見ていた。

 時吉浩一は穏やかな口調に戻して言った。

「……というのが、私の個人的な見解ではありますが、今は被告の過失を立証して、賠償金を取り立てるのが私の目的です。さあ、質問に答えて下さい。永山哲也氏があなた方の把握から外れた場合、彼を追跡し、探索し、逮捕する権限はありますか」

 津田幹雄は歯軋りをしながら黙っている。

 壇上から判事が津田に言った。

「証人、答えて下さい」

 津田幹雄は強く握った拳を震わせながら、頬を引き攣らせて口を開いた。

「相当範囲なら、追跡は可能でしょう。しかし、完全に追跡を脱した後は、その後に捜査や探索、逮捕などをする権限までは、我々は有していません」

 時吉浩一は、津田が話し終わるとすぐに発言した。

「分かりました。つまり、彼らが本気になれば、あなた方からの拘束から脱する術は有ったということですね。哲也氏をどこかに逃がしさえすれば、由紀氏は自由になれた訳ですから。被告らはそれを怠っていた訳ですな。有難うございます。実に有益な証言でした。裁判長、以上です」

 時吉浩一は壇上に向かって、晴れ晴れとした顔でそう言ってから、椅子に座った。

 判事は永山哲也に顔を向けると、彼に尋ねた。

「被告側は、反対尋問がありますか」

 永山哲也は立ち上がり、表情を変えずに答えた。

「いえ、特にありません。長官も、お忙しいようですので」

「貴様……」

 津田幹雄は歯軋りしながら、証言台から永山をにらみ付ける。

 白髪の判事は淡々と訴訟進行を指揮した。

「分かりました。では、以上で人証の証拠調べを終わります。証人は、お疲れ様でした。退廷されても結構です」

 津田幹雄は顔を真っ赤にして周囲を見回しながら、怒りをぶちまけた。

「不愉快だ。いったい、この裁判は何なんだ。たかが中学生の四、五日の遠征費に、多少の額が上乗せされただけじゃないか。白々しく裁判など起こしやがって。必ず問題にしてやるからな。覚えておけ!」

 そう吐き捨てて、背中を向けて歩いていった津田幹雄は、傍聴席の背広の男が開けた柵の出口から退廷し、肩を怒らせて傍聴椅子の間を通っていった。そのまま、荒っぽくドアを開けて廊下へと出ていく。彼が激しく閉めたドアの音が廷内に響いた。

 壇上から白髪の判事が左右を見ながら尋ねた。

「原告、被告、双方とも、主張は出し尽くしていますね」

 時吉浩一が答える。

「はい」

 永山哲也も黙って首を縦に振った。

 白髪の判事は机上の訴訟資料のファイルを閉じると、姿勢を正して言った。

「では、午後に判決を言い渡します。口頭弁論はこれにて終結。それでは、閉廷します」

 傍聴席が一気に騒つき、椅子から腰を上げた背広姿の男たちが、それぞれに伸びをしたり、出口へ移動したりし始めた。

 壇上の裁判官席から立ち上がった白髪の判事は、原告席の隅で鞄に資料を仕舞っていた時吉に声を掛けた。

「ああ、時吉先生、どうしますか、待たれますか。それでしたら、私も急ぎますけど」

 時吉浩一は鞄にファイルを入れていた手を一瞬止めて判事の顔を見たが、鞄のチャックを閉めると、再び判事に視線を戻して言った。

「私は事務所がそこですから、一旦戻って、午後にもう一度伺いますが、被告は自宅が北園町ですので、被告に合わせて下さい。出入りも大変な状況でしょうから」

 時吉浩一は、傍聴席に残って永山たち三人から目を離さずにいる背広姿の司時空庁職員たちを軽く指差した。それを見た判事は、憐憫れんびんの眼差しを由紀たちに向けて、言った。

「そうですか……」

 そして、壇上から永山哲也に声をかけた。

「永山さん、判決は夕方になりますが、それまで待っていてもらえますか。時吉先生、弁護士組合さんの控え室を一部屋空けて貰ってもいいですかね」

 時吉浩一は、少し驚いたような顔で答えた。

「ええ。私から連絡は入れておきます」

 白髪の判事は、被告席に座っている制服姿の少女にも声をかけた。

「由紀さん、地下のレストランはエレベーターを出て二番目のお店のランチセットが美味しいですよ。地下街の奥の方には文具店と本屋さんも入ってますから、足を運ばれてみたら。まあ、専門書ばかりですけどね。でも、あらゆる分野の本がありますから、一度覗いてみたらいい。きっと、面白い本にも出会えます。あ、中庭には遊歩道もありますから、せっかくだから散策でもされたらどうですか。結構ちゃんとしたコースになってますからね。ああ、そうだ、奥さん、地下の左側の列にある喫茶店のアイスコーヒー、あれはお勧めです。法曹仲間でも美味いと評判だ。ね、時吉先生」

 時吉浩一は判事がそう話している間、判事の顔をじっと見ていたが、判事がこちらを向くと、深々と頭を下げた。

 白髪の判事は時吉浩一と永山哲也の顔を交互に見ながら言った。

「じゃあ、今日中に書きますから、ご迷惑を掛けますが、永山さんたちは裁判所内でお待ち下さい。できるだけ、頑張って急ぎますが、私も午後の訟廷の予定がありますから、遅くなるかもしれません。あまり期待はしないで下さい。仕事が早い方ではないので。いやあ、申し訳ない」

 判事は白髪の頭を掻いた。

 時吉浩一が判事の気遣いに頭を下げた。

「畏れ入ります」

 白髪の判事は笑みを見せると、漆黒の法衣を翻して法廷を後にした。永山哲也と永山祥子は、その背中に向けて深く頭を下げた。

 山野朝美は原告席の机を駆けて回ると、法廷の中央まで駆け寄り、同じく被告席から駆けてきた永山由紀とハイタッチした。

「イッイェーイ。おっひさー。元気だった? 由紀い」

「イェーイのお久しドンブリ、プチ天丼。ノープロブレム。めちゃ元気い」

「これ、見てみ。マンモスの骨。見つけてしもた」

「すっげえー。本物だ。うちの腕より太い。すっげえー」

 揃いの黄色いブレザーを着た原告と被告は、法廷の中央で楽しそうに会話していた。



                  3

 新首都裁判所の敷地には、地方裁判所、簡易裁判所、家庭裁判所が集約された合同庁舎と、高等裁判所、最高裁判所が建っている。三つの巨大な建物は幾つもの渡り廊下で結ばれ、中央に広い中庭を囲んでいた。野球場ほどの広さの中庭には、緑豊かな庭園が設けられ、遊歩道も整備されている。昼休みになると、運動不足気味の裁判所職員たちが、その遊歩道でジョギングしたり、ウォーキングをしたりする。合同庁舎の地下にはレストラン街や書店、コンビニ、宅配事業所、郵便局、託児所、クリニックなどがあり、裁判所利用者の大概の不便を解消できるようになっていた。

 春木たち一行は、その地下街にある、判事が勧めた「アイスコーヒーが美味い喫茶店」で昼食を取ることにした。

 四角いテーブルに山野紀子と永山祥子が並んで座り、その向かいに、山野の元夫と祥子の現夫が座っている。隣の四角いテーブルには、山野の側に春木が座り、向かいに由紀と朝美が仲良く並んで座っていた。

 山野紀子は和風パスタを持ち上げながら言った。

「ホントに、ごめんなさいね。急に訴状が届いて、びっくりしたでしょう」

 永山祥子は、たらこパスタの上でフォークを回しながら答えた。

「いいえ。主人が大丈夫だって言ってましたから。それに、山野さんのことも信用していましたし」

 向かいの永山哲也がカレーを食べながら言った。

「よく言うよ。慌てふためいていたくせに」

 隣の神作真哉がフォークを握った手で店内の奥を指差しながら言った。

「聞こえるぞ。まだ、監視中みたいだからな」

 奥の隅の席では、背広姿の仲野と仲島と仲町が、こちらを気にしながらカルボナーラを食べていた。いつもの司時空庁の監視班の三人である。

 永山祥子が頬に手を添えながら、心配そうな顔で言う。

「でも、裁判は、あれで良かったのかしら。内容がよく分からなかったのですけど」

 山野紀子が小声で隣の祥子に言った。

「結局、時吉弁護士は、そちらの過失を証明するという名目で、司時空庁の監視が、あなたたちの申し出と哲ちゃんの自主的行動によれば解除可能なものだということを、津田長官に証言させたのよ。証人尋問調書は公的な記録でしょ。これで津田長官は、言ったことを覆せなくなったわけ。もし、違うことをすれば、嘘を証言したことになるし、そうなれば、偽証罪に問われちゃうから」

 山野紀子はパスタを口に運んだ。

 永山祥子は、たらこパスタを絡めたフォークを少し持ち上げたまま呟いた。

「なるほど……――?」

 一度首を傾げた永山祥子は、たらこパスタを口に入れた。

 永山哲也がテーブル越しに、春木に言った。

「ああ、ハルハル。チョコバナナ・アイス、ありがとな。助かったよ」

 レタスパスタを頬張っていた春木陽香は、慌てて答えた。

「――んあ、いいえ」

 和風パスタを咀嚼しながら、神作真哉が横を向いて永山に尋ねた。

「食ったか?」

 永山哲也はカレーをすくいながら言った。

「今夜、帰ってから食べます。風呂上りが暑いんで」

 神作真哉はフォークの先を永山に向けながら言った。

「うん。それがいい。美味いぞ、あれ」

 山野紀子はフォークを握った手をテーブルの上に置いて、言った。

「それにしても、ハルハルの言ったとおり、トッキージュニアに頼んで正解だったわね。彼、なかなかやるわ」

 顔を上げた春木が山野を見た。

「トッキージュニア? ――ああ、時吉先生ですね。トッキージュニアか……」

 春木陽香はレタスパスタを再び食べ始めた。

 ステーキピラフを食べていた朝美が言う。

「トッキー。くくく。うける」

 同じくステーキピラフを食べている由紀も言った。

「プロレスラーぽくね? 『ハデセビロ・トッキー・ジュニア』とか」

「くくく、すげー弱そ。くくくく」

 永山祥子が一番隅に座っている由紀に言った。

「由紀。助けてもらえるかもしれない方なのよ。そんな……」

「祥子」

 彼女の少し大きな声に、向かいの永山哲也が釘を刺した。

 神作真哉が言う。

「でも、まあ、確かに凄腕だな。あの切り替えし。津田も、そこそこの切れ者だが、ジュニアの方が一枚上手って感じだったな」

 山野紀子がフォークの先で神作を指しながら言う。

「なに他人事みたいなことを言ってるのよ。自分の娘が原告だったのよ。本来なら、哲ちゃんみたいに、一緒に座るべきでしょうが。のんびりと傍聴席なんかに座って」

「仕方ないだろ。この状況なんだから」

 神作真哉はキプスをした左腕を持ち上げて見せた。

 山野紀子は納得しない。

「関係ないでしょ。横に座ってるだけじゃないよ」

「今の俺と、おまえが並んで座ったら、どんだけ激しい夫婦喧嘩をしたんだと思われるだろ。ていうか、お前の人格が疑われるぞ。――まあ、あながち間違ってはいないけどな」

 山野紀子はふて腐れて言った。

「ああ、そうですか。それに、そもそも真ちゃんには親権が無いしね」

 神作真哉がフォークの先を山野の前に何度も出して言う。

「お前が渡さないからだろうが。だから、前の通り、共同親権にしておけばよかったんだよ。その方が朝美のためだって言ったろ」

 隣の朝美がスプーンを咥えたまま顔を上げて、言った。

「ん、パパ。何か言った?」

 神作真哉はしょうゆ味のパスタをフォークに絡めながら答えた。

「ん、いや。大人の事情だ。気にするな」

 朝美が由紀の方を向いて言う。

「だとよ、被告」

 由紀が水を飲んでから答える。

「そうか、原告」

 向かいの春木陽香が心配そうな顔で言った。

「まさか、今度からそれで呼び合うつもりじゃ……。やめた方がいいよ。友達が減るよ」

 朝美が由紀に言った。

「じゃあ、由紀氏。次から、これで行こうかの」

 由紀が答える。

然様さようじゃな、朝美氏。わははは」

 春木陽香は呆れ顔で呟いた。

「侍か」

 永山哲也が祥子に言った。

「まあ、とにかくあの判事さんがこうして時間を作ってくれたようなものだから、判決の言い渡しがされるまで、暫く裁判所内でもブラブラしていよう。これだけ広い建物だから運動にもなるだろ。裁判所の建物から出なければいいわけだから。――そうですよねえ」

 永山哲也は店の奥の仲野たちに聞こえるように大きな声でそう言った。仲野たち三人は、聞き耳を立てながら、知らぬふりをしてカルボナーラを啜っている。

 和風パスタを食べ終わった神作真哉が、爪楊枝を咥えながら隣のテーブルに言った。

「ま、朝美も由紀ちゃんも、こんなことでもないと、裁判所の中なんて来ることはないだろうからな。夏休みの社会科見学だと思って、色々見て来いよ。刑事裁判の傍聴とか、結構リアルだぞ」

 向かいの山野紀子がフォークを握った手を止めて、顔を上げた。

「あのね、結構リアルも何も、ガチじゃない。――あ、そうだ。上で、一般人向けの講座みたいなのをやってたわよ。『市民のための裁判教室』とかいうの。それ、見てきたら」

 朝美が目を輝かして言った。

「マジ。行く行く。ね、由紀氏」

「そうじゃの。行くとするかの。あ、虹パンお姉ちゃんも一緒に行こうよ」

 神作真哉が口の爪楊枝を動かしながら、娘の様子を見て言った。

「意外と朝美が食いついたか……」

 春木陽香は必死に二人の中学生に言っている。

「だから、その呼び方を定着させないで。お願いだから」

 山野紀子が横から言った。

「ハルハルは駄目よ。お仕事中なの」

 隣から永山祥子が言う。

「じゃあ、私が。主人と、もしもの事になった時に、役に立つでしょうから」

「おいおい」

 永山哲也が焦っていると、朝美が独りで頷きながら言った。

「ウチはもう一度原告になって、あの宇宙人の忘れ物を取り返さないといけないからね。よし、しっかり聞いてこよう」

 山野紀子が呆れ顔で言った。

「あんた、まだ言ってるの」

 神作真哉が隣から朝美に面白半分に尋ねた。

「どんな石だったんだよ。お前が地中から見つけたやつは」

 朝美は上を向いて思い出しながら答えた。

「ええと、こう四角くて、緑色って言うか、青って言うか、少しだけ透き通ってて、日光に当てたら、こう、光がパアって広がって……」

「どうせ、割れた酒瓶の底のガラスか何かだろ」

 相手にしない父親に朝美は必死に訴えた。

「違うもん。見たこと無い文字が刻まれてたもん」

 山野紀子がフォークにパスタを絡めながら言う。

「ロシア文字は見たこと無いでしょ」

 由紀が朝美に加勢した。

「でも、モスクア何とかアカデミーって所が持って行ったんでしょ。やっぱ、絶対そうだよ。宇宙人の物だよ」

 春木陽香が、からかうように言った。

「いつか朝美ちゃんちに、UFOが迎えに来るかもよ」

 朝美は真剣な顔をして言う。

「むむ。それは想定外だった。今夜から、ちゃんと窓際に頭を向けて寝るとしよう。体重も考えとかないといけないかな。太らないようにしないと……」

 山野紀子がパスタを食べながら言った。

「あんたが頭に描いてるのは『UFOキャッチャー』でしょ。そんなことを考えてる暇があったら、宿題を自分でやりなさい。根本的な問題は、そこなんだからね」

 朝美は口を尖らせて言った。

「ほーい」

 そして、隣の由紀に言う。

「でも由紀氏。ウチ、つくづく思ったよ。やっぱ、勉強も大事だね。樺太で宇宙人の落し物を見つけた時も、周りの人が言ってたことがさっぱり分かんなかったもんね。『カラット』とか、『トロイポン』とか、変な宇宙語ばっかり。これからは、宇宙語も知っとかなきゃなあ」

 カレーをすくうスプーンを止めて、永山哲也が顔を上げた。

「ん? 朝美ちゃん、今、カラットって言ったかな」

 朝美は横に向けた顔をテーブルの上に出して、永山に答えた。

「はい。周りのオジサンたちが、『何とかカラット、カラット、ぼにゅぼにょぼにょ』って。あと、『トロイポン、トロイポン』って。あれ、絶対に宇宙語やね」

 春木陽香が、フォークを止めたまま、ゆっくりと朝美に尋ねた。

「それ、トロイポンじゃなくて、『トロイ・ポンド』じゃないかな」

 朝美はピラフの横のポテトサラダを食べながら答えた。

「かも知れませんな。パクッ」

 フォークを皿の上に置いた山野紀子が咳払いをしてから、改めて朝美に尋ねた。

「――あの、あんたが見つけた『石らしき物』は、どのくらいの大きさだったのかしら」

 朝美はテーブルの上を見回した。

「ええと……あ、このコップより少し大きいくらいかな」

「何色だった?」

 春木陽香が尋ねると、朝美は面倒くさそうに答えた。

「だから、青っていうか、緑っていうか、すごい綺麗だったって言ったじゃん。こう、透き通っていて……」

 永山祥子が山野の前に顔を出して、春木に尋ねた。

「あの、どうしたんです、みなさん」

 春木陽香も山野の前に顔を出して、小声で祥子に伝えた。

「朝美ちゃんが見つけたのって、多分、何かの宝石の原石だと思うんです。カラットって宝石の単位ですし、トロイ・ポンドも、ヨーロッパの貴金属関係の取引で使われる質量単位ですから。それも、大きな」

 神作真哉が爪楊枝を皿の上に放り投げて言った。

「紀子、ロシア大使館と連絡はつくか」

 山野紀子は残りのパスタを一気にかき込むと、咀嚼しながら答えた。

「つかなくても、つける。モスクア何とかアカデミーね。よし」

 朝美が蘇った記憶を報告した。

「あ、そうだ。『すふぃあ、すふぃあ』って言ってた。あれ、スフィア星人のものかな」

 永山哲也が神作に小声で言った。

「サファイアですかね。だとすると、今はかなり希少な鉱物ですから、高いですよ。高級クルーザーが数隻は買えますね。新築マンションも、ビル丸ごととか」

「どっちも要らんが、俺の釣竿は確実に買えるな。よし、仕事は今日で辞めだ。全員でロシアに乗り込むぞ。石は見つけた朝美の物だもんな。裁判を起こして取り返そう」

 山野紀子が口を拭きながら言う。

「なんなら時吉弁護士も連れて行こうか。その方が……」

 永山祥子が由紀に言った。

「由紀。せっかく裁判所に来てるんだから、あんた今日から山野さんちの養子になりなさい。朝美ちゃんとは一生仲良くするのよ」

 春木陽香は眉間を摘まみながら呟いた。

「この人たちは……まったく」

 大人たちがそわそわとする横で、朝美と由紀はデザートのプリンを熱心に食べていた。



                  4

 簡易裁判所の法廷はLED型の蛍光灯で照らされていた。外は日が沈み暮れなずんでいる。傍聴席には、春木と神作のほか、相変わらず大勢の司時空庁職員たちが椅子に腰を下ろしていた。

 原告席と被告席には、それぞれ、午前中の口頭弁論の時と同じように、時吉浩一と山野朝美、山野紀子、そして、永山家の三人が座っている。

 白髪の判事が裁判所書記官の一段上の席で淡々と判決理由を読み上げていた。

「――であるから、仮に証人の証言内容を採用するとしても、被告に故意および過失は認められない。従って、原告の主張に理由は無い。よって、原告の請求を棄却する。以上」

 原告席の山野朝美がガッツポーズをする。

「イェーイ」

 山野紀子が小声で朝美に教えた。

「馬鹿。負けたのよ。敗訴」

「はい、そうですか……って、あれ、負けたの? トッキー」

 山野朝美は目を丸くして隣の時吉の顔を見あげた。

 時吉浩一は顎を掻きながら朝美に言った。

「ごめんね。僕の力不足でした。いやあ、残念」

 山野朝美は口を尖らせて言った。

「なーんだ。――ああ、由紀の奴う」

 向かいの被告席に座っている永山由紀が、頭の上でピースサインをした手を左右に振っている。由紀の頭を祥子が叩く。由紀は下を向いて大人しくした。

 山野朝美が拳を握って言う。

「よし。ええと……コウソじゃ! さっき『市民のための裁判教室』で勉強したコウソとやらを……痛い」

 ファイルで朝美の頭を叩いた山野紀子が言った。

「控訴はしません。裁判は遊びじゃないの。分かった?」

 壇上から白髪の判事が言った。

「原告被告の双方の法定代理人に申し上げます」

 山野紀子と永山祥子、永山哲也が畏まった。

 判事は続ける。

「お子さんの教育は、まず言葉で。いきなりバシッは、いかんですよ」

 山野紀子と永山祥子は小さく頷くと、恥ずかしそうに下を向いた。

 山野朝美が肩を揺らして笑う。

「くくく。怒られてやんの」

 白髪の判事が左右を見て言った。

「原告と被告」

 山野紀子が肘で朝美を突きながら言う。

「ほら、あんたらのことよ」

 姿勢を正した山野朝美と永山由紀は、判事に向かって慌てて敬礼して言った。

「は、はい。原告です」

「ひ、被告でございます」

 白髪の判事は笑みを見せて二人の訴訟当事者に訓示した。

「これからも仲良くして下さい。せっかく時吉先生がすばらしい訴訟書面を作ってくれたのですから。先生、どちらも良くできていました。――では」

 椅子から腰を上げた白髪の判事は、その日の閉鎖時刻ぎりぎりになって開廷された判決言い渡しのための法廷から去っていった。その背中に時吉浩一は改めて頭を下げた。

 山野紀子が椅子から立ち上がる途中で、時吉に頭を近づけて、小声で言った。

「答弁書をMBCに入れて哲ちゃんに渡していたこと、バレていたみたいですね」

 時吉浩一は椅子から立ち上がりながら、山野に言った。

「そりゃ、そうですよ」

 山野紀子は不安そうな顔で時吉に尋ねた。

「弁護士管理機構で問題になったりしませんの?」

 時吉浩一は鞄に資料を仕舞いながら答えた。

「なった時は、なった時でしょ。仕方ありません」

 向こう側から永山哲也が歩み寄ってきた。

「先生。お疲れ様でした」

 時吉浩一は顔を上げて永山の方を向く。すると、その前を背広姿の男たちの背中が塞いだ。司時空庁職員の仲野と仲島と仲町である。永山哲也の前に立ちはだかった彼らは、そのまま彼を取り囲んだ。仲野が永山哲也に言う。

「永山さん、では、帰りましょうか。護送車が待機しています。どうぞ、こちらへ」

 永山哲也が振り返ると、由紀と祥子が他の司時空庁職員たちに連れられて、法廷から外に出て行こうとしていた。由紀が寂しそうな目で朝美に小さく手を振っている。朝美も手を振って返した。

 二人が部屋から出て行くと、山野朝美は憤慨して言った。

「あれじゃ、まるで犯罪者じゃん。由紀は、なーんも悪いことしてないのに」

 時吉浩一が朝美の方を向いて深く頷いてみせた。

 永山哲也は腰に手を当てて項垂れると、溜め息を吐いて、仲野たちについて行った。

 山野朝美が大きな声で言う。

「おじさん。夏休み中に、絶対に遊びに行くからね。由紀にも言っておいて」

 振り向いた永山哲也は、笑顔で頷いて見せると、仲野たちに囲まれたまま法廷から出ていった。

 時吉浩一は立って鞄を提げたまま、彼らを最後まで目で追っていたが、腕時計に目を遣ると、山野に言った。

「では、私はこれで」

 山野紀子が御辞儀をしながら言った。

「本当に、いろいろ有難うございました。改めてお礼に……」

 時吉浩一は片方の目を瞑ってみせて、山野に小声で言った。

「まだ、これからでしょ」

 山野紀子が黙って頷く。

 時吉浩一は、傍聴席の神作と春木に軽く一礼してから、足早に法廷を去っていった。

 朝美を連れて法廷の低い柵の扉から傍聴席の方に出てきた山野紀子に、春木と神作が近寄ってきた。

 神作真哉が法廷を見渡しながら山野に言う。

「ま、一応ここまでは、予定通りか」

「そうね。ここからね。ハルハル、手配は出来た?」

 春木陽香が親指を立てて見せる。

「はい。バッチリです」

 キョロキョロと大人たちの顔を見上げている山野朝美を連れて、記者たちは誰も居ない法廷から去っていった。


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