『理想のコイビト』
吹井賢(ふくいけん)
『理想のコイビト』
中学の放課後には、どうでもいい会話ばかりが響き渡る。
「英語のテスト、チョーむずくなかった?」「体育教師のアイツ、生徒と付き合ってたことあるんだってよ。気持ち悪!」「これからカラオケ行く奴挙手―!」「ダッル、今日はお母さんの手伝いしないと」「おい、竹部。部活始まんぞ」―――。
……嫌になる。
どうでもいい人達の、どうでもいい会話。中身のない、うわべだけの関係性のクラスメイトが話す、中身のない、意味のない会話。本当にうんざりする。
幸いなのは、誰も私のことを気にしない、ということ。
私はいないのと同じように扱われていて、必要がなければ、誰も話し掛けてこない。
無視されているわけじゃない。いじめられているわけじゃない。
このクラスの誰もが、私に興味がないだけだ。
私も誰にも興味がないから、お相子だけど。
「…………」
だから私は、黙って鞄にノートと筆記用具を詰め込んで、さっさと教室を後にする。
賑やかさの残るクラスに未練はない。
私がいたいのは、彼の隣だけだから。
彼はいつものベンチに腰掛けて、私を待っていた。
「おかえり。今日の学校はどうだった?」
優しい声音で、穏やかに微笑んでくる彼。それだけで心の奥が温かくなって、幸せになってしまう。その横顔はモデルのように整っていて、服装も私と違って垢抜けている。
勿論、見た目で彼を選んだわけじゃないけれど、私は彼の優しい性格と同じくらい、彼の微笑む様が好きだった。
「……いつもと同じだったよ」
隣に腰掛けてそう応じると、彼は、そっか、とまた笑って、私の頭を撫でてくれる。
私は彼に撫でられるのが大好きだった。
彼と付き合うようになってから、撫でられても困らない髪型に変えたくらいに。
「僕は、ユウちゃんが無事に帰ってきてくれただけで嬉しいよ」
私の住むマンションの屋上庭園。
そこが二人の秘密の場所だった。
私達は毎日、こうして会っている。
……中学に入学した頃はこうじゃなかった。私だって、友達を作ろうと努力したし、クラスに馴染もうと工夫していた。
でも、ダメだった。
元々奥手で、空気も読めず、流行りにも疎かった私は、すぐに周囲から取り残された。最初の頃は、寂しくて、情けなくて、毎日のように泣いていたと思う。
せめて、同じ小学校出身の友達がいれば良かったのだけど、数少ない友達はクラス分けで別になってしまった。今ではたまに遊ぶくらい。
彼、アイ君が私の元に現れたのは、その頃のこと。
私達はすぐに付き合うようになった。
それからの私の一日は幸せそのものだ。
だって、どんなに辛いことがあっても、アイ君が慰めてくれるから。
「……ねえ、アイ君」
私は彼の肩に頭を預け、訊ねる。
「どうしたの、ユウちゃん」
「……こんなこと訊くと、面倒くさい女だって思うかもしれないけど……。私のこと、本当に好き?」
彼はフッと笑うと、私を抱き寄せ、
「当たり前だろ。大好きだよ」
と、囁いてくれる。
耳元がくすぐったくて、恥ずかしい。でも、嬉しい。
「本当に、本当?」
「うん。本当に、本当」
そうして彼は言ってくれるのだ。
「だってユウちゃんは、僕の理想の恋人だから」
理想の恋人だから。
それが彼の決まり文句だった。
お世辞と分かっていても私は嬉しくて、いつも照れてしまう。
「私、ブサイクだよ? お化粧だって下手だし」
「そんなことないよ。二重の瞼は可愛いし、顔は小さくて、目は大きくて、とっても綺麗だ。僕の好みだよ」
「最近、ちょっと太っちゃったよ?」
「女の子は体重を気にし過ぎなんだよ。ちゃんと食べて、元気でいてね」
「勉強だってできないよ?」
「教えることはできないけれど、隣にいてあげるよ。一緒にやろう?」
アイ君は、私のことを『理想の恋人』と言ってくれる。
でも、それは私の方が言うべきことだろう。
こんなに尽くしてくれる彼氏なんて、他にいるがわけないから。
「アイ君」
「なあに、ユウちゃん」
「アイ君だって、私の理想の恋人、だよ」
いつもありがとう。
そう言って、私は目を閉じる。
彼は全てを察して、私を抱き寄せて、キスしてくれる。
……うん。
これで明日も、頑張れそうだ。
どうしてそんな質問が出てきたのか、会話の流れを全く聞いていなかったから分からないんだけど、ある時突然、クラスの男子からこんなことを問い掛けられた。
「そう言えばさー、お前って、彼氏とかいんの?」
「え?」
「いやだから、彼氏いるのかなって」
いないなら今度のカラオケに女子側として来て欲しいんだけど、と続ける。
……なるほど。
要するに、女の子が足りないから、数合わせがいる、ってことか。
「……何日?」
「次の土曜の昼間。恋人いねーなら、良かったら、」
「ごめん、その日は用事があるから」
男子は少しばかり残念そうな顔をして、「あっそ」と呟いた。
興味がなくても、行っておくべきだったかもしれない。行かないにしても、もっと丁寧に断るべきだったかもしれない。そんな後悔が胸の中で渦を巻く。
けれど、その不安はすぐに晴れた。
だって私にはアイ君がいるから。
他の男子なんていらない。彼さえいればいい。
だって彼は、私の理想の恋人だから。
今日は両親の帰りが遅く、自分でご飯を作らないといけない日だった。
お高めのマンションに住んでいる代償、とでも言うべきなのか、私の両親は共働きで、とても多忙な人達だ。
それを寂しいと思っていたこともあったけれど、今は感謝している。
だって、パパやママがいなければ、アイ君を呼べるから。
自宅に戻ると、アイ君がソファーに座っていた。
「おかえり、ユウちゃん」
「ただいま、アイ君。ごめん、夕飯の準備をしないといけないから、ちょっと待って」
「うん、いいよ。でも、その前に、」
と、立ち上がって私の方に来ると、ぎゅっと強く抱き締めてくる。
「おかえりの、ぎゅー」
あんまりにも幸せで、私は力が抜けてしまって、その場にへたり込んでしまう。「大丈夫?」。彼の言葉には笑顔で返す。
「大丈夫。ちょっと、幸せ過ぎちゃっただけ」
「そっか」
なら良かった、と微笑む彼。
本当に好きだなあと実感する。
「じゃあご飯作るし、待っていてね」
「うん」
簡単にできる野菜炒めと卵焼きを作って、食事を済ませる。
その後はずっと、アイ君との時間。
彼に膝枕をしてもらって、頭を撫でてもらう。
世界で一番幸せな時間だ。
「今日は何かあった?」
「うん。クラスの男子に、カラオケに誘われた。合コン、みたいな……」
「そうなんだ。行くの?」
「行くわけないよ! 私にはアイ君がいるのに!」
身体を起こしてそう叫ぶと、何故か彼は少し寂しげに、「そうだね」と応じて、「ありがとう」と続けた。
「でも、浮気は嫌だけど、友達と遊ぶくらいは良いんじゃないの?」
「うーん……。でも、アイ君と過ごす時間の方が大事だよ」
そっか。
彼は短く答える。
私は言った。
「だってアイ君は、私の理想の恋人だから」
何かが起こった、というわけではなく、たまたまだと思うのだけど、その数日後にもクラスメイトから話し掛けられた。私としてはかなり珍しい出来事だ。
「ねえ、ちょっといいかな?」
「……なに?」
眼鏡を掛けた女子は、暫し悩んだ末、直球で行くことを決めたらしい。
「部活入ってないでしょ? なら、ミステリ研究会に入らない?」
「ミステリ研究会……? どうして、私が?」
彼女は言った。
「あなたって、休み時間、いつも推理小説読んでいるし。この間はクリスティーの『そして誰もいなくなった』だっだよね」
正直、私はかなり驚いた。
私みたいな人間を見ている人がいたことに。
そして、少しばかり……。ううん、かなり、嬉しかった。
「だから、良かったら一緒にミステリを読んで、オススメし合ったりできたらなー、って」
「……部活って、毎日あるの?」
私は訊いた。
「まあ、一応ね。あ、忙しかったらたまに来るだけでも大丈夫だよ!」
「忙しい、わけじゃないけれど……」
アイ君と会う時間が減ってしまう。
そんな不安がある一方、何故か、その方が良い気もして。
どうして、「会う時間を減らした方が良い」と思ったのか分からないけれど、とにかくその時の私は、そう思ってしまった。
だから私はこう言った。
「……少し、考えてもいい?」
眼鏡のクラスメイトは満面の笑みで応じた。
「勿論! ミステリ研究会はいつでも部員募集中だよ!」
庭園のベンチに二人で腰掛ける。
アイ君は、何も言わない。
私の心情が分かっているかのように。
「……ねえ、アイ君」
「なに、ユウちゃん?」
私は顔を伏せ、訊ねる。
「アイ君は、私のことを、理想の恋人だ、って言ってくれるよね」
「うん」
「私もアイ君のことを、理想の恋人だ、って思っていた」
「……うん」
彼は。
もう全て、分かってしまっているようだった。
……いや、違う。
分かってしまったのは、私自身。
私が分かったからこそ、彼も分かってくれたのだ。
だって彼は、私の理想の恋人、なのだから。
「……でも、違ったんだね。アイ君は、私の理想の恋人じゃなかった」
それも少しばかり、違うだろうか。
彼は確かに、私の理想の恋人だった。
そう。
でも、彼は。
「でも……。アイ君は、本当はいないんだよね……?」
私しかアイ君を知らなかったのも。
私が「彼氏がいる」とはっきり言えなかったのも。
勉強を教えることはしてくれなかったのも
私の部屋の中にいつの間にかアイ君がいたのも。
優しいアイ君が料理を作ることだけは手伝ってくれなかったのも。
それは全部、『アイ君』という存在が、私の想像上の存在であるから。
実在しない相手との会話。
理想の恋人を作り出した私の、一人遊び。
「気付いちゃったんだね」
アイ君は。
見たこともないくらい、悲しそうな顔をしていて。
でも、何処か嬉しそうでもあった。
「……そうだよ。僕は、君の想像の中の存在。最初からこの世には存在しない。黙っていて、ごめん」
「謝らないで、アイ君」
私はその言葉を口にしようとして、その瞬間、自分の両目から大粒の涙が零れていることに気が付いた。
想像の相手なのに、馬鹿みたいだ。頭の中の冷静な部分がそう囁く一方で、「誰がなんと言おうと、アイ君はここにいる。私を支えていてくれたんだ」という思いもあって。
言葉にできない様々な感情が綯い交ぜになって。
とても話せそうになくて。
でも、言わないといけないことがある。
「アイ君はさ……。ずっと、私を支えていてくれたよね……?」
「……うん……」
寂しい時は傍にいてくれた。
辛い時は慰めてくれた。
そして、自分に依存し過ぎないように、それとなく、周囲と関わるように勧めていてくれた。
「もう、会えなくなっちゃう?」
「……そうだね。多分、もう二度と」
そんなアイ君と会えなくなるなんて、私は。
でも、私は行かないといけないのだと思う。
殻の中に閉じこもって、空想上の恋人と過ごすのではなく。
一人からでも良いから友達を作って、色んな人と関わって、現実を一生懸命生きないといけないのだと思う。
……どうしてだろう。
それは最初から、分かっていた気がする。
だから、私の誰にも言えない恋は、これで終わりなのだ。
「ねえ、ユウちゃん」
声を掛けてくる彼の姿は、もう見えない。
寂しい。苦しい。辛い。
でも、受け入れないといけないことなのだろう。
「なに、アイ君?」
「そんな風に前に進める君はさ……。やっぱり、素敵な人だよ」
―――『僕の理想の恋人だった』。
その言葉を残して、私の恋人は消え去った。
けれども、私は彼と過ごした日々を忘れない。
彼のくれた温もりを忘れない。
たとえ全てが空想上のものだとしても、助けられたことは事実だから。
彼が好きだと言ってくれた私。
『理想の恋人』として恥ずかしくないように、生きていこうと思った。
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