密かな幸せ

 驚いて振り返った先に、庭の、まだ淡い紅葉を背に微笑む、ひとりの姫の姿があった。


 ひとすじの乱れもなくくしけずられて、日差しにきらめく小川のように、つやつや流れる黒い髪。高くなってきた陽に透ける、磨き抜かれた珠の肌。金の光が散るような、紅錦くれないにしきの豪奢な着物。まるで秋を司る姫神がうつつに降りてきたように、そこだけ空気が違って見えた。


 呆然としたミズキの頭を、後ろから冷たい手が掴んで、勢いよく下に伏せさせた。


「――姫様におかれましては、ご機嫌麗しく」


 そして自分もまた礼を取ったらしい同行の女符術師の、淡々と応じる声が、すぐ斜め後ろから聞こえた。


「お騒がせして申し訳ありません。姫様方がお心安くお過ごしいただけるよう、見回りを行っております」

「ありがとう、とっても心強い。……そちらの方は? 初めましてよね?」


 無邪気な好奇心にはずむ、鈴の声音が問いかけてくる。対して、答える女符術師の声は、抑揚なく硬いままだった。


「私同様、符術師寮の術師でございます。姫様に名を差し上げるほどの者ではございません」

「でも」

大臣おとどにお叱りを受けてしまいます」

「まあ、それはいけないわね。……じゃあせめて、お顔を見せて?」


 逡巡するように、ミズキの頭を押さえている、冷たく乾いた手の力がゆるんだ。やがてそろりとどかされたので、ミズキはどうしたものかと戸惑った。低く、仰せの通りに、とささやかれて、おずおずと顔を上げた。

 上げたといっても、中腰のままわずかに、だ。けれどそれでちょうど、花のように微笑むかんばせと、目が合った。


 濡れたような無邪気な瞳が、ひどく嬉しげに細められた。


「こんにちは。いつも守ってくださってありがとう。これからもよろしくね?」


 ――それまでのミズキには、夢中になれるものはなかった。

 必死になれるものもなかった。

 ただ定められた道を順当に無味乾燥に、まっすぐ進んできただけだった。

 それは今後もなんら変わりないはずで、けれどそのとき、姫と視線が合った瞬間。にわかに胸に火が灯り、周囲の景色が淡く色づいた。


「……もったいない、お言葉でございます……」


 動揺を隠すため、必要以上に深く頭を垂れた。鼓動がどくどくと鳴っているのが、やたらうるさく耳についた。


 ――どうしてだろう。

 なんとなく、泣きたいような気がした。




「のぼせるなよ。いつものことだ」


 姫が立ち去ってから、低い声がかけられた。


「……いつも?」


 どうにか平静を取り繕い、振り返って見た女符術師の顔は冷めていた。その目はミズキを見てはおらず、姫の去った方角を、まるで睨みつけるようにしていた。


「あの方はいつ誰に対しても友好的だ。敵意や悪意というものをご存じない」


 たびたび呪詛が仕掛けられる屋敷の姫とは思えないほどにな、と、女符術師は皮肉に口の端をゆがめた。


「基本的に貴族の姫は自室から出ないものだというのに、あの方はまったく自由奔放。屋敷の中ならどこにだって現れるし、だれもそれを本心からは咎めない。むしろ使用人などは、よく自分ごときのところまでおいでくださったと、明らかな喜色を浮かべる始末。それでよけいにひどくなる」


 困ったものだ、と女符術師がため息をつくのを聞きながら、いいことじゃないかと、ミズキは内心思っていた。

 特別に向けられる情などいらない。ミズキは特別になれる人間ではないから。

 出仕してわかった。かつて祖父が見込みがあると褒めてくれた自分は結局、その年にしては飲み込みが早く聞き分けのいい子どもだったというだけで、目立つ才など何もない、凡百のうちのひとりにすぎなかった。


 この頃ミズキの同期の中にはすでに、都に従う周辺の里へ、近隣の妖に対処するべく派遣された者もいた。それが将来有望とみなされた者たちであり、妖退治の経験を積ませるための出向なのだと、周囲の話からわかった。ミズキがその選に漏れたことも。

 祖父がどう思うかと、それを考えれば気が滅入ったが、ミズキ自身はその結果を、とくに悔しいとも思えなかった。だってミズキは特別に符術師になりたいわけではなかったし、特別に身を立てたいわけでもなかった。ただ祖父や周囲に怒られなければ、嫌われなければ、それでよかったのだ。


 姫がいつ誰に対しても友好的だというのなら、ミズキがどんな人間であるかにかかわらず、あの笑顔は向けられるということだ。何一つ突出したものも、胸を張れるものもない、取るに足りない有象無象のひとつでも。

 女符術師は釘を刺したのかもしれないが、ミズキにとってその情報は救いだった。


   ◇


 珠姫たまひめと呼ばれるその姫は、ずいぶん人懐こい性分であるらしかった。それに、あらゆる危険から遠ざけるように慈しまれ、思いのままに生きている姫君にしては視線に敏く、遠目にぼんやり見ていると、目が合うことがたびたびあった。焦って顔を伏せる直前、にこりと笑う様子が見えて、思わずミズキは視線を戻す。すると笑顔で手を振られた。


(ど、どうしよう)


 まさか振り返すわけにもいくまいと、呆然と突っ立っている間に、姫は向こうに行ってしまったけれど。

 そろりと胸に手を当てる。常より速く脈打つそこが、じんわり温かい気がした。


 こちらに向けられたものでなくていい。姫の声を聞けるだけで幸せで、姫の姿を一目見られるだけで、その日一日の嫌なことが帳消しになったような気がした。

 ほのかで密かな楽しみだった。

 姫の平穏を守るため、符術師の仕事を頑張ろうと思った。

 姫が住まう花の屋敷に仕掛けられる無粋な呪詛を、姫の知らないところで取り除くたび、少しだけ、自分のことを誇らしく思えた。

 ミズキには特別なことはできないし、特別な人間にもなれないけれど。

 初めて見かけた秋口からずっと、こがらしの吹く寒い日も、雪の積もった底冷えの日も。いつだってほのほのと麗らかな姫のまわりの空気を守る、名もなきひとりでありたかった。


   ◇


 密やかに垣間見るそのとき、姫はいつでも笑っていた。

 この世の中の哀しいこと、苦しいことは何ひとつ知らぬという顔で、巡り来た、暖かな春の陽気の中に、こぼれんばかりに咲く花のように。生きることは幸いなのだと、毎日が明るく楽しいのだと、全身でそう表しながら、なんの憂いもなくきらきらと。

 小指ほどの遠目にも、その姿はこちらが陶然としてしまうほどに楽しそうで、幸せそうで。

 父のあくどい所行も知らずに暢気なことよと、嗤う政敵たちですら、いざ彼女を目の前にすると、ひれ伏すように相好を崩した。

 次期都主みやこぬしの妃とするべく、厳しく教育された姉姫と違って、ただ美しくあればよいと自由に育てられたらしい彼女は、父である花の大臣の栄華の象徴だった。


 蝶よ花よ、この世の春よ。


 いつだってひだまりの中で、可憐に愛らしく笑っている、姫の世界はいつだって春なのだと思った。


 羨ましいとすら思わんな、と、同行の女符術師が言った。あれはもう別世界の存在だ、と。


 ――そう。遙か雲上の、だれも引き下ろすことのできない、苦界に落としてはならない、そんな存在だ。


 ミズキに自覚はなかったが、よほどうっとり見ていたのだろうか。女符術師が苦々しげな声で言った。


「言っておくがな。まちがっても姫とい仲になろうなどと考えるなよ。ただでさえこの屋敷は、花の大臣が男を入れるのを嫌がるために、出入りできる符術師が限られるのだ」

「考えませんよ!」


 そんな滅相もない、と両手を振って否定したミズキを、女符術師は疑わしげに見ていた。


「……おまえは免状を許された符術師直系の孫だから、どうにかこうにかねじ込めたのだ。そんなおまえが姫に色目を使ったとなれば、今度こそ花の大臣は、屋敷内の警備にいっさい男の符術師を使わなくなるだろう。そうなれば私たちの負担が増えるばかり。どうかこのまままじめに働き、問題を起こしてくれるなよ」

「大丈夫、あり得ません。世界が違います」


 きっぱりと、ミズキは言い切った。





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