一  蛇の目の符術師

残り香を乞う

 真っ黒に炭化して、骸と化した香神木こうしんぼくの根元で、昼も夜もなく、嘆き続けた。


 ――ごめんなさい、かえってきて、僕なんていらないから。


 どんな言葉も偽りに思えた。どんな言葉も薄っぺらに響いた。叶うならただ、あの木精の名前だけ呼んでいたかったけれど、呼ぶ名前すら持たなかった。


 そうしてどれだけアララギが胸を掻きむしろうと、あの淡く優しい姿が、淑やかな香りとともに現れることはなかった。鼻をつくのはただ、焼けた臭いだけで。


 ――還ってきて。それが叶わないなら、どうか。


 ――僕もいっしょにつれていって。


 そんな浅ましい願いをかけて、何日経ったかわからない。


「ああ、ご無事でしたか!」


 初めてやしろまで訪ねてきた里長さとおさが、アララギを見て声を上げた。


御神木様おみきさまが燃えたらしいとは聞いておりましたが、なんと恐ろしい……いったい何が……」


 説明できるはずもなかったし、するつもりもなかった。


「いえ、しかし、貴方様だけでもご無事で何よりでした」


 ――どこが。何が、何よりなものか。


 ゆらりと、そこで初めて、あの夜から悲しみ悔いることしかできなかったアララギの内に、わずかに違う色が差した。

 けれどそれがたしかな感情になるより早く、


「どうか里をお守りください。このままでは滅びてしまいます!」


 悲鳴のように、里長が言った。


「今までとは毛色の違う妖どもが攻め寄せてきて……! もう次々に襲われました!」


 妖の勢力図が変わっていた。周辺にいた妖の多くがアララギの禁術に引き寄せられ、香神木こうしんぼくによって消滅したことで、ぽかりと空白になったそこへ、よその妖たちが流れ込んできていた。


 ――ああ、これで。

 ――僕も、あなたのところへいけるかな。


   ◇


 自分の身などかえりみなかった。

 それどころか必要以上に、肉を切らせて骨を断った。

 次々刻まれる傷口から、血といっしょに心も流れ出していくようだった。

 恐れはなかった。むしろ安らかな心地だった。

 このまますべてなくなってしまえれば、かの木精と同じところに――。

 そしてふらりとかしいだそのとき。


 ――ふわり。花の香りが漂った。


 かすむ目を、思い切り見開いた。


 見回して、どこにも、あの慕わしい姿はなかった。けれどたしかに、あの香りがアララギを包んでいた。包んで、今まさにアララギを引き裂こうとしていた妖の爪を、煙のように蒸発させた。


(……そんな)


 妖の絶叫が響く中で、


 ――大丈夫よ、と。脳裏にあの夜の、すみれ色の瞳が浮かんだ。


(そんな)


 妖の爪も、毒も。花の香りに阻まれて、アララギには届かなくなった。

 その香りはまぎれもなく、アララギの命に対する守護だった。けれど。


(違う、こんなのは)

(ほしかったのは、これじゃない)


 すべての妖を倒したあと。荒れた地面に座り込んで、胸のあたりを鷲掴んだ。


(これじゃないんだ。……ああ、でも)


 噛みしめるように、目を瞑った。


(あなたはまだ、残っていた――)


   ◇


 それからは、以前に増して増えた妖を、以前以上に苛烈に退け続けた。


 ひとつわかったことがあった。


 花の香りの守護は、アララギが命の危機に瀕したときのみ発動した。


 命がけで戦えば、あの香りを感じることができる。それが愚かなアララギに、唯一残されたよすがだった。

 だから戦った。戦い続けた。

 けれどいつしか、命がけで戦うほどの妖がいなくなっていた。


 そうではなく、自身が強くなったのだと気づいたのは、強い術師がいると噂になっていると、里長が誇らしげに伝えてきたときだった。

 そんな名声に興味はなかった。

 ほしかったのは、命の危機に瀕したときのみ感じられる、香神木の精の面影だけだった。


 かの木精が守ってくれた命を捨てることなどできない。けれど、命の危機に瀕しなければ、木精の面影は感じられない。

 そんな板挟みの中でアララギは、強い相手を欲した。

 よその里のことまで、と止める里長を振り切って、どこそこに強い妖が出たと聞けば、遠方であろうと戦いに出向いた。


 そんなことを繰り返すうち、アララギの噂はどんどん広まっていったらしい。

 ある日里まで訪ねてきたのは、都主みやこぬしの使いを名乗る一団だった。


   ◇


 都主様のお召しです、という使いの言葉に、里長は絶望の色を浮かべたが、逆らうことはしなかった。


 アララギは、出向いた先に強い妖がいるならそれでかまわなかった。香神木の社には後ろ髪を引かれたが、このまま社にいたところで、あの優しい香りに触れる機会は、もう巡ってきそうになかったから。愛しく哀しく、今も生々しく胸をさいなむ炭化した骸を見ているよりも、戦いの中で、淑やかな花の香りに包まれることを望んだ。


 里を出て都へ向かう道中、幾度か小物の妖の、じゃれつくような襲撃を受け、そのすべてをひとりで退けた。ざわめく使いたちの中で、やはり花の香りを感じられぬことに落胆しながら。


 そうして、里を出てから六日目の昼に、一行は都の大門をくぐった。


   ◇


 朱塗りの大門を抜けた先は別世界だった。通りはすべて四角い敷石で舗装され、土の色が見えなかった。大門からまっすぐ奥へ延びる大通りの両脇にはいくつもの商店が軒を連ね、軒先にぎっしり並んだ商品が、陽光にまばゆく輝いていた。荷車と馬が行き合ってもまだ道幅に十分余裕がある通りを、雑多な装いの人々が忙しなくも賑やかに行き交っていた。両脇に並ぶ店の構えは、通りを進むごとに大きく、重厚なものになっていった。


 果てがないかに思えた大通りは、やがて朱い欄干らんかんの太鼓橋に行き着き、その太鼓橋を渡った先に、ちまたと都主の城とを隔てる、巨大な城門がそびえていた。都の大門をくぐった時には高い位置にあった陽は、すでに紅く、西の空へ沈もうとしていた。


 見上げても天辺が見えないほどの城門が、左右に控えた衛士たちの手で厳かに開かれた。


 城門を過ぎ、さらに現れた橋を渡り、迷路のような回廊を抜け、薄暮を灯籠とうろうがぼんやりと照らす、美しく整えられた庭をいくつも通り過ぎ、ようやく、歳月を経た深い色合いの板戸の前で、使いの者が足を止めた。


 板の引き戸が、内側から音もなく開かれた。中では香を焚いているのか、落ち着いた香りが漂ってきた。




 都主は、灯明台とうみょうだいだけが光源の、薄暗い板張りの広間の最奥、御簾みすによって隔てられた、畳の上座に座していた。窺える影と声音からして、小柄な老爺と思われた。

 おだやかな声がどことなく、拾ってくれた老神官に似ていた。


 都にも妖が多く出没する。都に仕える符術師ふじゅつしたちが対処に当たっているものの、後手後手に回っている。里が気になるのなら、老いて城勤めを辞した符術師を代わりに向かわせるから、ぜひとも都に移り住んで、妖の対処に力を貸してくれないかと請われた。


「老いたとはいえ、かつては都の最前線で戦っていた符術師だ。かならず、そなたの里を守ってくれよう」


 そう言った都主に、アララギは尋ねた。


 都には、強い妖が出るのですか、と。


 都主は、哀れむように目を細めてから、答えた。


「――人が多いからの」




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