禁術

 成長痛に悩まされる夜が増えた。

 妖退治で傷つくことが少なくなった。

 香神木こうしんぼくの背丈を追い抜いた。

 そのときに感じた寂寥は、なんだったのか。

 いつものように謝礼を手渡す里長さとおさが、いつもの礼以上のことを口にしたのは、そんなある日のことだった。


 ――「妻をめとられる気はありませんか」。




 足音を高く響かせて、やしろに戻った。

 いつものように香神木の幹の前、姿を見せていた精が、ことりと細い首をかしげる。そんな彼女に、吐き出すように、いきさつを話した。


「あれほど気味悪がっておいて、手のひら返し」

「僕を縛りたいだけだ」


 胸のうちで渦を巻く、もやが晴れない。自分でもなぜここまで動揺しているのかわからないまま、勢いよくえんに腰を下ろせば、香神木の精がふわりとそばに寄り添った。


 香神木の精は話さない。ただ、何を言わんとしているかは、見つめてくるすみれ色の目を見れば、わかるようになっていた。


 ――「でも、里長の勧める妻を娶れば、人の間に戻れる」。


「っ僕は、そんなものほしくない!」


 戻るも何も、最初から。自分は人の間にいたことなんてないのだ。


「僕は」


 香神木の精霊の、白くて淡い手をすくい取る。かつて包まれていたその手は、いつのまにか、すっぽり包めるようになってしまっていた。


「僕はずっと、あなたといたい……」


 祈るように、ねがうように。顔を伏せてしまったから、そのとき香神木の精が、どんな表情をしていたかは知らない。


 風が吹いて。

 ざわざわと、夜桜が揺れた。


   ◇


 そしてまた、季節が巡った。


 季節が行くたび成長していくアララギと違い、香神木の精は、出会ったときの少女の姿のまま、変わらなかった。


(僕の時間だけが、流れていく)


 そう思ったとたん、香神木と見るなら愛しかった季節の移り変わりが、恐ろしくなった。


(僕だけが成長して、僕だけが老いて、そして――)


 アララギは十五になっていた。自分の命の残量は、そのまま、香神木とともにいられる残り時間だ。そう思うと、昔はまったく気にもしていなかった寿命というものが、黒々と迫ってくるような気がした。


   ◇


 里の子どもが次々と結婚していた。

 アララギに引き合わされるはずだった里の娘も、別の男に嫁いだと聞いた。

 それを聞いて、安堵はしなかった。

 結局のところ、自分が拒絶したところで、何ひとつそのままではいないのだと。時間だけは否応なく流れていくのだと、知らされた気がした。


 そんなある日。


 引き換えの着物と食べ物を持ち、香神木のもとへと急ぐアララギの前で、山道の景色がゆらりと揺れた。その揺らぎからにじみ出すように現れたのは、冬枯れの景色の中に、ひどく異質な桜色だった。


「香神木と同じ時を生きる方法を教えてあげようか」


 桜色の長い髪と、陽光に透ける若葉のような、明るい瞳の取り合わせ。まだ遠い春の盛りから時を遡り来たようなそれは、裾だけ墨の色に染まった月白の衣をまとう、美しい青年の姿をしていた。


 アララギは、不意をついて現れる、人ならざるものへの対処には慣れていた。

 けれどこのときは動けなかった。

 硬直したアララギに、宙をすべるようにして近寄ったその青年は、アララギの耳元に身を屈め、若葉色の双眸を、すうっと細めてささやいた。


「妖の力を借りるのさ」


 耳朶を打つ軽やかな声音は、ぞっとするほど妖艶な響きをはらんでいた。


 ――「おすすめは、しないけれどね」。

 ――「おまえのその執着を持ったまま、香神木や私と同じ、神霊の域に上がることはできないよ」。

 ――「だけど堕ちることはできる」。


 ――「なあに。どちらだって、結果は同じさ」。


 耳元に、吹きこむように落とされた、そのささやきは甘い毒のようで。頭の中が熱くなり、目眩めまいがした。


 ――妖の力を借りる。


 どくどくと、鼓動が騒いだ。


 そういう術があることは知っていた。実体のない幽世かくりよの妖と現世うつしよに生きる人とが契約することで、妖は現世との結びつきによってさらなる力を得、人は妖の幽世の力で願いを叶えられるという、眉唾物の禁術。


 立ちすくんだアララギを笑みを浮かべて眺めてから、青年はまとう衣をひるがえし、背を向けた。


「――やるなら社の外で。境内には香神木の神気が満ちているから、妖は近づけない」


 そして忽然と消え去った、青年の存在していた場所を、アララギはじっと見つめていた。


   ◇


 白い月が満ちた夜。白い満月に照らされて、紫紺の闇に満開の桜が白く映える、夜だった。


 白い玉砂利の敷きつめられた、小さな社の境内に、あまたの妖魑魅魍魎が、黒い渦となってなだれ込んだ。


 欲望と妄執を、り固めたようなその黒渦は、境内をふらふらと進んでいた白い狩衣かりぎぬの少年に追いついて、絡みつく。呼吸を奪う濃厚な瘴気しょうきが少年の皮膚から浸透し、無数の牙が少年の肉に次々喰らいつき――食いちぎろうとした牙は、しかし寸前で、ぴたりとその動きを止めた。


 ふわり。花の香りが漂った。


 かすむ視界に、境内の香神木の前、姿を見せている精が映った。瘴気の毒に侵されても、無数の牙を突き立てられても唇を噛みしめるだけだったアララギは、そこではじめて、顔をゆがめた。


(ごめんなさい)


 もはや謝ることすら許されないと知っていた。命を拾われ育まれた、この静謐な神域に、自分は無数の妄執を呼び込んだ。いつだって早朝のように澄んで、まっすぐに凪いでいた境内の空気は、今あまたの執念に、侵され掻き乱されている。


(あなたに近づきたい。不相応にもそう望んだ、僕が招いたものだ)


 欲しい、欲しいと声が聞こえる。早くその身を明け渡せ、と。契約によってアララギが、みずから縁を繋げてしまった、形なきものたちのざわめきが静謐をえぐり壊していく。


 ふ、と。香神木の精がアララギを見つめた。断罪の視線を覚悟していたアララギの予想とは裏腹に、そのすみれ色の瞳は幼子を見守るような、やわらかなものだった。


 ――大丈夫よ、と。その瞳に、言われた気がした。


 次の瞬間。香神木の幹の内に、淡い紫の光が灯った。かの木の花の色に似たその光は見る間にまばゆく膨れあがり、神木が、淡い紫の炎に包まれた。


 神木が燃える。アララギに絡みついた無数の妖魑魅魍魎も、空気を染めた瘴気もかげりも、すべてすべてを道連れにして。全身からかぐわしい香りを放ち、その煙で境内を浄化しながら、燃えていく。


 絡みついていたものたちから解き放たれ、呆然と膝をついたアララギの、目の前で。



 香気に霞んだ月の夜に、アララギの慟哭が響きわたった。










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