第3話 悪女、はじめます


 衝撃の事実に気が付いてしまい、冷や汗が流れる。


 口からは「どうしよう」という言葉が漏れたものの、頭の中ではどうすべきか分かっていた。


 ──私が小説の中のグレースと同じ行動をすれば、きっと物語は正しいハッピーエンドを迎えるはず。


 そんな単純なことだと分かっている、けれど。


「ぜ、絶対に無理、不可能もいいところすぎる……」


 現代日本で貧乏暮らしをしていた私が、異世界で侯爵令嬢として生きていくだけでも相当無理があるのだ。


 その上、貧乏性で男性経験もない私が男好きの強欲悪女を演じるなんて、間違いなく不可能だろう。


 超絶美形のゼインを誘惑するなんて、私にはハードルが高すぎる。しかも最終的には男遊びをし暴言を吐いて傷付け、捨てることになるのだ。


 そんな鬼畜の所業など、できる気がしなかった。


「……でも、このままじゃだめだよね」


 それでも正しいストーリーから外れてしまえば、私だけの問題ではなくなる。


 戦争が起きれば、大勢の人の命に関わるだろう。それだけは絶対に避けたかった。


『君の傍に居られることが、俺にとって最大の幸福だ』


 私自身、ゼインとシャーロットには幸せになってもらいたい。むしろ影から見守りたい。小説を読み、二人の幸せそうな姿に何度も涙したくらいのファンなのだ。

 

 それに小説ではゼインと別れた後、グレースが出てくることはほとんどなかった。隣国から攻め込まれた時に死にかける以外、登場しない。


 つまりその後は裕福な侯爵令嬢として、自由に生きていくことができるのではないだろうか。グレースになった今なら、前世での夢だって叶えられるかもしれない。


「たった一年だもの。そう、一年だけ」


 グレースとゼインの交際期間は確か一年弱。その間さえ頑張れば、人生イージーモードに突入するはず。


 悪女としての名が広まって暮らしにくいのなら、領地で静かに暮らすのだっていいだろう。


 ── 私が何もしなくても、二人が幸せになる可能性だってあるのかもしれない。けれど、何もせずに最悪な結末を迎える可能性だってあるのだ。


 何よりもう一度生きる機会をもらえたのだから、たった一年くらい頑張るべきではないだろうか。


「よし」


 心を決めた私は両頬を叩き、気合を入れる。


「目指せ! 男好きの強欲……悪……じょ…………」


 改めて口に出すと、最低最悪なパワーワードすぎる。


 それでも私は今から一年間、グレース・センツベリーを演じ切ろうと固く誓ったのだった。



 ◇◇◇



 その後、領地にいたというグレースの父である侯爵がひどく慌てた様子で帰ってきた。


 娘が襲われたと聞き、慌てて駆けつけたらしい。


『グレース! ああ、可哀想に……なんてことだ、すっかり元気が無くなってしまって……』

『あの男は私が絶対に消すから、安心するといい』

『何か欲しいものはあるかい? お前の心が安らぐ美しいものをすぐに何でも用意するよ、何がいい?』


 娘至上主義と言った侯爵の様子に、グレースが歪んでしまった理由も分かる気がした。それでも悪い人ではないことは、小説を読んで知っている。


 何もいらないと言うキャラでもないだろうと、ひとまず考えておくと伝えた。今後はこういう場面も多いはずだし、色々と考えておかなければ。


 過去の私がもらって嬉しかったものと言えば、商品券といった金券や食べ物だった。生活感しかない。


 その後はやけにびくびくした様子のメイド達に世話をされ、食べたことのないご馳走を緊張や感動をしながらいただき、ゆっくりと大きなお風呂に浸かり、悪趣味だけれど抜群に寝心地の良いベッドへ入った。


 夢に見ていたような生活だというのに、なんだか落ち着かない。貧乏が魂に染み付いているのかもしれない。


 どうか両親には事故に遭った私の慰謝料なんかが入って、生活が楽になっていることを祈るばかりだ。


「……あの天井の、近いうちに取って売ってもらおう」


 悪趣味な天井のせいで、寝る直前まで落ち着かない。


 ちなみにテーブルマナーなどは身体が覚えているようで、一から勉強せずに済むと少しだけ安心しながら、私はこの世界で初めての眠りについた。




 そして翌朝、朝から豪勢で美味しい朝食を頂いた後、改めてメイドが身支度をしてくれた。


 グレースの持っていたドレスは赤や紫といった原色の派手なものばかりで、その中でもボリュームが控えめなものを選び、髪もシンプルにまとめてもらっている。


 鏡に映る顔は驚くほど小さく、肌は真っ白で透き通るように綺麗だった。アイスブルーの瞳は長い睫毛に縁取られており、ぷっくりとした唇、小さくて筋の通った鼻がそれぞれ完璧な位置にある。


 はっきりとした顔立ちのグレースは、濃い化粧など必要ないくらいに美しい。18歳だとは思えないほど大人びていて、色気まであるのだ。


 メイド達は今までと違うであろう指示に戸惑ってはいたけれど、何もかも私の言う通りにしてくれた。悪女だからといって、派手すぎる必要はないだろう。


 支度を終えたところで、爽やかな笑顔を携えた不憫騎士・エヴァンがやってきた。


「おはようございます、お嬢様!」

「待って服は! 服は脱がなくていいから!」

「あ、すみません。長年の癖で」


 今日も彼は私と顔を合わせた瞬間に服を脱ごうとしたため、慌てて止める。悲しき性すぎる。


 テーブルセットの向かいに座るよう言うと、初めての経験なのかエヴァンはおずおずと腰を下ろした。


「ねえ、エヴァンは何かやりたい仕事はある?」

「どういう意味でしょう?」

「お父様にお願いして、なるべくエヴァンのやりたい次の仕事を紹介できたらいいなと思って」


 間違いなくエヴァンが、グレースの一番の被害者に違いない。だからこそそう言ったものの、エヴァンは驚いたように灰色の瞳をぱちぱちと瞬いた。


「お、俺、クビになるんですか……?」

「クビというか、こんな仕事辞めたいだろうと思って」

「いえ、そう思ったことはないですよ」

「えっ?」


 あっさりとそう言ってのけたエヴァンに、こちらの方が驚いてしまう。


「あんな姿で立たされていたのに?」

「はい、全く。お嬢様のお部屋は冬でも暖かいですし、身体には自信があるので」

「ええ……」


 頑張って鍛えているんですよ、と眩しい笑顔を向けられ、戸惑いを隠せない。そういう問題ではないと思う。


「だって、色々と酷いことも言われて……」

「お嬢様は誰にでもそうなので、別に気にしていませんでしたよ。顔は誉めてくれていましたし」


 どうやらエヴァンは、信じられないほどの鋼メンタルの持ち主らしい。


 そうでなければグレースの護衛騎士など、三年も続かないと気付く。余計な心配をした自分を恥じた。


 これからも護衛騎士を続けたいというエヴァンを解雇する理由はなくなり、現状維持ということで落ち着く。


 私自身、1日弱の浅すぎる付き合いだけれど、エヴァンは信用できそうだと思い始めていた。


「それにしてもお嬢様、本当に丸くなりましたね。屋敷の中でも噂が広まっていますよ」

「…………うっ」


 このままでは悪女から遠ざかる一方だ。まずいと思った私は、顔を上げてエヴァンを見つめた。


「お父様に心配をかけたくないから、できれば今まで通りに振る舞いたいの。過去の私のことも聞きたいし、違うところはこっそり指導してくれない?」


 彼とは目が覚めた時から普通に会話してしまっているため、今更取り繕っても意味はないだろう。


 それなら、協力してもらった方がいい。


「分かりました。お嬢様の極悪非道ぶりは誰よりも知っているので、お任せください! よくこんなことができるな、悪魔の方が優しいんじゃないかって思うような人でなしの事件も沢山あるので、いくらでもお話します」

「あっ……ありがとう…………」


 明け透けにもほどがある。もしかすると、エヴァンのこういうところがグレースの加虐心を煽っていたのではないだろうか。


 とにかく味方ができたことで、少しだけほっとする。


 ゼインと会うまであと1ヶ月弱、グレースという人間をよく知り、しっかり寄せていかなければ。


 ──けれど実際にゼインと邂逅するのは今からたった1週間後のことだと、この時の私はまだ知る由もない。

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