二日目・3

 ナンシーは自分の胃液の臭いを嗅ぎながら考えていた。水ですすいだが、まだ呼気には酸味が残っている。隣にはイヴェットがいて、彼女を支えてくれていた。

 ナンシーには違和感があった。それは沼に着く少し前、もし彼らが見つからなかった場合について話したときのことだ。

 あの瞬間、場は妙に静まりかえった。誰ひとり反応を示さず、自然の音が大きく聞こえた。そのことが彼女にはやけに気にかかっていた。

 メイナードの死体。あんなにも無残に切られた残酷なものなのに、誰も声をあげなかった。自分も声は出さなかったが嘔吐している。彼らも動揺はしていたようだが、大きな感情の発露を見せたのはナンシーとペネロピだけだった。

 何かが変だ。昨日振り払った疑念が再びわき起こってくる。メイナードが死んだ。犯人はこの島にいる。ベンも姿を見せないままだ。

「大丈夫……?」

 イヴェットが言った。彼女は心配そうにナンシーの顔を覗き込んでいた。

 ナンシーは頷く。「大丈夫。ちょっと……混乱してるだけ」

「そうよね、こんなことになって……」

 イヴェットの言葉にはどこか他人事のような響きがあった。ナンシーは思わずカッとする。

「人が死んでるのよ!?」

 イヴェットは驚いた顔でナンシーから手を離した。前を歩いていたジェシカとゲイリーも振り返る。ペネロピだけはこちらを見もせず先へ行ってしまった。

「ご、ごめんなさい……」

 ナンシーの謝罪にイヴェットは首を振る。「こ、こっちこそ……ごめんなさい。なんだか現実感がなくて……」

「俺もさ」ゲイリーが言った。「夢だったんじゃないかとすら思うよ」

「なんならもう一回見に行くか?」サディアスが言った。「間違いなく死んでると思うがな」

 そういえば誰も生死の確認をしなかった。ナンシーも緊急時の対応は学んでいたが、脈を取ろうなどとは思わなかった。首から出血していて、目もくり抜かれて、生きているとは思わないだろう。サディアスの物言いには不快感を覚えたが、ナンシーは何も言わなかった。メイナードの死体の様子を思い出しただけでまた気分が悪くなった。

「そんな調子で無線が使えるのか」サディアスが言った。どうやら顔に出ていたらしい。

「大丈夫」ナンシーは言った。「仕事ですから」

 声が固くなっているのが自分でもわかった。サディアスの物言いはどこか楽しんでいるようにも聞こえる。性格の部分もあるだろうが――彼女には生命を軽視しているように感じられた。

「無理そうならジムにまかせろよ」サディアスは言った。「こいつは大抵の機械を使えるから」

 ジムも頷いた。「そう奇抜なものじゃなかったら使えると思う。よかったらまかせてほしい」

 ナンシーは一気に恥ずかしくなった。彼はナンシーのことを思って聞いてくれたのだ。それを勝手に勘ぐって、敵視して――。

「ありがとう」ナンシーは消え入りそうな声で言った。「お願いします」

「元気出せ」サディアスが言った。「歩けなさそうならしょうがねえ、運んでってやる」

「そ、それは大丈夫よ」ナンシーは首を振る。「歩けます」

 誰からともなく笑いが漏れた。百メートルかそこら離れたところで人が死んでいるとは思えない雰囲気だった。

「行きましょ」ジェシカが言った。「ペネロピが行っちゃったわ」

 六人は歩き出した。ナンシーは先ほどより気持ちが楽になったが、それでも不安がぬぐえなかった。ベンがいないこと、客が死んでいること――それらの事実があってなお、この空気が不安だった。

「イヴェット」ナンシーは自分の横を歩くイヴェットに話しかけた。彼女は遠慮してか、ナンシーから少し離れて歩いている。

「本当にごめんなさい。よくしてくれたあなたに酷い態度をとって」

 イヴェットは微笑んだ。「いいのよ。こんなことがあって、混乱しても仕方ないわ」

 あなたは混乱してないの――出かけた言葉をナンシーは飲み込んだ。そうだ。誰も自分ほど混乱していない。人が死んだことを、事実として受けとめているように思える。メイナードが死んだ。その事実はこの集団のほとんどが既に受け入れていた。受け入れていないのはナンシーだけで、そのことが自分をまるで異質なもののように扱う。だからこんなにも居心地が悪いのだ。

「ナンシー?」

 イヴェットがまた心配そうな顔をする。ナンシーは首を振った。自分もはやく受け入れなくてはならない。メイナードは死んだ。ベンもいない。

 ペネロピの言葉を思い出す。自分がしっかりしなくてはならないのだ。それを言ってくれた彼女の姿は今はない。

「急ぎましょう」ナンシーは声をかけた。「サマンサとペネロピが心配だわ。私たちは今、離れるべきじゃないと思う」

 皆が頷き、バンガローへと急いだ。ペネロピはずいぶん先に行ってしまったようで、彼らは結局ペネロピに追いつかないまま広場へ到着した。そこには誰の姿もなかった。

「ペネロピは?」

「ベンの小屋に行ったんだろう」

 ゲイリーは辺りを見回した。サマンサの姿もどこにもない。彼らの声に気づいて出てくる様子もなかった。

「行きましょう」ナンシーは言った。「もしかしたら、ここでペネロピと会って、小屋へ一緒に行ったのかもしれない」

 ナンシーは自分の言葉が上滑りしているような気がした。もしも、もしも――彼女はいろいろなことを想定し、言葉にしないで秘めている。それは誰もが同じだろう。ゲイリーに言ったことは、彼女が本当に考えていることではなかった。

 しかし今はまず無線だ。ナンシーが一歩踏み出したときだった。

「いやあ」

 遠くから声が聞こえた。ペネロピの悲鳴だった。誰ともなく駆け出す。森を抜け浜へ出るとベンの小屋のドアに凭れるペネロピの姿があった。

「ペネロピ!」

 ナンシーは叫んだ。彼女はその声にふりむいて「人殺し!」と言った。目はナンシーを見ていない。ナンシーは駆け寄ってペネロピを抱き寄せた。ペネロピは彼女の腕の中で身をよじり「人殺し! 人殺し!」とわめいた。

「あんたがやったんだ! あんたが殺したんだ!」

 ドアは開きっぱなしで一瞬だけ中が見えた。小屋の中は棚で仕切られている。左手の壁に沿うようにベッドが置いてあり、そこは何度かナンシーも使わせてもらったことがあった。棚の上には無線機が、下には発電機があるはずだ。無線機の横は机として使えるようになっている。衣類などの私物はベッド下の箱に入っていた。仕切りを挟んで右側のスペースにはナンシーも入ったことがない。あそこはベンの個人的な場所で、いつも獣の革がかかっていた。

 ナンシーがペネロピをおさえている間に、他の人間が戸口に集まり息をのんだ。ナンシーからは何も見えなくなる。

「サマンサ!」

 ゲイリーの声が室内からした。彼は中に入ったらしい。

「おい! サマンサ! しっかりしろ! おい!」

 ナンシーもあの一瞬で確かに見た。誰かの足とブロンドの髪。耳元で呟きが聞こえる。

「人殺し……人殺し……」

 先ほど考えた最悪の想定。ゲイリーを励まそうとしたとき、一瞬頭をかすめたこと。

 もしかしたら――サマンサも死んでいるかもしれない。

「ゲイリー」ジムの声がした。「もう死んでる」

 ナンシーは自分の考えが当たっていたことを悟った。

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