人殺しの島

5z/mez

一日目・0

 ジェシカは窓縁に頬杖をつき流れていく景色を眺めた。カー・ラジオからはスポーツニュースが流れている。どこの局でも最近は長時間にわたりスポーツを取りあげる。来年度――一九八四年のロサンゼルスオリンピックに向けて、小国ながら盛りあがっているのだ。

 Q国フェンシング界に現れた期待の新星は、脚光を浴びた直後から連日メディアの注目の的だ。我が国がメダルを取れるとしたら彼しかないだろうと、新聞でもテレビでも繰り返された文言を再度ラジオは繰り返した。

 そこで一瞬のざわつきがあった。次いで読みあげられたのは“モーテル・キラー“のニュースだった。運転席の男はジェシカを気遣ってか音量を下げようとしたが、事件の詳細が読みあげられるにつれ、より音が大きくなるようダイヤルをひねった。

 ラジオは、モーテル・キラーの新たな被害者が出たとの情報を流していた。被害者はクワント・ファルマという三十代の男であり、発見現場となったモーテルは、この車の向かう町の少し先にあった。

 ジェシカと運転手は思わず顔を見合わせた。もちろんそれは一瞬のことで、男はすぐ前を向く。「近いな」と彼は呟いて、ジェシカは少しの沈黙を挟んだ後「そうね」と返した。

「でもホッとしたんじゃない? 少なくともこれで私がモーテル・キラーかもって心配はしなくてよくなったわけだし」

 実際ジェシカはこの車を拾うのに酷く難儀した。自身に健康的な魅力があると自負し、甘い気持ちでヒッチハイクを始めた彼女は、おそらく女であるモーテル・キラーの影響に打ちのめされたのだ。彼に乗せてくれるよう頼んだときはひれ伏さんばかりだったし、了承されたときは感激のあまり頬にキスした。

「あんたとベッドに行けるんなら殺されたっていいさ」

 男の軽口にジェシカは笑った。彼が本当に彼女をモーテル・キラーと思っていたかどうかは知らないが、先ほどまでの車中にはうっすらと緊張の幕があった。そして今のニュースでそれが失われたのも確かだった。

「私じゃあなたに勝てないと思うけど? あなたの腕、私のより二回りは大きいし」

「裸になりゃあ男は無力だ」

 ジェシカはコロコロ笑った。気分が高揚している。

「疑われるのってなかなか疲れるのね。勉強になったわ」

「時期が悪かっただけさ。近ごろ物騒だからな」

「やっぱり私のこと疑ってたんじゃない」すねたようにジェシカは言う。

「まったく疑ってなかったと言ったら嘘になるな」男は苦笑する。「万にひとつでもあんたが俺を滅多刺しにする可能性があるのなら、警戒するに越したことはない」

「用心深いのね。いいと思うわ、そういうの」

 彼女も本質的にはそういう人間だ。隣でハンドルを握る男にジェシカは好感を持った。

 さりげなく彼を観察する。歳はジェシカより一回りは上だろう。労働者然としたなかに落ち着いた雰囲気がある。ジャケットやジーンズは今の流行ではなく、車も一昔前の型だったが、それを気にした様子もない。身の回りに頓着しないタイプのようだ。指輪もない。

 後部座席には幾つもの段ボールが積まれている。書類、キッチン、本……などの文字がそれぞれの箱に書かれていた。几帳面な性格らしい。

 ふたりが向かうのはかつて遠洋漁業で生計を立てていたコーレルという港町だ。漁業が落ち込んでからは人口の流出が著しくすっかり寂れたが、近年ではそれを逆手に取って観光業に精を出している。

 田舎に引っ越す独身男性。経済的に豊かというわけでもなさそうだ。

 男がちらりとこちらを見たので、ジェシカは慌てて目を逸らした。

「どうしたんだ」男は言った。「やっぱり殺人犯でした、ってのはなしだぜ」

「違うのよ」ジェシカは目を泳がせる。「そういえば私、あなたのことあまり知らないなって思って」

 彼の口からはコーレルに行くことしか聞いていない。車中でのジェシカは男に安心してもらうのに必死だった。モーテル・キラーでないことをアピールするため、出身地から家族構成、仕事、職場、男の好み、最近彼氏と別れたことまでしゃべった。男の態度は特に変わらなかったが。

 余計なことまで話しすぎた気がする。ふたりきりの空間で、相手を観察し、警戒心を解こうと努め、水を向けるような発言まで――モーテル・キラーがしそうなことだ。

 ジェシカは男を観察してなお彼に好感を持っていた。車内にはかすかに煙草のにおいがあったが、彼はジェシカを乗せてから一度も吸うそぶりを見せていない。そこが彼女には好ましかった。

 彼はコーレルに住むのだろう。ジェシカは考える。もし町の散策に付き合ってほしいと頼んだら、彼は受けてくれるだろうか。

「あんたみたいな子が聞いておもしろい話はないが」

「いいの。私を乗せてくれた親切で奇特な人のことがもっと知りたいだけ」ジェシカははにかむ。「コーレルには何をしにいくの? お仕事?」

 少しの沈黙を挟み、男は自嘲気味に笑った。

「刑事なんだ」

「え?」

 ジェシカは思わず声を漏らした。男は小さく肩をすくめ「難儀なもんだ」と呟いた。

 会話が途切れた。

 刑事。あまり世話になりたくはない職業だ。しかし聞いてみたいこともある――答えてはもらえなさそうだが。どちらにせよ、黙ったままでいるのは不審だろうか。

 どうするのが自然かしばらく考え、結局ジェシカは一番気になったことを口にした。

「モーテル・キラーの捜査にきたの?」

「その名前は好きじゃねえな。わざわざ人殺しに名前をつけてやることもないだろう」

「アメリカ映画から取ったんですってね。ニュースで言ってた」

 “モーテル・キラー”による最初の事件が起こったのは去年の十一月だ。そこからぽつりぽつりと犯行を重ね、七月になった今では先ほどのものも含め、被害者の数は六人にのぼる。どれも十代~三十代までの男性で、道路沿いや町外れにあるホテルで発見されていた。数ヶ月前に連続殺人と判明してからは連日なんらかの報道がされており、数年前に起こったリーグンデ校での大量殺人と共に、近年自国で起こった残酷な犯罪として頻繁に取り沙汰されている。

「みたいだな」男は呆れたような口調で言った。「忙しくなりそうだ」

 男の声は疲れていた。大きな事件に対する高揚は見て取れない。

「ちょっとやりすぎよね――彼女も。そう思わない?」

 彼の哀愁を感じ、ジェシカは努めて明るく言った。声色に似つかわしい内容ではなかったが、刑事の性だろうか、男は応える。

「あちこちで殺して逃げ回ってるが、そう長くは続かないさ」

「女の連続殺人犯ってめずらしいんでしょう?」

 男はばつが悪そうな顔をした。「女と決まったわけじゃないがな」

 ジェシカは苦笑した。やはり彼は真面目だ。

「気にしなくていいのよ。みんな思ってるわ、犯人は女だろうって。実際に女でしょう。知らない男とホテルに行く男なんている?」

「いねえな」男は皮肉めいた笑みを浮かべた。「あんたの言う通りだ」

「六人も殺すなんて」ジェシカはため息をつく。「すごいわね」

「殺した数は自慢にならない」男は間髪入れず言った。「どれだけ命をもてあそんだかってだけのことだ。そこに意味を感じるやつは、どっかがおかしいのさ」

 そこには今までと毛色の違う感情があった。ジェシカは男の横顔を見つめ、視線を足元に落とす。

「ごめんなさい」

「なんで謝るんだ」

 そうは言ったが、男はすぐに察した。焦った様子で「あんたに言ったんじゃない」と口にする。

「その、なんだ。テレビやラジオで、おもしろおかしく言い回るだろう。リーグンデのときも――わかるだろ? 九人だとか十人だとか――殺しの数を勲章みたいに」

 話の内容を思えば不謹慎だが、男が覗かせた動揺はジェシカを安堵させた。ようやく彼の顔を見れた気がする。刑事としてではなく、彼個人としての顔を。

「そういうのをありがたがるやつが、俺は嫌いなんだ」

 彼の意見はもっともだった。モーテル・キラー関連の報道は、被害者が増えるたびに苛烈さを増している。被害者は根掘り葉掘り調べ尽くされ、一見事件とは関係ないようなことでも報道されるようになっていた。Q国の凶悪事件は残らず掘り返され――主に死者の数で――モーテル・キラーと比較された。特に直近のリーグンデ校事件は、解決済みということもあり、ことあるごとに持ち出されている。殺人に関連する書籍は売れに売れ、一部はベストセラーになった。しまいには品質を問わずミステリー映画やホラー映画が輸入され、モーテル・キラーを彷彿とさせる宣伝文句で、映画館で上映されたり、テレビで流れたりするまでになった。

「何人殺されたかは覚えていても、誰が殺されたかは思い出せないのよね」

 ジェシカがこぼすと、男は小さく息を吸った。

「リーグンデ事件もそう。あれだけ報道されてたのに、私――死んだ子たちの名前はひとりも思い出せない。何人死んだかは覚えてるのに。数で括られると、みんな……名前をなくしてしまうのね」

 男はジェシカを見なかった。彼らの視線は交わらない。しかしふたりは互いを見ていた。男はジェシカの言葉に心を動かし、彼女の謝罪を受容した。言葉も何もなかったが、ジェシカは確かにそう感じ――また彼女がそう感じていることが、男にも伝わっていると信じた。

「でも――」

 そのまま流れるように出かけた言葉に、ジェシカは慌てて口を噤む。言うべきことではないと思ったからだが、男は聞き逃さなかった。

「どうした?」

 彼が理解してくれるとは思えない。しかし聞かれた以上答えないわけにいかず、ジェシカはおずおずと口を開いた。

「もてあそぶ以外の気持ちがあったかもしれないって……そう思ったの。私たちは無責任よ。どんな事件が起こっても、表面的なものしか見ていない。そう考えると、殺された人のことを一番覚えているのは……犯人なのかもしれないわ。彼らには殺す理由があった……モーテル・キラーもそうかもしれない」

「殺人の理由か」男は笑った。かすかに軽蔑の響きがある。「行きずりの犯行だと言ってるが――ニュースでは」

「理由のない殺人なんてないわ。でしょ? きっかけはセックスでも――情が湧いて、離れがたくなって――それで殺したのかも」

「ずいぶんと熱烈だ」

「人を好きになるのに時間は関係ないわ。どれだけ一緒にいても理解できない人はいるし――ほんの一時しか言葉を交わさなくたって、魅力的に思える人もいる。私だって惚れっぽいほうだし――」

 ジェシカが男を見たとき、男もジェシカを見た。今までふたりは幾度となく視線を交わしていたが、その瞬間のものは――これまでとはまるで違った、意味のある視線だった。

「変ね、私」ジェシカは自嘲した。「人殺しの弁護なんて」

「犯人が考えていることは……俺にはわからん。興味もない」男は言葉を選びながら言った。「あんたの意見も理解はできる。だが、納得はいかない。人殺しは人殺しだ。死んだ命は戻らない。その死にどんな理由があったとしても、死者にとっては意味がない」

「意味があるのは生者にだけ?」

 男は答えなかった。

 ジェシカは進行方向に目を向けた。しばらく前から左手を海が走っていた。道路の先に町の影が見える。

「もうすぐお別れね」ジェシカは言った。「さみしくなるわ」

「そういえば、ツアーに参加すると言ってたな」男は言った。「無人島に行くんだったか」

「そう。近くにちょうどいい島があるんですって。三泊四日、文明を離れて過ごすのよ」

「三泊四日? ひとりでか」

「いちおう傷心旅行なのよ、これ」ジェシカは笑う。「ツアー参加者のことだったら、もう少しいるはずよ。五人以上じゃないと中止ってことになってたから」

「みんな知らないやつなんだろう」

「そのほうがいいこともあるのよ。誰も私のことを知らないところに行きたくなるの。そこでめいっぱい羽目を外す」

 男は苦笑した。「まあ、今なら町にいるより安全かもな」

 コーレルの町に入った。評判通りの寂れたところで、人もまばらだ。大きな通りを走って少しすると、港へ向かう道が分かれたので、ジェシカはそこで降ろしてもらうことにした。

「私が帰ってくるまでにあなたが捕まえてくれるって信じてるわ」

 男は肩をすくめた。「頑張らないとな」

 ジェシカを降ろし、車は大通りを走っていった。その影が見えなくなるまで、ジェシカはそこで立っていた。

 本当は彼を誘いたかった。ツアーが終わったら、一緒にご飯でもどう? ――彼も拒まなかったはずだ。それでも誘えなかったのは、自分たちを取り巻くものがあまりにかみ合わないと感じたからだ。

 しばらく喧噪から離れたい。そう思ってツアーに申し込んだ。自然のなかでゆっくりと心を癒し、自分を見つめ直す。新しい恋はそれからだ。

 道なりに進むと港が見えてきた。幾つも並んだ桟橋のひとつに人が集まっている。ジェシカは歩き出した。

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