第13話 その男、無慈悲につき

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 鹿島秋良。実験体。アキ。解決屋。黒いヒトガタ。


 いつの間にか様々な呼び名なり肩書が付いてしまったと、自嘲しながら街を歩く一人の男。もっとも、彼をアキと呼ぶ者はもういないが。


 見た目は平凡な三十路男。特徴があるとすればその瞳。死んだ魚の目のように虚ろで生気はない。全体的に平凡なその見た目に反して、彼の人生は波乱に満ちていた。そして、いまではその波乱を軽く笑い飛ばすほどには諸々を達観してしまっている。


 いまも彼には見張りが付いており、真っ当ではないことが確実な相手と、彼にとっては真っ当ではないが、あくまで一般人という性質の相手……等々。それぞれに目的が違う複数から監視があるような状況。


「(とっとと“入口”で待ち伏せしようと思ってたんだがなぁ。いきなり街中で姿を消すというのも不自然か……)」


 認識阻害はこの世界では異能の一種と分類されているが、彼の扱うのは魔法であり、そこには若干の違いがある。

 自らの姿や気配を消す系統と、他者の精神や認識に干渉する系統。それぞれの魔法の合せ技。

 出力を強めると、この世界の一般人の視覚や記憶、電子機器の映像すら誤魔化すことが出来るのだが……。


 秋良とて、いつもいつもそんな魔法を展開しているわけでもない。基本的に彼は『身体強化』……その名の通り、身体機能を強化するというシンプルな魔法以外はあまり得意ではない。身体強化で殴る……という蛮族スタイルが異世界で馴染んでしまっている。


 つまり、いまから慌てて認識阻害を強く発動すると、街中でいきなりその姿が消えるという不思議現象が、防犯カメラなり人の目に認識されてしまうことになり、逆に悪目立ちしてしまう。異世界チートも使いどころを選ぶということ。


「(ま、とりあえずは泳がせていた“鹿島秋良”の客に対応するか)」


 複数からの監視なり尾行を受けつつも、彼は動じることは無い。自身で優先順位を決めて対処するだけのこと。まず手始めに秋良が選んだのは、単純な暴力で解決できない相手であり、正真正銘、鹿島秋良を目指して接触を試みている者。


 それなりに場数を踏んでいる上に、一般人としては職業として成り立つ尾行の技術を持っている相手。興信所や探偵と呼ばれる者だ。


 鹿島秋良の調査を依頼された探偵が彼を張っているのだが、その姿は調査対象である秋良に全て把握されている。それは今だけのことではなく、かなり以前からのこと。


 歩きスマホをしつつぼんやりと歩いている、何の変哲もないサラリーマンという出で立ちの秋良と同年代の男。


「(ちょうど喫茶店もあるし……路地も近い。ここらで良いか)」


 目星を付けた秋良は、いきなり歩道の真ん中で立ち止まる。流石に尾行している男が、ソレに合わせて一緒に立ち止まるという愚は犯さなかったが、内心で動揺してしまう。歩幅が若干乱れる。まぁ前を歩く人がいきなり立ち止まれば、それも自然な反応と言えるが。


 他の歩行者も、急に現れた障害物を迷惑そうに避ける。当然、立ち止まる訳にはいかない探偵の男も調査対象者と距離が詰まってしまう。


「(くそ! なんだよ。いきなり変な動きしやがって! 面倒くせぇな。いったん通り過ぎて戻って来るか……)」


 内心でぼやきつつ、男は他の歩行者と同じく自然なリアクションとして。怪訝な顔を秋良に向けながらその横を通り過ぎる……ことは出来なかった。


 普通に肩に手を置かれて呼び止められる。調査対象者である鹿島秋良に。


「さて。ちょっとそこの喫茶店で話でもどうです? 西藤さいとう雅人まさとさん。まゆずみエージェンシーの社員探偵でしょ?」

「……ッ!? な、何なんですか急にッ!? お、俺は西藤なんて名前じゃないですから! は、離してくださいよ!」


  いきなり名を呼ばれて動揺はするものの、探偵の男……西藤は秋良の手を振りほどいて立ち去ろうとする……が、これもできない。肩から手が離れない。いや、そもそも振りほどこくために勢いよく体をよじろうとしても、西藤の意に反して彼の身体はまったく動かないのだ。


「(なッ!? か、身体が動かねぇ!?)」


 西藤の身体はまるでその場に縫い付けられてしまったかのよう。足が地面から離れない。


「え? 良いんですか? しらばっくれるなら、奥さんである真由美まゆみさんやお子さんの由衣ゆいちゃんを訪ねていきますけど? あぁ、それか郷里にいるご両親の和仁かずひとさんや清子きよこさんの方が良いですか? それとも、入れ込んでいるキャバ嬢の朱璃じゅりちゃん?」

「……な……ッ! 何を訳の分からないことを! き、急に変なことを言い出して! 警察を呼びますよ!?」


 的中。バレている。少なくとも相手に家族構成を知られていることを西藤は知る。しかし、だからと言って『はい分かりました』と認めるわけにもいかない。焦りはするが、西藤の頭はフル回転している。所長には叱責を受けるだろうが、いっそ本当に警察を呼んでやろうかとも考えていた。


「呼べば? その後にどうなるかは知らないけど?」

「あッ!?」


 秋良の回答と共に、肩に置かれた手が外れる。結果としていきなり西藤の身体は自由を取り戻すのたが、彼は思わずたたらを踏むような挙動をしてしまう。動けない間に自然と力が入っていた模様。


「ほら、これで警察が呼べるだろ? シャツの胸ポケット、カバンの中、ズボンの右ポケット……どれでも好きな携帯を使えばいいさ。それとも、所長の黛女史に泣きを入れて助けてもらうか? 彼女のバックには“それなり”の連中も付いているんだろ?」

「(こ、こいつ……な、なにを……どこまで知ってるんだ!?)」


 西藤は混乱するばかりで決断しない。できない。


 そんな探偵の姿を見て、もうこれ以上の問答はどうでも良いとばかりに関心の失せる秋良。


 一応は一般人相手な為に抑えているが、依頼のある仕事だからと言って、人のことをコソコソと嗅ぎまわる連中に嫌悪を覚えない筈もない。


「覚えておくと良い。人のことをコソコソと嗅ぎまわるなら、自分のことも嗅ぎまわられても仕方ないってね。『やったらやり返される』だ。ほら、もう行けよ。決断の遅い奴は好きじゃないんだ。依頼人である「鹿島麻衣」には失敗しましたゴメンナサイをするんだな」


 ただし、秋良も『解決屋』として動く際には西藤と似たようなこともしているのだが……自分の事はアウトオブ眼中。遥か彼方の棚の上だ。まったくもって身勝手極まりない。


「……あ、あの……えぇと」


 精神的に一番面倒くさい案件から片付けようとした秋良だったが、思っていたよりも探偵の男が潔くなかった。即座に次へと意識を切り替えている。


「(次は……あの下衆野郎の“信者”連中を相手にするか)」


 鹿島秋良……調査対象者が、探偵である自分に対して、あからさまに興味が失せたのが西藤には理解できてしまった。テレビのチャンネルを切り替えるかのように。しかし、西藤の方はそこまですぐに切り替えができない。どうしてもテンポ遅れの応答をしてしまう。


「……あ、す、すみません……俺は確かに西藤雅人で間違いありません。か、鹿島秋良さんの身辺調査を依頼された探偵社の者です。お話があるのであれば伺いますが……?」

「ん? いや、もうこっちに用はないから。ま、精々仕事頑張って」


 秋良は西藤を一瞥もしない。もう彼にとっては“居ない者”と同じ。再度歩き出し、西藤の横を素通りしていく。


「え? あッ……ち、ちょっと!?」


 今度は西藤の方が秋良を止めようと手を伸ばすが……彼の手がその目的を果たすことはない。虚しく空を切る。先ほどと同じようにつんのめって体勢を崩してしまう。


「(おわ!? こ、この! 話を聞くって言ってるだろうがッ!)」


 西藤は内心で悪態をつき、バランスを崩した羞恥を振り払いながら鹿島秋良を見やるが……もうそこに彼は居ない。その姿を西藤が捕らえることはもうできない。


「あ……あれ? 何処に……?」


 大通り。人はまばらであり、ほんの数瞬目を離しただけで歩行者を見落とすことなど、本来は有り得ないこと。だが、鹿島秋良が相手では普通に有り得る。


 タネを明かせば単純な動き。西藤の視線が外れた僅かな間に、ビルの間の路地に入りつつ認識阻害を薄く発動しただけ。


 周囲の一般人や防犯カメラに不自然に映らない程度の動き。そんな秋良の意図を持った行動を明確に看破できたのは、西藤とはまた別の監視組。真っ当ではない連中。



 ……

 …………



 路地裏。ビルとビルの間。

 まだまだ準備中という繁華街の店を見やりながら、秋良はそのまま歩き続ける。西藤という探偵とは違い、“それなり”の監視が追いかけてくるのを承知の上でだ。


 路地裏を歩きながら秋良は徐々に『認識阻害』の強度を強めていく。いや、徐々に変幻させていくという方が正しいか。当然にその変化は追跡者たちも気付いており、確信したことだろう。自分たちの追う相手が“アタリ”だったと。


 しばらくは茶番じみた追跡劇を演じつつ、秋良は予め目星を付けていた、立体駐車場のビル……機械式ではなく車のままに進入していくタイプ……の裏側から、階段を使って上層階へのぼっていく。


 認識阻害が良い仕事をしており、厳重に設置されている防犯カメラには、秋良の姿はもう黒いノイズとしか映らない。


 狩場への誘導。


 追跡者たちもそんな秋良の意図は読めている。ただ、追跡者たちは思う……『好都合だ』と。


「ふん。馬鹿な奴。人目の多い場所であれば、逃げることくらいは出来ただろうに……」

彩芽あやめ。アイツが勇斗の言っていた邪魔者で間違いないみたいだな」


 少女と男が三人。真っ当ではない監視者たち。

 力関係としては、少女……百束一門の特異な“懐刀”たる秦野はたの彩芽あやめがこの場の指揮者。

 異世界からの帰還者にて転生者。秋良の先輩にあたるチート所持者である、早良さわら勇斗ゆうとの信奉者たち。


「そうみたい。今回の行方不明事件も奴が関与していると勇斗が言っていた。何でも被害者を手籠めにしてたクズらしい。だが、“懐刀”すら撃退する手練れだとも聞く。油断はしないように」

「……いつものことだ。油断などするものか」

「勇斗が敵だというなら、紛れもなく『悪鬼』。全霊を持って処断するのみ」

「我らで敵わないとしても、彩芽が異能を使うまでの時間稼ぎくらいはする」


 彼女らは知らない。自分たちが信奉する早良勇斗の裏の顔を。

 そして気付かない。知らぬ間に彼の「下劣なゲーム」の片棒を担がされているということに。


 もっとも、それは彼女らの能力や人を見る眼が欠けているという訳でもない。勇斗の『異能』の影響下にあるというだけ。つまりは、厳密に言えば彼女らも被害者ではあるのだ。


 ただ、彼女らがそれを知ることはない。その機会が訪れることはない。都合の良い覚醒イベントはない。そして、救済の道もない。



 ……

 …………



 時間貸しの立体駐車場。その一番上の階。

 一番不人気な場所ではあるが、それでもチラホラと車は停まっている。逆に言えば、満車に近いようなぎゅうぎゅう詰めではないということであり、かなりの広いスペースがある。人が存分に動けるスペースが。


 そんなスペースには黒い影が一つ。


 全身に黒い影を纏い、その影は炎のようにゆらゆらと揺らめいている。真っ黒なヒトガタ。


 鹿島秋良の悪趣味な認識阻害であり隠形の一形態。異世界での師匠であるユラからも『隠形の意味ないじゃない』と、不興を買ったダメな方のお墨付きだ。ただ、秋良自身はかなり気に入っており、そのセンスの悪さにもユラからの叱責が飛んだのは当然のこと。


『よう。尾行ごっこはもう良いだろ? これだけお膳立てしてやったんだからさ』


 そんな悪趣味なヒトガタは、未だに姿を隠したままの追跡者に声を掛ける。その声はまるで無機質な機械音声のようであり、発する声にも認識阻害が乗っているという芸の細かさだ。


 ただ、秋良の声かけに応じる気配はない。しかし、彼は既に追跡者たち四人の気配を完全に捕捉しており、頭隠して尻隠さず的な滑稽さと恥ずかしさを追跡者たちに感じてしまうほどだったりする。


『なぁ……そっちは女一人、男三人で百束一門の鬼退治をお役目とする一門衆だってのも知ってる。あと、早良勇斗の裏の顔を知らずに呆気なく騙されている馬鹿だってこともな。あ、女は勇斗の情婦だったよな? うら若き女子高生が性に溺れるってのはちょっとどうかと思うが……まぁせめて避妊はちゃんとしておいた方が良い。あと、勇斗は他でもヤリまくってるから性病の検査とかもな』


 余りにも分かり易い挑発ではあったが、あっさりと追跡者……秦野彩芽は姿を現す。気配は平静ではあるものの、その内心には怒りがあるという、こちらも分かり易いリアクション。異世界の魔道士であり戦士でもある秋良からすれば、その在り様はまるでなっていない。


「……安い挑発に乗ってやるよ。ヒトガタ」


 正面に彩芽。そして、ヒトガタの後方に二人が姿を現す。もう一人は姿を隠したままであり、秋良は少し見直す。その程度の芸は出来るのかと。


『で? そちらの用件を一応聴いておこうか?』


 内心で怒りを湛えている彩芽に対して、秋良は話を進める。決裂するのは目に見えて分かっているが、一応の形式として。


「ふん。用件だと? 一門衆三名、“懐刀”二名を殺害したお前への用件など一つだけだ……死ねよ」


 彩芽の言葉と共に飛び出したのは、姿を消していた四人目。隠形のままにヒトガタに踏み込む。その手には黒塗りの小刀。


「(喰らえッ!!)」


 バレバレの隠形はともかく、音もなく、滑るように一気に踏み込んでくる思い切りの良さは、秋良も目を見張るモノがあった。


「なッ!!?」


 ただ、それは親戚の乳幼児がはじめて言葉を発したとか、立ったとか……そういう類のモノでしかなかった。出来て当たり前のことを、初めて出来るようになったのを見守る驚き。


 踏み込んで来た男の両腕……肘の辺りから先がが斬り飛ぶ。黒いヒトガタの手刀による技。

 彩芽たちは……両腕を失った者も含めて、誰一人としてヒトガタの動きを認識できなかった。過程をすっ飛ばして結果だけが目に入ってくるという有様。


『(思い切りの良さは良いが、単純に遅すぎるな。あと、他の連中の反応も遅い。……前に相手をした奴らと代り映えしないな)』


 秋良は知っている。彼女たちは勇斗の異能によって思考を誘導されている。縛られている。いわば被害者であるということを。


 その上で秋良は調べた。マスターにそれなりの金を積んで、記録ログの閲覧すら頼んだ。


 結果、操られているままではあっても、こいつらもクズだと判断した。


 既に取り返しのつかないことに手を染めていたのだ。勇斗がヤリ捨てた少女たちをこいつらも“利用”していたし、最期の“処理”もしていた。相手は『鬼』だから仕方ないと……勇斗に思考を誘導されながらも、しっかりと下劣な欲望を吐き出していたクズども。


 彩芽は彩芽で、嫉妬からか勇斗に近付く女を他の連中をたきつけて排除したり、同じく勇斗の信奉者に性的に襲わせたり、ときには自らの異能を持って害したりと……やりたい放題。


 操られていただけだから。


 秋良はそれで済ませる気は無い。


「な、なん……で……ッ!?」


 腕を斬り飛ばされた男はへたり込み、茫然としている。度し難く無様。戦士にあるまじき姿を晒している。


『(阿呆が)』

「がッ!?」


 湿った木材を割ったかのような音が響く。

 黒いヒトガタが、隙だらけの男の頭を無造作に掴み、そのまま首を捻じ折った。

 そして流れる水の如くだ。彼の動きは止まることもなく、未だに反応できない後方に位置する二人に対して距離を詰める。


 秋良からすれば歩いて近付いたに等しい感覚だったが、距離を詰められた彼らからすれば、黒いヒトガタが瞬間移動してきたかのように見えただろう。それほどの差がある。まさしくチートによる俺tueee状態だ。


「おごぉぉッッ!?」

「さ、佐々木!?」


 黒いヒトガタの拳が男の胸を打つ。そのままの意味で。その衝撃は半端ではなく、呆気なく穴が空いた。人体に。中身が後方にびしゃりと飛び散る。


 血と臓物によるグロテスクで生々しい現代アートのようなモノが駐車場の床面に現れた。このアートの評価額がマイナスなのは間違いない。


『(まったくなってないな。反応が遅過ぎる。そりゃ異世界チートを持つ早良勇斗が好き勝手やる訳だ)』


 残りはあっと言う間に二人。半分。


「コイツ!? な、なんでこんなにッ!?」

「じ、時間を稼げッ!! 私の『異能』を使うッ!!」


 戦士たる者が、わざわざ敵の切り札を待つ筈もない。

 不得意ではあっても、秋良にも遠距離攻撃の手段はある。一般的に思い浮かぶ、火を出したりする“普通”の魔法。


 彼が師であるユラから辛うじて及第点をもらったのが「土魔法」であり、本来は「地」に接していてこそではあるもものの、駐車場こんな場所でも使えない訳でもない。


 異世界の戦士であり魔道士たる秋良は、魔力を込めたつま先で軽く地を叩く……と同時に、二人の敵の足元から、魔力によって構成された複数の土の槍が飛び出てくる。


「ぎゃあァァッッ!!?」

「うがぁッ!?」


 二人の足をズタズタに引き裂く。縫い付ける。秋良は敢えて決めてしまわない。彼の拘り。命を奪うときは直接触れてという拘りだ。異世界の戦士としての習い。


『(五月蠅いな。この程度の魔法くらい、痛みを覚悟で抜け出して見せろ。いや、そもそも気配を感知して事前に避けろよ)』


 わーわーぎゃーぎゃーと喚く二人に対して、呆れにも似た馬鹿馬鹿しさが秋良の胸に込み上げてくる。


『戦士が喚くな』

「ッ!?」


 痛みと混乱で動けなくなっていた男の首を手刀で斬り落とす。


 また一つ気味の悪い現代アート的なオブジェが駐車場の床に供えられる。タイトルは「喚く生首」とでもされるのだろうか。


「ひぎいぃぃッッ!!?」


 残りは一人。残された秦野彩芽は今更ながらに考えが至る。『手を出してはいけない相手だった』ということに。


 切り札だった『異能』についても、痛みと混乱でまるで集中が出来ない。今の状況で発動することはおろか、既にそんなことすら彩芽の頭にない。発動しようとする気さえも失せているという体たらく。ただただ恐怖に呑まれた。


「あ、ああ! ま、待って! 待ってよ! こ、これは何かの間違いだからッ!! もう一度やり直させてよぉぉッッ!! こんなはずじゃなかったんだからァァッ!!」


 そして意味不明な現実逃避。


 残念ながら、彼女にとっての現実はここにしかない。


『ま、変な男に目を付けられて、お前も色々と歪まされたんだろうが……それを加味しても、来世があるなら真っ当に生きるんだな。もしかしたら異世界への転生とかもあるかも知れないし……あ、ちなみに“懐刀”とやらを始末したのは俺じゃないぞ?』


 パニックになり、既に目の前に居る黒いヒトガタの姿すらも目に映っていない……哀れな少女。

 秋良の独断と偏見によってクズ認定された秦野彩芽。


 その生涯の終わり。


 彼女が最期に見た光景は、自身に迫る黒いヒトガタの拳。



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