第3話 異世界にて
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安物で簡易な作りのドアが静かに開かれる。微睡むように淀んでいた室内の空気が驚いて動きはじめる。
来訪者。
それも、夜も明けない頃合いに、酒をはじめとした諸々の臭いが染みついた安宿の一室にだ。あきらかにまともな用件ではない。もし、これでまともな用件だというなら、来訪者のオツムがまともでないだけ。
黒装束の者。
反射を抑えるためか、黒く塗られた短剣が鞘から抜かれ、その手に構えられている。残念ながら、まともな用件の線は呆気なく消えた。用件も来訪者もまともではない。
「…………」
ドアを僅かに開け、その隙間から室内へ滑り込んで来た黒装束の者は、音も立てず、躊躇もせず、ベッドの膨らみに短剣を突き立てる。流れるような動き。まさに流麗。
短剣は羊毛の掛布団を貫き、その下の膨らみ……人体にあっさりと到達していた。
襲撃者は短剣が肉に突き立つ感触を確かめつつも、出血による赤色が拡がる前に刃を引き抜き、確認の為に掛布団を払おうとしたのだが……それまで。
「ご……ッ!?」
掛布団が大きく跳ね、次の瞬間には腕が生えていた。襲撃者の胸から。
「お? 何だ女か。勿体ないことをしたな」
「……はぁ。バカなこと言ってないで止めを刺しなさい。哀れでしょ?」
混乱。襲撃者である女の脳裏には疑問が乱舞する。何故だ? 短剣には猛毒も塗っていた筈だ!? 横の女は一体何処にいた!? ……と。だが、その問いに答える者はいない。
「……ッ!!?」
襲撃者の視界がいきなりグルグルと回る。宙を舞う。意味不明。女には状況が理解できない。自分の身体がチラリと見えた気がするが……何故だ何故だと考えている間に意識が途絶える。命の灯火が吹き消される。
ごとりと言う音と共に女の頭部が床に落ちる。物騒なオブジェが床を転がる。
胸部を貫いた逆の手による手刀。襲撃を受けた男が襲撃者の首を斬り飛ばしただけのこと。
「毎度毎度ご苦労なこった。俺を殺したいなら、宿ごと消し炭にでもすりゃいいものを……」
「しっかり二回ほど死んでるじゃない。甦ってるだけでしょ?」
男は相棒であり、師であり、愛しい者の言葉を無視して、首無しの女の遺体から手を引き抜き、無感動に身体を突き飛ばして倒す。そこに遺体への敬意などは皆無。自分を殺しにきた者である以上、当然と言えば当然か。
男の右脇腹には出血の痕があるが、その肉体に損傷はない。綺麗なもの。先の短剣の一撃は男にとってはあまり意味のあるモノではなかったということ。
「……毒だな。まさか甦ってすぐに死ぬ羽目になるとは。こんなに短時間で死と甦りを体験したのは久しぶりのことだ」
「だから言ったのに。いちいち待ち構えてないで、近付かれる前に殺れば良かったんだ」
「まぁそう言うなよ。緊張感のある戦いってのも久しく無かったから。どんなモノかと期待しただけだ」
「この襲撃者がハズレなのも分かってたでしょうに……」
襲撃と撃退。短剣による一撃。しかも毒あり。
しかし、男と相棒に緊迫感などはない。ただの雑談のような熱量であり平常。特別に気にすることもない程度のこと。
男の名はアキ。
前知識ほぼなしでこの世界へ送り込まれたNPC。鹿島秋良その人。当時二十九歳。壮年期へと移行する頃合いだった。しかし、いまのアキは円熟味を纏う五十手前といったところ。顔に刻まれたシワが馴染んでいる。
そう。彼はこの世界で既に二十年近くを過ごしていた。
……
…………
………………
あの日。元の世界で妻の不貞を責めた日。離婚届に名を記載して飛び出していった日。怪しげなバーで
全裸で街の広場へと出現したアキ。
いきなりのことで、リトルなアキもパオーンせずにしょんぼりしているというもの。
当然に場は騒然となり、この世界において絶大な権勢を誇る教会の連中に捕らえられ、あれよあれよと言う間に異端審問という名の拷問に掛けられて、呆気なく死亡。
ハード過ぎるスタートを切ったアキの異世界生活。
マスターが言う通り、アキは死ななかった。いや、死んでも甦った。当然、教会の連中はそんな彼を恐れ、何度も何度も殺す。何度も何度も甦る。その繰り返し。
しかし、そんな繰り返しが二十を数える頃には、教会の者は恐怖に呑まれた。アキのことを
確かにアキは死んでも甦った。だが、その記憶は残ったまま。死から甦るという体験は、本来は一つの命しか持たぬ……定命の者が体験するにはあまりにも想定外で壮絶なモノだった。
そんな苦しみから『いっそ狂ってしまいたい!』……と、アキは強く願ったが、甦りは肉体だけでなく精神にまで作用するのか、その肉体と精神は甦る度に死ぬ前へとリセットされる。狂い続けることもできないという有様。
死ねない。
それはある意味チートではあるが、甦りの数が増える度にアキは思った。
『これは
マスターが言っていた『案内人』が来るまでの一ケ月。教会の獄中で既にアキは後悔していた。この世界へ来たことを。安易にあの怪しげなマスターとの会話を続けてしまったことを。全てがホンモノだったなどと思わなかったと。
迎えに来た『案内人』とは、エルフ族のユラという美しくも麗しい女魔道士。彼女はヒト族の中でもそれなりに名の知れた者であり、すぐに教会の誤解は解けたが……アキでなければ取り返しはついていない。
その後、アキはユラに師事して、この世界の常識をはじめ、魔法なり戦いの技を会得していくことになる。そもそも彼はこの世界の一般人程度の才能しかなかったのだが、その代わりに
そんなエルフな彼女に師事にしながらも、街で仕事を始め、そこそこな異世界生活を送っていたアキ。決して楽しくはない。ワクワクドキドキの冒険などない。ただ生きるだけという状況。そもそも現状に納得などしていなかった。騙されたというか、本気で信じていなかった自分が悪いとも言えるが……マスターへの怒りはある。
ただ、禁則事項ではあるものの、“プレイヤー”であることを明かしたユラからもアキは注意を受けていた。
『馬鹿なことを考えないように。管理者たちの権限は強い。向こうから接触してこない限り、NPCでは会うことすら無理だ。怒りをぶつけてやろうなんて考えるだけ無駄だよ』
結局のところ、いまのアキにマスターに対して出来る事はない。ただただこの世界で生きるのみ。
アキ自身は決して認めたくはなかったし、未だに認めてはいないが……彼が自由を得たのは間違いない。その心は解放されたのだ。
元の世界にあった
麻衣のこと、祖父母のこと、両親のこと、高峰母のこと、仕事のこと、離婚のこと……等々。
そんな一切はこの世界にはない。苦しいことも痛いことも……時には死ぬことだってあるし、その死に方もバリエーションが豊富ときた。魔物だっているし、元の世界に比較すると倫理的にもオカシイ連中も多い。ヒト族同士での殺し合いだって日常茶飯事だ。いきなり街中で後ろから刺されることもあった。
それでも……アキはただアキとして生きることができた。その行動の責任は自分一人のモノという状況。
この過酷な世界で死と甦りを繰り返す中で、元の世界での悩みがちっぽけなことだと思えるようになっていった。その分、死生観や倫理観は色々とオカシクなってしまったが。
ある程度の実力がついてからは、ユラの口添えで街の警備兵としての仕事も始めた。ときに街の外……街道に現れる魔物を退治するという荒仕事もあったが、それなりにこなすことも出来るようになっていった。
その頃のアキは、年齢としては三十路を幾つか過ぎていたが、この世界のヒト族から比べると若く見えるのか、警備兵や冒険者の若手連中との交流も割合と上手くいき、友人といえる者も増えて行った。
元の世界での陰鬱に諸々を一人で抱え込んでしまうようなアキの性格は鳴りを潜め、むしろ、あっけらかんとした性格……性質となっていった。これは
そうこうしている間に、アキにも恋人と呼べる相手が出来た。親友と呼べる者もだ。
ただ、アキはいずれはこの世界から去っていく身であり、恋人との関係にも悩んでいた。未来がないと。
当然にそこまでの詳しい事情を語ることを、NPCであるアキは禁じられており、何らかのブロックが掛けられているようでそもそも打ち明けることすら出来ない。
しかし、そんな彼の気持ちすら汲み、恋人は『いまの時間を共に過ごせたら良い』とアキを受け入れてくれていた。
麻衣との関係の中では実感することが少なかった『お互いに尊重し合う』という事をアキは噛み締めていた。こういう幸せもあるのかと。
かつてを振り返ると、麻衣に対してはアキが一方的に気を遣っていただけの歪な関係だったのだ。そして、彼女から返ってきたモノは依存。都合が悪くなれば拒絶という有様だった。それはお互いがナニかに依存しあっている関係。
しかし、歴史は繰り返されるのか……異世界においてもアッサリとアキは浮気される。しかも相手は警備隊で彼の直属の上司という仕打ち。
そして、その上司からは『分かってるよな?』というハラスメントでパワーな圧を受けてアキは警備隊をクビに。当然恋人にもポイッとされた。
『またかよッ!?』
『こっちでも浮気されるのかッ!』
『キレイごと言いやがってッ!』
『くそったれ!』
……などなどという、アキの叫びが安酒場に響いたという噂だ。
ギリギリだが……まだそれだけなら良かったのだが、元・恋人はその上司ともすぐに別れ、最終的にはアキの親友と結婚した。
その親友と元・恋人の仲睦まじい姿を、無職となって見せつけられるという地獄めぐりに耐えられず、アキは酒浸りの日々へ。異世界でも現実逃避をする羽目に。
流石に哀れに思ったのか、師であるユラがアキを誘って街を出ることに。以後、二人は各地を旅してまわる生活となっていった。奇しくもアキは、異世界へ来て数年の準備期間を経て“自由気まま生活”を実現することになる。……決してアキが望んでいた形ではなかったが。
……
…………
………………
「それで? この始末はどうするの?」
安宿の一室。夜明け前。
凛と澄んだ声。
薄暗く埃っぽい部屋の中であっても、燦然と輝く美貌のエルフ。
精巧な人形のように整った造形の顔立ち。
淡く煌めくような長い金髪。
その髪を掻き分けて突き出ている尖った耳。
雰囲気は気怠げではあるが、強い意志を感じる
長身だが細見の体躯。
この世界におけるアキの『案内人』であり師であり相棒であり、彼の愛しい者。
名をユラ。
「ん? 夜が明けたら普通に宿に伝えるさ」
アキは素知らぬ顔でユラに応じる。もちろん、長い付き合いである彼女に通じるはずもない。
「……あのねぇアキ。愛しいヒト。いつまでも拗ねてないで、そろそろ“現実”に向き合わないと駄目でしょ?」
溜息混じりの呆れ声。
エルフであり、“プレイヤー”でもあるユラからすれば、苦しくとも諦めもつくのだが……現実を生きるNPCたるアキからすれば、なかなかに割り切れないコト。
「……ユラはそれで良いのか?」
プイッとそっぽを向いて拗ねる五十前の男。見苦しい。見た目が渋いから余計にだ。
「……まぁ確かに寂しさはある。あるに決まってるでしょ? 愛しいヒト」
そっとアキの手を取るユラ。
そこには駄々を捏ねる子供を宥めるような慈愛があり、それだけを見ればある種の微笑ましさや美しさもあるのだが……すぐ横には首無しの遺体と生首。ユラが取ったアキの手もまだ血が滴っている状況を考えると異様ではある。
「俺はもうこのままで良い。今さら元の世界へ戻ったところで上手くやっていけるとも思えない。……向こうにはユラも居ないしな」
鹿島秋良の帰還が近い。
アキがこの世界に来て二十年近くが経過し、観測データの収集が終わったのか、イベントとやらが終了したのか、プレイヤーであるユラを通じて元の世界への帰還が告げられた。
「ふふ。可愛らしいことを言ってくれるじゃない。……ただ、私はこの世界の“プレイヤー”であると同時に研究者だから。管理者が君にどう言ったのかは知らないけど、この世界の観測自体はゲームなんかじゃない。れっきとした研究よ。そりゃ一部は一般ユーザーに解放されて、ゲームとして成立している部分もあるけど……この世界のシミュレーションを見届けるのは私の研究であり仕事。放り出すわけにもいかない」
ユラは“プレイヤー”として世界に介入しているだけであり、本来はアキが存在するよりも一つ上の世界の住民だ。
時の流れがそもそも違う。それは、この世界のエルフとヒトの寿命の差などというモノとも違う。比ではない。世界ごと違う。
アキにとっては二十年という時間の経過だったが、“外”からの介入者であるユラの体感時間はそれほどでもない。決して短くもないが。
「なぁ……せめて、俺が普通に死ぬまでは一緒に居てくれないか?」
「あぁ愛しいヒト。それは無理よ。そもそも君は私と同じ。本来はこの世界には存在しないデータ。この宇宙においては異物に他ならない。私と違ってログアウトすることもできないしね。アキにとっては業腹だろうけど、管理者……運営側にも考えがあるだろうし、一連の宇宙を超えたデータの移行は必要なことなんだと思う」
ユラにとっては、アキはシミュレーション世界のデータに過ぎない。ユラというアバターを通じての関係性でしかない。
しかし、彼女がアキに対して愛を感じる気持ちは、決して
時の流れが違うとしても、アキと過ごした時間は本物。交わした情もだ。
「どうあっても俺は帰らないといけないのか? あのくそったれな世界に……ユラの居ない世界に……」
「駄々っ子な愛しいヒト。残念だけどそれは決まっていること。ただ、私だって寂しい。アキは元の世界に戻っても、恐らく記憶などはそのままになる。そんな君を……元の世界で一人ぼっちになんかしたくない。“いまの私”はアキと共に歩むことはできないけど、何らかの方法で逢いに行くから」
目線はほぼ同じではあるものの、ユラは少しだけアキよりも背が高い。立ったままで真っ直ぐに見つめ合うことができる。
「……はは。ぜひ逢いに来てくれ。俺はそれを心の支えに生きるさ」
「ふふ。愛が重いね。でも、元の世界ではアキはアキの人生を生きなよ。私との関係はこの世界へ置いていくんだ。“いまの私”じゃない、別の私がアキのもとを訪れることができても……やっぱりそれは“私”じゃないから。……“そいつ”が君と仲良くやっていくっていうのも……ちょっと腹立たしい気もする」
冷静に話をしていたユラの瞳に、軽く嫉妬の炎が揺らめく。
まったく同一ではないが、“いまのユラ”の感情や記憶をコピーしたアバターなりNPCを作成すること自体はできる。それをアキの元の世界へ送り込むには、運営側との協議を含めて、技術的にも越えなければならないハードルは多いが、出来ないこともない。
ただ、その後のことを考えると、“いまのユラ”としては気に食わない気持ちにもなる。
「ま、まぁ……どんな形であっても逢いには来て欲しいよ……待ってるから」
「ふん。君を一人にするよりはマシだと思うよ。ただ……帰る前に、この世界での始末もつけてからにしてくれない?」
「……あぁ。気は乗らないが、俺が矢面に立つさ。まったく……叩いても叩いてもしつこい奴らだ。そんなにも託宣とやらが大事なのかねぇ?」
「信じるモノのために殉ずるというのは、良くも悪くも劇薬だよ。……まぁそうは言いながら、もとを
アキは元の世界へ帰還する。どれだけ駄々を捏ねてもソレが覆らないのは分かっていた。ただ、愛しい者との別離が辛いだけ。“現実”を受け止めた以上は、この世界における『やり残し』に着手する気にもなろうというもの。
この世界において強い影響力を持つ女神を信奉するという教会。
その教会所属の、とある腐敗した高位聖職者が始まり。世俗の欲にまみれ、金と女と権力という典型的な生臭坊主。
あるとき、娘を手籠めにされた親たちからの依頼を受け、アキはその聖職者をあっさりと始末した。義憤に突き動かされたというわけでもなく、報酬が良かったことと、元の世界への帰還の話を聞かされてむしゃくしゃしてたから……という程度のことだった。
呆れるユラからの冷たい視線を受けつつも、とりあえずその一件は終わったかに見えたのだが……
実はその聖職者は、教会が秘匿する『女神の託宣』という予言書のようなモノの原典の一部を秘密裏に所持していたらしく、死後にそれが発覚した。そして、その聖職者の死に関わった者は『教会の秘儀を盗み見た可能性がある』ということで追われる羽目に。
アキも馬鹿ではないため、現場に証拠も残さなかったのだが、それでも教会は犯人を突き止め、表向きに糾弾するのではなく裏からの暗殺という手を選んだ。
そうして始まったのが、教会の刺客を返り討ちにする日々で、既に半年が経過していた。
「はぁ。とにかく、教会のお偉方と真っ向から話をつけるさ。立つ鳥跡を濁さずとも言うしな……」
「まぁこの件については、運営の仕込みではあるけどこの世界の文明、社会に関連する項目になるから……私からは積極的に手を出せないし、何とかして欲しい。君が帰った後も、延々と教会連中に付け狙われるというのは観測者としては甚だ不本意だよ。愛しいヒト……こんなお土産は要らないから」
こうして、アキは異世界での最後の後始末へと赴くことに。
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