第1話 逃避

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「……な、何だよ……それ?」


 男と女。テーブルを挟み、対面で座っている。テーブルにはとある書類。


「何って……離婚届よ。当然のことでしょ? だって、あきぃは見たんでしょ? 私が浮気している現場」

「そ、それにしたって! お、おまえなぁ! 他に言うことはないのかよッ!!? 何であんな男とホテルなんてッ!! どれくらい前からなんだッ!! っていうか、俺に愛想を尽かしたんならそれでもいい! でも、ちゃんと話をしろよ! 悪いと思ってもないのかよッ!?」


 修羅場ではあるが、痴情のもつれというには、手続きについてはアッサリと収拾がつきそうではある。男の感情は別だろうが。


「…………そりゃ悪いとは思ってるよ。でも……! 私だって! いつまでも秋兄ぃのおりばっかりやってられないんだよッ!」


 女の怒号。正しい逆切れ。ただ、それは自分を正当化する為のモノではなく、純粋な心の声。少なくとも、男にはそう聴こえた。二人の間においては、決して取り返しのつかない言葉。


「ッ!! ……お、お守りって……麻衣まいは……俺のことをそんな風に思っていたのか……? む、昔から……?」


 男の顔に表れるのは怒りではなく戸惑い。まさかそんな言葉が返って来るとは思ってもみなかった。だが、その言葉が浸透するにつれて、男の胸に込み上げてくるのは哀しみ。そこに怒りなどない。ただ深い哀しみが漂う。

 言葉に詰まる男の表情かおを見て、女は瞬時に否定する。


「あ……! ち、違う……! ご、ごめんなさいッ! 今のは違うのッ! 秋兄ぃのことをそんな風に思ってた訳じゃないよッ!」


 後悔。逆切れのような状況で吐いていい言葉じゃなかったと、女は気付く。遅い。

 二人にとって、いまの言葉はどんな刃物よりも切れ味が鋭い上に、傷口はボロボロとなって閉じない。命にさえ届く言葉。


 男のナニかが切れた。幼い頃から、時に自分を押し殺してでも……と、女の為に張ってきたナニかが。頭の中で、男はぷつりという音を聴いた気がする。聴こえてしまった。


 脱力する体。千切れて纏まらず、モヤがかかって停止する思考。そして、つらりつらりと男の口から溢れてくる言葉。


「……はは……そりゃそうだよな。考えてみれば当然のことだ……一流企業に勤める才媛たる麻衣からすれば、俺なんて足手まといでしかないよな。……はは。そうか。俺は麻衣さんにお守りをしてもらってたってわけか……はは」

「違う! 違うよッ!! 謝るから! さっきの言葉は嘘だからッ!!」


 女は職場の同僚と不倫していた。それは事実。しかし、それよりも先ほどの言葉を後悔している。


 二人のこれまでの関係性を考えれば当然のこと。決して、女が男に言って良いセリフではなかった。二人にとっては、不倫などが問題では無くなってしまうほどのこと。


「……離婚届って、どうやって書いたら良いんだ? 教えてくれよ? あ、婚姻届けと同じで証人の欄もあるのか」

「秋兄ぃ! 話を聞いてよ! 離婚届はもういいからッ!」


 男の持つペンの動きは止まらない。


「……とりあえず、俺の名前は書いておくから、後は好きにしてくれよ……」


 男は脱力した体に鞭を打って、離婚届に自分の名を記載した。呆気ないものだ。女の声はもう聴こえていない。その姿も、もうその目にはっきりと映らない。思考と同じく、目も耳もモヤがかかったかのよう。


「待ってよ!? さっき自分で言ってたでしょ! ちゃんと話をしようよッ! 秋兄ぃッ!」


 女の静止など気にも留めず、男は立ち上がり、そのまま出て行こうとする。もうここへは帰らない。流石に女もその異常さから、取り返しのつかないことを想像してしまう。男の身体を掴む。力尽くで止めようとする。


「待ってよ!」

「……なぁ。もうそんなポーズは良いから……離せよ。それとも何か? 振り払ったらDVだの何だのと騒ぎ立てるのか? ……はは。頭の良い麻衣さんのことだから、それぐらいは平気でするか?」

「違う違う違う! そ、そんなことしないから! 何なら私のこと殴っても良いからッ!だから行かないでッ!? ちゃんと落ち着いて話をしようよッ!」


 女は必死で訴えかけるが、男にはもう響かない。それほどの言葉だったことを自覚した女は今更に後悔する。


「……さっき言っただろ? 俺のお守りは嫌なんだろ?」

「違うって! あれは本音じゃない! 秋兄ぃが大切な人だっていうのは変わらないからッ!」


 空々しい言葉。誰がそんな言葉を信じるのか? 男は醒めてしまった。これまでの人生から。

 女の為に自分を犠牲にしてきたことを思い返してしまう。ほんの少し前までは、それらを“犠牲”だと思ったことは無かった。確かに苦しいこともあったが、それは全て愛しい幼馴染みの為であり、恋人の為であり、妻の為だった。


 でも、いまは違う。もう違う。


「……なら、俺からも言わせてくれよ」

「うん! 聞くから! 秋兄ぃの話を聞くからッ!」


 女は察している。この手を離したら、もう男は戻らない。引き止めなければならないと強く思う。女には、夫婦としての男への愛は薄れてしまっていたが、人として、家族としての深い情愛はある。確かに残っている。それを自身の失言と男の深い哀しみによって瞬時に思い出した。放っておくことはできない。


「俺も同じだよ」

「え……?」


 しかし、男からすれば、女のそんな振る舞いは身勝手極まりないと映る。それも当然のことだろう。そして、男の方は、家族としての情愛も瞬時に枯れてしまった。


「俺も……もう解放して欲しい」

「!!」


 ショックを受ける女。まさか男の口からそんな言葉が出るなど思ってもみなかった。……結局のところ、ある意味では似た者同士か。

 男は茫然となる女を見やり、それを好機とした。掴まれていた手を咄嗟に振り払って、そのままの勢いで家を出る。


「あッ!? ま、待ってッ!!」


 待つはずもない。アテはないが、とにかく今は女から離れたい。もう戻りたくないという一心で、男は靴の踵を踏みつけたままで夜も更けた街を駆ける。


(くそったれ! 何がお守りだ! それを言うなら、俺の方こそだろ……ッ!!)


 駆ける。駆ける。

 住宅街には人通りも少ない時間帯。警察が男の様子を確認すれば、経験の浅い新人であっても職務質問をかけていただろう。


 重い身体とぐちゃぐちゃの思考のまま、男は……鹿島かしま秋良あきらは、これまでの自分の人生を振り返っていた。


 女……鹿島改め、高峰たかみね麻衣まいとの日々を。



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 ……

 …………

 ………………



 鹿島秋良と高峰麻衣。

 鹿島家と高峰家は遠い親戚のようなもので、二人が生まれる前から家族ぐるみの付き合いがあった。そもそも、母親同士が幼馴染みという関係性だったので、秋良と麻衣の二人も、生まれた頃からの知り合いと言っても過言ではない。


 共に一人っ子ではあったが、秋良が三つ年上ということもあり、麻衣とは兄妹のように育つ。秋良は自分の母親からも、麻衣の母親からも言われてきたものだ。


『秋良はお兄ちゃんなんだから、麻衣のことをちゃんと守ってあげてね』


 それは微笑ましい言葉だった。ただ、その言葉が、秋良にとっての“呪い”になるなど思ってもみなかった筈だ。当たり前のことだが、悪意などは誰にも無かった。


 二人の両親は共に共働きであり、お互いの祖父母を含めて、二つの家族が協力して秋良と麻衣を育てているような形をとっていた。


 幼い頃から目鼻立ちの整った麻衣は、仲良くなりたい男児にもよく絡まれていたが、当時は『可愛い子に意地悪をしたくなる』……そんな男児のいじらしい気持ちなど分かる筈もなく、彼女は本気で嫌がっており、秋良が割って入っていくことも多かった。


 周りの大人たちは、そんな様子を見て『白馬の王子様ね』と囃し立てていたが、秋良としては決して面白くは無かった。その所為で、自分と同年代の子と仲良くなれなかったり、麻衣に気のある男児からは意地悪もされていた。微笑ましいと笑っていた大人たちはそこまで気付かず、彼は順調にハブられていった。そして、麻衣は麻衣で何かあれば秋良を頼るという状況が続く。


 それは麻衣の成長と共により顕著になっていく。

 彼女は可愛かった。大人たちから見てだけではなく、同年代の子から見ても群を抜いていた。ただ、彼女自身は快活な性格もあり、女子同士でハブられるということもなかったが、秋良の方は男子からの当たりが強くなる。ただでさえ、年下の子とべったりなのを揶揄からかわれる上に、麻衣に好意を寄せる子からすれば、憎悪の対象だ。


 順風満帆の学生生活を送る麻衣と比べ、秋良の方は良い思い出は少ない。


 そして、秋良が高校二年、麻衣が中学三年の頃に、二人の関係を決定付ける出来事があった。


 高峰父と鹿島夫婦の事故死。


 麻衣の発案により、小遣いや秋良のバイト代でそれぞれの両親に日帰りのバスツアーをプレゼントしたことがきっかけ。


 高速道路上で、ツアーバスが居眠り運転のトラックに追突され……という事故だった。一命は取り留めたものの、高峰母も無事では済まなかった。


 重傷を負い、意識不明で搬送された高峰母。

 彼女の意識が戻ったのは、事故から半月後のことであり、最愛の夫、親友夫婦を一度に亡くした上、その葬儀に参列することもできなかった。遺体に別れを告げることも叶わなかった。


 荒れる。きっかけを作った麻衣を責める高峰母。それを庇う秋良。そんな構図がみられるようになる。


 結局、麻衣と実母の溝は深まるばかりで、一時的にという名目で二人は秋良の母方の祖父母宅に引き取られることになった。


 ただ、娘夫婦を亡くした秋良の祖父母もまた憔悴しており、手続きだ、事故の賠償だ、和解だ、裁判だ……と諸々に追われて擦り減っていく日々。


 当然、居候であり親を亡くした秋良と麻衣も同じこと。


『秋良はお兄ちゃんなんだから、麻衣のことをちゃんと守ってあげてね』


 秋良は自身の哀しみを飲み込み、祖父母を支える為に家事をこなし、麻衣には勉強に専念するようにと環境を整える。呪いに突き動かされるまま。


 高校を卒業した後、秋良は家のことを考えて、進学ではなく地元での就職を選択した。祖父母や麻衣は進学を勧めてはいたが、秋良は知っている。


『一緒に居て』


 という願いが暗に込められていたことを。


 事故の賠償金などもあったが、高峰母は断固として麻衣の為に金を使うことを許さなかった。高峰家側の親類が説得してもどうにもならないという頑なさ。


 麻衣が進学を諦めようとしたところを、秋良や祖父母は止める。金のことや諸々のことは心配するなと彼女の背を押した。


 県外の一流の大学へ進学し、麻衣は一人暮らしとなるが、何かにつけて秋良は世話を焼いた。幼馴染みとしてもだが、それは恋人としてもだ。麻衣もそれを望んだ。父の死と母からの拒絶に、彼女が秋良に依存的になっていたのも事実だが、確かに二人の間には深い絆があり、恋愛感情もあった。


 ただ、いつの頃からか、秋良は麻衣の保護者のような立ち位置で動くことが多くなっていった。


 大学を卒業後、地元に帰らずにその地で就職をという段階で、秋良と麻衣は将来の結婚を視野に一緒に暮らし始める。つまり、麻衣が望むままに秋良は職を辞し、祖父母を残して地元を出たということ。


 麻衣はそのまま一流企業への就職。メキメキと頭角を現し、三年が経過する頃には若手の筆頭格。

 秋良は人手不足の介護福祉分野で就職したが、三年が経過しても、未だに新卒の麻衣の給料に及ばない。夜勤手当込みでもだ。


 半年ほど前にようやく籍は入れたが、式はせずに写真だけ。格差の大きい夫婦だ。


 麻衣が快適に過ごせるよう、仕事に打ち込めるようにと……秋良は家のことを一手に引き受け、その合間合間で彼は地元に戻り、祖父母のこと、高峰母のことで動くこともあった。


 身も心も疲弊していたが、それは全て愛する麻衣のため。秋良は自身の消耗からも目を逸らしていた。


 そして、気付けば麻衣の瞳には秋良ではなく、別の男が映っていたということ。


 その頃の麻衣には、秋良への依存的な振る舞いは沈静しており、それどころかむしろ邪険に扱うようにまでなっていた。何なら、彼のことをまるでヒモのようにすら見ていた。そんな麻衣の……愛する妻の変化には、流石に鈍い秋良であっても気付くというもの。


「……とまぁ、そんな感じですね。……はは。笑えるでしょ?」


 薄暗いカウンター席。

 繁華街のビルの一角。半地下にある、とあるバーに秋良はいた。

 彼以外に客はおらず、カウンター越しのバーテンダーだけが、作業をしながら秋良の話に耳を傾けていた。


「笑いませんよ。いえ、笑えませんというべきでしょうか。最愛の女性からの裏切り……かと思えば、それだけでは済まない話ではないですか」


 白髪交じりの落ち着いた雰囲気の初老の男性。バーテンダーでありマスター。この店の店主。


「はは。笑ってください。じゃないとやってられない。俺は……彼女の為にと……頑張ってきたつもりだったんですけどね。彼女には、そんな俺が重荷だったようです。……おかしいでしょ? 浮気されたことよりも……そっちのがショックなんですよ……はは」


 秋良はまだグラスに一口もつけていない。酒に酔ってはいない。ただただ、消化できない自分の気持ちを吐露したかっただけ。ごちゃごちゃの思考の中で街を駆け、気付いたらウイスキーの水割りを前に、このカウンターに座っていた。


「私などが軽々しく口を挟むことではありませんが、お客様はそれだけその彼女のことを大切に思ってらしたのでは?」

「……さぁ? どうなんでしょうね。確かに彼女のことは大切に思っていましたが……それは独りよがりのことだったんじゃないかとも思ってしまうんです。俺は麻衣のお兄ちゃんなんだから……ってね。ま、こんな話をされてもマスターも困るでしょう? 軽く聞き流してください」


 それは本音。秋良も別に意見が欲しい訳ではない。ただ、彼は自分がどうやってこのバーに辿り着いたのかも覚えていない。そこに違和感を抱かなかった。


「では、お客様の話は聞き流すことにしますが……一つ質問をよろしいでしょうか?」

「ええ。何でも聞いてください。いまなら何でも喋っちゃいますよ」


 それが悪魔の質問だと、この時の彼は思いもしなかった。


「お客様は……逃げ出したいですか? この世界から?」

「……へ? せ、世界? ……ああ。もしかして俺が自殺しちゃうのかも……とか心配されてます?」

「いえいえ。単純に聞きたかっただけですよ。酷いショックを受け、誰かに話を聞いてもらいたいと願う人は多いですが、そういう方々が、全てを放り投げて逃げ出したいとまで思っているのかを」

「うーん……マスターって、割といい性格してますよね? ……そんなの逃げ出したいに決まってるじゃないですか。まぁ遺される人のことを考えると、死にたいとまでは思いませんけどね。娘夫婦に先立たれ、その上に孫にまで……っていうのは、流石に爺ちゃん婆ちゃんに合わせる顔がないですから。……ただ、もう妻の顔は見たくないし、仕事については迷惑を掛けちゃうけど、いっそのこと地元に帰ろうかなとは思いますね」


 秋良からすれば当たり前の話だ。逃げられるなら逃げたい。この辛い現実から。それでも逃げられない。どうしようもない。だから、こうして弱音を吐きにきているのだ。


 ただ、秋良はこの時のマスターとの安易なやり取りを後悔することになる。



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