4章:あの笑顔

 目を開けると、朝になっていた。


 体中が汗で気持ち悪い。


 着替えをせず寝てしまったせいなのか、うなされていたせいなのか、わからない。


 急いでシャワーを浴びる。


 身心ともにボロボロな体でも、全身にお湯を浴びると少しだけほぐれる感覚があり、気持ちよかった。


 夫くんが帰ってくる前に、急いで息子を引き取りに行き、早朝から迎えにきた私を怪訝そうに見るも、両親は何も聞かなかった。


 昨日の今日で、取り繕うことなんて、できていなかっただろう。


 最後に一言、「いつでも帰ってきな」とだけ言って。


 どういう意味だろう。


 あの2年間、帰りたいと願った時に一度だって帰って来いと言わなかったのに。


 孫ができたから?それとも今にも死にそうな表情でもしていたのだろうか。


 今更、あの場所に居場所なんて、「幸せ」なんてありはしない。


 あるのは思い出の残り香だけ。


 車を飛ばし、いつも通りの日常を演出する。


 夫くんは、飲んだ日の後には、決まってアサリのお味噌汁を所望する。


 ご飯はなしで、簡単につまめる軽食を食べ、また眠る。


 急いで用意を済ませ、「ただいま」の声に心がざわつく。


「おかえり」って、自然に言えただろうか?


 指は震えていないだろうか?


 いつも、どうやって迎えてたっけ?


 乗り物酔いでもしたかの如く、頭は重く、気持ち悪い。


「お、アサリのお味噌汁!ありがとう!すっごい飲みたかったんだ!」


 眩しいほどの笑顔に、一瞬で酔いが覚めた。


 何で?


 あれほどのことをしておきながら、何で平然と笑顔で向き合えるの。


 何で、


 何で、何で、


 涙が出た。


 壊れて、ボロボロになった身体から、涙が出た。


 あれだけの醜態を目撃し、怒りと悲しみと憎しみの入り混じった、形容しがたい感情をもってしも、涙が流れなかったのに。


「ど、どうした?どこか苦しいのか?病院に連絡するか?」


 ああ、苦しいよ。


 全部、君のせいだ。


 そして、あんな笑顔一つで騙されてしまう、私のせいだ。


 一人で生きてた私に、君の毒は強すぎた。


 気付かないうちに染められ、抜けられない。


 たった1日で、このざまなのだから、嘘で繕うこともできない。


 その日、「何でもない、何でもないよ」と、夫くんを抱きしめながら、独り占めできる事を至福に浸った。

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