あなたの光だけを見つめて
黒神
まとめ
あなたの光だけを見つめて(全文)
>>>エピローグ
夫くんの浮気が発覚したのは、とある日のこと。
夫くんがお風呂に入っている間に、夕飯の準備を済ませようとお皿をテーブルに並べている時だった。割れた保護フィルムから除く、マッチングアプリの通知画面。普段、インターネットにまつわるすべての物、事を遠ざけている私でも、その水色とピンクのアプリアイコンには見覚えがあった。
『いつでも、誰とでも、すぐに繋がれる。』がキャッチフレーズのマッチングアプリ。
「Aさんからメッセージが届いています!」と一瞬ひかり、すぐに暗くなる。その数秒で、私の頭には「不倫」の二文字がよぎった。マッチングアプリをする目的など、しれている。頭の中をめぐる
私はその日をいつも通りに演じられたかは分からない。夫が会社に行くまでの時間を、これほど長いと感じる事はなかった。
>>>1章:飢え
私は「幸せに飢えている」
表層意識ではなく、潜在意識としてそうなのだ。私の実家は山奥のにあるドがつくような田舎。鶏小屋の掃除から畑仕事、お風呂を沸かすために薪割りをするなど、セカンドライフとして想像する生活を余すことなくやってきた。両親ともに頭でっかちな性格で『これが正しい』と思ったことは、一度も曲げたことがない人達。勿論、全てが悪い方向に作用するわけではないし、大きな選択をするときは楽だった。
『両親が決めたから』で済むのだから。
現に高校を卒業するまでの間、お年玉が少ないことと、畑仕事に駆り出されること以外、これといった不満はなかった。
そんな両親が「手に職をつけろ」と言った。前時代的な考えの持主なので「男は仕事、女は家庭」と言い出すと思っていた私は、予想外の答えに喜んだ。
専業主婦以外の道を選んでもいい。
それだけで、心の中の私は踊り狂っていただろう。大学はどこにする?今から受験勉強頑張らなきゃ!こんなところから通える大学なんてないし、きっと一人暮らし!。特別成りたいものはなかったが、何にでも成れるという期待だけが膨れ上がった。
「知り合いのが住んでいる近くに美容師学校がある、そこで2年間住み込みで勉強し、資格を取ってきなさい。」
その膨れ上がった期待の風船は、すぐに割れた。大きく膨れ上がった分、爆音が頭の中で鳴り響いた。途端、血相を変えて抗議したのをよく覚えている。今まで一度も両親に怒鳴ったことなんてなかった。自分から、あんな汚い暴言の数々が出るなんて思いもしなかった。感情に任せ、ひたすらに、何度も。
何を言っても覆ることはない。なら、これぐらい許されるだろう。いくら勉強が苦手な私でも、18年間もあれば脊髄反射で答えられる。
「両親の考えは、覆らない。」
それからの日々は人生で一番辛かった。両親の知り合いはまったく交友的ではなく、突然転がり込んできた私を「除け者」として扱った。考えてみれば当然で、今まで一度もあったことのない「知り合いの娘」。両親が無理に頼んで、2年間という期限付きで承諾させたのだろう。本人に直接言えなかったところを察するに、両親は恐れられていたのかもしれない。
初対面の人間に、隠す気のない悪意をぶつけられたのは、人生で初めての経験だった。
それからの私の扱いは「使用人」。朝出かける前に全員分の朝食、帰ってきてからは夕飯の買い出し。休日は部屋の掃除からお風呂掃除までこなし、一日たりとも休む暇など与えられなかった。友達と遊びに行くときは決まって安いカラオケ。遠くへ出掛けるお金も、時間もありはしなかった。
一刻も早く戻りたい。
不純な原動力が、勉強嫌いの私に力を与えた。その結果、資格は一発で合格。やっと帰れる解放感、初めてやりきった達成感が入り混ざり、持っていた紙をぐちゃぐちゃに濡らしたのを覚えている。
実家へと戻る日。
思ってもいない感謝を知り合い家族に伝えると、「またいつでも来てね」と涙された。
絶句した。
神経を疑った。
これまで除け者として、侮蔑の視線を向けてきた家族に、恐怖すら感じた。
両手に荷物を持っていてよかった。自然に握られたこぶしの言い訳を、探す手間が省けるのだから。
それからしばらくして、近所の美容師見習いとして働いていていた。接客自体は好きではないが、髪を切っている時はそれだけに集中できるので、楽しかった。しかし、それも長くは続かなかった。
両親から、縁談の話を持ち掛けられたのは、ちょうど季節が廻った頃だろう。内心、「またか」とあきらめつつ、あれよあれよと流されるまま、結婚した。結局、あの二年間で取得した資格は、1年後にお役御免。
私の人生って、何のためにあるんだろう。あのままだったら、悪徳宗教に入信し、高いツボを買わされていたかもしれない。
だが、夫くんとの生活が、私を変えた。
夫くんはお世辞にも、世間一般の「いい旦那」とは違う。パチンコ、競馬、麻雀、飲み会、車、バイク、宝くじ。取ってきた給料の半分は、これらの趣味に消えていく。ただ、夫は勉強も運動もそつがなくこなせるタイプで、人からも好かれやすい。専業主婦である私を抱えつつ、趣味も全うできるぐらいの稼ぎがあったのだ。
本当、「なんで私と結婚したの?」と思う。それでも、確かに「幸せを」を実感していた。パチンコで負けた時、「ごめん、負けちゃった!」と、悪いことを許してもらう子供みたいな笑顔が好き。子供の頃の嘘のような武勇伝を話し、「あの時の俺、見せたかったな~」と、自慢する無邪気な笑顔が好き。バイクの後ろに私を乗せ、わざと怖がらせるようにスピードを上げた後、「あはは、びっくりした?」と、悪戯が成功して嬉しそうに笑う横顔が好き。
自分はきっと、バカになったんだ。
少女漫画を読む友達に、『お花畑』と名付けた私が、まるでその名を
満たされていた。飢えなんて、感じる間もないほどに。
>>>2章:焦れ
浮気が発覚してから数日、私以外の全てはいつも通りだった。朝出社する夫くんを見送り、息子の面倒をみつつ、家事をこなす。出家時代のスキルを活かし、手際よく家事を片づけていく。空いた時間に買い集めた育児教本を読み、息子の将来を思い描く毎日。
ふとよぎる、あのアイコン以外、何もかも、いつも通りだった。
ある日、夫くんが「飲みすぎたから、同僚の家に泊まる」とメールが来た。用意した夕飯のおかずにラップをし、夕食を片づける。その言葉を鵜吞みにするほど、私もお花畑じゃない。十中八九、相手は不倫ちゃん。今ままで飲み会で遅くなることは多々あったが、必ず家には戻ってきた。代行はお金がかかるので、常々やめて欲しいと口うるさくしていたが、こんな形で約束を守られるとは思いもしなかった。
何かの当てつけ?私が何かしたの?私は我慢している。この幸せを離さないよう、必死で我慢している。おむつを取り替えない夫くんに、一度だって文句を言わなかった。夜泣きで毎日苦しんでいる私の横で、ヘッドホンをしている夫くんを怒らなかった。
新婚旅行当日に高熱をだし、家で休んでいる私を置いてグアム旅行にいったあなたの旅行話を喜んで聞いた。
これ以上、何を我慢すればいいのだろう。
夫くんをつなぎとめ、一生私から離れないようにするには、どうすればいいの?子供という鎖すらも、彼には意味をなさない。感情が、心が、頭が、不倫をしている夫くんでいっぱいだった。
その日、まるでこの状況を見越したかのように、とある刑事シリーズのドラマが放送されていた。山奥で、心中したと思われる男女。しかし、その男性には妻がいると発覚し、死んだ男女が不倫関係であったことを知る。心中かと思われた自殺は、妻による犯行だった。復讐を果たし、妻の悪心が収まるかと思いきや、この後に『本当の最悪』が訪れる。
夫は、妻に殺されてなどいなかった。
夫に関しては正真正銘、自殺だった。不倫相手が妻に殺されたことを知り、その相手を追って、夫が心中した。妻は復讐を果たすどころか、夫の愛情が自分ではなく、不倫相手にしか向けられていないことを、自ら証明してしまったのだ。
いつしか、かじりつくようにテレビを見て、番組が終わった後も、しばらくそのまま座り込んでいた。
私なら、どうしただろうか。
一時の感情に身を任せ、暴虐の限りを尽くしたか?探偵を雇い証拠を見つけ、慰謝料をふんだくって離婚するだろうか?
ドラマの見すぎだろうか、夫の復讐手段が湯水のようにあふれ出してくる。だが、いくつもの選択肢の先にある、重なり合った末路にあるのは『飢え』と『虚しさ』だった。
殺しても、離婚しても、一時的に和解しても、その先にある未来に『私の夫くん』は残っていない。
夫くんのいない家庭に「幸せ」は存在しない。
(本当にそうだろうか?)
生まれてから一度だって交際をしたことがなった。お見合いを一度だけし、そのまま結婚した私が、この幸せ以外を知らないだけではないのか?
テレビを眺めていても、答えなど出るわけがない。なら、方法は一つしかなかった。証明するしかない、『他の誰でもない彼だけが、飢えを満たす存在』たることを。
>>>3章:証明
休日、夫くんは溜まった疲れを癒すように、睡眠を貪る。寝転がり、動画を見たままねたのか、スマホは充電器から離れたところに落ちていた。拾い上げたスマホの電源を付け、夫くんの誕生日を入力する。
スマホが開く。夫くんらしい。
たどたどしく指を左右にスライドさせ、目的のアイコンを探し、タップする。アプリ画面が開き、「メッセージ」と書かれた箇所をタップする。そこには今までやり取りした女性からの名前が表示され、「TK」や「SR」といったイニシャルを使った偽名だと思わる名前がつらつらと並んでいた。
一つ一つ検閲していると、「○○日に、○○駅前で会いませんか?」と会う約束をしている文面を見つける。都合がいいことに、ちょうど来週の土曜日に約束を取り付けていた。
私は場所、集合時間を記録した。両親にベビーシッターを頼み、その日は息子を預かってもらえるようにした。
こんな時でも夫くんを中心に、私の日常は動く。気取られず、悟られず、いつもの一週間を演出する。
当日、夫くんは「一日遊び歩いて、飲んで帰る」と言い、車に乗らず出かけて行った。内心、「女と」が抜けていることを指摘しかけ、やめる。予め調べた目的地の駅に先回りし、普段はつけないつばのある帽子とサングラス、黒スキニーとスニーカーと、男装を意識した変装で近づいた。髪型の変化にすら無関心な夫くんのなら、きっとばれることはない。
駅前で何度もスマホを確認し、あたりを見回す。その対象が私でない憤りを押し殺のに、必死だった。声を掛けたのは「外はねボブのゆるふわ系カワイ子ちゃん」。茶色のベレー帽に白のオーバーサイズニット、レオパード柄のロングスカートにローヒールブーツ、小さめの肩掛けポーチ。
写真よりも幼く見える容姿と裏腹に、ニット越しに伝わる欲情を煽り立てるかのような胸部。先ほどから夫くんの視線が右往左往している。それから軽い雑談をはじめ、駅ホームへと移動する。付かず離れず、間に人を挟みながら、一定の距離を保ち、尾行した。駅ホームに入る前から電車に座るまで、不倫ちゃんはずっと腕を組んで、離れようとしない。
たまらず夫くんにメールを送信する。夫くんは右ポケットに入れたスマホを取り出し、文面を確認すると、その場で返信を返してくれる。またすぐに腕を組みなおしてしまったが、すぐに返信を返してくれたことが嬉しく、不覚にも満たされてしまった。
その後、二人はデートを楽しんだ。
私とは行ったことのない、高級そうなレストランで食事を済ませ、私には買わないブランド物のバックを買い、私には見せたことのない惚気顔を見せた。
いらない。
私はそんなもの、いらない。
なんで?
隣にいてくれるだけで、私は満たされるのに。
何度も葛藤し、そのたびに目の前の対象と比べた。比べて、自身が上であると言い聞かせ、安心し、目の前の現実に絶望する。浮き沈みを何度か繰り返し、気持ちととみに日が沈みきっていた。バーから出てきた二人の頬は赤く上気し、歩く足元がおぼつかなくなっている。ふらつき、もたれかかるように体を密着させ、耳元で何かをささやく不倫ちゃん。この距離から声など聞こえるはずもないのに、はっきりと脳内でその単語が再生される。
向かう進路にある建築物を知っている。そこでする行為を知っている。それが、明確な「証拠」になってしまうと、知っている。
気付けば、私は最寄りの駅のホームへと戻ってきていた。現場をおさえることなく、いつの間にかサングラスとマスクを外し、帰路についていた。目元をぬぐっても、袖は濡れていない。私は、いつのまにか壊れてしまったかもしれない。何度も感情を揺さぶられ、逃避しては現実に引き戻される。
私はあれじゃなきゃ駄目なのに、なんで他はあれを欲しがるの?
あれ以外になら何を選んだっていい、勝手に繋がればいい。
どうしてあれを選ぶの?あれは私が見つけたのに。
私が、私が、私が…
待ち人のいない家に着き、着替えもそのまま眠りにつく。ここにいるはずのない香りだけが、一時の安らぎをもたらすのだった。
>>>4章:あの笑顔が
目を開けると、朝になっていた。
体中が汗で気持ち悪い。着替えをせず寝てしまったせいなのか、うなされていたせいなのか、わからない。急いでシャワーを浴びる。身心ともにボロボロな体でも、全身にお湯を浴びると少しだけほぐれる感覚があり、気持ちよかった。夫くんが帰ってくる前に、急いで息子を引き取りに行き、早朝から迎えにきた私を怪訝そうに見るも、両親は何も聞かなかった。
昨日の今日で、取り繕うことなんて、できていなかっただろう。両親は最後に一言、「いつでも帰ってきな」とだけ言って。
どういう意味だろう。
あの2年間、帰りたいと願った時に一度だって帰って来いと言わなかったのに。
孫ができたから?それとも今にも死にそうな表情でもしていたのだろうか。今更、あの場所に居場所なんて、「幸せ」なんてありはしない。あるのは思い出の残り香だけ。
車を飛ばし、いつも通りの日常を演出する。夫くんは、飲んだ日の後には決まってアサリのお味噌汁を所望する。ご飯はなしで、簡単につまめる軽食を食べ、また眠る。急いで用意を済ませ、「ただいま」の声に心がざわつく。
「おかえり」って、自然に言えただろうか?
指は震えていないだろうか?
いつも、どうやって迎えてたっけ?
乗り物酔いでもしたかの如く、頭は重く、気持ち悪い。
「お、アサリのお味噌汁!ありがとう!すっごい飲みたかったんだ!」
眩しいほどの笑顔に、一瞬で酔いが覚めた。
何で?
あれほどのことをしておきながら、何で平然と笑顔で向き合えるの。
何で、私は許された気になっているの?
何で、何で、安心しているの?
涙が出た。
壊れて、ボロボロになった身体から、涙が出た。
あれだけの醜態を目撃し、怒りと悲しみと憎しみの入り混じった、形容しがたい感情をもってしても、涙が流れなかったのに。
「ど、どうした?どこか苦しいのか?病院に連絡するか?」
ああ、苦しいよ。全部、君のせいだ。
そして、あんな笑顔一つで騙されてしまう、私のせいだ。
一人で生きてた私に、君の毒は強すぎた。気付かないうちに染められ、抜けられない。たった1日でこのざまなのだから、嘘で繕うこともできない。
その日、「何でもない、何でもないよ」と、夫くんを抱きしめながら、独り占めできる至福に浸った。
>>>プロローグ
いつも通りの日常。
いつも通りの家族。
いつも通りの私。
保護フィルムが割れた、一台のスマホ。水色に光る、メッセージアイコン。
私は今日も、気付かないふりをする。
だって私には、あれしかいないから。
他のどの女と遊んだってかまわない。最後の拠り所に、なれるのなら。
でも、これだけは忘れないでね?
あなたが隣にいない未来に、何の未練もないことを。
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