不変のぼくらが持つ虚無と
服部ユタカ
一. 不変の医師
たとえ終わりが見えていても、私たちは今に生きていた。
いつまでも忘れないために、手にしたものを離さないために。
──小説『どこまでもあたたかい、ひえたてのひら』より抜粋
一.不変の医師
西暦二〇九四年の初秋。神奈川県藤沢市片瀬の自宅で、私は寝室で目覚めた。
朝一に居間のテレビをつけると、ニュースキャスターが無感情に国の首相の訃報を告げた。
『活動限界を迎え、立派に塵となりました。それでは次のニュースです』
悼むような素振りさえなく、ただの報告として人の死は流された。かくいう私でさえ、ただ一つ「もう六十歳だったか」と呟くに留まった。荒んだ国でよく政治を司る重責を担ったものだ、とも思ったが、口をついて出たのはそれだけだ。
「父さん、今朝も早いね」
開け放していた居間の入り口から息子の声がした。見れば、一義は寝巻きの白い半袖シャツと黒いハーフパンツのまま、短い髪をかきながら大あくびをしている最中だった。
「一義、どうした。まだ通信講義まで相当時間があるはずだが」
「少し運動でもしておこうと思って。最近部屋に……ふあ……こもって本ばかり読んでいたから」
「あまり遠出をするなよ。お前は捻挫も骨折もするのだから」
一義は純粋人だ。私や多くの人類とは違って、怪我をして数秒で完治するような体の構造をしていない。だからこそ私が医師としてあり続ける意味もあるのだが、さすがに頻繁に怪我をするようなそそっかしさでは心配も尽きないのだった。
「大丈夫、ちゃんと開けた道選ぶし、車にも気をつけるよ。そろそろ僕も大人なんだから心配しないでよ」
「見た目だけは私に近くなってきたが、その慢心で半年前に骨折したじゃないか」
「あれは、まあ、猫が車道に飛び出したから、仕方なく」
バツの悪そうな顔を見せる息子を見て、私は少し羨ましく思った。生まれもっての変化人である自分には備わっていない感覚が、彼ら純粋人にはある。スリルにあえて近寄り、反して、甚大な危機を回避する。もちろん、強い悲しみや怒りといった情動を含め。世界的に情操教育は徹底されていたが、痛みを感じない者には他者のそれを理解することなどできないのだ。
〝私たち〟にあるのは、ひどく薄まりきった対人関係に抱く、わずかな感情程度だった。
「コーヒー淹れるけど、父さんはいる?」
「……いただこうか」
飢えや渇きすら覚えなくなっている我々にとっては嗜好品でしかない食物も、一義にとっては必要不可欠な物だ。だから、我が家の冷蔵庫には国から支給される食糧が定期的に補充されている。コーヒーなどはもはや嗜好品の極みだったが、私は息子とマグカップを傾ける瞬間を大切にしたかった。
「タグは持ったか。あれがないと面倒だぞ」
玄関口で靴の先を床につく一義に声をかけると、彼は背を向けたまま右手首の紐に結えられた金属プレートを見せた。ジャージの長袖から覗くのは、純粋人であるという証。希少種となった彼らだけが持てる唯一の守り札だ。
「何かあったらすぐにそれを見せて──」
「周りに助けを乞うこと、電話ができればすること、安全な場所で休むこと。もうわかってるよ。じゃあ、ちょっと江ノ島辺りまで走ってくる」
扉が閉まると、私は隣接して建てた医院の方へと向かった。さて、今日は患者は来るだろうか。自分の息子以外に。
手洗いで鏡を見ると、少し成長した一義のような顔の人物が写った。私も老けないな。四十二になるというのに、やはり二十歳から肉体は変化を止めてしまっている。
二〇五〇年に起きた世界各地の変化は、すぐに周知された。戦場で致命傷を負った兵士がたちどころに完治して立ち上がった報告。生後四週間の赤子が階段から落ちて絶命したと思われてもすぐに泣き声を上げた珍事。または不治の病とされていた難病からけろりと快復した患者の事例。
それらはその年の三月十八日に確認され、どうも人類は新たなステージへと上がったようだと認識された。不死の時代の訪れだった。彼らのような人類は変化人と呼ばれた。
完全な不老不死の定義から見れば相当に不完全ではあったが、怪我も病気もすぐさま完治してしまうのだから、医師の需要は極端に減った。残された資料によると、その頃は純粋人が総人口の三割は残っていたが、新生児はほぼ不死の特性を持って誕生した。
変化人の増加に伴い、様々な情勢も移り変わり、手始めに各地で殺傷兵器が撤廃された。平和のためというより、単に無駄だと知れたために製造や管理が終わったのだ。北の国が核実験を行っても、変化人には害がないことで、よりいっそう無意味さが認知された。
私、真田義之が生まれたのは二〇五一年の冬で、ご多分に漏れず変化人だった。両親は純粋人だったが、私はその愛情をうまく理解できずに育ち、しかし、恩は返そうと医師を志した。変化人の研究をして、両親にも不死を与えようと思ったからだ。
当時はまだ変化人が活動限界を迎えると塵と化すことがあまり知られていなかったし、何より私は若かった。だから、変化人が人口の大部分を占めて「もう研究の意味も価値もない」と判断されるなど思いもしなかった。
私が大学病院に勤める三年前、在学中に両親が逝去した。無理な運転をする変化人の車に撥ねられたのだという。今もその犯人は刑務所で活動限界まで閉じ込められている。死刑が通用しないからだ。
その報せを聞いて私が何を思ったか。果たして、何も思わなかったのだ。恩を返すあてがなくなったことだけが理解できた。ただ、それだけだった。研究職へと進む道で立ち止まり、大学病院勤務の横道を経て、町医者に落ち着いた。
藤沢市に開業した私の医院は小さく、受付の牧村さんという女性以外にスタッフはいない。彼女はあと三年で活動限界を迎える変化人で、私よりもずっと生真面目そうな顔をしている。若い外見の彼女は眼鏡の向こうで無感情にこちらへ目線を送ると、少しだけ会釈をして書類整理に戻った。長い黒髪を軽く耳にかけ直すさまに、申し訳ない空気を作りつつ言う。
「すみません牧村さん。いつも暇でしょう」
「いえ、本日は先ほど予約の電話がありましたので、それまでに周辺を掃除しておきます」
ツンとした態度だが、勤勉さを買って雇っているので、その点は問題ではない。
「患者は?」
「腕に熱湯をかぶってしまい、火傷をされたそうです。十五歳の女性ですね。十三時半頃到着とおっしゃっていました」
「わかりました。それでは私も掃除の準備を。確かにまた少し汚れてきましたから」
自身の衛生状態に気を使わなくともよくなった世界は、大半が荒れた。藤沢市は昔から「多少汚れてはいるが、ぎりぎり海水浴のできる海」に面していたが、今やそれも失われて久しい。ところ構わずゴミが捨てられ、限られた幹線道路以外は舗装もされず、政府がわずかな整備を行うのみ。汚染に無関心となった人類の多くが日々を漫然と、平板化した状態で生きている。
医院の前の道路は辛うじて舗装されていたが、やはり雑然と何かが散らかっている。潔癖症の類である牧村さんがこまめに清掃を実施してもこれなので、彼女が塵となった後はどうなってしまうのだろうと考えた。
「一義さんは」
「息子ならジョギングに。最近は課題で缶詰でしたので」
「このご時世に純粋人が医師を志すというのはご立派です。さぞ誇りであることでしょう」
ホウキで辺りを掃いていた牧村さんが、静かに言った。
「私の背中を追うことは無駄だと説いてはいたはずなのですが、それでも蛙の子は蛙ということでしょうか」
一義は自由学習となってしまった高校課程のカリキュラムを飛び級で十六歳の頃に終え、今はアメリカの医大から発信される通信制の大学講義に参加している。あちらとの時差は十三時間。彼は夜中にあちらに合わせて講義を受けるため、日中は眠くて仕方がないはずだ。それでも健康を維持して食らいついているということは、本気なのだろう。
「成長したらまるで別の生き物であることもあります。まあ」牧村さんがチリトリを手にしてしゃがんだ。「そもそも私たちとは生物種が異なっていますから当然のことではありますが」
清潔感のある長い髪を耳にかけて、牧村さんはふと顔を上げた。私が動きを止めたからだと気づくのに少しかかった。
「不躾な物言いだったでしょうか」
「構いません。事実ですし、私も同じように思います」
眼鏡の位置を正した牧村さんがなおも静かに言った。
「私から申し上げることではありませんが、一義さんは素晴らしい人柄をお持ちです。大切になさってください」
普段余計な口を聞かない彼女にこう言われると、さすがに見た目以上に年齢が上であることを感じざるを得ないのだった。
医院の前を粗方綺麗にすると、私は手を洗いに戻った。自分が清潔でなくとも構わないが、純粋人相手に汚れた手では立ち会えない。まるで残量の減らない液体石鹸で手を清めてから、私は一度、自宅に戻って昼食を準備した。無論、一義のためだ。野菜を刻んでいると一義が帰宅した。ジャージは脱いで、腰に巻いている。
「まだ暑い日は暑いね……。喉乾いて仕方ないよ。まだ麦茶あったかな」
「外で買ってくればよかったじゃないか」
純粋人はちょっとした特権人種なので、タグを見せれば公共交通機関や幾つかの施設の利用、飲食物の提供が無償で受けられる。しかし、一義はそれをあまり使いたがらなかった。それを買い物と呼んでいいのか、という彼の言葉を以前受けたことがあった。
「寄り道も少しだけ考えたけど、コンビニまでの道が雑な駐車で塞がっててさ。なんかもう、いいや、って」
一義は牧村さんとは違った方向で潔癖で、多くの分野でズボラだ。しかし、それで無理をして車の向こうまで行こうとしなかったことはよしとしよう。
「麦茶はないからこれを飲め。昼はあり物で焼きそばだ」
「父さんの焼きそば好きなんだよなあ。ありがたいよ」
私が差し出したペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、一義はとても嬉しそうに言った。汗の滲んで、色の濃くなった半袖のシャツが、肌に貼り付いている。そこから息子の筋肉量の増加を認めることができた。変化を続けている肉体がそこにあった。
「いただきます。あ、僕の方だけ肉多くない? いいの?」
「そもそも私は食べなくても問題ないから」
「悪いなあ。じゃあこれ、ニンジンあげるよ」
「それは厚意でなく、単に食の好き嫌いの表れだ」
体の維持には必要な栄養素がある。当然、純粋人ともなればそこには気を使わねばならない。医師を志すとなればそれはわかっているはずなのだが、一義は偏食の気が抜けなかった。
「ビタミン剤で足りるよ」
「あれは補助食品だ。本来の食べ物ではない」
そうは言ったものの、そもそも自分が本来の食べ物の意味をよく知らないのだ。自身で、どことなく説得力のなさを覚えた。
十三時半を迎えて、患者が到着した。名を三上春菜という。薄手の白いブラウスにやや長い丈のこげ茶のスカートを合わせた大人しい服装の少女で、一本の太い三つ編みで長い髪を束ねている。顔立ちにはまだ幼さがわずかに残っていた。
「では、腕を見せてください。皮膚は剥がれていませんか? 痛みは?」
「あまり大量のお湯ではなかったので、そこまで大きくやってしまったわけではないです。電話で指示を受けた通り冷やしておいたら、多少は痛みが引きました」
「……水疱はできそうですが、大きな物ではないでしょう。軟膏を出しますが、塗布の際もできるだけ刺激を与えぬようになさってください」
三上さんは安堵したような表情で患部を見ると、私に頭を下げた。
「ありがとうございました。先生って丁寧ですね。私、お医者さんにかかるの四度目なんですが、今まではほとんど機械が処置してただけだったので」
「変化人はあなた方とは感覚が違うので、接触を避ける傾向があります。私自身も、もしかしたら医師には向いていないのかも知れません。ただ、息子が純粋人なもので慣れているといえば、そうなります」
純粋人相手の医師にとっての話し相手など、牧村さんと息子を除けばイレギュラーな存在である患者くらいだ。だからか、私はつい話を長引かせる癖がついた。自らの私生活を伝える意味など特にないし、むしろ避けるべきではあるとも思うが、それでも、退屈な毎日に何か変化を求めているようだった。
「へええ、息子さんが。おいくつなんですか?」
「じき、十八になります。これがまた食の好き嫌いが激しいやつで。困りものです」
無表情で言ったはずだったが、三上さんがここで意外そうに声をあげた。
「わあ、先生の笑顔素敵ですね!」
「……?」
顔を触ってみるものの、とりわけ変化は感じられない。私たちのような人類種には、表情筋などあってないようなものだからだ。
「あ、すみません。私、なんだか見え方がおかしいみたいで。声色とか話している内容から、表情が勝手に連想されちゃうんです。検査で何か出るわけじゃないので、異常ではないと思うんですけど」
「その特性あるいは特技は、素晴らしいですね。非常に稀で、尊い技能だと思います」
瞬間、三上さんが顔を赤らめた。その両頬を手で覆った彼女はこう続けた。
「わっ、恥ずかしい……。家族も変化人で無関心だから、褒められ慣れてなくて……」
変化人の多くは子育てに向かない。それでも残り香のごとく立ち上る本能で生殖は行うのだから、はっきり言ってタチが悪いように思う。私とて素晴らしい父親であることはできなかった。殊更、良い夫でもなかったように感じる。妻が家を出て行ったのはもう十年も前になるか。お互いに干渉は最低限であったし、おそらく、彼女は純粋人である息子の感情に付き合えないことに嫌気が差したのだろう、と推察していた。子への無関心が自己嫌悪を抱かせていると薄く気づきつつも、私は妻のケアを怠った。
「三上さんにとっては、それでも家族は愛おしいものですか?」
ふと、踏み込んだ質問をしていた。私の専門は内科で、横道に逸れる経過で外科も多少学んだ程度。心の問題にまで踏み入るなど越権行為だ。
三上さんが少しだけ神妙な顔で考えて、深く頷くと、こう言った。
「多分、世界で一番私が両親を愛していますね、はい」
真剣な面持ちで言うものだから、私は吹き出せるものなら吹き出していただろう。残念ながら、現実には口元がひくひくと動くに留まるだけだったが。
「よろしければ、軟膏を受け取ったら息子に会ってやってください。あれも純粋人同士のコミュニケーションを求めているので。特に、対面で会える機会など滅多にないものですから」
公私混同もいいところである提案をすると、三上さんは顔を明るくして快諾し、前髪を少しいじった。いかにも年頃の娘らしい、といった様子の反応が眩しく映る。
「先生のところを選んでよかったです。巡り合わせですね」
「ええ、その巡り合わせが楽しいのです。でも三上さん」私は努めて重くならないように返した。「火傷などしないことが大前提ですよ」
無表情である自覚を持って言ったが、三上さんの目にはどう映ったのだろう。彼女の、少し反省したような、はにかんだような色を見せる表情が、私には読めなかった。
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