七、先触れ

 追いかけられている、とあった。文章は筋道が通っていて読みやすい。この種の相談はみんなそうだ。とはいってもそうでなければ医師によるカウンセリングを勧めるのだが。

 読んでいるうちにも別の相談メールが着信する。それを横目で見ながら新規向けのひな形を呼びだし、相談者の名前を入れ、文章の端々を整えると返信した。これで換金可能なポイントが得られる。一回一回はスナック代ていどだが、塵も積もればで、一日やっているとけっこうまとまった金額になる。副業としては充分だ。最近作ったひな型のおかげで効率も良くなった。

 それでもいきなり素人が成功するのは無理だ。こういう相談をしてくる相手をうまくあしらわなければ悪評が立つ。ネットからはじき出されたらやっていけない。相談事の一切を否定せず、しかし一か所はちくりと刺す部分を作るのがコツだった。そうすると、信頼できると評判になる。

 メール整理用のソフトが、次の相談者は三回目だと表示する。別のひな型で回答した。どうもこの相談者は夢に出てくる怪物がなんの象徴か示してほしがっているようだ。黒いぶよぶよした不定形の塊で触手が数十本。逃げようにも道が粘っている。よくあるやつだが四十代の大人が見るには子供っぽすぎる。フロイトならなんらかの性的な抑圧とかいいそうだが、年齢を考えて仕事の不安としておいた。一応凶兆ではあるので休暇を取りなさい、とよくある無責任な提案をする。現代人に対してまちがいなく、かつ当たり障りのない答えだ。そして効き目もある。ほとんどの悪夢は休めば見なくなる。それほどまでに人々は疲れている。

 こうして一日が終わる。それにしても、と茶を口に運びながらきょうの相談をざっと見なおす。ほとんどが追いかけられる夢だった。追いかけてくる相手はたいてい黒い塊で、人型だったり不定形だったりするが、虫や獣の姿であることはほとんどなかった。占いとしては楽だった。定型文を返すだけだ。追いかけてくる黒いものは凶兆と見てまちがいない。

 もう二、三週間分さかのぼってみる。すると、急に増え始めたのは先週からだとわかった。それまでの相談内容は多様だったのに単一になっている。こういう場合は海外での大規模な天災や戦争など漠然とした不安材料があるものだ。検索してみると遠くの島々で発生した感染症がでてきた。そういった病気の流行は地球全体としてはいつもの平常運転だが、一部の繊細な人々に影響を与えたかもしれない。いくつか記事を読む。こういう情報を占いの結果にほのめかすと信頼度が上がり、依頼も増える。

 相談者は不安を抱く自分を肯定してほしいのだ。夢なんて起きている時に得た情報を整理整頓する過程で生じるカスなのに、運勢や未来を反映する意味ある知らせととらえる者たちがいる。おかげでこちらは潤う。だましているつもりはない。安心という商品を売っていると思っている。そのための技術は持っている。素人が喫茶店で相談にのっているのとはわけが違う。こっちはプロだ。


『……はじめてご相談いたします。先生の評判はネットで知りました。

 実は最近見るようになった夢についてです。怪物に追いかけられるのです。影みたいでぬるぬるした肌の、おおざっぱには人型ですが、手足以外に触手が何本もぶらさがっています。黒板を爪でこするような音と、のどを痛めた人のような声を出しながら迫ってきます。言葉は分かりませんが、どうもわたしの名を呼んでいるようなのです。

 夢の中のわたしは逃げるのですが、道が粘っていて思うようにスピードがでません。接着剤を撒いたかのような粘りです。まわりに通行人はいるのですがなにもしてくれません。時々伸ばしてきた触手が背中に当たります。服越しなのになぜか分かるのですが、すごくぬるっとしていて暖かいのです。気持ち悪いです。

 夢の終わりはいつも追いついてきたそいつに抱きつかれます。するとやわらかい体に取り込まれるのです。黒いどろどろが耳や鼻や口に流れ込んできたところで目が覚めます。嫌な目覚めで心が疲れ切っています。こんな夢を毎日見ます。

 先生、これは何でしょうか。何を表しているのでしょうか。また、わたしはどうすればいいでしょうか。お忙しいところお手数おかけしますが、ご回答よろしくお願いします……』


 年齢や職業などほかの情報をみる。三十代、女性、既婚、事務系の仕事。

 新規向けのひな型でいいだろう。しかし、どうも引っかかった。そこで、それをベースに質問することにした。これは一回分になるので報酬を考えれば損になるが、自分の好奇心が勝った。


『……さて、夢についてですが、結論から申しあげれば黒というだけで凶兆と判断されます。それ以外の要素についても良い運勢を表している部分はございません。しかしながら、夢というものはすべてがそういった運勢や未来を表すわけではなく、精神的な疲れや不安が反映されることがあります。

 そこで、ご質問ですが、ご相談のような夢を見られるようになった近辺で新たな業務や地位の変化など精神的負担となるようなこと、または引っ越しなど生活上の変事はなかったでしょうか。

 個人的なことをお伺いして誠に恐縮ではございますが、夢判断を行うにあたり、そのような要因を取り除いておきたいと考えております。様々な精神的緊張を強いる現代では夢をそのまま占うと誤判断となりかねませんので慎重を期したく、ご回答のほどよろしくお願い申し上げます……』


 返事はすぐにきた。ずっと張り付いていたのだろうか。


『……ご回答ありがとうございます。凶兆とのこと、不安に感じております。

 ご質問についてですが、会社で最近大きな組織変更があり、事務においても前処理、後処理で気を張りつめる毎日を送っております。そのせいでしょうか。たしかに追いつめられるような感覚が抜けない点は自覚しております。ただ、そのような忙しさはいまに始まったことではなく、以前もありましたがその時はご相談のようなしつこい悪夢は見ておりません。また、生活上の変化はございません。

 ご参考になるかどうかわかりませんが、夢判断をよろしくお願いいたします……』


 文章からすると特に問題はない。仕事上の圧はあるが大きな要因ではないようだ。通常の夢占いを行う。

 そうすると、やはり凶兆ではある。後はどんな凶事がいつ現れ出るかだ。キーワードを拾う。影、ぬるぬる、人型、触手。そして不快な声で意味不明なことを叫ぶが、どうやら相談者を呼んでいる。暖かい触手が触れる。結局は追いつかれる。包み込まれ、耳や鼻や口にそいつが流れ込んでくる。

 これは体調の不良、病気を予見しているようだ。しかも重大な。一方で感染症の報道が影響を与えているとも考えられる。太平洋の特定の島々で発生しているがいまのところ外へは出ておらず、隔離も速やかに完了しているので世界は落ち着いていた。冷たいいい方だが、そこの島民以外にとってははるか遠くで起きたできごとに過ぎない。

 ふつうに占うのなら、呼吸器や感覚器系の病気、特に感染症に注意した方がいいという答えになる。夢では追いつかれているので凶事はかなり近づいているとみていい。用心が必要だろう。

 健康診断を提案しようか、と迷う。これはひとつのテクニックで、三十代で仕事が忙しいというならどこかになにか見つかるものだからだ。絶対に当たる予言といえる。ただし、任意の健康診断として負担をかけるので、軽微な異常しか見つからなかったときに信頼の度合いが下がってしまう。大層にいっておいてこのていどか、金と時間をかけたほどじゃない、となる人がいるのだ。そのあたりのさじ加減が難しい。

 今回はやめておこう。通常の返信を行う。凶兆であり、近い将来の病気、特に呼吸器系や感覚器系のものを示唆していると書いた。

 そこに別のテクニックを加えた。不安ばかり感じさせると次回の相談がなくなるのでちょっとだけ安心させる要素を混ぜるのだ。


『……分析は以上となります。また、ひとつ申し添えておきたいことがございます。この夢はご心配されているような悪夢の類ではございません。体調の変化などを暗示する予知夢になります。夢の内容が恐ろしいものなので精神面での疲労をお感じになっておられますが、どうかご安心ください……』


 さらに文章を整えて送信した。メールボックスには次の、そして次の次の相談がたまっている。いつのまにかポイント総計が換金可能額になっていたのでそうした。それと、ランクが上がっていた。登録しているサービスでの表示やおすすめ順が上がる。これでさらに相談が増えるだろう。

 そしてその通りになり、相談件数は増加した。だが、と首をかしげる。ほとんどの内容はおなじだった。翌週、さらにその次の週も変わらなかった。黒いなにかに追いかけられるという夢が大半だった。さすがに不安になってきた。なにかのいたずらか、試されているのだろうか。たとえば人工知能で生成したほぼ同内容の相談でこちらの回答パターンを学習し、占いアプリでも作ろうとしているのかもしれない。そうなったら人間の回答者はかなわない。利益を吸い上げる巨大な占いシステムが出来上がってしまう。儲かるのはその仕組みの運営者だけだ。

 同業に声をかけてみた。夢占いをしている者だけでなく、タロット、四柱推命にも聞いてみる。

 すると、そういう夢を相談されたり、話に出てきたりするのはたしかに増えていた。また、直接や遠隔の対面でもその傾向はあるとのことだった。

「そうなんですか。私はメールのみなんで、人工知能かなにかで自動生成した文章を使ってデータ取りでもしてるのかなって思ってたんですよ」

「いやあ、私はブースを構えて直接相談受けてますけど、そのパターンの夢の話はたしかに増えてますよ。何なんでしょうね」

「報道のせいでしょうか。例の病気の」

「あ、あれか、なるほど。かもしれませんね。そういう得体の知れない不安は大きく影響しますから」

 それから報道と心理についての御高説を聞かされる羽目になった。いい加減なところで挨拶して切り上げる。どこかの本の切り貼りなど聞いても役に立たない。


 絵の描ける相談者が夢に出てきた黒い怪物をイラストにしてきた。安っぽい映画に出てきそうな姿だった。ひな形を呼びだし、これまで通りの回答をしようとしたとき、画面の片隅に流しっぱなしにしているニュースにおなじ姿が現れたので驚いた。すぐにニュースの方を全画面にした。

 例の病気が発生している島々のうちもっとも小さい島で、ボランティア医師団のひとりが前例のない病気を発症したという。治療に当たっている感染症とはまったく別のもので感染性は認められないとのことだった。

 他の医師が撮影した映像が繰り返し流される。顔や手足など服から出ている部分がつやのない炭のように黒くなっていた。目全体や口内も黒い。全身そうなっているとのことだった。また、シーツには黒い粘液性の分泌物が垂れていた。腰のベルトのあたりが不自然に膨らんでいたが、触手状の突起物が複数本生えている様子の静止画が画面に挿入された。本人の意識はなく、うめくばかりで呼びかけにも答えない。

 調査や治療は進んでいなかった。島は不便な場所に位置しているうえ、島民がこの医師を崇め奉って移動を許さないらしい。港は押さえられ、航空機の離着陸も住民の抵抗により無理だった。かれらはかなり感情的でけが人が出ていた。また、現在は通信もできなくなっており、救助隊の準備が行われていたが、武装が必要かどうかでもめていた。この島々は小さくとも独立国だった。

 画面を分割し、相談者のイラストを横に持ってきて比べた。ほとんどおなじだった。違うのはイラストは服を着ていないことくらいだった。

 返事は迷ったが、凶兆ではあるが悪夢ではないと占っておいた。報道との類似については一切書かず、予知夢であると受け取られるような表現は避けた。下手なことを答えて評判を落としたくない。いつもの通り健康に気をつけるよう書き添えた。

 しかし、ネットはすでに大騒ぎになっていた。自分が悩まされていた悪夢が現実にあらわれた。しかも人がその姿になっている。一日経たないうちにメディアが興味本位で取り上げた。人々の見ていた悪夢とボランティア医師の奇病とは関係するのか、非常にまれな偶然か。識者と称する人たちはだれも判断したがらなかった。その点では占いとたいして変わらなかった。

 以前の相談者から再問合せがあったが、今回のように明瞭に人型を夢見ていた者はいなかったので、関連についてはやはり明確には答えずぼやかしておいた。それ以外できることはなかった。


 さらに三日後、大型のヘリコプターが強行着陸し、医師団を全員連れ出した。威嚇発砲も行われ、島の自治政府は抗議したが、救助に当たった国々は礼儀正しく無視し、記録映像を公表した。

 記録では、島民は半狂乱で黒い塊となった医師を取り囲み、かすれた声で祈りを捧げていた。英語の字幕がついている。“herald”と“sacred city of dream”という言葉が繰り返されていた。『先触れ』と『聖なる夢の都市』とでもいうのだろうか。神が降臨する前に触れてまわる存在が夢の都市からやってくるといいたいらしい。どういうつもりかは分からない。あんな自分では動けないような病人が先触れなのだろうか。うめくばかりで話もできないのに。


 報道はもう夢の話はしていない。医師のかかった奇病と島の感染症についてのみ伝えている。ネットでのオカルトじみた噂は下火になっていった。相談を受ける立場からはかんちがいしてしまうが、黒い塊を夢見ていたのはほんのわずかだった。そこに騒ぎに便乗してアクセス数を稼ごうという輩が現れ、話自体の信憑性が下がってしまい、いつものようにぐだぐだになって表舞台から消えた。


 しかし、と考える。事実は事実だ。黒い塊、『先触れ』を夢見ていた者たちがいる。ただ、いまは件数は減っていた。ふだんの夢占いになってきている。

 そういう相談に答えながら、関連報道を小画面で開いておいた。特に救出された医師のその後を知りたかったが、病院に隔離され、家族は取材を拒否していた。

 島の感染症も終息に向かっていた。渡航制限はまだ続くが、恐れるほどではないという論調だった。だが、島民は気が抜けたようになっている。取材に対し、『先触れ』が『正しい祭壇』から連れ去られたとのみ繰り返していた。


『……このような夢を繰り返し見るようになりました。目が覚めても疲れたままです。この、手足が黒く柔らかくなるのはなにを表しているのでしょうか。また、石のベッドに寝ているのはどういう意味なのでしょうか。ご判断お願いします……』


 自分の体が変化していく夢というのは吉兆でもあり凶兆でもある。それと、ベッドが石なのをどう解釈すべきか。

 いや、とまた小画面に目をやる。ベッドなのか?

 このような訴えをしてきたのはこの人だけだった。ひな形で答えて終わりにしても良かったが、引っかかることは聞いておきたかった。そこで、夢なのでだめで元々だが、もう少しくわしく思い出せないか確認した。特にベッドの周りはどうなのか。屋内か屋外か、ほかに誰かいないのか、色や音はないのか。

 中一日置いて答えが返ってきた。時間をかけて集中してみたら思い出せたという。後から詳細を付け加えられるというのは夢にしては珍しい。

 まず、ベッドというのを取り消していた。屋内の一段高いところに寝かされていたようだと書いていた。周囲は石の壁で、動物か人の顔がびっしりと彫ってあったという。また、仮面をつけた人々が多数取り囲むようにいて祈っていたが、文句は不明瞭で分からなかった。そもそも声は黒板を爪でこするような音で大変不快だった。その仮面の目のふちが赤かったのを思い出せたとあった。

 しばらく考え、返事に対するお礼と、夢占いとしては凶兆であり、今後の行動を慎むよう助言した。

 そのあと、思いついてほかにも同様の夢を見ている人がいないかネットを検索した。翻訳サービスを使って海外も調べた。しかし、他には出てこなかった。単に書いてないだけか、本当にないのかは分からないが、ごく少数であるのははっきりした。


 月が明けて、例の医者が亡くなった。漏れ伝えられた情報では、遺体は真っ黒な塊で触手状の突起物が生え、黒い粘液を垂らし、最後までうめいていたという。そのうめきは音楽の素養がある者には構造のある曲に聞こえたらしいが、とにかく真偽の確かめようがなかった。

 それとほぼ同時にあの島々の住民は以前の生活にもどりはじめた。奇病に関わる騒動についてはあまり口にしない。一時の悪い夢のように考えていた。植民地時代の教会にも人がもどってきた。休日に集まった人々は理解可能な言葉で祈った。

 さらに日が経ち、黒い塊についての相談は無くなった。夢占いはそれこそ人工知能でもできるような、様々な象徴を組み合わせて回答するだけの業務になった。副業としては効率が良くなった。それでまたランクが上がり、占いのジャンルであれば、おすすめ回答者のトップを狙える位置についた。

 そこでちょっと扱う件数を減らした。目立つのは目的じゃない。人によっては高まった知名度を利用して出版などを行おうとするが、そうする気はなかった。これはあくまで副業だ。いつでも幕引きできるようにしておきたいし、ネットの掲示板に専用のスレッドが立つなどぞっとしない。

 相談数を減らしたので暇な時間ができた。余裕といっても良かった。

 だけど、なぜこんなにすっきりしないのだろう。会社でも家でも心に時間ができると黒い塊の一件について考えていた。スマートフォンやパソコンのブラウザには調べて一時保存したページやそれ関連のブックマークが並んだ。

 こんなにも引かれるのには理由があるはずだ。考えてみるが分からない。いままであてにもしていなかった夢を分析してみようとしたが、見る夢といえば試験ができずにあせっていたり、遅刻しかかって走っていたりといったものばかりだった。あまりにも正常過ぎて夢判断には使えない。

 使えない? いったいなにをしようというのか。いつの間にか夢に意味があると考えていた。ただの情報整理じゃなかったのか。記憶の整頓。その際の情報の端切れが夢のはずだ。前にそういう説の本を読んでおおいに得心したのを思い出す。だから夢は支離滅裂であると同時に個人的なものでもあるのだろう。

 今回のように共通した象徴が複数人に現れるのは珍しいが、それは報道に影響されたものだろう。ただでさえ世間は感染症には敏感になっている。一部の繊細な心が過剰に反応するのはあり得る。

 一方で、その象徴が黒い人型や塊となった点については分からない。これは夢の方が先だった。粘液や触手もそうで、これは相談の記録を見れば明らかだ。再度よく確認したが、ほとんどはボランティア医師の奇病の最初の報道より以前でまちがいなかった。


 夢の怪物には、黒い表面、粘液、触手状の突起、追いかけてくる。そういう共通の要素がある。それと、あの島民の祈りにある、『先触れ』と『聖なる夢の都市』とはどういうことだろう。これまで採取された島民の神話や伝説にはそのような話はなかった。

 考えるのをやめてしまいたいのに考えてしまう。いつの間にかあの島に行くツアーはないかと探していて、われに返ってブラウザを閉じたこともあった。通常であれば空路で二十五時間ほどだった。中継地で一泊しなければならない。もちろん、いまは渡航制限がかかっている。

 また、医師についての続報はまったくなかった。奇病なのにどのような性質のものかすら報じられないし、それが問題になっている様子もない。そもそもあの医師一人だけなのだろうかとさえ思う。なにかを隠したい勢力があって、そいつらがへまをしてしまって漏れた一例というだけじゃないのか。

 そこまで考えて打ち消した。幼稚な陰謀論になっている。世界中のどの報道機関も取り上げないのなら、単に無価値なだけに違いない。自分だけが真実に気づいたなどと得意気にするのは中学生くらいまでだ。いいかげんにして、もう寝よう。


 あれはだれだろう。知らない人だが、ついていかなくてはならない気がした。しかし、その見知らぬ人はこちらを見ると足を速めた。だが、足運びが変だ。足の裏が地面に貼りつくような、そしてそれをはがしながら動かしているように見える。

 心配になったので声をかけた。それでも止まらない。ちょっとずつ近づく。もう少し。

 追いついた。肩に手をかける。その手と腕は見慣れた自分のものではなかった。

 黒くて、どろどろした表面が相手を包み込んでいく。


 そんな夢を毎日見るようになって十日ほど過ぎた。もう分かっていた。自分が夢の怪物になったようだ。これまでの相談事の内容をなぞっている。どうやらこの件について考えすぎたらしい。

 相談を一時休止にした。しばらくは会社勤めだけにし、一定のリズムで生活しよう。前にも似たようなことがあった。相談事に入れ込み過ぎると流れに巻き込まれてしまう。自分は常に岸にいなければならないのに、水に入ってしまったのだ。

 解決策は離れること、だ。


「どした? ひさしぶりに飲むか。案件かたづいたし」

「いいね。飲もう」

 同僚の誘いを受けた。しかし、酒も肴もおいしくなかった。

「おい、弱くなったんじゃないのか」

「みたいだな。どうもいけない。すまんな」

 そう謝って一軒目で帰った。本当は酔いがまわりかけたとき、ふっと周囲の様子が数秒変化し、それに驚いたためだった。

 居酒屋の壁が、顔が彫られた石の壁になった。まわりの人々は仮面をつけていた。ざわめきはきしむような不快な音だった。


 家に帰ると着替えもせずに冷凍庫からウォッカを出した。開けて嗅ぐとこれだという感じがした。心のままに一瓶を一気に飲む。


 壁が石を積んだものに変わった。居酒屋の時とちがって解像度が上がり、ピントもあっている。石は一つ一つは人の頭ほどで形が異なっている。それらがすき間なく積まれていた。

 それぞれに彫られている顔は人でも獣でもなかった。目、鼻、口がおぼろげにわかるが、形も数も配置もまともな生き物ではなく、でたらめなところから触手状の突起が生えていた。触ると自分の粘液で黒く光った。べたべたと撫で、彫られた部分の凹凸があるていど埋まると夢の怪物になった。

 声が聞こえてきた。最初はきしんだ不快な音だったのだが、耳を澄ますと自分に呼び掛けている声だとわかった。


“『座』たる者は幸いかな”

“『座』たる者、肉を脱ぎ、心清くあれ”

“『座』たる者、先触れを迎えよ。そは『告げ知らせるもの』なるが故に”

“『座』たる者、そは……”


 壁がもとに戻った。いつもの壁紙だった。ウォッカの空き瓶が転がっていた。酔ってはいなかった。すこしの間部屋の真ん中で立ったままぼうっとしたが、われに返ると水を飲んで風呂に入って寝た。夢は見なかった。


 翌日は土曜なので、朝はベッドでごろごろしてなかなか起きださなかった。スマートフォンでニュースを見る。もうあの島の報道はなかった。酒も残っていなかった。

 朝食の前に昨夜のことを思い出し、ウォッカを一口あおってみたがむせた。口内と喉が焼けるようだ。やはりこれはカクテルのベースにする酒で直接飲むものじゃない。ならあれはなんだったんだろう。夢ではない。空き瓶はちゃんとあった。

 飲み過ぎでおかしくなったのだろうか。健康診断ではなんの異常もなかった。それに、ウォッカ一瓶を空けてしまったなど信じられない。


 その夜、意を決してもう一度やってみた。朝とちがい、ウォッカの匂いに不快感はない。瓶を口に当ててひっくり返す。水のようにどこも焼かずに体内に滑り込んだ。


 あの石壁がまわりを囲み、祈りの声がした。なぜか、そうしなければならない気がして島民のひとりに近づくと、仮面をはいだ。そいつはニュースでみたあの医者だった。祈りに紛れる不純物。こいつらはいつもそうだ。研究という名の覗き趣味を儀式の神聖さより優先されるものと思っている。腹が立った。島民の声にも怒りが混じっている。

 押さえつけられ、床にはいつくばらされたそいつに触手を伸ばす。顔を覆い、目、耳、鼻、口から体内に侵入し、その不躾な肉塊を罰した。そう、『座』による罰は時間に縛られず、遡れるのだ。

 しかし、冷静さを欠いてしまった。怒りの波動がこの世とあの世を巡る。繊細な心はこの波をとらえたかもしれない。まあ、いまさらどうでもいい。

 罰を与えた医者を放り出し、儀式は再開された。


 その瞬間、また切れた。まわりはただの部屋になった。ウォッカでは足りない。作用は充分なのだが続かない。もっと強いものがいる。

 数週間かけてネットで調べ、アルコールの作用に似るがより一層強力な脱法ドラッグを手に入れた。サボテンとキノコのブレンド。キノコはあの島の産。相手は用心深く、駅のロッカーを使った現金取引だった。


 真夜中。それをウォッカで流し込む。酒は吸収を早めるので使うなと注意されていたからだった。こんどこそ最後まで。


 儀式が始まった。


“『座』たる者は幸いかな”

“『座』たる者、肉を脱ぎ、心清くあれ”

“『座』たる者、先触れを迎えよ。そは『告げ知らせるもの』なるが故に”

“『座』たる者、そは汝なり”


 祈りが繰り返される。心と体が純粋な黒となっていく。しかし、人の不純はなかなか浄化されない。人としての業がここまで深くしつこいとは思わなかった。だからこそ『座』はなかなか完成しないのだろう。私とてなれるかどうか自信がない。島民はこの儀式をどのくらい行い、どのくらい失敗したのだろう。


 失敗したら、私はどうなってしまうのだろう。


 成功したら、この世はどうなってしまうのだろう。


“『座』たる者は幸いかな”

“『座』たる者、肉を脱ぎ、心清くあれ”

“『座』たる者、先触れを迎えよ。そは『告げ知らせるもの』なるが故に”

“『座』たる者、そは汝なり”


 先触れがやってくる。私という『座』を用いて。先触れが神の降臨を告げて回る。この世もあの世も神がやってくることを知る。夢の世界も逃げ場たり得ない。黒く、粘液を垂らし、触手を持つ先触れ。その声はすべてに余すところなく届く。栄光の声だ。


 祈りが激しくなった。まだ私の一部が抵抗している。信じ切っていない。なぜ私なのだと。その反抗する部分を鎮めようとしたがうまくいかない。なぜ、と考えてはいけない。信じなければ。私は『座』なのだ。

 人たることを捨てなければ。

 見てはいけない。触手で目をほじくり出して投げつけた。光が去る。

 聞いてはいけない。耳の穴に触手をねじこんで内部を破壊した。祈りという雑音が消える。

 感じてはいけない。鼻も口も壊し、皮膚を深く剥いだ。闇のとばりが降りる。

 もうただの黒いどろどろした塊になった。あらゆる感覚から切り離された静寂が心を癒す。もう疑いはない。


『座』がここに据えられた。咆哮が響き渡る。この世、あの世、夢の世。神によってすべてが終わり、神によって新しい世が始まると告げる先触れがここに顕現した。


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