五、どんぐりの夢

 戦後すぐに建てられたという。山仕事の者や行商人目当てだったが、のちに旅客向けに改装されたのだそうだ。当時は団体を当て込んでいたらしく、宴会や集会に使える大部屋がいくつかあった。もうそういうのはいまでははやらないが、かえって好都合だった。

「これなら問題ないでしょう」と、清水は満足そうにいった。スマートフォンで撮影しながらあちらこちらを指さす。うしろにはこの宿の営業が控えていた。

「ありがとうございます。こちらでしたら生徒さん全員でのお食事や全体集会にもってこいかと。マイクなどのご用意も承ります」

「部屋も見せていただけるのでしょう?」清水は撮影したデータを送信して振り向く。

「はい。よろしければすぐにご案内いたします。五人一部屋とうかがっておりますが」

「ええ。男女はフロアを分けてください。移動の廊下なども別になるようにお願いします。可能でしょうか」

「もちろんです。先に送らせていただいた図にありますとおり、人の流れは分けられますので」

「お手間取らせます。なんせ中学ともなるといろいろむずかしいので」

「いえいえ、そのあたりはおまかせください」

 営業は愛想笑いを浮かべて先に立って案内をはじめた。消火設備や避難経路は整っており、基準を満たしていた。

「こちらです」

 和室は掃除が行き届いており、贅沢ではなかったがさっぱりとしていた。清水はまた撮影を始めた。

「すこし手狭にお感じになるかもしれません。本来は四人部屋なので」と、一押しするが、清水には通じなかった。

「いいえ、十分でしょう。子供ですから。あまったら六人部屋を作ってもいい」

「はい、ではそのようにいたします」また愛想笑いを浮かべた。「ところで、きょうの予定はこれでおすみですか」

「五時までは。一応公務員ですから」

「では、お酒はよろしいのでしょう?」

「すみません。お願いしていたとおり、当日出るのとおなじもので。最近はいろいろとありまして、誤解されるわけにはいかんのです」


 それから風呂場や集合写真を撮れそうな庭を見せてもらい、清水は自分の部屋にもどった。報告書を急いで書き上げて送信する。三泊四日を一泊二日で確認しなければならない。明日も朝早くから強行軍になる。酒を断ったのは接待を嫌ったからだけではなかった。今夜は夕食と風呂を済ませたら早々に床に就くつもりだった。不景気とはいえ子供たちの楽しみにしている行事は行いたい。経費節減。通常なら複数人で行う下見を一人でしているのもそうした事情があったからだった。


 それでもきょうの予定はかたづいた。ほっとしてぐっと伸びをする。その目に入った額にちょっとしたいたずら心がわいてきた。よくいわれることだが本当かどうか確かめてみたくなった。立ち上がってひっくり返してみる。


 札があった。


 ふざけてしたことがとんでもないことになったような気まずさを味わいながら額をもとに戻す。癖のある行書でほとんど読めなかった。紙の色は変わりかけており、墨色もぼけていたが、なにかの札であるとはわかった。


 茶をいれ、菓子をかじりながら、いまのを忘れようとメールを発信した。明日は旅行会社の担当がついてくれる。その落ち合う場所と時間の再確認だった。

 それも終わり、変更がないとわかると緊張が解け、甘い茶菓子の効果もあってうとうとしてきた。時計を見ると夕食までまだ時間はある。勤務時間内だがちょっとだけ、十分ほど目を閉じよう。


 その瞬間、外で大きな音がした。見下ろすとバスが数台入ってくる。それとともにはしゃいでいるような子供の声もした。学校名を書いているらしい表示板が見えたがきちんと読み取る前に建物の角を曲がってしまった。

 それで眠気がとんでしまったので、夕食まで残った仕事を片付けた。


「バスが来てましたが、修学旅行ですか」

 夕食の給仕についてくれた仲居に聞く。清水の立場もあってか、粗相のないようベテランらしい年かさの人だった。

「ええ、あ……、そうです。修学旅行です。別棟ですが、騒がしいのがお苦手でしたらもっと遠い部屋をご用意しますが」

「いえいえ、それにはおよびません。子供の声には慣れていますから」

 それに、来たときのあの声を除いて騒々しくはなかった。

 食事は土地柄山の幸中心で食べ応えがあった。それだけに、清水は内心、酒を断ったのを悔やんだ。立場というのは時に損なものだ。


 風呂に入り、土産物を見て回った。公務の出張なのだが時々はちょっとした土産を買ったほうがいい。そういう空気の職場だった。

 しかし、それにしても静かだった。子供の声ひとつしない。風呂場やロビーですれ違うくらいはあるかなと思っていたが、まったく出会わなかった。案内図を見ると別棟には大浴場はないのでこっちに来なくてはならないはずだ。それとも部屋の浴室を使わせているのだろうか。まさか、と思う。いくらなんでもそこまで管理する学校は聞いたことがない。

 庭に出て別棟のほうへいってみた。見上げるときっちりとカーテンが引かれ、灯りはほとんど漏れていない。本当に修学旅行の集団が泊っているのだろうか。漏れている灯りだけだと一割も埋まっていないように見える。


 その時、二階の窓が開いて子供が出てきた。清水は声を出さないように笑った。どこでもおなじだ。この学校にもああいうのがいるんだ。

 そいつはベランダ伝いに隣へ行こうとしていた。どうしようか。いや、どうしようかじゃなくて注意しなきゃなのだが、またいたずら心が出てきた。

 だからうしろを向いて咳払いをした。大き目に、しかし、気づいたその子がこっちをうかがっても見つかったと思わなくていいように。逃げる隙を与えるつもりもあった。

 ちょっと間をおいてから、やっと咳がおさまったという体で振り向いた。


 その子がこっちを見ていた。ベランダから乗り出している。庭木を照らしている光が葉でまだらになって顔と上半身を浮かび上がらせていた。目がぎらぎらしている。

 清水はなにもなかったというふうをよそおいながら引き返した。背中に視線を感じたがもう確かめる気にならなかった。いやな目だった。


「おでかけでしたか」

 戻るとロビーで声をかけられた。給仕をしてくれた仲居だった。

「いえ、まあちょっと外の空気を吸いたくて」

 もう土産物の棚には布がかけられていた。この宿は夜が早いらしい。

「そうですか。山ですので季節にかかわらず冷えます。暖かくしてください」

「どうもありがとう」

 軽く頭を下げ、仲居は外に出ていき、いま清水が戻ってきた方へ曲がった。


 エレベーターに乗り、自分の階のボタンを押すと寒気がした。頬に触れてみると思ったより冷えている。部屋にもどると布団が敷かれていた。

 シーツの糊がかすかに匂う。なにげなく時計を見て驚いた。スマートフォンも確かめたがまちがいなかった。二時間ほどたっていた。風呂に入り、土産物を選び、別棟を見に行った。全部で一時間もかかっていないはずだ。風呂はゆっくりつかっていたとはいえ三十分かそこらだろう、土産物と外出は合わせて十分か十五分くらいだ。多少のかんちがいはあったとしても二時間ということはない。

 疲れているのかな、自分の感じる以上に、と思いながら洗面など寝る前の支度をした。そんなに長く外出していたのなら湯冷めしたのかもしれない。もういちど暖まりなおそうかとも思ったが面倒なのでやめた。明日がある。もう休もう。


 布団に入りかけたとき、窓から音がした。なにか当たったような音だった。気のせいか、とそのまま布団に入るとまたおなじ音がした。硬く小さいものを感じさせた。木の実か小石か、そういったものだろう。

 そこらの木になっていたのが風で飛ばされてきたのかな、と灯りを消した。だんだん布団が暖まっていく。

 また音がした。立ち上がり、カーテンをよせて見まわす。暗いままでも外の照明で手元はわかった。ベランダにはどんぐりが三個落ちていた。窓を開けて一個拾うと濡れていた。嫌な感じがして放り捨てた。洗面所に行き灯りをつける。指に赤い汁がついていた。鼻に近づけると鉄臭かった。あわてて湯を出して手を洗う。傷はなかった。自分がけがをしたのではない。


 さらに音がした。部屋の灯りもつけてもう一度窓を開ける。人影が走っていき、すぐに建物の角を曲がって消えた。暗くてよく見えなかったが大人ではない感じだった。

 いたずら? 仕返し? それにしても血はぶっそうすぎる。そして、どこを探してもさっきのどんぐりはなかった。スマートフォンのライトで照らしても見たが、ベランダはよく掃除が行き届いている状態だった。あんなに指についたのに赤い跡はどこにもなかった。

 誰で、なんのつもりかわからないし、あの子だったとしてそもそもこの部屋がわかったのはおかしい。

 しばらく考えたがあきらめた。窓とカーテンを閉め、灯りを消し、ぬくもりの逃げ去った布団にまたもぐりこんだ。


 眠気などどこかへ行ってしまったが目を閉じてじっとしていた。しかし頭ははっきりしたままで、時々目を開けた。外からカーテン越しに入るわずかな光では室内は見渡せても色はない。その青味がかった濃い灰色の空間で今夜のできごとを考えた。

 静かな修学旅行生、時間のかんちがい、血の付いたどんぐり、消えてなくなったどんぐり。

 修学旅行生なのに静かなのはそういう学校だからとしか考えようがない。かんちがいは無理なスケジュールで心身が疲れていたからだろう。血の付いたどんぐりはもう捨ててしまったからはっきりとは分からない。そもそも血だっていうのも鉄臭いからってだけでちゃんと確めたわけじゃない。これだってかんちがいだということもある。消えてなくなったのはそう感じただけで朝になれば解決するんじゃないか。思ったところとちがう場所に転がったか何かして見失っただけだろう。自分のつま先で蹴り散らしたのかもしれない。夜はどんなものごとでも不気味に見せる。朝の光はその魔法を払ってくれるはずだ。


 布団を引き上げた清水はなにげなく目を開けて首をひねった。あの額が見えた。


 裏返っていた。


 灯りをつけて起きる。まちがいではなかった。あの読めない札がこっちを向いている。あの時確かめた後もどし忘れたのか。いや、ちゃんと表にしたはずだ。

 どうしよう。また表にしておこうか。だが、できなかった。さわるのが嫌だった。それは朝だ。夜の間は触れてはならない気がする。朝の光の下で直そう。


 灯りを消した瞬間、窓から音がした。これまでのとおなじ音だった。こんどはスマートフォンを手に取る。灯りをつけて窓を開ける。どんぐりが一個、帽子をつけて転がっていた。よく見るとふくらんだところに裂け目ができており、そこに赤い汁がついていた。すぐに撮影する。こんなもの証拠にもならないが、自分を納得させるためだった。しかし、画面にはベランダの床だけだった。目には見えているのに画面にはない。数枚撮ってもみたがなにも写っていない。あきらめた。

 そのあと実をティッシュペーパーでくるんでテーブルに置く。赤がじわじわとにじんできた。しかし、拡がっていく赤が止まらない。あわててそこらを探し、植木鉢の敷皿を取ってきて乗せた。ティッシュペーパーはほかの紙にくるんで捨てる。赤い汁はまだ出ていたので皿ごとベランダに出した。だめだと思うが動画の撮影もしておく。どんぐりの裂け目からにじみだす鉄臭い赤い汁は十秒ほどで敷皿の半分ほどを満たしてようやく止まった。実も半分ほど浸されていた。なのにどんぐりと汁は写らない。

 考えたが、指をつけるのはやめておいた。


 ノックの音がした。スマートフォンを落としかける。じっとしているとまた叩いた。もう零時近い。


「どなたですか」

「このような時間に申しわけございません。お客様にお伝えすることがございます」


 ドアを開けるとあの仲居だった。手を差し出す。

 そこにティッシュペーパーにのったどんぐりがあった。赤がにじんでいた。


「お客様のお部屋の窓の下で拾いました。事情のご説明をさせていただきたいのですが、おじゃましてもよろしいでしょうか」


 仲居は茶の用意をした。素早く流れるような動きで、意識すらしていないのではないかというほどのなめらかさだった。その間に清水は一言断って着替えた。寝巻のままというわけにもいかない気がしたからだった。

 それからベランダの敷皿にのせたどんぐりをみせた。仲居は驚かなかった。むしろあって当然という態度だった。裏返った額も同様で、何のためらいもなくもとに戻した。


「あれはそのままで結構です。朝には敷皿だけになっていますから」すわって窓の方を見ていった。

「なにもかもご存じのようですが」

「はい。以前からです。それで、見たり感じたりできるお客様にはご説明いたしております」

「見たり感じたり?」

「こういうものはすべての方が分かるものではないのです。うちでも私だけです」

 茶は熱く濃く入れてあった。その温度と味が清水を落ち着かせた。

「まさか、幽霊とか」わざとふざけた口調でいった。

「そうお考えになってよろしいです。あれはこの世のものではありません」仲居はふつうの口調だった。説明慣れしている様子だった。

「あれも修学旅行生なのです。いまも旅行中なのでしょう。かわいそうに、事故です。バスが転落して燃えました。ほとんど助からなかったのです」

「じゃあ、どんぐりは?」

「あのものたちに気づかれるようなことをしませんでしたか。ご自分が『わかる』人間だと知らせるようなことです」

 清水は頭をかき、ベランダを渡ろうとした学生に咳払いしたと説明した。「さわらぬ神に……、といいますが本当なのですね」

「そうでしたか。悪さはしませんが、見える人間にはなんとかしてかまおうとするようです。額が裏返っていたのもそうでしょう」

「お祓いとかは?」

「何度かしましたし、お札も使っていますが効果なしです」額を指していう。「神仏のお救いが届かない存在なのだそうです」

「そのままにしておくのですか」

「ええ。祓えませんが、悪さもしない。いまごろにやってくるので泊めるだけです」

「大変でしょう」

「まあそうですが、年に一回あるかないかですし、いつもシーズンではないので部屋が足りなくなったことはありません」

「では、私はどうすれば?」

「なにもしないでください。それで結構です」

「人に話してもいいんですか」

「どうぞ。信じる人はいませんよ。証拠もない」

 うなずいた。その通りだ。

「それに、こんな話ありきたりすぎてだれの注意も引きませんし」

 それもそうだ。しかし、清水はもうひとつ聞いた。

「別棟ですが、灯りが漏れていた部屋もありました。ふつうの客もいるのですか」

「ふつう、というか、ふつうでないというか、それはご家族です」

 茶を飲む。また注いでくれた。続きをうながす。

「ご家族の中には見えるだけでなく、あれがいつこの世にあらわれてここに泊まりにくるとわかる方がいらっしゃいます。そういう方々があえてきょうを指定していらっしゃいます」

「じゃ、あの部屋で」

「なにをしているかはわかりません。他人が口をはさむことではないですから」

「ずっと修学旅行してるんだ」

「そうです。これが今夜起きていることのご説明となります。なにもわからないとご不安なままでしょうからこのようなお時間にもかかわらずご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、わかってみるとそういう話もあるのかな、と思います。ではなにも害はないのですね」

「もちろんです。明日の朝早くに出発して終わりです」

 仲居は茶器を片付け、一礼して出ていった。清水はまた着替えて布団にもぐりこんだ。なかなか寝付けなかったが、しばらくすると目が自然と閉じた。窓にどんぐりが当たる音はまだしていたがもう気にはならなかった。


 翌朝、睡眠が中断したにもかかわらず早くに目が覚めた。そしてなんとはなしに、あれがもういないとわかった。

 朝食をあわただしくとる。あの仲居はもう仲居としてしか話しかけてこなかった。ご飯のお代わりをよそってくれた時に一度だけ、もう帰りました、とささやいてきただけだった。


 いったん部屋にもどり、出かける支度をした。その時ふと思いつき、スマートフォンで検索をした。それほどの大事故なら記事があるはずだ。記憶にないのは変だが、読めばああ、あれかと分かるほどのものに違いない。

 しかし、記事は見つけられなかった。朝の忙しさのせいだろうか、適切な検索語を使っていないだけかもしれない。もうちょっと落ち着いたら探してみようと心に覚え書きをした。


 その日はとにかく忙しかった。代理店の担当とともにあちこち走り回り、写真を撮って送り、確認事項の報告書を書き続けた。

「お疲れ様です。きょうは助かりました。当日もよろしくお願いします」担当者に礼をいい、見送りは断って帰りの列車に乗りこんだ時には日は沈みきっていた。

 夕食は駅弁で、食べながら最後の報告書を書いた。もう残業がどうのなどと考えもせずにキーを打つ。それがようやく終わり、ビールの缶を開けた。

 気持ちが切り替わり、一仕事終えた爽快感とともに、あの記事を調べてみようという気になった。

 だが、見当たらない。思い切って過去へ範囲を広げ、戦後すぐからの記事も漁ったがそんな記録はなかった。司書で情報検索が得意な友人に聞いてもみたが、そんなの知らないし調べても出てこないと返ってきた。「修学旅行生がほぼ死傷するような大事故が報道されてないはずない。でも急になんで?」

 そこは立場上過去の事故例をまとめているとかなんとかあれこれとごまかしておいた。幽霊話なんかできない。

 それに、いま思えば本当にあったことかどうかも判然としない。どんな夢も目が覚めてちょっとたつとぼやけてしまうように、あの夜のできごとももうぼうっとかすみだしていた。ああいった幽霊にまつわる怪談が自分の身に起きるとは思ってもみなかったが、起きてみると大したものではない。このビールの泡のように、なにもかもはじけて消えるのだろう。それとも、物を消費するように、自分はこういった体験も消費するだけなのだろうか。


 目が覚めた。旅館の部屋で、スマートフォンはスリープ状態になっていた。つけて時間を見る。寝たのはほんのすこしで、夕食まではまだだった。十分ほどだ。奇妙な夢を見た気がするがよく分からなかった。それでも頭はすっきりした。ごく短時間でも気持ちが切り替わった。

 さあ、一気に片付けてしまおう。清水は報告書の残りの仕上げに入った。

 茶を入れ替えたとき、額がないのに気づいた。裏返すと札のあった妙な額。たしかにあそこにあったのに、いまはない。


 窓の外で大きな音がした。見てみるとバスが数台入ってくる。下を通る時に子供の声がした。関西の学校らしい校名の表示があった。騒ぐ声も関西の言葉だった。そのまま建物の角を曲がっていった。

 かれらは別棟を使うらしい。建物を隔てているというのに時々声が聞こえてきた。駐車場でいったんきちんと整列させようとしているが従わず、だらだらとしている様子が音だけで想像できた。清水は内心あちらの教師たちに同情した。同業だけによくわかる。いまどきは怒鳴ってはいけない。大声を出さずに、おしゃべりをやめない子供たちに声を通す技術がいる。校内ならまだしも、一般客のいる人目のあるところだと気疲れもする。

 そこまでしてなんで修学旅行をするのか、もう現代の教育課程にはそぐわないんじゃないかと思わないでもないが、始まったことをやめるのには力がいる。その力は自分にはない。

 まだ騒いでいる。宿泊の注意事項、食事や風呂の時間の伝達、今後の予定の確認。なにをしているか実際に立ち会っているかのごとくわかった。お疲れ様。


「バスが来てましたが、修学旅行ですか」

 夕食の給仕についてくれた仲居に聞く。清水の立場もあってか、粗相のないようベテランらしい年かさの人だった。

「ええ、そうです。修学旅行です。大阪から。別棟ですが、騒がしいのがお苦手でしたらもっと遠い部屋をご用意しますが」

「いえいえ、それにはおよびません。子供の声には慣れていますから」

 慣れているというのは愛想ではなく、本当にそうだった。

 食事は土地柄山の幸中心で食べ応えがあった。それだけに、清水は内心、酒を断ったのを悔やんだ。立場というのは時に損なものだ。


 風呂に入り、土産物を見て回った。公務の出張なのだが時々はちょっとした土産を買ったほうがいい。そういう空気の職場だった。

 しかし、それにしてもうるさい。別棟には大浴場はないのでこっちに来るのだが、すれ違う前にもう分かる。関西の言葉は独特だし、それに子供特有の言葉のしっぽを食うような早口が加わる。

 庭に出て別棟のほうへ行ってみた。見上げるとカーテンは引かれているが、あちこちから灯りが漏れている。はしゃぐ声もする。


 その時、二階の窓が開いて子供が出てきた。清水は声を出さないように笑った。どこでもおなじだ。この学校にもああいうのがいるんだ。

 そいつはベランダ伝いに隣へ行こうとしていた。どうしようか。いや、どうしようかじゃなくて注意しなきゃなのだが、いたずら心が出てきた。

 だからうしろを向いて咳払いをした。大き目に、しかし、気づいたその子がこっちをうかがっても見つかったと思わなくていいように。逃げる隙を与えるつもりもあった。

 ちょっと間をおいてから、やっと咳がおさまったという体で振り向いた。


 その子がこっちを見ていた。ベランダから乗り出している。庭木を照らしている光が葉でまだらになって顔と上半身を浮かび上がらせていた。目がぎらぎらしている。その子はこちらを見るとさっと元の部屋にもどった。隣へ行くのは失敗だ。

 清水はなにもなかったというふうをよそおいながら引き返した。


「おでかけでしたか」

 戻るとロビーで声をかけられた。給仕をしてくれた仲居だった。

「いえ、まあちょっと外の空気を吸いたくて」

 土産物店には他の宿泊客が並んでいた。

「そうですか。山ですので季節にかかわらず冷えます。暖かくしてください」

「どうもありがとう」

 軽く頭を下げ、仲居は外に出ていき、いま清水が戻ってきた方へ曲がった。


 清水はもうちょっと館内をぶらついて部屋にもどった。布団が敷かれていた。テーブルには茶の用意があり、メモが置いてあった。

『清水様。ご注意を申し上げます。朝になるまでなにかご不審なことがあっても決して窓をお開けになりませんように』

 末尾に署名があった。ちょっと考えて分かった。夕食についてくれた仲居だった。カーテンの引かれた窓の方を見る。なんのことか分からないが、疲れていることもあり、わざわざ問い合わせたり、書いてあることに逆らったりする気にはなれなかった。


 着替えて灯りを消し、布団にもぐる。暖まってくるとすぐに眠気が訪れた。自宅ではしばらくスマートフォンをいじったりするのだが、いまはとにかく眠い。

 その時、窓になにかが当たる音がした。小さい、硬いものだ。しばらくするとまたおなじ音がした。さらにもう一度。

 灯りはつけず、カーテンを引いて外を見た。窓は開けない。ベランダにどんぐりが三個落ちている。ひとつは帽子をかぶっていた。外の照明で長い楕円形の影を伴っていた。

 その時、また硬い音がした。思わず頭を引く。四個目が転がった。

 注意されていたが、窓を開けてどんぐりを投げている奴を見たかった。つまらないいたずらだが、だからこそ相手の顔を確かめたい。

 なら、と部屋の灯りをつけて着替えた。外に出てやる。窓を開けなきゃいいんだろう。ついでにここがわかったわけも問い詰めてやろう。


「お待ちください」フロントを通り過ぎようとしたとき、あの仲居に呼び止められた。「外出を禁ずとは書きませんでしたが、まさかと思っていたからです。なにもお感じにならないのですか」

「どんぐりでしょ。ていどの低いいたずらです。教師をやっていればしょっちゅうですが、こういう時ははっきり叱らないといけません」

「ご説明申しあげます。ちょっとこちらへどうぞ」とロビーの椅子を示した。清水は従って腰を下ろした。

「いくらなんでもすこしはお気づきでしょう?」顔をのぞきこむようにしていう。

「なにをですか」わざととぼけたが、心の中に粘っているなにかがある感じは否定できなかった。

「これはただの子供によるいたずらではありません。額がなくなっておりましたね」

 うなずいた。仲居は続ける。

「うかつでした。床のご用意にうかがったときに気づきましたが、あんなことをするとは」

「誰がです? おかしな話は嫌ですよ」

「昼に来た修学旅行生ですが、いらぬことをしてくれました。オカルトかぶれの子供がいたのでしょう。よりにもよってここで降霊をしたようです。ネットで知ったかどうかわかりませんが、けっこう正確な儀式でした」

 清水は首を振った。「やめてください」

「いいえ、お客様は感じておられたはずです。だからこそあの時別棟に行かれたのでしょう? なにをご覧になられました?」

 そこでベランダ伝いに隣へ移動しようとしていた子を見、咳払いでやめさせたという話をした。「でも、それはたまたま見かけたからです。あそこへ行ったのはなにか目的があったからじゃない」

「いいえ、引き寄せられたということだけで十分です。先生は感じやすい方ですね。お客様の中には時々そういう敏感な方がいらっしゃって引っ張られるので私のような年寄りが注意しております」

「さっぱりわかりません」

「そもそも先生のまわられた側の部屋には今夜はだれも泊まっていません。きょうの修学旅行生は廊下をはさんで反対側にまとめてあります」

「いや、はっきり見ましたよ。足もあったし、ぼやけたところなんてなかった。あれはたしかに子供でした」

「それは、『わかる』人間だからです。そして『わかる』ということをあのものたちに伝えたわけです」

「あのものたちとは? それに、『わかる』人間と知られるとどうなるんですか」

「さあ。実をいえばわかりません。これまで注意を守らなかった方はいらっしゃいません。窓を開けるな、外に出るなといえば皆様素直に従っていただけますので。先生もそうでしょう? あえて破る理由はない。ほうっておかれてはいかがでしょう」

「そうですか。で?」

「なんでしょう?」

「最初の質問に答えてもらってません。あのものたちとは?」

「あれも修学旅行生なのです。いまも旅行中なのでしょう。かわいそうに、事故です。バスが転落して燃えました。ほとんど助からなかったのです」

「そのままにしておくのですか」

「ええ。不気味ですが相手にしなければいい、いまのところ積極的に悪さもしない。気配があれば注意するだけです」

「大変でしょう」

「まあそうですが、『わかる』人がいるタイミングであのものが来てるなんてことは滅多にありませんし。降霊をした学生さんもですが、『わからない』人にはそれこそなんの影響もありませんから」

「では、私はどうすれば?」

「なにもしないでください。それで結構です」

「人に話してもいいんですか」

「どうぞ。信じる人はいませんよ。証拠もない」

 うなずいた。その通りだ。

「それに、こんな話ありきたりすぎてだれの注意も引きませんし」

 それもそうだ。

「失礼ですが、お祓いとかなさらないんですか。そもそもそういうあやしげなものが出る棟に修学旅行生を泊めてるんですよね」

「お祓いは何度か。でも効果ありません。宿泊については実害がないので。それに街の方とちがって我々はああいうものに抵抗感がないのです。子供のころからそういう存在を感じ取って育ってきましたから。いたければいればいい。おたがい関わりあいにならなければいいだけなんです。田舎はみんなそうでしょう」

「そういうものですか」

 仲居はかすかに微笑んでうなずいた。清水もつられて微笑んだ。でも、窓は開けないでおこう、と思った。


 目が覚めた。旅館の部屋で、スマートフォンはスリープ状態になっていた。つけて時間を見る。寝たのはほんのすこしで、夕食まではまだだった。十分ほどだ。奇妙な夢を見た気がするがよく分からなかった。

 さあ、一気に片付けてしまおう。清水は報告書の残りの仕上げに入った。

 茶を入れ替えたとき、額が裏返っているのに気づいた。たしかもとに戻したはずなのに。それに、裏にはなにもなかった。ないのが当然なのだが、たしか札があったはずだ。それともちょっとうとうとしたときに見た夢と混ざっているのだろうか。


 心のなかになにか粘っているものがある。清水は茶を飲んで顔をしかめた。熱すぎた。


 ノックの音がした。

「どなたですか」

「お仕事中に申しわけございません。お伝えすることがございます」

 ドアを開くと仲居がお辞儀をした。年寄りだが射通すような目をしていた。手に持っているものを見せる。札だった。

「失礼してよろしいでしょうか」

 清水はよけて仲居を通した。

「どうかお座りになってください」そういって上座を示し、急須を見て茶葉を入れ替えた。茶の香りがまた新しく漂った。下座に座る。

「お客様は『わかる』方ですので申しあげます。この札がお部屋の下の植え込みに捨てられておりました。もうお気づきになっていたかと思いますがこれはこの部屋のものです」額を指さす。

 清水は首を振った。自分じゃないと示すつもりだった。

「はい、わかっております。お客様ではございません。しかし、ある意味ではお客様なのです。この部屋に入られてから昼寝とか、ちょっとうとうとするとかされましたでしょう?」

 うなずいた。

「夢をご覧になられたのでは?」

「たぶん……。でも内容は覚えていません」

「それでも、説明できなくても感じはあるでしょう? 『わかる』方ですから。粘るものがからみついているような感じです」

「いったいなんなのですか。これは」

 仲居は札をテーブルに置き、やさしくしわを伸ばした。

「修学旅行生です。バスの転落事故。二十年ほど前です。それ以来、こちらに泊まりにくるのです。その時に『わかる』方がいらっしゃると寄ってきます。とくに眠りという心の隙ができたときですね。なので夜が多いのですが」

 清水はとまどった。角が立たないように話を打ち切り、この老婦人に出ていってもらうにはどうすればいいだろう。それからここの責任者に話してこの仲居を修学旅行の担当にはならないようにしてもらう。

「しかもお客様は先生で修学旅行の視察に来られた。心のなかでは旅行のことばかり考えておられる。かれらからすれば頼りにしたくなるというものです」

「頼り? それに、なぜそんなにお詳しいんですか」

 この手の話にありがちな矛盾をついていって退散してもらおう。あまり長い時間相手にしたくはないが。

「わたしは元々ここの仲居ではないのです。事故の後土地の方々のご要望で祓いに呼ばれた者なのです。札はその時のものです。ちょっとは効いたのですが解決にはなりませんでした。それで、かれらがあまりに哀れなのでここに留まって、お客様のように『わかる』方がお見えになったときに両者になにも起きないようにご説明申しあげ、ことがおだやかに済むようにはからっております」

「頼り、とは?」

 仲居はため息をついた。

「かれらのなかには自分が死んでいると認めていない者がまだいます。事故すら認めていないでしょう。旅行を続け、家に帰りたいのです。もちろん、そんな望みはかないません。もうとっくに葬式も終わり、事故の記念碑が立ち、毎年慰霊祭も行われています。かれらがすべきことは認めるべきを認め、行くべきところに行くことです」

「天国ですか」

 首を振る。

「天国とか、霊の世界などありません。あるのは夢の世界のみです。われらが夢を見るのは死者の世界をのぞいているのです。たいていの方は死者の世界など解釈できないので、夢は支離滅裂なものです。でも、夢を『わかる』方は見たものを正しく解釈し、そしてあちらの住民も『わかる』方を通してこちらに干渉するのです」

 茶を入れ替える。

「わかりますよ。お客様は信じておられない。理屈の上では。しかし、感覚では納得しておられるはずです。ここで様々な夢をご覧になったはずです」

 懐紙の包みを取りだして札の横に広げた。どんぐりで、赤く濡れていた。

「夢から持ってきました。しばらくすれば消えます」

 その言葉通り、泡のように霧消した。

「これは夢ですか。現実ですか」

「もちろん現実です。ただ、お客様やわたしのような者にとってはその壁はとても薄いのです。眠るくらいで越えられます」

「ちょっと失礼」そういってスマートフォンで事故を調べた。すぐに出てきた。悲惨な事故で、記事は責任追及の論調が主だった。仲居はテーブル越しに一緒に結果を読んだ。

「わかりますよ。頭では信じられない。これからもそうでしょう。しかし、こういう話は感覚で結構です。心に違和感がある。それを信じてください」

「どうすればいいのですか」

「なにも。お客様にできることはありません。わたしにもありません。死を認めていない死者が夢を通じて干渉しようとしてもそもそも『わかる』方は多くありませんし、『わかった』ところでかれらの望みをかなえる手段はありません。葬式を終えた家族のもとに帰してもなんの解決にもなりません。自分で死を認めるまでは放置です」

「ここに生徒たちを泊めて安全ですか」

「安全な場所などありませんよ。夢を見ない人間はいません。夢、すなわち死はすべての人が覗いています。ゆえに死もまたこちらをうかがっています。生徒さんのなかに『わかる』方がいれば感じるでしょうが、先生、そこはきびしく取り締まってください。むやみな夜間外出などさせないように」

「まさか、修学旅行で生徒の規律をきびしく守らせるのにはそんな側面もあったとは。ところで、この話は人にしてもいいのですか」

「結構です。でも、感じないかぎりだれも信じませんよ。証拠もない」

 それはそうだ。自分も話に聞くだけだったらよくある怪談としてかたづけてしまっただろう。いま心に粘っている感じがあるからこそこの仲居の話をまじめに聞いているのだ。

「今夜もなにか起きますか」

「起きます。わたしは毎晩です。日常になりました。くれぐれもかまわないで、なにもせず無視をお願いします」

「もし、もしですよ、反応したらどうなります?」

「さあ。いままで私がこうしてお願いをさせていただいて破った方はおられません。ことがことですから試す気もありません。それにそもそも『わかる』方は多くありません。先生は五、六年ぶりです」

「ほかになにか注意すべき点はありますか」

「いいえ。無視だけで結構です。調べようとか、いらぬ好奇心を起こさないでください」

 仲居の目はまだ射貫くような光を放っていた。清水は話がすべて終わったとわかったが、聞きたいことが浮かんできた。

「あなたがいなくなったらどうなるのですか」

 光が一瞬暗くなった。

「考えていません。もしかしたら夢の世界でかれらと話をして死を認めさせられるかも、とは思っておりますが、そこまでうぬぼれてはいません。たぶん、次に『わかる』方が来られた時にはっきりするでしょう」

「ほかにこのことを知っている人は?」

「ここの責任者は知っています。でも『わかる』人ではないので理屈としてだけです。感じてはいません。だから後継はいないのです。できればあなたのような方が……」

「よしてください」途中でさえぎった。仲居は笑った。「そうでしょうね」


 仲居が茶を片付け、部屋を出ていった後、清水はぼんやりしていた。よくある、いいかげんな怪談に過ぎない。暇な従業員にうまくかつがれたのかもしれない。だが、頭ではそう思っても、体中の毛穴は真実だと告げていた。

 日のあるうちにここを出てビジネスホテルでも取ろうか。で、宿泊先も別のところを探す。

 頭を振った。できるわけがない。公費の出張なのに弁明が通らない。生徒の宿泊先変更も関係者すべてを納得させる理由がない。

 清水は冷めた茶の残りを飲み干し、粘りつく感覚をすこしでも紛らわせるために報告書の残りを仕上げた。


 夕食後、すぐに部屋にもどった。出歩く気になどなれなかった。土産も今回の出張は勘弁してもらおう。

 テレビをつけて地元局のニュースを眺めたがなにも頭に入ってこなかった。酒を買ってくればよかったと思ったが部屋を出るのはやめておいた。明日の確認だけしてすぐ布団に入った。つま先は掛布団をまきこんで出ないようにした。いつもと違い、今夜だけは灯りをつけっぱなしにした。


 緊張はいつまでも続かない。体が温まってきてうとうとしたころだった。窓になにかが当たる音がした。小石ほどのものだろうか。すこししてもう一回した。見に行こうかと思ったがやめておいた。さらにもう一回。なぜか、見なくてもどんぐりだとわかった。たぶん赤い汁で濡れている。帽子だってかぶっているだろう。

 額はなくなっていた。しかし、またしばらくしてどんぐりが当たった音がしたときに見ると戻っていた。

 どうやら夢が混ざってきているらしい。ごちゃごちゃになってものごとのつじつまが合わなくなってきている。清水は仲居の言葉を思い出し、とにかく無視して放置することに決めた。布団を引き上げて目をつぶる。


 目が覚めると朝だった。枕もとのスマートフォンは六時四十五分。いつも起きる時間だった。朝日がななめに差しこんでいる。額はきちんとあり、ベランダには木の実一つ落ちていなかった。


 朝食の時、あの仲居は仲居として立ち働き、なにもいってこなかった。出発するときもふつうに見送ってくれた。


 送迎バスが道を下っていき、宿の建物が完全に木々に隠れてしまったところで、道路のわきに慰霊碑を見つけた。来るときには気づかなかったが、立派なもので花もきちんと供えられていた。


 その碑を通り過ぎて次の曲がり角を曲がったとき、座席の陰からどんぐりが転がってきて靴に当たった。

 もう逃れられないんだな、とわかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る