二章 夢の羽音7
きびすを返し、シリウスは退出した。柱廊を出ると、柱のかげからルービンが現れた。
「すげえや。あんた、やっぱり——って、あれ? 泣いてるのかい?」
シリウスは顔をそむけたが、こぼれ落ちる涙をとめることができなかった。
《シリウス。泣かないで》
《悲しいの?》
《シリウス》
火喰鳥たちのさざめきを聞きつつ、シリウスは兵舎へ急ぐ。自分の部屋で心置きなく泣きたかった。ルービンが困ったように追いかけてくる。
「泣くなよ。シリウス。あんたはおれたちの神様なんだろ? あんたに泣かれると、なんていうか、心細くなる」
「私がおとぎ話のシリウスだから?」
「ああ、うん。そうなのかな」
「きっと、長く生きすぎたのだ。私は生きながら伝説となり、時代の遺物と化している。私は自分が人間たちを愛するように、人間たちも私を愛してくれているのだと思っていた。しかし、それは錯覚だったようだ」
ルービンがかけよってくる。
「やめろよ! おれはあんたが好きだ。なんか、ちょっと、想像してたのと違うけど。おれが思ってたのより、ずっと人間くさくて不器用だけど……でも、まぎれもなく、あんたは神様だ。あんたはいてくれるだけでいいよ。あんたを見てるだけで、心が洗われてくみたいな……」
ルービンの瞳のなかにある純粋な光を、シリウスは見つめた。
「神はおれのなかにあるのではない。神を信じるおまえの心にあるのだ」
シリウスが彼の肩を抱くと、ルービンは目をみはり、何かに耐えるように歯を食いしばった。やがて、その目を閉じて、シリウスの背中を抱きしめる。
静謐な時がすぎていく。
「ルービン。おまえのおかげで忘れずにすんだ。私は人間が私を愛してくれるからではなく、私が愛するから守るのだということを」
決心して、シリウスは立ちあがる。
「シリウス?」
「私の仕事をしてくる」
ルービンを部屋に残し、シリウスは廊下へ出た。今ならリアックは広間だ。グローリアは一人でいるに違いない。
四階のリアックの部屋まで行くと、大勢の兵士が集まりさわいでいた。扉の内から女の泣き声が聞こえる。
「シリウスさま。隊長の部屋から、女の声が」
「おまえたちはさがれ。私が対処する」
兵士たちがグズグスするのは、グローリアの強烈なメスの匂いを感じるせいだろう。彼らを追いはらうのに苦労した。
「ホリディン。おまえも行くのだ」
若い小隊長は山猫のような目で、シリウスをにらむ。が、何を思ったか、無言でかけていった。
あたりに誰もいなくなると、シリウスは扉に手をかけた。鍵がかかっている。まあ、当然だ。リアックだって、グローリアみたいな女を自由に出歩かせるわけがない。
念力で鍵をあけ、なかへ入る。グローリアは我を忘れて泣き叫んでいた。
「イヤよ、出して! 閉じこめられるのはイヤッ!」
泣きわめく彼女の思考が、シリウスの内にとびこんでくる。
暗い地下。岩肌の洞窟。おぞましい生き物たちに追われ……。
(あれは、おまえの夢だったのか)
シリウスの感応力が呼応してしまったのだ。
シリウスはグローリアを寝台につれていき、すわらせた。
「大丈夫。ここには、やつらは来ない」
「ほんと? 来ない?」
「ああ。来ない」
「守ってくれる?」
「ああ」
グローリアはここにいるのが、シリウスだと気づいているのだろうか? 泣きじゃくりながら抱きついてくる。その姿は一人、暗闇をさ迷い続ける幼な子のままだ。
(おれは……何をしているんだ。早く殺せ。彼女は魔女だ。たとえ、どんな過去を持っていようと、今の彼女が危険であることに変わりない)
すると、とつぜん、グローリアが正気に戻った。相手がシリウスだと知り、甘えるように微笑しながら唇をかさねてくる。
初めは抵抗しようとしたシリウスだが、くちづけをかわし、体を密着させているうちに、しだいに抗えなくなった。彼女の服の下に手をすべりこませ、素肌に這わせる。シルクよりもなめらかな手ざわり。やわらかな胸をまさぐっていると、ほんのりそこがふくらみを持ってきた。
「シリウス……」
グローリアの甘い声を耳元に聞いて、シリウスは我に返った。
(な——おれは、何をしようとして……)
熱病のような情欲を抑えるのは、並大抵ではなかった。グローリアは両足をひらいて誘ってくる。白い肌から、ひときわ強く芳香が立つ。
「来ないの?」
どうする? やるのか? このまま。
いや、ダメだ。彼女は男を狂わせる。
もういい。あとのことなんて、どうだって。
葛藤がせめぎあう。
「ねえ、シリウス。あなただって、わたしが欲しいんでしょう? 自分に素直になりなさいよ」
このまま見つめあっていれば、シリウスの理性は完全に消しとんでいた。が、ありがたいことに、そのとき扉がひらき、リアックが帰ってきた。
「何してる! そいつは、おれの女だぞ!」
リアックにつきとばされて、シリウスは冷静さをとりもどした。
「あら、残念。まだ未遂よ。彼ったら、ほんと石頭。わたしの力にこんなに抵抗できる人、ひさしぶりだわ」
それでわかった。意思力の強さが抵抗力になるのだ。だから、グローリアを見ても、完全に狂う男と、そうでない男がいる。
「でも、けっきょく、わたしに抗える男なんていない。だから、シリウス。あなただって、必ず堕ちる」
毒をふくんだ、グローリアの声。
リアックが苛立って言いすてる。
「ムダだよ。そいつは人間じゃない」
「えっ?」
シリウスはみずから打ちあけた。
「私はウラボロス最後の守護神ホーリームーンと、人間の巫女のあいだに生まれた半神だ」
グローリアが息をのみ、黙りこむ。
青ざめた彼女の表情は、シリウスが予想していたより、はるかに深刻な衝撃を受けているように見える。そのわけを、このとき、シリウスはまだ知らなかったが……。
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