二章 夢の羽音4

 *



 その夜、シリウスは夢を見た。暗い地下の夢だ。

 鍾乳洞のなかだろうか。ぼたぼたと水のしずくのしたたる音が聞こえる。


 シリウスは素足だった。服もまとっているようだが、ぼろぼろなのか、肌にちょくせつ風を感じる。


 なんだか、おかしな感じだ。いつもの半分も力が出ない。半分? いや、全身の力がぬけてしまったような……。

 自分の体がひどくたよりない。


 シリウスは闇を透かしみようとした。

 その瞬間、戦慄せんりつした。

 見えない。透視がきかない。いつもはあんなにかんたんにできることなのに。息を吸うのと同じぐらい。


 では、まさか、予知も……?


 恐る恐る、時間軸をのぞいてみる。いつもは使わない、時を見る力。親しい者たちの死を知りたくなくて、見ないようにしているが、ことは、つねに感知していた時間軸が、体内のどこにも見あたらなかった。


(ない! 時間軸がない!)


 これではただの人間だ。すべての力を失ってしまった。常人の何倍もの筋力、千里さきまで見通す目、人や獣の心を読む力、念で物を動かす力、時間軸……。


(イヤだ! おれは人間じゃない。人間じゃないんだ! 置いていかないで。ホーリームーン!)


 パニックに見舞われ、シリウスは闇雲にかけだした。

 何度も岩につまずいてころぶ。そのたびに、これまで感じたことのない激痛が襲ってきた。

 今の彼は、やわな人間にすぎないのだ。剣で切られてもかすり傷一つつかない鋼のような半神の強さは消えていた。


 泣き声をあげて、シリウスはギョッとする。少年の声だ。声変わり前の幼い声。

 おどろいて、自分の顔や手足をさわってみる。たしかに小さい。いつもとは骨格が違う。六つか七つの少年に戻ってしまったようだ。


(なんでこんなことに? 怖い。助けて。ホーリームーン。なんで、ぼくを置いていったの?)


 泣きながら暗闇をさ迷った。どこにも出口はない。果てしなく闇だけが続いている。


「出して! ここから出して! 父上、お願い。どうしてこんなことするの? ぼくのこと、きらいになったの?」


 ぼくが悪いことしたからなの? ぼくはいけない子なの? 生きてたらいけないなんて、ウソだよね? 父上がそんなこと言うわけない……。


 泣きじゃくっていると、何かが近づいてきた。闇のなかに、ズルズルと地面を這いずる音がする。


 あいつだ。また、あいつが来た。

 彼はおびえて懇願こんがんした。


「やめて……来ないで。あっちへ行って」


 そんなことを言っても、嫌がるのは今のうちだけ。

 彼は知っていた。そのときが来れば、自分がどうなるのかを。



 *



 悲鳴をあげて、シリウスはとびおきた。兵舎の彼の部屋だ。視界に入る自分の体は、ちゃんと大人のものだった。半神の力も持っている。


「夢……」


 そうだ。あれは、ただの夢。だが、なんと生々しい夢だったことか。


 ぐっすり眠ったはずなのに、どっと疲れを感じる。肉体的にというより、精神的に。


(なんだったんだ? あの夢はまるで、ほんとにあったことみたいな……)


 シリウスは自己嫌悪におちいった。内容もさることながら、夢のなかで自分が考えたことを思いだして。



 ——おれは人間じゃない!



(そうだったのか。おれは本心では、あんなふうに思っていた。自分は人間だと口では言いながら、そのじつは……)


 ウラボロスを愛し、ウラボロスの民を愛し、仲間だと思っていた。思おうとした。だが、どんなに人のふりをしたところで、やはり彼らと自分は違う。人間は遠くのものを見ないし、聞かない。剣で風も起こさない。素肌で矢をはねかえすこともできない。何百年も若者の姿のまま生きることもない。

 人間が誰もシリウスを理解できないように、シリウスも真の意味では人間を理解できない。


 シリウスは自分がたった一人の種族なのだと、あらためて気づいた。


(父は私を神と認めず、置いていった。おまえは人の子だから、人の世で暮らしなさいと。だが、私は人でもない。どっちつかずの生き物)


 ウラボロスを守らなければ、存在する価値すらない。

 だから、自分はウラボロスに執着するのかもしれない。


(行かなければ)


 今日こそ、グローリアを殺す。


 シリウスは朝焼けのなかへふみだした。城門まで行くと、すでにひらいていた。


「シリウスさまもおでかけですか?」

「私も、だと?」

「はっ。さきほど、リアック隊長が」

「リアックが出ていったのか?」

「は、はい。三国小隊をつれて。陛下のご命令だとかで——いけませんでしたか?」


 あの、バカ。

 いや、ムチャではあるが、バカではない。一人で行っても怪しまれる。ならば、六十人をつれていけば、近衛隊長の彼の言葉を疑われるはずもないと考えたのだ。国王の勅命をかたったのだから、あとで処罰はまぬがれないというのに。


(平常なら、まだ金縛りが続いているはず。よほどの精神力で断ち切ったか)


 さっきというなら、まだまにあう。リアックよりさきにグローリアを見つければいいのだ。


 シリウスは走った。彼が全速力で走ると、人にはつむじ風にしか見えない。が、そのシリウスの足を途中で止めるものがあった。


《あなたに話があるの》


 ワンダだ。

 彼女の周囲には十数頭の竜犬がいる。


《ハルベルトはどうして帰ってこないの?》


 シリウスにどうして答えられるだろう。ワンダはハルベルトの子を宿している。おまえの夫は人間の女に血迷って、シリウスの剣を体で受けたのだと。


「……おれが、ハルベルトを殺した」


 事実だけを述べた。

 ワンダは悲しげな瞳で、シリウスを見つめる。


《あなたは優しいのね。シリウス。知ってるのよ。聞こえたわ。あの女のせいね?》


 竜犬の聴覚なら、あの日のシリウスとグローリアの会話も聞こえたかもしれない。


 ワンダは仲間たちと目を見かわす。復讐するつもりなのだ。だが、いけない。彼らの大半はオスだ。


「待て、ワンダ! あいつは——」


 あいつは魔女なんだ。


 が、すでに竜犬たちは走りだしていた。石垣をとびこえ、青貝の森へむかう。


 シリウスも追った。まもなく、前方から火の手があがった。

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