第16話 女と声が震える(1)
調査ページに書き込みを始めてから2時間ほど経った頃だった。
沈黙を破る、引っかき傷みたいな着信音が響いた。
あと少しで書き終わる作業を邪魔された憲介は乱雑に電話に出た。
しかし、憲介の身を震わせたのは、あの日の寒さを思い出させるその電話の相手の声だった。
「もしもし。俺や。西畑や。ちょっと円谷さんに会いとーなったから、1時間後くらいに事務所に向かいますで。」
もはや関西弁を隠す気の無くなった西畑の声は、憲介に嫌な予感をさせるのに充分だった。
待っている1時間は長すぎた。
最初は机の周りをぐるぐると回っていたが、急にアイスを食べだし、その後気をそらすためにトイレに入ったが、逆に当時を思い出してさらに落ち着かなくなった。
事務所の扉の前に西畑がいる気がして、何度も開けて確認をした。
あの日からファックス以外に憲介に接触してこなかった西畑が来るのだ。あの巨体、威圧感、権力者感。もう
あれだけ熱中していた調査ページへの書き込みも電話以来進んでいなかった。
ちょうど憲介がアイスの棒を片付け忘れていたことに気づいたとき、ドアノブが明らかに動いた。
「ちょっと、お待ちください。」
何とかアイスの棒を片付け終わると、憲介が呼ぶ前に西畑は入ってきた。
前よりもスーツが黒いんじゃないかと思うくらい漆黒のスーツを着てきた。
その顔はホームページに載っているあの顔とは形こそ同じの別人だった。
「お久しぶりですね。半年くらいですかね。」
笑みを浮かべた口から犬歯が見えた気がした。
「あ、はい、そうですね。.......どうぞどうぞ、お座り、ください。」
憲介はソファに座るようジェスチャーしたが、西畑は全く微動だにしなかった。
ただただ憲介の目だけを見ていた。
憲介は息を無意識に殺していた。
獣に狩られないように。
獣は獲物を見るだけで襲いかからず、そのまま1分が過ぎた。
対する獲物は逃げ場を失っていて、襲いかかられるのを待っているようであった。
すると、突然獣はこちらへ走ってきた。
しかも意表を突く走り方で。
「離婚しようなんて考えて貰ってはこまりますよ。円谷憲介さん。」
襲いかかられているはずの獲物は思わず尻もちをついてしまった。
「なんで、なんで知っているんですか?」
馬鹿だった。西畑が憲介にカマをかけるつもりで言ったかもしれない発言に対して、それが真実であることを認める返しをしてしまった。
しかし獣は獲物が尻もちをつくことを分かっていたようだった。
「だから言いましたやん。私はあなたの事をずっと監視しとるって。」
あの日のあの言葉は空見ではなかった。
しかし獲物には獲物なりの武器があった。
「いや、そもそも私が離婚したところで何か問題がありますか?婚姻届を出した日に名前が本名であるとはご報告しましたよね?ですから依頼はもう解決したんですよ。」
思い切って武器を振り回した。
でも、当たらなければ意味がない。
西畑はニヤニヤ笑いだした。
「離婚してもかまへんよ。」
「え?」
次に続く言葉がロクな内容では無いことは目に見えていたが、聞くしか無かった。逃げられない。
憲介はどんな言葉を言われても耐えられる気がしていた。
自分のことなら犠牲にできる。
自分のことなら。
西畑は湿った声でこう言った。
「でも私が東京中央第一病院に多額の資金援助をしていることを忘れんといてくださいね。」
憲介は言葉を失った。
言葉にならない言葉がカリカリと喉から漏れる。
「お前、俺のことをどこまで知ってるんだ?」
単純な、本当は今1番どうでもいいことを聞いた。
「それは私にも分かりません。でも、これだけは言えますね。
「『離婚しない』っていう意思表明待ってますよ。」
そう言い残し、西畑は機嫌よく笑いながら事務所を出ていった。
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