第6話 セックスとリス(1)
「なんで本名を知るためだけに結婚しなければいけないんですか?」
憲介は西畑に対して怒りを感じ始めていた。
「役所に書類出さなきゃ結婚出来へん。そして、その書類は偽名じゃ受理されんからです。」
ますます混乱する返答に憲介はさらに怒った。
「本名を知るくらいなら結婚しなくてもできますよ。私が本名をお調べしてお伝えするだけなら他の方法をとれます。」
ギリギリ敬語でそう言った。怒りで汗が流れてくる。しかしその汗は西畑の次の一言で別の汗に変わった。
「私の言う通りにやってくれへんのなら1000万円はなしや。」
西畑の目は殺意すら感じる勢いで憲介を見つめた。それから西畑はもう一度「なしや」
と言い、アタッシュケースを閉め始めた。
「ええんか?」
「なしやぞ。」
「なしでええんか。」
「生活変えたないんか。」
「ええんか?」
西畑はまくし立てるようにそう何度も何度も言いながらアタッシュケースを閉めていく。
最後に南京錠に鍵を差し込んだ瞬間、憲介は
「依頼受けます。」
と立ち上がって言った。かなり息は切れ、肩を大きく揺らしながら。
西畑はニヤリと笑い、もう一度確認してきた。
「いいんですか。水森恭子さんと結婚していただくことになりますよ。」
1度息を飲み込んで
「依頼受けます。」
ともう一度言った。
その後2人は契約書を書き、1000万は現ナマでそのまま渡された。
帰り際に西畑は営業スマイルで
「本当に感謝してます。結果楽しみに待ってますよ。」
そう言った。事務所から出ていき、扉を閉めたあとに扉の奥から「ずっと監視しとるで」と聞こえたのは空耳だったのか。
金はほとんど事務所の金庫に入れて、100万だけカバンに入れて銀行に預けに行くことにした。誰かに襲われるのではないかという不安が不安定な憲介の心を襲ったからである。
銀行を出た頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。身が軽くなった憲介は弥咲に電話した。
「もしもし。あのさ。今から会えない?」
「どうしたの急に。まさかお金のトラブルに巻き込まれたからお金貸してとか?」
電話の向こうから聞こえてくる優しい声に憲介はやっと普通に息ができるようになった。
「それは会ってから話す。この前のホテルで会いたい。」
「ホテル?!.......やっば、外なのにデカい声出しちゃった。」
「今日あたしかなり疲れてるんだよね。あのクソ上司が仕事押し付けてくるんだよ。自分でやれよって言いそうになっちゃったよ。」
柔らかく笑う彼女に憲介は申し訳なさが込み上げてきた。
「ごめん。本当にごめん。でも、どうしても今日会いたい。」
「えっ。なんで謝るの。どうしてもって.......もしかして私、けー君になんかやっちゃった?」
急に悲しい声になったもんだから憲介も言葉に詰まった。
「とにかく。とにかくホテルに来て欲しい。」
「わかった。楽しみにしてるね。」
電話を切って初めて憲介は歩道のど真ん中で話していたことに気づいた。
ホテルに着くと、入口の前で弥咲は待っていた。
「ごめん、みさき。思ったより早く来てくれたね。」
「なんか大事そうだったからクソ上司に仕事投げつけて逃げてきちゃった。」
いつも通りのようで、2人とも何かを避けるような感じがあった。
「またになっちゃうけど、ここでご飯食べようか。」
「うん。」
ホテルと言ってもラブなホテルじゃない。サンシャインホテル。そこそこいいホテルだ。
そして、このホテルは特別だった。
ウブな2人が初めて過ごした夜もこのホテル。お金が無くて周りのビルのせいで朝日の見えない部屋に泊まった。
大喧嘩した次の日も、付き合って1周年の日も、2周年の先月も。
回数を重ねる毎に階数は上がっていった。
でも特別な日にしか来ないから弥咲はとても驚いただろう。そして嫌な予感がしているかもしれない。
弥咲は楽しそうにしていた。楽しそうにしようとしていたのかもしれない。今も憲介の目の前で笑顔でステーキを頬張っている。
憲介にはそうゆうことができなかった。
「けー君、今日は楽しもう!」
「うん。今日は、ね。」
「違う違う!いつも楽しいけど、もっともっと楽しもうってことだよ!だって、だって。....そうゆうことだもんね。」
憲介は言葉が出なかった。言葉を探していたのではない。自分に改めて失望して言葉が出なかったのだ。
自分のため。しかも金という汚いもののために、目の前にいる清らな女性を捨てたのだ。あなたを大事にすると誓った約束を破ってしまった。君を守るという言葉も全て嘘に変えてしまった。何もかも。何もかも。
そう考えた瞬間、憲介は涙が止まらなくなった。大人数いるこのレストランで声を上げて泣き出した。
「けー君どうしたの。」
そう言い、弥咲は憲介の隣に来て背中をさすった。憲介が話し出すまで何度も何度も。
「ごめん。ありがとう。」
やっとの思いで出た言葉だった。
「けー君今日謝ってばっかりだね。大丈夫だよ。私、傷つかないから。言っていいよ。受け止めるから。」
憲介は溢れ出すように今日あった出来事を話した。
大企業の社長が大金で憲介を知らない女と結婚させる話。
そんな小学生でも信じるか怪しい話に弥咲は何度も相槌をうちながら、受け止めてくれた。
「それは大変な日だったね。よく頑張ったよけー君は。」
「私のことはいいんだよ。けー君がその道を選んだなら応援しかしないよ。」
あまりにも暖かい言葉だった。演技でも、嘘でも、夢だとしても憲介にはありがたい言葉だった。
憲介はまた泣いた。
でも次は静かに暑いくらいの涙で頬を濡らすようにして。
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