第3話

3.


 それからルシフェルとの奇妙とも思える生活は淡々と過ぎた。相変わらずルシフェルは美しく、漆黒を纏い、一言も発話することもなく、沈黙をしたまま静かに私の傍にいた。表情が乏しいながらも時折見せる淡い微笑みが私に一種の優越感と癒しに似たものを齎した。私は以前にも増してこの黒い天使に夢中になった。家を空けるのも必要最低限にし、日がなルシフェルの傍で本を読みながら過ごした。


 一度戯れにルシフェルにカメラを向けたことがあったが、何故か映らなかった。やはり天使――霊的な存在に近いせいなのだろうか。私には実体が知覚出来ているが、他の人間にはそうではないのかもしれない。それでも家族や友人らを部屋に上げることはしたくなかった。どんな容喙も赦し難かった。ルシフェルと共にしている部屋、空間は閉じた楽園のように感じていた。二人だけの世界。時間の流れが緩慢になり、規則正しく運行している太陽と月、昼と夜も曖昧になる。確かなのは遥か彼方から使わされ、卵から産まれた物云わぬ熾天使だけ。今や私はルシフェルだけだった。恋とも愛ともつかぬ激しい執着を抱いていた。


 或る雨の日。


 私は何時ものようにソファに腰掛けて本を読んでいた。隣にはルシフェル。細い首をやや傾げて興味深げに紙面を覗き込む。稚気ある様子を微笑ましく思いながら「気になる? 『小鳥でさへも巣は恋し、\まして青空、わが国よ、\うまれの里の波羅韋増雲。』テオドール・オーバネルと云うフランスの詩人の詩だよ。波羅韋増雲――天国のことだ。君の故国だね」そう云うとルシフェルは腕に縋るように身を寄せてくる。すると以前と同じように言葉が音楽となって鳴り響いた。


 ――我らの主なる神よ、栄光と尊祟と能力とを受け給ふは宜なり。汝は万物を造りたまひ、万物は御意によりて存し、かつ造られたり。


 形容し難い妙なる調べが脳の奥で、鼓膜の奥底で響く。一瞬間が引き延ばされて六十進法が崩れる。音楽は複雑な残響を引き摺りながらやがて鎮まってゆく。


 突如スマートフォンが鳴動して不思議な余韻から現実に引き戻された。画面を見ると恋人からの着信だった。名前を見るだけで苛立ちが芽生えた。


 先日の諍いの後も、彼女は執拗くメッセージや電話を寄越した。私は一切応じなかった。彼女のことが赦せなかった――と云うよりは、興味が無くなってしまったのだ。もう恋人としても愛していなかった。私の心を占有しているのは漆黒の美貌――ルシフェルだけだった。無視を決め込んでいればそのうち相手も諦めるかと思ったが、はっきり自分の気持ちを伝えない限り、彼女はこれから先も執拗に連絡してきたり、無遠慮に部屋に押しかけて来るだろう。気が進まなかったが、別れたい旨を伝えるためにソファから立ち上がって電話に出た。苛々と部屋を無意味に歩き回る。


「はい」


『もしもし? 森川さんかしら?』


「ええ、そうですが。あの……失礼ですが、何方様でしょうか?」


 彼女が出ると思ったら、全く知らない人の声が耳に飛び込んできた。丸みのある柔和な声色に覚えがなかった。


『突然ごめんなさい。美和の母です。娘がお世話になっています。森川さんのお話は娘からかねがね……あの、森川さん』


「はい? 美和さんが何か……?」


『……美和が……、美和が――』


 ――え?


 私の手からスマートフォンが滑り落ちた。硬質な音を立てて床に転がった小さな機械から尚も彼女の母親の嗚咽交りのくぐもった音声が流れる。しかし私の頭は今し方聞いた衝撃的な言葉に思考も感覚器官も麻痺してしまって、只呆然と立ち尽くすだけであった。


 その日の夜、ベッドに潜り込んでもなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打つ私を床に座り込んでいるルシフェルはどこか気遣わし気な眼付で見た。


「心配してくれてるの?――ありがとう」


 私は起き上がってベッドの縁に腰掛ける。と、ルシフェルも隣にやって来て肩に身を凭れ、右の翼を広げると私の躰を包み込むように抱いた。黒い翼に覆われると仄かに温みを感じた。初めて感じたルシフェルの体温。無造作に置かれている手に触れてみると変わらず冷たかった。


「……死んでしまったって。彼女。電車に轢かれて。死んだって。彼女が――」


 自ら線路に飛び込んだのか、足を滑らせて落ちてしまったのか――少なくとも、遺書は見つかっていないらしい――その点はまだ判然としないらしいのだが、ともかくも、彼女は死んだ。電車に轢かれてバラバラになってしまった。もう戻らない。


「……この間、彼女と喧嘩した時……あの時、彼女が死ねば良いと本気で思ったんだ。そうしたら本当に死んでしまった。本当に、死んだ」


 云いながら苦い後悔がせり上がってくる。彼女の死が単なる偶然だとしても一度でも願った死が、現実になってしまったことへの重たすぎる後悔の念や後味の悪さに圧し潰されそうだった。誰かに否定して欲しかった。悪いのは貴方ではない、貴方は彼女の死と関係ない、何も、と。


 気が付けば片眼から涙が流れていた。あれほど厭うていた彼女の死を悲しんでいる自分がおかしかった。泣きながら、頬濡らす雫が本当に彼女を悼んでいるのか疑わしく思った。只自分を哀れんでいるようにも感じられた。だが確かに喪失の痛みは鋭利に胸を刺していた。いまだに信じられない思いを引き摺ったまま。


 不意に白い手が頬に触れた。ルシフェルの一点の曇りもない蒼い眸と出会う。微かに薄い唇が動く。何かを伝えようとしているのだろうか。私はルシフェルの口元を凝視した。


「……あ……なた……は……な……にも……わ……るくな……い……」


 ――アナタハナニモワルクナイ。


 ルシフェルは微笑む。どこまでも優しく、慈悲深く。新たに視界が滲み出すのを抑えられなかった。私はみっともなく、痩躯に縋りついて子供のように泣いた。


 窓の外で雨はまだ降り続いている。

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