第2話
2.
「最近全然連絡をくれなかったね。どうしてたの? 忙しかったの?」
テーブルを挟んで目の前に座る久し振りに逢う恋人は両手で白磁の珈琲カップを持ちながら小首を傾げる。
「そういうわけじゃないけど……」
フォークの先で萎びたクレソンを弄りながら、曖昧な返答をしたのを後悔した。すかさず彼女は「じゃあどうして」どこか恨めしそうな眼付で言葉を重ねる。向けられる視線には猜疑の色が濃く滲んでいた。私は居心地が悪くなってフォークを手放し、皿をテーブルの隅に押し遣ると、メニュー表を開いて「デザート何か食べる?」そっと相手を窺い見た。
「私はいいや。お腹いっぱいだし」
「そう」
私は広げたメニュー表を順に繰りながら所狭しと並ぶ料理の写真をゆっくりと隅から隅まで眺めて、結局追加オーダーすることなくメニュー表を閉じた。その頃には彼女は機嫌を持ち直していて、ふと思い出したかのように「そう云えば」とテーブルに身を乗り出す。
「前に云っていた、あれ。ほら、卵がどうとかって云っていたでしょう。あれ、どうなった?」
「ああ、その話。いや、どうもしなかったよ」
「そうなの?」
「うん。露天商の話は嘘だったよ。まあ当然だよね」
「なあんだ。そっかあ。残念。本物の天使が見られると思ったのに」
彼女は眉尻を下げて笑う。化粧を施した彼女の微妙にアシメトリーな顔を見詰めていると耳の奥で黒い翼が羽搏くのを聴いた。
呼んでいる――こうなるともういけなかった。今すぐ店を飛び出して自宅に戻りたい衝動に駆られた。早く家に帰らなければ。早く早く。
「ごめん、用事を思い出したから帰るよ」
「何で。この後買い物に付き合ってくれるって約束したじゃない」
「うん、だからごめんって。また後日埋め合わせはするから」
本当にごめん――私は詫びながら食事代を彼女に渡して、尚も呼び止める恋人の声を振り切って逃げるようにファミリーレストランを後にしたのだった。
「ただいま」
リビングルームへ直行すると部屋の隅に蹲っていた彼は――もしかしたら彼女なのかもしれないが、定かではない。便宜上A氏としておく――立ち上がって微かに笑んだ。これがA氏なりの「おかえりなさい」なのだった。
そう、A氏はあの卵から孵化した天使なのであった。露天商が告げたことは本当だったのである。私は恋人に嘘を吐いたのだ。
月明かりに晒した三日目の晩は何事も起こらなかった。翌朝、目が醒めてみるとリビングルームにA氏がいたのである。卵は割れてもぬけの殻だった。
A氏は背が高く、彫の深い顔立ちで、肉の薄い躰を黒衣に包んでいた。背に生えている翼も大鴉の如く真っ黒で、片翼を広げるだけでも優に二メートルほどにもなった。私は天使と云うと、眞白き翼や清らかで端麗な容姿を思い描いていたので、A氏を初めて見た時は些か期待を裏切られたような心地がした。漆黒の爪や翼、その髪色が禍々しい印象を強めていた。とは雖も、A氏の容貌は高名な彫刻家が丁寧に石膏から切り出した如く、端正であった。特に両の眼は嵌め込まれた貴石が蒼く輝くようだった。人間離れした神秘的な佇まいは確かに天使と云うに相応しかった。
「良い子で留守番してた?」
A氏は小さく頷く。A氏は私の言葉を解すが、どう云うわけか言葉を操ることは出来ないようだった。筆記も不可。しかし不便はない。こう云っては何だが、A氏はペットの犬や猫のような存在で、相互に言葉を介した意思疎通が出来なくとも構わなかった。尤も愛玩動物と違うのはA氏は食事も必要としない点である。飲まず食わずでどのように生命維持をしているのか全くもって謎であったが、天使なのだからそう云うこともあるだろうと半ば強引に納得することにした。
A氏は只静かに私の傍にいた。独り暮らしに慣れてしまった私にとって、A氏との暮らしは悪くなかった。寧ろ居心地が良いくらいである。これが恋人の彼女との同棲生活であったなら、これほどまでに快適ではなかっただろう。相手の都合や価値観がある。それらを上手く擦り合わせなければ生活は立ちゆかない。
私はA氏と暮らし始めてから、恋人をやや疎ましく感じ始めていた。彼女はあれがしたい、これが欲しいなどと私に対する欲求が多いことこの上ない。その反面、A氏は私に何も望まない。何も云わない。A氏の従順な静けさを好ましく思った。それから完璧とも云える白い貌も。A氏に比べれば恋人は疎か、どんな美男美女も霞んでしまう。私はA氏の蒼い眸が一等、気に入っていた。
部屋着に着替えて、小さな棚から本を取り出し、ソファに座って広げる。するとA氏は刷り込み効果よろしく、雛鳥が親鳥を追いかけるようにして私の隣に腰を下ろした。この点も愛玩動物めいていて微笑ましい。いつもA氏は私の後を追ってついてまわる。ついて来ないのは外出時と風呂、トイレくらいである。
A氏は興味津々とばかりに本を覗き込む。
「君のことが書いてやしないかと思って」
これまで知らなかったのだが、天使には色々あるらしい。役割や階級など様々である。一般的に有名なのはキリスト教に登場する大天使であろうか。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル――所謂四大天使である。大天使は偽ディオニュシオスの『天上位階論』では大天使は二枚の翼を持ち、助祭司のような姿で神と人間を結ぶ連絡係、あるいは天使軍の兵士として使われるとある。大天使は意外にも位階的には低く、上から八番目である。しかし一方で四大天使は階層には捉われない特別な天使でもあるらしい。
また天使の最上位は熾天使と呼ばれ、神に最も近い存在とされており、悪魔であるサタンも堕天使となる前は熾天使の位に属していたと云う。熾天使は三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで躰を隠し、残りの二つの翼で羽搏くとされている。熾天使には『破壊する』『焼却する』『火をもたらすもの』『暖かさをもたらすもの』と云う意味もあるのだとか。想像を絶するまでの輝きと明るさを有し、玉座にいる神の上を舞っている――最上に相応しい光に満ちた天使。
A氏が実際、どのような天使なのかは判らないが、私は思うのだ。A氏は気高く誉れ高い、熾天使なのではないかと。強く輝く蒼い双眸が酷く美しい故に。そして身を包む深い漆黒が闇の玉座に君臨するサタンのように思えた。美貌のルシフェル。
「そうだ。これから君をルシフェルと呼ぼう。どう?」
A氏――ルシフェルは頷いて口元に薄笑みを浮かべた。無邪気な反応がほのぼのと胸中を温めるようだった。
私はリビングルームのローテーブルでルシフェルと差し向いになって夕食を食べた。無論、ルシフェルは何も食べない。私が適当に茹でたパスタを口に運ぶのを不思議そうに見ているだけだ。喉の渇きも知らず、空腹も知らない生とはどのようなものだろう。食べる楽しみが無くなってしまうのは人生に於いて味気ない気がするが、しかし案外快適なのかもしれない。少なくとも食費のことを考えなくて済むのは気が楽ではある。
食事が粗方終えた頃、スマートフォンが鳴った。見ると着信は恋人からだ。昼間のことを思うとやや気が重かったが、電話に出ることにした。そうしなければ、執拗く電話やメッセージが送られてくるのが目に見えていたから。彼女は粘着質な部分があった。
「はい」
『あ、もしもし? 今近くまで来てるんだけど、ちょっと寄って良いかな? 美味しそうなケーキを見つけたから買ったんだ。一緒に食べようよ』
「悪いけど、これから風呂に入るから。もうお湯入れちゃったし」
『そう? それなら上がって来るまで待ってるよ。部屋で待たせて』
「いや、今日は僕も疲れたし、明日もあるし。悪いけど帰ってくれないかな。昼間も云ったけど、また埋め合わせは後日ちゃんとするから」
それだけ云って電話を切ろうとすると『もしかして、部屋に誰かいるの?』鋭い声が鼓膜に切り込んだ。私は一瞬、言葉に詰まった。と、彼女は私の沈黙を是と受け取ったのか不満――怒りを滲ませて早口で捲し立てた。
『ほらやっぱり。最近全然連絡くれなかったのも、その人のせいなんでしょう。そうなんでしょう、ねえ? 私に隠れて別の女性と会ってたんでしょう? そうなんでしょう? 今日だって急に帰っちゃったのも、その人とデートの約束をしていたからでしょう? で、今は二人で部屋で何してるの? 私に云えないようなことでもしていたんでしょう。ねえ、誰なの? 一緒にいる人は?』
「あのね、君が思っているような人はいないよ。僕独りだよ。君の思い違いだよ」
『じゃあ、良いじゃない。今から部屋に行くから』
「待って」
『何? 私が部屋に行ったら拙いことでもあるの? 今独りなんだよね?』
「それは、そうだけど……」
曖昧に答えながら念頭にはルシフェルの存在があった。他者に見られるわけにはいかない――咄嗟にそう思ったのだ。彼女に一切ルシフェルの姿が見えなければ問題の解決は容易だが、実際どうなのか知れなかった。私は天使の存在を隠しておきたかったのだ。彼女の――誰かの好奇の目に晒されるのが我慢ならなかった。それは或る種の感情が奇妙に歪んで生じた独占欲だった。誰かの視線に晒されれば、熾天使の最上の美しさが損なわれてしまうと本気で考えていたのだ。
耳に宛がったスマートフォンから忌々しそうな声音が聞こえてくる。私のことを浮気者だとか薄情だとか、過去に抱いた不満まで持ち出して、ついには聞くに堪えない罵詈雑言が投げつけられた。脳の奥でぐちゃりと熟れた果実が踏み潰される音を聴いて、私は画面をタップして通話を切った。ソファの上に小さな機械を放り投げる。ルシフェルは僅かに眉根を寄せて蒼い眸で私を見ていた。
「ごめん、別に何でもないから」
言い訳めいた言葉を吐きながら奇妙な思いに捕らわれた。が、それも束の間。再びけたたましくスマートフォンが鳴り出した。彼女の名前を見るのも厭で、スマートフォンの上にクッションを乗せた。少しだけ音が遠ざかる。しかし着信音は途切れることなく鳴り続けた。ルシフェルは音が気になるのかソファをちらちら見て私の顔を窺う。
「そのままで良いよ。そのうち静かになる」
そうしているうちにインターホンが鳴った。きっと彼女だ。私はほとほとうんざりした。彼女は蛇のような執念深さで玄関の前に立ち、インターホンのボタンを押しているのだろう。相変わらずクッションの下でスマートフォンは鳴り続けている。ドアをノックする音も聞こえ始めた。だが私は応じるつもりはなかった。
全て無視をして彼女が立てる耳障りな音から逃れるように浴室へと向かった。
頭からシャワーを浴びながら、
「――良いのに」
呟きは水音に紛れて、排水溝へ流れてゆく。
風呂から上がると照明を落としたリビングルームの窓辺にルシフェルが佇んでいた。そっと足音を忍ばせて歩み寄るが、気配に気が付いたらしいルシフェルが僅かに振り返る。
「何を見てたの?」
横に並んで立ち、窓の外に視線を投げる。と、黒く長い爪先が濃紺の天に浮かんだ月を指す。薄らと蒼く輪郭が燃えている満月は滴るような澄明さで太陽の死んだ光を放つ。月華に白く褪めたルシフェルの横顔には何の表情も浮かんではいなかった。一心に遠く離れた天体を見詰めているふうであった。ふと露天商の言葉を思い出す。
――何と云ってもこの卵は銀河鉄道で天から運ばれてきた特別なものなのですから。
「天が懐かしい? 帰りたいと思う?」
するとルシフェルは緩く頭を振って、おずおずと云った風情で手を伸ばし、軽く私の手に触れた。温度のない手、褪めた膚に心臓が慄える。人ならざる者――蒼い双眸に縛されて刹那、呼吸が止まった。俄かに生じた畏怖と畏敬。月光に映える天使の美貌は手を触れれば鋭く切り付けられる気高さがあった。私はゆっくりと冷たく、骨ばった手を握った。ルシフェルは淡い笑みを口元に浮かべて柔く手を握り返してきた。と、不意に頭の中に言葉が音楽となって響いた。
――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
昔在し、今在し、後来りたまふ主たる全能の神
言葉は重なり合い、残響が乱反射し、玲瓏とした旋律を生み出す。荘厳な賛美歌の如く耳の奥で、脳を揺るがすように鳴り響いた。それは少しずつ鎮まって、やがて消えた。時間にしてほんの数秒、否、瞬きくらいの時間だったかもしれない。生気のない手を離す。
「これは一体……?」
ルシフェルは何も答えない。只、謎めいた微笑を片頬に潜ませるだけであった。それからルシフェルは窓に向き直る。眸は月に注がれていた。何を思って月を見ているのだろう。私は少しの間、気が抜けたようになって塑像のような白い貌を見詰めていた。
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