第91話 三階駐車場
***
パイドは吸血鬼の犬歯を覗かせて笑っている。
「なんだ、弱いな。まぁ仕方ないか。吸血鬼と戦った経験なんてなかったろ」
パイドの足元に、ホウキが横たわっている。白のニットがタイヤ片で黒く染まり、所々に服が避け、赤い糸のような細く鋭い裂傷から血が垂れている。
「半殺しにしてやろうと思ったが、興が冷めたな。弱いし、女だし、子供だしよ」
「……こ、子供じゃない……」
冷たいコンクリートに頬を付け、ホウキは今にも泣き出しそうな顔でパイドを睨んでいる。
「あ? じゃあもう一発行っとくか? もうろくすっぽ動けないくせに強がるんじゃない」
二メートル以上あるパイドがホウキの横で屈む。
ホウキの頭を掴んで無理やりに首を回し、顔を合わせてホウキの反抗的な眼差しを睨み返した。
少し前にとうとう決着した二人の戦いは、圧倒的にパイド有利な展開であった。
パイドは吸血鬼の変身能力で膝から下を狼の足に変え、獣の敏捷性を宿した身軽な動きで翻弄する。
ホウキの魔法は風魔法。魔力の拡散に特化した風の魔法は有効射程が短いことが特徴であった。拡散するのを前提として、魔法の効力を確保するには大量の魔力を込めるか、詠唱により精度を高める他にない。
一方でパイドは車やコンクリートの柱を遮蔽物として有効に使い、ビリヤード球の如く駆けたり、壁を走ったりする。その縦横無尽の捉え辛い動きを前に、ゆっくりと詠唱することなんて許されない。
さらに――。
「そうだな。一つ言い忘れていた。多分、魔法使いなら。――いや、ここに追い込まれた時点で確かだと思うが、俺の魔力を感知するのは無駄だ」
防御に専念するにしても、攻撃がどこから来るのかを察知するのさえままならないホウキ。
目で追うには限界がある。そういう手合いには魔力を感知して動きを読むことを覚えたホウキなのだが、パイドの魔力には癖があってそれが出来ない。
まるで別人の魔力が二つ重なっているようだった。
「俺は魔力を切り分けることが出来る。分身って言えば話が早いと思うが、実のところは分身よりも劣る代物だ。俺のやっているのは気配を残す、ただそれだけ。それだけでも魔法使いには結構効くだろ」
事実、軌道の予測を外し、衝撃のタイミングをずらし、距離感をも曖昧にするパイドの戦術にホウキは苦戦を強いられていた。
「だから安心していい。ここらにあった魔力の気配は全部俺んだ。お前らを追い込むために俺が仕組んだこと、つまりは俺の方の増援はない。つってもお前の連れは俺の手下が捕まえるだろうから、お前の方の増援もない。助けはないが、正々堂々ってやつだ」
パイドはその戦いを正々堂々だと言う。しかし、その攻勢は正面切ってのものではない。正直なものでもない。常に相手の裏をかき、翻弄するような戦法。
決して卑怯とは言わせない、その戦い方にホウキは自身の未熟さを嫌と言うほど突き付けられる。
パイドには魔力を削り取る、吸血鬼のマナドレインを応用した技術があった。出血部位から魔力を掠め取って行くので、防御をしているだけで魔力は減っていくばかり。
結果、魔法使いメタを体現したようなパイドにホウキはなす術もなく敗北した。
殴られ、膝蹴りされ。決して顔を狙わずにボコボコにされ、うずくまるホウキは擦り切れて血の滲んだ指でパイドを差す。
「……風よ……大気――」
「――おっと!」
至近距離で魔法を放つ絶好のチャンスではあった。
しかし魔力の感知能力が高いパイドがそう安易と魔法の発動を許すはずがなく、ホウキの挙げた手の全体を掴み取って握り潰した。
「ぐッ」
「魔力も大して残ってないはずだが。……仮に撃てたとして、それで倒せるとでも思ったか? そういう生意気なところ。本当、気に食わねえな」
「――ッうるさい!」
構わずに魔法を放つホウキ。詠唱を途中でやめた魔法としては未熟な光が輝いた。
黄緑色の弱々しい破裂がホウキとパイドの手の中で起こり、風圧に手が弾ける。放った微弱な魔力の奔流はするすると駐車場の外へ、風に乗り人避け結界の外まで飛んでいく。
既に疲弊し魔力の練りが甘いホウキの手に、自分の暴発させた魔法が跳ね返る。
魔力で覆われたパイドの手はともかくとして、そのダメージに魔力を放った指が複雑に骨折した。
「ウッ……」
ホウキは鈍痛に苦悶の表情を浮かべる。
自分の指の様子がどうなっているか。痛みのあまりにホウキは指が千切れたと思い、怖くて目を向けられなかった。
「――ああ、クソッ! いちいち癇に障る女だな、オマエ」
パイドは乱暴に拳を振り上げる。
未熟で、無謀で。それでいて不死性も持ち合わせていない無鉄砲な人間を見ていると苛々する。否が応でも昔の自分を思い出させる。
鋭い歯の噛み合わせをギリギリと鳴らし、振り上げた握り拳はめりめりと音を立てた。
肉体的なダメージと魔力の枯渇によってもはや動くこともままならないホウキは、びくりと体を震わせる。当然、回避や防御をするための力は残されていない。
痛みに備え、歯を食いしばり目を瞑った。
……衝撃の瞬間を待つ。
しかし、振り上げられたはずの拳が――。脳裏に焼き付いたパイドの殺気が――。いくら待ってもホウキを襲うことはなく、恐る恐るに目を開いた。
ホウキの側には変わらずパイドが屈んでいる。先程と違うのは彼の黒い服が周囲によく馴染んでいる。一見しただけでは、地に伏すホウキから振り上げられた拳が見えないほどに。
気付けば陰気というに相応しい仄暗い駐車場が不気味なほど真っ暗になっていた。ホラー映画よろしく蛍光灯がカラカラ言って点滅している。
「――なんじゃ? わしを探しとるのはお前さんか?」
唐突に第三者の声がした。愛嬌があって、子供っぽいのに古めかしい言葉遣いをするその声の主に、ホウキは心当たりがあった。
その声の主が立体駐車場の外から黒々とした影が飛び込んでくる。
着地側にバサリと大きな羽音を立て、風圧に乗った砂埃にホウキは顔を背けた。
風が落ち着いてからゆっくり目を開けると、夜のような気配の中で月光のように輝く金髪が靡いている。
背中から赤黒いコウモリのような翼を大きく広げ、陽光を遮りながら立つのはカミラだ。
「――!」
パイドは驚きのあまりに固まっている。
「ん? 吸血鬼か。……どこの回し者じゃ――」
一目でパイドが吸血鬼であると看破したカミラは訊いた。
しかし、直ぐに隣に転がるホウキの姿を見て、態度を変える。びりびりと肌を指すような攻撃的な魔力を放ち、それは魔力を失ったホウキを震えさせるほど苛烈だった。
「……いや、もうよい。誰の使いかによってどうするか決めるつもりじゃったが、どうやら加減する必要もないようじゃな」
冷たく、静かに宣言するカミラ。つばの大きな帽子を脱ぎ、帽子の中へサングラスを入れる。
それをフリスビーの要領で適当に放ると、鮮血のような真っ赤な瞳でパイドを見た。
パイドはもうホウキのことは眼中にないらしい。慌てた様子でカミラの方へ歩み出て、片膝を突いて傅こうとする。
「もしや! いや、もしやでなくても、貴方様がカミラ様では――」
駆け出したパイドが腰を下げようとしたところ、カミラの周りに赤色の残像がびゅうびゅうと音を立てて走った。
パイドを取り囲むような赤い線が見えなくなると、少し間があってずるずるとパイドの身体が崩れ落ちた。
たった一瞬のうちに、その身体が計二十数個にぶつ切れになった。
何かしただろうカミラの手には真っ赤なレイピアが握られている。
「……あ。――かはッ。――カミラ様! 私めは――!」
ぶつ切りにされるが、少しも出血しない肉塊のひとつ。ころころとコンクリートを転がり、停止したパイドの首から上が必死に抗議する。
「――うるさいわ」
カミラが手に持つ血のレイピアがぶくぶくと沸騰するみたいに泡立ち、鋒が膨れ上がってハンマーに変形する。ハンマーの頭だけでカミラの身体と同じくらいの大きさがあった。
「わ、私は!貴方様の兄上よりッ――」
声を裏返らせ、必死に弁明を図るパイド。
――ドチャリ。
それを無視して、カミラは軽々とハンマーを振り下ろし、一撃にしてパイドの頭を潰した。
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