四期生
第9話 黄金イナリ
***
プロトは丹念に歯を磨いていた。
ユニットバスの浴槽の縁に腰掛け、無心でブラシを歯に添える。髪から冷たい水が滴り、肌からどんどんと湯冷めしていくのもお構いなしに、かれこれ五分ほど夢中で歯を磨き続けている。
片方の足を縁にかけ、踵の上に尻を付けて自重の半分を乗せ、太ももを抱くようにする。さらに、身体の震えを止めるため、出来るだけ露出する部分が小さくなる様に力を入れて脇を締める。
そうまでして、プロトは風呂場での寒中歯磨きに没頭していた。
痺れるような緊張も、血が沸騰するような興奮も、今はすっぽり抜け落ち放心している中で、唯一気にかかるのは口の臭い。喉の底から湧き上がる魔力増強剤のケミカルな不快感だけだった。
「(うーん、取れないな)」
プロトは少しだけ水を含んで薄めた歯磨き洗剤をブクブクと口に行き渡らせる。
薬を飲み込んでしばらくは喉がピリピリとして、胃の中で拒絶感がぐつぐつと煮え返り、鎖骨のある辺りまで内容物が迫り上がって来ている感覚があった。それが今では喉の奥底から存在感を主張したり、頬粘膜に臭いが染み着いているような気がする程度だから、マシになった方ではある。しかし、歯磨き粉の鮮烈なミントの香りですら、薬の臭いは精々が同居するくらいにしか誤魔化せていない。歯茎から出た血なんかはその鉄臭さに気付けないほどで、吐き出した水の赤さでハッとする。一度水で口を濯ぎ終われば、たちまちにこの世の物とは思えない滅茶苦茶な臭いの不快感が戻って来た。
実際、この世のものではないのだろうけど。
――ピンポーン。
と誰かがやって来た。
大学の頃に下宿していたボロ屋では、壁が薄すぎて呼び鈴の音が自分の部屋なのか隣の部屋なのか分からないくらいであったが、ここではどうなんだろうか。
多分うちだよな?
プロトはユニットバスの戸を開けて、戸の外側に掛かっているタオルを取って身体を拭いた。髪はじっとりと水気を溜め込んでいるが、身体はちらほらと水滴が付いているだけだ。
そうこうしているうちに、もう一度、
――ピンポーン。
と呼び鈴が鳴る。
誰だよ、こんな時間に。
初配信を始めたのが二十時だったから、時間的には恐らく二十二時を回っている。
プロトは長風呂をする人間ではないが、配信の後からずっと意識は釈然としない。今日もシャワーだけで済ませたが、髪を洗う前にも、身体を洗う前にも、ただシャワーに当たり、シャワーヘッドから放射状に広がる水流を見ているだけの時間があったし、さっきの歯磨きだって――。
プロトは脱衣所へ飛び出して、洗濯機の上に置かれた下着を取って、少し濡れているままの足を突っ込んだ。下着ならまだ良かったが部屋着のスウェットは張り付いて引っ掛かり、足の自由が奪われて転びそうになる。
――ピンポーン。ピンポ、ピンポ、ピンポーン。
呼び鈴が連打される。
「はーい」
プロトは焦燥のイライラがこもった声で返事をした。
生乾きの髪にタオルを乗せて、上下で色の違うスウェットが捻れて縒れて着心地が悪いままでプロトは玄関扉を開ける。
「遅いッ」
そう言って不機嫌そうに立っているのは小麦色の髪の少女。プロトと同じ時期にデビューした四期生の
狐の獣人で大きな三角耳に八重歯、筆の
狐は妖狐とか化け狐と言って特別視されるように、異世界でも狐の獣人というのは特別である。獣人の中でも狐人は長寿であり、うちに秘める魔力も多いことから神聖視されている。
イナリも自慢の三角耳を無視すれば身長は百五十センチくらいで、童顔の、見た目は中高生みたいだが、それでいて実際は
関西弁がすっかり板についているが、Vtuberになる前はとある神社に居候していたらしい。口調は激しいが、プロトの四倍の人生経験が成せる技なのか面倒見の良いオカンみたいな性格をしている。
プロトが驚きと苛立ちと、建前でつくった歓迎の色が混ざる、口だけが笑った歪な仏頂面を作りながら、謂れのない叱責に返答を戸惑っているうちにイナリは続ける。
「なんや、その顔」
イナリはつり目を大きく見開いて、丸い瞳でプロトを見つめる。
「――アンタ、ここにハミガキさん付いてるで。ホンマ、しまらん顔やなぁ。Vとおんなじに顔縫うのとか、頭の横にネジ刺した方がええんちゃう?そっちの方がかっこええて」
試作機プロトのアバターはフランケンシュタインがモチーフであり、青白い肌に、鼻背と頬のラインで顔を上下に分ける分割線の裂傷を黒の縫合糸が繋いでいて、側頭部にヘッドホンの耳当てみたいな謎のネジが付いている。
いきなり部屋までやって来たかと思えば、イナリが顔を縫合したら良いなんて無茶苦茶なことを提案するのでプロトは唖然とする。
「え?何。何の用?」
プロトが訊くと、イナリは「はぁ」と息を吐いて尻尾を一度だけ上下させる。
「何の用て、返事ないから迎えに来たんやんか」
イナリは呆れた顔で言った。
「てか、アンタなんか薬臭ない?」
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