最終話 / エピローグ
「……ヒュー……ヒュー……ヒュ……ヒュウ」
まだ、生きていたのか。
僅かに残る意識で目を開くと、少し朝焼けのこぼれる空が覗いた。雨は止んでいた。背を海に浸けて、動かない身体は小波に浮かぶ。
もう、終わってしまえば良かったのに、この期に及んで生命力なんて発揮しないで欲しかった。背中は、というより身体の後ろ半分の皮膚はもうぐちゃぐちゃだろうか、もしかしたら骨まで。分からないけど。
早いところ私を包んで溶かして終わりにしてくれ、もういいから。
もう一度目を閉じようとする前に、腹のあたりに重みを感じた。
なんだろうか、手で触ろうと思っても左はピクリとも動かず、右は海に浸かっていた部分の感覚が無かった。辛うじて動く右腕を這わせて、ゆっくりと腹の違和感を触る。
手首に、動物の毛のようなものが触れた。ああそういえば、犬がいたんだっけ。少し腕を動かすと、ヌルヌルとしたものにも触れた、生きているわけはないか。
また、少し腕を動かすと、温度のない臓物の間から、海より冷たくて、円形で丸みを帯びた箱のような、金物のような物体がある。
これは?その疑問に答えるように小波の揺れは、私の頭を一瞬持ち上げた。
「なんで、君が持っているんだ」
……また、口から知らない音が出た。実際には、掠れた気道音が漏れただけで、まるで言葉になっていないだろうが。
知らないさ、こんな銀時計。
全然……知らない……知らない。
ああだから、声を出したくなるようなことをしないでくれ。もう喉が溶けて呼吸が漏れてしょうがない。
これは、知らないのにとても大切なものだ。この中に、とても大切なものがある。
開ければ、何かわかるだろうか。
あれ…ああそうだ、こんな指では懐中時計のひとつも開けないじゃないか。噛まれたのは私のせいだけど。
君のせいで私は今、とても苦しいよ。
「ヒュー……」
痛い。
一際大きな呼吸音を皮切りに、意識が少しずつ遠のいていく。終わりの時が近寄ってくる。
「……」
そうだな。
どこの誰かもわからない。名前も声も知らない、大切な誰かに。言いたい、こと。
なんにもわからない私の口から。
掠れた息でも、今度はちゃんと声にして。
知らない音でも、嫌がらないで。
孔雀の海より、想いの丈を。
確かにあった、心を込めて。
「また逢おう」
───────────────
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───────
───
「ねぇ母さん、椅子ここでいいかな?」
「うん、そこで良いわ。あ、でもおばあちゃんが使ってた高さのままだから、ちょっと低いわね」
「あ、そっか……じゃあ、別の持ってくるね」
女性の親子が一組と、その周辺にもまばらに人。
毎年恒例、上期と下期の2回行われる災雨(さいう)資料館での談話会。今日はその当日朝、その準備をしているところだった。
「……」
あの資料館は新しい建物だから、外見のその色は珍しくもなんともない、普通だ。
たが、この町の多くの建物、街路樹、それから地面、これらの色はそうじゃない。
鮮やかだという人も、少し気味が悪いという人もいる。
高い所から見れば、よく分かる。
そこは
一面の孔雀色。
ついた名前は「孔雀の町」
今は観光地として、町はまずまずの賑わいを見せる。
一体、この町で何があったのか。
どうして、孔雀の町になったのか。
今日は、それを知るには良い機会だ。
談話会は資料館の中央辺り、外と繋がった中庭で行われる。資料館なのだから当然一般公開、というか、そもそも一般に向けて開かれているものだ。
聴講には学校の団体や観光客の姿が多い。
「こんにちは、お話をさせて頂きますシエル・ベーグエリアと言います。今日はよろしくお願いします」
マイクを持って、一言。
控えめな拍手の後、彼女は話を続ける。
「去年の秋までは、ルフォンスおばあちゃんがお話をしていたんですけど……おばあちゃんは去年亡くなってしまったので、今回からは私がその役を務めさせて頂きます」
「私は実際に災雨を経験してないし、至らぬ点は多いと思いますが、よろしくお願いします」
一礼の後、新しくなった椅子に座り、大きめのスクリーンに資料を映しながら、彼女は語りを始めた。
「さて、まず『災雨』をご存じでしょうか。約50年前、この町から港にかけて降った、緑色の雨のことを私たちは『災雨』と呼んでいます」
「……」
「この町が一面こんな色なのも、その『災雨』が原因です。今でこそ観光地としてたくさんの人が足を運ぶようになりましたが、その裏には暗い過去があります」
「……」
また、スクリーンの資料を切り替える。
画面には暗い孔雀色の雨が降る、粗めの画像が映し出された。
「名前の通り、その雨は災害でした。異常な早さで色々なものを溶かし、町はぼろぼろになってしまいました。それに、溶けたのは人も例外ではありません。沢山の人が……苦しめられました」
「……」
「災雨の原因は "毒物を含んだ大型不発弾の暴発" だと言われています。それによって雨に異常が起きたというわけです」
「ふーん……アレ、そういうことなのね」
「はい、そうなんです。ただ、50年経った今でもこれについては未だ調査中だと……」
「……?」
聴講していた人々が、僅かにキョトンとして周りを見渡す。
何かおかしいことを言っただろうか?
反応をしてくれた人がいたので、軽く一言返しただけなのだが、語りの途中で突然だったので不自然だっただろうか。
「……」
あまり止まるのも良くない、話を続けよう。
「写真を見て貰えれば分かると思いますが、町の孔雀色は災雨の色が染み込んだものです。町の方が少し鮮やかな色ですが、災雨直後はもっと暗い色をしていたそうです」
「……」
「この町の色には暗い過去があると言ったのはそういうことです。50年経った今でも災雨の経験者が多くこの町に住んでいますが、未だに後遺症に悩まされる人も多いそうです」
「……」
「災雨の後遺症として多いのは "慢性的な皮膚炎" それからもう一つ "記憶の混濁" です」
「……」
「ルフォンスおばあちゃんも生前はこの後遺症が見られていました。時々、知らない人の名前を呟いたりしていて、誰?と聞いても「さぁ……誰だったかしら」と」
「……」
「存在したのかしていないのか分かりませんが、中でも『ミオ』という名前をよく呟いていていました」
「ふふふっ」
「……?」
すぐ近くで、女性の笑い声がした。
(……なんだなんだ?)
(……どうしたんだろ?)
あまりに私がキョロキョロするものだから、聴講人も少しざわつき始める。
「あっ……すみません、何でもないんです……私の勘違いでした。えっと気を取り直して」
それから……
「ふふふ」
「……笑わないでよ恥ずかしい」
「忘れてても名前を呟くなんて、大切に思ってたんですね?皆んなのこと。特に私のことは」
「〜〜〜〜〜もう……」
そこは、孔雀の町を一望できる丘の上。
地図にあったか、無かったか。
誰かが来たことはあったか、無かったか。
そこに立つのは、いつの私か。
新緑の木陰、一本の幹に背を凭れて町を眺めるのは、孔雀の目をした少女と薄赤紫の髪をした麗人。
「シエルちゃん、すごくしっかりしてますね」
「あったりまえでしょー?あたしの孫よ?」
「はいはい」
「はぁ……ミオちゃんにこうも軽くあしらわれるようになるなんて……」
「あ、髪の色は黒いんですね?ルアさんみたいな赤紫の髪綺麗で好きなんだけどな」
「どこで覚えたのよその微妙な飴と鞭……うーん、たまたま遺伝しなかっただけでしょ?あ、もしかして雨の副作用だったりする?」
「いや……それはないですよ……ね、ケイさん」
木陰の後ろから、影がもう1人……と一匹。
「ああ、バレてしまったか。こっそり近づいたんだけどな」
「なに……その犬」
「ミオについてきた犬なんだ。すっかり懐かれてしまった」
犬は私を見るなり彼の腕から飛び降り、私の指をしきりに舐める。
「あはは、もう大丈夫だよ。くすぐったい」
「ワン」
「やっぱり、優しい顔をしていたね」
頭を撫でると、その手触りはゴツゴツとしたものじゃなく、柔らかで、小さくて、犬らしい黒い頭。下を出す度に覗く牙だって、その形は言うまでもない。
「で、なんだっけ?雨の副作用の話か。僕の知る限りはそんなのは無い。まぁ完成させたのはミオだし、ミオが言うなら無いんだろう」
「ふーん……ま、それ抜きにしても、あたしからしたら "よくも忘れさせてくれたわね!" って感じなんだけど」
「よく知らずに「止めない」って言ったのルアさんですよ?ちゃんと約束通り病院にも帰りましたし」
「あんなことになるなんて想像できるわけないでしょ!ずるいよー」
「あはは……ごめんなさい。でも、後悔はしてませんよ」
「おかげでこの57……8年になるかな、一切血は流れてない。災雨は僕も想定外だったが……」
言いづらそうなのは、それが私の死因だからだろうか。
いや、それよりも。
「結局、君だけに辛い思いをさせてしまった。本当に……すま」
ペチ
「……」
「謝らせませんよ?」
音がするかしないか、そんな程度の平手打ち。いや、これでは指の腹を押し当てただけだ。
ただ、有無を言わせぬ孔雀色に、彼はその口を閉じて微笑んだ。
「はぁ……敵わないな全く」
彼はそう言って、後ろに両手をついて地面に凭れる。
ふと見れば、ルアさんはいつの間にか少し離れた所で犬と戯れていた。何かのパフォーマンスかと思うほど、薄赤紫の毛先を快活に振り散らしている。元気だなぁ。
「あっ」
そんな戯れを横目に町を眺めていると、薬屋の前、なにやら見覚えのある無精髭の男性が遠くに見えた。
「あそこ、ロドニーさんだ」
「ロドニー?ああ本当だ、生きてる。まだ薬師を……もうヨボヨボなんじゃないか?」
2人で覗くようにして、車椅子の薬師を観察する。
───「ちょ、ちょっとロドニーじいさん!薬屋の広告用に写真撮るだけだから!立とうとしなくていいから!」
───「あ?こんなもん後継に介護されるジジイの写真じゃねぇか!そんな広告の薬屋行きたかねぇだろ!俺はまだ元気だっつうの」
───「お客さん落ち着いて……」
「……」
「……」
「元気ですね……」
「ああ、あれはもう暫く生きるだろうな」
「ええ……あ、雨」
ぽつん、と一粒、また一粒。孔雀の町に落ちていくものが見えた。
町の人々は屋根の下へ隠れたり、傘をさして雨を凌ぐ。
しかし、その雨はかつての透明な雨ではない。
「雨……すっかり薄くなっちゃいましたね」
「ああ、災雨のせいでサイクルが切れてしまったからね」
「また、血が流れますか……?」
「さぁね。でも、雨なんか無くたって彼らなら上手くやっていくような気がする」
「そう……ですよね。きっと」
「ああ、彼らは逞しい……さ、そろそろ行こうか。僕らなんか居なくたって世界は回る」
彼は立ち上がって背伸びをひとつ。
私もならって、同じように背伸び。
視線を下ろせば、また一面の孔雀色が飛び込んでくる。
「ミオちゃーん!」
案外、長いこと町を眺めてしまっていたようだ。犬を抱えたルアさんが、遠くからよく通る声で私の名を呼ぶ。
「はーい」
これから何処へ行くのか。
何をするのか。
果たしてこんな場所が、会話があったのか。
そんなのは誰も知らない。
これは語られることのない、孔雀の町ができるまでの物語。
「また逢おう」
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