第18話
目を凝らさなければ誰かわからない程の距離に。海岸を歩く人影がひとつ。傘もささずに歩いている。
海の方へ向かっているようだけど、何をしているのだろう?
班員の1人だろうか?雨の濁りで誰かわからないかもしれないが、目を凝らしてみる。
服は……白衣か?私と同じだ。
背はほどほどに高い、男の人。
髪は短髪で色は金?茶?
……?誰だろう?
眼鏡を掛けているみたいだ。
あ、こちらを振り向きそう。
瞳が。
あ
雨音が、世界の音が消えていく。
「待って!!!」
蒼の瞳が見えかけたその時には、扉も閉めずに外へ飛び出していた。
少し走ったところで、息を荒げて立ち止まる。
「あれ……」
どこへいった?
あたりを見渡しても誰もいない。振り向いても乱暴に開かれたままの扉があるだけ。
それ以前に。
「……誰?」
誰だ、わからない。どうして飛び出した。
「あ……」
緑色の雨の下に生身で飛び出してしまった。気がついた時にはもうずぶ濡れだ。
全身にインクを被ったようになるのかと思ったが、案外そうでもないようで髪や白衣が薄く緑に滲む程度だった。
戻った方がいい。そうだ、間違いなく。
だが、それとは裏腹に歩みは進む。崩れていた積荷を漁ると、幸いにも傘を一本見つけることができた。
大きめの真っ黒な傘をさして、かの少女は海に沿って歩き続ける。
「……!」
少し歩くと、倒れている班員を発見することができた。
「う……」
駆け寄って、初めて気づいた。確かに作業服を着た班員がうつ伏せで倒れている。
だが、露出した皮膚と肉は溶けていて、所々から骨も見えている。顔を見ても誰かわからない程にただれていた。また吐き気が上がってきてしまう、すぐに目を背けてその場を離れた。
何があった。いや何があったじゃない、間違いなく雨のせいだ。得体の知れないものが人を蝕むものだとわかった瞬間の恐怖は、とてつもないものだった。
また少し歩くと、同じような亡骸が今度は4、5体。その中には救護係の女性と思われるものもあった。よく見ればその向こうにも数人疼くまるようにして横たわっていて、より海に近い側には班長の作業服が、服だけが、岩場にへばりついていた。
私は遂に立ち止まった。
知っている。
覚えのある感覚が、全身を包む。
人を失う感覚。
自分の知らない間に、瞬く間に命が消えていった感覚。
知らない。
知っている。
私は何をしてる?
いつから眼鏡をかけていて、いつから仕事をしていて、いつからここにいて、いつから何の研究をしていて。
「……」
目の前の死人は誰?
「班員の……みんな」
雨の匂いが好きなのは生まれつきだったか?
「……たぶん」
この感覚は何?
「知らない」
本当に?
「……知らない」
名前は?
「ミオベル・ピーク」
お父さんとお母さんは?
「故郷で暮らしてる」
どこで勉強してた?
「国立の……大きな学校」
卒業して、どこへ行った?
「……総合遺失物管理センター?」
違うよ。
傘を開いてから数刻。
絶え間のない自問自答のうち、多少は落ち着いてきた……というより狂いそうな自分を守るために、頭が働かなくなってしまった。
「あ……」
まだ空は光のひとつも見えないが、唐突に雨は止んだ。
瞬間に、ぐちゃぐちゃだった頭が、雨が止むまで思考が情報を遮断していたのがよくわかった。
ふと海岸に視線を下ろすと十数歩向こうの岩陰に、何か黒いもぞもぞした物が。
「バウっ」
犬……?犬か?ああ、黒い犬だ。
首から下はいたって普通の小型犬だ。
しかし、問題は首から上。
かなり大きな頭部、いやそれ以前に口の形。ギザギザの……なんて形容があるが、これは本当に鉄板で雑な切り絵でもしたんじゃないかというくらいの。
犬だと認識するが遅れたのはそのためだ。
瞳も顔に比例してかなり大きいが、白目をむいていてとても可愛い顔だとは思えない。
耳は普通なようだ、そこだけは可愛らしくピンと立っている。
「バウっ」
私を発見するなりひと吠え。そのままどこかへ去っていくかと思ったが、こちらへ向かってちょこちょこと寄ってきた。
「……君も、ひとりかい?私と一緒だね」
「バウっ」
「その顔……どうしたの?まるでトラバサミみたい」
「ウ"っ」
「少し、撫でてもいい?」
ゴワゴワの毛ざわり。
顔は明らかに骨より硬い感触があったが、毛はゴワゴワとはいえ生き物らしい柔らかなものが生えていた。
見た目からの直感に反して意外と人懐っこく、落ち着いている。しばらく撫でていると。
ポツン
「ああ、また」
「もう少しこっちへおいで、君も雨に濡れるのは嫌でしょう?」
「……バウ」
隣から飛び移ってきた腹のあたりで、軽く尻尾を振って丸まって。
「うん、よしよし」
雨が激しくなっていく。今度こそ止まないのだろう。
また一刻。
雨はより激しく、濃くなっていく。
岸の入りまで海面が上がり、私は腰を据えていた岩を登って頂上で緩く三角座り。
班員達の身体はとっくに流され、消えていた。
先程この犬が隠れていた岩も、ここより幾分か低い位置にあったのでもうじき沈む。
傘は左手で支え、空いた右手はゴワゴワの頭に。そうして暫くの間、右手を這わせ、瞳はただ孔雀に染まっていく海を眺めていた。
「少し、話をしてもいいかな」
犬は瞼を薄く開き、視線をくれた。もちろん、黒目がないので本当のところはわからないが、私にはそう思えた。
「ふふ、いい子だね」
代わって目を瞑り、一呼吸。
「私はね、研究者なんだ」
「こう見えて学校での成績は一番だったんだよ」
「勉強をしているとさ、父さんも母さんも褒めてくれるんだ。何かで賞を貰ったりすると、すごいぞって、私なら立派な学者になれるって大喜びだったよ。私も嬉しかった」
「卒業するちょっと前にね、国の研究施設からスカウトされたんだ。名前はたぶん『総合遺物管理センター』なのかな……違うかも。断る理由はなかったし、私が必要とされているなら、それに応えた」
「管理センターに入ったことに後悔はないよ、研究は楽しかったし、何より……サリアみたいに、大事な人と出会えたからね」
肺が波打って、鼻から吐く呼吸が揺れる。
ああ、そうだ。サリアたちは間違いなく大事な、大切な人達だ。
「でもね、なんだかその言葉がふさわしいと思えないんだ」
「もっと」
もっと、もっと、もっと
「大切な何かが、ここにある……気がする」
「なんだかね、それがわかるまでここから動いちゃいけない気がする」
犬は歪な顔についた表情筋をぴくぴくと動かして、理解及ばぬと言わんばかりに「ウ」と一瞬。
「ごめんね、よくわからない話して。続きから話してもいいかな」
うん
「……」
唐突に、そして鮮明に、先ほどの自問と同じ声が聞こえた。
「……新人のとき僕の教育係だった人さ、僕の容姿が実年齢以上に幼いもんだから、初めて会った時は驚いてたな」
そうだね、驚いてた。
「……」
「……その人はね、すごく賢いんだ。私も他の人もたくさんのことを教わった、尊敬してる」
それだけ?
「……」
「……名前は……確か、レオンっていうおじさんの研究員だったかな」
違うよ。
「……」
「えっと……それから」
名前は
「うるさいな!」
だから、何も、違うことなんて……違う?
ふと視界を振ると、犬は立ち上がってこちらを睨んでいるのに気がついた。目を見開いて、雨音で聴こえない唸り声をあげている。驚かせてしまった。
「あ……ごめん」
大きな声を出してすまないと、もうしないからと右手を出した瞬間。
ガリィッッッメキッ
「あ"っ……!!」
触れようとした右手を思いっきり噛まれてしまった、口内の隙間に沿って4本の指が変形していくのが分かる。
やはりというか、とてもこの大きさの生き物の力とは思えない。
犬の表情は一切変わらなかったが、グルルと唸る声は大きくなり今度はよく聞こえた。怒っているのがわかる。
「ごめんって……」
4本の指は第二関節から先が千切れそうで、関節の部分から血がダラダラと流れる。負荷がかからないように左手で血みどろの4本を支えた。
「痛くないよ。生まれつき、痛覚が鈍いんだ」
痛みどころか血の流れる感覚も、指にかかる荷重の方向あまり分からない。麻痺したような、感覚の殆どを遮断したような感覚になる。
「……これも、本当に生まれつきだったかな?もう何も分からないかも」
ほんの僅かに微笑んで、犬の目を見つめ直す。すると犬は唸るのを止めて、手のひらを返しに高く伸びるような声で申し訳なさそうに鳴いた。
どうして顔がこんな怪物じみたものになったのか、されたのか。どこか知らないところで、悪い科学者に生物兵器研究の実験台にでもされたんだろうか。
分からないけど、この顔になる前は優しくて穏やかで繊細な。
きっとそんな顔をしていたのだろう。
ざぶん──
「わぶっ」
気がつくと、辺りはすっかり孔雀色の波が包んでいた。一際大きな波に、傘と眼鏡を持っていかれてしまったようだ。
さっきまで私が座っていた所も、既に海面下だ。私も犬も雨に打ちつけられる。
「ありがとう、聞いてくれて」
「バウっ」
犬の体を引き寄せ、胸のあたりで抱き抱える。
そのまま、わからないまま、大きな波にさらわれた。
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