第17話

 海岸、迷子遺物地下




 カンカン、ピチャピチャ、カチッ

 梯子を降りる音、水浸しの床の音、懐中電灯をつける音。

 私の音はどれだ。

 匂いが強すぎて、それらの音など全て流れていく。

 整った石造りの床と壁、円形の薄暗い部屋。天井中心から伸びる巨大な吸水管の先、水面からは雨より雨の匂いがする。

 胸ほどの高さの鉄柵に近づいて覗き込んでみるが、暗くて水面が揺れていることしか分からない。懐中電灯を当てても水中が見えることはなかった。

「っ……ふ……」

 まずい、匂いが強すぎて体調が悪くなりそうだ。


 動けずに立ち尽くしていると、すぐ近くで班員の1人が柵の隙間から腕を伸ばし、採取用のコップで水をすくった。

「やっぱり海水ですねこれ」

「やっぱりか、入った時から少し潮臭かったしな」

 海水。そうか、潮臭い匂いを掻き消されてそれすら分からなかった。

「ピークさん、これ見てください。この海水ちょっと色が」

 彼はコップを私の傍に持ってくる。近くで見ることができれば、私も何か見えるかも知れない。

「ああ……ええ、少し見せて……」

 だが、受け取ろうとコップに触れたところで、強い匂いが私の臓器を襲った。

「ぉえ……」

 受け取ろうとコップに触れたところで、膝をついて少量嘔吐してしまった。

「ピークさん!?」

 周りで2〜3人、驚きと心配で慌てる声が聞こえる。私は鼻をつまんで呼吸をするが、関係なく匂いは私の中に入ってくる。遂には呼吸を止めたが、それでも嗅覚とは違う何かで匂いを感じる気がしてならない。

「大丈夫ですか?」

「地上に上げよう」

「ロープと担架持ってきました」

 周りの声に妙に意識が行くのに、その全部が流れていく。そんなちぐはぐな感覚の中、横たわるまま地上から引っ張り上げられる。

 どうして、吐いたんだろう。

 どうして、好きな匂いのはずなのに。

 どうして、雨の匂いがするんだろう。

 どうして、こんなに悲しいの。




「はい毛布」

 入り口付近の壁に沿うようにして、担架を置くスペースが設けてある。マスクをした救護係の女性が優しく毛布を掛けてくれた。

「外、雨が降ってるみたいだからここになるけど、我慢してね」

「いえ……ありがとうございます」

「急に吐いたって聞いたけど……食当たりか何かかしら?お腹は痛くない?」

「……お腹は大丈夫です。他はその……いや……よく分かりません」

「そう……あたしは基本ここにいるから、何かあれば言ってね」

 彼女はそう言って、傍にタオルと洗面器を置いて離れた。

 横になると、少し落ち着いてきた。

不調な身体が安らぐと、人間というのは眠くなってくるものだ。目線は洗面器にぶつけたまま、まだ僅かに残る吐き気と一緒に眠りへ落ちていった。






──────



──────────



───────






「ミオ」

「……っ?」

今、私の名を呼んだのは誰だ。

 寝起きとは思えないほど、目を大きく開いて声の主を探す。

 だが、血眼になって探すのは一瞬で止めることになった。


「……はないか?」

「はい、見落としはないはずです」

「よし、撤退だな」

 見渡しても、周りで班員達が撤退の準備をしているだけだった。

 なんだ、ただの聞き間違いか……

なぜ自分の名前に敏感になったのかは分からないが、そういうこともあるだろう。

 どのくらい眠っていたのだろうか。周囲の様子からして、眠っている間に調査は殆ど終わってしまったらしい。あちこちで撤退の準備が行われているし、既に外へ出た班員もいるようだ。

「ピークさんー、気分どうですか?」

 救護係の女性が優しく話しかけてくる。

「ああ、だいぶ良くなりなりましたよ、ありがとうございます。……もう調査終わっちゃったみたいですね」

「そうね、2時間ぐらい眠ってたかしら?」

「あはは……そんなに寝ちゃってたんですね」

「でも、快復してきたなら良かった。立てるかしら?そろそろ私たちも出ましょう、もう最後よ」

 気づけば、班員たちはいつの間にか荷物を片して皆外へ出たようだ。屋内には、もう私たち2人しか残っていない。ふと周囲を見れば、そこにあった救急箱や毛布も片付けられている。

「あ、そうそう。外、雨が降ってるみたいだけど傘は持ってる?」

「雨……ああ、そうですか……傘は持ってないですね」

「あら、じゃあちょっと取って来るわね。外にまだあると思うから」

 彼女はそう言って、小さめの傘をさして駆けていく。確かにあれじゃあ2人は入れない。


 扉が開くと、篠突く音が耳へ届く。こんなに降っているのに、扉を開けるまで雨音が聞こえなかった。ある程度の遮音性があるのようだ。

 しんとしたドーム状のただっ広い部屋の隅。自分の呼吸の音がよく聞こえる、安定した呼吸だ、だいぶ体調も良くなった。

別にうるさい時間を過ごしていたわけでもないが、静か過ぎて日々の喧騒から解放されたような気分だ。

 少しだけ目を閉じて、空間の音を聴く。

「はぁ……──……──…────」







「……ん」

 いけない、また少し微睡んでしまった。

どうしてこうも眠気に襲われるのだろうか。

「あっ」

 時計を見ると、20分程経っていた。

 ……?傘は?

不安げに見渡しても、光景は微睡む前のものと寸分違わない。救護係の彼女はどうしたのだろう。傘1本持ってくるのに、こんなに時間がかかる訳が無い。置いていかれたか?そんなまさか。

 立ちくらみを起こさないよう、ゆっくりと立ち上がって扉へ向かう。

「……」

 扉を開ければ、聴こえるのは変わらず雨の音。でも、ひとつ、違うことが……あった。

「なに……これ」


 そこには、絵の具を撒き散らしたような水浸しの海岸。


 色は濁った孔雀の色。


 他に見えるものは?左右に視線を振ってみても、雨でぼやけた視界では崩れた積荷を捉えるのが精一杯だった。

 一体、何がどうなっているんだ?

 どうして、雨が孔雀の色をしてるんだ?

 皆んな何処へ行った?どうすればいい?


 ……落ち着け。

 まず、この雨が何であろうと、それを確かめる術も知識も今の私には無い。

 班員達を探しに行きたいところではあるが、雨の正体が分からない以上むやみに身体を晒すのは得策じゃない。

 深呼吸をしながら、ゆっくりと鉄扉を閉め、そのまますぐ側の壁に背を預けてへたりこむ。

 ここまでの異常自体だ、いずれセンターの方から迎えが来るだろう。


 しかし、班員達は一体何処へ行ったのだろう?さっき外を見た時は積荷しか見えなかった。撤収がほぼほぼ完了していたようだし、バスの方に退避してそのまま動けずにいるのだろうか。

 異常自体とはいえ、もし動けない理由が私待ちなら、それは申し訳ないな。

 だが、遺物内を無闇に漁るのもまずいし……

 兎に角、今は待つことしかできない。大人しく座って、気持ちを落ちかせる時間をとるとしよう。

 「はぁ……」

 今日はなんて心の忙しい日だろう。ただでさえ大型遺物の調査で慌ただしいのに、吐いて、倒れて、起きたと思ったらこの異常事態だ。

「……」

 ……

 ……

 ……そういえばあの雨、匂いはどうだった?


 目の前の景色があまりに衝撃的だったものだから、匂いにまで意識を向けられなかった。

 でも、それに意識を奪われなかったということは、あの地下のような強い雨の匂いはしないのだろう。

 一体、どんな匂いがしているのだろう。私の好きな雨の匂いはするのだろうか、それともそんな匂いはしないのか。

 外に出るのは憚られるが、どうにかそれを確かめたい。

 視線を一瞬扉のノブへ向け、ゆっくりと立ち上がる。雨音が少しづつ大きく。右の平からドアノブの冷気が。

 外気の量に比例して、雨音が一気に流れ込む。

 一面の孔雀色から瞼の中で目を逸らして、浅く呼吸を始める。

 匂いは。


「─── ─── ───」

「──── ───」

「──」

「…………」

「……そうね、早く戻ろう」


「……?」

 ドアノブに手を掛けて、扉を閉じかけたその時。

 雨の中、遠くにひとつ人影が見えた気がした。

「誰かいる?」

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