第6話

 あれから、ひと月ほど経った。朝、研究室に顔を出すと、彼女はいつものように仕事の準備を始めていた。

「おはよう。ミオ」

「あ、おはようございます。ケイさん」

 まだ新品感のある眼鏡をかけた彼女は、微笑んで朝の挨拶を向ける。だが、その顔は直ぐに、金縁に囲われた翠の目をぱちぱちとさせて疑問符のついた表情に変わった。

「どこか行くんですか?」

 白衣ではなく、厚手のコートを着た僕を見て彼女はそう言った。

「ああ、今日はアルマヒク関係で公害防止のための調査で中央街に行ってくる」

「ああ……中央街に。ケイさんも色々大変ですね」

 無意識か、彼女は左の指でズレてもいない眼鏡を掛け直した。

「そういえば、目の調子はどうだい?だいぶ眼鏡には慣れてきたようだけど」

「ばっちり見えますよ!度も丁度良いです」

「そうか、なら良かった」

 微笑みを返して、それじゃあ行ってくると手を挙げる。進行方向を向ききる前に、背後から声が返ってくる。

「いってらっしゃい」



 また、鉄道の車窓から幾度目かのその景色を横目に1時間と10分。ミオを連れてきた時より少しばかり遅い到着となった。

 まだ雪の残る階段を滑らないように気をつけて降りていく。

「よぉ」

 真正面、建物の煉瓦壁に凭れかかっている男が1人。髪色と同じ焦茶の無精髭をもごもごと動かし、眠そうに欠伸をする。

「ロドニー?来てたのか」

「来てたのか?じゃねーよとぼけんな、お前が呼び出したんだろうが!」

「待ち合わせ場所と違うが」

「ちょうど良く駆り出されたんだっつーの、別にここでも良いだろ。ったく奴ら公害調査なんて雑用を押しつけやがって」

「君がサボってるからだろ……」

「……」

「まあ、君が研究所に入ってくれて良かったよ」

 ロドニーはさぁなんのことやらと言わんばかりに遠目で煙草を咥える。

「仕事中だぞ」

「真面目だねぇ、集合まではまだ時間あるだろ」

 火をつけて直ぐに煙をひと吹きすると

「てか、ただサボってんじゃねぇし……そのサボりの恩恵を受けてんのは誰だよ」

 彼はそう言うと、コートの内から小さめの白い紙袋を僕に差し出した。小瓶が幾つか擦れ合う音がする。

「ああ、いつもすまない」

「こんなもん何の研究に使うんだか。今更だが、個人から管理区分5以上の物質材料を買うとかだいぶグレー……言わんとこ」

 紙袋を受け取って、同じように懐にしまう。

「ったく……嬢ちゃんは知ってんのかよ、このこと」

「ん?ああ、彼女なら言わなくたって勘づいてるだろう。知らないフリをしてくれているのさ」

「はぁ二人揃ってご聡明なこって」

 また、煙草を咥えて遠い目。しかし、なかなか煙を吐かない、咥えているだけのようだ。

「……」

 数秒固まったと思ったら、吸ってもいない煙草を口から離して、声混じりの鼻息をひとつ吐いた。

「……?どうした」

「お前、目の方はどんくらいだ」

「その話か。この前、定期検査でイドさんにも診てもらったが……そうだな、もって2年ってとこじゃないか」

「……悪化してんな」

「さっきと同じ質問するけどよ、嬢ちゃんは知ってんのか」

「いいや」

「見えなくなるまで隠すつもりか」

「そのうち伝えるさ」

「早い方がいい。嬢ちゃんいくつだよ」

「ついこの間、15になったな」

「まだガキじゃねぇか……」

「研究は?間に合うのか」

「はは、どうだろう。正直もっともっと時間は欲しい」

「間に合わなかったら、嬢ちゃんひとりで研究すんのか」

「……ミオは、賢い子だよ」

「……」

 彼はまた煙草を咥え直すと、今度はゆっくりと時間をかけて吸った。少し上を向いて吐かれた煙は、間をおいて冷白な空に溶けていく。

「何の研究だろうが、何を作ろうが俺の知ったこっちゃないけどよ」

 彼は煙草を持つ手を僅かに下げ、一拍置いて静かに呟いた。

「あんまり……子どもに辛い思いさせるもんじゃねぇよ」

 彼のこんな目を見たのは、一体いつぶりだったろうか。ぶっきらぼうな舌も顔も全部嘘なんじゃないか、この世の悲痛も愛憎も全て見てきたんじゃないか、そんな目だ。器用な振る舞いも繊細な心も、まるで持ち合わせていない不器用な男のくせに。

「ロドニー」

「あ?」

「ありがとう」

「お……おう」

「帰ったら、話すことにするよ」

「そうかよ」

 気まずそうに逸らした視線の先に何もないのは気まずいのか、彼は腕時計を見た。

「そろそろ時間だな」

 そう言われて自分の腕時計を見ると、確かに調査開始の時間が迫っていた。

「ああ、行こうか」







「水質調査の方は?」

「今のところ、B〜G地点までは問題ないそうです。唯一A地点で基準値以上の数値が出てる項目がありますね」

「一番近いところか……まぁ予想はしてたが」

「ただこのデータを見る限りでは、別に浄化しきれなかった排液が流出しているしているわけではなさそうですね?」

「うーむ、まぁその項目なら最悪基準値オーバーでも浄化装置の性能保証をする分には問題ないが……」

「発表時の印象はなるべく良くしたい。再計測の後、原因を要調査するよう伝えてくれ」

「了解しました」

 人中に髭を生やしたやや太り気味の男性は、今回の調査の統括管理者だ。環境管理部の研究室で室長をやっている。

「おおリフィクスくん!」

「どうも、こんにちはコサード室長」

「アルマヒク開発に関わってる現場の人間が来ると聞いていたが、君だったとはね。優秀だと有名だよ」

「ははは、いやいやそんなことは」

「はっはっは、謙遜もほどほどにな。そうそうそれで、早速なんだがここ見てくれないか?この……」

 僕は開発側の人間としてアドバイザーという仕事があるが、一方ロドニーはといえば、D地点で川に潜って条件を細かく変えながらひたすら水や砂利を採取しているらしい。本当に雑用じゃないか……。

 若い新人達に混ざって同じ作業しているのを想像すると少し笑けてくる。強面な方なんだから、睨んだりして怖がられていなければいいのだが。






「あ……あの、ロドニー・メイスさん……?」

「んだよ」

「ゴーグルの向き逆ですよ」

「あ……」

 街はずれの河川敷、浅瀬に足を浸けたまま生真面目な新人調査員の女性からの指摘を受ける。

「ちゃんと紐つけないからですよ」

「あー、わかったわかったよ」

 苦手なんだよなぁなんてぼやきながら、絡まりかけのゴム紐をぐりぐりと解いていく。

「(んあ……ゴミか……)」

 上を向いてゴーグルを被り直すが、黒い点がひとつ面についていた。

「……?」

 外側を擦っても取れない、内側についているのか。

「あん?」

 違う。

 内側を撫でようとしてゴーグルを浮かせた時に気がついた。ゴミではない、だが。

「なんだありゃ」

 それは呟いたのは、果たして自分の喉だけだったろうか。

 目を細めれば、遥か上空にゆっくりと動く飛行体。遠いせいなのか、低速で飛んでいるのか、おそらくそのどちらもだろうが、今まで見てきた中で一番のろい飛行体だ。

 形はよく見えないが、少しずつ此方へ近づいて、やがて街の方へ向かって飛んでいった。

「飛行機なんて、珍しいな」

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