善き行いは過去の虚像
羽寅
01 好かれるきっかけ
――その日は、本当に偶然だった。何となく外に出たい気分だったから、特に理由もないまま家を抜け出したことを覚えている。
「さむい」
当たり前の事実を当たり前に呟く行為ほど、無駄なことはない。だからその一言だけ呟いて、あとはただ静かに深夜の世界へ身を投じた。
普段は室内からカーテン越しに覗いていた外を、こうして歩き回る非現実的な感覚はなんだろう。まるで自分一人しかいないような、そんな感じ。普段は活気ある公園に誰もいないのも、そう錯覚させる要因に数えてよさそうだ。
このまま旅に出てみたい。
ひきこもりが考える理想にしては、荒唐無稽かもしれない。だけれど、今の不思議な高揚感に浸った自分の足は止まることなく弾んでいた。いっそ歩き続けてどこまで行けるか試そうか? なんてくだらない発想が頭の中に思い浮かんだ刹那、それを覆す足の痛みが脳にまで届く。
「……っ」
時間にして約十分。運動不足が響いた、にしてはあまりにも早すぎる幕引きである。つい先ほどまであんなに働かせていた足首が痛み出し、声を出さずにしかめっ面で民家の塀にもたれ掛かった。
そのままずりずりと身体は落ちていき、いつの間にか三角座りの体制が完成した。ぼやけた光を灯す丸い街灯が、自分を照らす唯一のスポットライトである。ただし、この街灯だってこんな貧弱悪女を照らしたくてやってるわけではない。偶然、丁度いい場所にあった明るい光に自分が寄せられたのだ。虫みたいに。
「……………………」
虫、という単語を出したから気が付く。人間の脳みそとは単純なもので、一度頭で考えた“モノ”を不思議と視線で追ったり、何故だがそれに対して関心を抱くようになるのだ。
そのため、下水道に向かって餌を運んでいる蟻の集団が自然と目に入ってきた。未だに生きている“餌”こと“バッタ”を一生懸命運ぶ蟻たちは、とても生きていると思う。
「・・・・・・」
――もしも、この蟻たちを踏みつぶしたらどうなるだろう。まず間違いなく数十匹ほど死んでしまうけど、このバッタは助かるかもしれない。バッタには感謝を言われるかもしれないけど、蟻には恨まれるかもしれない。
「…………そんなことする勇気なんて、ないのに」
人の不幸は蜜の味、という言葉が嫌いだった。甘いわけないだろ。もっと喉につっかえるような、最悪な後味がある。
一人殺せば犯罪者だが千人殺せば英雄、という言葉が嫌いだった。誰も殺さずただ傍観者でいる者の罪は何故無いのか。
学校でいじめられた時、見ているだけだった先生やクラスメイト、そしていじめの主犯格を“殺したい”ではなく“死んでほしい”と願っていた自分。
英雄はおろか犯罪者にすらなれない事実に、
「――おいクソガキ。親にでも捨てられたのかよ?」
「え」
鼻に入ってくる“癖になる悪臭”と、頭上から聞こえた声。咄嗟に立ち上がり、痛みに耐えつつ振り返る。
約1.5m程の高さ、――言い換えれば自分の背とほぼ同じ大きさの塀を見上げてその声がする方に視線を動かした。否、見ざるを得ない状況に陥っていたのだ。
「どこで泣こうが勝手だが、煩いからそこで喚くんじゃねえぞ」
「な、泣いてなんか……」
口に含んだ一本の煙草を大きく吸い、空に浮かぶ無数の星に向かって煙を放つ男。強面なその顔には無精ひげが生えており、その髪の毛もぼさぼさで手入れはされていないように見える。
「早く逃げないと。」落田の脳内からその命令が神経を伝って手足に伝達されるが、思うように身体が動かない。それはまるで蛇に睨まれた蛙のような緊張感が辺りに漂い始めているという実感か。
「ごめん、なさい」
少しの間続いた無言を終わらせた一言は、たどたどしく伝えた謝罪の言葉だった。もちろん死ぬつもりなんて無かったものの、確かに民家の塀を背にして座り込んだのは迷惑だったかもしれない。そういう意味での“謝罪”だった。
「すぐ家に帰ります。
ご迷惑をお掛けし――「ちょっとまて」……!」
男が短いながらも低く威圧感のある単語を呟くと、手に持っていた煙草を深く吸って吐き出し、そのまま家の中へと消えていった。しかし、落田はその場から離れない。
それは男に命令されたからではなく、十余年余り生きてきた自分の中にある危機感というものが少しづつ無くなっていったからだ。人は悪意に満ちている者と思っていながらも、これから先に起きる出来事に拒否反応は無かった。
「ほら、これでも貼っとけ」
塀の向こうで声がしたかと思うと、こちら側へと投げ込まれた小さな物体が目に入る。街灯のお陰でなんとかキャッチに成功し、これが何なのかを確認する前に男が言った。
「右の足首が擦れて傷が出来てるぞ。
自分が履いてる靴のサイズくらい把握しろ」
絆創膏、それも未開封の箱ごと。
(…………)
別におかしいことはなかったが、何故だかそんなくだらない事に笑いそうになる。しかし、こちらをジロリと睨みつける男の視線に気づいていた落田はそれを我慢した。
「ありがとうございます」
箱から出した一枚の絆創膏を足に貼り、謝罪の次は感謝を述べた。人に対して建前でも感謝を伝えることなど、一体いつ以来だろうか。くしゃくしゃに丸めたゴミはポケットに入れて、受け取った箱を男の元へ再び返還する。
筋骨隆々とまではいかないまでも、漢らしいと称される程度には筋肉が付いたその腕は、落田の手から簡単に箱を取り返した。
「お前、ちゃんと帰る家あるんだよな?」
「……はい」
最初にその顔を見てから一切変わらなかった表情が、ほんの少し変わった気がした。それは落田から男に、男から落田に対してそれぞれが感づいた変化だった。
しかしその変化を言葉に出すほど相手を知っている訳もない。今日――正確に言えば0時を過ぎていたために昨日の出来事にはなったが、たった数分ほどの思い出で終わりだ。
「――ん。じゃあもう帰れ、俺が通報されっから」
そう言い残し、男は自宅に戻った。窓を閉じる音がして、辺りに立ち込めていた煙草の匂いも夜の風にかき消されていく。
この家は買い物をするスーパーとは正反対の場所にある。自分の足が動く方向に歩いた結果こちらの方にまで来たが、きっともう訪れることはないだろう。
「…………………………」
「……………………加賀」
頭の中ではそう思っていても、落田は家に帰る前に“確認したい事”があった。つい先ほどまで話していた者の名前を知って何になるのかは分からないが、何故だか覚えておきたかったのである。
深夜0時過ぎ。揺れる風を押さえながら、表札に書かれていた名を小さく呟いた。
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