第35話 赤い帽子のレディー
次の冬、巨大な魔物【厄災】がスティリア城や北部の街を襲う。
騎士団長とエルダ、セスが話していた内容を聞いてしまったアーノルドは、自室へ駆け込んだ。
胸を押さえ、ベッドへ腰かける。
こちらへ向かうセスの足音が聞こえる。
彼が扉を開けた。その時になってようやく、アーノルドは自分が書類を握り締めていることに気付いた。セスが忘れて、アーノルドが届けようとしたものだ。
セスはアーノルドの手元を一瞥し、その表情を見てアーノルドは口を開いていた。
「セス、お前、──どうして俺に聞かせた?」
彼は目を見開いた。
逡巡し、言い訳をしようとしていたが、諦めて頷いた。
「きみは麓に家族が居るでしょう。家族と一緒に避難して下さい」
彼の瞳は真剣だった。
「このことは箝口令が敷かれるでしょうから、その前にきみに知ってほしかったんです。偶然聞いてしまったのなら、仕方ないこと……ですよね?」
「お前な……」
アーノルドは胸を空にするように息を吐き出した。
「きみに色々としてもらってばかりだったから、返したかったんです」
「ああ?」
まったく心当たりがない。
セスはずいぶん昔を思い返すように視線を空へ向けた。
「あの日、声を掛けてくれてありがとう。本当に緊張していたって言ったら笑いますか?」
「あの日って……叙任式の時か? それだけで?」
アーノルドは胡乱気にセスを見つめた。
彼はまったく真剣な顔で続ける。
「アーノルド、きみはすごく優しいですよ。……ずっと不思議だったんです。魔法使いには『人に分け与えるべき』って教えがあるけど、魔法使いだって実践できない人も多いのに──きみはどうして簡単にできちゃうのだろうって。だから僕、」
「セス、もう良い」
アーノルドは思わず制止の声を掛けた。面映ゆくて口の端がムズムズする。
セスは彼の反応を見て目を丸くした。
瞬きをして自分の言葉を振り返る。
「……もしかしてすごく恥ずかしいことを言ってましたか?」
◆
アーノルドは一日だけ休暇をとって麓へ下りた。
家族を移住させるためである。
ところで、その折に彼はとある淑女と出会った。
こんな辺鄙な村に似つかわしくない、赤い帽子の淑女だ。いや、洗練された雰囲気で分かりにくいが、まだ少女と言えよう。
近くに保護者でも居るのかと探したが、見当たらない。荷物も持っていないし、こんな場所に用があるとも思えない。迷子か何かだろうか。
「……大丈夫か?」
アーノルドは思わず声を掛けていた。
少女は顔を上げた。帽子で影になっていた面が露わになると、上流階級の人間だとはっきり分かった。この辺りには咲かない、薔薇(恐らく──彼は花に詳しくない)の香りがふわりと漂った。
緩やかな栗毛が陽の光に透ける。上品な顔立ちで、瞳が頼りなげに揺れていた。
「まあ、まあ。この村の方かしら」
「ああ」
少女は目を輝かせた。
「まあ! なんてことでしょう、主のお導きね! わたくし、実は従者とはぐれてしまって。さ迷ううちに足も挫いてしまって、辺りはどこも同じ場所に見えてしまって」
なるほど。見たままの状況のようだ。
「つっても、お嬢さんの香水を辿れば元の場所へ帰れそうなもんだが……」
「え?」
少女は戸惑いの声を上げた。
「こちらの方は皆さま、そんな特技が?」
「は? いや、だってあんた大分香水がきついし……」
「ショック!」
少女は顔を覆った。
アーノルドは頭を掻く。確かに言い方が悪かった。最近特に匂いに敏感になっていて余計なことを言ってしまった。
お詫びと言っては何だが、と彼は案内を名乗り出た。
「立てないよな。……触っても大丈夫か?」
「ええ」
アーノルドはとりあえず、近所から包帯を借りて手当をしてやった。少女に断りを入れると、ドレスの裾に腕を差し込む。そのまま横に抱え上げた。
「まあ!」
少女は腕の中からアーノルドを見上げる。
「なんて逞しい腕なのかしら……」
頬を染め、うっとりと瞳を揺らして呟いた。
こんなにも強い香りなのに、誰も疑問に思わないのだろうか? アーノルドは内心首を傾げた。
香りのする方へ歩いて行くと、従者と思しき老人が辺りをさ迷っていた。身なりがよく、この辺りでは見かけない上流階級の人間だと窺える。傍には豪奢な馬車も控えている。造りや装飾がこの国では見慣れない物だったので、外国の資産家なのかもしれない。
アーノルドに抱えられた少女に気付くと、「ひめ……お嬢様!」と声を上げた。
「爺や!」少女もアーノルドの腕の中から声を上げる。
駆け寄ってきた老爺は少女の「この方が助けてくださったの」という言葉に頭を下げた。
無事に送り届けた。自分の役目は終わりと踵を返そうとし、
「お待ちになって、夜闇の月の方!」
という少女の言葉にすっ転んだ。アーノルドは思わず周囲を見回した。「夜闇の月の方」を探したが見当たらない。少女の方を見ると真っ直ぐにこちらを見つめていた。横で老爺が頭を抱えている。
「申し訳ありません。お嬢様は乙女なのです」
「ああ、夜闇の月の方!」
少女は老爺の声を遮った。ふらり、と挫いた足を踏み出すのを見て、アーノルドは反射的に彼女の身体を支えた。少女はうっとりとアーノルドを見上げる。
「伸びやかなお声、真っ直ぐな瞳、憎くて可愛らしいお口……でも何より優しい方ね」
「そ、それはどーも……」
思わず支えてしまったものの、アーノルドは彼女から身を離した。少女の夢見心地な視線を真正面から受けて、喜びよりも戸惑いを感じてしまう。じりじりと後退る。
「どうかお礼をさせてくださいまし」
「いや、えーと、お構いなく」
一歩、一歩と後退り、アーノルドはいよいよ距離を取った。「せめてお名前だけでも~ッ!」という叫びを背中に受けながら、彼は人生で初めて敵前逃亡したのだった。
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