お父さんの冒険
いちはじめ
お父さんの冒険
一人の小さな男が、おどおどしながらツーリストの店舗に入ってきた。
すかさずスラッとした背の高い初老の男が近づき、非の打ちどころのない笑顔でその男を一つのテーブルに案内した。
「ようこそいらっしゃいませ、お待ちしておりました。私がお話を承ります」
「あの、こちらで冒険ができるツアーがあると聞いてきたのですが……」
「ええ、ここでは冒険に限らず、あらゆるツアーをご提供できます」
担当者はそう言うと、店頭に置いてあるラックから何種類かのパンフレットを取り、テーブルの上に並べた。
それらのパンフレットの表紙は鮮麗な写真に飾られ、そこに芸術を堪能するコース、主役で映画を撮るコースなどの様々な魅惑的な文字が躍っていた。男はそんなパンフレットの中から迷うそぶりも見せず、『冒険』と銘打ったパンフレットを手にした。
「やはり冒険を選択されますか」
「ええ、まあ……」
男は担当者の問い掛けにおざなりな返事をすると、熱心にパンフレットをめくりだした。
担当者は苦笑をしながら手元の書類に目を落とした。
「事前に提出された書類によりますと、お客様は極めて堅実な人生を歩まれてますね。失礼ですが、とても冒険を好まれる方とは思えませんが……」
男はパンフレットを閉じ、目を上げた。
「幼いころに大病を患いまして、長い間入院してました。その時は本を読むことくらいしか気晴らしがなくて、たくさんの本を読んだのですが、とりわけ冒険談が好きでした。幼心にいつか自分も冒険がしてみたいと思うようになったのです。ただお恥ずかしい話なんですが、見ての通り、私にはとても冒険なんかする度胸はないんです。堅実な人生とおっしゃいましたが、ただの臆病な小心者だっただけです」
「家業の商店を継がれた後、地元で一目置かれる会社に成長させ、その間にご結婚、二児を設けられて、大学まで通わせてらっしゃる。それはただの小心者ではできないことですよ」
「いやいや、周りの支え、特に妻の支えがあればこそのことで、それとちょっと運が良かっただけです」
男はそうぽつりと言うと、再びパンフレットに目を落とした。
担当者はこの男がどれだけ自分を殺して、家族のために働いてきたのかをよく知っていた。そしてそのことに報いるために、この男に好きなだけ冒険をさせてやることが彼の役目だった。
「さて、冒険を選ぶとしてどのコースになさいますか。そちらに提示してあるコースは、自由に組み合わせていただいても結構ですよ。またいろんなオプションをつけることも可能です」
男は自分の希望が叶うと分かり、にわかにテンションが上がったようだった。担当者に矢継ぎ早に質問をしては、ああでもない、こうでもないとコースの組み合わせに熱中した。彼の繰り出す知識は、どれもこれも最新の科学情報に裏打ちされていて、担当者はその知識の深さと広さに舌を巻くほどであった。男は自分が選択してきた堅実な人生とは裏腹に、常に冒険への渇望を内に秘めてきたのであろう。
ほどなくして、男のオーダーする冒険コースが確定した。男はまだ二、三の冒険を入れ込みたいようであったが、キリがないと担当者にいわれ諦めたようだった。
手続きを済ませて席を立とうとした男に、担当者が念を押した。
「これは先ほども説明しましたが、どれだけ冒険に夢中になっても、必ず四十九日以内には戻ってきてください。例外はありません。そうしないと奥さんとは二度と会えなくなりますから気を付けてください。では目くるめく冒険の旅へ行ってらっしゃいませ」
男は一瞬腑に落ちないという顔をしたが、担当者に見送られて、嬉々として店を出て行った。
喪服の黒いネクタイを緩めながら、長男は一息ついた。
「大勢の人に集まってもらっていい葬式だったな。親父も喜んでいるだろう」
長女が、皆の分の湯飲み茶わんにお茶を注ぎながらその後を継いだ。
「そうね、でもあの戒名は何なの。冒険居士って……。お父さんそんなタイプじゃなかったわよね。お坊さんに付けてもらったの? 母さん」
「いいえ、お父さんの遺言なの。自分で付ける人は珍しいって住職が笑ってたわ」
親族の間でもそのことで話がはずんでいる。
男の妻は遺影を眺めながら、口元を綻ばせた。
――お父さん、今頃どこを冒険しているのですか。私がそっちに行った時に話を聞かせてくださいね。
(了)
お父さんの冒険 いちはじめ @sub707inblue
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