散華の前に

ブーカン

第一段

 もはや、空腹を訴える腹の音も鳴らなくなった。

 まともな食べ物は十日ばかり口にしておらず、澄んだ水は丸二日、飲めていない。どこまでも続く荒れ果てた景色は、スカルをゆっくり、死へと誘うかのようだった。


「それもいいかもしれないな」


 このような独りごとも三日ばかり続いている。


 今の領国りょうこくに入ってからというもの、訪れる村で用心棒や害獣退治の入用いりようをたずねても、まともな答えはひとつも得られていない。それも、力無く首を振る相手のやせこけた顔を見れば、わかりきったことだった。

 この国は飢えているのだ。

 よそ者に金や食糧を支払う余裕など、ありはしないのだ。


 ならば引き返せばいいかというと、そうもできない事情がスカルにはある。

 スカルは少し、隣の国で


 任地転換で移動する高官の護衛仕事にありついたときのことである。

 高貴こうき行列に対し、たまたま通りすがったか、最敬礼を怠った領民がいた。年老いた老婆である。目も悪くなっていたようで、高官が通行する状況がよく判っていなかったのだろう。

 しかし、ろくに言い分もきかず、その高官は折檻せっかんを加えるよう命じた。酌量しゃくりょうの余地はおおいにあると部下は渋ったが、年若い高官はその部下をむちで打ち、つづけて、自ら老婆へも鞭を振るった。

 スカルは、気が付いたときには高官を殴り飛ばしていた。

 取り押さえにかかってきた者らにも抵抗し、剣を抜いた。

 法にてらせば、死罪かそれに近い重罪。

 スカルは逃げた。

 

「あんな婆さま、どうだってよかっただろうに……」


 悔やんでいるわけではないが、孤独と疲労がスカルからこの言葉を吐き出させている。

 独りごとの癖が出始めた三日前などは、信じてもいやしない神に向け、「自分の人生の意味とは?」、「いつまでこの苦痛は続くものか?」と問いかけたりもした。

 当然、神からの答えなどなく、ただただ冷たい雨が降ってきて、これ幸いと喉を潤したものだった。


 そうこうするうち、スカルはいつのまにか、自分の唯一の相棒である曲刀を杖代わりにしていたことに気が付く。

 こうなってしまっては剣士としての誇りも何もない。


「潮時……か……」


 ちょうどこの時、道を少し外れたところに見つけたのは、造りからすると、昔は教会堂として使われていたであろう廃屋である。

 このまま道で倒れて骨になっても、他の通行人の手を煩わせてしまうか、ひどければ足蹴にされ、見向きもされないだろう。それよりはいくらかましかと、スカルは廃屋へ、重い足を向けた。


「上等じゃないか。死に場所としては」


 廃屋は、それが教会堂であったということを抜きにしても、どこか神秘めいた雰囲気が漂う場所だった。

 壊れた屋根板から漏れて入る陽の光がまっすぐに注ぎ、その光と雨水のしたたりがちょうどいい位置になるのだろう、床板の破れには新芽が出ている。みずみずしい緑色がスカルには少し、うらやましく思えた。


「あの可愛い命を最後の食事にするのは……、どうせ死ぬ身だ。やめておこう」


 光が当たり、植物が出かかっている場所のとなり。スカルは壁に背をもたせて座り込む。

 ここでなら、自分が死んだあとの身体を糧にして緑もおおいに育つだろう。ただひとりで生き、ただひとりで旅してきたこの身。この世に何も残せなかったスカルの悪あがきのような心情だった。

 若々しく輝く葉っぱの光景を最後にスカルは目を閉じる――。


「――ン!」


 何か聴こえたようだった。


「ン!」

 

 死後の世界の迎えは、こういう音なのだろうか。


「ン~ッ!」


 いや、違う。

 今は、口元への感触もある。

 まだ、口も耳も残されているということだ。


 あまりにギュウギュウと押しつけられる感触に、スカルはゆっくりと目を開く。


「ン!」


 目の前にいたのは、小さな女の子であった。


 ぼろぼろの服を身につけ、やせこけている。髪は乱れてツヤがない。最近の旅路のそこかしこで見かけた、平民の困窮の姿、そのままである。

 しかし、目はパッチリと大きく、鼻の丸みは柔らかい。少女らしい愛嬌さがある顔だ。これで富裕層の家に生まれてでもいれば、さぞや愛らしい身なりをさせてもらえ、溺愛を受けただろう。

 そんな少女がしつこくスカルの口に押しつけてきていたのは、小さな手に持った何かである。見た目や鈍くなった鼻でスカルが判別できたところ、どうやらそれは麦モチのようである。


「ン!」


 スカルが目を開けたことに気付くと、すきっ歯を見せてニカリと笑い、少女はなおも麦モチを押しつけて来る。


「なんだ? ……なんなんだ?」

「ン!」

「『ン』では判らん……」


 スカルはふたたび目を閉じる。

 相手する気がないと判れば、この子もどこかへ行ってくれるだろう。スカルは静かに終わりたかった。

 しかし、それは逆効果になったようで、麦モチの押しつけはなおも激しくなる。


「ンッ!!」

「……」

「ン~ッ!!」

「……もう。なんなんだ、お前は……?」


 観念して、スカルはもう一度目を開いた。


「ン!」


 スカルはとっくに判っている。

 彼女は施しをくれようとしているのだ。見ず知らずの死にゆく剣士に、食べ物を分け与えようとしているのだ。

 だが、一度は決めた覚悟をスカルはそうそう曲げはしない。

 なにより、少女自身がひもじい身の上であるのは見ても明らか。そんな子どもから、たとえ施しであろうと食べ物を取り上げることは、スカルの性格からすると受け入れがたいものだった。


「いらん」

「ン?」

「声が小さいか? いらんと言っているんだ」

「ン~ン!」

「それはお前が食べろ」

「ン、ンン~ッ!!」


 スカルはびくりとした。

 少女が急に泣き出したのだ。

 わんわんと騒いで泣く涙ではない。わめくことをなんとかこらえて、それでも出てくるものは止められないというふうの、どこか大人びた涙だった。


「ど、どうしろというんだ……」


 そのとき、建屋の入り口で「いる!」との声が聴こえてくる。


「アリヤの声がするわ! もう、アリヤ! ここに来ちゃいけないって何度も……」


 姿を見せた声の主は、中年くらいの女。

 服装からするに聖職にある者のようである。彼女は少女の姿を見つけるのと同時にスカルの存在にも気が付いた様子で、戸口の陰に身を隠し、露骨に警戒の色を見せた。

 彼女の奥でもひとつ、顔が覗き込んでくる。こちらは十二、三かと思われる男の子だったが、この子もまた、頬をこけさせていた。


「アリヤ! こっちに来なさい!」

「戻ってこぉい!」

「ン~ン!」


 アリヤと呼ばれる少女は、首をブンブンと振って動こうとしない。


「だ、誰か……、誰か呼んでこないと!」

「待ってくれ」


 スカルは残り少ない気力を振り絞り、声を張った。

 ここに「誰か」を呼ばれてしまえば、想像される事態は望んでいた静かな死ではないだろう。幼児をかどわかした不審な者として、槍や作業具を持った者たちになぶり殺しにされる、悲惨な死だ。


「私は……何もしない。何もしないから、早くこの子を連れて出ていってくれ」

「な、なな、なんですか、あなた! アリヤ!」


 戸口の陰から、女は困り果てた顔である。


「アリヤ! おいで!」

「ン!」

 

 呼び掛けがあっても、やはり少女は聖職者に見向きもせず、ただひたすらスカルの口に麦モチを押しつけてくる。


「アリヤ!」

「ほら……、呼んでるぞ。行け」

「ン~ッ!」


 スカルは気だるさを感じて、入り口へと目を戻す。


「何もしないって言ってるのだから……、あなたも入ってきて、この子を連れてってくれ」

「で、ですが……」


 ラチのあかないやりとりに、スカルのが先に折れた。


「食べればお前は行ってくれるんだな?」

「ン!」

「……判った。寄越せ」


 麦モチを受け取ると、スカルはそれを割り砕く。

 小さく割れた方を手に残して、大きい方を「ほら」と少女に差し出した。


「お前……、アリヤか。アリヤがそっちを食べてくれるなら、私はこっちを食べよう」

「ン~……。ン!」


 少し考えたあと、顔を輝かせた少女は、スカルから麦モチを受け取ると、口に放り込む――かと思いきや、寸前でぴたりと止めて、スカルの顔色をうかがってきた。


「……私がズルしないように、同時にとでも言うのか?」

「ン!」

「子どものわりに抜け目ないな……」


 スカルがフッと力無い笑みをこぼすと、少女アリヤもニカリと笑う。

 女剣士の小さな掛け声に合わせて、ふたりは麦モチを口に入れた。

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