ポレンカルテット
よまのべる
―――男は昔の女を思い出す―――
「ドン・ガバチョってさ。強いよね。絶対」
昔、杉山春にそんなことを言った女性がいた。特に何の保証もないのに“絶対”という言葉をよく使う女性だった。そんな何の根拠もない自信に満ち溢れていた彼女が杉山春にとっては力強く感じ、一種のあこがれに近い何かを抱いていたのは間違いない。
「ねぇ! 私の話聞いてるの?」ふと、想像の中より一オクターブ高い声とほろ苦い安コーヒーの香りに首根っこをつかまれて現実に引き戻される。
目の前には夕日のせいか、明るく見える髪の女性が青色のラインの入ったストローで鮮やかな色のメロンソーダをかき混ぜていた。グラスの中で小さな泡が浮かんでは消えを繰り返している。明るい髪に明るい飲み物、まるで抽象画のような蛇原智美は杉山春の仕事上の客にあたる人物だった。ここ最近よく話をしている中で言いよどむような態度を一度も見た事がなく、そんな彼女の姿が昔の女に似ていると感じたせいであのような名前も思い出せない女のことを思い出したのかもしれない。
蛇原智美は怒り散らす様子もなくただまっすぐと杉山春のことを見ている。
要点はこうだ。
いくつもの小さな工場と契約をしながら、画期的でも革新的でもない製品を作り出す杉山春の会社で先日発売した超強力掃除機なるものが蛇原智美の持つ貴金属を吸い込んでしまい、その上特殊なフィルターを届ける際に古いフィルターを回収するという余計なサービスを行ったせいで、蛇原智美の貴金属はあえなく杉山春の会社に回収されてしまったのだ。
本来ならこういった時。保障をしない旨が説明書などに記されているはずだが、運悪く吸い込んでしまったゴミについての記述が抜けていたのだ。メーカーと呼ばれる業界ではあってはならないミスではあるが、ネットの検索でも名前が出てこないような小さな会社である杉山春の会社では起きてしまったのだ。
「私は別に吸い込んでしまったゴミについて怒ってるんじゃないの。」
ストローから離れた唇がどこか艶しく、杉山春の視線は必死にそこから目を離す。
「では、なぜ蛇原さんは私を呼んだのでしょうか?」
蛇原智美に掃除機を売ったのは杉山春だった。しかし、それはたまたま蛇原智美が引っ越しを期に掃除機を欲している時に立ち寄った小さな電器屋でたまたま営業のため店主と話をしていた杉山春が掃除機の話をしていて、たまたま蛇原智美は聞いていた音楽プレイヤーの曲と曲の間の無音の中杉山春の掃除機の新商品というキーワードが耳に入ったに過ぎない。
偶然の重なりにせよ電器屋に売りにきたはずの掃除機をそのまま客にアピールすることになった杉山春はその場で蛇原智美に自身の名刺を渡した。杉山春は会社の新商品を最も早く売った人間として会社で一目置かれ、蛇原智美は予想以上に強力な掃除機を安い値段でそれも誰よりも早く手にすることが出来たのだ。
それだけで終わればよかった。しかし現実はそううまくはいかなかった。なぜなら蛇原智美は少し変わった客だった。掃除機の電源が入らない。ゴミの吸い込みが悪い。フィルターの交換がしたいのにどこにも売っていない。そういったことを会社のサービスコールではなく、杉山春に直接連絡を取ってきたのだ。
杉山春もはじめはそれ相応の担当者を紹介したが、蛇原智美の要求は段々とエスカレートを重ね、担当者は匙を全力で杉山春に投げ返し、今となってはこうして平日の昼間に堂々とカフェテリアで話をするようにまでなった。
「なんだと思う? それがわからないまま春さんは平日の昼間から私という1人の客のためとはいえコーヒーを飲んで寛いでいる」
別に寛いではいないし、あなたのためじゃなくてもコーヒーは飲む。と言い返したくなるが、さすがにそこまで言えるほど強くはなかった杉山は困り果てた顔をしてコーヒーカップから手を放した。
「わかりました。とりあえず蛇原さんの指輪につきましては一度社に戻って全力で探してみます。とは言ってもフィルターを回収したのは一昨日のことですから、もう見つからないかもしれません。その場合は弊社で弁償させていただくことでよろしいでしょうか?」
杉山春は電話を取ってからここに来るまでの間に決めてきたセリフを淡々と口から発しながら、回収したフィルターをまとめて廃棄するのは明日の夕方だから全力で探せば見つかるかもしれない。と楽観的に考えてはうんざりすることを何度も繰り返している。
「よろしくないです」蛇原智美からの返事はなく、では、と立ち上がろうとした時だった。
「指輪は弊社じゃなくて春さんが保障してください。なんなら私の家に持ってきてもらっても構いませんよ」
「なぜ私が?」答えが欲しいわけでなく、それはノーという答えに近いつもりだった。
蛇原智美は意地悪な笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
「君はいつも重要なことほど忘れるんだ。」再び昔の女の声が頭に響く。
俺はまた何か重要なことを忘れているか? と名前も思い出せない想像の中の女に問いかけた。
杉山春は目の前が暗くなっていくのを感じていた。
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